□ season

 淋しかった。
 苦しかった。
 他に方法を見つけられなかった…。
 思えば俺達は全く恋人らしくなかったのかもしれない。お互いに言葉が足らず、他人を思う事も自分を出す事も不器用で、ただ同じ時間を何となく共有していたに過ぎないと言えるのかもしれない。…そう、他人から見れば、恋愛には程遠い関係だったと言われるのだろう。
 だが、俺はそれでいいと思っていた。妥協でも流されているのでもなく、本当にあのままずっと俺達の関係が続いていく事を心から願っていた。
 俺はお前が好きだった。愛していた。一緒に居たかった。
 何を犠牲にしても、お前の傍に居たかった。
 だが。――だからこそ、耐えられない苦しみも生まれてくる。
 他人を求める感情に左右され、悩み苦しみ戸惑い、その中で俺が見つけ出した方法は、間違っていたとは思わないが、適切ではなかった…。
 俺のもとからお前は去った。
 自分の行動に、後悔はしていない。
 あの時は、ああしなければ、俺は生き続ける事もできなかっただろうから…。お前を求める自分を生かすための唯一の方法だったから…。
 それに何より、俺の気持ちがお前へと届くことが決してなかったように、俺もお前の気持ちをわかってはいなかったのだから、後悔なんて出来るはずがない…。後悔するのなら、お前の思いに気付かずに、お前を求め続けてしまったことにだろう。
 本当に、お前の言うとおり俺は、最低な奴だった。何も気付かず、自分だけが苦しんでいると思い込んでいたのだから…。
 …戻ることがない過去に思いを馳せても仕方がない。思いなんていつかは変わるのだ。だからお前がいない事実にも慣れることが出来る。そうだろう?
 だが…、そのいつかはいつなのだろう…。それまで俺は、ちゃんと生きていられるのだろうか――




 昨日まで続いていた晴天が一転。今日は朝からどんよりと重い雲が空を覆い、真冬の気温となった外は暗く、今にも雪が降りそうだ。
 出掛けるためにアパートの無機質な冷たいドアを開けた俺は、その外の寒さに慌てて部屋に戻りクローゼットからコートを引っ張り出そうとして……、手を止めたまま動けなくなってしまった。
 俺のベージュのダッフルコートの横に掛かった、ひとまわり大きな黒のロングコート。思わずそれに手を伸ばす。
 抱きしめたコートは防虫剤の臭いの方が強かったが、確かに彼の匂いがした。
 忘れた振りをしていても、自分までは騙せは出来ないのだ…。
 室内にカチカチと時計の音が響いた。こうしている間にも時は進むのだ。それが嬉しくもあり、悲しくもある。


 走って駅に辿り着き、そのまま満員電車に飛び乗る。
 暖房が入った車内でのコートはキツイものがある。上がった体温の逃げ場がなく、すぐにのぼせてしまい気分が悪くなった。それをグッと我慢し、吊革にぶら下がるように体を預け、眉を寄せ視界を閉じた。

 彼のコートは、またクローゼットにしまった。
 彼がいなくなった季節と同じ冬が来た。
 あれからもうすぐ一年になる。
 もう忘れてもいい頃だというのに、俺はなかなか女々しい男らしい。今朝彼が忘れていったコートを目にし、それを嫌と言うほど自覚した。
 …忘れられるわけがない。
 だが、忘れなければならないのも事実だ。
 彼の思い出だけを胸に生きていくなんてことは、俺には出来ない。俺はそんなに強くない。強かったのなら、あんなことにはしなかっただろうから…。
 恋や愛がどんなものなのか、今もわからない。だが、それは思い描いていたような幸せなものではなく、苦しいものだという事は知っている。
 その苦しさに、俺は耐えることが出来なかった。切なさを一人で抱えることが出来なかった。淋しさを埋めてくれる存在がどうしても必要だった。
 他のものを求めても、何ら事態は変わらない。一瞬癒されるかもしれないが、苦しみが大きくなるだけ。…そんな事は充分わかっていた。
 だが、あの時はそうしなければ自分が壊れてしまいそうで仕方がなかったのだ。彼では俺を癒しは出来ない。しかし、苦しいとわかっていながらも、それでも俺には彼が必要だった。だから、後悔はしていない。俺は彼の傍にいるために、他のものを求めた。利用した。それが彼を裏切ることだということもわかっていた。だけどそうしなければ、苦しみと付き合うことが出来なかった。
 ただ…。ただ、彼が去っていったのは予期せぬことだった。俺のその愚行を彼が気にするとは思わなかった。
 ――最低だ。
 俺を見下ろし、彼はそう低く呟いた。体の横で握り締めた手が小さく震えていた。その衝動を押えたのは、俺のような下劣なものなど殴る価値もないと思ったのだろうか。
 もう一度同じ言葉を呟き、唇をかみ締める。そして、ふと力を抜くと、何事もなかったかのように部屋を出ていった。一度も振り返る事もなく、何も言わず…。
 その日は外は小春日和で、前日までの冬の寒さが嘘のような天気だった。
 暖かくて必要なかったからか、それとも、一秒でも早くその場かを離れたかったのか。彼は寝室にコートを置いたまま去っていった。

 その後、一度だけ街で彼を見た。
 暖かな春の日、横断歩道ですれ違った。体に電気が流れ、まるで時間が止まってしまったかのように立ち尽くす俺をよそに、彼は気付くこともなく通り過ぎていった。隣には彼によく似合う、綺麗な女性が一緒だった。
 俺は春になってもずっと、彼がコートを取りに来るのではないかと思っていた。それを期待していた、願っていた。
 だが、彼の中ではもう必要のないものなのだと気付いた。
 壁のフックにかけたままだったコートを抱きしめ、俺は思い切り泣いた。別れた時は涙も出なかったというのに…。どうして今ごろになって泣くのだろうか…。
 …答えは簡単だ。俺が現実を受け入れていなかったからだ。そう、彼にとって俺はもういないものと同じ存在なのだということに、やっと気付いた。
 彼との時間は夢よりあやふやなものとなった。今更ながらにそれを嫌だと思う自分。
 俺と彼は知り合う前よりも、他人になったのだ。
 それでも俺は、思い出でもなんでもいいからしがみついていたかった。そうしなければ、壊れてしまいそうだった。
 だから、コートを捨てる気なんて起こらず、しまっておいたのだ。
 だが、もう…それも限界なのかもしれない。


 降りる駅に着き、突き出されるように外に転がり出る。一気に襲ってきた冷たい空気が気持ちよかった。しかし、そんなものでは心までは晴れない。会社への道のりが俺には異様に長いものに感じられた。
 彼のとよく似たロングコートを着ている者に、無意識に視線を向けてしまう。そして、もしかしたら彼ではないのかと視線を上げてしまう。
 だが、あの黒いコートは俺の部屋にあるのだ。彼が着ている訳がない。
 思った以上に重症だ。そう自嘲しながらも、すれ違う者に目を向けてしまう。
 …新しいコートは、あの綺麗な恋人に選んで貰ったのだろう…。
 それを買う時、前のコートのことを思い出しただろうか。……少しでも俺のことを、思い出しただろうか…?


 何もこうして突然思い出に駆られるのは、今日に始まったことではない。
 いつものようにデスクにむかい仕事に没頭していても、ふとした何かのきっかけで思い出すと、何日も頭から離れないことが今までにも多々あった。その度、焦燥感に駆られ、全てがどうでもよくなる。逆に、吹っ切ろうと闇雲に足掻く。どちらも疲れるだけで、何も変わりはしない。その繰り返し。
 その疲労感にも慣れた今は、ただただ嵐が通り過ぎるのを待つだけだ。
 いつの間にかパソコンの画面がスクリーンセーバーに切り換わり、白い雪がチラチラと舞っていた。青い雪原に静かに降り注ぐ雪には、似ても似つかないのに、本物の雪を見ているかのように心が震えた。
 こんなものでも感激出来るのだとその心を喜ぶべきなのか。それとも、こんなもので感動してしまうのは心が壊れているからなのだと気付くべきなのだろうか…。
 少なくとも、これは本物の雪ではないし、機械に心はないので俺の心境なんて関係なく、決められた通りに作動したにすぎないのだ。少しマウスを動かせば、面白味のない企画書に戻るだけ。ただ、それだけのことなのだ。
 部屋の隅で上司が俺の名を呼び手招きする。メールも使いこなせない上司にパソコン操作の基本をこうして教えなければならないのも日常なら、それを気の毒そうに見て肩を竦める同僚の苦笑も日常だ。そして、心に空洞を空けたまま生きているのもまた、俺の日常なのだ。


 誰かと肩がぶつかりよろけた。
 直ぐに「失礼」と低いしゃがれた声が早口に落とされ、俺にぶつかったオヤジは足早に去っていく。すっかり日が暮れた道を急ぐ彼が行き着く先は、家族が待つ暖かな部屋なのだろうか…。
 ぼんやりしていた俺は人波に流され歩いていたようだ。ぶつかった衝撃で顔を上げ、ようやく自分が場所を見失っていることを知る。目印となるビルを遠くに見つけ、とうに駅を過ぎていたことに気づき、大きな溜息を吐き再び頭を垂れた。
 歩道に伸びる自分の影。とっくに沈んでしまった太陽の変わりに、店の光と街灯の光が影を作る。薄くぼやけて幾重にも見える影。
 この影のように自分は光が消えると同時に無くなってしまいそうだ、と小さく苦笑する。  だが、それでも俺は生きている。
 苦しいことも、悲しいことも別の場所に置き、仕事をして、物を食べて、眠って…。そうして、生きている。どんな状況でも、人は生きようとするのだ。
 でも、時々こうして、別の場所にしまいこんでいるはずの感情が、俺に襲いかかってくる。
 どうして俺はここにいるのだろう。どうして生きているのだろう…。
 彼がいないのに、どうして――?
 あんなに必要としていた彼がいなくとも、俺は生きている。その事実が、辛い。
 こうなってしまったのは、自業自得だとしかいえない。
 彼の言うとおり本当に俺は最低な人間だ。…こんなところで生きている者じゃない。罪のないような顔をして、こうして他のものと同じ場所で生きているなんて、何て厚かましいのだろうか。…なんて醜いのだろうか。
 ふと、歩道に落としていた俺の視界に、黒い靴の先が入ってくる。立ち止まったそれに、なんだろうと顔を上げようとした俺の動きは、先に降ってきた声に止まった。
「…夜になると冷えるな」
 約一年振りに聞いた声。だが、聞き違えるはずがない。
 恐る恐るゆっくりと上げた視線の先には、濃い茶色のジャケットを着た彼が立っていた。少し伸びた髪が、冷たい北風に巻き上げられる。
「ホント、今日は特に寒いよな」
 ほら、と言ってポケットから出した左手を俺の頬に置く。俺の冷え切った頬より、その手は冷たかった。なのに、そこから温かさが生まれてくる。
 信じられなかった。その暖かさも夢かもしれないと思うほどに…。
「……」
 何も言葉が出ない…。言いたい事は沢山ある。なのにどれ一つとして口には出来ない。瞬きをすれば消えるのではないか。余裕もないのにそんな馬鹿な思いが浮かぶ。
 たった数秒間が、とても長い時間に感じられた。息をするのを忘れたからか、胸が苦しくなる。それなのに、上手く息をつげない。体の機能が全て止まってしまったかのようだ。全神経を彼に注ぎ、自分が消えてしまったかのようだ。
 自分の存在よりも、彼の存在を感じた。二度とこうして向き合うことはないのだと思った存在が目の前にいる事がたまらなかった…。
 ただ見つめるだけの俺に、彼は少し困ったような顔をした。
「もうコートを着る季節になったんだな。…早いな」
 そう言って微笑む彼の笑顔がぼやける。頬に置かれた手が動き、親指で目の下をなでられる。
 自然に目から溢れる涙。泣いていることに気づいても、好奇の視線に晒されていても気にはならなかった。そんなことは、どうでもいいことだ。
 目の前に彼がいる。俺にとってはそれだけで充分だ。
「まだあるか。あのコート…」
「…あぁ」
 声が震える。が、それを押し殺し無理に笑う。
「あんたみたいに大きくなったら、着ようかと思った…」
 泣きながら軽口をたたく俺に、彼は目を細め、口角を片方上げた。
「…そうか。それは楽しみだな」
「でも、あんたが寒いのなら、……取りに来い…」
「あぁ、寒いな。だが…」
「……なんだよ」
「…寒いのは、お前がいなかったからだろう」
「……あんたも、そんな言葉が言えるんだ…」
「一年は、短いようで長いからな」
 その間に変わったのだという風に苦笑した。…この男を変えたのは誰なのだろうか…。一瞬、以前見かけた綺麗な女性を思い出した。
 …だが、もうそんな事はどうでもいいのだ、本当に。
 たとえ、今夜限りのものだとしても、…俺はこの手を放せない。
「…行こう」
 俺は頬に置かれた彼の手を取って歩き出す。先のことなんてわからない。また同じ過ちを繰り返すかもしれない。大切すぎて大事なものを見落としてしまう時がくるかもしれない。
 過去を消せるわけでも、未来を見れるわけでもない。
 だからこそ、今は。
 弱くとも、醜くとも、自分勝手でも。俺はこの温もりが必要なのだ。
 
 高いビルの上に、明るく輝く欠けた月が浮かんでいた。月の船はゆっくりと天上を進み、何を眺め、何を思うのだろうか。
 俺は隣に並ぶこの男と一緒に何を見ることが出来るのだろうか。
 手から滑り落ちたものをもう一度掴んだ俺は、前よりも前に進むことが出来るのだろうか。
 時だけではなく、俺も同じように進んでいきたい。
 また彼が去ってしまうのではないかという不安は、ずっと続くだろう。だが、もしその時が来たとしても、今度は追いかけられるようになりたい。心からそう思う。
 これを一時の夢だとは思いたくはない。
 無意識に重ねた手に力を入れると、何も言わず確かめるように、数度強弱をつけて握り返された。


END
2001/Autumn