□ 月の船で

 玄関のチャイムが鳴った時、やっぱりなと思った。
 って言うか。その予感はもうずっと前からしていたのだ。
 多分、というか。きっと、水木は帰ってこないのだろう、と。また、俺を悩ませるモノだけがやって来るのだろうな、と。そう、俺は確信していた。
 けれど。それでも心の奥底だか頭の片隅だかでは、もしかしたら本人が来るかもしれないと、期待し切望していたのだろう。
 まだ温もりきっていない部屋に響くその音を聞きながら、バイトから戻っていくらもしないうちの訪問者が誰であるのか、俺は即座に悟り、落胆する。やはり、水木は今夜も帰らないのだ。
「……クソッタレ」
 低く悪態を吐き、俺は閉じた瞼に薄情な男を描く。憎たらしすぎて、泣きたいくらいだ。
 けれど、絶対に泣いてなどやらない。
 何より、そんな余裕もない。
 瞼を開けて、ムカツク男を振り払い、俺は気が向かないままも玄関へと向かう。
 果して相手は、戸川さんか、若林さんか。深夜に近いこの時間ならば、流石にリュウではないだろう。どちらにしろ、俺が折れる人選にしているはずなので、気が重い事この上ない。八つ当たりすら難しいとは、卑怯だ。
 常識外な贈り物を寄越す男は、用意周到で。俺が受け取らないと言えない相手を使いに出してくる。だからこそ余計に、こういう時に向き合うのが水木ではないのが腹立たしいのだけれど。
 …負ける俺も、俺だ。
「今晩は、千束さん」
 お仕事お疲れ様ですと、玄関扉を開けた先でにこやかに微笑んでくれたのは、案の定、戸川さんだった。
 コートも羽織っていないスーツ姿であることに、俺は労いに返答しながらドアを大きく開き、仕草で招く。流石に気に入らない事態だからといって、問答無用で帰ってくださいとドアを閉ざすわけにもいかない。何より、この戸川さんならば、ドアの一枚二枚閉められたところで、任務を遂行するだろう。
 そもそも、水木の贈り物を俺に届けるのを、この人は楽しんでいるように感じるのだ。もしかしたら、他の奴らならば突っ返されそうだからと理由をつけ、この役を率先して買って出ているのかもしれない。
 そう。こういう時、顔見知り程度の奴らではなく戸川さんや若林さんが来るのは、水木の計算ではなく、この人のせいなのだろう。面白くなさそうな俺を面白がっているのだろう。そう言う人だ。
 どのみち、水木自身が来ないことに変わりはないのだから、真相など知りたくもない話だが。
「どうぞ…」
 帰ったばかりなので、室内はまだそう暖かくないんですが、と。そう言うと、戸川さんは「ご機嫌はあまり良くないようですね」と苦笑する。業とらしくではないのが、業とらしい態度だ。
 控え目ながらも零れたそれを追いかけながら視線を落とし、俺は眉を寄せる。
 わかっているのならば、当然なのだから言わないで欲しい。今、目の前に居るのが水木以外であるのだから、俺の機嫌がいいはずがないだろう。意地悪極まりない大人だ。
「折角の聖夜なのに」
「…折角の――の割には、…相変わらず、ですね」
「心中お察しします」
「……とにかく、どうぞ」
 玄関に入ったはいいが、軽口を叩くばかりで上がろうとしない戸川さんを促すと。珍しくも彼は首を横に振った。いつもならば、勝手知ったる我が家のように入り込み、俺と他愛ない話をしていくのだけれど、今日は時間がないらしい。
 時計の長針が一回りもしないうちに日付は変わるというのに、忙しい事だ。
「こちらをお届けに来ただけですから、直ぐにお暇させて頂きます」
 スッと胸の前まで上げられたそれに、俺はさらに眉間に皺を作る。
「……やっぱり、相変らずじゃないですか」
「まあ、そう仰らずに」
 苦笑交じりのその笑みは、俺と水木の、どちらに対しての嘲笑だろうかと一瞬思うが。それは、俺が知る必要のない事だろう。戸川さんの腹の中など覗いたら最後、地獄を見そうだ。
「水木も、貴方と過ごすのを望んでいないわけではないんですよ。こういう事しか出来ず不器用極まりない男ではありますが、察してやって下さい」
「…なんですか、これ」
「さて、何でしょうね」
 流石に中身までは伺っていません、と。しれっと嘯く戸川さんに、知っているんでしょうがと視線を送り促すが、きれいさっぱり無視された。ガキのそれなど屁とも感じていないのだろう。
 仕方がなく、笑顔を保つ男から視線を落とし、差しだされ続けている包みを見る。丁寧に両手で持ち上げられたそれは、そう大きくはないけれど。中身が何であるのか、窺い知る事は出来ない。
「お渡しするのが私で申し訳ないのですが。さあ、どうぞ」
 止まった俺に焦れたのか、それとも敢えて突っつきに来ているのか。ツイッと戸川さんが少し腕を伸ばしてくる。
「受け取って頂かなければ、私は帰れないのですが」
「…中身、何だと思いますか…?」
「本当に私は知らないんです。ですが、別段、怖がるようなものではないはずですよ。噛みつきはしませんから」
「……。……わかりました」
 寧ろ、噛みついてくれる方がいいんじゃないかと。そうしたら、問答無用で捨ててやるのになと思いながら、戸川さんとの攻防で俺が勝てるはずもないので、早々に諦めて手を伸ばす。これがリュウならば、俺は水木から直接受け取りたいからと、丸めこんで持って帰らせるのだけど。この男では、下手な事をしたら余計に負担が増しそうだ。
「それで、こちらは私からのものです。コートです。お気に召したら着て下さい」
「いや、あの、」
 こんな事をして貰うのはおかしいと。一応、水木には理由があるが、戸川さんはそうじゃないんだからと。いつものことだが当然遠慮をしようとしたのだけれど、一枚も二枚も上手な男は「私に、店へ返品に行かせるおつもりですか?」とにこやかにそう言い放ち、紙袋を俺の足元へと置く。
 そういう話じゃ全然ないのだけれど、俺の言いたい事などわかっていて押し切ってきている相手にどう言えばいいのか。全くわからなくて詰まった俺の隙を突くように、「それでは、失礼します。お休みなさい。良い夢を」と深く一礼するとさっさと扉の向こうへと消えた。
 本当に忙しいのか、止める暇どころか、礼を言う間さえなかった。自分勝手なサンタだ。
「…………忙しいのなら、来なくても…ックシュ!」
 昨年、俺のもとにやって来たのは、小さなかわいいサンタと。しょうがない男だったけれど。今年は、俺サマ何サマ戸川サマ。嵐が去った後のような放心状態で玄関扉を眺め続け、俺は寒さを覚えて派手にくしゃみをする。
 思わず握りしめた手には、憎たらしい男からの、厄介そうな贈り物。奇しくも唾棄してしまったのだが、強ち間違ってはいないわけだ。
 そう。これ自体に恨みはないが、気は重い。
「…………せめて、自分で持って来いよ…」
 日頃から忙しい男に対し、イベント日は空けろよなんて言うつもりはない。だが、当日ではなく遅れてもいいから、こういうモノは本人から渡して欲しい。
 水木は、何をトチ狂っているのか、ドン引きな物を時たま寄越す。宅配便ならば受け取り拒否にするところだが、受け取らざるを得ない相手の手で、それは俺のところまで確実に寄越してくる。本人が目の前に居るのならば。おかしなものでも、何故こんなものを!?と怒る事は出来るし、当人からならば、そういうのを飲み込んで頂戴する事も出来るけれど。居ないのならばどうしようもない。
 他人経由で渡すべきではないだろうその物も、俺への対応も、全て。一連のこれらは、俺を確実に傷つける。相手が居ない事実を飲み込まなければならない痛みを、水木は正確には理解していないのだろう。俺の憤りの大半が虚しさだとは、気付いてもいないのだろう。
 あの男はきっと。自分が居られないからこそ、せめてと思ってプレゼントを届けさせているだけなのだろう。忙しさへの罪悪か、ただの自己満足かが、桁ハズレな贈り物へと変化しているのだろう。
 だが、はっきり言って、こんな事で処理される俺の身になってみろというものだ。
 俺が高価な贈り物に対し、恐怖さえ覚えているのは知っているのだろうに。俺が望むのはそんな物じゃないとわかっているのだろうに。結局、実行されるのはこれなのだ。これのどこに、察しなければならない男の事情があるのか。電話一本寄越さない男を慮ってやれるほど、俺への対応は優しくない。全然、響いてこない。
 そんな俺の気持ち全てをわかり、誰よりも状況を把握していてこそなお、こちらもまた変わらない態度の戸川さんのいつもの戯言が、今夜は思い出すだけで悔しくて仕方がなくなった。
 本当に会いたいと、一緒に過ごすことを望んでいるのを知っていて、悪いと思っているのならば。あんたが、あいつを連れてきてくれよ!てなものだぜ、戸川さん! 何が、良い夢を、だ!
 いい夢なんて、見られるかッ!
「ふたりとも、くたばりやがれッ…」
 中身など知るか!と、リビングのソファに、贈られたものをふたつ揃って投げてやる。
 開けてなどやるものかと、転がる小さな方の包みから逃げるように、俺はキッチンへと足を向ける。明日は、生徒のブーイングにも動じずに、通常通り行われる講義が朝イチであるけれど。飲まずにやってられるか!だ。
 何が、クリスマスだ。
 水木の身体ひとつ開けられもしないのに、祝いもクソもない。
 俺の望みを知っているのに、それ寄越さないサンタクロースに用はない。
 用があるのは、あの男だけだ。  それなのに。
「…………」
 ……なあ、戸川さん。
 くれるのならば、水木瑛慈をくれよ。
 だからアンタは、腹黒に見えるんだ、と。出来なかった八つ当たりを今腹の中でし、俺はビールを煽る。
 天井の明かりに、あげた左手首で腕時計が光る。
  「……」
 缶をシンクに下ろし、思わず右手でそれを包み込むように押さえる。
 一年前は。
 この時計を貰った時は。
 まさか、来年のクリスマスがこうなるだとは想像もしていなかった。
 水木が居ない事に、泣きそうになるなどと。
「…………」
 会いたいと。
 今ここで口にして乞えば。今夜は、聖なる夜だ。叶うのかもしれない。
 そう思うが――俺は言葉に出来ない。
 言っても、叶わなかった時。俺はきっと、自分で呆れ笑うだけでは済ませられないだろうし。
 何よりも。
 虚しいままに寂しいからと単純に乞い、水木の何かを変えるのも、正直言って怖い。何があの男を危機に晒すかわからないのだ。自ら積極的に動く勇気など、今の俺には実際のところない。
 精々こうして、ひとり静かに暴れるくらいが俺に出来ることだ。
 それでも。
 水木が目の前に居るのならば、俺ともっと会えと言えるのだろうに。
 当人にならば、願えるのに。
 あの男は今ここにはいないのだ。

 瞼を閉じると、男ではなく、帰りに見た月が浮かんだ。
 ビルの隙間に見えた上弦の月は、四日目だか五日目だかの、半月で。
 西に沈もうとしているそれは、夜空を渡る月の船。

 トナカイが水木を乗せて来てくれないのならば。
 俺があの船に乗って、彼のもとへと進んでいけたらいいのに。

 祈りでも、夢でも。
 俺はもう、それだけでは満足出来ないのだから。


END
2009/12/24