◆ 6 ◆


 天井を向いたまま長い溜息を吐き、片手で目元を覆いながら俯いた青年は、「……参ったぜ」と呟きそのまま動かなくなった。銀色の髪が店の光を受け、いつも以上に明るく輝く。氷川は、同居人のその姿に軽く眉を寄せた。
 けれど。
「…お前、何考えてんだよ、ホントにさ」
 不機嫌な声に、青年の事が気にはなったが、こちらも無視は出来ないと隣を振り返る。そこには肘をつき頭を抱えた友人の姿があった。木崎は少し首を捻り、下から睨みつけるよう氷川を見上げてくる。
「別に、ただ言い忘れただけだ。訊かれなかったから、ついな」
「何が「つい」だ。…って、違う。仕事の事を言ってるんじゃないよ、俺は。お前の行動自体についてだ」
「……」
「ったく…。…ま、そいつは、かなり衝撃を受けたみたいだ」
 もうこれで終わりだな。
 どこか安心したようにそう言った木崎に、どう言う意味だと氷川は尋ねた。チラリと横の青年を見ると、頬杖を付きこちらを見ていた。だが、まだ何かを考えているのか、ぼんやりとした目だ。
「刑事と一緒にいられるわけがないだろう。お前もそう思ったから、あえて言わなかったんじゃないのか? ――いや、悪い。これは失言だな」
 自身の口から零れた言葉に自分で驚き、木崎は気まずげに顔を顰め謝罪を口にした。
 氷川の精神が不安定であったというのは、木崎も十分に理解していたのだろう。だからこそ、こんなふざけた行動も、何処かで仕方がないと思う面もあるのかもしれない。だが、それでも納得など出来るわけがないのだろう。
 友人はその憤りを何に対して向ければいいのか、決めかねているようだ。木崎の謝罪に、氷川は小さな息を落とした。決して、この友人をこうも悩ませようと思っていたわけではない。だが、こうなる事を、青年と契約を交わしたあの時に考えなかったのも事実だ。
 結局、悪いのは自分なのだろう。氷川は、自分自身こそが謝るべきなのだと思った。
 だが、どうしてもその言葉を出す気にはなれなかった。何故だかわからないが、友人の信頼を失うような行為をした事も、悩ませている事も、済まないと思うが口には出来ない。確かにいい事ではないが、悪い事なのだとも自分は思っていないのだと氷川は気付く。
 そう、木崎と同様、未だに自分の行動がわからないし、色々と悩んでいる。だが、多分後悔はしていない。青年との暮らしは、特に何もないが、それでも順調だ。生活を共にする事を望んでいたのかと聞かれれば、違うと言うものなのだろうが、小憎たらしいがどこか儚げな青年が目の届く範囲にいる事により、少しだが安堵と言うものを得ているのも事実だ。きっと、あのまま別れていたら、今も自分は彼を気にしていたのだと思う。
 小さな満足のために払う犠牲としては、友人の軽蔑は計り知れない大きな代償である。だが、後悔はしていない。今はまだ、この状況を受け入れようと、慣れようと努力する事に意識が向いているくらいなのだ。
 自分らしからぬ行動だというのは、氷川自身よくわかっている。弟を亡くしたことにより、精神が不安定になり、何か依存するものを求めたのだろう。自分の状況を聞いた者ならば、そんな風に考えるのだろうという事もわかる。もっと悪意的に言うならば、狂ったと言えるものであるというのもわかる。だが、自分がそうだとは、どう考えても氷川には思えないのだ。冷静さを失っている訳ではない。これは自分が確かに考え、迷いながら選んだものだと言える。
「木崎……」
 心配する友人に何を言えばいいのかわからず、氷川はただ彼の名前を呼んだ。確かに、考えがなさすぎたと言われればそれまでの軽率な行動だ。自分が良くとも、周り庭迷惑なものだ。だが、それがわかっているのに、自分はこうして友人を苦しめている。
 その辛さに対しては、申し訳ないという謝罪の気持ちで一杯だ。そして、気にかけてくれることに対しては、どれだけ感謝をしても足りないくらいだ。
 だから。
 済まない、と。たった一言、その言葉を言えればいいのだろう。
 だが、やはり言う事は出来ない。
 氷川は、呼びかけに反応を返さない木崎の姿に目を伏せた。胸にはある言葉なのに、口に出すと形を変えそうで、怖い。そして、何故か臆病になっているのと同時に、それとは別の理由で、口に乗せる事を頑なに拒否している部分もある。
 今のこの感情は、自分の状態は、言葉ではその半分も表現出来そうにない。
 生まれた沈黙は、永遠に続くかのように重いものだった。先程まで気になっていた店の喧騒さえ、耳に届かないほどに。
 木崎の無言の抗議に氷川が堪え難くなった時、沈黙を破り同居人が小さな呟きを放った。
「…最悪だな」
 ホント、最悪じゃん。
 自分で確認をするように強くそう言い、青年は盛大な溜息を吐く。その言い方が気に障ったのだろうか、木崎は氷川を通り越し真っ直ぐと青年に視線を向けた。その目は怒っているようではないが、面白くなさそうなものでもある。気に入らない仕事中であるかのような表情だ。
「刑事ね、刑事。ヤバすぎるって」
 そう言いながら、お手上げだと言うように小さくホールドアップをした青年に、氷川は訊いた。
「…悪い事でもしているのか?」
「しているに決まっているだろう」
 小さな舌打ちと共に氷川の問いに答えたのは、青年ではなく木崎であった。刑事としてはどうかと思う、こんな場所でのその横暴な態度に、氷川は軽く頭を振る。
「木崎。こんな事をして、心配してくれたお前には悪かったと思っている。だが、こいつが悪いわけじゃないんだ。絡むなよ。場所を考えろ」
「今更だろう、誰も聞いていないさ」
 最後の言葉にだけそう反応を返し、木崎は騒がしい団体を顎で示した。確かにカウンターに居る客は自分達だけで、怒っていようとも木崎は声が響かないように計算しているし、自分も青年もその事を弁えている。そして、話は聞こえているのだろう藤崎や磯波も、客商売のルールを知っている。
 確かに、実際に問題はないのだろう。だが、やはりこんな場所で長々と言い合っている内容でもないと、氷川は疲れを覚えた。それでなくとも、仕事の疲労が貯まっているというのに…。
(勘弁して欲しい…)
 泣き言を吐かずにはいられないが、それでも心の中だけでそう呟く。
 自分に向けられる友人の気持ちは、喩えそれがどんなものであっても受け止めなければならないだろうと氷川は思う。だが、今のこの状態で、同居人へと向かうものまで受けられるのか、彼を守る事が出来るのか、それはかなり怪しいものだ。自分が選んだ道ならば、最低これらの事をしなくてはならないのだと弁えてはいるが、現実問題として、今は厳しいとしか言えない。
 そんな自分を知ってかしらずか、同居人の青年が場には似合わないどこか楽しげな笑いを落とすのを、氷川は複雑な気持ちで耳にした。予想外の出会いは何も彼のせいであるというわけではないのだが、それでも青年に怒りを向けてしまいそうになる程の、危険な笑いのように感じるのは気のせいではないだろう。
 案の定、「わかんないぜ、そんなの」とニヤリと笑いながら青年は木崎を見て言った。
「壁に耳あり障子に目あり、っていうじゃん。誰かが聞いているかもよ。警察官が買春だなんて、今時珍しくとも面白くともないけどさ、相手が男となると、なぁ」
 写真とか撮られているかもよ、とふざけながら自分の肩に手を置いてきた同居人に、氷川は小さな動きでその手を払い落とした。
「君もそうだ。こいつを、からかわないでくれ」
「何だ。つれないな」
 肩を竦めた青年は、再び頬杖を付き、氷川と木崎に視線を向けた。
「それにしてもさ、ホントに刑事なのかよ。いや、疑う理由はないから信じるけどさ。…でも、見えねぇよ、マジで」
 顔のいい公務員って、何か嘘臭い。
 わけのわからない理屈をいい、青年はカラカラと笑った。酒のせいなのだろうか、少し目元が赤くなっているように見える。
 青年はその目を数度瞬かせ、瞼を閉ざすと小さな欠伸をした。そして、ふと真面目な顔を作り、「刑事って、硬い仕事だろう」と眉を寄せる。本人も意図的にしているのかもしれないが、青年のこうした不意に変える表情を気にせずにはいられないのだということに氷川は最近気付いた。どれもが作り物のようでいて本物にも見える、不思議な魅力を持つものなのだ。
 つい、真実かどうなのか、そこに何があるのか、見定めたくなる。
「…それが、どうかしたのか」
「あのな、どうかしたか、って言うかさ。それが重要なんじゃないの?  確かに、俺は清く正しく生きてきたわけじゃない。だけど、俺は全然、刑事でも何でも問題はない。マズイのはさ、俺じゃなく、あんただよな? こんなところでこんな話もそうだけど、実際問題として、俺との生活ってやばいんじゃないの?」
 大丈夫なのかよと、意外なところで意外にも青年に心配をされてしまい、氷川は一瞬何を言われたのかわからなかった。だが、木崎がそれに同意したことにより、青年もまた友人と同じ事を言いたいのかと気付く。
「お前に賛同するのは嫌だが、それには俺も同感だ」
 木崎が渋々ながらといったような声で、けれどもあっさりと青年の意見に頷く姿に、氷川は、何を突然団結しているのかと少し呆れる。そして、両隣から向けられた面白くない視線に眉を寄せた。
「問題はない、だろう。プライベートを態々喋り歩く趣味は俺にはないからな」
「問題にしろよ」
 充分問題だと木崎が忌々しげに言う。その悪態に触発されたかのようにピピピと高い音が鳴り始めた。携帯電話だ。
「――あぁ、俺だ」
 同時に動いた氷川に、着信を知らせる携帯を開きながら木崎は言い、通話を受けた。短い会話だったが、何かの事件が起きたのだという事が氷川にもわかった。
「ったく…、呼び出しだ。悪いな、氷川。じゃあ…」
 今晩は奢れよと言いながらコートを着る木崎に氷川は頷き、「疲れているんだろう、無理はするなよ」と効果はない事を知りつつも声をかける。
 案の定、「出来るのならそうしたいがな」と木崎は苦笑した。
 そんな友人に、何を考えているのか同居人が手を差し出した。
「お仕事、頑張って下さい、木崎サン。ささやかですが、クリスマスプレゼント。貰ってくれませんか?」
 掌に小さなローソクが入ったケースを載せ、青年は穏やかな笑みを浮かべた。だが、微笑まれた木崎は、顰め面で青年を見据えた。当然だろう、よく思っていない相手のこの態度は、神経を逆撫でられる行為でしかない。
「おい…」
 何をしているんだと氷川が同居人を誡めようとした時、木崎は不機嫌な顔のまま、青年の手から小さな贈り物を受け取った。
「有り難く貰っておくよ…。じゃあな」
 何か言いたそうではあったが、話している時間はないからか別の問題があったからか、木崎はただそう言い店を出て行った。その友人の態度に、氷川は少し眉を寄せる。
 一見好意的だが、何を企んでいるのか胡散臭い青年のその行動にあの友人がのるとは、一体どう言うことなのだろうか。要らないと突き返すのも確かに大人気ないが、彼ならばもっと上手く回避する方法もあったのだろうと思うのに。どうしたのだろうか。
 確かに、友人の怒りは自分に対してのものが多いのだろう。だが、この青年を気にしていないというわけはなく、むしろ腹立たしく思っていたはず。それなのに何を考えているのかと、青年同様、木崎の行動も氷川には良くわからなかった。
「ああ、すみません。いえ、それで、勘定をお願いします」
 木崎の態度を気にかけていた氷川は、同居人の声に入口に向けていた視線をカウンターに戻した。どうやら先程グラスに入れた札の話をしているらしい。藤咲の手には氷で濡れたのだろう、薄い染みがついた一万円札があった。
「ああ、4人分のね。お釣りはいりません」
「はい、かしこまりました。ありがとうございます」
 軽く頭を下げる藤咲に、微笑む同居人。その二人の姿は、和やかな雰囲気を作り出し、氷川は一瞬それを受け入れそうになった。だが、耳に入った内容が遅ればせながらも脳に届きそれを理解したとなれば、口を挟まずにはいられない。
「おい、どういうことだ。俺達の分は…」
「別に、いいだろう。あんたの友人は嫌がりそうだけど、あんたが言わなきゃバレないだろう。問題はないじゃないか」
「そう言うい事ではなく…」
 氷川の言葉を、青年は再び遮った。
「別にそんなに嫌なら払えばいいさ。だけど俺、釣銭貰うつもりはないからさ、この方がお得だと思うんだけど」
「……何なんだ、それは」
 どんな金銭感覚をしているのか、と氷川は溜息を吐いた。そう高い店ではない、今まで注文した4人分の酒代を払うとしても、半分の金額で足りるくらいだ。なのに、金に困り体を売って生活をしている人間がすることだろうか、これは。
(いや、だからこそ、金に困るのだろうか…?)
 青年の感覚に呆れるというよりも、ただ単純にその思考についていけないといった諦めに似た深い溜息を落とし、氷川は軽く頭を振った。
「何、嘆いてんだよ」
「…全ての事にだ」
「大半はあんたが原因だと思うがな」
 馬鹿にしたようにフッと鼻で笑い、青年は氷川を覗き込んできた。
「それとも、俺が嫌になった?」
「…好きになった覚えもない」
「確かに、そうだ」
「…それより、仕事はしないんじゃなかったかのか。それとも、ばれなければいいというものなのか?」
 何だかんだと言っていたが、やはりその程度の心構えなのか、と氷川は気になっていた事を口にした。けれども、こんな訊き方をするとは思っていなかった。何を苛立っているのだろうか、自分は…。
 青年の言葉全てを信じたわけではないが、それでも得たものも確かにあった。そんな風にしか生きられない者もいるのだと思えた。だが、単に都合のいい事を言っていただけではないかと苦い思いが胃の中に落ちる。
「工事現場でバイトをはじめたんじゃなかったのか」
「ああ、それは辞めた」
「もう根を上げたのか」
「何だ、絡みに来ているのか? ま、いいけど。
 あれは根を上げたんじゃなく、やむにやまれぬ事情からだ。聞いても面白くないけど、聞きたい? なら、話すよ」
「…いや、遠慮する」
 青年が浮かべるものは笑顔だったが、氷川はそれに嫌なものを感じて頭を振った。「なんだ、残念だな」との言葉に、自分の直感が間違っていなかった事を知る。どうせ、ろくでもないことなのだろう。
「ま、あんたが言うなら、また何か探すよ。でも、俺にはやっぱり向いてないと思うんだけどね。
 ああ、言っておくけど、今夜のは仕事じゃないから。あの連れは友達」
「友達? …お前に、いるのか…?」
 予想していなかった単語を聞き取り、氷川は思わずそう言った。案の定、「酷いな、いるさ」と青年が唇を尖らせる。だが、怒った様子は何処にもない。
「他にもいるよ。俺はあんたと違って、社交的だからな」
「…煩い。……だが、金を貰っていたじゃないか」
 声を落とし、周りの人間を気にしながら氷川は言った。だが、これではまるで不満に思っているというよりも、嫉妬か何かをしているようにも聞こえるな、と自分の発言を気まずく思いもする。別に自分は、この青年を所有物として扱いたいわけではないのだ。
 それなのに、非難めいた言葉が口に出る。
「君がそのつもりではなくとも、相手はそうだったんじゃないのか」
「…あいつは、ああいう男だ。違うよ」
 一瞬青年の顔が固くなった気がしたが、直ぐにそれは消えた。
「ふざけただけだ。利害関係を持ったことはない。気にするな。
 それよりもさ、もう一人の奴だけどさ、あいつ男だって気付いてた?」
 不意に矛先を変えた意図を考えるよりも、氷川はその言葉に驚いた。
「は? …まさか」
 だが、冗談だろう、と言う言葉を氷川は飲み込む。
 女にしか見えない。だが、男だと言う。それが意味するものに心当たりがないわけがない。
 そうなのか、と言葉ではなく目で問い返した氷川に、同居人は軽い笑いを浮かべた。
「確かに、まさかって外見だけど、正真正銘の男だ。でも、あんたが考えているものでもないな。
 あいつは、女に生まれたかったが、自分は男でしかないとわかっている。でも、憧れは捨てられない、っていうのかな。だから、スカートを穿くとか化粧をするとか、そういう事はしたいと思ってるんだろうけどしない。勿論、身体も弄っていない。が、それでもかなり苦労はしたみたいだな。全く生き難い世の中だ」
「……」
「…あんたと話をさせれば良かったかな。俺なんかよりも、あんたの弟さんの事がわかるのかも。何より、あいつは俺なんかと違って、聞き上手の慰め上手だし」
 軽い口調でさらりと言った青年のその言葉は、けれども自分を気遣ってのものでしかなく、氷川は返す言葉を失った。
 そんな氷川に青年もまた、何も言わなかった。



「当たり前なんだろうけどさ、でもちょっと驚いたな」
 隣を歩く青年からの呟きに、氷川は暫し考え、「何がだ?」と問うた。
「主旨を言わなければわからないだろう」
 問いかけにただ笑いを返す青年にそう付け加える。並んで店を出てから後、沈黙を保っていた中での突然のその言葉で全てを察しろと言う方が無理な話だ。
「何が、当たり前なのに驚いたというんだ」
 氷川の言葉に、「そうだな、悪い」と漸く青年は答えるが、喉を鳴らしており反省の色は窺えない。尤も、怒るほどの事ではないので、それはどうでもいいのだが。氷川としては、青年の言葉が気になったので聞き返したまでで、国語の授業をしたいわけではない。
「本当に何て事はないんだけどさ。あんたも、普通に喋るんだなって思って」
「…普通? …今までそうではなかったというのか?」
「いや、そんなこともないけど」
「どっちなんだ」
 意味がわからないと氷川が眉を顰めると、青年は更に楽しげな笑いを落とした。
「おい」
 理由もわからずに笑われるというのは、全くもって面白いことではない。
 氷川は信号待ちで止めた足はそのままに、首を横の青年に向けた。すると、ふと伸びてきた指が、氷川の眉間に止まる。
「皺、寄せるなよ」
 軽くそこを押さえた後、直ぐに離れていく手の向こうで、やはり青年は笑みを浮かべていた。何がそんなに楽しいのか、子供のような顔をしている。
 その顔にやはり氷川が眉間に皺を寄せると、青年は肩を竦め、辺りを軽く見渡した。ついその視線を追い、氷川も周りに目を向ける。信号待ちをしている車のライトが目に入り、目を細めた氷川の肘が唐突に掴まれ、ぐいっと前に引かれた。
「渡ろうぜ」
 青年がそう言った時にはもう、氷川は横断歩道の上にいた。距離にすれば5メートル程のもので、抵抗する間もなく渡り終える。そのまま歩道へ入ってもなお絡んだままの青年の腕を外しながら、氷川は漸く抗議の声を上げた。
「おい。赤信号だ、見えなかったのか?」
「車がやって来ない事を感じ取らなかったのか、気付かなかったのか?」
 氷川の声に対抗するように、少し大袈裟な表情を作りながら青年は言う。
「通る車はないんだ、待つことはないだろう。おかしな人だな」
 肩を竦めた青年に、氷川は顔を顰めた。何事かと足を止めて言い合う自分達を見る視線に気付いたが、止める気にはならない。視線も通り過ぎるだけで留まる事はないのだから、止める必要もない。
 そう判断し、氷川は青年を見据えた。
「赤ならば、渡らないのがルールだ」
「あのなぁ。子供じゃないんだからさ、いいだろう。正しく状況を判断出来るんだからさ、赤信号を待つなんてナンセンスだと思わないか? 渡りきるのに5秒もかからない、車は陰も見えない。見通しのいい道路、周りに信号待ちをしている人間はいない。なあ、一体何処に問題があるんだよ?」
「人が見ていなければ良いというものではないだろう」
「そうじゃなくてさ。俺の判断であって、他人を巻き込む気はないと言う意味だよ。自分で判断出来ない子供がいたら、俺だって渡らない」
「現に今は、私を巻き込んだじゃないか」
「あんたの運動能力を考慮に入れられたからだ。あんたなら俺と同じタイムで渡れる。だが、これがガキや年寄りだったら無理かもしれない。俺は考えて、問題ないと判断したんだ。
 そう怒るのなら言ってみろよ。何処に問題があったんだよ。結局何もなく渡ったじゃないか」
「屁理屈を言うんじゃない」
 ふざけたいい分に顔を顰めた氷川は、そう言うと踵を返し、止めていた足を前に進めた。漸く信号が変わったようで、車が動き出し光が流れてはじめる。先の歩道で止まっていた人達が歩道を渡り始めたのが見える。
「おい、怒るなよ」
 再び横に並んで肩を竦める青年に、氷川は一瞥を落としただけで応えは返さなかった。怒っているわけではないが、青年のいい分を認めるわけにもいかないのが自分の立場だ。常に正しい判断をしていれば、事故も犯罪も起きない。だが、それが出来ないのが人間だ。間違う事もあるのが人間だ。だからこそ、ルールがあるのだ。縛るためではなく、守るための。
 それをわからない人間が増えている。今の青年の行動は、確かに大したことではないが、子供ではない大人であるからこそ守るべき常識でもあるはずだ。
「屁理屈じゃなくさ、正当な理由なんだけど。なら何か? 次に青になるのが5分後だとして、車が来ないとわかっていてもあそこで待っていなきゃ行けないと言う事か?」
「…普通はそうだ」
「あんたはそうするのか?」
「ああ、そうだ」
 実際そんな状況になった時、自分がどうするかわからないのだが氷川はそう答えた。自分でも少し嘘のように思えるが、そうしたいと思うのも確かだ。
 そんな氷川の思いを、青年はあっさりと否定する。
「時間の無駄じゃん」
 俺には真似出来ないよ、と青年は呆れたように笑った。
 だが、そんな態度に怒りではなく氷川は唐突に疑問を感じ、気付いた時にはそれを口にしていた。
「なら、君は急いで先に進んでどうするんだ? 何をそんなに慌てるんだ?」
 信号ひとつ待てない程、時間に追われているのかと氷川は訊ねる。その問いに、青年は「えっ?」と目を見開いた。
「どうなんだ?」
「……考えた事、ない。っていうか、どこかに行こうとしてる時は、そう言うもんだろう。急がない時でも、渡っちゃうもんじゃん」
「だから、それが何故かと聞いている。ルールを破るんだ、それなりの理由があるだろう」
「だからさ、考えた事も気にした事もないって」
「ならば。今度からは時間的に待つ余裕が有るのか無いのか考えろ。あったのなら渡るな」
 そう言った氷川の言葉を暫し噛み締めるように沈黙を作り、青年は首を小さく傾げて言った。
「精神的には? 渡らなきゃイライラするって時は?」
 何を子供のように屁理屈を捏ねるのか。そう呆れながらも、何故か面白がっているのではなく真剣な様子である青年に、氷川はきちんと応えを返す。何だか、物分りの悪い子供の親になった気分がするのは、この際無視をすることにした。
「そんな時も、渡るな。我慢しろ。自分に自信があっても、苛立つ時の判断なんて信用出来ないものだ」
「…なるほど」
 あんたらしい応えだな。
 青年が満足げに笑い、再び腕を絡めてきた。
「おい」
 男娼だからだろうか、青年は人目のある場所でこうしたスキンシップをとることに抵抗はないらしい。だが、氷川の方はそうではない。青年が男娼だと知っているので意識しすぎているというのもあるかもしれないが、大の大人の男同士が腕を絡めるのはどうかというものだ。
 氷川の戸惑いがわかったのだろう、「大丈夫、気にするな」と青年が言う。だが、気に出来ないものではない。
「離せ」
「いいじゃん、これぐらい」
 初めて会ったあの夜にふざけたキスをされはしたが、この一週間一緒に暮らしていても、こうした接触は一度もしていない。本当に、単なる同居人でしかないのだ。精々狭い廊下での擦れ違い様に腕が触れたぐらい。
 それなのに、何なのだろうか、一体。
 氷川は青年の腕から腕を引き抜こうとしながら、良くないと彼の言葉を否定した。
「何を考えているんだ、酔っ払ったのか?」
「何だ、バレた?」
「え?」
 あっさりと肯定されたそれに、氷川は驚き青年を見下ろした。ニヤリと笑う青年は確かに目元は赤いが、さほど酔っている様子はない。
「嘘を、つくな」
「嘘じゃないさ。ま、自力で歩けるけどね」
 仕方がないかと肩を竦めながら、青年は氷川を解放した。
「俺さ、酒って得意じゃないんだけど、今夜はそんなに飲んでないし、今は丁度いい感じなんだよね。そんな時はさ、人肌が欲しくなるんだ。なあ、ケチらず腕の一本ぐらい貸せよ」
 何処まで本気なのか、青年は並んで歩きながらも覗き込むように体を傾け、氷川の顔を窺ってくる。
「ダメか?」
「…駄目だ」
「ホント、ケチだな。ま、良いけどさ。でも、あんた、酔った俺には気をつけた方がいいよ。こうして一緒にいない方がいいな、うん」
 もったいぶった言い方に、氷川が「何だ?」と訊ねると、青年はニヤリと悪戯なガキのような笑いを顔にのせて言った。
「もう少しアルコールが入って酔っ払った時はさ、俺、キス魔になるから」
「……」
「餌食になりたくなかったら、気を付けろよ」
「…ああ、そうしよう」
 忠告を感謝すると言う自分の頬が引き攣っているのを、氷川は自ら感じ取った。酔った男に襲われるだなんて、冗談ではない。想像だけで、充分に遠慮したいものだ。
「後悔した? 同居、止める?」
「…お前に、酒を与えないようにすれば良い事だろう」
 氷川の返答に、青年は楽しげに喉を鳴らした。ならば、ずっと自分を見張るというのか。不可能だろう、とからかうように笑う。
 現実としての問題は沢山あり、今もまた厄介なものが増えた気もするが、それでもこんな軽口を交わすのは悪くはないものだと氷川は思った。
 冷たい夜の空気の中で響く青年の声は、意外なことに耳に心地良いものだった。
「あ、さっきの事だけどさ。驚いた事」
「ん、ああ」
 そう言えば何かを言いかけていたなと思い出し、氷川は頷く。
「当たり前なんだけど、あんた、友達と喋る時は普通なんだな」
「どういうことだ?」
「俺と喋る時は、硬いじゃん。初めて会った時は緊張しているからかと思ったけど、一週間経ってもあんま変わんないだろう。真面目な顔で眉間に皺寄せていてさ。でも、友達の時は違うんだな」
 何か新鮮だった、と青年は笑った。
 確かに、はじめは緊張したせいもあり硬い態度をとっていただろう。この一週間も仕事で疲れていたので、同じようなものだったと思う。元来、他人と打ち解けあうのに時間がかかる人間であるので、氷川自身は気にしていなかったが、青年にとっては堅苦し過ぎるものだったのかもしれない。
「それは、すまないな」
「いや、別に、悪かったわけじゃない」
 そう言った青年は、「でも…」と前を向いたまま言葉を繋げた。
「でも、きっちり一線を引いた付き合い以上はしないと言うんじゃないんだったらさ、勿論あんたが良かったらなんだけど、俺と二人の時も、そう話してよ。私じゃなく俺、君じゃなくお前、って。そっちの方が、楽だ」
 そう言いながら青年はタタタと軽く走り、氷川の前に出た。
「何なら、俺の事、名前で呼んでくれてもいいぜ」
 俺の名前、覚えてる? 氷川さん。
 振り返った青年はそう言って笑い、再び向きを変えると氷川より数歩前を歩きだす。
 家路へと辿る道を、青年の背中を見ながら、氷川は一歩一歩足を進めた。

2003/06/25

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