□ 今日というこの一日を

 小さく響いた扉の開閉音に気付き、俺は閉じていた瞼をそっと開いた。外は既に明るくなってはいたが、時計を確認するとまだ7時にもなっていない時刻だ。壁の向こうで人が動く気配と微かな足音を耳にしながら、もう一度瞼を閉じる。
 自分に気遣うよう静かに動くのは、この部屋の主である男、荻原だろう。ここに住むようになって暫く経つが、他の人間がこの部屋に入る事は滅多にない。俺が知るのでは、堂本さんが何度か来たくらいだ。
 荻原であろう気配は、何故か俺が居る部屋の前で一度止まり、直ぐに再び動き出した。そして、先程よりも遠くで同じような音が上がり、部屋の中の空気が震える。
 その後には、静寂が訪れた。暫くその中で身を横たえていたが、何かが動き始めそうな気配はない。
「……タフだな」
 零した呟きは、吐息と変わらないようなものだった。けれどもその俺の声に反応し、胸の上にのっていた黒猫が顔を上げる。煩いと抗議しているのかと琥珀色の目に問い掛けると、欠伸をするように小さく鳴いた猫は、先程までと同じようにまた俺の胸の上で丸まった。その背に手を伸ばし、柔らかくて温かい体を撫でる。
 この猫を預かったのは、まだ数時間前の事だ。あれから眠ったのだろうに、あの男はなんともタフなものだと、俺は深い溜息を吐いた。こっちは、あれからうとうととするくらいで眠れていないと言うのに…。
 健康な者とそうでない者の違いなのだろうか。
 睡眠を、真の安らぎを欲しているのは彼よりも自分の方なのに理不尽だと、俺は適当に八つ当たりをしてみる。だが、それは何かの効果を生む訳もなく、ただ虚しいだけだ。
 暫く撫でていた手を猫の背中から外し、俺は髪をかきあげ、額を押さえた。目に、青白く細い腕が飛び込んでくる。小さな鬱血の跡が不気味で、不意に胸が苦しくなった。
「……くっ」
 唐突に込み上げてきた焦りに、慌てて体を起こし、そのまま頭を抱えるように壁に倒れこむ。急な動きに眩暈と頭痛が起こった。ベッドの上に降りた猫が抗議の鳴き声を上げたが、手を伸ばす余裕はない。
 深呼吸をして自分を落ち着かせようとするが、そんな自分がとても惨めなような気がし、上手く出来ない。闇雲に、ただ焦るばかり。
 大丈夫、大丈夫だ…。
 根拠など何処にもないその言葉を繰り返し、自分の体や心を騙す。
 俺のそんな姿に呆れたのだろうか。猫が鳴き声を上げながら前足でドアを引っ掻きはじめた。カツカツと爪の当たる音が、静かな部屋に響く。
 何であれ、別の生き物が傍に居るのには、救われる気がした。
「……。…ちょと、待てよ。ジン」
 ノロノロと起き上がり、俺はゆっくりとした動きで服を着替えた。その間に気が変わったのか、猫は俺の足元に来て腰を降ろす。直ぐに床に寝そべったが、目は何もない部屋の一点をじっと見つめていた。何に興味を示しているのか、人間の俺にはわかりそうもないので放っておく。
 扉を開けてやると、その音に反応して黒猫はゆっくりと部屋を出て行った。まだ少し早いが、学校へ行く準備をし、鞄を持って俺も部屋を出る。
 目の前の壁に、小さなメモ用紙が張られていた。部屋を出る時に俺が気付くよう考えたのだろう、白い壁に映える紙が目線よりも少し下の位置にあった。
 紙には意外にも達筆な字で、猫の餌のやり方と俺にも食事をきちんと摂れという注意と、後は気をつけて学校に行って来いよと親が子供に言うような言葉が記されていた。俺は思わず、軽い笑いを落とす。バカな奴だと。
 本当に、バカな男だ。
 リビングの扉の前で、猫は大人しく座り込み、そのドアが開くのを待っていた。そのままではドアを開けるのに邪魔なので、猫を抱き上げリビングへと入る。キッチンへと入りながら、もう一度メモを読み、片手で丸めてゴミ箱へと放り込んだ。


 荻原が言っていたように誰かに預けておこうと、猫を抱えてエレベーターに乗る。少し迷ったが、3階へのボタンを押し、自分が乗る小さな箱の中を見渡した。  このビルは一般の者も簡単に入れるようになっている。その事を知った時、無用心じゃないのかと荻原に聞くと、そんなこともないさと幾つもの監視カメラがあちこちに仕掛けられている事を教えてくれた。3階以上には一般人は誤って入る事が出来ないようになっているらしい。
 見落とさない限り、リストにない人間が上の階を押そうと、エレベーターは3階で止まる。そうして、何処に行くのか、何者なのか色々と調べられるようだ、ヤクザな男達に。本当に誤って来ただけの者は丁寧な対応で返すらしいが、それも怪しいところだ。
 何より、自分は何処へでも行き来が可能なリストに乗ってしまっている事実が面白くなかった。荻原と一緒ではなくとも行動を制限されないそれは、身内といっているも同然で気に食わない。だから、俺は自分でその線を越えないよう、最上階以外では降りないようにした。
 それなのに、こんな風に足を踏み入れる事になるとは。
 腕の中の猫の喉を指で撫でながら、到着した階に足を下ろす。下の会社の事務所と言うが、何度か見た限りではただのヤクザの溜まり場だ。
 気が重い。そう思った時、一番近くの扉が開き、数度見かけた事のある男が顔を出した。
「おはようございます。飯田さん――」
「田端さん! 井原が来ましたけど」
 俺の名を呼んだ男の声に、若い男の声が部屋の中から上がり重なった。その声に、「ここまで来いと言ってくれ」と答え、田端と呼ばれた男は俺と視線を合わせ、ほんの少し目を細める。
「迷惑をかけませんでしたか?」
 一瞬何を聞かれているのかわからなかった。それが猫の事だと気付き、俺は少し慌てて言葉を返す。
「いえ、別に…」
 大人しいからと答えながら、差し出された手に黒猫を渡した。
 あまり人には懐かないのに、珍しい。俺と猫の事をそう幾人かが言っていたが、やはり特別ではなかったらしい。男の手の中でも、猫は変わらず大人しかった。いや、俺よりもその男の腕を気に入っているようだった。
「どうかしましたか」
「いや…」
 何でもないと首を振ったが、俺の視線の意味に気付き、男は小さな笑いを口元に浮かべた。
「付き合いが長いですからね。はじめは見向きもしてくれませんでしたよ、この猫は」
 少しおかしそうにそう言い、俺に学校に行くのかと男は訊いてきた。頷くと、送りましょうかと言われ、それを断る。
「…暇なんですか」
 思わず俺はそう聞いてしまい、男の笑いを買った。黙っていると少し冷たい感じがする男だが、声を上げて笑うと優しさが滲み出ている気がした。
「それが私の仕事だというだけです」
 男は失礼と笑った事を謝りながら、俺にそう言った。だが、そんな訳がない。
 眉を顰めた俺に、男は軽く肩を竦めた。
「確かに、それ以上にあなたに興味があるというのが事実なので、純粋に仕事だけだとは言えませんね」
 余計な事を言って悪かったと謝罪した男は、上がったエレベーターの到着音に反応し、そちらに顔を向けた。つられてしまい俺も顔を向ける。
「あ。おはようございます」
「ご苦労さん、井原」
 上がってきたのは井原だった。男と一緒に立っている俺に少し驚き、けれども猫の姿に気付いて状況を納得する。
「飯田も、おはよう」
「ああ、おはよう」
「何、お前。これから学校?」
 俺が肩にかけた鞄を顎で示しながら、そう訊いてくる。
「送っていってやろうか? 時間が取れたらだけど」
 駄目ですかね、と窺うように上司の男を見る井原に、俺は溜息を落とした。どいつもこいつも、一体何を考えているのか。
「結構だ」
 そう答えた俺に、男は苦笑し、井原は首を傾げた。
「何だ? 朝っぱらから怒ってるのか、お前」
「そんなことはない。じゃあな」
 井原にそう言い、猫を抱く男に頭を下げて踵を返す。止まったままだったらしく、ボタンを押すと直ぐにエレベーターの扉は開いた。
「お前、あまり顔色良くないぞ。寝不なんだろう。暑いから気をつけろよ」
 タタタと駆け寄って来た井原が、扉が閉まる瞬間そう言った。
 じゃあなと笑った井原の顔が消え、エレベーターが動きはじめると、俺は壁に凭れかかった。悪気は全くなく軽い気持ちで言ったのだろうが、面と向かって言われると、自覚しているとはいえへこむものだ。体調がすぐれないのがばれていないなどと思っていたわけではないが…、複雑だ。
 井原もそうだが、男も自分に送っていくと言ったのは、そのせいなのだろうか。それ程までに俺は酷い姿をしているのだろうか。
「…参ったな」
 確かにショックではあった。だが、それ以上に、自分に呆れた。不甲斐ないぞと、叱責を落とす。
 もう少ししか生きられないのだ、俺は。
 ならば、あと少しなんだから頑張れよ。それ以上はないのだから、虚勢でも見栄でもなんでもいい、今こそ頑張ってみろよと自分を叱咤する。
 気にしてくれる者がいるのだ。放っておいてくれ、煩いという心も確かにあるが、心配をかけたくないというのも俺の本心だと思う。だから、誰かの前では、もっと気をつけなければ。気に掛けさせては駄目だ。  でなければ、迷いがどんどんと増えそうな気がする。
 寄りかかるものを増やしてはならないのだ。何故なら、俺は弱いから。それを得たら、絶対に立ち止まってしまうだろう。
 追い詰めているのか、自分を甘やかしているのか、もうその判断すら俺にはつかない。でも今は、こうしたいだの、こうしようだの思う事をするしかないのだ。何かを目指すほどの未来は、もう俺には見えないから。
 ただ、この一日を無事に生きる事が、俺にとって大切な事だ。平穏に暮らす事で得られるものが、今の全てだ。
 俺はビルを後にし、騒がしい街へと足を踏み入れた。
 自分で歩けるうちは、この街を泳ぐのだ、俺は。

 自分が不器用だということは、昔から知っている。
 上手く生きられるようになりたいと、今はもう願っても無駄な事なのだ。
 ただ、この一日を、何も問題なく生きたい。
 そして、俺は、明日を迎えたい。


END
2003.07.02.