□ 罪人の幸福

 筑波直純という男は、自分にとって何なのだろうか。
 幾度と考えて得た答えは、けれども何の理由にもならないもの。尊敬出来るだとか、信頼出来るだとか。そんな風に言葉では言い表せない何かが、俺を捉えているように思う。きっかけは確かに、そんなものだったのだろう。ヤクザにしては粋がった所など全くなく、忠実なその姿はけれども上の者に傅いているわけでもなく。真っ直ぐと内から放つ確かな強さを持っている。それをかっこいいと思い、かけられる言葉に優しさを感じ、彼に必要とされたいと願ったのも、今となっては極小さな理由でしかないなのだ。
 その傍に立ち、時を共にするのが、何よりもの自分の喜びに変えるのに時間は要らない。
 それが彼自身の計算なのか、俺が自ら縋った希望なのか、そんなことはわからないし、どうでもいい。ただ、今の俺は筑波直純が全てなのだと、心底惚れているのだというのが大事なのだ。自分にとって何なのか。そんな事を考える方が馬鹿げている。
 筑波さんがいなければ、俺はとっくにこの世界に見切りをつけていただろう。
 自分のせいで友人に怪我をさせ選手生命を断ち切らせてしまった罪に対する後悔は、未だ俺の中にある。それでも。罰を受ける身であろうとも、俺は欲したのだ。筑波直純という一人の男に全てをかけたのだ。罪人の幸福など、更なる罪を重ねるだけのものなのかもしれない。幸せになるには自分はまだ早い、過去のものにするほどあの出来事は遠いものではなく、現にあの友人は未だ傷付いたままだ。罪人である自分がそこから先に抜け出すのは間違っているのだと充分にわかっている。
 だが。俺はそれでも、選ばずにはいられなかった。友人に付けた傷を忘れたわけでも、忘れようと言うわけでもない。それでも、どれだけ罪を重ねる事になろうとも、これだけは譲れなかった。
 辛くて苦しくて、何もかもが遣る瀬無く、逃げるようにスリルを求める上辺だけの付き合いの輪に入り街をうろついた。いつの間にか組に入っていた時も、何も感じず、ただ友人に対する罪悪感から逃れたかった。元々自己主張をしたいがために悪ぶっていたわけでもなく、組内での下っ端の仕事に疑問も憤りも持たなかった。理不尽に殴られる事も、無理な命令も、過酷と言えるような雑用も、上下関係の中の最下位にいるのならば当然だと受け入れてこなしていた。
 ただ、とてつもなく、退屈だった。何も感じなかった。
 このまま自分はこうして、犯した罪もこの味気ない日常に紛れさせ忘れていくのだろうか。それを不安に思いつつも、駄目だとわかりつつも、為す術もなく色褪せた日常に俺はいた。
 そんな時、俺は筑波さんに出会ったのだ。
『――気に入った』
 一言二言会話を交わし、一体俺の何がそう思わせたのだろうか。筑波さんはそう言い、俺に目をかけてくれるようになった。一体この人は何なのだろうかと思いつつも出される命令に従っていると、その傍にいると、彼の凄さがわかった。そして、俺は当然のように気付けば惚れ込んでいた。
 弱っている時に優しくされれば、人間絆されてしまうものだ。多分、そう言うのも多少はあったのだろう。だが、それでも。惚れ込むには充分の男であった。
 俺は頭が良い訳でも、腕がたつ訳でもなく、自分で言うのもなんだがまだまだ下っ端に過ぎない。ヤクザとしての意識が薄すぎると度々注意を受けるほど、雰囲気も何も持っていない。本当に、その辺にいる学生と変わらない。はっきり言って、役に立つ事なんてしれている。
 それでも、目をかけてくれる筑波さんに対しての恩返しと言うよりも、ただただ彼のために力をつけたいと切実に願っている。その思いと意欲は別で、この世界での向上心など皆無だが、今の地位に満足しているわけでもない。今の俺の代わりなど腐るほどいるのだ。この先も筑波さんの傍にいたければ、様々な面で力をつけていかねばならない。言われる事をその通りにこなしているだけでは、俺は直ぐに切られてしまうだろう。筑波さんが言い出さずとも、周りの誰かが言い出すはずだ。
 この世界にいるのであれば、それは筑波直純の傍でなければ、俺にとっての意味はない。
 俺は彼の傍にいるために、この世界にいる。
 今本家で問題がおきており、大きな戦争に発展するのではないかと年末からピリピリし始めている。俺のような下っ端には、正確な情報など入らないが、飛び交う噂は深刻な分だけ真実に近いのであろう。信念は一人前にあるが、何の能力もない自分には一体何が出来るだろうか。局面に立ち、漸くその考えに行き着き、俺は自分の不甲斐なさに遣り切れない。
 力をつけたいと思ってはいても、実際にそれが必要な場面に有していなければ、全く意味がない。今からでは遅いのだと、何も出来ないのだと思い知らされ、堪らなくなる。
 この戦争の勝算がどれほどあるのか、そんな作戦を立てているのかなど全くわからないが、筑波さんがその戦力のひとつとなっているのは間違いない。今夜行われる会合で、更にこの話は進むのであろう。
 俺が参戦出来る可能性など、殆どない。嫌になるくらいわかっているその事実は、いっその事鉄砲弾にでもして欲しいと悔しさを覚える。やらなければならない事と、出来る事と、やりたい事がひとつも一致しない心の葛藤は、俺の中で暴走する。
 だが、それを簡単に面に出してはならないのだと、俺は教えられた。
 前を歩く男の背を見ながら、目を閉じ深い息をひとつ吐く。
 自分には関わりあえない、けれども人生を左右するであろう時を前に、俺は酷く緊張をしていた。それは、他の者もそうなのだろう。普段は飄々とした若頭もまた、筑波さんに席を外させひとり部屋に篭ったのがいい証拠。集まる顔ぶれはいつも以上に硬い表情で、大勢の人間が入ったこの屋敷の空気は、ぴりりと尖っている。
「……まるで。まるで、今から殺されるかのような雰囲気だな」
 茶化すわけでも、恐れたわけでもなく。ただの感想だというように、ポツリと前を行く筑波さんは呟き、足を止めた。縁側に立ち止まり、夕暮れに染まる庭に目をやる。つられるように目をやると、夕日を反射させ、池が真っ赤に染まっていた。
「そう、硬くなっても仕方がないのになぁ、岡山」
 振り向き、頬を軽く上げて笑う筑波さんからは、気負った気配など微塵も感じない。
「皆、心配しているんです」
「だろうな。だが。ヤクザが『心配』なんて可愛すぎないか」
 こいうい場面で大きく構える事が出来る人材がもっと欲しいなと、独り言のように呟き、歩みを再開しかけたその時。携帯の着信が辺りに響いた。筑波さんが僅かに眉を寄せながら通話を受ける。
「はい、筑波。…ああ、それが、――なっ! 本当か?」
 少し落ち着きのない声で、短い会話が続いた。電話の内容はわからなかったが、何か大変な事が起こったのだろう事は、筑波さんの変化から俺にもわかる。同様に、何事かと近くにいた者達も視線を向けて来た。そして、彼らもまた驚き、眉を寄せる。
「…どうかしたんですか?」
 電話を切った筑波さんに声をかけるのは、酷く緊張した。普段は怖いくらいに冷静な彼が、人目を憚ることなくあからさまに顔を顰めているなど滅多にないことだ。何より、一見不機嫌そうに見えるそれは、けれども彼を良く知る俺から見れば、苦痛を押し殺している表情に見えるのだ。ただ事ではない、と筑波さんから漂う張り詰めた空気に俺は少し逃げ腰になっていたのかもしれない。
「岡山、車の用意を」
「――ひっ!」
 情けなくも、俺の喉が小さな悲鳴を上げた。筑波さんは声を荒げる事はなく淡々とした声で俺にそう命令をしただけだと言うのに、その時の俺は静かなその声に、この世の中には怒鳴られる方がマシだという場合もあるのだと悟る。決して俺が何かヘマをしたわけでもないと言うのに、反射的に済みませんという謝罪の言葉が喉元までせりあがってきていた。それを止めたのは、いつの間にか近付いて来ていた福島さんだった。
「どうしましたか」
「出掛ける」
「駄目です、筑波さん。今夜の会はあなたが出なくては――」
「確かに側役の存在は必要かもしれないが、俺でなくてはならないと言う訳ではない。おまえでも問題はないだろう」
「いいえ。あなたでなければなりません。一体何があったんです」
 押し留める福島さんの脇をすり抜け、筑波さんは玄関に向かって歩き出した。俺はハッと我に返り、一拍遅れでその後を追う。
「理由を言ってくだされば、対処の仕様もあります。そちらの用件を私達で済ますことは出来ないんですか」
「出来ない。だから、こちらを変われと言っているんだ。――岡山! さっさと車を回して来い」
「あ、はいっ!」
 振り返った筑波さんは苛立ちを隠さずに言った。その命令に俺は頭を下げながら脇をすり抜け外へと向かう。後ろから二人が言い合う声が聞こえたが、俺には彼らを止める権利も力も何もない。普段は静かに遣えている福島さんが我が儘を言う子供相手のように筑波さんに意見するのも驚きだが、筑波さんの様子も普通ではない。
 本当に、何があったのか。
 俺は言われたように車を表へと回しながら、頭を捻った。そうして、彼が取り乱すのはあの青年のことなのかもしれないと一人の男を思い出す。保志翔。多分、彼が関係している事なのだろう。
 やはり、以前も同じような事があったと、俺は道路脇に車を止め筑波さんが来るのを待ちながらあの時の事を思い出していた。保志が何者かに襲われたのは、先月の事だ。それ以前から何かと保志の事を気にかけていた筑波さんだが、あれから一層それが強まったように思う。
 確かに、自分が襲われたというのに全く関心がなさそうな保志は、気にせずにはいられない人間だ。庇護欲を掻き立てられると言うような、そんな可愛げなものは彼には存在しないが、それに似た感情は持ってしまう。頼りないと言うわけではないが、頼りにはならないその性格をついついかまってしまうという感じだ。俺には筑波さんほどの思いはないが、そうなってしまっても不思議ではないと納得は出来る。
 何より。これは俺の憶測でしかないが、保志が狙われた理由は、どうやらこっち関係の事らしい。こっちとは、すなわち裏社会。しかもその相手は、どうも天川司らしいのだ。保志を見張っていた限りでの俺の予想でしかないが、遠くはないだろう。天川はうちの組とも取引をしている武器の密売人だ。今はまだ父親がその実力を握っているが、その跡目である事は間違いなく、ヤクザ達に一目おかれている。それを親の七光りだと嘲笑する者も多くいるが、それだけでこの世界を渡れるはずもなく、天川にも力があるのは間違いのない事実だ。そして、その彼を支えていると言われているのが、堅気の医者である親友の佐久間という男だ。この男とも保志は関係があるらしい。
 俺は直接訊ける立場ではないので一体彼らがどうなっているのかわからないが、筑波さんは知っているのだろう。多分、筑波さんの片腕である福島さんも全てを理解しているのだろう。
 一向に開かない門をハンドルに凭れて見ながら、俺は溜息をひとつ落とした。ふと、バックミラーの中に車の姿を捉える。車は、先程俺が出てきた路地へと曲がった。黒塗りのその車には見覚えがあり、俺は筑波さんがもう出てはこない事を悟る。先程曲がった車には、今夜の会合に出席する名執組の組長が乗っているはずだ。たとえ、うちの組長や若頭が許したとしても、彼が出ろと言えば筑波さんは出席せざるを得ない。そして、何より、名執組長が筑波さんに勝手をさせるわけがないのだ。それこそ首根っこを捕まえてでも会に出されるのであろう。
 若頭の片腕ではある筑波さんは、うちの幹部であるのは間違いがない。だが、役職には何故かついてはおらず、それは身内だけで通ることだ。会には出席するが、許可なく発言する事など出来はしない。確かに、いなくても問題はないと言うのも頷ける。だが、同席するのは筑波さんでなければならないと言うのもまた事実だ。
 単なる世話係だと、筑波さんの事を詰る声は意外に多い。それは、妬みからくるものが大半であろうが、俺には許す事の出来ない侮辱だ。うちの組を支えているのは、誰が何と言おうと筑波さんだ。そう思っているからこそ、若頭も組長も彼を大事にしている。重要な会議にも同席させる。
 だからこそ、その恩義を何よりも筑波さんは大事にしていた。先程の言葉は本心ではないだろう。そして、それを名執組長に示されれば、たとえ何があったとしても筑波さんは会に出席する。
 だから。
 だから、ここで待っていても無駄なのだ。
 しかし、会が終われば、役目が済めば直ぐに行動を起こすだろう。誰も自分に次の指示を告げにこないのはそう言うわけなのだ。いつ終わるかわからないが、俺はここで筑波さんがくるのが仕事なのだと待つことにした。

 筑波さんが表に現れたのは、あと1時間もしないうちに日付が変わるという頃だった。他の組長達を見送ってからの事だろうと思っていた俺は、暗闇の中静かに近付いてくるその姿に慌てて車から飛び降りる。
「すまない、岡山。待たせたな」
 先程と違い落ち着いた声でそう言う筑波さんは、けれども感情を消したというわけではなく疲れているのだろう、どこか呆然としているような危なげな様子もあった。声はかけたが、後部座席のドアを開ける俺には視線を向けはせず、シートに座り込んだ彼は大きな溜息をつき目を瞑る。運転席に座りバックミラーで見たその姿は、極度の疲労にこのまま死んでしまうのではないかという不安を覚えるほどであった。
 時々、筑波さんはこんな姿を見せる。惹きつけられるのは、多分こういった一面もあるからだろう。
「大丈夫ですか」
 酷く疲れた様子ですが、と俺は車を出しながら声をかけた。それに数拍の沈黙を置き、「…大丈夫だ」と応えが返る。
「疲れているが、残念ながらまだくたばるほどじゃない」
 低い笑いと共に落とされる言葉は、少し自虐的なものだった。けれども、それには気付かない振りをし、俺も軽い笑いを落とす。
「それで、どちらに?」
「歌舞伎町だ」
 そう言って、筑波さんはそれ以上口を開きはしなかった。
 ここで良い、と繁華街に近い交差点で降りた彼の後ろ姿は、車内での疲れた様子は微塵も感じさせない強さがあり、俺は思わず息を飲む。一体何をしにいくのだろうかと気にはなったが、ここで待っていろと命令されては自分には何も出来ない。これが福島さんだったのなら、夜のこの街をひとりで歩かせられはしないと同行するのだろう。だが、自分はあまり戦力にはならないと俺はよく知っており、ついて行く分だけ彼の足枷となるのもわかるので大人しくその場で待機した。
 半時間もせずに戻ってきた筑波さんは、軽く眉間に皺を寄せ何かを考え込んでいる顔をしていた。
「次はどこに向かいましょう」
「…ああ、今夜はもう帰る」
「では、自宅ですね」
 そうだ、と掠れる声での返事に、わかりましたと軽く頭を下げる。
 眠るのだろうかと思うほどの長い沈黙の後、筑波さんはどこかに電話をかけた。今から帰るというその報告は、多分部屋で誰かが待っているという事なのだろう。
 声を荒げることなく淡々と会話を交わし通話を切るまでの時間は、一分にも満たなかった。先程の取り乱しとはまた別の用事なのか。それとも、あれはもう片付いてしまったのだろうか。
 ちらりとその顔色を窺おうと覗いたバックミラーの中で、俺は筑波さんともろに視線を重ねた。
「事故らないでくれよ」
「あ、済みません。――あの、さっきは…何かあったんですか?」
 目をかけてもらっているとはいえ、俺と筑波さんの間には上下関係が存在し、本来ならどんな事があっても自分の意見など言える立場ではない。まして、余計な事を訊ねるなどもっての外だ。他の人だったなら「お前には関係ない事だ」と顔のひとつも殴られているかもしれないだろうそれを、けれども筑波さんは誠実に受け止めた。
「心配させたか。悪い」
「いえ」
「保志がまた襲われたらしくてな」
 直ぐに対処をしたかったんだが、と静かに言葉を繋いだ筑波さんに数拍遅れながら、漸く俺は驚きの声を上げた。
「えっ!? また、ですか!?」
「そう、まただ。余程襲われるのが好きなんだろう」
 ……さすがに、あの彼でもそれはないだろう。
 そう突っ込みを入れながらも、俺はそれを口にはしなかった。言った本人である筑波さんが全くそんな事を思っていなさそうなのだから、俺が何かを言うものではない。冷めた口調で吐く悪態は、心ここに在らずと言った頼りないもので、ただの言葉でしかなかった。
「それで、大丈夫なんですか?」
「ああ、大したことはないらしい。肋骨に少しひびが入った程度で、今は俺の部屋で寝ているようだ」
「筑波さんの?」
「ああ。俺の知人が偶然その場にいて、部屋に運んだ」
 瞼を閉じシートに深く凭れながらも、眠る気はないのだろう、筑波さんは口を動かす。
「それで、今心当たりがありそうな奴らに会ってきたんだが……あいつらではないのかもしれない」
 その言葉に、今席を外した間に何が行われていたかを察し、俺は血の気が引いた。筑波さんは、単独で天川に会いに行ったのだ。それが事務所なのか、単なる飲み屋なのかは知らないが、充分に危険な事であるのに変わりはない。
 飄々と何て事をするのだろうか、と俺は気を抜けば落ちそうになる溜息を飲み込み顔を顰めた。福島さんに知られたら、俺は間違いなく怒られる。
 厄介な奴だと、襲われた青年を呆れながらも、心配しているのだろう。筑波さんは保志を見張っていた経験がある俺にいくつか質問をし、何かを考えているようだった。
「あの…」
「なんだ」
「…筑波さんは、あいつとどういう関係なんですか」
 気にしている事は知っているが、所詮は堅気の男だ。一体何故そうも相手にしているのだろうかと、俺は疑問を口にする。確かにヤクザではあるが、真面目だと言えるほどの性格である筑波さんなら、一般人の友を持っても違和感はない。だが、真面目であるからこそ、筑波さんはそういう事はしないと思う。堅気にとってはヤクザの友など迷惑なだけでしかないのだから。
「気になるのか」
「あ、いえ。少し不思議だと思って…」
「そうだな。所謂、恋人関係というやつだ。俺と保志は」
「――はあ!?」
 言葉を解読するのに、数秒かかった。恋人とは、その…、愛だ恋だのをする関係だと…?
 嘘だろう!?
 まず、驚きが来た。そして、次に疑問が来て。
 俺は何も考えずに、いや、考えられずに、気付けばその言葉を口に出していた。
「……ホモになったんですか…?」
「さあ。どうだろう」
 なるか馬鹿!とかふざけるな死ね!とか言う風に、バッサリと嘘でも照れでも怒鳴りつけてくれれば良いのに、筑波さんは静かにそう答えた。まさか、そんなはずがないと思った俺を、わからないぞと脅しているかのようだ。
「ま、ま、まじでホモに!? あ、でも、だったら…」
 あの話は嘘だというのだろうか、と俺は組の者なら誰もが知っている話を思い出す。筑波さんがヤクザ家業に足を踏み入れたのは女のためだというのは有名な話だ。
 筑波さんが惚れたのが、当時まだ組は持っていなかったが実力を伸ばしていた名執さんの妹で、その兄である名執さんが筑波さんを認めず、認めて欲しいのならヤクザになれと脅したらしい。そして、今は冷静な筑波さんも若かったのだろう、その言葉に乗り組に入った。何より、それほど名執さんの妹を好きだったということだ。
 そうして。その彼女は、抗争に巻き込まれて亡くなった。名執さんは筑波さんを認めたのだろうか、組を抜けろと迫ったらしい。けれども、それを筑波さんは断った。そして、名執さんが前の組を解体し新たに組を立ち上げた時、筑波さんは何故かそこを抜けうちの組に入り若頭の下についた。
 名執さんは筑波さんの力を認めていて出て行く事を渋ったとの噂があるが、それは少し信憑性にかける。俺が見る限り、名執さんは今の筑波さんの働きをとても気に入っているようだし、組は違うというのによく目をかけている。同じく、筑波さんの方も名執組長には頭が上がらないらしい。二人がいい関係にいるのは、少し見れば良くわかる事だ。
 少なくとも、女ひとりを間に挟んでの馴れ合いではない。だが、そう言うのが全く無いわけではないのだろう。一度だけ、名執組長が筑波さんに早く所帯を持てと言っているのを俺は訊いた事があった。その時、筑波さんは「まだ駄目ですよ」と小さく笑っていた。何を指してのことかはその時はわからなかったが、多分、亡くなった名執さんの妹さんを忘れられないと言うことなのだ。
 筑波さんの私生活は派手ではないが、淡泊すぎるくらいに淡泊な福島さんとは違い、それなりに女の匂いがある。俺が知る限りでも、数人の女性に店を持たせたりしている。ヤクザらしいと言うか何と言うか、女を軽く扱う事は全くしていないらしく、彼女達との関係は対等であるかのようで、なんとも筑波さんらしいと俺は思っていた。それでも愛人に変わりはなく、極たまに覗くその関係に、やはりヤクザの男なのだとドキリとしたことも正直言ってある。
 そんな彼女達と別れただとか、手を切っただとかの話は全く聞かない。つい先日、ひとりの愛人と俺は顔を会わせたが、その証拠にいつもと変わりはなかった。
 やはり、筑波さんはホモではないんじゃないだろうか。綺麗な彼女達と端整な顔立ちの筑波さんはお似合いだ。保志も顔は良いし、確かに筑波さんとのツーショットも似合わないわけではないだろうが…、恋人と言うのはしっくりこない。二人が並べば、タイプの違う美青年であるのだろうが、何だかとても危険だ。恋人というよりも、言ってはならないのだろうが、犯罪者同士に近い気がする。
 もっとも、一方は実際に犯罪者なのだが――
「――聞こえているのか、岡山」
「うへっ!?」
 ボケッとしていた俺は、呼びかけに我に返り変な声を出してしまった。それを耳にし、筑波さんは溜息を落としながらも小さく笑う。
「何を想像し自分の世界に入っているんだ。本当に、事故を起こさないでくれよ」
「あ、は、はい」
 そう言い、運転に集中しようとし、俺はまたおかしな声を上げてしまった。
「あれっ?」
 この道は――
「曲がり忘れている。ユーターンするか、次の信号を左」
「あ。す、済みません!」
 筑波さんのマンションへの道を入り忘れていた事に気付き、俺は少し半泣きになりながら謝った。情けない。というか、本当に事故を起こさなくて良かった。
 どうにかこうにかマンションに着くと、「ここで良い、ご苦労さん」と筑波さんは自ら車を降りた。そして、踏み出しかけた足を留め、運転席の窓を叩く。
「もうこの時間ならファミレスぐらいしか開いていないんだろうが」
 札入れを取り出し、引き出した一万円を俺に差し出した。
「待たせていたからな、お前、晩飯食いはぐれたんだろう。旨いものでも食って帰れ。明日は8時前に迎えを頼む」
 それじゃ、運転気をつけろよ、と筑波さんは建物の中に入っていった。ありがとうございますとの俺の言葉に片手を上げただけの彼は、とてもかっこよく、こんな時だが改めてその魅力にやられてしまう。
 だが、それとこれとは話が別で。
 保志と恋人同士だという筑波さんの発言に、俺は悶々とする事になった。
 翌朝顔をあわせた時にもう一度訊いてみようかと思っていたのたが、迎えに行った時の筑波さんは昨夜以上に疲れた様子で、珍しく組事務所に着くまでの間後部座席でうとうととしていた。そして、忙しく仕事をこなしていた時、事件は起こった。三下の若い組員が刺されたのだ。犯人は素人で、良くあるいざこざだったようで直ぐに片付いたが、丁度その場にいた筑波さんが刺された組員に手を貸したのでスーツが血塗れ。昼からの会合にはそれでは出られないと、自宅のマンションへと戻る事になった。
「悪いが、この店に行って適当に犬を借りてきてくれ」
 マンションに着く手前で、話していた電話を切った筑波さんが小さな紙切れを俺に差し出す。そこには簡単な地図が書かれており、近所のペットショップである事がわかった。
 何だろうと思いつつも、さっさと車を降りた筑波さんに聞くことは出来ず、俺は店に向かった。話はしていると言った言葉通り、俺が行くと無精髭の店長に貸し出しをしている犬のケージへと連れて行かれた。「何でもいいらしいから、お前の好きなものを選べ」と言う店長に、俺はよくテレビで見かけた仔犬を受け取った。じっとしていれば片手に乗るのではないかと思うほどの小さな犬を手にマンションへと急ぐ。
 声をかけ上がった部屋で、俺は抱きかかえた犬を落としそうになるくらいの衝撃を受けた。声のする寝室へ向かうと、突然目が醒める程の美形が廊下に現れたのだ。初めて見るその顔は、一体筑波さんとどういう関係であるのか憶測する事も出来ないものだった。わかるのは、日本人ではないと言うことだけだ。
 けれども。その人物は俺の予想を裏切り、流暢過ぎる日本語で声をかけてきた。
「その犬、君が選んだのか?」
「え、あ、ああ…」
 犬を抱いている事などすっかり忘れていた俺は、そう言われ、自分の手元に視線を落とす。だが、直ぐに側に立つ男に目が向く。綺麗だと言う言葉は似合わない。だが、他に言葉を知らない。何ていうのだろうか、こう言う人間は何て表現するのだろうか。
 言葉が出てこない。
 多分、これが一番正しい反応なのだろう。
「あんた、誰だ…?」
「決まっているだろう、筑波の愛人二号」
「あ、愛人…? 二号?」
「ちなみに、三号は熱を出して寝てる。それよりも、そいつをよこせ」
 言うより早く、男は俺の手の中から仔犬を奪った。
「そ、それは…!」
「これは筑波から俺への手切れ金だ。だから、俺のもの」
 何を言っているんだと、漸く俺が顔を顰めた時、何を考えているのか男はそんな俺の頬にキスをした。
「可愛い奴を選んできてくれてサンキュ。気に入った」
 そう言い残すと、男はさっさとリビングへと消える。何が起こったのか理解をしたのは、その姿が見えなくなってからのことだ。うわっ、と今更ながらに俺は飛び跳ね、何故か前後左右を確認した。誰にも見られていない事を悟り、ほっと息を吐く。
 そんな試練を乗り越えて辿り着いた寝室に、筑波さんと保志がいた。先程の男の事を友人だと話した筑波さんは待っていてくれと着替えを手に浴室へと向かう。残された俺は、自分の状況に焦りを覚えた。
 友人だという男の美貌にうろたえ、余裕などすっかりなくしていたのだろう。男が言った言葉を真剣に考え、愛人と言うのは何だよとその妄想を否定しかけた時に見たのがいけなかった。
 ベッドの上で少し苦しげに座る保志を壮絶に色っぽいと感じてしまったのだ。俺は一人パニック状態に陥る。昨夜筑波さんは保志とは恋人同士だといった。あの男は筑波さんの愛人だと、そして保志もまたそうなのだと言う意味の事を言った。
 やはりこれは、男の三角関係……? ……何て事があって堪るか!!
 冗談じゃないと力一杯心の中で叫んだ俺は、それ以上に冗談ではない現実を知る。
 俺を見る保志は、ただ熱に浮かされているだけだと頭ではわかっているのに…。潤んだ瞳が、微かに開いた唇が、発せられるその熱が。何もかもが俺を刺激してきた。本当に、冗談じゃない。
 何やら体が変化しそうな興奮を覚え、俺は慌ててその場を立ち去った。よく考えなくとも、普段筑波さんが使っている寝室に、今は保志が眠っている。乱れたシーツの皺に目がいきあらぬ事を考えてしまうのは、男の性か、それとも俺が狂っているのか。
 昨夜以上に悶えながらどうにかやり過ごし、筑波さんと供に部屋を出た時にはもう、俺は疲れ果てていた。
 だが、エレベーターの中でひとつだけ悟った事もある。
 部屋を後にする直前に見た、筑波さんの遣り切れない横顔に、俺の胸は痛んだ。まさかと否定したがっていた事を、あっさりと俺はそのとき認めた。筑波さんは間違いなくあの青年に惚れているのだと。それが、簡単な恋ではないのだと俺にはわかった。
 いつも、近くで見ているのだ。筑波さんがどんな人間であるのか、よく知っている。物事を簡単に処理する人ではない。特に自分自身の感情はそうであっただろう、何度も何度もその恋を否定しようとしたはずだ。本気の恋愛はこの世界ではリスクが大きい事を、誰よりも知っているのは筑波さん本人だろう。しかも、同性という禁忌をあっさり受け入れるとは思えない。
 廊下で保志と対峙する筑波さんの顔は、感情を押し殺してのもので本当はとても苦しいのだと俺にはわかるのだった。もう、これは冗談には出来ない。みっともない、止めてくれなどとも言えない。
 誰が反対しようと、俺は筑波さんを支持する。彼がしたいように出来るのなら、どんな手助けでもしようと、俺にそれが出来ればいいと思う。たとえ、福島さんや他の身内が何を言おうと、だ。
 俺は、筑波直純がいるからこそ、この世界にいるのだ。そうでなければ、とっくに見限っていたのだ。仕える者は、この男でなければ意味がない。
「俺は、応援します」
 ハンドルを握った俺は、ミラー越しに筑波さんと目を合わせ、真剣に言う。
「俺に何が出来るかはわからないけど。保志とのこと、応援します」
 真面目な告白を、けれども筑波さんは軽く笑い流した。
「昨夜の事は、冗談だ。本気に取っていたのか」
「でも、あなたは。…あいつが好きなんでしょう」
「何故そう思う」
「見ていたら、わかります」
 軽く頬を膨らませ、俺は呟いた。この人は、誰であっても誠意を持って接する。相手が余程の事をしない限り、頭ごなしに怒る事はあまりない。だが、裏を返せばそれは、他人行儀であるのだと、俺は時々感じる。まさに、今のように。
 信じていないだとか、信じられないだとか言うのではなく。ただ、筑波直純という男はある一線できっちりと線を引く。それは、当然の事のようなものであって、俺なんかは口を挟めはしない。
 だが、それでも。
「俺には、隠す必要はないです。俺はあなたを売ったりしない。それを信じて貰える様な特別な事は今の俺には出来ないけれど…。俺はあなたを裏切りはしない」
 筑波さんの為なら、命を捨てる覚悟はある。以前何らかの時に俺はそんな言葉を口にした事があった。本気だった。今でもその想いはある。だが、筑波さんは「口にするのなら逆の言葉にしてくれ。その方が嬉しい」と真剣な表情で言った。
 死ぬのではなく、何があっても彼のために生き続ける。
 噛み締めたその言葉は、とても難しいものだった。そして、死んでもなお思い続けてくれる奴がいるというのは最高の事だろうと目を細める筑波さんを、少しずるいと思った。確かに、そうだろう。だが、その言葉の中に、彼の自分の生い立ちに対する切ない思いが込められているのに気付けば、二度とどちらの言葉も口には出来なくなってしまう。悩ませるために自分はそれを告げたいわけではないのだから。
 口にせずともお前の気持ちはわかっていると、筑波さんは俺を認めてくれる。だが、それでも自分自身ではこの強い感情を処理しきれない。信じていないわけではないが、不安になる。俺がまだまだ若いからだろうか、口にしなければそれが腐ってしまうのではないかと怖くなる。
 だが、生きて欲しいなどという言葉を彼に再び言わせたくはなく、俺は波立つ心をその都度鎮めてやってきた。そうして、そんな事が自分に出来るのだと気付き、それを会得し他の場面でも色々と役立っている事を悟ったのは、一体いつの頃だろうか。これが大人になるということなのか、それとも筑波さんに一歩近付いた事なのだろうか。
 しかし、まだやはり俺は完璧ではなく、時に弱音を吐いてしまう。自分を甘やかせ、子供にしてしまう。感情を、そのまま溢れ出させてしまう。
「保志の事だけじゃない。俺は今はまだあなたの力にはなれていないが、絶対にそれを身に付けます。いつになるかわからないが、あなたが望むものを手に入れる手助けが出来るよう努力します」
「そう気張らなくてもいいぞ、岡山」
「俺は、本気です」
 この空気を誤魔化そうとした筑波さんに、俺はきっぱりと言う。筑波さんはそんな俺をじっと見据え、溜息を吐きながら視線を外して言った。
「悪いがな、岡山。俺はそこまで言ってもらえるような人間じゃない」
「関係ないです。俺がしたいだけです。あなたのためじゃなく、俺のためです」
「――一緒だな」
「え?」
「福島と同じ事を言う」
「福島さんと…?」
「ああ。あいつも昔そう言った。今と違って、まだまだガキでしかない俺にな」
 そう言い、その時の事を思い出したのだろうか、筑波さんは実に優しげに、何かを愛しむような笑みを浮かべた。

 俺の言葉に対する返事は返らずとも、その微笑みだけで満足だと思える温もりがそこにはあった。


END
2003/09/10