◆ 5 ◆


「…いっぱいだね」
 買い物を終え、目をつけていた店の扉を少し興奮気味に押し開け中に入った媛木は、小さな溜息とともに呟いた。入口で立ち止まったその姿に苦笑しながら、リヒトは軽く背中を押して彼を中へと促した。ドアを開けたままでは、店内の客に嫌がられるだろう。
「雑誌に載ったからだろう。時季が時季だしな、仕方がないさ」
「うん、そうだよね。あ。カウンターなら空いてるよ」
 あそこにしようか、と訊いてきた媛木にリヒトは頷き、ふと思い出したように付け加える。
「俺はいいよ、どこでもさ。だが、この賑やかさだと、あの男はさっさと帰りそうだな」
「なら、挟間さんが来るまでだね」
 リヒトの言葉に軽く笑い頷きながら、媛木は左手にあるカウンターの空席を目指し、少し跳ねるように足を進めた。その後に続きながら、リヒトは騒がしい店内に目をやった。
 自分達と同じ、雑誌を見てやって来たのだろうか。多くが学生らしい若者連れで、合コンか何か知らないが異様に盛り上がっている。ちらほらとカップルやビジネスマン連れがいる事にはいるが、目立つほどではない。
 店の雰囲気は、騒々しさとは別に、とても落ち着いたものだった。床や壁の一部は、深い落ち着きのあるまくら木を利用しているようで、独特の色艶がなんともいえない温か味を生み出している。喧騒の中では聞きとりにくいが、床と靴が作る音は心地良い。絞られたオレンジ色の電気は、人工的なものだというのに、どこか疲れを癒すような力を持っているかのようにも感じる。
 どうやら先程連れに言った言葉はあたっているのかもしれない、とリヒトは軽く苦笑した。雑誌に載ったからこそ、客層が変わってしまっているのだろうと。常連客はこの五月蝿さに逃げたのかもしれない。
 落ち着いた、大人の静かな店。
 雑誌ではそう表現されていたと言うのに、なんとも残念なものだとリヒトがしみじみと思った時、声が掛かった。
「どうしたの、リヒト。座らないの?」
(――え…?)
 媛木の呼びかけに視線を向け、そこで予想外のものを発見した。リヒトはその驚きで喉を詰まらせてしまい、まともな返事を返す事が出来ない。どうにか出した声は、全く力のないものだった。
「…ん、ああ」
 首を傾げる友人に、微かに笑いながら、何でもないと軽く首を振る。気を取り直そうと一度深く呼吸をする。
 そう、なんでもない。
 ただ、知り合いがいたというだけなのだから。
「失礼します」
 だが、この出会いは本当に何でもないのだろうか。
 夢見る少女とは違い、疑心暗鬼になり心の余裕を無くした醜い人間のような気持ちで一瞬そう考えたリヒトは、直ぐに馬鹿らしいと思い直し、隣に座る男に軽く声をかけながら席についた。
 別に挨拶を交わす関係ではないと、リヒトはそのまま媛木に声をかけようとしたのだが、隣の男が自分を凝視する視線を感じ、思わず目を向ける。それくらいに、強い感情を持った視線だった。心底驚いていると言う事は、やはりこの出会いは偶然なのだろう。
 一日働いて疲れているだろうにその疲労さえ見えないほど、男の目には驚愕の色が浮き上がっており、その目に目を合わせたリヒトは思わず軽い笑いを漏らした。上がった口角に対抗するかのように、男の眉間に皺が寄った。
「リヒト。ね、何にする?」
「ん?」
 そんな男をそのままに、リヒトが逆の隣に首を向けると、媛木が真剣な顔でメニューを眺めていた。その手元を一緒に覗き込みながら、背中を向けた男の声を聞く。どうやら連れがいるようだった。

 他愛のない会話を交わしながら、静かに酒を傾ける。正直、自分も媛木もそんな大人の仕草など似合っていないことは充分に承知している。だが、テーブル席で騒ぐ若者達とは違い、時と場所を選べる程度には大人でもあるとリヒトは思っている。
 隣の男には、自分達はどんな若者に見えるのだろうか。
 リヒトはそんなふとした思い付きに、軽く笑を漏らした、その笑みをどうとったのか、媛木も嬉しそうに笑った。
 突然、先程から騒いでいた団体の中から、店中に響く喚声が上がった。その声に驚き、チラリと振り返り小さく溜息をついた媛木に、カウンター内にいた若い店員が済みませんと謝ってきた。彼もまた、ニコリと会釈出来るくらいには人間関係を知っている。
「いえ、気にしないで下さい。ね、リヒト」
 店員の言葉に自分が落としてしまった溜息に気付き、口元を軽く抑え頬を少し染めながら、媛木は恥しげに首を振って言った。
「少し雑誌に載ってしまったので、客層が広がりまして…。多くの人に来ていただけるのは嬉しいのですが、雰囲気が壊れてはもともこもありませんね」
 苦笑しながらも辛辣な言葉を吐く青年の発言は、リヒトの予想通りのものであった。店員さえも、少しこの状況に戸惑っているのだろう。愚痴っているようでもある。
「何だか、大変みたいですね」
 姫木の真剣に心配する様子に、リヒトは苦笑しながらその頭を撫でた。
「ヒメ」
 この少年は、いつまでたっても純粋だ。こんな生活をしていても、素直で優しい純朴な人間だ。決して歩きやすい道を歩いてきたわけではないのだろうに、人を嫌ったり世の中を憎んだり恨んだりせず、ただ静かに全てを受け入れる。
 そんな彼の強さと美しさを、リヒトは気に入っている。何度彼の笑顔に救われただろう。青年の言葉を受け、真剣に困ったように眉を寄せる姿は、微笑ましいものでもある。
 だが、それと同時に、憎らしくもある。何故ここまで純粋でいられるのか、自分には出来なかったのにどうして…? そう妬まずにはいられない。そして、次の瞬間には、そんな感情を持った自分自身をリヒトは嫌悪する。全てが、嫌になる瞬間だ。
 それでも、何もかもを投げ出す事はなく、一瞬で心の奥底にその激情を押し込んでしまえるのは、自分が強く、ただ生きていく事だけを願っているからだろう。人間とは、どんなにどん底の状態であろうとも、バランス能力は働くらしい。そんな馬鹿な思い付きを一笑しながら、自分は全てを隠すのだ。
 リヒトは心に落ちる影を払うように、眩しく輝く少年の髪をかき回した。綺麗な黒い髪の中、光が踊る。
「俺達もその雑誌を見て来たんだろう。他人の事は言えないさ」
「そうだけど…。雑誌に載るのもいい事ばかりじゃないんだね」
 しみじみと言いながら頭を撫でていたリヒトの手を媛木は外し、乱れた髪を軽く手で直しながら微笑んだ。
「別に、お前が気にすることはないだろう」
 そう、今のこの店の状況を、流行っていいじゃないかと思う人間が圧倒的に多いのだろうが、気の毒にと思う者も何人かいるだろう。だが、それ以上に、親身になって心を痛める物などそういない。まして、今夜初めて来た媛木がそんな心情になるなど、おかしすぎることだ。だが、この少年はそれが素直に出来る人間だ。この媛木なら、と簡単に納得出来る。
「この店、気に入ったんだろう? ならそれでいいじゃないか。それ以上、色々考えるなよ、バカ」
「あはは、バカとは、酷いな」
 乾いた笑いを零し、媛木は軽く俯いた。多分、自分の言葉の真意を察し、気を使わせてすまないと思っているのだろう。リヒトはもう一度、今度は叩くように軽く頭に手を置いた。
 自分の思考が、後ろ向きという以上に病的要素を含むものである事を媛木自身が理解している。何もかもが自分のせいだと考える自身を、リヒトが心配してくれる。それは媛木にとっては、嬉しい事以上に申し訳ないことなのだ。リヒトとて彼の姿を見ていれば、そんな事は直ぐにわかる。だが、彼の不安を取り除くためだからとはいえ、放っておく事など出来ない。
「…ゴメンね」
「謝ることじゃないだろう、バカ」
 無意識に近い小さな呟きは聞き流してもいい事なのだろうが、あえてリヒトはもう一度同じ言葉を媛木に言った。そこにある親しみを感じられないほど、彼は他人を拒絶しているわけではない事をリヒトは知っている。この少年は、例え辛く難しいことでも、こんな風に他人の思いを受け取れるようになるしかないのだろう。多分、それは無理なことではないはず。
 そう。そうなのだ。だからこそ、自分はこの少年を心底嫌う事は出来ないのだろう、とリヒトは思う。望みを持った彼を羨ましいと思いながらも、それに少しでも触れられ、自分が役にたてることを心地良く思っている。例え、エゴでしかなくても、確かにそれは自分の力となっているのだ。
「バカ、バカ言わないでよ。本当にそうなっちゃいそうだよ」
 顔を上げ、グラスを口に運びながら、媛木はそう言って笑った。
 その苦笑に、携帯の着信音が混じる。
「あ。――挟間さんだ」
 メールが届いたようで、カチカチと幾つかの操作をした後、携帯を眺めていた媛木の顔に本物の笑顔が浮かぶ。
「もう直ぐここに来るみたい」
 返信を終えた媛木は、心を躍らせながら「ちょっと、トイレにいってくる」と席を立った。店の奥に進む彼の体はまるで踊っているようだ。騒いでいた若者が、側を通った媛木の姿を振り返って目で追っている。多分、それは彼の顔にのる笑顔だけのせいではないのだろう。
 華奢な体をゆったりとした大き目の白いセーターで包み、黒い細身のジーンズに厚底のブーツ。飾り気など全くない格好だが、人目を惹くには充分の魅力をあの少年は持っている。だが、それは女性としての注目なのだろう。
 慣れきった事とはいえ、それでも少年の姿に何やら騒ぐ男達を、馬鹿な者だと呆れずにはいられない。世の中、単純すぎるがゆえに複雑なのだろうか、と自分でも意味のわからない事を頭で考えながら、リヒトは視線を戻した。
「済みません、同じものを」
 先程話していた店員に、2杯目の酒を注文する。
 アルコールはあまり得意ではない。弱いと言う事もないが、強くもない。程よい気分以上には飲まないように、リヒトは常に気をつけている。
 深酔いは、自分の首を絞めるだけなのだ。薬物のようなバッドトリップ。悪酔いしかしない。多く飲むと何故か頭が冴え渡り、自分がいかに醜い人間なのかをリヒトに教える。普段は気付かない心の奥底まで見せる。だが、一応酔っているからだろう、いつもは切り捨てられる事が出来なくなり、ただ苦しむのみなのだ。
 なので、適度に緊張が取れる以上には、酒は口にはしない。
 だが、それでも、今以上に追い詰められるのだとわかっていても飲みたくなる事もある。その苦しみを求めてしまう事もある、極偶にだが。正直、逃げたいのかその闇の中に居たいのか、何を考えているのか求めているのか、自分で自分わからない。
 突き詰めても答えなどないのだろう。わからないのに、漠然とだが、何故かそれを知っている。いや、確信している。
 本当に、感情とは厄介なものだ。
 カウンターテーブルに出された新しいグラスをじっと見つめながら、リヒトは小さく長い溜息を落とした。
 その息が吐き終わった時、隣から声がかかった。
「偶然、なんだろうな…」
 男の呟きにリヒトが顔を向けると、相変わらず全ての物に興味がないといったような、少し眉を寄せた愛想のない顔で自分を見る買主と目があった。
「あんたもそう思ったってことは、いやはや、全くそうみたいだな」
 乾いた声で感情なくリヒトが言うと、そんな事があってたまるかというような視線を氷川は向けてきた。自分とてこんな偶然は全く歓迎していないのだから、そう睨まれてもどうしようもないと、リヒトはただ肩を竦める。
「俺があんたを追いかけるわけがないだろう。逆は知らないけどさ」
「……」
 口を閉ざした氷川から視線を逸らし、再び小さく息を吐く。
 一緒に暮らしてはいるが、互いに理解を深めたわけでも、何らかの繋がりを持ったわけでもない。だがそれでも、偶然こうして外で会うという事を全く予想していなかったというのはわかるが、ただそれだけでこうも戸惑う男が、リヒトにはいまひとつ理解が出来ない。気まずく思う事は確かに関係が関係なのだからわかるのだが、それでもやはり、ならば何故自分を買ったのかと呆れてしまう。
 やはり、この一週間生活をともにしたと言えるほど一緒にいたわけではないが、氷川は思いつきで男を買うような人間でないという事は充分過ぎるほどわかる事だった。とにかく、真面目な人間なのだ。間違っても、金の関係など持たない人間だ。なのに、それをした。そして、本人はそんな自分をどう思っているのか、リヒトに対して今も出て行けとは要求しない。
 朝と夜に少し顔を合せ言葉を交わす程度だが、本当に単なる同居人としてしか扱わない。男が一体何を望んでいるのか。見えないそれは、リヒトに不安を呼ぶ。そのほんの少しの緊張は、嫌気がさす程むかつく事がある。正に、今の状況だ。
 自分を買った事を迷う、扱いに戸惑う男の空気は、とても息がし難い。普段は何を考えているのかと鼻で笑えるが、この一瞬は、さっさと放り出せよと声を荒げたくなる。
 その言葉をリヒトは酒と共に飲み込み、未だ視線を向ける男に再び目をむけ、口角を上げた。多分、相手が傲慢な客であったら殴り飛ばされるかもしれない程の、厭な笑みなのだろう。
「何?」
 氷川はその笑いを軽く目を細めて流し、口を開いた。だが、彼が声を出すよりも早く、別の声が二人の間に落ちた。
「知り合いか? 氷川」
 先程から気になっていたのだろう。耐えられずに声をかけてきた、氷川の逆隣に腰をおろした男を見、リヒトは軽く会釈をした。
 だが、次の瞬間、その笑みは顔から消え去った。
 氷川が連れにどのような答えをするのか、少し興味を持ち意識がそちらに向いていたリヒトは、近付いてきていた気配に全く気付かなかったのだ。
 突然、誰かの手が後ろから伸びてきて、何だと驚いた時にはもう、その腕はリヒトの首にしっかりと巻きついていた。
 こんな事をするのは、あの男しかいない。
 背中に感じる温もりが誰であるのか、リヒトは瞬時に悟り、抵抗を諦めた。首に回る片腕は、力を入れられれば簡単に骨を折られてしまいそうな気がするほどの脅威を持っている。そう、鍛えあげたような太い腕ではないが、自分に死を与える事は不可能ではないだろう。躊躇わずにそれが出来る男のものなのだから。
「…早かったな。挟間さん」
 リヒトはさり気なくグラスに手を伸ばしながら体を少し動かし、氷川の方を向いていた体勢を元に戻した。手にしたグラスに口をつけると、テーブルに戻す前に、名前を呼んだ人物に取り上げられてしまう。
「悪いか?」
 リヒトの首から腕を解き、先程まで媛木が座っていた席に腰を下ろしながらそう言い、挟間はグラスに口をつけた。羽織ったままのロングコートから、外気の匂いが漂ってくる。冬の匂いだ。
 コクリと透明の液体を飲みながら、リヒトの視線を受けた挟間はニヤリと笑った。先程の自分のそれより何倍も毒があるはずなのに、男の表情にその内面は映し出されはしない。本当に嫌な奴だ、とリヒトは軽く眉を寄せた。
「いらっしゃいませ。何をお作り致しましょう」
 リヒトに向けていた視線をバーテンの青年に向け、挟間は今度は優雅な笑みを浮かべる。
 そして。
「いや、悪いが直ぐに出るから結構だ。――いや、やはり、そうだな。何でもいいからバーボンをロックで。こいつにやってくれ」
 そう言いながら、挟間はリヒトの飲みかけのグラスを再び傾けた。酒を用意する青年を眺め、そのまま流し目でチラリと視線を向けてくる。その姿に、リヒトは目を細めた。
(――地獄に堕ちろっ)
 嫌な奴というレベルではないと顔を合わす度に教えこまれるのだ、少しばかりそんな願いをしたとしても、恨まれる事はないだろう。リヒトは神に祈るわけではなく、ただ目の前の男への悪態として、心の中でそう叫んだ。本人に言っても流されるだけなので、口にするのは惨めになるだけだ。
「媛木は?」
「…トイレ」
「そうか。デートは楽しかったか?」
「疲れたよ」
 どう答えようかと少し迷ったが、リヒトは無難な答えを返しておいた。今ここでこの男と会話を楽しむつもりは更々ないので、相手をその気にさせないことが最も重要な事なのだろう。
「その割には、お前も何か買ったみたいだな。よくやるね」
 クリスマスが嫌いなくせに。
 テーブルの下に置いていた小さな袋を目敏く見つけた挟間は、そう言って小さく笑った。
「別に、嫌いじゃない」
「どうだかな」
「あんたにもやろうか」
 言葉でどれだけ否定しても、この男の耳には入らない。リヒトはあっさりと反論を諦め、話題を変えた。袋を足に置き、買ったものを取り出す。
「何だ、それ」
 小さな円柱の包みを狭間の前に置くと、手を伸ばす事もなく、興味がないといった声でそう訊いた。媛木を待つ間の暇つぶしにもなりそうもないと判断したのか、顔からは笑みが消えている。
 男にすれば、自分を言葉で追い詰めて遊んでいたかったのだろう。だが、リヒト自身、それに協力する気は全く無い。
「ローソクだよ。他にも色がある」
 リヒトはそう言いながら、色違いの筒をいくつかテーブルに並べた。
 買うつもりなどなかったのだが、沢山の店をまわり真剣に贈り物を選ぶ媛木の姿に感化されたのか、色とりどりのそれが綺麗だったからか、気付けば手にとっていた。中身の蝋燭と同じ色の半透明のアクリルケースに、細いリボンを器用にかけて飾られたそれは、まさにクリスマス用のものだとしかいえない可愛らしさ。だが、それが微笑ましく妙に気に入ってしまった。
 20色近いそれを一色ずつ買い求め、ラッピングは必要ないとそのままゴロゴロと袋に入れてもらった。何を馬鹿な事をしているのかと思う反面、何だか心が騒いだ。自分で買ったものなのに、サンタクロースにクリスマスプレゼントを貰った子供のように。
 だが、使い道も、贈る相手も自分にはいない。なのでリヒトは、クリスマスは楽しいイベントなのだから、会った相手にやればいいのだとそう思い、まず媛木にプレゼントした。彼はとても喜んだ。
 そして、次に会ったのが、そのチャンスが来たのが、今目の前にいる挟間だった。ただ、たまたまそういう事になったと言うだけにしか過ぎず、それ以上の感情はない。確かにこの男が思っているように、この時季は感傷的にはなりやすいが、だからと言ってこんなたかだか数百円の物で繋がりを得ようとしているわけでもない。
「ヒメは一色に決められないからと言って、水色と黄色とピンクを持っていった」
「可愛いな、全く」
 鼻で笑いながらの男の言葉が、話題にのぼった少年のことでも目の前の物体に対するものでもなく、こんな事をしている自分に向けられているというのは、間違いようもない事実。リヒトは小さく舌打ちをする。
「…うるさい。要らないのならいい」
「いや、貰うさ」
 挟間はそう言い、面白味も何もない白い蝋燭を手にとった。
「アロマキャンドル、ね。ふ〜ん、なるほど」
「あ。挟間さん」
 自分で振った事だが、実際に挟間が受け取るとは思っていなかったリヒトは、何を考えているんだと軽く眉を寄せた。そこに、媛木が戻ってくる。
「それね、ボクも貰ったよ、3コも。かわいいよね」
 狭間の手の中の蝋燭に手を伸ばしながら、媛木は微笑んだ。
「まだ居たいか?」
「え?」
「出よう」
「あ、うん」
 席から立ち上がった挟間は、コートと荷物を持った媛木に外に出るよう顎で示し、リヒトに言った。
「お前は、それ飲めよ」
「ああ、どうも…。じゃあな、ヒメ」
「うん。今日はありがとう。またね、リヒト」
 慌てる様な行動に少し苦笑しながらも反論することはなく、リヒトに小さく手を振り、媛木は背中を見せた。挟間に言われたように、素直に真っ直ぐと出口に向かう。その姿を見ていたリヒトの耳に、挟間が囁いた。
「なかなかいい男だな」
「……」
 何がと訊く必要はなく、それが誰を指しての事かリヒトは即座に理解する。こうなっては、何の事かと惚ける事に意味などない。
 ただ、言葉なく眉を寄せたリヒトに、挟間は満足げな低い笑を落とした。
「だが、厄介そうだな。本当に、お前はハズレを引くのが上手い」
 気をつけろよ。
 いつもの男らしからぬ、少し真剣な声でそう囁く。それはどう言う意味なのか。リヒトは思わず顔をあげた。だが、それがいけなかった。
 重なった唇は、リヒトの言葉を飲み込み、変わりに温かな生き物を差し込まれた。その動きは快楽を得るものではなく、男の姿そのものといった、リヒトをからかうだけのものであった。
 クチャリと湿った音をわざとたて、抗議を訴える前にあっさりと唇は解放される。本当にからかう為だけのくちづけだ。この後この店へと残された自分を想像し、男は楽しむのだろう。ふざけた奴だ。
 だが、それでも本気で抵抗出来ない自分が一番悪いのだ。自分は付け入る隙をわざと作り、ただ構って欲しいだけなのかもしれない、とリヒトは離れた男の唇を見ながら思った。その唇が、不意に少し歪んだ。
 視線をほんの少し上げると、今キスをした事などすっかり忘れた表情の男がいた。ふと、リヒトの体を挟むような形でカウンターに腕を伸ばし、まだ一口も減っていないリヒトのグラスの下に、挟間は半分に折った札を挟んだ。
「じゃあな」
「おい…」
 何のつもりだという質問は愚問なのだろう。そう、男は自分で遊んでいるというのは目に見えている。それ以外に理由はない。だが、それでも置かれた一万円札に、抗議をしたくなるのは当然の事。
 しかし、リヒトの呼びかけなど全く気にせず、挟間は身を翻した。扉の前でやってこない男を待っていた媛木には先程のキスは見えていなかったのだろう。男の背を追い視線を向けたリヒトに、彼は笑顔で再び手を振った。その姿が男と共に扉の外へと消えるのを、リヒトはその場で見送った。
 二人が消えた出入口を眺め、溜息を一つ吐き、捻っていた体を元に戻す。テーブルの上に置かれた札は、グラスの水滴を受け、濡れていた。仕方がないのでグラスから外すため、酒に口をつける。正直、美味しいとは思えない味がリヒトの口内に広がった。
 テーブルに張り付いた一万円札。その横の蝋燭を指で弄り、決心して隣を振り向き声をかける。
「これ飲んだら消えるからさ。もうちょっとだけ我慢してくれ」
 リヒトはそう言い、視線を向けた氷川に軽く笑った。苦い酒など飲んでいずに、今直ぐ出て行きたい。だが、そんな事をして再びあの男にあってしまったら、更に最悪な事態に陥るのだろう。居心地が悪くともここで時間を潰さなければ、その確率が高くなる。
 そして、そんなふざけた状況に陥っている自分には、拙い酒が似合うというもので。半ばやけくそと言う言葉が似合うような心境で、リヒトはまた一口苦い酒を飲んだ。
「別に、我慢などしていない」
「そう? 見たく無いものを見たんじゃないの」
 氷川の眉間に深い皺が寄る。言わなくともいいことを、口にしてしまうのは、一種の職業病なのかもしれない。それを止められないのは、捻くれた性格だからだろうか。
 氷川の予想通りの反応に、リヒトは喉を鳴らし、テーブルに視線を落とした。この男をからかっても仕方がない。気分など晴れるはずもない。八つ当たりでしかないだろう、と気付かれないような小さな溜息を落とす。
「おい」
「…ん、何?」
 リヒトの落とした視線の先で軽くテーブルを叩き、氷川は声をかけてきた。
「友人の木崎だ」
 顎で逆隣に居る男を示し、突然そう紹介した氷川に、リヒトは眉を上げた。何だというのか、一体…。
「ん、ああ。今晩は、初めまして」
「…ああ、こちらこそ」
 それでも、客商売をしてきた経験から、咄嗟の事で頭がついていかずとも、リヒトは笑顔で挨拶をした。紹介された男・木崎は、明らかに戸惑ったような顔で頷いた。その表情に、まさか、とリヒトは氷川を見る。
「あんた、喋ったのか? 俺の事」
「現状について、少し」
「少しって……バレバレなんだろう?」
 そうでなければ、あんな顔はしないだろう。
 リヒトが木崎に視線を向けると、氷川も彼を見た。木崎は何と言えばいいのかわからないといったように、小さく口を開けては閉じている。その姿に、リヒトは溜息を落とした。
(冗談だろう…? マジかよ…)
「木崎さん。あんたも驚いているだろうけどさ、俺もまさか紹介されるとは、驚いたよ。あんたの友達ってさ、一体何考えているんだろうね」
 溜息交じりに言葉を紡ぎ、肩を竦めて首を振る。そんなリヒトに「何がだ?」と氷川は顔を顰めた。
「これだよ」
「……お前――男娼なのか?」
 辺りを気にしてか、ただその言葉にか、リヒトの言葉に反応せず、低い小さな声で木崎はそう呟いた。だが、そんな声とは違い、目からは驚きの色を消してる。そこにはリヒトを見極めようとするような強さが浮かんでいた。
 氷川と同じくらいの年だろうが、大人の落ち着きを感じない雰囲気は、怒りのためか戸惑いのためか、元々そうしたものを持っていないのかは判別出来ない。その雰囲気だけで言うならば、まだ子供のような感じの男だ。怖い物などないといったような、敵意を剥きだしている様な瞳。
 実際の所は、年齢に似合う経験を積んでいるのだろう、若者と違って馬鹿ではない。だからこそ厄介なのだろうが、そういう人間をリヒトは嫌いではない。敵意でも行為でも、自分の感情を見せる人間はわかりやすくていい。ただ、真っ直ぐと向けられる木崎のその視線は、あまり良いものではない。氷川とは全く異なるものだ。嫌いではないが、好きだともいえない。面倒そうだ。
 人を観る目が自分にあるのかどうか、リヒトにはわからないが、こういった勘は結構あたる。木崎は嫌いなタイプではないだろうが、苦手とするタイプのようだ。
 リヒトの頭に、先程の男の笑いが浮かぶ。そう、限度は違えど、根本的に同じタイプだろう、喰えない人間だ。ただ、木崎は基本的に善人そうだが、狭間の場合は悪人であり、違いすぎるともいえるのだが。
「面と向かってそう訊かれるとなぁ。結構困るね、その質問はさ」
 友人に男娼を買ったと男も男だが、その男の友人だけの事はあり、普通訊き難い事をこうもストレートに問うてくるとは、この男もなかなかのものなのだろう。だが、おかしな奴らだと笑えるのは、自分に害のない時に限る。
「ま、想像に任せるよ」
「おい。こっちは真剣に聞いているんだ」
 そう言った木崎に、リヒトは肩を竦める。挟間相手ではどう頑張っても勝ち目はないが、この男ならそうはならないだろう。客商売という実践で経験を積んでいるのだ、簡単にやられるつもりもない。
 リヒトはテーブルに放っていた一万円札を指ではさみ、腕を伸ばして空になっていた木崎のグラスにそれを入れた。
「何だ」
「さっきの男に貰った。見ていただろう? これを単に奢ってもらったとするか、キスの代金だとするか。ただそれだけで、捉えかたが変わってくる。後者とすれば、あんたの質問にはYESだろうな。だけど、俺がどう思っているかなんて、あんたにはわからないだろう? だからさ、答えようがない。確かに、キス以上のことをした時にも、金を手にした事はある。だが、それは俺の体の代金じゃなく、単に小遣いをくれただけにしかすぎないのだと言ったらどう?」
「屁理屈だな」
「そうだな。でもさ、そんなもんだろう。どこで線を引くんだよ。
 別に、俺はどう思われようといいからさ。あんたが納得いくように考えればいいよ。男娼でも何でも、好きにどうぞ」
 リヒトが笑うと、木崎は盛大な溜息を吐いた。そんな男に肩を竦め、氷川に話し掛ける。
「同僚さん?」
「ん? ああ、そうだ」
「なら、この店の近くに会社があるんだ…?」
 リヒトが小首を傾げると、氷川は少し考え、「近くというほどでもないが、遠くもない」と微妙な答えを返した。
「ふ〜ん、そう」
 ならば、あまりこの辺はうろつかないようにした方がいいのだろうか、とリヒトは生返事をしながら考える。氷川本人は気にしているのかどうなのかわからないが、自分との関係を教えられる同僚も気の毒と言えば気の毒で、避けられる接触は避けるべきなのだろう。
「お前…、まさか職業を教えていないのか?」
 不意に木崎が呆れたような声で会話に加わってきた。
「言っていなかったか?」
 木崎の言葉に、氷川は少し眉を上げ、リヒトに向かって僅かに頭を傾ける。一体どうしたのだろうか。
「ん? ああ、聞いていないけど。でも、別に教えてもらわなくても…」
 いいよ、とリヒトは続けようとしたが、木崎の少し不機嫌な低い声で発せられた言葉によって、それは口から零れはせずに喉の奥へと戻っていった。
「刑事だ、俺も氷川も」
「え…? ――マジ?」
 ギョッと目を見開いたリヒトは、間抜けな声でそう聞き返した。けれど、言われてみれば確かにそうなのかもしれないと、目の前の二人を見ながら思う。公務員だと言っていた時の氷川の表情を何故か鮮明に思い出す事が出来、その記憶に合わせ、木崎の言葉に直ぐ納得もする。
 だが、しかし。
 そうであれば、自分は刑事に買われたということか…。
「嘘をついても仕方がない。何なら手帳を見せようか?」
 木崎はそう訊ねながらも、スーツの内ポケットから警察手帳を取り出して開き、リヒトが見た事を確認して素早くそれを仕舞った。慣れた手付きだ。
「本当に知らなかったのか?」
 氷川がふざけた言葉を吐く。
「当たり前だ」
「感想は?」
 冷めた声で、これまたふざけた問いをしてくる木崎に、リヒトは天井を仰いだ。オレンジ色の照明が目に入り、眩しさに瞼を閉じる。
「刑事ね……。笑うしかないな」
 そう、笑うしかない。
 だが、リヒトの喉からは、乾いた笑い声ひとつ落ちなかった。

2003/05/26

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