◆ 4 ◆
「ここは…、どうやって借りたんだ?」
「ああ。知り合いが都合をつけてくれてね。
…だが、高くついたよ、全く」
それを思い出し俺は大きな溜息を付いた。
あの男、狭間の僅かに口の端を上げてニヤリと笑う、何度見てもいい印象は持てない笑顔を思い出す。こんなホテルを所有し、他にも色々やっている金に困らない人間と言うのは厄介だ。何を企んでいるのかわからないようなあの男の場合は特に。普通の者なら金を中心に考えると言うのに、それに困っていないのだから別の何かを要求する。狭間の場合それは、俺が嫌がること、だ。
何が楽しいのか、狭間は俺で遊ぶ。いや、遊んでいると気付くようなものではなく、面白くもなさそうな顔で俺をからかい、心の中でほくそえんでいる、と言った感じなのだ。こっちとしては、たまったものではない。
「…いくらなんだ?」
男の尤もな問いに俺は苦笑をもらす。
「いや。金じゃない。俺から金を取るはずが無い。体だよ。変態男の相手だ。
俺が嫌っているのを知っていてだから、もうこれからは、こうして頼めなくなるな」
いや、あのオヤジの相手だと知っていても俺は頼むのだろうな、と弱い意思を自覚しつつも口ではそう言う。
「…嫌な相手と寝るのか」
「愚問だな」
「……。…それ以外に方法はないのか?」
「ないね」
「……」
俺の言葉に男は目を伏せる。
「…普通の仕事はしないのか…?」
「普通ね…。…そうだね、あんたが言うような仕事もしたことがあるよ。だが、長続きはしない」
「何故?」
「合わないんだ、全てが。周りは俺の存在そのものが嫌になるらしい。そりゃ、こんな街で長い間生きてきいたら雰囲気も変わるよな。だが、そんなものじゃないらしい。
何をしでかすかわからない、そんな危なすぎる感じなんだとさ。化物のように俺を怖がる」
「…私には、そうは思えないが…」
「同感。俺もそう何にでも噛み付くほど凶暴な奴じゃない。仕事はきちんとしている。だが、相手は俺が何かしないかといつもビクついている。そのうち耐えられなくなる。
最後には難癖つけて金を投げ、さっさと消えろ、ってな。俺が働こうと思っても、向こうは望まない。直ぐにクビになる」
要するに信頼関係が成り立たないのだ、俺では。
今の若者は…、とよく大人はぼやくし、実際馬鹿な奴らがうようよしている。だがそれでも、信頼は確かに薄いといっても、俺のような者よりはましというものなのだ。馬鹿で礼儀知らずでも「今の若者」として見る事が出来るのだ。一個人を相手にしているわけではなく、若いのだからこんなものだと納得している。人間としておかしい奴らでも。
だが、俺の場合はその中には入らない。理解出来ないのは一緒でも、納得など出来ない存在なのだ。そう、存在自体が目を背けたいものなのだろう。異端者への恐怖と嫌悪を俺に向ける。だから、誰も俺とは向き合わない。そして、俺はそれをどうにかしようとは思わない。
全て理解し納得できるわけではないが、俺は彼らが何故俺を嫌うのかわかる気がする。
大した理由もなく突然切れて殴りかかって来る者の方が理解できるのだ、殆どの大人達は。若者とはそう言うものだと思っている。そして、そんなものばかりではなく真面目な奴らもいるのだと安心したりしている中に、俺のような異色な者が現れたら…、…それは戸惑うものなのだろう。
逆にそう俺が納得してしまう。
そう、俺がおかしいのは事実だ。何をするのかわからない、そんな雰囲気があるのも。そして、俺自身、俺というものがわからない。
昔のようにそれが苦ではなく、そんなものだと諦めるように受け入れているが、時々自身で思う。その内、俺は壊れるんじゃないかと…。不安ではなく、漠然とその未来を感じる。
「そんな事の繰り返しじゃ、生きてはいけないだろう? だから、俺はこうしているんだよ、この仕事で生きている」
俺の言葉に、男は眉を寄せ小さな溜息を吐いた。
(…だから、言葉をそのまま信じるなと教えただろうに…)
男と同じように俺もまた軽い息を吐く。
嘘ではない。男に言ったのはまだマシな方で、実際にもっと人権などない酷い仕打ちを受けた事もある。だが、そんな事はいちいち構っていられず、俺もあっさりと引いたり、流れに身を委ねたりで、男が眉を顰めるような大事だとは思ってはいない。元々俺が悪いようなもので、本当にそうなるのは仕方がないというもの。
もしかすれば俺にもう少し協調性があればクビにならなくて済むのかもしれないし、ただ単に馬が会わないものばかりだったのかも知れない。
所詮世の中なんてこんなものだ。誰が悪いだの結局わからないものだ。どの原因を見、どの結果を見るかによって感じ方は大きく違うものだ。まして、自分のことではなく他人の事なら、それに信じるかいなかの情報が加わるもの。受け取るものなど曖昧なものでしかない。
(…なのに、この男は…)
どうしてそうすれていないのか。見た目は俺よりもかなり年上の男で、世間での地位も持っているし、見目もいい。それなりに苦労はしなくとも他人と関わり年相応の人生を歩んできているはずだ。なのに、こんな事で眉を寄せ考え込む。
口を噤んだ男のその姿は、この世の全ての理不尽を愁いているようだった…。
(…天然の上、純粋な人間がいてたまるかよ…)
そう思うが、演技には到底見えない。本当にこの社会か、はたまた俺の境遇か、そんなどうにもならないものに心を痛めているようである。
俺は続けてもう一度溜息を吐いた。
こういう人間を見ると、いかに自分がどれだけ汚れているのかを自覚しなければならなくなる。だが正直に言って、俺の事はともかくとして、こうした人間を見るのが嫌いではない、嬉しくなる。俺が触れば汚れるとか、そんな資格はないのだとか、そう言う事を思わないこともないが、単純に触れてみたくなる。
いや、この男の場合はからかいたくなるか。汚い自分を棚に上げ、綺麗なものを愛でたくなるのは誰だってそうだろう。飼えないとわかりつつ、捨て犬の頭を撫でたくなるのと同じだ。中途半端な優しさは残酷なのか、それともほんの一時でも温もりに触れる方が幸せなのか、そんな事はわからない。ただ、くりくりとした目で見られたら手を伸ばしたくなるというもの。
ただ、男は犬ではないし、整えられた髪をくしゃくしゃとなど俺には出来ないのだが…。
(…別に、あいつの人権なんてどうでもいいか…)
ふと、悪戯心と言うか、ちょっとした考えが浮かぶ。普段はプライバシーだからと、きっちり守っているわけではないが客の情報はあまり他言しない。だが、今は男をからかうにはちょうどいいものだなと、先程のオヤジの顔を思い出してしまった。思わず口角が上がる。
「なあ、さっきここまで連れてきてくれた男、どう見えた?」
脈略の無い俺の話に、男は眉を寄せた。
「…どうって…、ホテルの人だろう。普通の者だったが…」
「ま、そうだな、普通のオヤジだ。
若い男を苛めるのが好きで、変態プレイが大好きなMとSを両方兼ね備えた奴でも、それなりの地位にいて見た目がまともなら普通と言えるよな、俺のようなものと違って。
買った男の気が狂うのなんて気にせずにやりまくって、少し反抗的な奴には執拗に執着して痛めつけるのも、男の性というものか」
「……」
「あんたの言う普通は、見た目か? 地位か?」
そう言い首を傾げると筋がコキリと音を立てた。肩が凝っているのかと手で首筋を揉みながら話を続ける。
「もっとじっくり言おうか? 俺とあの男がどんなセックスをするのか。いや、セックスというよりは、調教だな、俺の場合は」
「……聞きたくない」
男の答えと心底嫌そうな顔に、「賢明な判断だな」と笑いを落とし、視線を足元に戻す。水の中の脚は別の生き物のように白い。
「…あの男が、相手なのか?」
「あの男も相手。彼だけが特別ってわけじゃない。ま、おかしい事はおかしいが。
金で俺を買うんだ、多かれ少なかれ皆どこかがおかしいんだと俺は思っているけど、それが当たり前なことなんだろう」
客ばかりではない、相手をする俺自身がおかしいのだ。そう、他人のことなど言える立場ではない。だが、この世の中、おかしいのが当たり前。
人間は何とも弱くなったものだ、醜くなったものだ。そして、住み易くなったものだ、この世の中は。おかしな事をしても、何らかの理由をつけてくれる。病気だと判断されたり、身の上に同情されたり。本当に馬鹿になった人間は。そして、そのうちの一人なのだ、俺も。だが…。
「普通に見えても、何もなく脳天気に生きている奴なんてそういない。変態な奴もいれば、人に見えないところで死ぬほど苦しんでいる奴もいる。
人間誰でも何らかのものを抱えているさ、そうだろう。俺もそうだし、あんたも。
その中で人は皆生きている。特別なことじゃない、それが当たり前」
普通など一体誰が量るものなのか。それは人それぞれ違うものだ。誰もが自分の事故勝手な基準で他人を量る。それは当然の事だろう。だが、だからといってそれを他の者に強制させるのはおかしい。そして、それをおかしいと思わず、他人の言葉を鵜呑みにするのもおかしい。
(この世界が狂っていっているんだよな…)
自分一人がおかしいわけじゃない。そう思うのはあまりにも短絡思考だろうが、それにより楽に慣れることもある。
それに、あながちそう外れているわけではない。
プールにつけた足を上げると、パシャリと水飛沫が上がる。子供のように両足をばたつかせると、水紋が俺を中心に広がっていき、小さな波が壁にぶつかり水紋模様を歪めた。
「……俺と、暮らさないか」
ぽつりと男がそう言った。
「…プロポーズ?」
一呼吸の間をおき、男に視線を向けずプールを見たまま首を傾げるそう訊く。
「ち、違う!」
「…照れるのなら、言うなよ」
「君が変な解釈をするからだ。言っただろう、私は男を抱く気は…」
「なら、なんで?」
振り返り見た男の顔は、困ったような顔。眉間に皺を寄せるのは癖なのかもしれない。
「放っておけないって? 弟の変わりに面倒でも見ようって?」
「そう言うわけでは…」
「気になるのか? それとも、抱く気はないが気に入った?
あんた、何考えているんだよ、自分で言ってることがわかってるのか?」
「…ああ」
頷く男に溜息を落とし、髪をかきあげる。
「俺を買いたい?
そうだな、仕事ならいいぜ。今までもそういうのはあったが大抵長くても数ヶ月だ。その間にあんたが男を抱けるようになるかはわからないが、抱けなくとも楽しませる事はできる。何なら、俺が抱いてやろうか?」
「……何故そうなる。結構だ」
「悪いな、体の関係の方がわかりやすいからな。何も考えずに暮らそうだなんて怖くて仕方がない。自分に理解出来ない人間は恐怖の対象だろう?」
その言葉に、じっと俺を見つめた後、
「…本当に自分でもわからないのだから、仕方がないだろう」
と男は軽く首を振った。
「開き直るなよ」
っていうか、今の俺の言葉を俺にも当てはめただろう。ったく…。
「あんた、その感情で動くのは気をつけた方がいいな。ホント、よくそう純粋なままで世の中を渡って来られたもんだよ。凄いな、天然っていうのは」
「…誰が天然だ」
「怒るなよ。天然だろう、どう見ても。ボケボケだよ。
だがな、そんなあんたでも常識は持っているだろう。普通大した理由もなくに人を飼おうだなんて思わない。思っても実行しない。ましてや、俺のようなものと関わろうだなんて、あんただってごめんだろう? 少なくともさっきまではそう思っていたはずだ。
俺と話して間違った方へ進んでどうする」
「間違っていない。このまま君を放っておけないというのは事実だ」
一度決めた事はやりとおす。そんな真っ直ぐな思いではなく、これは単なる頑固というものだ。生半可歳を食っているから始末が悪い。立場は平等だろうが、どうしても年齢の差は埋められない。年下の俺の言うことなど、直ぐに却下出来るものなのだろう。人生経験は俺の方が豊かというか、バリエーションに飛んでいても、所詮生きてきた年数は違う。その差はいつまで経っても埋められないもの。
だが、だからといって「はい、そうですか。わかりました」と言うわけにはいかない。
「だから、それがおかしいんだって。気になるからといってそんな答えを出すなよ。
一緒に暮らしてどうなる? あんたは何か言い事があるか?
俺はともかく、あんたの周りはどうだ。気でも狂ったのかと思われるぜ、少なくとも家族は反対するだろう」
「関係ない」
「ある。あんたはそんな世界で生きているんだ。それとも、それを捨てるのか?」
「捨てるとか、そういうのではない。
私は君を性的対象として見ていなし可能性もないのだから、同居をしても別に不都合はない。一人暮らしだから、気を使う者がいるわけでもない」
「……独身って方が問題じゃないのか? 男を囲うんだろう、考えなさすぎだ」
「君の方こそ意識しすぎだ」
「…どこがだよ…」
実際に俺とこの男の関係などそれこそ全く関係ない。だが、男の言うような清廉潔白なのではなく、世間は真実などどうでもいいということなのだ。
俺が体を売っている者だという事実と、そんな者を突然飼いだした男がいれば十分。
いくら今までが真面目だったとしても、男が周りから正体を疑われるのは目に見えている。どんな噂が流れるのか、想像に容易い。
俺が意識しすぎだというのなら、この男は意識しなさすぎだ。それでなくとも、見目のいい姿は嫌と言うほど目立つだろうに…。
「…あんたの言い分はどうやっても理解出来ないが、ま、あんたがそう言うのなら俺はもうどうでもいい。勝手に俺を常識知らずだなとでも信じていろ、だ」
そう、今ここでどちらが正しいのかなどどうでもいいことだ。
「…あんたは、俺を買いたいんだな? 目の届く範囲にいて欲しいというだけで」
「あぁ」
「他に望みは?」
「…特にない。君の生活を縛るつもりはない」
「ならこの仕事を続けてもいいのか?」
「それは……。…私といる事が仕事になるのではないのか?」
……生活を縛らないと言っておいてそうくるか…。
「…なら、正しく、飼うということか。ペットか。
餌を貰ってあんたの家にいろってか」
「他の仕事をすればいいだろう」
「…あんた俺の話しを聞いていたか? 出来ないんだって」
「そこが合わなかっただけじゃないのか。少なくとも私は君をおかしいとは感じない」
「…あっそ。それは、ありがとうございます」
俺は肩を竦めてそう返事をした。
男の言った事は本当なのだろう。同情かなんだか知らないが、男からは俺に対する嫌悪というものは感じられなくなった。だが、おかしいとは思っていなくとも、理解出来ない者だとは思っているだろうに…。
(ったく、よく言うよ…)
しかも、これを純粋に素でやるのだから…、…もうお手上げだ。
「ま、それが命令なら聞いてもいいよ、うん。買われたのなら従おう。俺も金は必要だからな。何もしないであんたから金を巻き上げるのも気が引けるし。
ああ…じゃあ、居候みたいなものだな」
「金なら払うが」
「なら俺は何か奉仕しなきゃいけなくなる。抱かれるのは嫌なんだろう?」
眉を寄せた男に笑いを漏らす。
「なら、生活面をみてくれるだけでいい。その他は望まないさ」
ギブアンドテイクなんて関係には到底なれないが、そんな気分は味わえるかもしれない。男は気になるからという理由で俺の面倒をみ、俺はその男の満足のためだけに、男との生活を承諾する。他には何もない、わかりやすい体の関係は一切ない。
(はたして、本当にそれでやっていけるのだろうか…?)
今まで楽ではないが簡単な体の関係で付き合ってきたのだ。それ抜きでどこまで出来るのだろうか、俺は…。
「…俺はさ、それなりに努力して人を見る目も対応の仕方も覚えてきた。
だが、あんたは手におえそうにないな」
そうぼやいた俺に、「それは同感だな。私も君を手にはおえない」と男は相変わらずの真面目腐った表情で答えた。
「それで、返事は?」
「…いいよ。変わった仕事だがな、それも時にはいいだろう」
「……今まではどうだったんだ?」
それは命令か?
そうからかおうと思ったが、機嫌を損ねそうなので素直に答える。答えだけでも男をからかうには十分なものだ。
「ん? どうって、正しく飼われていたというものだ。
溺愛される子供のように可愛がってもらう事もあれば、都合のいいペットのようにされる事も。他は…俺を連れまわしてやばい仕事をさせた、っていうのもあったな。
だが、どれもそう長続きはしない。買うのが気まぐれだから捨てるのも気まぐれ。直ぐに心変わりする、そんなもんだ」
「……そうか」
「うん、そうだ」
クスリと笑い肩を竦めた。
それなりに思い入れというのはあるが、俺は客達に執着しているわけではない。捨てられようと何をされようと、心に傷がつくわけではない。本当に、そんなものなのだ。
(本人が気にしていないのに、訊いた方が気にしてどうするよ…)
こうされると、自分の気にしていなかった傷が見えてきそうで歯痒い感じもする。だが、男はそんなこと思いもしないのだろう。自分の態度が相手をどんな気持ちにさせるかなど……。
首を回し、息を吐き、「そう言えば」と話を変える。
「名前、何。聞いていなかったな」
「氷川だ。氷川睦月」
「…一月生まれ?」
「ああ、そうだ」
今までに何度も言われてきたのだろう、男は軽い溜息混じりに頷いた。
「わかりやすくていいじゃん」
フォローにも何もならない俺の笑いを含んだ声に、「君は?」と俺の名を尋ねる。
「俺はリヒト」
「本名か…?」
「そんなわけないだろう。本名も知りたいのか?」
「…別に…、それでいい」
「だろう? 知ってもどうって事はない、何の役にも立たない。だが、別に隠しているわけじゃないからな。教えても問題ない。
佐々木律人だ。長い間呼ばれていないから愛着ないけど。リツトをもじってリヒトだ。わかりやすいだろう?」
よいしょ、と男の前に立ち上がり俺はニコリと笑う。
「じゃあ、氷川さん。契約しようか」
「契約?」
「そう」
俺はそう言い、首を捻る男の腕を逃げないように掴み、ゆっくりと彼の顔に顔を近づけた。俺の意図に気付いた男が身を引こうとする。キスをされるのを避けようと足を引くその動きを見計らい、俺は男の体をプールに向かって突き飛ばした。
「うわっ!」
声とともに、大きな水飛沫が上がる。
「…な、何をするんだ!」
水の中に深く沈み立ち上がった男が軽く咳き込みながら声を荒げ、顔にかかった髪を鬱陶しそうにかきあげる。その姿に俺は大きな笑い声を上げた。
笑う俺を睨みあげ、男は俺が腹を抱えて屈みこむプールサイドに手をつき勢いをつけて上がろうとした。だが、纏わりつく衣服のせいで軽やかにとはいかない。
「ホント、バカだな」
服の重さで動きがゆっくり男の額に手を添え力を加える。頭を押されてバランスを崩し、男は再び水の中へと落ちる。
「水も滴るいい男、ってか」
「…いい加減にしろ」
「アハハ、悪い。もうしないよ」
俺は両手を挙げ、軽く肩を竦める。だが。
その言葉を信じてか、再び上がろうとした男の隙をつき、「これくらいはいいだろう」と頬にくちづけをしてやった。
一瞬あっけにとられた男は、腕の力が抜けまたもやずるりとプールに立つ。
30過ぎた男がするリアクションではないだろう、これは。
「唇じゃないのを感謝しな」
ニヤリと笑った俺を男が睨んだ。しかし、悪いのは俺ばかりではないだろう。
「やられるんだから、態々ここから上がらなければいいんだよ。考えが浅いあんたが悪い」
「…煩い。……手を貸せ」
眉間に皺を寄せたまま男が手を差し出してきた。
「引き上げろってか? あんた俺より重いだろう」
引っ張り上げずに途中で一緒に落ちてやろうか、そう考えたがそれを実行することは出来なかった。立ち上がりかけた時に素早く左手を取られ、俺は逆に男に引っ張られた。
仕返しするほどの負けん気があるとは予想していなかったので、不意打ちを食らった俺は、見事と言うか何と言うか勢いよく飛び込み、しかも、水面で腹を打った。
しかし、意地でも放してやるものかと、取られた手を逆に握り返し引き寄せる。水面から出ると、目の前で男が口角を上げていた。
「…やるじゃん、あんたも」
微かに痺れるお腹の痛みに笑いを漏らす。
「仕返しじゃない、事故だ」
「…どこがだよ」
笑みを浮かべそう言った男の掴んだ右手を思い切り下に引き、開いている右手でネクタイを掴み引き寄せる。近付いてきた顔に笑いかけ、俺は男と唇を合わせた。
触れるだけのキスなど何てことはないだろう。それなのに男は先程以上に呆けている。舌を入れてやろうかと思ったがさすがに後が煩そうなので、驚きで薄く開いた唇を食み、チュッと音を立てて離してやった。
「感謝しないからこういうことになるんだよ」
聞こえているのかどうなのか怪しい男にそう言い、俺は手を放す。
男は解放された右手で唇に触れ、俺を見る。その視線にゆっくりと意思が宿っていく。一瞬見せた笑いが嘘のように、眉間に皺を寄せ硬い表情を作る。
「減るもんじゃないし、そう怒るなよ」
「…減るっ!」
声にならない怒りをその一言に託したかのように、男のそんな怒声が室内に響いた。
中学生の餓鬼じゃあるまいし、それはちょっとないんじゃないか…。不貞腐れる男に俺は軽い息を吐き肩を竦めた。
学習したのか、衣服が絡みつき動きにくいながらもどうにか進み、男は俺から離れていく。これ以上何かされてはたまったものではないのだろう。確かに、この場では身軽な俺の方が優位そうだ。
更に仕掛けてやろうかと思ったが、さすがにそこまでするのは気が引ける。面白いが、単純に男がかわいそうにも思えてくる。
小さな階段を上がる男を見ながら、俺はクスクスと笑い声をもらした。直ぐに大きなものへと変わる。
上着とシャツを脱ぎ、タオルを方にかけた男が腹立たしそうに見てきたが止まらない。
後ろ向きに倒れるように水面に浮かび、再び空を見上げる。相変わらずの星空だが、雲の切れ間から少しだけ月が顔を覗かせていた。その姿に、俺は目を細める。
今度の飼い主は今までの奴らとは確かに違うが、変な奴である事は間違いなさそうだ。
だが、今年の冬はこれで乗り切れるのかもしれない。
確信があるわけではないが、そんな風に思える事が出来た。
多分、きっと、大丈夫……。
Step1 END
2002/07/07