◆ 3 ◆


 僅かな光を受け、水面がキラキラと反射する。
 高級ホテルの最上階にあるプールなど、俺のような者には縁のない場所だと言うものだろうが、そうでもない。時々だがここに来る。それは客とだったり、一人だったりするが、来るのはいつも夜なので、光の絞られたこの薄暗い景色は見慣れたものだ。逆に、光の中では一度も目にした事がない。
 今も、電気は周りを確認できる程度の最低限でしか点けられていない。それが不満なのではない、これは俺の要望なのだから。ただ、詳しく頼みもせずに、当たり前のように俺だからというだけでこうセッティングされる、この好みを把握されている、そんな事実が少し悔しい。
 用意されている水着とタオルを見止めて溜息を吐きながらも、結局は手を伸ばす俺も俺なのかもしれないが…。
 こう扱われるのは慣れていないというのではなく、気分が悪い。ここのオーナーの知り合いであると言うだけでそれの力を利用している俺が言うのもなんだが、まともな知り合いではないのだから、どうしても気が引けるというもの。なら使わなければいいのだと思うものだが、気に入ってしまったのだから、仕方がない。何だかんだ文句をいうが、現金な性格なのだ、俺は。それに、この空気は少々嫌な気分になろうと味わいたくなるものなのだ。
 使いたければ使えばいい。大したことではないという風に関心も何も示さずにそう言った男を思い浮かべる。いつでも俺を餓鬼のようにあしらうだけで本心など見せない憎たらしい男。なのに、あっさりと俺に物を与えたりもする。
 何を考えているのかわからない男だ。先程聞いた電話越しの声が蘇る。
 ふと、そんな事を考えながら着替えようとしていた背中に視線を感じた。
「…ストリップじゃないんだ、見るなよ」
 長袖のTシャツを脱ぎながら俺はからかいまじりに言う。
「…あっ、すまない」
 予想通り直ぐに男は俺から視線を逸らす。こう言えば真面目とういか人がいいと言うようなこの男なら再びこちらを見ることはないだろうと思ったからで、怒って言ったわけではない。仕事も関係あるが、普通男は多少裸を見られても羞恥など起こらないというものだ。なのに、気まずげに横を向く男の姿がおかしくてたまらず、ついついからかいたくなる。
「俺みたいな奴に羞恥心なんてないと思っているんだろう?」
「…そんなことは…」
「内心、どうせ見せる商売しているんじゃないか、と思ってんだろう。今更隠すのはおかしいって」
「…済まない、そんなつもりじゃ…」
 そうだろう、そんな思いなんてどこにもないだろう。ただ男が見ている前で俺が勝手に脱ぎだしたそれだけだ。
 そうだというのに、素直にいちいち俺の言葉に反応を示すとは。面白すぎる。
「あ、いや、あんたには見る権利があるか。俺を買ったのなら」
「……」
「そうか。なら、見られてもいいか、別に。こっち向けば?」
 笑いを含んでそう言うと、男は更に顔をそむけ背を向けた。
「なんだよ、見たくないのかよ」
 聞こえるように溜息をつき、水着に着替えた俺はプールに飛び込んだ。
 さすがに男はからかわれていると気付いただろうか…。そう思いながら振り向き見た男の顔からはそれについては読めなかった。ただの顰め面だ。
 肩を竦め再び水の中に潜り込む。
 泳ぐというか、水の中にいるのが俺は好きだ。この浮力に押される感じがいい。頑張って沈んでも息は続かず、結局浮かび上がらねばならない空しさ、そんな馬鹿さ加減が面白い。人間水の中では生きられないのだと実感し、同時に自分は生きているのだと確認できる。
 昔は別の方法でそれを感じ取っていた。痛みという沢山の傷をつけることで。だが、あの頃より大人になった俺は、日々の営みの中の些細な事で自分の生を実感できるようになった。
 それは成長しているということなのだろうか。
 どんな人間でも、生きていれば時が過ぎるのだから成長するというものだ。心も体も。死んだ振りをしていても、髪も爪も伸びれば、腹だって減る。苦しみも悩みも、時がたてば薄れていく事もあれば、逆に強くなる事もある。しかし、同じままではいられない。
 人は成長していく。昔は気付かなかった事を今は当たり前だと受け入れている。

 ひと泳ぎし、プールサイドに立ったままの男のもとにゆっくりと近付く。自分も泳ごうとか腰を降ろそうとかいう事は出来ない性質らしい。状況に抵抗するように、微動だにしない。ただ、俺の姿を追う視線だけが動く。
「っで、どうしたいわけ」
 男の頑なさに少し肩を竦めながら言う俺を、男が見下ろす。プールの壁に背を当て、男の足元から男を見上げる。さすがにこの距離で見るのは躊躇うのか、男は後ろに足を引いた。
 俺はクスリと笑い体を戻し、水を掻き回すように腕を水中で振る。纏わりつく水の重さが体力を奪い、直ぐに腕が痺れる。だがその疲労感が気持ちいい。
「俺の話を聞きたい、って言ったよな」
「…ああ」
「それで? 訊いて何かの役に立つの?
 少しでも弟さんの事を知りたいってか? …だが、さっきも言ったがそれは無理だな」
 両手で水をすくい上げ放り投げる。微かな光の中でも、それは輝きを放つ。
「…何故だ」
 男が一呼吸の間をおいて呟いた。
 ふと、怒らせてやろう、そんな気分になった。自分で選択しながらも未だ迷っているような不機嫌な男への苛立ちと、ちょっとした興味。…男がどんな風に怒るのか、見てみたくなった。
「そもそも俺の言葉をあんたが理解出来るとは思えない。だが、ま、それは置いておくとして。
 俺とあんたの弟は全然違だろう。だから、無理だ」
「違う?」
「そう。男に体を売って金を貰う。その点は同じなんだろうが、この世界に入ったわけも、こうして生活しているのも同じ理由であるはずがないだろう。体を売るのは人それぞれ。同じ人間じゃないんだから、わかるはずがない。
 あんただってそうだろう? 仕事仲間は皆、あんたと同じ理由でその仕事についたのか? 同じ志で働いているのか?」
「……」
「俺の答えなんてあんたには意味がないものだろう。俺の言葉を聞けるのなら、実の弟の言葉は何だったんだ、そうなるよな。あんたは、弟さんが出ていった時点で少しは色々考えたんじゃないのか。それで理解できなかったんだから、もうそれまでにしておけよ」
「…しかし、私は…」
 何か言いかけた男の言葉を遮り、俺は言葉を続ける。
「ただ、あんたは懺悔がしたいだけなんだろう。弟の事をわかった振りをし、心から済まないと思えれば許してもらえるだろう、とかって思っているんだろう。
 俺はそんな考えは嫌いだな。別に弟さんもあんたを責めてないし、あんたは何も悪くないんだから。もう、気にするなよ」
「……慰めてくれているのか…?」
 男の言葉に向けていた背を戻し、俺は視線を合わせにやりと笑う。
「まさか。慰めているわけないって、そんな必要ないだろう。それとも慰めて欲しいのか?
 俺はその態度がウザイって言っているんだよ。被害者であるかのように悲劇ぶったその態度が。
 あんたの中にはもう変えられない結果が出ているんだ。弟を、いや、体を売って生きている人間を理解出来ない、醜い奴だと思っているんだろう。弟の事が知りたいだなんて単なる口実だろう。ただ見ることになった自分のそんな部分が嫌で、納得できる答えを探しているだけだろう」
「……」
「ああ、あんたの思う通りだ。体を売るなんて最低だ、しかも同性相手に。反吐が出るね。だが弟さんはそんな汚い奴らとは別だったんじゃないか。あんたの弟だ、変態な分けがない。ほら、今よく言われている病気だ。性同一性障害、病気だよ。死んだのは可哀相だが、なあ、もう受け入れてやれよ。きっと彼も後悔しているよ。幼い頃は仲が良かった兄弟だろう?
 って、そんな風に言って欲しいんだろ、あんた。自分は悪くないといって欲しいんだろう? そして、忘れたいんだろう。弟が何をしていたか。仲が良かった頃の記憶だけもっていたいんだろう。都合よく。
 後悔しても償えない自分が許せない。だから忘れよう。忘れるためにはどうにかして自分で納得しなければ。ああ、ちょうどいいところにおあつらえ向きの餓鬼がいた。こいつなら弟の苦しみを教えてくれるかもしれない。この最低な奴と弟は違うんだと証明してくれる。
 そんな事考えていたんだろう?」
「……。…君に何がわかる…」
「わからないし、わかりたくもないね。
 あんたの弟は男が好きだった、それで家を飛び出した。男を求めて街を彷徨った。女の格好をして暮らしていた。そして、不慮の事故にあって死んでしまった」
 俺はそこで言葉を切り、そしてはっきりと静かに言った。「ただそれだけのことだろう」と。
 よくもまあ、これほどまで嘲笑う事が出来るなと自分自身で感心する。
 すらすらと言葉が出る俺とは違い、男は歯を食いしばり怒りを耐えていたが、さすがに最後の一言は効いたのだろう。
「…黙れっ!!」
 悲鳴のような怒声が響き渡った。だが、俺は小さな溜息を吐いた後、また言葉を続ける。此処で止めては意味がない。ただの苛めと同じ…。…そこまで俺は自分を捨ててはいない。
「あんたには馴染みが薄くとも、同性しか愛せないという奴を俺は何人も知っている。それに偏見は持っていないつもりだ。だが、あんたと同じく、俺も心底理解できているわけじゃない。ただそうなのかと受け入れているだけだ。特に否定する要素がないだけ。
 俺は女とも男とも寝る。どちらの方がいいかなんて考えたことはない。どちらも仕事だからな。セックスするのに、男か女かなんて俺には大した違いじゃない」
「…そんなのが仕事か…」
「そうだ。嫌な相手もいるし、散々な目に合うこともある。だが、これでしか俺は生きていけないからな」
「…最低じゃないか、人間として」
「ほら、あんたはそう思う。だが、俺はそうは思わない。これでしか金を稼げないんだ、なら続けるのが当たり前だろう。サラリーマンとも道路工事のおっさんともあんたとも、何ら変わらない。生きるために、金を得るために働いている。それだけだ」
「……」
 口には出さないが、男の目が一緒にするなと訴えていた。確かに、理解出来ない奴にすれば俺の言い分は侮辱に値するのだろう。軽く喉を鳴らすと、更に眉間に皺を寄せる。
「ま、俺の場合はそうだが、セックスに溺れている奴ももちろんいる。何もわからず流されるままに身を委ねている奴もいる。ホント人それぞれだよ。
 だから、俺はあんたの弟が何を思い女装して体を売っていたのかはわからない。女になりたかったのかもしれないし、男をひっかけるためにそうしていただけなのかもしれない。
 それは、本人にしかわからない。あんたが考えても無駄なことだ」
 水に濡れた手を男に向かって振る。顔にかかった飛沫を拭う事はせずに、体の横で両手を握り締めた。
「……君にそんな風に言われるいわれはない…」
「聞いたのはそっちだろう」
 いや、訊かれたのは俺の事だ。男の弟を判断しろだなんて言われていないし、男の感情に入り込めなどとも頼まれていない。俺が勝手に踏み込んだだけだ。
 なのに、居直った自分のそんな言葉など男は聞いていないようで、かみ締めた唇の隙間から絞るように言葉を吐き出した。
「…あいつは、君みたいな無神経な奴じゃない…。脳天気に体を売っていたわけじゃない…!」
「……」
「…傷ついていたんだ、苦しんでいたんだ…。それなのに俺は…、……私は何も出来なかった。…死ぬなんて考えもしなかった。……自殺するなんて…」
「……自殺、だったのか…?」
「……いや…、警察では眩暈でもして落ちたのだろうと事故で処理された。だが……エイズだったんだ。あんな生活をしていたんだ、不思議じゃない。しかし――」
 男は言葉を飲み、両手を握り締めたまま目を閉じた。やりきれないのだ。自分を責める方法しかないのだ、今の男には。だから理不尽だとわかりながら、俺に当たろうとする。
 しかし、根が真面目だからか不器用だからか、それともそんな事をしても変わらないと制御しているのか、それすら躊躇う。言いがかりに近い事を俺が言っているのだから、同じように怒りに任せて全てぶちまければいいのに…。
 その葛藤する気持ちは十分にわかるものだ。だが、俺にはどうすることも出来ない。
 それを言うなら、この男の弟の気持ちも少しはわかるのだろう。男には全くの別物だと言ったが、それでも同じようにこの世界で生きてきたのだ、共通する面はある。
 男の弟がどんな家族の下で育ち、何がきっかけでこの世界に来たのかなんてわからない。病気の事も本人にしか辛さはわからない。だが、それでもこの世界で暮らすという事は用意ではないということを俺は身をもって知っている。この世界で生きるのは、例え何もかもを諦めていたとしても、とても苦しい事だと知っている。
 この世界で生きている者の多くは、死を身近に感じる瞬間をもっている。リタイアするのではなく、ただ生の延長線上に、この生活の中にふとそれが現れるのだ。どんな事をしてでも生きていくと思う俺ですら、何度も捕らわれそうになる、静かな闇。一瞬できる空白の時。
 それは俺達のような者ばかりではなく、生きていたら誰もが感じるその時があるだろう。死というものは、いつでもどこかに潜んでいるのだから。特にこの世界では、それが日常。昨日会った奴が今日はもういないなど、よくあることだ。
 そういう苦しみを少しは共感できているのだから、この男にそれを伝えるべきなのか。
 どう考えても俺はそうは思わない。俺自身口にする事を躊躇うし、なにより、他人が言うべき事ではない言葉だ。自分で気付く以外には、これは悪影響しか及ぼさない。そして、この男には必要のない言葉。考えるべきではないし、耳にするべきでもない。そう、何だかんだと言っても、間違いなくこの世界は汚れている、腐っているだ。それを態々教える必要はない。
「…あんたの中には、もう、答えは出ているんだろう。俺みたいな奴を捕まえて話を聞いても何も変わらないんだとわかっているんだろう…?」
 先程とは違い、静かに男に話し掛ける。
「あんたの言う通り、俺は最低な人間だよ。自分でもわかっている。だけど、俺は生きていたいんだ。あんた達まともな奴らにとってはゴミみたいな邪魔な存在なんだろうとな。
 最低な奴でも、生きる権利ぐらいはあるだろう?」
 俺が小さく笑うと、男は視線を外した。
 暫く考え込むように俯き、そして呟く。
「…済まない」
「謝られるようなことはない」
「いや…。私の方こそ最低だ…」
「何を考えてそんな答えが出てくるんだか」
 俺は笑いを漏らす。無茶苦茶なことを言われても、自分にも確かに非があったのだと認め謝る男の心はわかるが、残念ながら、俺は素直にそれを受け入れられはしない。怒っているのではなく、ただ、自分を弱くさせないために。傷を舐めあう関係はいらない。人を傷つけても強くなりたいと俺は思っている。
「あんたみたいな反応が普通だよ。俺はその普通の中ではいられないんだ。だから、ここで生きている。汚い場所でも、ここが俺の居場所なんだ。
 それと同じで、あんたの居場所はここじゃない。だから、俺に誤る必要は何もない。同じモノサシは使えないんだからな、謝罪は要らない」
 ここは未来が見えない場所だ。いつまで居られるのかなんて全く予想もつかない。だが、今はここしかいる場所はないし、それに、俺はそうここを嫌っているわけでもない。俺には似合いの場所だ。
 再びプールサイドを離れ中央に行き、水面に仰向けに浮かぶ。
 ガラス張りの天井には満天の星空が広がる。
 夜でも明るい街では、空を見上げても星は見えない。だが、ここのように地上からの光が届かなければ星を見ることが出来るのだ。
「…空が落ちてきそうだ」
 バランスを保ちながらゆっくりと両手を伸ばす。
 俺の手の先に星空が落ちてきそうな錯覚に見舞われる。大きな空の圧迫感に耐えられない。だが、その感覚が気持ちいい。
 何も反応を返さない男を見ると、俺と同じように空を見ていた。
「…普通は、そう言わないだろう」
「なに?」
「落ちてきそうではなく、綺麗な星空を見たら、手が届きそうだとか、飛べそうだとか…自分が天に近付いた感じがするものだろう」
「…そうか? 星が降ってきそうだとか言うだろう?」
「…空が落ちてくる、はいい意味ではない」
「そうか、それは失礼。…だが、それでいいんだよ」
 綺麗だと思う。この光景が好きだ。光り輝く街よりも、微かだがそれでも輝く星の方が明るく感じる。だが、彼が言うようには思えない。自分には手が届かない場所であり、俺は飛べはしないのだから。
 落ちて来い。そう願っているのかもしれない。だから、そう思うのか…。いや、それよりも…。
「…多分、俺は怖いんだな」
 恐れ狂う恐怖ではなく、とても静かな恐怖というのだろうか。少し強い風に小波がたつような、小さな心の震え。
「どうしてだかわからないけど、怖いんだ。でも、だからこそ、こうして夜の空を見るのが好きなんだ」
「何故?」
「怖い物見たさ、ってものかな。…恐怖を感じる程度には、俺の心は死んでいないと言うことを、それを実感したいんだよ」


 プールから上がると、タオルが差し出される。だが、男が俺の体を見止め目を丸くし意識を逸らしたので、それは手からスルリと滑り落ちた。
「ありがとう」
 その落ちたタオルを拾い上げ、俺は肩にかける。
「…その傷…」
 俺の腕を見、眉を顰めながら男が呟いた。
「…こんなことも聞きたいのか?」
 そう問いながら、イスではなくプールサイドに腰掛け脚を水につける。
「……それは…」
「楽しいことではない事を訊くのは、もっと考えてからにした方がいいよ。好奇心が強いのもいいけどね。今のあんたには他人を気にする余裕もないだろう。
 …あ、いや。他人に気を逸らす方がいいのかな?」
「……」
「別に、ま、大したことじゃないから訊かれてもいいけどね。
 …これは自分で切った、リストカットってやつ。もうかなり前のものだけど」
「…何故?」
 その言葉に軽く笑う。
「リストカットをする理由なんてわからないものだろう。訊くなよ」
「……」
「…ま、一般に言われているのと変わらないよ、多分。
 自分の存在を知るために傷つけるんだ。痛みはそれを教えてくれるからな」
 俺は男の視線が注ぐ左腕にある無数の傷を撫でながら笑った。
 もう、この傷をつけてからかなりの時が経つが、傷跡は消えない。少し薄くなったものおあるが、それ以上に深い傷が多くある。多分、一生このままなのだろう。
 それを悲しいとは思わない。この傷跡が見えなければ、また同じ事を繰り返す時が来るかもしれないから、これは戒めとなっているというもの。実際この傷を見ることで苦しくなりもするが、救われる時もあるのだ。
 傷は右腕にもある。だが、左腕を切った後切る場所が足りなくて右に移るので、痛みで震える左手で切るからか血で手が滑るからか、右腕の傷は躊躇い傷のようになっているし、左腕ほど多くはない。それでも、異様であるのは変わらない。
「何が辛いのか、自分でもわからないくらい苦しいんだ。きっかけは無数のようんだろうが、これだというものはわからない。ただ苦しくなると、自分がこの世に居ることに耐えられなくなる。だが、だからと言って死ぬのも怖い。
 そんな中で自分を傷つけるんだ、何も見えない、見えるわけがない…」
 あの時の自分を思い出すのは、辛い。
 自分自身の姿がではなく、彼に迷惑をかけたということが…。
 何がそんな風にさせたのか。自身でも何となくわかってはいるが、今になってもやはりはっきりとしたものはわからない。俺は確かに許されはしない罪を持っている、だが、後悔はしていない。しかし、そう思うのは頭だけで、心はやはり悲鳴をあげていたのだろうか…。だからこんな事をしたのか…?
 未だに謎だ。わからない。
 そして、この傷同様、この髪もそうだ。もう落ち着いてもいい頃だというのに、心はそれを認めないのか、俺の髪は未だに白いまま。
 今は髪を染めることが珍しくはないので殆ど気付かれはしないが、この髪は地毛だ。真っ黒だった髪が精神的なものから白髪となった。これでも最近では所々に黒髪もありマシになったともいえるが…。正に定年を迎えたオヤジのような銀髪なのだから、笑えない。お洒落と取ってくれる世間に感謝というものだ。
 はっきり言ってまともじゃない、俺は。自覚している。
 一体何をこうまでして「生」にしがみ付いているのかと、客観的に見ると詰りたくなる。俺など生きている方が迷惑じゃないのかと。いや、生きている資格はないだろうと。
 それでも昔のようにその言葉を受けて死のうだなんて思わない。資格はなくとも、迷惑でも、俺は生き続けるのだと心が決めている。
 その執着はどこからくるのか、正直自身でも理解に苦しむ。意地になっているのか、それとも何かを望んでいるのか…。ただ、あの時、彼が言ったあの言葉がきっかけなのだという事はわかっている。だが、あれだけでは生き続けられはしなかっただろう。
 多分、その後関わった色んな者達や昔の思い出、そして、彼に迷惑をかけて暮らした日々、そんな今の俺を形成する事柄を思い出すたび、死よりも生を選んできたように思う。特に大したものではなく些細なものだったり苦しいものだったりでも、思い出せば生きる糧となった。
 多分、俺は俺を甘やかしているのだ。此処まで生きていた俺だから、まだ暫く生きていていいじゃないかと居直っているのだ。
 だが、人が生きていく上で一番必要なのは、誰でもない、自分自身が生きていいと思うことだと俺は思うから、これでいいんじゃないかと納得してもいる。他人に言わせれば、それは甘い考えでしかないのかもしれないが…。だが、人間は生きるものなのだから、そう難しく考えることでもないのだえろう、実際に。
「俺は他人から見たらどうかはわからないが、自分では今のこの場所は辛い時期を乗り越えて必死で手に入れたところだと思っている。いや、必死って言うほどでもないか…。だけど、確かに自分は生きているんだと実感できる場所なんだよ、俺にとっては」
 腕の傷を掌で包み込むようにゆっくりと撫でると、裂傷の痕が指に引っ掛かる。慣れた感触だというのに、今夜は何故か傷が疼きだしそうな程度に熱を持っている感じがする。
「……済まない」
 再び男がそう謝った。
 誤解とは言わないのだろうが、男の想像と実際彼が見た俺の姿にギャップがあったのだろう。それを態々謝罪する男を可愛いと思ってしまうのは、この場合仕方がないということだ。
「可愛いね、あんた」
「…なっ…!」
 おそらくそんな事を言われたのは初めてなのだろう、男が目を見開いた。
「な、何を言うんだ」
 照れたのか頬を軽く染め、誤魔化すように髪をかきあげる。
「優しいな。別に謝らなくてもいいのに。
 だが、素直じゃなくそれは馬鹿って言うんだよ」
「……」
「あんたは、ま、セックスしなくとも、今俺を買っているんだろう。それを忘れては駄目だ。客に全て従うわけじゃないが、メリットがある場合は大抵何でもする。そんな仕事をしている人間を信じたら、痛い目見るよ」
「…嘘だというのか?」
「さあ、どうだろう。
 俺の体には現に傷がある。一応理由を俺は言った。それを信じるか信じないかはあんたの問題だ」
「……」
 眉を寄せ見てきた男にクスリと俺は笑みを零し、「それが可愛いんだよ」とからかってやった。実際見た目は可愛げも何もない整いすぎた男なのだが。

2002/07/03

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