◆ 4 ◆


 クリスマスも間近に迫った夜だというのに、どうしてこうも自分は疲れ切っているのか。普段は気にしないことだが、異常なほどの街の喧騒に、さすがの氷川も気分が滅入っていた。同じように騒ぐ事が出来ないのなら、逆にテンションは下がるというものだ。
 信者でもないのにキリストの誕生日に便乗し浮かれる若者はともかく、忘年会で今年一年分のストレスを発散するかのような、箍が外れたサラリーマンの光景は少し情けなくなるものがある。酔っての行為は年齢に関係ないのだろうが、それでもやはり自分より年嵩の者が馬鹿な事をしている場面を目撃すると、この社会はどうなっているのかと思わざるを得ない。
 別に堅物なわけではないので、酒を飲み騒ぐ者を否定するわけではない。だが、そうは思っても、やはりそれが自身の身に降りかかるとなると、頼むから大人しくしていろよと思ってしまうのが人間と言うものだ。やるのなら、自分の居ない場所ですればいい。
 本来の自分の立場を考えれば、当然しなければならないことなのかもしれないが、何故か表通りから横の細い路地に入ったところで、ゴミ箱相手に喧嘩をしている酔っ払いを視界におさめつつも、見なかった振りをして氷川は先を急いだ。
 この街で平穏に歩きたいのであれば、多くのことに目を瞑っていなければならないというのは今に始まったことではない。すっかり出来上がったサラリーマンの団体を、体を斜めにして擦れ違う。
 氷川が目的の店の扉を開けた時には、疲労は増していた。漸く辿り着いた約束の場所。だが、扉を開けると同時に、いつもはカランとなるベルのかわりに聞こえてきた騒ぎに、今夜は思わずそのまま中には入らず、半回転をして帰りたくなった。昼は喫茶店で夜は酒を出すこの店は、落ち着いた雰囲気が気に入っておりよく出入りをしているのだが、今夜はそんな雰囲気はどこかに吹き飛ばされたようだ。
 カウンター席に座った友人の姿がいなければ、本当に回れ右をしていただろう。氷川は溜息を吐きながらも店の中に足を踏み入れた。
「…待たせたな」
 店主からかけられた「いらっしゃいませ」との挨拶に軽く頷きながら、木崎の隣に腰を降ろす。店に来ていると携帯にメールが入ったのは30分ほど前だった。確かに自分は相手を待たせている。その自覚は氷川にはあったが、木崎の顔を見て口から出てきたのは、謝罪ではなく溜息と文句だった。
「…賑やかだな」
「ん? ああ、そうだな。何かの雑誌に載ったらしくて、その影響だとよ」
 眉を顰める氷川の様子を気にすることもなく、木崎は軽く笑った。氷川がこうした喧騒を得意ではない事を知っているが、それを考慮には入れないらしい。先に来てこの状況を知っておきながらこうして待っていたと言う事はそういうことだ。そして、木崎自身はこうした煩さは全く気にとめないタイプである。
「この店にしてはちょっと騒がしいが、他もそうだろう。いや、そう気にするほど煩くはない、普段と違うから気になるだけだ」
 どこをどうとれば煩くはないと言えるのだろうか、と氷川は思ったが、店主の磯波の前という事もあり、この話を発展させるのも気がひける。何より、気になどしないこの友人に文句を言っても意味はないというものだ。
「そうだな。この時期だしな…」
「済みません。年が明ける頃にはまた落ち着くと思いますから」
 堅物と言うわけではないがそんな雰囲気を持つ無口な店主が、珍しく苦笑いをしながら氷川に頭を下げた。思わず「いや、大丈夫ですよ。失礼」と同じように頭を下げる。
「マスター、中、呼んでますよ」
 顔見知りの店員が調理場へと続く扉から姿を現して磯波を呼んだ。実際の年齢を聞いたことはないがまだ20代前半だろう、店主が奥に引っ込んだ代わりに、その店員・藤咲が氷川の前にやってきて注文を取った。慣れた手つきでシェーカーを振る。
「どうぞ」
 グラスを出され氷川が礼を言うと、藤咲は笑顔で応えて二人から遠ざかり、カウンターの隅で雑務をはじめた。
「仕事、早かったんだな」
 グラスを傾け、少し口を湿らせた後、氷川は木崎にそう声をかけた。
「ああ、浦を生贄に置いて出てきた」
「何かあったのか?」
「大したことじゃない。最近目をつけていた奴が所轄に捕まってな」
「そうか」
 詳しく聞けば木崎は話すだろうが、特に珍しいことではないので興味も持たず、聞く気にはなれない。何より場所が場所だ、こんな騒がしさでは頭など働かないと、自分が訊きだしたことだというのに氷川は気のない返事を返した。だが、木崎は全く気にせず、軽く笑いを落とす。
「そう。浦で事は足りる。引っ張って来ればいいだけなんだからな。
 っで、お前は? 終わったんだろう?」
 まさか、また戻るとかは言わないよな。木崎が軽く首を傾げた。心配をしているわけではなく、そうだと面白いというような好奇心がそこにはあった。
「残念ながら、終わりだ」
「ははっ、仕事中毒者としては、もっとやりたいってか」
「お前はそうさせたいようだから言ったまでだ。俺は、このまま帰って寝たい」
 氷川の言葉に、「さすがのお前も、この時期は疲れるよな」と肩を竦めた。そして、ニヤリと笑う。
「それで、誰と寝るんだ?」
「……」
 ストレートなその言葉に、けれども氷川は顔色は変えずに友人を見た。
「帰るのなら置き土産していけよ。ほら、話せ」
「…年を取ったな、木崎」
 ニヤニヤと笑う友人を見ながら、手の中のグラスを置き、氷川は真面目な顔で言う。その頭の隅で、同じ話題をするのなら疲れていない時の方が良かったかもしれないと、決めた覚悟をまた後悔しはじめてもいた。優柔不断もいいところだ、と頭を振りそれを振り払う。
「その笑いは、女に嫌われるぞ」
「何だ、エロオヤジってか? 同い年のお前に『年を取ったな』なんてしみじみ言われたくないな」
「洋子さん、元気か?」
「ああ、元気だ。……って、ころころ話を変えるなよ」
 木崎は軽い溜息とともに、眉間に皺を寄せた。その顔に、今度は氷川が肩を竦める。確かに踏ん切りはつかないが、別に話を変えようと足掻いているわけではない。
「いや、お前も折角仕事が引けたんだから、早く帰って方がいいんじゃないかと思ってな」
 そう、ただそれだけのことだ。ここまで来たのだから、話すしかない。だが、自分は躊躇してはいるが、それよりも、こんな話で友人の時間を削るのはなんとも忍びない、という気がするのだ。自分と同様、漸く手に入れた休息を、面白くない話につき合わせるなどとは。まして、ここ最近はそれでなくとも心配させていたのだから。
 そんな氷川の心中を他所に、「心配してもらわなくても結構だ」と木崎は頬杖をつき、軽く息を吐いた。
「洋子は今頃、若い男と宜しくやっているさ」
「…それは」
 一体どう言う事だと、含みのある言葉に氷川は眉を寄せた。だが、木崎はその表情を見て楽しげに笑った。予想通りの反応だったのだろう。
「男と言っても、まだ小学校にもあがっていない甥っ子だけどな。今日はあいつ、義姉さんのところに遊びにいってるんだよ。旦那が海外出張だとかで、一昨日はこっちに泊まりに来ていたらしい」
 俺は居なかったから会っていないんだが、あの姉妹は異常なほどに仲がいい。木崎は目を細めて笑い、グラスに口をつけた。
「俺は一人っ子だし、男だからなわからないが、あんなものなのかな、姉妹って。ま、見ていて微笑ましくはあるけどな。いや、遠くで見ていて、だぞ。あの輪に入ったら最後、骨の髄まで食われてしまう。最強だ」
 お前だったら死ぬかもしれないと、木崎自身負けず劣らす口が達者であるというのに、そんな悪態を付く。だが、言葉以上に彼女達を愛でているのは、その表情からわかるというもの。何度か会った事があるだけだが、木崎の妻は間違いなく美人の部類に入り聡明でもあるが、夫曰く天然だという愛敬も持っているなかなか魅力的な人間だ。そんな彼女に惚れ込んでいる友人が、本気で溜息をつくはずがない。
「そんな事を言っていると、逃げられるぞ」
「…縁起でもない事を言うな、ったく。それよりも、今はお前だよ。いよいよ氷川も家庭持ちになるのか」
 自分だけがからかわれてはならないと、木崎は話しを元に戻した。この歳になるまで浮いた話が殆どなかった氷川にも漸く春が時が来たのか、というように楽しげに笑う。
 先程の友人の言葉ではないが、本当にオヤジのようだとその笑いに少し呆れながらも、氷川はあっさりと否定した。
「いや、予定はない」
「何で? …結婚まで考える相手じゃないのか?」
「ああ、そうだな。そんな相手じゃない」
「そうなのか。だが、お前、選り好みしている年でもないぞ」
 そこまで言われる年齢じゃないだろう、と思いつつも反論はせず、氷川は低く笑った。
「お前が想像しているのとは、全く違うんだ。確かに、俺は今一緒に住んでいる奴がいることにはいるがな」
「だから、どんな子だよ」
「子、じゃない、奴だ」
 そう、残念なのかどうなのかはわからないが、間違っても可愛い子だとはいえない奴だ。確かに、顔はいいと思う。自身の感覚だけではなく、それは隣に連れて歩いて気付いたことなので間違いないだろう。氷川は、青年と一緒に自分のマンションに初めて向かった時の事を思い出す。

 前夜に彼の悪戯でプールにはめられてしまい、直に帰る事が出来ないからと結局ホテルで一泊した翌日。朝早くの街中で、青年は人目を引いていた。はっと目が褪めるようなものではなく、自然に目を向けてしまう、そんな雰囲気を持っていた。
 だが、当の本人は、そんな事には無関心だった。いや、人の目は気付いていたが、それを違うものとしてとらえた。クスクスと楽しげに笑いながら、隣に並ぶ氷川が目立つから自分も見られてしまい居心地が悪い、そうぼやいたのだ。
――違う。君が目立つんだ。私ではない。
 そう言った氷川に、きょとんとした表情を見せ、その後、街中だと言うのに腹を抱えるほどの爆笑をした。
――あんた、最高だな。俺じゃなく、あんたを見てるんだよ。いや、あんたの連れだという理由で、俺も見られているんだけどさ。あはは、鈍感もここまでくれば、特技だな。
 俺が目立つなんて、その発想面白いね。そう笑う青年に、だから違うと口を開きかけた氷川だが、次の言葉でそれは消えた。
――俺はね、こんな光の中では目立たないんだよ。体が覚えてしまっている。客を引っ掛けるために自分を魅せることはあるが、その他じゃ、無意識に息を殺して、人目を避けるんだ。目立って生きていけるほど、俺は器用じゃない。…目立つのは、命取りなんだ。
 だから、今こうして注目を浴びるのは、やっぱりあんたのせいだよ。青年は少し高い位置にある氷川の目を見つめ、子供のように目を細めて笑った。
 人気アイドルのような、派手な銀色の髪と甘い顔立ち、すらりとした体を滑らせ人込みを上手く歩く姿。そして、少し擦れた感がある、どこか儚げな雰囲気。どこを見ても、確かに飛びぬけてはいないが、周りとは違う。一つ一つならば多くの者が持っているだろうが、その全てを持っているこの青年が、他人の目を惹かないわけがない。
――…お前も、鈍感だ。
 横目で隣を歩く青年を観察し、やはり目立っているのはこの青年だと確信する。だが、それを相手に認めさせる努力を放棄し、氷川は少し悔し紛れにそう呟いた。議論を放棄したのは、馬鹿馬鹿しいと思ったのも確かにあるが、この青年には口では勝てそうにないと、何処かで認めたからなのかもしれない。
 氷川の言葉に、青年は返事はしなかったが、何故か満足そうに頷き、笑った。よく笑う青年だ。本当に、楽しげに。こんな出会いでなければ、単純に好青年だと好感を持っただろう。だが、見た目ではわからない、闇の世界にこの青年は身を投じている。
 早い時間とは言え、多くの者が動き出している朝の街。その人込みの中で見る青年は、体を売って生きているなど思いつきもしない、清涼感さえあった。生まれたばかりの太陽に照らされる銀髪が、キラキラと透けて輝く。こぼれる微笑みは、青年は今、確かに幸せな道をその足で歩いているのだと、錯覚させる。
 だが、そうではない。
 氷川はチラリと横を歩く青年の体を見た。細いコートに隠されたその下には、傷だらけの体があるのだ。昨夜見た、腕に刻まれた無数の傷を思い出す。水の中ではしゃぐ青年の体には、腕だけではなく他にも所々に傷があった。
 彼が言うように、全て自ら作った傷なのだろうかどうなのか、そこまではわからないが、かなりの時間をかけて作られた事は氷川にもわかった。ひと月やふた月ではない、もっと長い月日をかけたものだ。
 リストカットを知らなかったわけではない。だが、メディアや第三者という媒体を通して聞くものと、本人から直接その傷痕を見せられながら語られるのとでは、全く受け取り方が違うというもの。青年のそれに、氷川は純粋な恐怖を感じた。人は、自分をそこまで傷つけられるのか。人は、そこまでして生にしがみ付くのか。
 自殺を考えた事もなければ、絶対に生き抜くと強く思った事もない。そうした考えを持つ必要のない生活をしていた。だから、自殺する者も、他の人間を殺す者も、理解出来ない、嫌悪の対象でしかなかった。生きるために自分を傷つけるなど、馬鹿な言い訳をする弱い者だと、そんな自分に酔っている狂人だと思っていた。今も、それはあまり変わっていないのかもしれない。
 だが、何にでも例外はあるのだろうか。弟が自殺をしたと知った時は、腹が立ち、苛立ち紛れにもう居ない彼を罵倒した。そして、その後は後悔ばかりが積み重なっていった。そんな時に現れた、僅かに弟と似た境遇でありそうな青年の意外な面に触れ、嫌悪などという彼の面ではなく、自分を見つめることになった。
 自分には、それほどまでの思いが何かあるだろうか。下等だと見ていた者達の方が、よっぽどこの世で生きているのかもしれない。そう、この世界は綺麗な面ばかりじゃない。それを知っているのに、自分はその綺麗な場所でしか生きていない。理解出来ないものを理解しようと努力などせず、関係ないと全てを切り捨てている。それは悪いことではないだろう、自分だけがそうだというわけではないだろう。だが、この青年の前では、そんなものは幼い子供のような言い訳にしか過ぎないのだ、とそう思えた。
――兄貴は、ずるい。
 弟に何度も言われた言葉が、氷川の中で蘇った。昔は鬱陶しいほど自分の後を付いて回っていた弟は、いつの頃からかそんな言葉を吐くようになっていた。差し出した手をとることはない、そう気付いた時に手を伸ばすのを止めた。けれども、放っておく事も出来ず、側による。近付く自分を睨みつけ、忌々しそうに弟は言うのだ、卑怯者、と。
 何を言っている、とその頃の氷川は、そんな言葉を吐く弟に意味を問いただす事はなかった。聞く耳などもっていなかった。だが、今なら少しわかる気がする。彼には、自分の中にあるそんな面が確かに見えていたのだろう。
 弟を心配していたが、本当にそれが全てだったかと問われれば、迷わず頷く事は氷川には出来ない。世間体や、家族としての、兄としての立場や、自己満足にしか過ぎない思い上がった感情もあったのだ、確かに。
 彼の死をもってそれを理解しても、もう遅いというものだろう。だが、しないよりはいい。それこそ自己満足の懺悔でしかないのだろうが、弟の痛みを少しでもわかれる気がするのは、氷川の慰めにもなった。そんな自分は弱い人間だと、情けなくなり零した言葉に、泳ぎ疲れて眠ってしまったとばかり思っていた青年が反応した。
――いいじゃないか、弱いのは。
――…起きていたのか。
――疲れすぎて、眠り付く力がない。
――何だ、それは…。
――眠るにも、力は必要だ。知らないのかよ。
 呆れた氷川を、青年は喉を鳴らしながら、真っ直ぐと見つめてきた。
――それよりもさ。弱いのも悪くはない、俺は逆に良いと思うぜ。強いとさ、何にでも疲れてしまう。人間には、逃げ道は必要なんだ。いや、そう言うとあんたは嫌いそうだな。逃げ道じゃなく、…休憩所? 何せ、自分を甘やかせるのはいい事だ。
――いい事? 普通は悪い事だろう、自分を甘やかすなどというのは。
――そんなことはない、頭が硬いな、あんた。だってさ、他人なんて所詮は別の生き物なんだから、絶対に甘やかしてなんてくれないんだぜ。無意識だとしても、計算をしている、色んなね。純粋に甘やかせられるのは自分だけなんだ。だからさ、自分には甘くていいんだよ。きつい事や辛い事は外からやってくるんだから。どんなに嫌でも、やって来るんだよ。
――……。
――…あんた、ホント、俺の言葉を素直に聞くな。馬鹿な事をと思うのなら、考えもせずに一蹴しておけよ。俺は思いつくまま喋っているんだ、明日には違う事を言うかもしれない。言葉の真実より、そこんとこを見なきゃ。あんた、人に騙され易いタイプだろう?
 ベッドの中で、青年はニヤリと笑った。
――…口から出任せか。
――いや。少なくとも、語っている間は真実だ。
――君は…。
 胸の思いは何故か言葉にはならず、変わりに「口の減らない奴だな」と氷川は悪態を吐く。青年は氷川の言葉がとっさのものだと気付いたのかどうなのか、「そんな自分に左右されるあんたが駄目なんだ。だからからかいたくなるんだよ」と怒る事もせず、ただ肩を揺らして静かに笑った。

 本当に、不可思議な人間だ。
 楽しげに笑うその姿も、紡がれる言葉も歳相応の男であるのに、あの傷を見てしまったからだろうか、いつでも儚さが付き纏っているように感じる。そう、だから自分は目を放す事が出来なくなったのだろう。気になるのだ。


「残念ながらお前の予想は間違っている」
 氷川は笑いながら言葉を繋いだ。
「まず、第一に恋愛関係にはない。第二に女性じゃない」
「……誰、それ?」
 たっぷりと間を置き、木崎は目を見開いたままそう言った。だが、直ぐに「なんだ、男かよ」と溜息をつく。
「もったい付けて、そんなオチかよ、おいおい。
 じゃあ、なんだ。親戚とか友達とか?」
「いや、知り合ったばかりの者だ」
「はあ?」
 今度は怪訝に眉を寄せた友人に、氷川は同居人と暮らすことになった理由を隠さずに話した。もちろん、自分の事をであって、青年のことは詳しく話しはしない。それは、彼の世間では誉められない仕事の話を本人に無断でするのは気が引けたし、実際にはそう知ってはいないから話せもしないというものだ。
 だが、相手は何もわからない子供ではなく、今の社会を知っている大人であり、人間を見極める能力に長けている人物だ。木崎が簡潔な言葉から状況を読み取るのはそう難しいことでもなかった。
「…売りをやっているような奴を拾ったって言うのかよ」
 その木崎の呆れ声の中には、微かな憤りも含まれていた。
「そういった事実はどこにもない。彼がそんな話をしたと言って証拠はないし、現に俺と彼の間に金銭のやり取りもない」
「屁理屈を言うな。…何故、そんな奴を拾ったんだ」
 抑えられた木崎の声が、氷川の心に刺さる。取り乱しはしないが、それに近い感情をこの友人は持っただろう。もしも自分がその立場なら、おかしくなったのかと、軽率な行動を詰るくらいの事はするだろう。
 氷川は、突然の告白に戸惑いを持つ木崎を見、ゆっくりと首を振った。
「そういうんじゃない。ただ、俺が彼を放って置けなくて、頼んだんだ。別に飼いならそうとしているんじゃない。ただの同居だ」
「見知らぬ男と、か?」
「成り行きだ。彼の仕事とは、関係はない」
「そうは言うが……冗談だろう」
 俺をはぐらかせようとしているだけだろう。本当は可愛い娘が居るんじゃないのか、と木崎は硬い表情ながらも笑った。ここでそうだと言えば、木崎が信じきる事はないとしても、話は終われるのかもしれない。そう、はじめからもっと上手く誤魔化す事も可能だった。
 だが、それはしてはいけない事だと氷川は思った。そして、する必要もないと思った。心配してくれた木崎に話すものとしては、笑う事も出来ないというものなのかもしれない。だが、自分がとった行動を隠すことは、友人を欺き、そして、あの青年を否定するように思え、氷川にはどうしても出来なかった。
「事実だ」
 氷川の言葉に、木崎は長い溜息を落とした。暫しの沈黙後、何かを納得したかのように息を吐き、低く笑う。
「真面目な奴ほど、何をするかわからないな。行き成りこれだ」
「俺は、そう言われるほども真面目じゃないだろう」
 真面目だと確かに言われるが、それは外面が良いだけと言うものだろう。子供の頃から、確固たる意思を持っているというよりも、刃向かう事が面倒で、言われるように生きてきた。大人になってからも同じで、自分が思う時は我が儘を通すが、基本的には上に使われるのも仕方がないと受け入れている。真面目と言うよりも、味気ない人間なのだ。友人もそれを知っているからこそ、よくからかう。それなのに、今夜の木崎は真剣な顔で首を振った。
「ボケてはいるけど、やっぱり、お前は真面目なんだよ。いや、真面目と言うより、正直なんだな。自分の感情に。誤魔化す事をしない」
「…それは、誤魔化せば良かったということか。聞きたくなかったと?」
「そういうことじゃない」
 そういうことじゃないが…。木崎が言葉を濁す。
「まだ、頭も気持ちも追いつかない。お前がそんな事をするとは、やっぱり意外だからな。ったく、俺を混乱させるなよ」
「悪い」
「ホントだよ、全く」
 軽く笑い、木崎はグラスを煽った。だが、その表情とは違い、自分の告白を処理しようと頭は回転しているのだろう。
「木崎」
「ん?」
「そう深く考えないでくれ。俺も、あまり考えていないんだからな」
 考えろよ、当事者だろう。氷川の言葉に、木崎が喉を鳴らす。
「ま、何にしろ、お前が立ち直ったのは、そいつの影響があったということか…」
 取り出した煙草に火をつけながら呟いた木崎の言葉に、氷川は言葉にはせず、ただ軽く頷いた。


「済みません、ここ、いいですか?」
 突然側で上がったその声に、氷川は振り返った。自分に向けられての言葉かと思ったが、声はカウンターの中に居た藤咲にかけられたものだった。バーとは言え、今は関係ないのだろう。まだ10代と思しき可憐な少女が、氷川の視線に気付き軽くはにかむ会釈をし、1つ席を空けてスツールに腰を降ろした。
「隣、失礼しますね」
「ええ、どうぞ」
 連れが居るのだろう、自分に声をかけながら後ろを振り返る少女から氷川は視線を離した。だが、直ぐに手元に落としたそれを、再び隣に戻す事となる。
「どうしたの、リヒト。座らないの?」
「ん、ああ」
 失礼します、と隣の席に座ったのは、今まで話題に上っていた同居人だったのだ。
 氷川はその姿を確認し、驚いた後、思わず顔を顰めた。だが、青年はそんな氷川にこりと笑いかけ、直ぐに少女の方を向く。隣の席になっただけの見知らぬ他人のような仕草で、体を僅かに斜めにし、背中を見せた。
「どうした、氷川?」
「いや、なんでもない」
「込んできたな」
 吹かしていた煙草を揉み消し、グラスに手を伸ばしながら、木崎は店をチラリと眺めて言った。
 隣から、飲み物を注文する青年の声が聞こえる。
 この広い街中で偶然に出会う確率など、極僅かなものだ。一緒に暮らしていると言っても、朝晩少し顔を合わす程度でその実感は薄かったが、慣れてきてもいた。だが、何故かこうして偶然に出会ってみると、妙に気まずい感じがした。先程まで肴にしていたせいだろうか、居心地が悪い。
 そんな自分とは違い、青年は少女と楽しげに話している。ふと、嫌な発想が頭に浮かぶ。
(…まさか、仕事か…?)
 思いついたそれを、軽く頭を振って、氷川は振り払った。そんな考えを持った自分が嫌になる。いくらなんでも、あどけなさが残るあんな少女とは…。
 だが、そう否定出来るほど、青年の何もかもを知っているわけではない。そんな根拠は何処にもないではないか。
 氷川は酒を注文するのに合わせ、隣の二人を盗み見た。
 楽しげに笑い合う姿は、仲の良い恋人同士にしか見えなかった。

2003/03/07

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