□ 次の季節

 梅雨が空け、夏休みに入った事もあり、館内は子供の姿が多く目についた。この図書館に通うようになって暫く経つが、休日でも今のように賑わっていたことはない。
 開架室には幾つもの椅子が用意されてはいるが、机はない。基本的のこの部屋は本を選ぶだけのものである。だが、そのつもりがない者もここには多く居た。入口から一番近い場所だから便利なのだろう。普段は睡眠をとっている者が多いのだが、それと同じ位に今は子供たちの待ち合わせ場所となっていた。
 騒がしいのも当然である。
 聖夜はざわついた空気の中を、けれどもその事にはさほど気を止めずに本を物色していた。寒いくらいに涼しい場所であり、場所的に待ち合わせには適しているのだから、誰にとっても当たり前の事なのだろう。
 明らかに場違いな、今から海にでも行くような格好の少女達のはしゃぎ声に気をとめる者などいなければ、何より閲覧者には大した害もないのだ。何処にも問題はない。あるとすれば、眠りに来ている者が煩いと眉を顰めるくらいだろうが、少し我慢すれば直ぐに去っていく者に態々注意をする者もいないようだ。
 本棚の間を歩きながら、聖夜はそんな周りの様子に興味はないが、この国らしいと内心呆れた。公共の場で騒ぐ者も、それを容認する者も、どちらも情けない。だが、それは自分とて同じであり、仕方がないとも納得する。事なかれ主義ではなく、無駄なものは無駄であり、情けはかけないというものだ。
 馬鹿な日本人が増えたところで、世界的に見てみれば全く大事ではなく、これもまた今と同じように問題はないだろう。何も考えない馬鹿ならば、それを使えるようになれば良いだけで、自分も馬鹿になる必要なく、また哀れむ必要もない。
 一人一人の問題なのだ。
 確かに公共の場ではあるが、それを子供に教える大人はおらず、また大人もそれを知らない者が多い。そんな自国の社会を、国民として恥しがるべきところだろう。だが、それさえも知らない。
 国を支えるのは、間違いなくそこに住む人間だ。ならば、馬鹿な国民ばかりが増えるこの国は堕落の一途を辿るのだろう。だが、そんな未来を選ぶのならば、それはそれでいいのではないかと聖夜は思う。
 決して、過去の出来事も正しい道ばかりではなかったのだ。人々がそう歩むのならばそう歩めばいい。たとえ滅びに向かっていても、それでいいのだ。
 修正など、はじめから用意されてはいないのだ。
 パタリと眺めていた本を閉じ、聖夜は腕に抱えていた本の上にそれを重ね、カウンターへと行き職員に貸し出しを頼んだ。ピッと読み取られたカードを先に返され、それをジーンズの後ろポケットに仕舞う。
「お盆休みがありますので、返却は8月17日です」
 今日何度その言葉を口にしたのだろう、抑揚のない職員の声を聞き軽く頷きながら、聖夜は本を受け取った。葉山にこの図書館のカードを借りてから何冊目になるのだろうか。5冊の本を抱え上げ、開架室を後にする。
 すっかり顔馴染になってしまった守衛に会釈をしながら外に出ると、真夏の太陽が早速ジリジリと肌を焼きにきた。小一時間もこの場に立っていれば、間違いなく自分は干からびてしまうのだろう。
 そんな発想に、間違っても御免だと拒否し、聖夜は早くも日陰を求めて先を急いだ。冗談では済まされないほどの熱気は、自分を取り込み動きを封じてしまいそうである。だが、それに捕まるわけにはいかず、通り慣れた道を突き進む。
 それでも交通マナーを守らないわけにもいかず、結局は信号で足を止められてしまうのは毎度の事だ。この交差点の青信号は平日でも30秒近くあるというのに、未だスムーズに渡った事がない。相性が相当悪いのだろう。
 1分程待たされて横断歩道を渡り、ワンブロック先にある建物を聖夜は目指した。何て事はない、ただのネットカフェだ。
 利用する図書館の近くには、こうした店がいくつもある。特に警戒をしているわけでもないが、その時の気分でどの店に入るのかを決めているので拘りは全く無い。この日選んだ店はインターネットの他にマンガやビデオなども閲覧出来、違う階には娯楽施設も入っているところだったので、客の多くは長期の休みに入った学生達だった。しくじったとは思わず、多分他のところもこんな感じなのだろうが、それでも喧騒から遠ざかろうと静かな場所を選ぶ。
 人が居ない所ではなく、サラリーマン風の男が幾人かいるスペースを選んだのはそう言った理由からだ。だが、もう少し考えるべきだったのかもしれないと少し後悔をすることとなる。

 PCに向かいインターネットに接続したのは少しの事で、オフラインに切り替え、文書ソフトを開く。借りてきた本を参考にしながら、頭の中で作り上げた文をキーボードで打ち込む。
 内容は大したものではないのでそう集中するほどでもなく、聖夜はそんな作業を黙々と進めていく。いつものパターンだ。
 2時間近くそうしていただろうか。ふと、傍にやって来た誰かが自分の後ろで立ち止まるのに聖夜は気付いた。利用者が場所を探しているのではなく、注がれる視線は明らかに自分に向かうものだ。
 振り返る事はしなかった。そうしてみても、見るものはどうせ面白いものでもないと先にわかったからだ。
 変わりに、使用していたソフトを閉じ、新たに開いたものに文字を打った。
『覗き見とは、さすがはヤクザのすることだ。趣味が悪い』
 打ち記されたそれとは別に、後ろの男がとっていた距離を縮めてくるのが僅かに画面に映っていた。
「何言うねん。影ながらお前を見守ったってたんやないか」
 すっと後ろから伸びてきたごつい手がマウスを握り、今閉じたばかりのソフトを呼び出し、聖夜が作成したファイルを立ち上がらせた。覗き見ではなく堂々と見はじめたその人物は、けれども直ぐにマウスから手を放した。
「…ちっともわからん。何難しいことしてんねん、お前」
「別に、難しくないですよ」
「全く読めん」
 画面に映し出されているのは、英文だ。確かに、日本人なら読めないものが多いだろう。だが、そう難しいものではなく、また素直にその言葉を信じられる相手でもない。本当の馬鹿なのか、知らない振りをしているのか。
 しかし、応えがどちらであれ対応は変わりはしないと、聖夜は「そうですか」とだけ返しておいた。
 その態度に、男はコツンと画面を叩く。
「何書いてんのや?」
「犬のタロウの事です」
「嘘つけや。ったく、おもろないぞ」
 そう言いながらも、喉を鳴らす男を聖夜は見上げた。案の定、そこには想像通りの顔があった。大阪で知り合ったヤクザである須藤は、重なった視線に目を細め、目尻に皺を刻んだ。だが、それ以上に大した発見も何もなく、予想通りの面白なささに聖夜は直ぐに画面に視線を戻す。
 本当の事だった。
 画面に記された文章は、飼い犬について書かれていた。だが、嘘だという男にそうではないのだと切実に真実を訴える必要もないので、それ以上の事は口にはしない。
 突然現れた須藤は去るつもりはないらしく、遠慮も何もなく隣のブースから椅子を引っ張ってくると聖夜の横に滑り込んできた。ドサリと腰を降ろすその横面に吹きかけてやりたい溜息を飲み込み、聖夜は須藤に問うた。
「何故ここにいるんです」
「ちょっと用があって来ただけや、お前をつけてたわけやない。
 ガキばかりで煩いんや、あっち。っで、奥まで来たら目立つ後ろ姿に目とまってな。何やここにもガキがおるんかと思ってよお見たら、知ってる奴や。こりゃ、声掛けなあかんてな」
 そのガキの中に紛れていたら見つからなかったかも知れないのに。暗にその意味を含めて笑う須藤に、声などかけなくていいと聖夜は舌打ちを返す。そうして少し歪めたその頬を、須藤は面白そうに指先で触れてくる。
「やめて下さい」
「っで、お前は何でここにいるんや?」
「決まっているでしょう。ネットカフェですよ、ここは」
 関係ないと言いかけ、それで引く相手ではないと無難な答えに変えておく。だが、須藤は何食わぬ顔で再びモニターを指でコツコツと叩きながら言った。
「なるほど、お仕事かい。儲かってるか?」
「……」
 英文を読めるのかどうかまではわからないが、自分がしている事が何なのかを既に見通しているのだろう須藤を軽く睨み、それなら隠しても仕方がないとその目を気にせずに聖夜は続きに取り掛かった。
 本当に、腹立たしい奴だ。
 そして、そんな須藤にいつも遊ばれている自分が情けない。
「そういや、昼飯食うたか? 何か食べよか」
「一人でどうぞ」
「なんや、そう怒るなや」
 東京生まれの東京育ちのくせに気に入ったからと使う、その胡散臭い関西弁に聖夜は舌打をした。だが、須藤は気にもかけない。
 腹が減ったと言いながら、聖夜が置いていた本をペラペラと捲る。
「鬱陶しいですよ」
「いいやないか。目に届くとこにいる方が、お前も安心やろ。一人にしたら何かしてまうかもしれんで」
「……」
 本気にならない限り、この男を言い負かすのは無理なのだろう。
 聖夜はそれを悟り、口を閉ざした。こんなところでこんな男相手に本気になる気は全くない。確かに害はあるが、今はまだそれは気分的なものでしかないのだから。
「なあ、凛。お前、金がいるんか?」
「……」
 自分が妥協し引いた途端、その努力を無視するかのように会話を再開する須藤を、聖夜は軽く横目で見やった。
「ええバイトあんねんけど、やってみるか?」
「死んでも遠慮しておきます」
 考える余地はない。
 ヤクザが紹介するバイトなど、まともなものであるわけがないのだ。
「ま、話だけでも聞きいや」
「結構です」
 聞いたら最後、拒否権などないのだろう。揉め事は絶対に御免だと、聖夜はきっぱりと言い切った。
「他を当たって下さい」
「でもなぁ。それ、そんなに金にならんのとちゃうか?」
「別に、金が目的ではなく、暇つぶしです。っというか、趣味ですね」
 半分は冗談だが、残り半分は本心だ。やっている内容など子供だましのものでしかないが、依頼者のレベルに合わせるというのであれば嫌気もささない。それなりに遣り甲斐もある。
「あなたと違って、勉強は嫌いではないんですよ、僕は」
 確かに、こんな程度のものを依頼されるという情けなさは無くもないが、何という事でもない。
「ただし、仕事としてやっている限り、僕はその内容を選びます。あなたの仕事は何であれ、絶対に受けない」
 軽く口元に笑みを浮かべてそう言った聖夜に、「ああ、そうかい。わかった、もう言わん」と須藤は肩を竦めた。元々、本気ではなくからかっていただけなのだろう。
「ホンに、お前はつれなさ過ぎるわ。この俺を泣かすのなんて、お前ぐらいなもんや」
 そんななりの癖に非道な奴だと、子供のように顔を顰めた須藤は、ふと今気付いたかのように目をみはった。
「そういや、お前この間より太ったんやないか」
「そうみたいですね」
「なんや、あの兄ちゃんのとこにまだおるんか? ようしてもらってんのやな。だから俺には連絡くれへんのか」
「捨てました」
「ん?」
「あの名刺は捨てました。連絡する気もつるむ気もないのでね、不要なものです」
 それでは、とパソコンの電源を落とし終え聖夜は本を抱え席を立った。これ以上、この男に構っていても仕方がない。
 しかし、踵を返しかけた時に「ちょい待ちいな」と腕を取られ、弾みで聖夜の手の中からフロッピーディスクが床へと落ちた。
「ほなら、新しい名刺やる」
 自分の話を聞いていないというか、自らの思うままに事を運ぶ須藤に呆れながら、聖夜が落ちたディスクに手を伸ばした、その時――
「ま、俺は気に入ったものをそう売らんから、警戒すんなや。突っぱねて嫌われたら、お前が痛い目見るかもしれんねんぞ。強がるんもええが、よう考えや」
 屈めた体の動きを止めるには充分な言葉だった。
 その聖夜の手から、本が滑り落ちる。
「――痛ッ!!」
 丁度須藤の靴先に本が落ちた。角で指を打ったのだろう、須藤は息を飲み低い呻き声を出した。
「くそっ! 痛いやんけっ!」
 顔を歪ませながら大声で叫んだ須藤に、何事かと周囲から視線が集まる。
 だが、聖夜にはそれを気にかける余裕はなかった。
「……何か」
 何かあったのか。
 そう訊きかけ、ハッと我に返り口を噤む。訊いたところで須藤は答えないだろうし、墓穴を掘ることになる。自らは決して訊きは出来ない事なのだ。
 それを知っての事だろう。須藤は膝を立て足を椅子に乗せ痛む爪先を揉みながら、何かを考えるように聖夜を見据えた。
 だが、直ぐに肩を竦めて首を振り、口元に笑みを乗せる。
「ま、全てわかってやっているんやったら、俺も別にお前を苛めたいわけやないしな、何も言わん。でも、お前そうやないやろう。ただ居心地がいいから離れ難いだけやろう」
「……」
 何を指していっているのか、訊ねる必要はない。
「人間、慣れって怖いなぁ。大阪で会うた時のお前やったら、そんなん考え付かんかったわ。気付いても、まさかと笑うで、ホンマに。でもな、今は似おうとると思う。お前、前よりいい顔してるわ。ガキ臭うて可愛いもんや。
 でもな、凛。お前、このままやったら絶対に悔やむ時が来るわ。間違いない。お前もわかってんのやろ。甘えんなとは言わんがな、相手を選ばな、なあ」
 自分で自分の首を締めて、何楽しいねん。
 須藤はそう言い、聖夜の頭に手を伸ばしてきた。髪に触れたそれを、直ぐに聖夜は振り払う。紛れのない事実だとしても、第三者に言われたくはない。そして、それを今ここで認めるわけにはいかないのだ。
 須藤が何を考えているのか、自分の事をどこまで知っているのかはわからないが、ただの知り合いという関係をここで崩してはならない。そう、何一つそこに加えてはならないのだ。
「……須藤さん。足、臭いますよ」
「アホ。真面目に汗水たらして働いている男やで、当たり前やろが。――って、お前もっと他に言う事があるやろ」
「別に、無いです」
「謝罪はないんかい、謝罪は。痛かったで」
 わざとだろう。先の言葉を横に置き、須藤は痛む足に話題を戻した。
 それをこの男の優しさだとは思わないし、思えない。逆に須藤の武器なのだと聖夜は思う。飴と鞭を使い分け、一体この男は何をしようとしているのか。
 気にならないといえば嘘になるが、知りたくはないと聖夜は心の中で迷いを切り捨てた。わからないものを悩むよりも先ず、自分には考えなければならない事がある。
「それに対する罰は十分受けましたよ。――失礼」
 落とした物を全て拾い上げ腕に抱え直し、聖夜は今度こそはとその場を離れた。
 追いかけてくるかとも思ったが、どうやら須藤もそこまで暇ではないらしい。足を止める事なく建物の外に出ると、入る前とあまり変わらない熱気が聖夜の体を包んだ。その中を、人の流れに身を乗せ歩き始める。
 須藤に会うとは、最悪としか言えない。だが、この街にいる限り、こうした出会いはまたあるのかもしれない。
 須藤の言葉は、聖夜にとっては耳の痛いものだった。言われなくともわかっていることなのだ。だが、何の対処もしていないのだから、わかっていないと同じ事である。いや、確信犯ならばもっと性質が悪いと言うものだろう。
 まだまだ沈む気配も見せない太陽の陽射しはとても強く、骨ごと溶けてしまいそうなほどだ。だが、人は皆自分の足で確りと地面を踏みしめ歩いている。意思を持って行動をしている。
 擦れ違う一人の人間の顔を覚える事などないだろう。だが、それが一度ではなく毎日ならばどうだろう。気にとめずとも、いつも同じ場所で自分と同じように歩く人間を、無意識のうちに記憶の隅に留めているかもしれない。どのような人間かははっきりとわからずとも、擦れ違う者の雰囲気を肌で感じとり区別をしているのかもしれない。
 同じようにこの暑い街の中を歩く者達が、自分の姿を覚える事はないという保障は、全くどこにもないのだ。
 図書館の職員は、あの警備員は、店のスタッフは、異様に痩せ細った男を覚えているだろう。痩せる前の姿を示されても、所詮は同じ人間なのだ、訊ねれば知っていると答えるかもしれない。
 この街に長居をし過ぎている。そんなことはわかっていた。だが、あえて見ない振りをしていた。しかし…。
 一度ならずも二度目の須藤との再会は、聖夜の考え以上にその事実を深刻化させるものであった。
 何があったかなど、須藤に訊いても全く意味がないのだ。
 何かがあった時点で、もう終わりなのだ。手遅れなのだ。どうにもなりはしないし、その力は自分にはない。
 そう。須藤の話は尤もすぎて、どんな事を言われようと反論など一言も出来ない立場に自分はいるのだ。彼が言うように、全てをわかっていてこの場所にいるのならば、啖呵のひとつも切れる。だが、それをするには、あまりにも今居る場所は恵まれすぎているのだ。
 覚悟も何もなく、本当にその居心地の良さに身を寄せているだけの卑怯者でしかない。そんな自分に、一体何が言えるというのか。
 葉山に対して行っているのは、どう繕うと、裏切りでしかない。

 マンションに着き、主の居ない部屋に鍵を開けて入り、リビングのソファに腰を降ろす。
 すっかりと浸かりきってしまった、この穏やかな日々。それを目の前に突きつけられると、罪悪感からか貪欲心からかはわからないが、叫びだしそうになるほどの恐怖を感じる。だが、それを飲み込み、逃げる事もせずにじっと頑なに自分はこの場で身を固くするのだ。
 卑怯だと、そう思う。
 最低だとも。
 だが、どれだけ自分を詰ろうとも、葉山の事を考えようとも、動き出せないのだ。そうして、ただ、居座り続ける。
 これで良いのだとは、思っていない。
 けれど――。

 どれくらいそうしていただろうか。思いに耽っていた聖夜の耳に、玄関から小さな音が届いた。それに続き、近付いてくる確りとした足音が扉の向こうから響いてくる。
 伏せていた顔を上げた聖夜の目に、真っ赤な光りが飛び込んできた。赤く染まる街同様、部屋の中も夕日に包まれている。
「ただいま」
 扉を開けて入ってきた葉山は、ネクタイを解きながら僅かに西日に目を細めた。
「おかえりなさい。早いですね」
「病院は午前中だけで、午後からは出張。千葉で会議だった」
 暑いなとエアコンのスイッチを入れ寝室に向かう葉山の背は、ぺったりと汗でシャツが張り付いていた。
「先にシャワーを浴びるよ」
 そう言い着替えを持ちリビングから出て行く葉山を見送り、聖夜は再び立てた膝に顔を伏せる。
 エアコンの音が、耳の奥で渦巻き、瞼の裏に気味の悪い模様を描いた。
 自分は一体いつまでここに居続けるのだろうか。
 それに対しての応えは、今はどこにもない。だが、漠然としたものは確かに聖夜の心の中に存在した。
 次の季節は、多分別の街で向かえるだろう。
 その時、自分は誰かの傍にいるのか、一人なのか…。
 いつになったら自分は逃げる事を止めるのだろうか。先の見えないこの逃走のゴールには、一体何があるのだろうか。
 自ら飛び出すことを選んだあの強い意思が、今の自分の中にはあまり残っていないように聖夜には思えた。
 葉山の事以上に、こんな自分をどうにかしなければならないのかもしれない。
 望んでいたのは、穏やかな日々だけではないはずだ。
 もっと確かな、自分の未来が欲しかったはずだ。ただ単に、嫌だからと逃げ出しただけではないはずだ。
 自らに言い聞かせる言葉も、今の自分にはただの通り風のように彼方へと流れていく。
「……葉山さん」
 このままでは、取り返しのつかないことになるかも知れないと言うのは充分にわかっている。だが、夢中で走ってきたこの半年とバランスをとるかのように、一度立ち止まった足はなかなか動き出そうとしないのだ。
 だから。
 何かがあった時は、必ず自分がけじめをつけるから。
 だから、もう少し、ここに居させて欲しい。
 それが我が儘でしかないのを悟りながら、聖夜は自分を許すように心で強く願った。まだ、ここに居たいのだと。

 いつの間にか太陽は沈んでいた。だが、空はまだ赤く染まっている。
 もう暫くもすれば訪れるであろう闇は、自分のそれも隠してくれはしないだろうか、と聖夜は暮れていく空を見ながら思った。目に映る夕闇は、いつも以上に切なく、空しいものだった。
 自分が移り行く季節を眺めるのは、ここではないのだ。
 そう自らに言い聞かす。


END
2003.08.06.