◆ 3 ◆


 数段の階段を降り、正面の古びた木製の看板から横の扉へと視線を移し、リヒトは一呼吸吐きその中へと入った。
 高い天井の小さな窓から少し光が入る程度で部屋の中は薄暗い。それでも何度も来た場所なので躊躇うことはなく、何年か前まではバーとして営業に使われていたが今はただ無意味に広いだけの空間を奥へと進む。店の名残でテーブルや椅子がいくつか置かれてはいるが、障害物となるほどの物でもないので目を瞑っていても無事に部屋を横切れるだろう。
 そんな大きな部屋の最奥にある扉の前には、二階へと続く螺旋階段がある。リヒトはそこまで行き、片足をかけただけで登ることはせず、上に向かて声を掛けた。
「ヒメ、遅れた。悪い」
 目的の人物がこの場にいないとなれば、上の階でしかないとリヒトはそう思ったのだ。だが、その判断は間違っていた。
 背後から扉の開く音が耳に届いたと同時に、男の声が落ちてくる。
「来ていない」
 落ち着いた、けれどもそれだけではない何かを含んだ声。
 この場に来れば顔を合わせる事はわかっていたが、二人きりでという事態は考えておらず、リヒトはその聞き慣れてしまっている声に顔を顰めた。会う事は可能性としてありえる事はわかっていたが、あまりにも嫌なことなので考えたくはなく、半分以上放棄していた。ならば、今の事態は最悪だと言えるのだろう。
 尤も、この男に関わる事全てが最悪以外の何ものでもないのだが。嫌いな人物なのだ、単なる世間話だけだとしても、自分としては心穏やかでいられるものではない。その中で大きいも小さいもあまりなく、リヒトが落とす溜息はいつも同じもの。
 けれども、それをありありと表に出すほど、自分は馬鹿でも、この状況に簡単に身を任せるほど世の中を捨てているわけでもない。
「…連絡は?」
 リヒトは自身の心情に軽い苦笑を微かに漏らし、軽く肩を竦めながら、待ち人からの連絡はきているかと訊ねて振り返った。会いたくはないほどの人物だとしても、平常に対応出来る能力は見につけている。
 しかし、振り返り見た男の顔が無表情を通り越した冷たいものだったことに、覚悟以上に喜ばしくない事態に飛び込んできた事を理解し、リヒトは軽く眉を寄せることとなった。普段は嫌な笑いを浮かべた陰険な男があからさまにこんな顔をしているとなると、自分がどれだけ被害を防ごうとしてもそれは意味をなさないだろう。男の表情に、このまま直ぐに帰りたいという気分になる。
 だが、そんな行動をしようものならどうなるのか、それも目に見えているというもの。苛めるといえば言葉は幼いが実際にはそんな感じの攻撃を良く仕掛けてくるこの男は、実を言えば、あれはかなり機嫌がいい証拠なのだとリヒトは知っている。そう、自分を使って遊んでいるのだ、いつも。その男が不機嫌になれば、本気で自分をどうにかしようと思えば…、…リヒトに抵抗できる術は全くと言っていいほどない。
 男は力を持っており、自分は持っていない。そう、結果はわかりきっている。
 だから、この男はいつまで経っても気に食わないのだ。その場限りの関係が多い中で、珍しく付き合いの長い人物だというのに、未だ謎の多い男。そんな男に気を許せずはずもなく、相手もそんな性格ではなく、付き合いの長さと深さは比例しない。
 きっとこれからもずっと付き合っていったとしても、関係は変わる事はないだろう。
 リヒトは、自身に向けられる面は多少なりとも知っては居るが、他のところは暗闇ばかりで得体の知れない男である挟間を見、ふっと息を吐いた。
「聞いているのか? ヒメから連絡は?」
 小さな憤りを感じながらも、そんなものすらこの男には無意味なものでしかないと溜息に混ぜて捨て去り、微かに笑みを浮かべて訊く。
「ない」
「…そう」
「直ぐに来るだろう。座って待っていろ」
 以前は店として使われていた空間だけあり、ここでの会話は異様に響く。静かなその声はその辺のヤクザよりも怖い音色を持っていた。まだ残るカウンター席を顎で示す挟間にリヒトは素直に頷き、体をそちらに向ける。
「ああ。……それより、機嫌悪いな」
「いや、そんなことはない」
 どこがだよ、と思わず心の中でリヒトは突っ込みを入れる。
 けれど、本人が言うように、スツールに腰掛けてみた挟間の表情はいつもの嫌な笑みを微かに浮かべたものだった。一瞬にして消え去った不機嫌な表情。丁寧な事に視線を合わせ、口角を少し上げる。
 訳のわからない男だ、と再びリヒトは心の中で悪態を吐いた。これが自分個人をからかってのことだとするのなら、後で何があろうともとりあえず一目散に逃げ出すだろう。だが、挟間は笑みを浮かべただけで何も言わない。特に意味はないのか、大きな意味はあるが自分には見せない気なのだろうか…。前にも後ろにも動けない、微妙な位置にいつの間にか置かれている。
 怖くて様子を窺う自分を、この男は暇つぶし程度に楽しんでいるのだろう。
 この重い沈黙を挟間は喜んでいるのだとリヒトは確信する。けれどもそれがわかったからといって役には立たない。いや、だからこそ自分もいちいち癇に障らせていないで、この空気を流さなければならないということがわかる。少なくとも、何をしても不利なのは自分の方なのだから。
 ゆっくりと瞬きをし、リヒトは自分を見る色のない狭間の瞳に目を合わせ、軽く口元をゆがめて笑いを作った。
 その笑いに、男が軽く鼻を鳴らして笑う。
「どうだ、新しい客は?」
 抱かれたのか、と挟間は大して興味なさげな様子で訊いてきた。
「だから、そんな男じゃないと言っただろう」
「一緒にいてくれるだけでいい? ――気が狂った奴か、そいつは。そんな奴をお前が選んだのか」
「俺も気が狂っているし、お似合いだろう」
「本気で気に入ったのか、その男」
「…さあ。関わったから気になる程度なんだろう」
「違う、お前が、だ」
 客が自分を、そう言う意味で狭間の言葉を捉え返事を返したリヒトに、挟間は喉をならしてそう言った。
「……」
 挟間との会話は疲れる。
 どう答えればいいのか考えるよりも先に、リヒトの口からは溜息が零れた。
 沈黙も苦痛だが、会話をすれば必ず上げ足を取られるというか、されに不利な状況に落とし込まれることが多々あるからだ。それが嫌だというのなら逃げることも出来るのだが、困った事に仕方がないと諦めて受け入れてしまっている。ただ疲れるからあまり好きではないというだけのものになっている。
 疲れるのは、挟間が一言も二言も先を読むことに長けており、そして言葉遊びのようなものを仕掛けてくるからだ。それ自体は面白いと思えるかもしれないが、自身の状況を更に落とすものとなると遊んでなどいられない。だから、小さな緊張を常に持つ。だが、その警戒が役に立つとは限らない。
 そう、リヒト自身、この男から提供される事態を、一体どこまで本気で嫌悪しているのかわからない。この男だからと、それこそ全てを認めてしまっているように感じる時すらある。現に、いつでも逃げられるのに男の前から逃げることはなく、命令ではない要求を全てのんでいるのだ。
 絶対的な上下関係でも、男に対しての何らかの感情でもなく、それは全て自身が選び取っているもの。
 だからこそ、厄介なのだ…。  挟間との会話は、それ故、疲れる。未だ自分を痛めつけている自身を見せ付けられるのだ。こんな男から今すぐ離れれば、現状は変わるのかもしれないのに。…自分はまだそれを出来ずにいる。
「まだ、落としていないのか」
「…別に、する気はない」
「何故?」
 何故も何もないだろう。どうしてそこへ発想が行くのか、その方が自分には疑問である。だが、この男にそれを訊く気にはなれない。
「客が望んでいない事を、態々する事もないだろう。過剰サービスをするほど、俺は自分を安く売ってはいない」
「客じゃなく、お前はどうなんだ」
「……」
「お子様だな」
 狭間の言葉にリヒトは軽く眉を寄せたが、何も言い返しはしなかった。
 全く先が見えない。いや、この現状すら見えない会話の中で不用意な言葉は命取りになる。挟間が何を考え、自分の何を指して言っているのかわからないのなら、黙っているしかない。訊き返すというのは、論外だ。
「お前程、貪欲な者もそうそういないからな。ま、いつまで持つのか、見せてもらうことにするか」
「……」
 何を指すのか見えない言葉に、リヒトは溜息を吐く。
 今の客、氷川に拾われて約一週間が経った。
 あの次の日に挟間に借りを返すために変態オヤジの相手をしたのが最後で、他の客はとってはいない。今の客である氷川がそれを嫌がっているからというのは実のところあまり関係はなく、ただ、リヒト自身、今はセックスに飢えていないからというだけなのだ。元々淡泊な方なので、必要でない限り自らセックスは求めないだろうが、今後の事はわからないとしかいえないのも事実。
 だが、挟間が言うように、氷川をどうこうしようなどリヒトは全く考えてはいない。
 初めて会った日、からかうつもりでキスを仕掛けたが、体を繋げたいなど思わないしその必要もない。ただ居ればいいと彼は言ったのだ。それだけで生活を面倒みてくれると。ならば、それ以上の事をする気はリヒトにはない。
 しかし、この男は違う事を予想しているのだ。それが何であるのか、何故なのかはわからないが…。
「…何が言いたい」
 痺れを切らしたリヒトは気付けば挟間にそう問い掛けてしまっていた。
「さあな、自分で考えろ。でも、ま、お前がその客と寝るのは確実だ」
「餓鬼じゃないんだ、そうなる可能性はあるだろう。セックス漬けの俺なら、その快楽のため手近な奴とそうなってもおかしくはない」
「快楽ね。寂しいから他人の温もりを求めるお前が言う言葉か。
 …ま、別にお前の事などどうでもいいさ。好きなように遊んでいろ」
 自ら仕掛けにきた会話を挟間はプツリと切り、見下した表情でリヒトに言葉を落とした。
「っで、快楽を貪るお前は、真面目な客の目を盗み、仕事に励んでいるってわけだ」
 生きる術を持たずこの街に来た時から自分を知る男には、自身以上にその全てを知り尽くされているところが多々ある。そして、それを見せられるのは一種の恐怖だ。今の自分は努力して作り出したというのに、男に心の内を指摘されるたび、一瞬にして固めた壁が崩れ去るような錯覚に陥る。いや、そもそも、昔の自分を多少なりとも知るこの男の前では、周りに張る殻は全く無意味でしかないのだ。
 その事実が悲しい。
 自分は変われたのではなく、ただ人を騙す事が上手くなっただけに過ぎないのだ。自分も他人も、ただ騙しているだけ。そして、この男を騙す事は、いつまで経っても出来ない…。
 自身の中で狭間の存在が大きい事はわかっているが、まるでそれを忘れないように、時たま気まぐれのように自分を揺さぶる男が憎らしい。いや、それだけの感情ではないだろう。男の手から逃れたいなど思った事もなければ、捕まっているつもりもない。選んでここにいるのだ。
 そう、ただ自分が離れられないだけなのだ。何故だかわからないが、この男から離れるつもりはない。だからこそ、悔しいのだ、男に関する全てが。
 顔を顰め奥歯を噛み締めたリヒトに、挟間はいつものからかうだけの笑いを顔にのせた。
「その割には、欲求不満な顔をしているな。抱いてやろうか?」
「煩い。…どいつもこいつも発想が乏しい」
 世の中セックス中心に回っているのではないのだ、と思わず言いたくなるほど、自身の周りはそればかりだ。全てがそこにいくかのよう。それが当然だと罷り通るところだとわかっていても、自分がそれを全て受け入れる事は出来ない。する必要もない。
 これが落ちた世界。目の前の簡単な快楽に手を伸ばすだけが生きている証のような世界。堕落した人間が堪る社会のゴミ溜…。…例えそうだとしても、この自分がいる場所が汚れきっているところでも、自分は人である事を捨ててはいない。
 普段は笑って快楽を求めて何が悪いと客を誘う。男娼をして生きているのだ、全てが当然の事。だが、それを冷めた目で見つめる自分が常に心の中にいる。周りは気付かないそれを、この男は気付いている。体を売る事を何処かで嫌悪している自分を知っているからこそ、ふざけてそんな言葉を吐くのだ。
 抱いてやろうか。
 その言葉を、実行する気は男にはない。自分をからかうためのものだけでしかない。
 リヒトは笑う挟間から視線を外し、背中を丸めテーブルの上に置いた手の甲に頬をつけた。
 刃向かう気力はない。だが、簡単に頷けるほど、自分を捨ててはいない。
 ただ、もう、疲れてしまった。
 はぁっと溜息を吐きながら、テーブルの木目に合わせていた視線を汚れた壁へと移し、静にリヒトは目を閉じた。
「…さっきマキにそう言われてやられたよ」
 これが会話の始めにされていたなら、決して口にしなかっただろう。自分が面白くない事をこの男に聞かせることは殆どしない。それが更に面白くない事態に発展するからだ。
 けれど、もうどうなってもいいと投げやりな気分でリヒトは口へとのせる。
「ふ〜ん。…っで、いくら?」
 いくらでやらせてやったんだよ?
 その言葉で、挟間の中でどちらが上なのか窺い知ることが出来た。だが、だからと言ってリヒトとしては嬉しくとも何ともない。
「…同業者から金取るかよ」
 その言葉をどう取ったのだろうか、男は低い声で笑った。
「…暫く体はやめる」
「やめてどうする」
「……何か他のことをする、つもり」
「お前が、か?」
「そう、俺が」
「そうか。やれるものならやってみろよ」
 挟間はからかうような笑いを消し、真面目な声でそう言った。目を瞑っているリヒトにはどんな顔をしてその言葉を出したのか確認する事は出来ない。だが、決してそこに笑みは乗っていないのだろう。時々、真剣とも無表情とも取れるような顔で、挟間は自分を見る。そして、自分はそれが嫌いではない。
 リヒトはほっと小さく息を吐いた。
 薄く目を開くと、閉じる前とは何も変わらない、薄暗い空間の汚れた壁がただそこにあった。日が落ちれば、闇に溶けてしまう壁。
 リヒトは何もないその壁に視線を合わせ、一緒に暮らす男を思った。
 まともな仕事をしろ、と氷川は言った。真面目腐った顔で。
 何もしないが客だというのだし、一応は一緒に住んでいるのだから、ある程度は相手を不快にしないため氷川の言葉に従うつもりだ。だが、彼が全てというわけではない。誰の客であろうと、誰に生かされているのだとしても、自分は自分なのだ。ただ穏便に事を済ませるために、いちいち喧嘩はしないという程度のもの。
 まともな仕事、と言うのも、氷川が言うからやろうと思っているわけではない。
 氷川との関係は、彼に追い出されるまでの事。そう、そんな僅かでしかないだろう期間で全てを変えてしまうことなど出来ない。彼との関係が終われば自分はまた元に戻るのだから、全てを断ち切ることなど出来ない。
 ごく短い期間でしかないのだ、この数日のような生活をするのは。その間どう暮らしていようとも、彼の援助がなければ、安い賃金のアルバイトで生活を立てる事は無理なのだ。それでは生きてはいけない。
 学歴もなければ、まともな住所も身分も何もかもがない自分につける職業など限られている。
 そう、何をしても結局は、自分はこの仕事を辞めないだろう。体を売る事を。この後何年それを続けられるのかなんてわからないが、それでも自分にはこの道しかもう残されていないのだ。
 だが、それでも。それでも、氷川と暮らしている間は、何か別なことが出来ないだろうか…。…そう思ってしまうのだ。
 そんな自分を笑うよう、けれども声を出す程笑えるものでもなく、リヒトは静に、ゆっくりと瞬きをした。
 実際、三日前に夜間の工事現場のアルバイトに行った。だが、その一日で辞める事になった。理由は至極簡単なことで、不良少年どもにやられそうになり身の危険を感じたからだ。いや、別にやられても痛くも痒くもない。ただ、無料でやらせるのも馬鹿らしく逃げたまで。それを許すのであれば今まで通りに体を売るし、許しても自分は直ぐに辞めさせられるだろう。今までもそうだった。
 夢を見た、というのは大袈裟だが、少し何処かでまともな生活をしたら変われるかも知れないと思っていたのかもしれない。氷川の言葉を真に受けたわけではないが、今ならやれるのかもしれないと。
 結局は、やはり駄目だった。客とはそうではないのに、自分は他人との関係が上手く作れない。今も昔も…。いや、昔以上に。
 自分は変わった、確実に。なのに、それでも、他人と合わない…。
 それが、悲しいという思いは当の昔に捨て去っていた。いや、そもそもそんな思いすらなかったのかもしれない。ただ、自分の感情を紛らわすために、生きるために他人を利用する。いつもそんな関係しか作れていないのだ。結局、自分は相手の事など、何ひとつ気になどしていないのだ。
 そんな自分が、まともな仕事など出来るはずがない。その事を誰よりも十分理解している。そう、今までも諦めに似た気持ちは多少はありながらも、それは納得出来るものだった。一番大切なのは自分だと、自分しか大切ではないのだと、そんなエゴの固まりでしかないのだと自身で一番知っているのだから。
 だが、一週間をゆっくりと過ごし、このままでは駄目だという思いにかられ始めている。今までと違い氷川との生活は考える時間を沢山与えられており、それは苦痛なものだった。我武者羅に走る事もできず、痛みが目立ち始めている。汚れきった自分をどうにか出来ないかと、馬鹿な夢を見始めている。
 戻る時の事を考え、今までのようにするか。それとも、氷川といる間は夢を見るために無駄な足掻きをするか、何もしないか…。
 考える時間があるというのは、今の自分には一番残酷な事なのかもしれない。
 そんな思いつきに、リヒトは溜息を吐いた。
 立ち止まり自分を確認するには、この場所は汚れている。そんな生易しい、どうにかなるかもと変化を望める場所ではないのだ。隣にあるのは、絶望。それを見ないため、この世界の者達は簡単な何かを求め、それを得られることだけで良しとして生きていくのだ。
 そして、自分もそうして生きてきた。
 なのに、何故、今になってこんな状況がやってくるのか…。
 いや、今だからこそなのかもしれない、という思いもリヒトの中にあった。自分は限界を感じているのかもしれない、この仕事に。だからこそ、氷川の言葉に心が動かされるのだ…。
「俺が斡旋してやろうか?」
「…なに」
 思いに耽っていたリヒトは挟間に落とされた言葉を理解出来ず、少し掠れた呟きで訊き返した。
「仕事」
「…遠慮する」
 あんたの紹介じゃ、今以上にやばいものだろう。
 その言葉に、挟間はクククと喉を鳴らす。この世界に自分を入れたのはこの男だ。いや、入ったのは自分自身、男は教えたに過ぎない。だが、この世界で自分が変わっていくさまを男は目にしている、長い間。その男なら、今の自分に出来る事などわかっているのだろう。
 そう、あの時も選べるものはこれしかなかった。それは今も変わらない。
 答えは、決まっているのだ。自分が選べるものは…。
 リヒトは顔を伏せたまま体を起こした。視界に、テーブルの上に置かれた男の手が入る。
「っで、仕事がなくて暇なお前は、デートってか」
「あんたへのプレゼントを買うんだってさ」
 考え込む思考を振り払うように、リヒトは軽く頭を振った。この男の前で物思いに耽るなどしてはならない事。少なくとも、約束の相手が来るだろう今は特に…。
 リヒトが顔を上げると、挟間は口元に笑みを浮かべていた。
「なるほどね。そんな時期か、もう。ご苦労さん」
「…俺はあいつに付き合うだけだ」
 表面上は眉を寄せ、男の言葉に溜息を吐く。けれど、沈んだ心は、色んな事を思い出させる。
 自分はこの男に甘えている。
 そう、ずっと。ずっと、自分は挟間に甘えているのだ。優しい言葉もぬくもりも掛け合う関係ではないが、確かに甘える時がある。何も言わない男を良い事に…。
 リヒトの視線が再び落ち、狭間の手に止まる。少し節くれだった細い指…。

 …もしも。
 もしも、この場に誰も来ないのだとしたなら、自分は間違いなく今、この男に甘えるだろう…。男の手を無言で引き寄せ、冷たいその手にも確かに温もりがあることがわかるまで指を絡めあう。そして――

 リヒトがそう思い描いた時、まるでそれを察知したかのように、コンコン、と扉を叩く音が上がった。
 店として使われてはいたが今は個人の部屋なのだから、と律儀に厚い扉をノックする人物など数は知れている。
 一呼吸の間をおき、予想通りリヒトの待ち人が扉の間から顔を覗かせた。
「お邪魔します」
「ヒメ…」
 ふと浮かんだ自身の感情に戸惑いは全くないのだが、自分の声は少し掠れていた。
「リヒト、ごめん!」
 待たせちゃったね、と済まなさそうに眉をさげる相手に、リヒトは笑いかけ首を振る。
「いや、実は俺も遅れてきたし。じゃあ、行くか」
「うん」
 自分に向かいニコリと笑うその姿は、どこからどう見ても可憐な少女といった所なのだが、ヒメこと媛木恵は正真正銘の男である。真っ黒なサラサラの耳が隠れる程度の髪も大きな瞳も、細い首も透き通るような白い肌も、本人はとても気にしているが、全てのパーツが女性的な少年だった。
 そんな彼に、挟間が声をかける。
「媛木、何処へ行くんだ?」
「あ、えっと、決めていない。うろうろしようかなと、思ってる」
 オフホワイトのコートの下から延びるのは黒いジーンズでユニセックスな服装なのだが、やはり女性にしか見えない。背はリヒトより少し低く、繊細な顔立ちがそう見せるのだろう。その顔を少し赤く染めて、媛木は狭間の質問に返答した。
「あ、ほら、この前雑誌で見たお店。あの昼間はカフェで夜はバーの…『D.B.』、だったかな、あそこに行く」
 ねっ、と首を傾げて見にくる媛木に、リヒトは椅子から折りながら軽く頷いた。
「お子様二人で飲みに行くと絡まれるぞ」
「そんな店じゃないよ」
「だといいがな」
「挟間さん…」
 媛木の呟きに、リヒトは心の中で軽い溜息を吐く。
 この少女と見紛う少年をリヒトは気に入っているのだが、彼の中でどうしても理解できないのが、この何を考えているのかわからない怪しすぎる男である挟間に本気で惚れていることだ。…瞬間的に縋りつくだけの自分とは、全く違うその感情は、リヒトには不可思議なものだ。
 狭間の女性関係を見れば、この男に夢中になる者がいても珍しいとは言えない。顔はいいし地位もある。自分は畏怖するミステリアスな危険性もいい要素なのだろう。だが、媛木のように純粋に惚れている者などいない。裏の世界でもそれなりに顔の知られている男なのだから、純粋な愛などどうやっても持てないというものなのだろうし、どれだけ惚れても相手が同じものを返す事はないと誰もが知っている。この男には夢は見れない。だから、純粋にはなれない。なのに、何を寝ぼけているのか、媛木は初恋をした少女のように挟間に惚れている。
 感情で突っ走って恋をしている、馬鹿だというわけではない。体は売っていないにしろ、自分と同じはみ出した世界にいるのだから、それなりに世の中の汚い部分も知っている。それなのに、彼は挟間に惚れている。恋をしてもいい対象ではない事を知りながら。
 唯一の救いは、それを挟間が邪険にあしらってはいないことだろう。どこまでのどんな関係の中わからないが、少なくともリヒトの前では、大人の男と可愛い恋人といった感じの雰囲気を作っている。いや、可愛い弟を見守っている兄とも言えないこともない。
 はじめはそんな二人の関係に驚き、胡散臭さで怖くなった。だが、挟間はともかく、媛木の方は今のままで幸せだと言っているので、彼らの関係は見て見ぬ振りにしている。挟間が媛木の手におえる男ではないという事を十分に知ってはいるが、彼がいいのだから自分が口を出す事ではない。
 しかし、そう思いつつも、やはりリヒトには媛木のことはわからない。いや、彼のことではなく、人を好きになると言う事が、愛すると言う事が、…全てがわからない。打算と計算で付き合う以外の思いなど知らない。
「夜は時間が空いている。そいつとさっさと別れて来いよ」
 そんなリヒトを笑うように、挟間が珍しく優しい言葉を吐く。自分なら何を企んでいるのかと怖くなる言葉に、けれども媛木は顔を染めて笑う。
「ほんと?」
「ああ。…いや、その店にいろ、俺が行く。ま、電話を入れるから携帯の電源は落とすなよ」
「うん!」
 喜びを表す媛木を見ながら、リヒトは彼とは逆に狭間の真意を考えた。自分に対してするような事は、媛木にはしないだろうが、そんな予想は意味をなさない。笑顔で人を殺す事も出来る男なのだから。
 ちらりと挟間を見ると目が合い、ニヤリと笑いかけてくる。
「…行こう、ヒメ」
「あ、うん。じゃあ、挟間さん、また後で」
「ああ、気をつけろよ」
 その男らしからぬ言葉にリヒトは当惑を顔に載せ、そして溜息を吐いた。
 もしかすると、こうして自分を悩ませて遊んでいるのかもしれない…。
 これが媛木に対してのみの言動なら考えないところだが、狭間の目は確かに自分を見ていた。だからこそ、何を企んでいるのかとリヒトとしては警戒してしまうのだ。もしかして、縋りつきそうな目を自分はしていたのだろうか。先程の思いに、あの男は気付いていたのだろうか…。
 だが、だからと言って、恋愛感情も独占欲も何も持っていない自分を煽る事など出来ないというもの。媛木と対抗しようなどと思ってもいない、その可能性はゼロだと言い切れる。自分の場合は刹那的に今一番関わりの長い男を利用する程度のものなのだ。合わせる体に意味はない。それが一番便利だからというだけだ。
 そして、挟間もそんな自分をわかっているはず…。
 
 
 媛木は階段を軽く駆け上がり、通りに出ると嬉しい気持ちで一杯なのかはしゃぐように飛び跳ねながら歩いた。
「…おい、転ぶぞ」
 女子高生ほどではないが、媛木が履く厚い踵のブーツを見ながら声をかけ、リヒトは曲げた肘を彼に向かって出した。
「はーい」
 素直な返事を返し腕を絡めてくるが、彼の頭の中はあの男のことで一杯なのだろう。クスクスと笑う仕草に、溜息を吐きながら訊ねる。
「っで、何処へ行くんだ?」
「どうしようか?」
 少し下の位置から、僅かに見上げるように自分を見つめる少年にリヒトは目を細めた。真っ黒な大きい瞳に自身の姿が映っていた。…この少年は一体自分をどう思っているのだろうかと、ふと思う。
 もし、挟間と自分の関係を目にしたらどうするのだろうか。
 今向けられる優しげな瞳に怒りがのるのを考え、リヒトは笑いを漏らした。
「ヒメ」
「何?」
「俺が訊いてんだよ」
 媛木の額に、リヒトは自分のそれをゴツンと重ね合わせた。痛い、と絡めた腕を解き額を擦る媛木に軽く眉を寄せる。
「お前が買うんだろ、プレゼント。決めて置け」
「うっ、ごめん。…でも、これはちょっと、マジ痛いよ」
「痛くなければ意味がないだろう。
 ほら、スッキリした頭で、さっさと考えろ」
 リヒトの言葉に、「なんか、リヒト、今日は機嫌が悪い?」と媛木は眉をさげた。
「そんなことはないさ」
 少し情けない媛木の顔に笑いを落としそう答えながら、先程同じような会話を別の者とした事を思い出し、リヒトは心の中で溜息を吐いた。

2003/01/06

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