□ Red Eye

 ヒュンっと空気を切る音がしたと同時に、黒い飛沫が薄闇の中に舞い散った。
 ドサリと一人の人間が、冷たい、汚れた地面へ倒れこむ。その首からはドクドクと血が噴出し、血溜りが広がっていく。奪った命に興味はないと、それを一瞥した男が、夜の路地を駆け出す。
 その音につられた様に、数瞬後、複数の足音がその男の後を追い、駆け抜けていく。
 誰も、横たわる死体を気にしない。
 それは、自分がそうならないための、本能によるものなのだろう。
 だが、しかし。

 男達が走り抜けた路地に、一人の青年が闇の中から現れ、骸の側に立った。人通りがない路地に響く足音に耳を澄ませ、青年は口元に笑みをのせる。
「…あまり、遠くへ行かないでほしいんだけどね」
 笑いを含む声が、冷えた空気と共鳴し、響いた。
 青年を見ていたのは、空に浮かぶ満月のみ。
 その声を聞いていたのは、誰も、いない。



 男はビルの上にいた。
 下を見れば、高速道路を車が走り抜けている姿に目を奪われた。流れ去る赤い光が、闇に溶けていくさまをただ見つめた。だが、頭は別の事を考え、意識は周りに張り巡らされている。ぽつんと佇むその姿に反して、鋭く尖った殺気は、体の中からすぐには消せないものだ。
 追手の人数と、男が殺した人数は一致している。だが、まだ気を抜くには、時間が経っていない。少し息切れを残しながらも、深い溜息を男は吐いた。
 この街に留まるか、それとも直ぐにでも発つか。
 男は額に張り付いた髪を掻き揚げながら、自問した。更なる追手が来るのかどうか、命令を下す人物を思い描く。
 その時。
 ビル風が舞い上がり、いっそう強い冷たい風が吹いた。そして―― それにのり、微かな笑い声が男の耳へと届いた。
 その場を動くと同時に体を転がし、貯水タンクの影に身を潜ませる。心音がひとつ、ドクリと脈打ち、全てが消えた。
 風上に神経を集中させる。男はそこに、人の気配をはっきりと感じた。新たな追手。そしてそれを見落とした自分に、心の中で舌打ちをする。
 額から頬へ、ゆっくりと汗が流れ落ちた。
 意識を向ける先の気配が、ふと消えた。
 そして、次の瞬間には、それは、上にいた。男の真上に。
 その場から飛びず去りながら、男は相手を確認する。気配の主は、タンクの上から飛ぶ様に降り、先程まで男がいた場所に立った。数メートルの高さを、まるで数センチのように、衝撃を受けた様子もなく軽やかに。
 揃えた足を男に向け、青年は口を開いた。
「今晩は」
「……」
 少年のあどけなさが残るような、見目のいい青年だった。
「忘れないうちに、ひとつ。言わせて貰うよ」
 青年は、細い指を一本たて、無邪気に笑った。
「あなたが今夜三番目に刺した相手だけどね。あれは、ダメだよ。僕が医者に連れて行っていたら、確実に助かたよ。胸から少し、ずれていたね」
 上を向け立てていたその指を自分の胸に当て、青年は小さく肩を竦めた。
「……連れて行かなかったんだろう。なら、問題はない」
「あはは、確かに。なら、それを見越して、態々そうした遊びをしたのかな?」
 青年が、一歩前に足を運ぶ。タンクの影から出てきたその姿は、何処にでもいるような、少し痩せた若者だった。自分を追うほどの体力があるようには思えない。だが、口にしたことは嘘だともハッタリだとも思えない。
「やっぱり、あなたに決めたよ」
 青年がわけのわからない事をいうが、それを気にかけなければならない義務は男にはない。
「お前は、誰だ」
 少なくとも、自分が裏切り抜け出して来たあの組織の人間ではない。その臭いがしない。
「ただの通行人と言っても、信じるかい?」
 自分と同じ、黒髪に黄色の肌の青年は、けれどもこの街に静かに隠れる事は出来ないだろう。少し首を傾げ笑った瞳は、朱い色をしていた。それが本物なのかどうなのか、この距離ではわからない。
「…何者だ」
「あなたを捕らえに来たんだ」
「ジンクの者じゃなさそうだが」
「そう、関係ないよ、あのブタオヤジとは」
 的確な表現で、黒社会の親玉を表現した青年は、さらりとした髪を片手で掻きあげながら言った。
「純粋に、あなたを捕まえに来たんだよ。殺し屋Eこと、エリック。いや…エイキと呼ぶべきかな」
 青年は、男が思い出せないほど昔に捨てた名前を紅い唇に乗せ、そして笑った。



 男には、今の状況が信じられなかった。
 壁に凭れるように座り、投げだした自分の脚の上には、青年が座っている。それだけならまだしも、青年の両足によって男の両手は壁に押し付けられており、体重などその体格からそうありはしないはずで、実際重いとも感じない程度だというのに、座られ下になった脚を動かす事も出来ない。
 完全に、ただ座っているだけといった風な青年に、男は拘束されていた。
 信じられるかどうかは別として、それが事実だった。
「無駄な足掻きは、終わったのかな?」
 青年が少し背中を丸め、男の顔に顔を近づけた。そして、目の前でにやりと笑う。
「あなたのように、手に入れた情報と自分の勘で動いている者には、僕は嫌な相手だろう?」
 嫌、だなんて、そんな程度ではない。恐怖だ。青年の言うように、情報が全てで動いてきた男にとって、何も読めない事は最悪の事態だった。この青年が誰なのかわかっておらず、しかも、どう動くかも予想がつかない今、それらを使い答えを出す事は至難の業だ。
 唯一わかっている事は、この青年が見た目とは違い、凄腕の持ち主だという事。あと、頭がイカレているという二点だ。男を楽しげに追い詰める様子は、正気の沙汰ではなかった。発言も、行動も、そして、青年が纏う雰囲気も、全てが異様。
 それがわかるからこそ、余計に性質が悪いというもの。もう、完敗だと、男の頭は持ち主の感情に反し、そう判断を下している。
 だが、これも時間の問題だったのだ。
 得体の知れない青年に捕まるとは計算外だったが、組織を抜けた時から、いつかはこんな終わりが自分に来るのだと、男にはわかっていた。自分が他人に与え続けてきたことだ。特別でもなんでもなく、これが当然なのだ。
「ダメだよ」
「な…んっっ!」
 不意に、男の唇に青年が指を伸ばしてきた。そして、有無を言わさず二本の指を男の口内に押し込む。
「死なれると、困る」
 男が窮地に追い込まれ導き出した結論を見抜き、舌を噛み切られては拙いんだと、青年は喉を鳴らした。
 男はこの行動が解せず、思わず眉を顰める。すると、青年はおもむろに、先程男から取り上げたナイフを、逆の手で弄びだした。
「この界隈ではね、満月の夜は何か不吉な事が起こるという言い伝えが今でも効力を持っていてね、人々は夜には出歩かない。今夜のように紅い月の時は、特に。ま、三日前にこの街へ来た君が知らなくても無理はないけど」
 男の口に入れた指で上顎を押すようにして、男に上を向かせる。そして、青年も、男がそれを見た事を確認して天を仰いだ。
 青年により男が無理やり見せられたのは、朱色の満月だった。不気味なほどに、暗い夜空の中で、赤みおび輝いている。
 だが、それがどうしたというのだ。男は朱い月から青年へと視線を戻す。青年もまた、男を見た。
 男は迷うことなく、口に入れられた細い指をギシッと音がするほど噛み締めた。口に鉄の味が一気に広がる。だが、青年は眉ひとつ動かさなかった。ただ、噛み千切ってやろうと男が更に力を入れる前に、青年に残りの指で頬を挟まれ、それ以上は顎を動かせなくなった。
 歯の喰い込んだ指から、血が止め処なく溢れ出す。だが、青年は痛みを感じていないかのように、表情を崩さない。
「赤い色は、人間にとっては興奮色だからね。それが神秘的な月と重なり、不吉を呼ぶと云われるのも納得できる。だけど、面白いよね。隣の界隈に行けば、別にいつもと一緒。この一角だけが静かなんだよね」
 青年はそう言い肩を竦めると、唇から血を零す男を見ながら、軽く右手を翻した。
 肉が裂ける音がした。
 同時に、男の肩に鈍痛が走った。そして、次の瞬間、それは爆発的に熱い激痛へと変わる。目玉だけを動かし見ると、ナイフの柄が肩から生えていた。20センチ近くあった刃が一気に体に突き刺さったのを、ようやく男は理解した。
 片手でそんな事をしたとは到底思えない青年は、痛みに思わず顎の力を緩めた男の口内に、更に指を押し入れた。そして、ナイフを離した手で、顎を捕らえ上を向かせる。
「あなたのいい声も聞きたいけれど、まずは契約を交わそう」
 男の目に入った紅い月を遮るように、青年が少し身を乗り出し顔を覗かせた。
「そのまま、飲んでよ」
 声とともに、男の鼻を摘む。
 何を言われたのかわからず、無意識で口の中に広がる生暖かい血を男は飲み込んだ。自身の唾液と混じった青年の血が、ドロリと体の中へ落ちていく。
「いい子だね」
 青年はそう言うと、指を抜き取り体を戻した。男は喉を通ったその感触に咳き込む。
 そんな男の肩に顔を近付け、青年はそこに唇を落とした。湿った音に男が顔を向けると、青年は男の血を舐めていた。
 男の体は不思議な事に、全く力が入らなかった。拳銃で撃たれても立ち止まる事がなかったというのに、この青年には全てが例外なのだろうか。ナイフの傷以上に、何かが男の体を制していた。
「あなたが、もう少し先まで行っていたら…この界隈から出てしまっていたら面倒だったんだけどね。神は僕に味方してくれたようだ」
「……な、なんのことだ」
「言い伝えが残るこの街で、緋色の満月の下、血の契約を交わすとね……」
 青年が呟いた言葉に、男は目を閉じた。普段ならば馬鹿げていると笑っただろう。だが、今は、男にとってそれは事実だとしか思えないものだった。思いたくはなくとも、それが真実。
 目を明けると、朱色の月が男を見下ろしていた。

 今夜、男が悪魔に喰われるさまを、その月だけが見ていた。


END
2003/03/04