◆ 7 ◆


 明日はクリスマスイヴだというこの日、祭日と言うこともあって雪が降りそうなほど寒いというのに、街にはいつも以上に大勢の人間が溢れていた。空は曇ってはいても、街の中は明るい。過剰な電飾に嫌気がさすくらいだ。
 リヒトはファーストフード店の二階から、そんな街を見下ろしていた。微かに窓に映る自分の姿にさえ嫌になるほど、どこを見ても人間ばかりだ。
「いい女でもいたか?」
 トイレに立っていた同席者が隣の席に戻って来た途端、そんな言葉を吐いて笑った。
 下に広がる街同様、騒がしい店内ではすぐ近くの者の声すら聞き取り難い。リヒトは男が隣に腰を降ろすのを待って声をかけた。
「見つけたら、ここには居ない」
 さっさと席を立ちカモに近付いているさ。その言葉とともに軽く肩を竦め、残り少なくなったコーヒーに口をつける。ここに来てまだ15分ほどだというのに、すっかりカップの中身は冷めてしまっていた。店内は暖房が効いてはいるが、それでも窓ガラス越しに外の寒さは伝わってきているのであろう。カップの上で重なった両手の温度が、右と左で異なっていることに気付き、リヒトは少し寒さを覚えた。
 一人の部屋に居るのは、苦手だ。いや、この時期一人で居る事自体得意ではない。
 いつ帰るともわからない家主を待ち続けるには、その時間はあまりにも長すぎて、リヒトはあてもなく街に出た。寒いのも嫌いだが、一人きりの部屋よりは断然マシだ。
 クリスマスに賑わう街は、一人の自分に孤独を突きつけるが、それでも華やかな人々は救いだった。恋人同士でも友人同士でも、楽しげに歩く姿は眩しくもあるが微笑ましいもの。
 この街は、甘くはない。実際、辛い経験を沢山してきた。だが、それでも嫌いになれないのは、こうして人が沢山集まるからだろう。自分の闇を紛らわしてくれるからだろう。だから自分は、ここから離れないのだとリヒトは思う。
 しかし、そんな思いも一歩下がると馬鹿げたものでしかなく、何を綺麗な事を言っているのだろうかと自分自身で呆れる。何よりも人間が嫌いなのは、他人を信用出来ないのは、興味を持てないのはこの自分なのだと、自身で知っているからだ。
 自分自身も含め、基本的に人間と言う生き物が煩わしのだ。嫌なのだ。
 慕う心と、嫌悪する心。相容れぬ、矛盾した思いが、代わる代わるリヒトの中に湧きあがる。だが、気が狂ってしまいそうだと、このいい加減な思いに嫌気がさしたのはもう随分前の事で、今は心の動くままに放っておいている。自身の心に対しても、自分は傍観者だ。関心がないというよりも、自分で自分を傷つけることに飽きてしまった。
 傷は、他人につけられるからこそ意味があるのだ。
 そんな事を思っている以上、自分は体を売る事を止めないだろう。そんな漠然としたことを考えていたリヒト目に知った顔が飛び込んできたのは、ほんの少し雲の隙間から顔を覗かせていた太陽が完全に厚い雲に飲み込まれた時だった。
 改まって交わす挨拶もなく、腹が減ったという男に付き合ってこの店に入った。
「あの女は? 赤いコートの黒髪美人」
「俺はパス」
 窓の外を指差す男に、リヒトはそちらに視線を向けることなく返事をする。
「何だよ、見ろよ。なかなかの美人だぜ」
 この男が言っても、あまり説得力はない。確かに美的センスはあるのかもしれないが、それ以前に別の問題がある。
 しかし、理非とはそれについては特に指摘はせず、別の言葉を口に乗せた。
「今は、女よりも男って気分」
「何だよそれ。じゃあ、今携帯で話しているあの男は?」
「そうだな。もっとデブがいい。っで、頭は禿げで、いかに貧乏って感じの気弱そうなオヤジが最高。ついでに、変な趣味付だと更に良し」
「――って、要するに探す気がないってことかよ」
 目の前に見せられたなら絶対に敬遠するだろう注文をつけたリヒトに、そう判断した男は「ノリが悪いな」とぼやきながら、リヒトのトレイからフライドポテトを掴み口に運んだ。
「勝手に食うな」
「取られて悪いのなら、さっさと食えよ」
 殆ど減っていないそれに男は再び手を伸ばし、掴んだポテトをリヒトに差し出した。雛に餌を与えるように、反射的に開いた口に放り込んでくる。
「…冷たい」
「早く食わないからだろう。俺に言うな」
 男はそう言い、まだ微かに湯気がたつ紅茶をズズズと啜った。
 男二人、馬鹿な会話をし、馬鹿な事をしていても、誰も気に求めるものはいない。躾がなっているのか、それとも他人への関心が乏しすぎるのか。これなら、ナイフを手にしそれを振りかざしたとしても、誰かが刺されるまで誰も気付かないのかもしれない。
 同じ空間にいるのに妙なものだと思いながら、リヒトは差し出されるポテトを次々に口で捉えた。
 それ以上に妙なのは、何故かこんな事をしている自分達なのだろうが。
「それ飲んだら出ようぜ、マキ」
 最後のポテトを自分の口へと運ぶ男に、リヒトはカップを示して言った。それに頷き中身を飲み干した男が、脱いでいたコートに腕を通しながら窓から空を眺める。
「降ってきそうだな。雪だといいけど」
「これ以上寒くならないで欲しいね」
 トレイを片付け店の外に出ると、小さな雨粒がリヒトの頬に落ちた。


「リヒト、お前さ。本気で仕事を探しているのか?」
「一応」
 濡れても全く問題ないと言う程度の小雨だったが、それでもこの寒い冬に雨に当たりたくはないと言うもので、直ぐに近くのゲームセンターに入り込んだ。先ほどの店とは比べ物にならない煩さだが、かえってそれが気持ち良かったりする。
 幾つかのゲームで適当に遊び、ぬいぐるみが沢山入ったゲーム機に百円玉を入れた時、マキは先の会話と何の繋がりもない事を気にもせず、不意にそう聞いてきた。ボタンでクレーンを動かしながら、リヒトは返事を返す。
「でも、早々見つかるわけがない」
「それで、今の飼い主が終わったらどうするんだよ。その男ってさ、何だ。本気でお前にまともな仕事で自立させようとしているのか?」
「多分、そんなところなんだろうな。真面目って言うか、擦れてない奴だからさ、本気も本気――あ、畜生」
 猫のぬいぐるみを掴みかけたクレーンは、けれども無情にもその横にいた犬の尻尾に邪魔をされ空振りをした。何も掴む事はなく閉じたクレーンの動きを見ながら、マキは「下手だな」とただの事実を語った。
「煩い」
「…っで、お前もマジなわけ?」
「ああ? 仕事か? 別に、そうマジでもない。ただの付き合い程度だな。買われている間は客は取れそうにないし、あいつが気に入る仕事が俺に出来るんだったらやるよ。暇だし、時間が勿体無いし」
「訳のわからない男だな。熱血入ってないか? 頭カチカチなんだろう」
「熱血はないが、頭は固いかな。おかしな奴なんだ」
 再び機械にコインを挿入しながら、リヒトは応えた。男が言いたい事は充分にわかる。けれども、本当におかしいのはそれを笑う者達なのだろうとも思う。
 確かに今の社会を考えれば、氷川の精神など馬鹿げており、逆にただの自己満足だと取られるものだろう。氷川に考える頭がないわけでもないので、世間的に見ればただ自分の行動に酔っている人間でしかない。
 しかし、人間として、同じ人間に手を差し伸べるのだから、それは至極真っ当だとも言える。何が起こるかわからない世の中でするにはあまりにも無防備だが、氷川だからこそそれが出来るのだと一緒に暮らし始めてリヒトは気付いた。この男ならばと、その行動に納得が出来る。
 時代に流されない精神を持っているなどと言う大層なものではないが、人としてどうあるべきかという信念が氷川にはある。だからこそ、そのギャップを突きつけられた時、あの男はあんなにも苦しむのだろう。どうあっても理想と現実など一致するはずもないのに、それが出来ない自分を何処かで否定し蔑んでいる部分が彼にはある。
 普通に出会っていたなら、他人に内面を悟られたくはない氷川の事だ、リヒトがそうした面を気付く事などなかっただろう。固い男だと嫌気がさしただろう。だが、初めて出会ったあの夜に見せた氷川の姿を思えば、彼の言葉ひとつひとつが彼なりの真実だとわかる。
 たとえ無理難題を言われようとも、嘘で塗り固めた関係ばかりを築いてきた自分には、何もかもが新鮮なのだ。単純に氷川という男を面白いと思い、同時に自分などにその心を真っ直ぐと見せてくれる事を嬉しく思う。小言でも、紛れもない彼自身の言葉だと思えば、自然に胸の中に入ってくるのだ。
 それを辛いと思う時も確かにあるが、それ以上に気持ちが良いものだ。綺麗なものを見るのは、それなりに楽しいというもので。リヒトは氷川を気に入っている。
 しかし。だからと言って彼の言葉を聞き入れるかどうかは、また別の問題だ。
「それで、お前はどうするんだ」
「どうするって?」
「だから…。このまま、足を洗うのか?」
「さあ、どうだろう…――ダメだ、ズレた」
 今度もまた、絣はしても結局は何も掴まずに上がっていくクレーンを見、リヒトは肩を竦めた。戻ってくるクレーンを見ながらポケットの小銭を探り、隣の男に返事の続きを返す。
「その時にならないとわからないからな、そういうのってさ」
「真面目に考えろよ。お前の人生だろう!」
「俺の人生だから、考えられないんだ」
 突然声を荒げたマキに内心驚きながらも、リヒトは軽く鼻で笑いそう答えた。
 何を真剣な表情をしているのかと、見やったその顔にも驚いたが、それ以上に何だかしらけた。けれども、うざいと舌打ちをしてこの場をはなれる気にもなれず、ただ長い息を吐き気分を変える。
 出会ってから年も近い事もあり適当に馴れ合ってきたが、真剣に人生について語り合った事はない。愚痴を言ったり弱音を吐いたりした事も確かにあったが、それもすべて冗談に出来るような軽口を気取っての事だ。真剣な会話は互いに負担を掛け合うものでしかなく、解決には繋がらないとわかっていた。
 そう、今更それを崩す気はないと、リヒトは荒げた声に気付かなかった振りをして、いつものように軽く笑いながら言葉を繋いだ。態々関係を悪化させる事もないのだ、そのためにならいくらでも卑怯になる。
「何をしたいとか、どうなりたいとか。そんな簡単な未来ひとつ、俺の中にはないんだよ。ただ、今日を生きて明日を迎えたいって言うだけのものしかない。俺は生きていられればそれでいいんだ、他はどうでもいいよ。周りに流されるまま流れると言うのも悪くないだろう」
「本気か…?」
「何だよ、怖い顔してさ。似合わない」
 そう笑ったが、けれどもマキは乗ってこなかった。
「本気なのか?」
 真剣な表情で自分を見据える男に肩を竦め、リヒトは短い息を付いた。そう言えば、先日会った時もどこかこの男はおかしかったと思い出す。
 手にしていたコインを弄びながら、リヒトはケースに額がくっ付くほど顔を寄せ、中のぬいぐるみを眺めた。ゲームのキャラクターが無造作に放り込まれているが、計算された配置なのだろう。それらを物色する振りをして、ガラスケースに映るマキの顔を見る。残念ながら、「ビックリしたか?」と笑い出しそうな様子はない。
「今はそう思うからさ、本気なんだろう。だけど、わかんないよ、明日にはもう変わっているかもしれない。言っているだろう、わからないんだよ、俺は。突然人生と言われてもな、そんな事を考えるような現状じゃないしさ」
 正確には、そんな事を考えられる状況にはいなかったというものだ。この仕事を選んだあの時、他の選択肢が自分にあるなど気付きもしなかった。もう、堕ちるしかないのだと、信じて疑いもしなかった。
「お気楽に見えるか? でも、実際にそうだろう。なるようにしかならないじゃん。もしかしたら、俺この瞬間に今の買い主に捨てられるかもしれないんだぜ。なら、また今までどうりの事をするしかないだろう」
「でも、お前もいつまでもこんなことしていられないだろう。お前、確か俺よりひとつ下だったよな。なら、もう24だろう、かなりやばいぞ」
「あんたに言われたかないよ」
 苦笑するリヒトにマキは「煩い、俺はまだまだいける」と顔を顰めた。だが、その顔はいつもの調子のいいものではなく、言葉のような強気はどこにもない。
 男娼など、確かに若くてなんぼの世界だ。若ければ若い方が良いとまではいかないが、上にも限度がある。二十代後半になっても続けられるのは、極一部の者だけだろう。そもそも、需要がないからというのも確かにあるだろうが、体を売りながら年を重ねた者は大抵自らこの世界から身を引く。限界を感じるだとか大人になって考えを変えたとかではなく、心がもたないというのが一番の理由だろう。街で行きずりの男や女に体を売るのは、虚しさばかりが募るだけだ。それを吹き飛ばせるだけの精神が無ければやっていられない。
 それでも、結局はその後にする事もさほど変わらない者も多くいる。ホストだとか何だとか色々あるが、抜け出た世界にまた別の形で戻る。この世界に捕らわれ続けた者を何人も見たが、人それぞれ、色んな終わりを迎える。虚しさに気付いた時、ぽかりと胸に空いた穴をどうやって埋めるのか。本当に、人それぞれだ。
 果して、自分は一体どんな終わりを迎えるのだろうか。リヒトには想像もつかない。
 男相手だけの男娼ならば、そろそろ年齢的にもこのままでは確かにヤバイだろう。だが、女の客もそれなりに取っている自分は、まだ暫くは続けられそうだ。現に、客が途絶えた経験は殆どない。誰でもいいから求める節操なさからかもしれないが、たとえ客が途切れても自分は辞めないかもしれない。
 しかし、そんなリヒトとは違い、自分でまだ大丈夫だと言いながらも言葉を閉ざしたマキは、全く大丈夫そうではない顔をしていた。苦しげに眉を寄せ、大きな溜息を付きながら顔を伏せる。
「どうかしたのか」
 何かがあったのは確かだろう。だが、そんな訊き方をする自分が、少し情けなかった。その胸の痛みに、リヒトは咄嗟に訊き直していた。
「何があったんだよ?」
 マキは女の客も多少はとってはいたが基本的には男専門で、彼本人、同性愛者だ。  その事で仕事に限界を感じたのだろうかと思いついたリヒトは、「仕事で何かあったのか?」と問い掛けてみた。だが、三度目のその問いで返ってきた答えは、全く別のものだった。
「――秋に、親父が死んだんだ」
「……」
「ろくでもない親父でさ、ガキの頃はよく殴られた。でもさ、不思議なもんだよな、親は親なんだよ」
「マキ…」
 呼びかけたリヒトに相手は手を上げると、「頼む、聞いてくれ」と真剣な目で見つめてきた。言われる言葉を予測して事だろう。
「お前には悪いが…、…誰かに訊いて貰いたいんだ。ただ、聞くだけで良いからさ」
 その訊くだけが問題だった。マキ本人の様子からも先の言葉からも、楽しい話題でないのは確実だ。だが。
「…ああ、わかったよ」
 リヒトにはそうとしか言えなかった。
 聞きたくはなかった。この男も人の子だ、親がいるのは当たり前だ。だが、詳しく聞いた事はない。それ同様に、自分もまた家族について話したこともない。言いたくなかったのは、思い出したくないからではなく、今の自分に与えられる影響を恐れたからだ。マキの話を聞きたくないのは、聞けば自分を傷つけたい衝動にかられるとわかったからだ。
 だが、真剣なマキにリヒトは嫌だとは言えなかった。いや、その選択を選ぶ事は、既に出来なかった。それを選んでも、結局は自分を許せそうにない。
「別に、訊くだけでいいんなら、話せよ。言っておくが何の話にしろ、俺は手助けは出来ないぜ、多分。お人好しじゃないし、今は自由の身じゃないんでな、慰められないぞ」
 台に肘を突いた姿勢で隣に立つマキを見上げると、漸く彼らしい笑顔を見せた。
「それで。親父さんは何で亡くなったんだ?」
 渋っても、決める覚悟など何処にもなく、話を促す。
「前から入院していてな。結局最後は肺炎だった」
 リヒトが手にしていたコインを入れると、マキが変われとボタンに手を伸ばしてきた。横に身を引きガラスに肩を預け、斜めに構えてクレーンを目で追う。
「まともに働かず酒ばかり飲んでる親父でさ。ある夜見事にぶっ倒れた。自業自得と笑ったぜ、マジ。母親はいなくて、そんなアル中の親父だ、俺は小さい頃から、高校を出たら家を出ると決めていた。だから、いい機会だからこのまま出て行こうとその時本気で思った。死んだってかまうものかってさ。でも、病院のベッドで細いチューブを身体にくっつけて横たわっている親父を見たら、捨てられなかったんだよな。ピッピッって心音に合わせて鳴るあの電子音がさ、間抜けだと思うのに妙に切なくて出て行けなかった」
 いつものようにペラペラと喋りながら、真剣な目でマキはクレーンを見つめていた。ゆっくりとそれは降りていき、ぬいぐるみを掴み上げる。
「その後はもう、俺の人生はひっくり返ったぜ。まともに働いていない奴に金があるわけも無く、あったのは親戚連中からの借金だ。だからさ、入院費はもう出してはくれない。ならどうするかと言えば、そりゃやっぱサラ金だろう。みるみる膨らむばかりのそれに、返すあてなどあるわけがない。っで、結局俺はこの仕事を始めた。その時にはもう、親父は残りの人生は病院暮らしって決まっていたからさ、ばれる心配もなかったし、自暴自棄にもなってたかな。病院では甲斐甲斐しく世話する息子を演じてさ、外では男に抱かれながら、誰のせいでこんなことになってんだ!ってな風に奴を詰ってバランスとってた。そんな自分に酔ってもいたな。ガキだったんだよ、俺もさ。
 その内、お前も経験したんだろうけどさ、割り切る術を覚えたし、仕事にも慣れた。この俺に出来ないことはない!ってな感じに妙な自信もつけたりしてさ」
 釣り上げられたぬいぐるみが、クレーンから落とされる。取り出し口から出したそれをリヒトに渡しながら、マキは軽く口の端を上げた。
「それから、約10年。ガリガリになりながら、あの男はホントしぶとく生きてくれたよ…。っで、さあ後は借金だけだと思ったら、いつの間にか残りは親戚連中のところに極僅かって程度だ。親父が死んでひと月もしない間に返し終わった。
 そうしたらさ。何か、糸が切れたんだよな」
「……」
 マキのその胸の内が、全くわからないわけではない。多分きっと、この世界で走り続けてきた足を止めたなら、自分もまた同じように気力が抜けてしまうのだろう。全てがどうでもいいと思うのだろう。走っていた自分が他人事のように思えてしまうかもしれない。
 そう。決して同じ境遇でも、似た道を歩んできたわけでもないが、今現在は自分と同じようにこの場所に肩を並べて立っている男が言う「糸が切れた」との状態は、リヒトにも簡単に想像は出来た。
 けれど、それを認めてしまうのは、共感をするのは、とても難しいことなのだ。自分はまだ、その状態に陥るつもりはなく、どちらかと言えばその虚しさから逃げている身なのだ。多分、彼自身も先日まではそうだっただろう。それに捕まっても何も得られはしないと、誰もが本能で知っている。
 台に凭れポケットから取り出した煙草を口に咥えたマキは、少し潰れた箱を振りもう一本煙草を取り出すと、黙り込んだリヒトに差し出してきた。煙草を受け取り、ライターの火を貰う。
「いつでも辞めたいと思っていたのに、いざその時になったら、そういう気分にはならない。不思議だよな。…っていうか、腐りきっているぜ、俺」
「そんなことないだろう。たとえどんな生活だってさ、ずっと繰り返してきたんだ。その毎日の積み重ねで今日まで来たんだ。行き成りそれから抜け出そうだなんて、無理な話なんだよ」
 そう言ったリヒトの顔を横目で眺め、マキは口元を綻ばせた。
「慰めてくれているのか。嬉しいね」
 それは相手のためではなく自分自身のための言葉でしかない事を、多分マキも気付いただろう。それでも指摘することなく、誤魔化すかのように応えてくれる知人を、リヒトは唐突に切ないと思った。そして、自分自身を虚しく思った。
「違う、単なる事実と、俺なりの意見だ。俺ならそう煮詰まった時はそう思う。自分を詰ってもどうにもならない」
「お前らしい」
「今のあんたが、あんたらしくないんだよ」
 その言葉に、何故かマキは目を見開いた。そして、「…かもしれないな」と呟き、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。煙で少し霞むマキの顔は、気が抜けたという先程までのものとは違い、どこか苦しげに見える。
「なあ、リヒト。慰めついでに、もうひとつ聞いてくれよ」
「だから、慰めているんじゃない」
 それが自分に出来るのならば、とっくの昔にしている。
「なら、お前に意見を聞きたい」
「…なんだよ」
 仕方がないと言う風に返事をしながら近くの席に移動し、灰皿に長くなった灰を落としたリヒトの背に、意外な言葉を浴びせられた。
「客に、惚れた」
「――はあ?」
 意識をする前に、反射的にリヒトの口からは非難の言葉が勝手に出る。
「マジかよ、嘘だろう」
「本当だったりする」
 嘘じゃないんだと肩を竦めながら、マキは椅子に座り、灰皿に煙草を押し付けた。
「…最悪だ」
 そう言い、漸く失礼な対応だと気付く。リヒトは顰めた顔をぎこちなく戻すと、「いや、悪い」と謝罪を口に乗せた。だが、まだ胸の中では嘘だろうという思いの方が強く、何をしているのかと、前で苦笑する男に呆れきる。
「笑えばいいさ」
 不審げにその姿を見ながら席につくリヒトに、マキはそう言って自分で笑い声を落とした。だが。
「…いや、そこまでは。でも、驚きで、上手く言えないが……喜ばしいものでもないだろう…?」
「だから、困っているんだ。まさか、今になって客に惚れるとは。オレってツイていないと思わないか?」
 喉を鳴らす男が、言葉ほど笑っていない事にリヒトは気付く。
 本当なのか…?
 そう思った途端、何故か焦りを覚えた。だが、リヒトのそれには気付かず、マキは言葉を繋げる。
  「相手は名前だけしか知らない男だぜ。何で、あんなのに惚れてるのか、自分でもわかんないぜ、全く」
「いつから…?」
「そうだなぁ。初めて会ったのは今年の春前からだから、一年程になるかな。頻繁に会う事もあれば全く顔を出さない時もあるから、別に常連ってわけでもないんだ。向こうも別に、俺だけじゃないみたいだし。何より、そんな関係でもない。一緒に過ごしていてもさ、気の会う連れって感じなんだよ」
 そんな話をするマキ自体に違和感はない。上手くいく事は絶対にないと言うのを承知で、客に惚れてしまった同業者は他にも見てきたのだ。その心情を理解出来ないが、体を重ねる相手なのだ、わからないこともない。だが、この男が。マキが客に惚れるなど、考えた事もなく、告白された今でもリヒトにはやはり信じられない。
 自分以上に、客とは割り切った関係を築く男なのだ。それこそ、自分のように揉め事を起こす事など殆どなく、無難に仕事をこなしてきていたのだ。
 それなのに、何故…。
 有り得ない事が起こった。その事実に、リヒトはただ驚愕する。
「全然意識なんてしてなかったんだぜ。でもさ、この仕事を辞めようかと思って真っ先に考えたのが、その客なんだ。あの男と会えなくなると思ったらさ、辞めたくないとまで思ってしまう。重症だ」
「…別に、仕事を辞めても会えるだろう」
「いや、それだとあの人は俺を相手にはしない。利害関係があるからこそ安心出来るんだとさ。その他は面倒だって言い切る奴で、恋愛に興味がない。それこそ、ただの男の俺が迫っても、さっさと逃げられるのがおちだ」
 口調はあくまでも冗談の様で顔の笑みも消しはしないが、その内容は切実であった。笑ってはいても、目が真剣な色をしていた。
  「あんた、何でそんな男に惚れたんだよ。悪いが、物好きだとしか思えないぜ」
 マキのその目を受け取る気にはなれず、リヒトはそれに気付かない振りをし、呆れていった。自分の意見を聞きたいと男が言ったのは覚えてはいるが、与えられる言葉など自分にはない。ただただ、もう勘弁してくれと思うばかりだ。
 マキが真剣に客に惚れているなど、知りたくはなかった。
 何故か、裏切られた気分にもなる。
「俺もそう思う。でも、言うほど悪い奴じゃない。ただ、恋愛ではなく、仕事に夢中ってだけだ。実際、あの人は誰かが傍にいなくても一人で確り生きているってタイプだし、特定の相手なんて邪魔になるっていうのもわからなくはないし。あれで全く問題ないんだろうな」
「自己中なだけだろう」
 そう言う奴に限って、誰かに守られ支えられて生きているものだ。
 リヒトがそう指摘すると、まさかとマキは笑う。
「そういい人でもなさそうだからさ、多分誰も助けないぜ。悪ガキがそのまま大人になったって感じの人だ。多分、お前でも負ける」
「何だよ、それは」
「お前も、相当悪い奴だからな」
「勝手に言ってろ」
 短くなった煙草を灰皿に押し付け、リヒトは席を立った。



 人込みの中へと消えていく男の後ろ姿を暫く眺め、リヒトもその場を後にした。
 自分の本心がどれであるのか、今の自分にはわからない。見つけられない。
 気が合うというよりも、互いにそうなるように気を使い努力して、馴れ合うまでは行かずともあの男とは仲良くやってきた。波風を立てあう関係ではなく、同業者として、同じ匂いのする人間同士の慰みに近いものでしかないが、そんな当り障りのない関係を選んできた。確かに、時には今日のように語り合う事もあっただろう。ふざけてばかりではなく、一緒に悩んだ事もある。
 だが、それでも。
 自分にとっては、彼は同業者でしかない。いや、それ以上に見る事を恐れている。
 だから。
 ただ、そうなのだと流したい。彼が恋をしようが何をしようが、心一つ動かさないでいたい。自分自身と比較し、安心したり妬んだりなど馬鹿げた事はしたくはない。
 しかし。それが出来る程自分は器用ではなく、また醜い生き物なのだと知ってしまっている。無理がある。
 最低な親でも自分の親に間違いないと言った彼の言葉は、同じ経験をしたわけではないが似た思いを持った事のあるリヒトには良くわかった。そう、だからこそ、客を好きになったというマキの言葉が胸に刺さったのだろう。
 他人を好きになったという彼が羨ましいのか、馬鹿みたいだと嘲笑しているのか自分でもわからないが、確かにこの胸は騒いでいる。
 騒いでいるのだ。自分でも止められないほどに。
 リヒトは悴んだ手でコートの前を強く掴んだ。
 何に対して苛立っているのか。それとも、恐れているのか、脅えているのか。脈打つ鼓動とはまた別に蠢くものが確かにあるその胸を、きつく握り締める。このまま、潰してしまえれば楽になるのかもしれないのに、自分では出来ない。それが何故なのか、きっと何処かで助かりたいとも思っているのだろう。胸を傷める自分をどこかで愛しく思っているのかもしれない。
 なんて中途半端なのだろうか。そんな自分に嫌気がさす。
 堕ちるのなら、上を見ることすら忘れてしまうくらいに、底の底まで堕ちればいいのだ。もう何もこの目に映せないくらいに、醜くなればいいのだ。自分だけの事を守りたいのならば、他の事は全く考えてはならないのだ。
 たった一つのことだけをこの手に持てばいいのだ。どうせ、自分には多くのものなど持てない。それ程器用ではない。この世で生きたいと願うのなら、ただそのことだけを考えればいいのだ。
 知人の感情に揺すられても、何にもなりはしない。
 自分には彼に手を伸ばす事など出来ないのだから、聞き流せばいいのだ。
 それ以上の感情は、欺瞞でしかない。
 強く握り締めた手を胸から離し、力の抜けたそれが体の横に落ちた時、路上に派手なクラクションが響いた。特に関心を止めることなくその音を耳から追いやったリヒトの傍に車が滑り込んでくる。まるで自分を引くかのようなそれにギョッとして顔を向けると、黒塗りの窓がゆっくりと開き男が顔を覗かせた。
「よお、久し振り」
 知った顔だった。
「何だ、大川さんか」
「何だはないだろう、何だは」
「失礼、安心したので、つい。轢かれるかと焦りましたよ」
 そう言ったリヒトに「ぼんやり歩いているのが悪いんだ」と屁理屈をいい、大川は当然のように顎で後部座席に乗るように促した。
「付き合えよ」
 その誘いが意味するのが何なのか、わからないわけがない。大川とはそう言う関係なのだから。
 リヒトは「そうだね…」と曖昧に返事をしながら、大川とその隣の運転席に座る男を窺った。初めて見る顔だが、先程の荒い運転を考えると単なる運転手だとも思えない。勿論、あれは助手席に座る大川がハンドルに手を伸ばしたからだとも考えられるが、それに対して焦った様子も文句がある様子もない。顔の造りはどちらかと言えば繊細だが、肝が据わっている男のようだとリヒトは判断し、軽く笑いながら大川に首を傾げた。
「もしかして、そっちも?」
「いや、俺はそれでもいいが、残念ながらこいつにその気はない」
 堅物なんだと大川は笑う。こうしていると、まだ学生のようなあどけなさが窺えるが、実際はそんな世界とは掛け離れている。詳しくは知らないが、挟間の仕事での関係者だというだけで、一般人で通用するわけがないと言うものだ。
 正直、狭間の知人にしてはかなりまともである大川は嫌いではない。普通に会話は出来るし、ベッド以外の対応は紳士的である。確かに口は悪いが、自分が困るような事はあまりしない。いい客だと言えるだろう。だが、狭間の知人と言うのが何よりも問題であった。
 なので、いつも迷う。そして、断れる時は断る。大川自身、時間があるので自分をからかおうという程度でしかなく、無理強いをする事はないので、統計を取ったことはないが多分断る率の方が高いのだろう。
 だが、今日は迷うことなく、リヒトは初めから大川の誘いに乗るつもりだった。タイミングよく自分を見つけてくれたものだと感謝したいくらいだ。しかし、それをおくびにも出さず、リヒトは考える振りをする。
 大川はこうしたやり取りが好きなのだ。
「っで、どうする?」
「8時までならいいよ」
 リヒトの言葉に大川は少し肩を竦め、車に乗ることを促し体を元に戻した。車内に乗り込むと、きつい煙草の匂いがした。だが、不快ではない。大川が好んで吸う煙草は、匂いは強いがどこか甘味がありクセになるものだ。
「シンデレラだって12時までなんだがな。仕事か?」
「門限」
「それはまた、古風な奴に飼われてるんだな。耄碌ジジイか? 今時、小学生でもいないだろう、門限が8時だなんてさ」
「さあ、どうだろう」
「お前さ、相手は選べよ。そのうち痛い目を見るぞ」
「なら、この後の事も考え直しましょうか」
「つれない事を言うな。ったく、挟間に似てきたんじゃないか? もっと可愛くしろ」
 リヒトはコートのポケットにいれていた猫のぬいぐるみを取り出すと、腕を伸ばし助手席の大川の顔の横に持っていき、言葉に合わせてそれを振った。
「僕をいつも可愛いって言ってくれるのは大川さんじゃないか。もうそうは思っていないって事? もしかして、僕を嫌いになったの?」
「お前なぁ…」
 苦笑しながらも大川はリヒトの手から猫をとり、「不細工だな」と評価しながらダッシュボードにそれを仕舞った。
「欲しいの? 可愛いね」
 リヒトの言葉に、大川が振り返る。
「俺は繊細な男なんだ。そう言うのは閨の中だけの事だろう。こんなところで言われたら照れる」
 全く照れた様子もなくそう言った大川は、リヒトの腕を引き前に乗り出させた。そして、運転席の男に顔をむけさす。
「残念ながら、二人きりじゃないんだ。野暮な男が居るんだ、慎みを持て」
 そう言いながら顎に手をかけ、頬を滑らした指を唇にあててきた。それを咥えたリヒトの耳に囁きかけるように、大川が喉を鳴らす。
「運動の前に、食事をしよう。腹が減っているんだ」
「俺は、あんたでいいよ」
 馬鹿な会話をかわす自分達を全く気に止めない無表情な男を見ながら、リヒトは氷川の事を考えた。
 今日に限って早く帰ってくる、何て事にならなければいいのだが。
 別に見つかってもそう問題ではないが、ばれないのであればそれにこしたことはない。
 しかし。
 大川が約束通りの時間に自分を解放してくれる事などありえないと言うのを、リヒトは経験上知っていた。

2003/08/06

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