「ああ、そう言えば、コーキ」
大学生になり始めての春休み。下宿先から実家に戻った僕に、母は何気なくそのひとことを言った。
「公民館の図書室、今週で終わりよ」
「…え?」
「佐山さん、お正月に亡くなったそうよ」
そう前置きをし、母は図書室を閉めるにあたっての話を僕にした。
そして。
僕はそれを聞き、家を飛び出した。
僕の町はとても小さく、公共施設というものはあまりない。大抵は隣の市のものを利用できるので、町民も大して必要性を感じていないのだろう。そのひとつで、僕の町には図書館がない。
だが、公民館の一室を利用した小さな図書室はあり、一般に開放されていた。知る人はとても少ないのだが。
僕は小学生の頃、友達につれられ、初めてそこへ行った。第一印象は正直、怖いところだった。低い天井に届く本棚には本がいっぱいで、狭い部屋は昼間でも暗かった。閲覧場所はたったひとつの机だけで、4人も座れば定員オーバーとなる。
そして、その場所には、いつも一人のお爺さんが座っていた。それが佐山さんだ。
佐山さんは図書室の唯一の管理者で、彼が手続きをしなければ本を借りる事は出来ない。なので、図書室を利用するのであれば、必然的に関係を深めていく事になる。
僕が子供の頃からおじいさんだったとは言え、年配の男性に幼い子供が緊張するのは当然の事。それを良くわかっていた彼は、一定の距離を持ち、僕がそこに慣れ始めた頃に話し掛けて来くるようになり、僕は初めて大人の友達を持った。
元々は、本好きの友達に付き合って行くだけだったのが、いつしか僕は一人で行くようになった。時たま本を借りるが、もっぱらは佐山さんへの顔見せのようなもので、彼とのお喋りを楽しんでいた。常に人気のない図書室なので、子供が遊びに行っても全く問題はなかった。
気の向くままに顔を出す僕を、佐山さんは可愛がってくれた。両親が共働きで、兄弟もおらず、祖父母は遠くに住んでいる僕にとって、彼は本当の祖父のようであり、友達であった。だが、大きくなるにつれ、僕の足はそこから遠ざかった。
最後に佐山さんと会ったのは、僕が大学の合格を報告に行った時だ。もう一年も前になる。
無事に志望校に受かったよと僕が言うと、「良かったな、光輝くん」と彼は喜んだ。そして、一冊の本を差し出した。
――餞別変わりに、これをあげよう。
それは、青空の写真が表紙となった、薄汚れた文庫本だった。
その本は佐山さんがよく読んでいるものだった。
僕がまだ小学生の頃、佐山さんの読むその本を指さし、「いつも読んでるね、これ。何の本なの?」と訊ねた事があった。彼は、君にはまだ早い本だよと笑った。
――でも、とてもいいお話だからね、大人になったら是非読んでみなさい。
――どんな話?
――とても優しい話だよ。私はこの話が大好きでね、いつでも読んでいたくなるんだ。
――ふ〜ん。僕はね、『クロとシロの冒険』が好き。
――そうか、そうか。そんな風に言える、好きな物語があるのは、とてもいい事だよ。
佐山さんはその時、僕の頭をくしゃくしゃと皺のある手で撫でてくれた。
彼は、それを覚えていたのだ。
更に皺を増やした手で、佐山さんはその本を差し出した。だが、僕は受け取らなかった。
――いいよ。だってそれ、ここの本でしょう。貰えない。
――いいんだよ。
――でも、借りたい人がいるかもしれないし…。僕もまた借りにくるよ。休みには戻ってくるしね。
そう言って、僕は首を振った。
正直、その本自体に興味はなかった。子供の頃と違い、読書と言えば漫画本になっていた僕には、難しそうな、文字ばかりの本を読む気にはなれなかった。
そんな僕を、佐山さんは、「そうか、じゃあ、また今度だね」と苦笑して本棚に戻した。
それが、彼との最後になるのだとわかっていたなら、僕はありがとうと受け取っただろう。だが、そんなこと、その時にわかるわけがなかった。
子供の頃のように、自転車で公民館にやって来た僕は、入口に張られた紙に足を止めた。そこには、母から聞いたものと同じ内容が記されていた。図書室を閉鎖するので、一人五冊までご自由にお持ち帰り下さい、と。期間は、先週からの2週間になっていた。
僕は知らなかったのだが、図書室の本は全て、佐山さんのものだったそうだ。町に図書館がないのは寂しいと、彼が公民館の一室を借りる形で図書室をやっていたらしい。管理しているのが年老いた彼一人だったのはそんなわけだったのだと、僕は今更ながらに知った。
公民館の中は、しんと寂しいほどに静かだった。今日は土曜日なのでここの職員は休みなのだと気付く。
僕は直ぐに、玄関から数十歩ほどでしかない、それでも一番奥の部屋の前に立った。何故か、とても緊張した。
ゆっくりと扉を開けると、広々とした部屋が僕を迎え入れた。
空になった本棚は片付けられたようで、僕の身長ほどの小さな本棚が、3つだけ並べられていた。そして、小さなテーブルの上に、本棚に入らなかったのだろう数十冊の本が並べられている。
それだけだった。人は、誰もいなかった。
佐山さんに会えると思っていたわけではないが、それでも、僕は小さな衝撃を受けた。
そんな僕に、不意に後ろから声が掛かった。
「どうぞ、中へ入って見ていって下さい」
何だか決まり文句を言わされているような、覇気のない声。振り返ると、僕よりひと回りほど年上らしき男が立っていた。休みに駆り出された職員だろう。
さあどうぞ、と促され、僕は中に入り本棚に近付いた。男はまるで佐山さんのように、彼の所定位置だった席に無造作に座り、大きく開けた窓の外を眺めた。僕もそれにつられ、北向きの細い道に面した窓に目をやると、農作業姿のおばあさんがゆっくりと歩いていただけだった。
僕は残り少なくなった本を眺め、佐山さんが気に入っていたあの本を探した。だが、見つからず、僕は無意識のうちで大きな溜息を落としてしまった。それを聞きとめたのだろう、男が「どうかした?」と声をかけてきた。
「あ、いえ…」
「目当てのものが無くなっていたか?」
文庫本が纏めて置かれた本棚から男の方へと顔を向けると、男は頬杖を付いたまま、口元に笑いをのせていた。何となく、腹立たしい笑みだ。
今更ながらに、男が凄く整った顔立ちをしている事に気付く。その完璧さからだろうか、男ののんびりとした雰囲気が、酷く怠慢な態度に思えてしまう。確かにこんな仕事は退屈で仕方がないのだろうが。
「利用客は余りないと聞いていたが、先週予想以上に人が来て、残りはこれだけなんだ。悪いな」
「いえ…。そうですか」
男の言葉を聞きながら、確かに、タダと知れば何でもいいから持っていく者もいるだろうなと、小さく悪態を僕は吐く。だが、それは虚しいだけのものでしかない。そう、今願うのは、あの本が丁寧に扱ってくれる人のもとへ渡っていればいい、それだけだ。
「良ければ、その本のタイトル教えてくれないか」
「えっ?」
「実は、俺も自宅で図書を貸し出していてな、ここに負けないくらい本がある。やる事は出来ないが、貸すことは出来るぞ」
どうだ、と軽く笑う男の言葉に、僕は首を振った。
欲しいのは、佐山さんの本なのだ。確かに話も読んでみたいと思うが、それでも、僕にとってはあの彼の本でなければやはり意味がない。
「折角ですが、結構です。…僕は、あの本が、良かったから」
「そうか、それは失礼。だが、そうなると余計に気になるな。何ていう本だ?」
男が頬から手を離し、軽く首を傾げて笑った。その笑顔は、先程までのとは違ってとても優しく、何故か佐山さんを思い出させた。だから、つい…。僕は男の問いに答えてしまった。
「…『Blue Bird』。作者は知りませんが、綺麗な青い空が表紙になった文庫本でした」
「ああ、カイナ・リヒャルトの本だな、それは。そうか、あの本か…」
「誰かに、貰われてしまったようですね」
「…ああ、そうなんだが…。――君、名前は?」
「は?」
男の唐突なそれに、今度は僕が首を傾げた。だが、次の男の言葉で、続いて目を見開く事になる。
「もしかして、夏川光輝…とか?」
「…ええ、はい、そうですけど」
何故男が僕の名前を知っているのだろうか。
「なんだ、そうか」
男は一人、そうか、そうだったのか、と納得しながら席を立ち、部屋の隅に置いていたダンボール箱をあさりはじめた。そして、二冊の本を取り出し、僕を手招きしながら再び椅子に腰掛けた。
「じいさんに頼まれていてな、後で送るつもりだったんだが。ほら」
「えっ、これ…」
差し出されたのは、あの文庫本と、僕が昔好んで読んでいた二匹のイヌの冒険話の本だった。どうして男がこれを持っているのか。僕は本から目を上げ、男の顔をまじまじと見つめてしまった。そんな僕に、男は軽く喉を鳴らして笑う。
「ここの管理をしていた佐山は、俺の祖父だ。彼が亡くなる時、俺は事後の事を頼まれた。誰にこの本を、誰にあの本をやってくれってな。君もその一人だ。だが、まさか、取りに来るものがいるとはな」
「えっ、じゃ…。佐山さんが、これを、僕に…?」
「そうだ。良かったら、貰ってくれ。形見別けみたいで、気味が悪いか?」
その言葉に、僕は勢いよく首を横に振った。まさか、そんな事があるわけがない。男の手からそれを受け取り、僕は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いや、俺が礼を言われるものじゃない。ああ、それは数には入らないからな。他にも、残りから5冊選んで持って帰ればいい」
「いえ、もう、これで充分です」
「そうか?」
「はい。あの、でも。明日で残ったらどうするんですか、この本は」
現金なもので、腕に抱え込んだ本に安心した僕は、今更ながらにそのことに気付いた。もしかして、捨てられたりするのだろうか。なら、貰って帰る方がいいのかもしれない。
「処分、するんですか?」
「いや、まさか。さっきも言ったが、俺も自宅で似たような事をしているから、残ったものはそこで引き取ることにしている。本当は俺はもっと欲しかったんだがな、じいさんに町の人が先だと、ネコババするなよと、病の床から念を押されていてな。
しかし、なんだ。自分が欲しいものを持ち帰られるのは、想像以上にきつかった。もう絶版になったものとかも多くあったからな。この二週間で、俺の忍耐はかなり鍛えられたよ」
男は軽口を叩き、肩を竦めて笑った。自宅はどこかと訊ねると、ここから車で30分ほどのところにある、少し離れた街の名前を上げた。
「遠慮なく来てくれていい。じいさんも喜ぶだろうから」
「はい、是非…」
頷く僕の視界が、不意に歪んだ。
前触れもなく、涙が溢れてきた。そして、胸が震えた。
男と話すことで、漸く自分は佐山さんの死をきちんとみたのだろう。そう、本当にもう、彼は死んでしまったのだ。長い間会わない事も珍しくない関係なので、今もその間のような気がしてならない。けれど、再会はもう二度と出来ないのだ。
佐山さんは、僕の事を最期まで覚えていてくれた。あの小さい子供が言ったひとことでさえ、きちんと覚えてくれていたのだ。抱きしめた二冊の本が、僕にはとても重かった。自分はそんな彼に何か出来た事があったのだろうか。
鼻水を啜りながらも、最後の意地だというように嗚咽をかみ殺す僕を、春の温かな風と男の大きな掌が撫でてくれた。それは、とても優しかった。
「…是非、伺わせてもらいます」
掠れた声で僕は言い、泣いてしまった恥しさに笑いながら、本を強く抱く。
「ああ、待っている」
男はそんな僕に、目を細め笑いかけてくれた。
その微笑みは、やはり佐山さんとどこか似ていた。
END
2003/03/19