□ Triangle

 初めて彼に会った時、自分はまだ保育園に入ったばかりだった。あれから十年と半年。中学生になったオレと彼との年齢差は、当たり前だが、変わってはいない。
 縮まらないそれを寂しく思い始めたのは、いつ頃からだっただろう。

「そういえば、今日は22日だね」
 通路を挟んだ隣りの席の女子高生が、今日は猫の日なんだよと交わす会話が耳に飛び込んで来たタイミングを拾い、オレは今気付いたかのようにそう口にする。ホントは、それを知っていて今夜の約束を取り付けたのだけれど、それは秘密だ。例えバレたとしても、これくらいの悪ふざけはこの人ならば笑って許してくれるだろうが、出来るのならば内緒にしておきたい。
「ねぇ、オレと会っていて良いの?」
 首を傾げ尋ねると、全く問題はないよと目の前の青年は笑った。オレが14だから、この人は31才。ならば青年というよりも、壮年と称するに近いのだろう。けれども出会った頃と変わらない、柔らかく透き通った笑みを彼は浮かべるのだから、オジサン扱いなんて出来はしない。何より、子供以上に優しい表情が、温かい瞳が、オレは大好きだ。そこに年齢の概念はない。
 この人の笑顔は、いつでも、どんな時でも、オレを夢中にさせる。困った笑いも、可愛い。
「別に今更、年のひとつやふたつでねぇ」
「でも、自分の誕生日に別の奴を相手にしていたら、普通はやっぱり面白くはないよ?嫉妬するんじゃない?」
「リュウくん相手に、嫉妬?」
 意外な言葉を聞いたように唇を付けかけていたカップを離し、目を丸めて驚く彼に、「オレだと不足だよね」と頭を振る。
「いや、そんな事はないけど……あ。そうじゃなくて、俺にかな?構わないと、不貞腐れるって事? うーん、どちらにしても、あの男が嫉妬するなんてなぁ。無いんじゃないのかな?」
「そう?」
「だって俺、三十過ぎたんだよ?アイツは今日で……幾つだっけ?」
「44だよ、覚えてないの?」
「だって、そんな、四十過ぎたら歳なんて数えないよ。44だよ、44歳」
「そんなに言わなくても」
「いや、でも。44って言ったら、リュウくんの三倍だよ?っで、俺も君の二倍の31だよ。そんな中年二人で嫉妬云々なんて、寒くないかい? 全くもって、有り得ないよ絶対」
 リュウくんはまだまだ若いからなぁと、どこか微笑ましげに俺を見て目を細めるこの人は、幸せな事に知らないのだ。今も昔も、44になろうが、50や60になろうとも。あの男は嫉妬をする、絶対に。外見を裏切る乙女な奴なのだ、相手がオレであっても、するものはする。
 実際、これまで何度もそれらしい仕打ちを受けてきた本人が言うのだから、間違いない。
「認識甘いよ。今頃絶対、イライラしてるって」
「そうかな?」
「うん、そうだよ」
 力強く頷くと、「オジサンをからかわないでくれよ」と笑って流された。からかってはいないし、オジサンだとも思っていないのだが。
 わからないのならば、わからいで良いとも思う。
 これから先、この人にとってのオレが変わる事はないのだろう。それは、あの男がいなくても同じで、オレは「弟」以上にはなれない。
 だけど納得したくはないから、心の中ではいつも、アイツに向かって舌を出す。オレが欲しいものを持つ男に向かっての、細やかな攻撃だ。
 だけど。

 彼への思いはこれからも変わらないが。
 そろそろ初恋は終わらなければならないのかもしれないと、最近良く思う。あの男のように年齢差を埋められないオレは、もうここまでなのだと。

 何よりも。
 彼の隣りに立つのが自分ではない事は悔しいが、それ以上にオレは。
 オレは、二人供が、好きだから。


  +++


 送って行くよと言ったのだが、駅まで向かえに来て貰うから大丈夫だと断られ、改札をくぐり去って行く少年をただ見送る。いつも送迎をさせないのは、彼なりの俺への気遣いだとわかっているので、その思いを大事にするのだが。今夜ばかりは、本気で送らせて欲しかったなと、悪いオジサンな俺は考えてしまう。
 自宅よりも断然、少年が帰る家の方がアイツに会える確率が高いのだから、当然だろう。からかうのもいいが、オジサンの恋心も汲んで欲しいよと、心だけではなく表情にも出して苦く笑いながら駅を出る。14歳の少年に何を望んでいるのかと自身に呆れつつも、俺は携帯を操作した。
 男のナンバーを、短縮の一番目に入れたのは、一体いつだっただろう。

「仕事中なら切るけど…?」
 通話が繋がると同時に窺うと、問題ないとの短い答えが返る。今夜の電話にどんな理由があるのか、わからない訳はないだろうが、44歳になり祝いの言葉を待っているとも思えないので、俺も敢えてそこには触れず用件を切り出す。
「今、駅で別れたから」
『そうか』
「リュウくん、また背が伸びたね。追い越される日も近いなぁ」
『寂しいのか?』
「そりゃまあ、それなりにね」
 だが、幼い頃から知る少年の成長は、それ以上に嬉しい事だよと俺は素直に伝える。これは、多分この男も同じ思いのはずだ。そして。
「寂しいのは、リュウくんの変化じゃなく、自分が年をとった事かもしれないな。十年ってさ、長いよね。あの小さかった子が、来年は中三、高校受験だよ」
 老けるはずだよなぁとカラカラ笑うと、「お前もまだ若いだろうが」と返された。
「確かに、貴方に比べたら若いさ。ピチピチだ」
『……』
「44になるんだってね、オッサンじゃん」
 馬鹿発言をスルーしてくれた男に向かって悪態を吐いてやると、低い笑いを返された。
『覚えていろよ。お前がこの年になったら、同じ事を言ってやる』
「いいよ。でも、その時アンタは、56になっているんだぜ?」
 オジサンにオジサンと言われても、全然全く痛くも痒くもないだろうなと笑ってやると、僅かに掠れた声で名前を呼ばれた。何?と聞くと、気をつけて帰れよと通話の終わりを教えられる。
「…うん、ありがと。気をつけます。そっちも、身体、大事にね。インフル、流行っているからさ」
『ああ』
「あと、誕生日おめでとう」
 じゃあねと、相手の声を聞く前に通話を切る。照れると言う訳ではなく、ただ会いたくなるから。
 今夜は、これだけで。
 携帯をコートのポケットに突っ込み、駐車場は直ぐそこなのだけれど、歩道の端で俺は何となく足を止めた。昼間は春の近付きを感じる事もあるが、まだまだ寒い。留まっていずに帰らねば、注意した俺の方が風邪を引くかもしれない。
 それでも。見上げた空は、地上の明るさを受けた薄闇。月はまだ上ってはいない空に、昔を思い出す。

 十年前、電話一本掛けられず、寒さを我慢しながら男の帰りを待っていた。あの時と比べれば、直接会えずとも、電話ででもおめでとうと言えるのは幸福だと思う。
 だが、そう思えても、会いたい気持ちが無くなる訳ではない。
 少年に乗せられたからではないが。こっちが嫉妬しそうだと、男を捕まえている多くのものが、この日ばかりはいつも恨めしくなる。

 好きだから。
 愛しているから、偶には我侭を言わせて欲しい。
「……会いたいよ」


  +++


 迷惑がっているのを知りつつも物を押し付ける度、何を考えているのかと心底から呆れられた。これ以上言っても無駄だと悟ったのか、いつの間にか文句は言わなくなったが、彼は未だに贈り物には慣れていない。そして、それと同様に、何かを送るのも不得意だ。
 尤も、事この日に関しては。その原因は十年前の自分の態度にあるのだが。

「あ…、来てたんだ」
 ただいまと元気一杯に帰って来た少年は、俺に気付いた途端、微妙な表情を作った。どこか気まずげなその顔は、悪戯をした子供のようで、つい腕を伸ばし柔らかな髪を掻き回してしまう。
「…帰んないの?」
「今から戻るところだ」
「いや、そうじゃなくて……自宅へは?って、オレは訊いてるの」
「…あぁ」
「待ってるよ…?」
「仕事だ」
 上目遣いに見上げて来る少年にそう答えると、「二人とも、クールだよね…」と溜息混じりに評価をされてしまった。この場合、鼻を摘みあげたのは、仕方がない。
 外に見せる程も冷静さを持ってはいない俺を知る者のこれは、嫌味でしかない。加えて、彼のそれを知っている事を敢えて見せ、先程まで会っていたと自慢までするのだから、鼻も摘むというものだ。
「ガキ」
「うるヒャい、オヤジィー」
「……」
 鼻から頬へと、無言で抓る場所を変えると、直ぐに謝罪が返ってきた。幼い頃と変わらない素直さにも、計算が混ざり始めた事を、成長と思うべきなのかどうなのか。彼に言った言葉ではないが、寂しさが自分の胸の奥にもあるような気がして、少し複雑だ。
 自覚する暇がなく、指摘を流し続けていたが。年をとったなと、ふと思う。
「イジワル」
 痛いよと頬を擦るふくれ面に暇を告げ玄関へと向かうと、数拍遅れで追いかけて来た少年に体当りをされた。
「ハッピーバースデー」
「あぁ…」
「ね、やっぱさ、帰りなよ?」
「…アイツのではなく、俺の誕生日だ」
「それって絶対、自分勝手だ」
「……さっき、電話で話した」
 この少年に詳しく解説しなければならない理由はないのだが…と思いつつも教えると、痛いところを突かれた。
「電話だけじゃ物足りなくない?」
「……リュウ」
「頑固オヤジ、愛想尽かされるよ」
 腰にしがみつく少年を振り払うように引きはがすと、大きな声で笑いながら、今度は背伸びをし首に腕を回して来た。じゃれる姿は幼い頃と変わりはしないが。
 放つ言葉は、随分と変わったものだ。
「ねえ、俺が盗っちゃうよ?」
 なんてね、と。本気を窺わせる台詞を簡単に締めくくり、「じゃ、仕事頑張って」と手を振り追い出しに掛かって来る。お前はなぁと、続けて言う事は幾つかあるのだが。「…ああ」と短い返事で俺は素直に屋敷を後にした。小言は、言い出したが最後、終わらないだろう。何より、全てをわかっている子供に、重ねて諭す事はし難い。

 盗られるのは困る、と。
 そう少年に触発された訳ではないが。
 車に乗り込みしばし考え、俺は電話をひとつかけた。
 十年前に出来なかった事が、今はそれ程難しくなく出来るのだから。年を重ねるのも、悪くはないのかもしれない。

 仕事の都合をつけられたならば、あの時戻れなかった償いではないけれど。
 今夜は、彼のもとへ。


END
2006/02/22