□ 夢を見た日

 カチャカチャと暖房の効いた温かい部屋に響くその音は、少し味気ない。
 いつもなら気にならないそれが、今日はやけに耳につく。
 パソコンに向かう自身が生み出すタイプ音を、蒼江は朝からずっと聞き続けていた。いつもは煩いといえる程賑やかな部屋。だが、今日は自分以外には誰の姿もない。
 12月24日。
 明日から冬期休暇だというこの日に大学に来る者は少なく、ましてクリスマスというイベントを迎え忙しいのだろうから、当然と言えば当然のこと。
 扉の内側にかかった小さなホワイトボードには、一名の在室と、その他の者は学外に居る事が記されていた。
 蒼江は見つ続けていたモニタから視線を外し、側に置いていた目薬を差し、再び手元を動かし始めた。
 だが、しかし。
 突然の来訪者に、すぐに手を止めることとなる。
「おはようございます〜」
 もう夕方だというのにそんな挨拶はまるで業界のようであると昔は思ったのだが、今ではすっかりと慣れてしまいおかしいとは思わない。
「…あ、おはよう」
 ノックもせずに部屋に入ってきたのは、鼻を少し赤く染めた一つ下の後輩だった。
「あれ? 蒼江さん、一人?」
 コートを着こみ、マフラーに帽子に手袋にと完全防備の松岡が、首ではなく体全体を少し斜めにして疑問を現す。その姿はなんだか微笑ましく、けれども単純に笑う事は出来なかった。
 突然訪れた事態に、蒼江は少し焦りを覚えた。
「…うん、そう」
 ぎこちなくはにかみ、視線をパソコンに戻す。だが、次に打ち込むべき言葉が出てこない。
 …まいったな…。
 嫌だというわけではなく、逆に嬉しすぎて地に足がついていない、そんな感じなのだ。
「なんだ、そっか。
 じゃあ、これは、蒼江さんにあげよう」
 そう言い、松岡は近くの棚から大きめのビーカーを手に取り、蒼江の側にやって来てそれを置いた。そして、ビーカーの中に今まで手の中に隠し持っていたものを放り込む。
「…あ。雪、降っているんだ?」
 ビーカーの中に入れられたのは、丸い雪玉だった。ちょうどビーカーの幅より少し小さめの大きさのものと、さらに小さいものとなので、少々不恰好ではあるが雪だるまがその中で出来上がる。
「降っていますよ、さっきから。俺なんてもうひと遊びしてきたよ」
 あははと松岡は笑い、濡れた手袋を取り、赤くなった手を蒼江の頬に触れさせた。
「…ひゃっ!」
「う〜ん、もう感覚がなくて、温かいのかどうなのかわかんないな」
「……僕は、冷たいよ」
 首を竦めながらも、蒼江は松岡の手をよけることは出来なかった。心臓が早打ち、それどころではなかった。この音が聞こえるのではないか、そのことに焦り、動くことを忘れる。
「この部屋、暑すぎですよ。かえって気持ちよくないですか? なんてね、失礼」
 でも、冗談じゃなく、空気くらい入れ替えましょうよ。
 松岡は笑いながらそう言うと、窓辺に近づき降りていたブラインドを巻き上げ、僅かに窓を開けた。そこから冷たい空気がすっと部屋に入り込む。
 作業に没頭していて誰も来ないのをいいことにストーブを点け部屋を閉切っていたので、外気は寒さを覚えるものながらも、松岡の言うように確かに気持ちのいいものだった。
「寒いですか?」
「いや、大丈夫。
 ホント、雪、降っていたんだ」
 窓の中を舞う雪を見ながら蒼江は呟いた。
 予期せぬ松岡の行動に高鳴った胸も、何とか落ち着いてくる。
「マジで知らなかったんですか」
「うん…あっ。これ、冷凍庫に入れないと溶けちゃうよな」
 もうすでに溶け始めた雪だるまを目にし、慌てて立ち上がりかけた蒼江を松岡は「溶けてもいいですよ」と制した。
「っていうか、溶けるのもまた一興。残しておく事もないですよ」
「そんなもの?」
「そんなものです。
 それより、いつからここに居たんです?」
「朝からだけど」
「昼飯は?」
「食べたよ、ほら」
 テーブルの上に置いたままの、栄養補給食品の空箱を手に取り軽く振って見せる。
「よくそれで持ちますね」
「今日は動いていないからね」
 俺なら例え寝ていてもそんなんじゃあ足りないですよ、と松岡は笑った。
 よく笑う男だと、初めて見た時から思っていた。そして、いつの間にかその笑顔が何よりも大切なものになった。
 気付いた時にはもう、後戻り出来ないくらいに蒼江は松岡に恋心を抱いていた。
 決して自分以外には言えない、外に出してはならない恋。
「今日はみんな休みですか?」
 愛しい男の微笑みに見惚れていた事に気付き、松岡が視線を向けるホワイトボードに蒼江は慌てて顔を向けた。頬が染まるのが自分でもわかった。
「あ、うん。今日は誰も来ていない。多分、もう講義もないんだろう」
「一応今日までありますよ、学部は」
「でも、ほとんど休講だろう?」
「そうですよね、普通」
「あ、あったの?」
 クスリと笑いながら蒼江は表面上は平常を繕い、マフラーを外しコートを脱ぐ松岡に視線を向ける。
「ええ、ゼミがね」
「っで、どう? 卒論、目途はたった?」
「間に合うのかと怒られましたよ〜。間に合わせなきゃ駄目なのは一番俺がわかっているんだから、そんなことで怒られてもね、って感じです。
 おっ!?」
 溜息交じりに肩を竦めながらそう愚痴った松岡が、ふと凭れていた窓から外を見る。
「ご隠居じゃん、どうした?」
 ちょっと空けますね、と蒼江に断り、松岡は窓を全開にして外に体を乗り出した。
 上体を起こした彼の腕の中には、大きなトラ猫が納まっていた。
「ネコ?」
「知りませんか? こいつ、俺が入学した頃は野良猫達のボスだったんですよ。でも、最近引退しちゃってね」
「だから、ご隠居?」
「そう。年いっちゃったから仕方ないんだけど、ひとりで居ることが多くて、なんかほっとけないんですよね。愛想ない奴なんだけど、時々甘えてくれるのが妙に嬉しかったり」
 松岡は言葉どおり本当に嬉しそうに腕の中の猫を撫でた。
「なんか、可愛いね」
「でしょう? 抱いてみます?」
 蒼江としては松岡の姿を見てそういったのだが、本人は全く気付かなかったらしい。
 窓を閉め、松岡は蒼江の膝に猫降ろすと、側にあった椅子に自分も腰を降ろした。
「重いね」
「皆からエサを貰っているからね。大学のノラ達はブクブクなんですよ」
「それ、野良って言わないんじゃないか?」
「あはは、そうかも」
 松岡は笑いながら鞄からスケッチブックを引き出し広げた。
「パソコンするのに邪魔ですか、そいつ」
「いや、大丈夫」
「なら、ちょっと乗せておいて下さい。噛んだりしませんから。どうぞ、それ続けて」
「うん。何? 猫描くの?」
「ええ、ちょっとね」
 松岡の言葉に頷き、蒼江は再びモニタに集中する。だが、またしてもそれは長く続かなかった。見られている事に小さな興奮を覚えていたが、途中から、何だか居心地が悪いというか、とてつもなく恥しくなったのだ。
 サラサラと心地良い音を立てながらエンピツを滑らす松岡に、蒼江は問い掛ける。
「……もしかして、僕も描いてる?」
「もちろん」
「それ、どうするの?」
「特には、何も。何で? 別に悪用なんてしませんよ。何なら、貰ってくれます? クリスマスプレゼントってね」
「えっ!? いいの?」
「って、え? ホントにこんなの欲しいんですか?」
 落書きですよ、ほら。
 そう言ってスケッチブックをくるりとひっくり返す。だが、言葉とは違い、そこには描きかけながらも落書きなどとは言えない、一つの空間がきちんと出来上がっていた。
 描かれた自身の姿に、松岡には自分がこんな風に映っているのだろうかと蒼江は恥しさを覚える。紙の中にはパソコンに向かっているのではなく、膝に抱く猫に微笑む自分の姿があった。
「…う〜ん、どうしようか」
 あまりにも恥しく、蒼江は思わずそう呟く。この絵を貰っても自分はどうする事も出来そうになく勿体無い気がする反面、誰かの、特に松岡の手の中にこんな自分がスケッチとはいえ存在する事実は、知ってしまうとなんとも居心地が悪いというもの。
「でしょう、落書きですから」
「いや、そうじゃなくて…、…ま、いいや。頂戴。
 持ち出し厳禁、この部屋を出る時は置いていくこと」
 ものはなんであれ、折角のクリスマスプレゼントが貰えるというのだ、恥ずかしがっていても仕方がないだろう。そう思い、蒼江は赤らみそうになる顔を隠すために少し硬い表情を作り、そんな言葉を繋いだ。
「何ですか、それ?」
 蒼江の言葉に松岡が喉を鳴らす。
「ま、いいや。こんなのでいいのなら、いくらでも描きますよ。
 それより、今夜予定はありますか?」
「えっ?」
「飯、食いに行きませんか、良かったら。
 もちろん、約束があるのなら無理にとは言いませんよ。脅しじゃないです」
「君こそ、ないの? イブだよ」
「…あったら誘わないですよ。蒼江さんは? 駄目ですか?」
「いいよ。僕も予定はないし。
 でも、男二人でいると浮くよ、今夜は」
「そんなことないですよ。世の中、カップルばかりじゃないですって」
 あははと笑う松岡に、けれども蒼江は「そうかな?」と首を傾げる。
「そうですよ、気にし過ぎです」
 そう言い、松岡は再び紙にエンピツを走らせ始めた。
 突然落ちてきた出来事に、夢ではないのかと思いながら、蒼江もまた画面に視線を向ける。
 けれど、その体温を感じそうなほど側にある男の姿に、夢ではないのだと実感する。
 何てことはない。よくこの部屋にたまっている者達と食事をするのはいつものことなのだ。そう、今日もそれと何ら変わらない。
 けれども、今日はクリスマス・イブ。一足早くサンタクロースが自分の元に最高の贈り物をしてくれたのだ、とそんな風に思わずにはいられない。
 そんな子供のような思いつきに、蒼江は微かに喉を鳴らした。
 そして、笑う意味も知らずに、男もまた、自分と同じように喉を鳴らす。
 この男を愛している。何よりも愛しいと思う。
 その全てを。
 けれどもそれを口にする事は出来ない。だが、悲しくて、辛いばかりではない。自分をとても幸せな気分にしてくれる。愛しているのだ本当に。
 だから、今のままで充分だと蒼江は思う。
 それは、少し自分を偽っている面も確かにあるが、けれども、今が幸せであるのは確かなことなのだ。
 期限はもう目の前まで迫っている。松岡はこの春卒業する。
 こうして笑い合う事ももう出来なくなる。
 だからこそ…。
 だからこそ、その時まで。今のこの穏やかな関係が続くようにと願う。
 自身の想いが伝わる事よりも、ただの先輩後輩の関係でいい。一緒に居たい。
 強くそう願う蒼江の膝の上で、まるでそれに答えるかのように猫が泣き声を上げる。
 ビーカーの中の雪はもう、完全に溶けていた。


END
2002.12.25.