「ああ、そうだ、小沢」
荻原は開けた扉に手を掛けたまま、今別れの挨拶をしたばかりの相手を振り返り小さく笑いかけた。
「どうした?」
「メリー・クリスマス。言っていなかっただろう」
「最近、そればかりだ。聞き飽きた」
俺はキリスト信者じゃない、と軽く眉を寄せ肩を竦める男に荻原は再び口角を上げる。
「いいじゃないか、そんなの。楽しいイベントってだけでいいんだよ」
「そんなものか?
じゃあ、メリー・クリスマス。今日は聖なる夜だ、悪い事はするなよ」
「その言葉、そのまま返すぜ。じゃあな」
お前に言われたら、お終いだ。
普段は無口と言うか冷めた部分がある男のそんな言葉を最後まで聞かず、荻原は扉を開け部屋を後にした。
昼過ぎに訪れた頃は太陽の光が射していたというのに、数時間いたビルの外に出ると、空はどんよりと曇っていた。微かに太陽の位置を確認できたが、直ぐに沈むほど低い場所だ。
冬の一日は早い。
いや、そうではなく、仕事をしている時間が少ないからそう感じるのだろう。現に今まではそんな事を考えもしなかった。太陽の動きなど、あまり関係のない生活をしていた。
あの頃は、早いとも遅いとも、比べる何かを持っていなかった…。
ふと、近寄って来た見慣れた車に気付き、荻原は軽く肩を竦めた。
扉を開けようと、運転席から降りて来た少年と呼べない事もない若い男のそれを静止する。
「いいよ、開けなくて」
歩道を行き交う者の多くはサラリーマンやOLといったもので、珍しげに視線を向ける事はあっても立ち止まる事はない。その人波を避けるため、荻原は車道脇に止められた車に近付いた。
「乗らないから」
「そういう訳にはいきません」
「いかなくても、そうしてくれよ、樋口。言っただろう、迎えは要らないと」
ここまで来たのは同じ樋口の運転だったが、彼がずっと待っていたとは考えられない。それは自分の言葉に従ったからか、それとも用があったからかわからないが、どちらにしろいなくなった事に喜んでいたのだが…、…そう簡単にはいかないようだ。
信用がないのか、それともそんなに自分は危なげなのか。
どちらも荻原には思い当たることがあるので、仕方がないと納得してしまいそうになる。だが、それでも、今は譲れない。
「帰れよ」
「しかし…」
言いよどむ樋口に、荻原は苦笑のような軽い溜息を吐く。
「ま、お前も堂本に言われているんだから仕方がないよな。だが、ちょっとは融通利かせろよ」
口元を緩め、クククと喉を鳴らして笑う。
この男は、自分にも忠実ではあるが、一番は堂本なのだ。その実直さが可愛いところなのだが、時々厄介でもある。
「ほら、今日はもう終わりだ。クリスマスだぞ、予定はないのか」
「いえ、特には…」
「ふ〜ん、そうか。でも、生憎俺は予定があるからな、お前を構っていられない」
「どちらに? お送りします」
「いらない。ゆっくりのんびり歩いて行きたいんだよ、この街を」
いつも窓越しに眺めてばかりいたこの街を、自分の足で歩きたい。
あいつのように。
偶然街で見かけた時は、いつもぼんやりとしながらも流れるように歩いていた青年の姿が荻原の目に浮かぶ。溺れることなく街を泳ぐその姿は、他の何よりも目が惹くものだった。
「でも、それでは…」
「樋口」
「はい」
「悪いが、堂本には適当に言っておいてくれ」
「……」
「墓参りに行くだけだ。心配するな」
クリスマスだからな、あいつに会いたくなった。
そう言いニヤリと荻原が笑うと、いつもはあまり表情の読めない樋口が、珍しく苦しげに眉を寄せた。
「ほら、戻れよ。直ぐに日が沈む、もっと寒くなるぞ。傷は痛まないのか?」
大丈夫です、と視線を落とした樋口の頭をぽんぽんと荻原は軽く叩き、「じゃあな、頼むよ」と人込みに体を滑らせた。
自分はまだ、あの青年のように上手く泳げない。
けれども、この街を不器用ながらにも進む、ゆっくりと。…それでいい。
イルミネーションの輝きに目を細めながら、荻原は空を仰いだ。灰色のそこは、今にも雨を落としそうなほど暗かった。だが、心地良かった。
荻原が目的の場所に着いた時には、すっかり日は沈み、夜の帳が降りていた。
そして、いつの間にか空からは花びらのような白い雪がチラチラと舞っていた。もっと強くなればそうも言っていられないのだろうが、雪が珍しい東京では、この程度なら風流だと喜ばしい限りなのだろう。この場に辿り付く途中に擦れ違った者の多くが、空を見上げ歓声を上げていた。
「ホワイト・クリスマス、か…」
お前が降らせているのか?
心の中で呟いた言葉に、荻原は自身で笑いを漏らした。呆れて眉を寄せる青年の顔が簡単に思い浮かぶ。自分の言葉にはいつもそんな表情を返していたのだから、当然と言えば当然なのだが…。
クリスマスのこの日に、寺の中にある墓にやってくる者は少ないのだろう。いや、時間が時間だからか…。
人気のない墓地を進んでいた荻原は、ふと立ち止まり、空を見上げ、舞い落ちてくる雪を受け止めた。
何だっていいのだ、あの青年と繋がる何かがあれば。
自分のこんな姿に、彼は笑うのだろうか。呆れるのだろうか。それとも、少しは自分の心を思ってくれるだろうか…?
「……都合がいいと笑われるのがオチだな」
目の前の小さな墓にそう笑いかけ、荻原は再び空を見た。
降る雪は、顔に落ちると直ぐに解けてしまい、頬を濡らす。
暗い空から舞い落ちる雪は、何にも染まることなく真っ白だ。
綺麗とも、美しいとも思えない。ただ、静かに舞う、それだけのもの。
悲しいとも、切ないとも感じない。
けれども、それは確かに天からやって来るもので…。
嬉しくもあり、寂しくもある。
説明のつかない自身の感情。けれども、どれも嫌ではない。素直に綺麗だと思えない心も、穴が空いた心から落ちてしまった悲しみも、それでも残っている寂しさも、何もかもが確かに自分の中にあるものだから。だから、全てを否定はしない。
きっと、これが自分だから。何も捨てられず、この小さな手の中に抱え込むばかりだが、それでも自分は自分を嫌いになりきる事は出来ない。
…それで、良いんだよな…?
荻原は、ふっと息を吐き、視線を前に戻した。
吐く息は白く、痛い程冷たい空気に溶ける。
「…メリー・クリスマス、マサキ」
望みなら沢山ある。
叶わないとわかっていても、彼に会いたいと自分は願っている。いつも。そして、これからも。
けれど、今は、別の事を願おう。
どうか、どうか彼の心が平穏であるように…。
強い冷たい北風が荻原の髪を巻き上げ、白い花びらを遠くへと飛ばした。
闇に舞うそれは、儚げでいて、とても強い。まるでそれは、何らかの想いを持っているように――
END
2002.12.25.