久し振りに足を踏み入れた狭い部屋は、真っ赤に染まっていた。
『今、何処に居るんだ。外か?』
「…部屋だ」
西日が差し込む自室に入る直前に受けとった電話の向こうで、男が軽く喉を鳴らす。嘘をつくなよ、と。
「あんたの部屋だとは、言っていない」
『なら、誰の部屋だ』
「自分の部屋に決まっているだろう。何か文句があるのか」
不機嫌さを隠さない俺の声に、けれども相手は意に介した様子もなく同じように喉を鳴らす。とても、楽しげに。
『文句などないさ。だが、帰って来ないとなると、問題はあるな』
「…何がだ」
眩しさにカーテンへと手を伸ばす。だが、耳に届いたその言葉に、俺は動きを止めた。
『お前が居ないと、俺は寂しい』
「……」
突然、何を言うのか。
『黙るなよ』
男はなおも楽しげに、笑いを含んだそんな言葉を俺に向ける。だが、俺には…返す言葉などありはしない。
「……勝手に、言っていろ」
付き合いきれないと言葉を切り、けれども耳から携帯電話を遠ざける事は出来ずに、俺はそのまま静かに呼吸を繰り返した。胸が高鳴っているのを、緊張を覚えているのを、電波で繋がる相手に気付かれぬよう、ただそのまま立ち尽くす。
自分が居なければ寂しいとの男の言葉は、大半が冗談だろう。俺をからかうための、単なる言葉にすぎないのだろう。だが、それでも。それ以上の何かがあるのではないかと、勘ぐってしまう。いや、期待してしまう。
本当に俺が居なくなれば寂しがってくれるのかと詰め寄ってしまいたい衝動が心の片隅にあり、また、嘘でもいいからと縋りつかせて欲しくも思う。
そんな自分がとても汚く思えてならず、けれども、もうどうでもいいとさえ諦め許してしまう卑怯さを誰よりも自分が認めていて…。
何をしたいのか、何を感じたいのか、何を思いたいのか。自分の事だというのに、何ひとつわかっていない己に厭でも気付かされる。
体と心の疲れが確実に増した自分自身を扱いかね、俺はゆっくりとした動きで腰を降ろした。窓ガラスに背中を預け、カーテンを閉め損ねたせいで未だ西日を受ける部屋を眺める。床に伸びた長い自分の影が、酷く醜く思えた。
だからだろうか。何故か泣きたくなり、そうなってしまわない様に己の影から窓の外へと目を移す。部屋に入ってきた時よりも断然下の位置にある欠けた太陽を見ながら、自分もまた部屋の物同様に赤く染まっているのだと、どうでもいい事を考える。
「…眩しい」
呟いた言葉に、男が笑う。
『お前の部屋からだと、建物の影でよく見えないんじゃないのか』
自分の居る場所からは丸い夕日が見える。そんな事を言う男が一体何処に居るのか、興味がなければ、夕日自身に関心もない。太陽など、明日になれば昇ってくるのだ。そして、沈む。24時間後にも、必ず存在する。未来を見る能力はなくとも、絶対だと断言出来る。それが、この世の中の日常だ。そんな所に自信をなくし不安を抱えていては、誰もが生きてはいけないだろう。
そう。だが、俺の目の前にあるのは、そんなものではない。太陽のように、明日も自分が存在しているのだという事を、誰よりも一番自分自身が信じられない。一欠けらもそれを思い描けない。
無能だ。
頭だけでなく、自分と言う人間の全てが。苦しむこの姿が、自分自身で耐えられず、捨ててしまいたくなる。何もかもを。真っ赤に染まる部屋の中に、まるで血の様なこの生温かな熱の中に溶け消えてしまいたい。
けれど。それでも、俺はまだ生きているのだ。滑稽な事に。
『早く帰って来いよ』
「…間違った表現をするな」
『別にどうでもいいだろう。いいから、早く来い。飯食いに行くぞ』
「勝手に行け…」
『勝手に出来るかよ。世話しないと食べない奴が言える科白じゃないぞ』
放っておけ。
喉までせり上がったその言葉は、けれども口から零れはしなかった。開いた唇が微かに震えただけで何も言えない俺に、黙るなよと先程と同じ言葉が届く。低い笑いを含んだ声が、促すように俺の名を呼ぶ。
『マサキ。帰って来いよ』
寂しいと軽い口調で言った男の言葉が耳の奥で蘇り、何故か今頃になり胸に染みわたる。
男のあの部屋もまた、この部屋と同じように赤く染まっているのだと思うと、不思議と懐かしさが込み上げた。
END
2004/03/24