Wild Cat
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夜勤は夕方の5時から翌朝の9時までとなっている。途中食事の休憩と仮眠の時間があるが、実質そんな時間はないに等しい。時間が空いてもカルテ書きなどでつぶれてしまい、眠れることは殆どない。
5月も下旬になると日が明けるのはかなり早い。葉山の仕事が一段落ついた10時過ぎには太陽は空高く上がっていた。最近は夏日が続いている。今日も暑い一日となりそうだ。夏はすぐそこまで来ている。だが、冷房の入った病院内ではそれを感じることは出来ない。今もシャツの上に白衣を着た葉山ですら少し肌寒さを感じるほどで、外の熱気を知ることは出来ない。いや、この冷房こそが夏を感じるものとなっているのだ。
葉山は階段の途中で立ち止まり窓の外を見た。北向きの窓なので太陽は見えない。見えるのは隣の病棟の屋上と白い空。綺麗な空色の建物の屋上にはいくつものシーツが干されている。そして、その向こうには汚染物質で汚れた空。こんなにいい天気なのに、見上げる空には靄がかかっている。だから都会の人間は足を止めて空を見上げることなんてしないのだ。夜も同じく、見えない星を探すことはしない。時々思い出したように空を見上げながらその都度葉山は思う。人間は無くしたものにいつ気付くことが出来るのだろうかと。
本格的な夏が始まる前に、日本には梅雨がある。次の雨には気象庁が梅雨入り宣言をするだろう。梅雨の時期には乾いた土地を求めて国外に出て行く者も少なくはないという。外国までとは行かないまでも、雨を避けて北海道あたりに行きたいものだ。葉山はふとそう思ったが、行ける訳がないことは十分わかっていた。休日返上のこの仕事で旅行は無理だ。苦笑いを浮かべながら医局に向かって歩いて行く葉山に、擦れ違った患者が首を傾けていた。
医局の手前で葉山は後ろから呼び止められた。
振り返ると神崎が小走りでかけてくる。看護婦達に恐れられている口の煩い婦長と擦れ違ったが、彼女も神崎ファンで、普段の剣幕からは考えられない穏やかな笑みで神崎に、走らないで下さいねと言っているのが聞こえた。そんな彼女に対して神崎はまるで少年のような微笑みでスミマセンと一礼しながらもかけてくる。
「お疲れ、終わったんだろ?」
「あぁ。……お前今日非番じゃなかったっけ?」
「そうなんだが…呼び出しがかかってね」
「……いいのか、ここにいて?」
呼び出しがかかるのは、担当患者の様態が急変したときが殆どだ。そんな彼がここにいるのということは――
「あぁ。……間に合わなかったんだ」
神崎は何でもないように表情を変えずに言った。だが、彼が何も感じていないわけではない。葉山が自分を心配しているのに気付き、大丈夫だ、と声には出さずに神崎は小さく笑った。
学生の頃から患者が亡くなったりした時、神崎はよく荒れた。しかし、荒れているといっても人にはそうだとは気付かせない。気付かれるのが怖いのだ。自分の心を見られるのを何よりも彼は恐れている。それでも葉山だけは別だった。取り乱すことはないが、作り笑顔の仮面を外して、自分の闇に捕らわれた心を見せた。自分の無力さを責め、社会を罵倒し、最後には自分自身を否定していた。言葉で人が殺せるとしたら、彼は間違いなく自分を何度も殺しているだろう。そんな神崎を知っている葉山には、いつか友人は壊れてしまうのではないかと思えるほどの危なさだった。
しかし、それは時間とともにに薄れていった。だが、医者としての経験をつんできたから、大人になってきたから、などというものではない。今は確かに、昔に比べれば落ち着いてきたと言えるが、そう感じるのはあくまで表面的なことだけかもしれないと、静かに笑う友人を見るたび何も変わっていないのではないかと葉山は感じてしまう。ただ、目に見えて荒れなくなっただけで、その分心の中に溜め込んでしまっているのではないのだろうか。
葉山が気付かないだけで、荒れることが少なくなってきたのが、別に荒れた姿を見せられる者が出来たのだという事なら、全く問題はない。だが、そうではなかったら――
「そうそう、渡すものがあったんだ」
自分を気にする葉山を知りつつも気付かない振りをして、明るくそう言い、神崎はポケットに手を突っ込む。
「はい、これ」
神崎が取り出したのは葉山の車の鍵だった。
「さっき木元先輩が来てね、ちょうど僕がいたから預かったんだ」
木元は葉山と神崎の大学時代の一つ上の先輩である。葉山達が三年になった春に車の整備会社をしていた木元の父親が亡くなり、木元はあっさり大学を辞め会社を継いだのだ。彼は長男だったが父親は特に会社を継がせる意思はなく、医者になりたいという息子の意志を尊重していた。何より、年の離れた弟が父の後を継ぐのだと言っていたのだ。だが、突然の死に事情がかわった。木元の弟はその時まだ中学に上がったばかりの歳で、木元自身四年になったばかりでまだ丸三年は卒業できない。会社は他の者に任せようという事になった時、木元は自分が継ぐと言って大学を辞めたのだ。サークルが同じで仲の良かった葉山達も彼が退学届を出した後でそのことを知らされた。
「請求書は月末に送るってさ。っで、マンションと病院どっちに送るほうがいいのか教えてくれとのこと。
相変わらず先輩は巽のことを研究馬鹿だと思っているんだな」
その言葉に葉山は苦笑する。
木元は葉山が病院に入り浸っていると思っている。マンションには寝に帰るだけで、休みも病院で仕事や研究をしていると本気で考えているようだ。実際は全くもってそんなことはないのだが、木元が連絡をよこす時に限って葉山は病院につめていることが多いのでそんな印象を与えているようだ。
それに加えて、木元は神崎に対しても葉山に対するような思い込みを持っている。神崎は仕事も適当に遊びほうけているというものだ。だから、神崎が帰るのは自分のマンションではなく恋人達のところだと考えているので、木元が神崎と連絡をとるときは必ず先に葉山に連絡をとるのだ。
木元自身思い込みが激しい性格を持っているとも言えるが、神崎の場合学生の頃は授業に出ず遊びほうけていたし、葉山は勉強ばかりしていたのでその頃の印象が強いのはしかたがないのだろう。それに、神崎の場合仕事はきちんとこなしているが、実際に自宅では連絡がつかないほど出ているのは事実だし、相手は次から次へと沸いてくるのは学生の頃と変わらない。今も本命の恋人はいるが、昨日の発言でわかるように他の者との関係も持っているのだ。自宅に帰る間がないのは頷ける。
この誤解は、木元ばかりに責任があるわけではないので、二人は強くは否定せずに、ずるずるときている。
「今朝、僕の顔を見て『神崎が仕事にきている…。…明日から梅雨になるかな』だ。久しぶりに会った後輩に向かって驚いた顔で真面目に言う台詞じゃないよ」
「ま、木元さんは天然なんだから仕方ないさ」
事実、全てがとぼけているわけではない。学生の頃に教授とやり合っているのを聞いたことがあるが、最後には教授の方が音を上げていた程のものだった。今も子供の頃から父親の仕事を見ていたとはいえ、いきなり畑違いなところで右も左もわからない出発だったのに、彼の会社は不況の煽りも受けずきちんと生き残っている。
「後で電話を入れておくが、きっと俺にも、お前が仕事をしていたんだと熱く語ってくれるんだろうな」
「もう、勘弁して欲しいよ」
「木元さんにとって俺たちはいつまでもガキなんだよ」
葉山の言葉に、「確かに」と神崎はクスクス笑った。
「…あぁ、ガキと言えば、昨日の奴はどうした?」
神崎が葉山に聞く。
「さぁ。あのまま寝かしておいたんだが……もう居ないかもしれないな」
夜中に一度見たときはぐっすりと眠っていたが、それからは急患などで忙しく医局にはよっていない。
「医局なら誰かに捕まっているかもしれないよ」
そう言って神崎は医局に向かって歩き出した。
二人が医局に入った時、部屋には誰も居なかった。
いや、昨日のままの状態でソファに少年が寝ているだけだった。
「まだ寝てるよ」
「15時間程か…すごいな。
……もしかして、お前変な物やったんじゃあないだろうな?」
「失礼な。精神安定剤を飲ませただけだよ」
やっていたのか、という言葉はかろうじて飲み込んだ。昨日すぐに確かめなかった自分が悪い。それに、神崎も医者だ。呟いた薬名は病院で簡単に貰える、軽く眠りを誘う程度のものだ。その薬でこうも長い間眠れるわけがないので、心配は要らないだろう。
葉山は白衣を脱いで帰る用意を始める。しかし、直ぐ机を片付けていた手を止め、友人に視線を向ける。神崎はソファに座り、眠る少年をじっと見つめていた。いや、少年を見ているというよりは、その向こうにある誰かの姿を見ているようであった。
亡くなった神崎の担当患者は、まだ小学校にあがったばかりの女の子だった。入院をして来た時、彼女は他の同じ年頃の子供に比べてとても小さかった。母親がまともな食事を与えていなかったのだ。病気は治る確率の高いものだったが、彼女の痩せた体では治療が思うように出来なかった。まず体力をつけなければどうにもならない。しかし彼女は食事を殆どとらなかった。神崎がやっと食べさすことができたのも、ほんのわずかな量だけだった。原因は母親による虐待だ。
お腹がすいても、食べれば殴られる。殴られるのは嫌だ。だから食べない。
神崎が食べても大丈夫なんだと言っても、彼女は首を振り泣きながらそこには居ない母親に許しを乞うていた。
『お母さん、ごめんなさい。もう食べないから…だから、ぶたないで。お母さん』
神崎は昨日の帰りがけに見たベッドの上で身体を丸めて眠っていた彼女を思い出す。
何も出来なかった自分に腹が立つ。容態が急に悪化したと連絡を貰い急いで駆けつけたが、間に合わなかった。携帯に連絡が入った時、今はもう顔も思い出せない女性とベッドを共にしていた。二度と会うことはないだろう、眠る彼女をそのままに部屋を飛び出し、乗り込んだエレベータの鏡に映る自分の顔が酷く冷静なのに嫌気がさした。荒れる心とは裏腹に、どこかでこんなものだと諦めた声もした。所詮どんなに望もうと、汚れた自分が手に入れられるものは何もないのだと。
ふと視線に気付き神崎が振り返ると、葉山が机にもたれてじっと自分を見ていた。
「…何?」
「いや……」
そう言って視線を外し葉山は片付けを再開する。
神崎晶。小児科医としての彼しか知らない人間は優しい人間だというだろう。彼は明るく人付き合いも上手い。29歳には見えずにもっと若く見えるのは、悪戯な少年のような面を持っているからだろう。誰からも愛される性格。だがそれは自分がそんな医者を演じているのだと神崎は言う。
『そうしないと僕は生きていけない。…いや、これは言い訳だね。僕は単なる弱い人間だ。それを自分勝手に振舞う事で隠している。そう、例えば自分の汚さに気付きたくないがために、周りを平気で汚す、そんな愚かな醜い生き物なんだ』
酒に酔い、夢と現の狭間でそう言った友人。閉じた目は二度と開かないような気がしてならなかった。
例え演じていようとそれはお前以外の何者でもない。違う自分が居て何が悪い。他の奴らもそうだ。皆沢山の自分を持っているんだ。そんな葉山の言葉に神崎はそうだねと軽く笑うだけだった。
彼の闇は決して神崎を許さないように付きまとっているのだと葉山には思えてならない。
大学で出会った時、お互い気に入らないもの同士だった。それが何故か親友といえるものになり、もう10年の付き合いになる。短くはない年月は、自分は無力なのだと葉山に教えた。誰よりも彼の側に居ながら自分では彼を救うことが出来ないのだと。
それぞれの思いにふける静かな医局の扉が突然開いた。二人が同時に視線を向ける。
「お、ここにいたのか、神崎君。
ちょっといいかね。304号室の伏木君なんだがね…」
現れたのまだ40になっていない年なのにそれ以上に見える、白衣を来ていなければくたびれたサラリーマンと言った風体の医師だった。部屋に落ちる雰囲気なんて気付きもせずカルテを見ながら話しはじめる。
「あ、僕も今から戻りますので」
そう言って神崎は立ち上がり、先輩医師は「悪いねぇ」といいながら外に出て行く。
「じゃあな、巽。お疲れさま」
「ああ」
神崎はソファで眠る少年に一瞬視線を向け、振り切るように出て行った。
(何も言わず、か……
俺はお前が思うほど、出来た人間じゃないんだよ)
葉山はいなくなった友人に言うように心の中で呟いた。
友人が去ったドアを見ながら小さく溜息をつき、葉山は先程考えていたことを思い出す。
心を見せられる相手が他に出来たとは思えない。自惚れではなく、これは事実だろう。そんな相手が存在しうるとしたら、それは本命の恋人でしかない。だが、その恋人は今はまだそんな相手ではない。確かに、吉井の存在は神崎を落ち着かせている面もあるのだが、彼を怯えさせていることも確かなのだ。
自分も人に言えるほどの恋愛経験があるわけではないが、神崎は葉山が知る限りまともな恋愛をしたことが無い。いつでもその場限りの思いしか持っていない、割り切った関係でしか付き合っていなかった。そんな彼は今、少年のような初心な気持ちと、隠しきれない闇の間で迷っているようだ。心を見せずに恋愛は出来ないのに、彼を必要とする自分を抑えようと必死になっている。
一つの危なさを見つければそれはどんどん増えていく。恋に戸惑う彼を落ち着いてきたと感じてしまうのは、自分も友人の演技に騙されているからなのか。そこまでして彼は何を隠しているのだろう。これは何を意味しているのだろう。
彼を取り巻く闇がますます大きくなっている。
(俺は言葉にしてくれないとわからない。動けない…)
そう、彼が求めるのなら自分はできる限りのことをする。
(…だから、言えよ)
葉山はこの思いが友人に届くことを願った。そして彼もまた言葉に出来ない自分の弱さにやるせなかった。
神崎が出て行った後、数人の者が医局に来たが、それぞれの用事を済ませるとすぐに出ていった。その内の2,3人が少年に気付き、まだ寝ているのかと呆れていた。どうも昨夜から全く起きていないらしい。お疲れ様でした、と声をかけカルテを手に看護士が出て行くと、再び医局には静寂が訪れた。
帰り支度を終えた葉山は、少年の手首の包帯を外し湿布を換える。
結局、この少年がどうして路上生活をしているのかは、香坂の憶測でしかわからなかったが、彼の言う何かから逃げていると言うのは真実のように葉山にも思えた。彼らとすごした一ヶ月、少年は殆ど食事をしていなかったと言う。痩せ細った少年を心配して周りの者達は自分達も苦しい中、彼に食べ物を持っていったが一度も受け取りはしなかったそうだ。
お金が無いのではなく、食べないだけだ。だから心配しなくても大丈夫だと小さく笑うだけだった。実際、食べずにやつれてはいるが、それ以外はおかしなところはなかった。人の話を聞くのが好きで、些細なことに興味を持ったり、身体が鈍るといって走ったりするさまはまるで小さな子供のようだった。自分が名前をつけた頃は、銀髪だったんですよ、センスが良いとは言えないが同じ年頃の者達のように身なりも気にしていたみたいですね、と香坂は笑った。まるで自慢の子供のことを話す親のような顔をしていた。
少年が日頃口にしていたのは、ジュースに錠剤。それと時々ガムやクッキーを食べていたらしい。酷い拒食症の場合は食べ物を口にすることすら受け付けない。痩せ願望からの拒食症患者にすれば、薬や点滴ですら摂ると太ると考える。少年の場合その点での心配はなさそうだ。何より、見た目は健康そうには到底見えないほどやつれているというのに、それが病的にはあまり感じられない。神崎の診断でも特に悪いところは無かったようだ。だが、だからといって、こんなに痩せていて大丈夫なわけが無い。
このまま診察室に連れて行こうかと葉山は考えた。だが、まるでその思いを察したかのように、少年がスッと目をあけた。
一瞬怯えたように葉山を見、ゆっくりと起き上がって部屋を見渡す。自分が置かれた状況を思い出したのか、小さな溜息をついた。
「おはよう。よく眠っていたが、寝ていなかったのか?」
「……わからなかった」
ぽつっと呟いた言葉に葉山は首をかしげる。一体何がわからなかったと言っているのだろうか。
(病院にいることが? 俺が誰なのか? それとも、これが今の質問に対しての答えなのだろうか?)
眉間に皺を寄せた葉山を少年はぼうっと見ているが、それ以上の動きは起こさない。まるで目の前の自分が見えていないかのようだ。
「何がだ?」
葉山の問いに長い時間をかけて疑問を表す。いや、疑問と言うよりも、同じ言葉を繰り返しただけのようだ。
「……なにが?」
「何がわからなかったんだ?」
先程より長い沈黙の後、やっと葉山の質問の意味に気付いたようで、少年はあぁと呟き、今度は俯き真っ白な包帯に視線を移す。
「…何もかも……そう、全てが…わからなかった」
「全て?」
「ここが何処か、この痛みは何か、あなたは誰か――」
話すうちに段々と覚醒するかのように、口調は変わってくる。が、相変わらず心此処に在らずのようだ。
「…自分は誰か、全て」
「……っで、思い出したのか?」
「…思い出したくはないことは、記憶に残り思い出になる。
忘れたくないことは、鮮明に覚えようとすればするほど、あやふやなものとなり、薄れていく記憶に戸惑い、無くす。
思い出すのは無くしたい記憶。現実が覚醒へと導く――」
ゆっくりと紡がれた言葉。だが、少年が何を言いたいのか、葉山には理解できなかった。
思い出、記憶――夢でもみていたのだろうか? 虚ろな目。単に寝ぼけているだけで他意はないのか? それとも栄養不足により脳に障害が出た? ……これは、考えすぎだろう。自分には理解は出来ない内容だったが、言葉としてはしっかりしていた。何より、昨日に比べると少年の顔色はずいぶん良い。
(寝ぼけているのだろうか……)
葉山は少年の言葉には構わずに再び質問をする。
「……体はどうだ? 捻挫以外痛いところは無いか? いや、蹴られたところもにえているから痛いだろう。手首は少し腫れは引いたがまだしばらくは痛みは取れないだろうが、使わずにいればすぐ良くなる」
「……気分は、悪くない」
間はかかるが、きちんと自分の質問に答える。やはり心配はいらないだろう。
「そうか。熱は出ていないし大丈夫だろうが、数日は大人しくしていろよ。
それと、まともに食べないと人間は倒れるんだ。それがわからない年でもないだろう。もっと気を付けるようにしろ」
「……食べる…?」
そう呟く少年の顔を覗くと、瞼が閉じている。ちゃんと聞こえているのだろうか? クスッと葉山は軽く笑い、少年の髪に手を入れかき上げる。
「まだ寝ぼけているようだな」
頭を上げさせられる形となった少年は重そうに瞼をあけて葉山を見る。
「…寝ぼける?」
「ボーっとしてるぞ」
「…ぼーっと?」
先程と違い今度はきちんと自分を見ているが、相変わらずのオウムのような返答。だが、立ち上がった自分を視線で追う程には覚醒しているようだ。葉山は部屋の隅に置かれた冷蔵庫を開けスポーツ飲料を出しコップに移して少年に差し出す。
「ほら」
少年は危なげに掴みながらも、ゆっくりと二口ほど飲んでテーブルに置く。
「……頭がスッキリしない。自分の身体じゃないみたいだ……。すぐ側に『無』がいる感じ……。…これが、寝ぼける?」
「なんだ、その表現は? 寝ぼけるは寝ぼけるだろう?」
「…こんなの、初めてだ」
今の少年は、昨日暴れまわり、警察に喧嘩を売っていた者だとは思えない。寝ぼけたことが無いのもおかしいが、その初めての経験に、寝ぼけながら真剣に考えている姿は、正直、可愛いなと葉山は感じてしまった。
「15時間も寝ればスッキリするじゃなく、寝すぎでボーっとするものだ。気にせずともすぐに頭は働き出す」
そうこう言っている内に、少年の覚醒は進んでいく。それにつれて口は重くなっていった。
医局のドアを出て葉山はすぐに立ち止まり、後ろの少年に言う。
「この突き当たりの階段を下りて、右に行きナースステーションを通り過ぎて左。一度外に出てすぐに本館に通じるドアが在るからそのまま進んで、突き当りを左。
これで正面の玄関に出る。わかったか?」
「……?」
「玄関で待ってろ。すぐに車を取って行くから」
「…何故?」
「何故でもだ。いいから行ってろよ」
葉山はそう言い足早にその場を立ち去る。少年を連れて行けばいいのだろうが、職員駐車場よりも玄関に行く方が距離は近い。それに何故か、一緒に帰るところは見られない方がいいのではないかと葉山は思ったのだ。
幸い途中で誰かに捕まることはなく、すぐに車を玄関に回すことが出来た。だが、そこに少年の姿はなかった。
(やはり逃げられたか?)
いくら葉山が急いで車を取って来たと言っても、医局と玄関を往復できるくらいの時間は掛かってしまっている。他の所から出た場合はもちろんのこと、この入り口からきちんと出ていったのだとしても、見つけるのは困難だろう。病院の前は大通りで人は絶えない。身を潜める場所も沢山ある。
だが、もしかしたらとの思いで、しばらく中を眺めていたが少年が来る気配はなかった。
(…ったく。俺は何をやっているんだか…)
葉山はハンドルにもたれて溜息をついた。
一体、自分は少年をどうするつもりだったのだろうか。考えもなしに動いていた自分が可笑しく、なんとも情けなかった。
ここにいても仕方がない。そう思い葉山は顔上げ、もう一度だけだと視線を玄関に向ける。
車椅子の患者が入っていくのと入れ違いに、シャツの間からわずかに包帯が見える、金髪の少年が出てきた。
ククッと葉山の喉がなる。先程とは違う笑い。後ろをルームミラーで確認し、駐車スペースを出て少年の前に車をつける。少年は運転席の葉山を見とめ目を少し見開きすぐに眉を寄せる。まだ葉山が居た事に驚いたのだろう。それは葉山とて同じだ。
「乗れよ」
腕を伸ばして助手席を開ける。少年は少し躊躇っていたが、後ろについたタクシーにクラクションを鳴らされ、ようやく乗りこんだ。
走り出したことに気付かないほど、殆ど振動を起こさずに車は進みだす。葉山の運転技術を知るにはそれだけで十分だった。正面玄関を出る際の一旦停止も、体が押されることもなく静かに止まる。少年の感心をよそに葉山は左に折れてから、ようやく口を開いた。
「逃げられたかと思ったよ」
苦笑いを含んだ声が、微かに流れるラジオの音を掻き消す。
「…別に、逃げる必要はないでしょう」
少年の言葉に葉山は口の端を上げた。確かにそうだ。昨日の今日で交わした会話も少ないが、自分が敵意を持っていないとわかっているだろう。だから治療もできたのだし、こうして車にも乗るのだ。第一、無理やり拉致など出来るわけもないのだから、嫌なら断ればいいだけのことだ。態々逃げる必要はないな、と葉山は心の中で笑う。
そう、理由も言わずに待っていろと言い付けたのは葉山だし、勝手に逃げられたと思ったのも葉山だ。少年は全く悪くはない。だが、待たせたことへの気まずさからか、それとも別の思いからか、自ら口を開く。
「……彼と会った」
共通の知り合いなどいないに等しい中、それが誰を指しているのかは明白なのだが、先程の自分の行動を思い出し苦笑していた葉山は何も考えずにすぐに訊き返す。
「彼?」
「神崎さん」
「あぁ。っで、なんだって?」
「別に…何も。ただ――」
「ただ?」
「……お大事に、と言われただけです」
「そうか…」
少年が別に言おうとした言葉を飲み込んだことを葉山は感じ取ったが、それ以上は聞かずに頷く。
「……友達、ですか?」
短い沈黙の後、躊躇いがちに少年が言った。
「え? あぁ。ま、そうだな。大学に入ってからだから、もう10年の付き合いになるな」
自分に興味を示されるとは思ってもみなかったので葉山は驚いた。が、すぐに自分にではなく、神崎の方を気にしているのだろうと思い直しクスッと笑う。全く友人は誰でも間単に引き寄せてしまうものだ。かくいう自分もその一人なのだろうが。
「知り合った当初は、周りの奴らが気をまわすほど反りが合っていなかったな。別に何かがあったというわけでもなく、単に自分には合わないタイプだとお互い感じ取っていただけだったんだが。俺は自分からそう言う奴に近付く方じゃないんだが、あいつは嫌いな奴には突っかかりに来るタイプで、結構揉めたりもしたな。その度周りの奴等は怖がっていたよ。
友人と呼べるようになったのもいつからなのか憶えていない。いつの間にか、気付けば近くにいて、今のようになっていた」
葉山は自分でも勝手に出てくる言葉に驚きながら続けた。胸につかえたものを吐き出すとか、思い出に浸って感情が溢れたというものではなく、何故だか自然に言葉が出てきた。そして、このまま友人の心の中も語ってしまいそうな自分に気付き、それを抑える。
その時、ふと隣に座る少年からも友人と同じような闇を感じた。誰もが心には闇を持っているだろうが、何故かとても似たもののように感じ取った。
友人もまたこの少年から自分と似たものを感じ取っていたのかもしれない。
「考え方も全く違う、気が合っているわけでもない。なのに、何故こうも長い間関係が続いているのか、自分自身、今でも不思議だよ。」
そうして言葉を切った葉山に、
「…いいね」
と、小さく呟いた少年の言葉は、お世辞でも、揶揄でもなく本心のように葉山は感じた。
「どこかの駅で降ろしてください」
流れる景色を見ながら少年は何かの思いを断ち切るようにきっぱりと言った。
「これからどうするつもりだ?
…またそんな生活をどこかでするのか?」
「……」
「昨日…香坂さんに少し聞いたよ」
「……」
「何故、そんな生活をしている? ろくに食べずに倒れても、まだ、続けるのか?」
「あなたには関係ない。……こんな生活しか出来ない人間もいる。…こんな生活をしていても生きられる――」
強い思いを含んだ少年の言葉に葉山は少しショックを受ける。自分は今、彼らのように生活をしている者を否定するような言い方を気付かずにしてしまっていたのかもしれない。いや、彼にはそう取れたのだろう。
生きている、ではなく「生きられる」。少年が飲み込んだ言葉は一体何だったのだろうか。
「悪かった。だが…関係なくはない」
「何故?」
「……」
わからない。葉山は同じ質問を自分自身に投げかける。
赤信号で車は止まり、横断歩道を歩く人の姿を見る。ふざけ合っている学生に、鞄を片手に抱えて走って行くスーツ姿のサラリーマン。子供の手を引く母親に、前を見ずに携帯の画面を見ながらゆっくりと歩く赤い髪の少女。いろんな人が前を通り過ぎていく。
この中で自分の心を全てわかっている者がどれくらいいるのだろう。そんなものは一握りの数も無いだろう。そう、自分の心の理由がわからなくとも、行動していいのではないか。いや、するものではないのか。
信号が変わり、アクセルを踏んでから葉山は沈黙を破った。
「俺の所にこないか?」
まるで何でもないように、前を見ながら軽く吐き出された言葉。
再び訪れる沈黙。
しばらく考え込んだ後、少年はとんでもない事を言った。
「……あなた、ゲイ?」
葉山は言われた言葉を理解するのに少し時間が要った。
「はあ!? 何故そうなる!?」
心底驚いて少年を見た葉山を一瞥して、彼は前を見る。
「こう痩せる前はそれなりに僕も見られたものだったらしく、そう言う意味で何人もの人に声をかけられました。今ではそれもなくなったけど…世の中変なものを好む人もいるし…」
「声をかけられた? …それは、すごいな。
だが、生憎俺はそう言う意味で言ったんじゃない。心配するな、俺の好みは大人しくて頭のいい女だからな」
何が心配するな、なんだろうか。意外な展開に葉山は苦笑しながら言った。
「そうですか。なら、何故、馬鹿で騒がしい餓鬼の僕にそんなことを?」
「……気になるからだ」
「それは、医者としての慈悲? …いや、昨日そんなものはないと言っていましたね。なら、単なる興味?」
「そうだな、そうかもしれない。
確かに、自分でもおかしいと思うが気になるんだ。仕方ないだろ」
軽く笑いながら葉山は言った。道に捨てられた犬や猫がいれば、足を止め飼えるか飼えないか考えてしまうものだろう。それが今回は人間だったというだけじゃないか。
だが、葉山の思いをよそに、少年は言う。
「そう。でも、もういい。ここで降ろして下さい」
葉山は仕方なく車を脇に寄せる。手を差し伸べたいと思うのが自分のエゴなら、その手をどうするかも彼の自由なのだ。
少年はさっさっとドアを開け歩道に降りる。
「色々ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。
では、…さようなら」
機械のように淡々とそう言って少年がドアを閉めた。
去っていく少年の後ろ姿に葉山は外に飛び出す。いきなり開けたドアに走行中の車が驚き、派手にクラクションを鳴らされた。その音に歩道の人々の視線が葉山に集まる。もちろん、歩き出していた少年も振り返った。
「今度は俺が名前をつけてやる」
周りの好奇心を含んだ目を気にもせず、自分を見る少年に葉山は声を上げた。
「……」
「嫌になれば出て行けばいい。もちろん居心地がよければずっといていい」
少年は溜息をつき戻ってきて車の横に立つ。
「損は無いだろう?」
葉山の真剣な表情に少年は顔を顰めて呆れる。
「何を言ってるんですか。…あなたにメリットがない」
「そんなことはない」
「僕には理解できません。気になるからなんて、理由にならない……」
「理由なんて別に要らないさ。
それに、メリットはある。俺は自己満足のためにお前を拾うんだよ」
悪戯をした少年のように葉山は笑う。それが人を惹きつけるものだと本人は気付いてはいない。
「……猫や犬とは違う」
しばらく考え込み、少年は言った。
「変わらないだろう?」
「違いますよ」
車を挟んで、「そうか?」と笑う葉山に少年は小さく溜息をつく。
「僕は、ただ居るだけでも迷惑をかける…」
「そんなの、猫や犬でも迷惑はかけるよ。それに、言葉が通じるぶんいいじゃないか」
自分でも屁理屈を言っているなと思いながらも、葉山はどうしてもこのまま少年と別れたくはなかった。それが何故かはわからずとも。
「後悔しますよ」
先程よりも大きな溜息とともに言葉が吐き出された。
「僕を拾ったことを。いつか」
「いつかなんてそんなわからない日を気にしていられるほど暇じゃない」
葉山は笑う。そうして真剣な顔をし、言葉を続ける。
「第一、ここで放って行ったら、今すぐに後悔する。いつかより確実に、今、だ」
葉山の言葉に少年は少し目を見開き、そして小さく笑った。初めて見た彼の笑みに葉山も再び微笑む。
「……変わってるね」
「お前ほどじゃないだろ? ま、よく言われるがな」
葉山はそう言ってドアを開けた。
しばらくして少年も車に乗りこむ。
白い空に昇った太陽がアスファルトの道を照らし出している。その上を軽やかに車は走り去っていった。
- END -
2001/08/12