黒い猫と大きな部屋


 静かに走る車の窓から後ろに流れていく景色を眺めてはいたが、頭にはその映像は入ってこない。思い浮かぶのは隣で運転をしている男の顔だった。実物が横にいるというのに見ず、車に乗る前の彼の顔を思い浮かべているとはなんともおかしなものだ。だが、何故だかわからないが、見ることが出来ない。
 昨日急患として病院に運ばれた僕は、救急車から降りるのと同時に逃げ出した。喧嘩による怪我はあったが、そんなものはどうでもよかった。早くこの場から立ち去らなければという強い思いが僕を動かしたのだ。
 だが、追いかけてきた二人の医者に捕まり、病院に戻された。綺麗な青年と、端正な顔立ちを眼鏡で隠した青年。彼らは診察を断る僕に、医者としては見ないと言って怪我の治療をしてくれた。
 警察の者が去った後、すぐに出て行こうとすると、点滴だと座らされた。だが、そんな時間はない。そう言うと、なら栄養剤だけでも飲めと渡された薬を飲んだ後、他の薬を捜しながら喋る男にしては少し高めの青年の声を聞きながら意識が薄れていった。今にして思えば、あれは睡眠薬か何かだったのだろう。素直に信じて飲んだ自分が悪いのだが、見た目同様彼は医者らしくないようだ。
 昨日から色々なことがあったが、何よりも驚いたのは数分前に、隣で運転をしている彼の言葉だろう。今もまだ、言葉が耳に残って離れないでいる。
 僕はゆっくりと目を閉じた。
 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐ僕を見ていた。彼の真剣な顔が瞼の裏に蘇る。
『俺の所にこないか?』
 冗談だと思った。
 今までもそうした誘いはいくつかあった。はじめは、道端に座り込んでいる餓鬼に声を掛けてくるのが理解できなかったが、実際に何人もが言い寄ってくるにつれ、冗談でからかっているだけではないのだと気付き驚いた。
 小学生にも上がらない小さな女の子から、杖を突いた優しそうな老人まで様々の人に声を掛けられた。理由も色々でストリートボーイもあれば、家族にならないかというものまであった。
 どうしてそうも声を掛けられるのか自分ではわからなかった。どうやら僕は目立つらしいと考え始めたのは何人目ぐらいからだろうか。
 あんな生活を始める前も、僕は目立った存在ではあった。だがそれは、僕が、ではなく、父の存在が、である。そう、あの人の息子として目立っていたのだ。だから、こうして、あの人の、彼の息子だと知らない場所では、僕はただの面白みの無い普通の餓鬼だと思っていた。それこそ、道端に座り込み生活する者を気に止める人なんていないと思い安心していた。何処の誰かなんて関係ない、この世界では、僕は自由に生きられるんだと夢見ていた。
 だが、それは甘かった。この世界に僕は溶け込めていない、だから目立つのだ。そう思い知ったとき、心が震えた。どんなに上手く隠れても、所詮本物の人間の中には紛れこむことなど出来ないアンドロイドのようだ。どんなに精密で人間と寸分違わずとも、アンドロイドは人間ではないのだ。
 そう、このままでは見つかってしまう。驚きと同時に直ぐに恐怖が沸き起こったのを今でも鮮明に思い出す。周りと違う自分に気付き絶叫する夢を見て飛び起きた事は一度や二度ではない。
 こうして逃げるだけではいつか捕まる。そう、僕が、僕自身が変わらなくては。  今までの僕を捨てたい。
 そう言った僕に知り合った者はドラッグを勧めた。簡単に痩せられるし、そんな悩みも忘れて楽しく過ごせるぞ、と。
『確かに見た目は変わるだろう、だが、廃人になるだけだ。何も変われない』
 寂しそうな目をして別の者が言った。あのまま一緒にいれば彼とは友達になれたかもしれない。優しく、強い青年だった。だが、僕はその後すぐにその国を離れた。何も言わずに突然去った。数日しか一緒にいなかった僕のことなど彼はもう忘れているだろうか。それは淋しいと思う反面、忘れていることを強く願ってもいる。…そう、僕の事を憶えていても、良い事なんて何一つないだろうから……。
 ドラッグに惹かれなかったといえば嘘になる。たとえ廃人になろうとも、楽に慣れるのなら何でも良いと思った。実際何度も死のうかと考えたことがある。だが、どちらも実行に移すことは無かった。ドラッグは簡単に手に入るようになったが、裏の世界にとても近い。この点が僕を遠ざけさせた。あの世界は広いようでいて狭い。関われば必ず僕は見つかる。連れ戻されるだけではなく、事件が起こるのは明らかだ。死は勇気がなかった。死ぬことを恐れたわけではない。身元が割れない死ならいいが、もしそうでなければ、死んでもなお僕はあの人に利用されるだろう。未遂に終わればなおの事見つかる率が高くなる。そう色々考えると怖かったのだ。
 そうして思いついたのは自力で太るか、痩せるかだ。女性なら化粧を変えただけで顔が変わるだろうが、僕はそうもいかない。整形手術は表の病院は問題外だし、闇医者もドラッグと同様。足跡はなるべく残さないことに限る。
 元々食に執着が無かったので痩せる事は苦ではなかった。サプリメントなどで最低限の栄養は取った。痩せていく自分を見るたびホッとした。面影がなくなっていくたび自由になっていく気がした。髪の色を抜き、カラーコンタクトを入れると、あの人の息子ではない、僕ができた。
 日本に来てからは、そんな僕に声を掛ける者など殆どいなかった。同じように生活するものは別として。普通に生活している人達は絶対に声を掛けてこない。そう、見た目もあるのだろうが、僕達のような者はそこにはいない者のように扱われる。時々思い出したように嫌悪の視線を向けるくらいだ。彼らは絶対に僕達のようにはならないのだという自信の中で僕達を排除して生活をしている。
 あいつらはいつかは自分もこんな生活に落ちるかもしれないという可能性を見ようとはしない。世の中何が起こるかわからない。俺達も自分がこうなるとは思っていなかった。だが、今思えば、その可能性に怯えて、気付かない不利をしていただけかもしれない。  動く人波を見ながら、誰かがそう言っていた。だが、僕はそんな事はどうでもよかった。僕がここにいるということを気にしないでいてくれることが嬉しかった。ここで僕は僕になれるかもしれない、そう思った。
 しかし、結局それも甘い考えだった。
 今まで僕は表面上の付き合いばかりしていた。嘘の笑みが行き交う場所での謎めいた駆け引きの会話。付き合ってきた大人は殆どそんな者達だった。所詮世の中なんてそんなものだろう。夢を見る歳じゃない。醜い大人達を見ても何とも思わなかった。汚かろうがどうだろうが彼らの生き方なのだ。そう、何より僕自身が汚れていた。
 あの場所から飛び出し出会った者達は、同じような大人もいたが、この一ヶ月一緒に居たような優しい人も沢山いた。友達にも、家族にもなれるような者さえいた。あのままあの汚れた世界にいたら、僕は人の心を知らず、他人に見切りをつけていただろう。  温かな心が僕を癒してくれた。
 しかし、僕は彼らとどう付き合えば良いのかわからず、結局は愛想笑いをしていたのだ。確かに感じる想いは沢山あった。だが、それを外に出すことが出来なかった。上手く人と付き合えない。自分の感じるもので何処までをどのように相手に伝えればいいのか、伝えるべきなのか、伝えないほうがいいのか、どうしたら上手く伝えられるのか。何もかもがわからなかった。
 これが、今まで付き合ってきたような人たちなら、僕は上手く振舞える自信がある。相手を喜ばせることも、不快感を与えることも簡単に出来る。僕を一人の人間として見ていない、あの人の息子とだけ見る者相手にどうすればいいのか頭が覚えていた。彼の望むように振舞うよう作られた自分。当たり前のように動き、人を傷つけもした。そう、心が麻痺していた。それを嫌だと思うこともないほどに…。
 気を抜けば、僕自身を見てくれている彼らに対しても、そう振舞ってしまいそうで怖かった。心は彼らを受け入れ必要としているのに、一線引いた付き合いでしか付き合えなかった。
 どうすればいいかわからない。まるで子供のようだった。だが、僕は無邪気な子供ではない。大人なのだ。わからないまま考えもせず振舞うことはできないのだ。
(結局僕は変われないのだろうか。
 こうしてまた何処かにいって、それでどうなるというのだろうか)
 彼の誘いを蹴り、車から降りて歩き出しながら僕はそんなことを考えていた。
『今度は俺が名前を付けてやるよ』
 自分に言われた言葉だとすぐには気付かなかった。車の側に立つ彼をしばらく見つめてやっと理解できた。先程言った言葉は本気だったのかと驚いた。本気で僕を拾うつもりなのか? こんな僕を――
 誰かと深く関わってみたい。
 そう思った事は何度もあった。だが、そうすればその人に迷惑をかけることも十分わかっていた。
 それなのに、僕は彼の手を取ってしまった。そう、たとえ迷惑をかけても、彼なら許してくれるんじゃないかと甘えてしまったのだ。あの優しい笑顔を裏切ることになっても、今自分は彼と一緒にいてみたいのだと…。自分のことしか考えていない、まるで子供のような我が儘。
 どう言い訳をしても、これは間違いだといえる。僕がしてはならない行為だ。それなのに……。

 途中でコンビニに寄ったが僕は車から降りなかった。彼が帰ってくるまで悩んでいた。このまま去った方がいいのだとはわかっている。それなのに、体が動かない。
 シートベルトが引っ張るのも気にせず、膝の上に置いた握りこぶしの上に頭を置く。
 そう、僕はもう願っている。このまま彼と居てみたいと。心は決まっている。そんなこと、許されるはずもないのに……。どうなるかわからない。いつかは迷惑を掛けるだろう。だけど、少しだけ、ほんの少しの間だけでいいから…、そう願わずにはいられない。なんて僕は自分勝手なんだろうか。彼の優しさに付け込もうとしている。どんなに自分を詰っても、思いを変えられない。
「おい! 大丈夫か!?」
 いきなり肩を捕まれ、顔を上げる。
 上半身だけを車内に入れるような格好で運転席に膝を置き、彼が僕を覗き込んでいた。
「気分が悪いのか?」
 蹲っていたのを体調が悪くなったからだと思ったのだろう。眉を寄せ酷く心配した顔をしている。
 僕はゆっくりと首を振った。
「……何でもない」
「本当か?」
 頷くとホッと息を吐き車に乗りこむ。
「もし、気分が悪くなったら遠慮せずに言えよ」
 マンションはすぐそこだ、とエンジンをかけながら言う彼を僕はじっと見つめた。
 見れなかったのは罪の意識からだろうか。見たら最後、僕は僕の願いに負けそうだと、そうわかっていたのだろうか。
(もう、無理だよ…)
 僕の中で声がした。そう、もう無理だ。駄目なんだ。
 どうして昨日会ったばかりの僕に優しく出来るのだろう。
 どうして僕は彼に惹かれるのだろう。
 僕は飢えているのかもしれない。人の温かさに。優しさに。他人そのものに。
 あの場所を飛び出して、夢中に過ごしてきた半年。だけど、いつも心のどこかに諦めに似た思いがあった。過去の自分、今の自分、他人との関係。結局こんなものなのだと、納得し安心さえしていた。あの人がいなければ、切実に願う思いすら僕にはないのかもしれないという思いにも、苦笑が漏れるだけだった。そう、ただ単に僕は小さな子供のように反抗していただけなのかもしれないと。あの人はそんな僕を全て知り笑っているのだ。本当は逃げれてなんかいない。今も僕はあの人の手の中を出られないでいるのではないか。
 それはあたっているだろう。そう、僕は一生あの人に囚われ続けるのだ。
 だが、今心から願っているのも確かな僕の想い…。
 もう、何もかも、関係ない。
 僕は――彼の側に居たい。


 カチャリとロックが開く音が妙に響く。
 開かれた空間に戸惑いながらも彼に続いて中に入る。彼はチェーンを掛け、さっさと上がっていった。
 躊躇いながらも続いて上がろうとし、視線を感じ動きを止める。
 大きな黒い猫がいた。
 隅に置かれた観葉植物の鉢の横に座りこみ、じっと僕を見つめてくる。
 本物の猫ではない、単なる置物だ。だが、生きたものより高貴な感じを漂わせている。
 真っ黒な滑らかな姿態は、触れると穢れてしまいそうで手を伸ばすことが出来ない。だが、その禁忌を犯してでも触れてみたいという欲望が僕の中に沸き起こる。
 左目だけが横の窓からの光を受け妖しく輝き、ラピスラズリの瞳が僕を捕らえる。
 まるで番犬のようだ。
 ――君は、綺麗だね。名前は?
 聞こえない相手に心の中で尋ねる。
 ――僕はここに入っていいのだろうか?
 その問いにはすぐに返事が返ってきた。
「上がれよ」
 声の方に視線を向けると、彼が腕組みし、壁にもたれて立っていた。
「ん? どうした」
 置物が喋ったとは思わなかったが、僕はまるで声が聞こえていたかのようなタイミングの良さに驚いた。だがそんなことは言えるはずもなく、ただ静かに首を横に振った。
「ほら、こいよ」
 そう言って彼は奥に歩いていく。
 ……おじゃまします、と心の中で呟き僕も彼に続いた。
 廊下には幾つかの扉がついていたが中は窺えない。こういうマンションにはあまり入ったことがないので、何処にどんな部屋があるかは見当もつかない。しかし、マンションを見たときから思っていたことだが、ここはかなり高級なマンションのようだ。
「医者って、儲かるんだ…」
 殆ど無意識に呟いた言葉に彼が反応した。
「ん? そんなことないぞ。経営者ならともかく、俺は雇われだからな。
 あいつに言わせれば、割に合わない仕事だって言っていたから、医者は儲かるなんてことを言ったら笑われるな」
「……あいつ?」
「あぁ、神崎。もっと楽して今以上に稼げる方法をあいつは知っているからな」
 なら何故彼は医者をやっているのだろうか。確かに彼ならそんな仕事を選ぶことができただろうに。疑問に思ったが僕が訊くことではないので話を彼に戻す。
「でも、こんな所に住める程度には儲かっているんですね」
 そう、病院の経営者やそうした者達ならわかる。実際悪徳経営とまではいかずとも、荒稼ぎする医者を見たこともある。だが、まだ28歳の医者としてはまだまだ若手の彼がこんな所に住めるというのは、少々意外だった。
 それとも、僕が思っているほど、このマンションは高くはないのだろうか。
 廊下の突き当りの扉を彼に続いてくぐる。広さは20畳ほどのリビングだ。廊下の方にはあるダイニングキッチンもかなり広い。逆の奥の壁には扉が一つ付いている。
「ここか? ここは俺が買ったんじゃない。卒業と就職の祝いに親から貰った物だ」
 くれるものは貰っておかないとな、と彼は苦笑した。
 普通と言うのがどの程度のものかわからないが、祝いにこんなものをやるのだろうか。それこそ「普通」の家庭ならばしないはずだ。だが、
「…そう」
 と僕は答えてそれ以上の詮索は止めた。
 聞くのが何だか怖かった。親が何をしているのでも関係ない。そう、医者の彼。それだけでいい。それ以外は知りたくなかった…。
「一人で住むには広すぎるが、住み心地は悪くはない。難点は、掃除が面倒だというくらいだな」
 リビングの中央にはフローリングの床の上に絨毯を敷き、大きなソファとテーブルが置かれていた。壁際にはテレビに背の低い家具。オーディオ類に電話などが置かれているが、他に細々とした物はなく、シンプルな空間になっていた。窓際には小さな観葉植物が2つ置かれている。外のベランダにも木で出来た小さな長椅子に植木蜂が幾つか並んでいる。こちらは何かの花のようだ。
 テーブルに置いていたコンビニの袋から、買ってきた物を取り出す彼の手元を、見るともなしに眺める。
 おにぎり、サンドウィッチ、ハブラシ、スポーツドリンク……、次から次にテーブルに並ぶ。そして、下着とハブラシを僕に差し出し彼が言った。
「お前は今から風呂だ」
「…え?」
 ほら、と僕にそれを持たせ、彼はパンの袋を開け齧りながら500mlのペットボトルを2本持ちキッチンに向かう。それを冷蔵庫に仕舞い、横の棚から何かを取り出す。
 透明のナイロン袋だ。
「風呂はこっちだ」
 そう言う彼の後をついて行く。
「僕はいい。あなたが先に…」
「俺はまず寝る、ほら」
 扉の一つを開け、中に促される。入ると勢いの強い水音が聞こえてきた。お湯を溜めているのだろう。彼が風呂場への扉を開けると、白い湯気が流れてきた。すぐに水音が止まり脱衣所に戻ってくる。
 腕を捲り上げたまま、棚を開けてタオルなどを出しはじめた彼が、立ったままの僕に、
「ほら、服脱げよ」
 と、あっさり言われ思わず眉を寄せた。
 どう言う意味だ? 確かにこのまま入るつもりなんてないが、彼の前で脱ぐつもりもない。彼が何かをするとは思っていないが、自分の体が今どうなっているのかはわかっている。がりがりに痩せた身体を人には見せたくはない。いや、自分でも見たくないくらいだ。なのに、脱げとはどう言うことなのだろう?
 眉を寄せて窺う僕に彼は「何だ?」と聞いてきた。
 余計に彼の考えがわからない…。
「どうして、…脱げって」
「ん?」
 僕の質問にわからず首を傾げたと思ったら、すぐに納得したようにあぁと頷く。
「その手は濡らさない方がいいからな、袋を被せて入るんだよ。
 言っただろ、そっちの趣味はないって」
 そう言って喉を低く鳴らして笑った。
「先につけたら脱ぎにくいだろ? あぁ、ベルトもはずして置けよ」
 そう言って僕の手から下着とハブラシをとり、外装を破る。
 躊躇いながら脱いだ服は、彼の手により洗濯機に放り込まれた。
「後でまとめて洗うから、他のも放り込んでおけばいい。
 ほら、手貸してみろ」
 右手を突き出すと先程のナイロン袋を被せ、紐をくるくると手首に巻きつけ結ぶ。
「キツイか?」
 その問に首を横に振って答える。どうやら紐ではなくゴムのようだ。彼は結び目を引っ張りゆとりを確かめながら言った。
「出たら自分で取れるな?」
 今度は縦に首を振る。
「じゃ、俺は寝るから好きにしてくれ。あ、着替えは、リビングにでも出しておく。他に質問は?」
「…ない」
「何でも勝手に食べていいから、風呂から出たらちゃんと昼食をとれよ」
 と、言いながら出て行きかけ、扉をくぐりかけた所で「あぁ、そうだ」と振り返った。
「体重、量ってみろよ」
 指差す後ろを振り返ると、壁際にヘルスメーターが置かれていた。
 躊躇う僕の背を押し促す。デジタル数字が動いていくのを、僕と彼が無言で眺める。
「38キロか。…身長は?」
 その問いに僕は首を傾げた。
「背は何センチあるんだ?」
 僕の疑問を意味が通じなかったからだと捉えたのか、今度は丁寧に聞いてくる。だが、質問の意図がわからなかったのではなく、僕は答えがわからず首を傾げたのだ。最後に身長を測ったのは一体いつだっただろうか? 確か、日本にいる時だ。
「…6年前、…高校一年の春は、164センチでした」
「…何だ、それ?」
「それ以降は、知らない…」
 俯き未だに体重計に乗ったままだったのに気付き降りる。
 そう、あの時の身体測定以降の自分の身長なんて知らない。測っていなかったわけではないが、自分には教えられていないし、僕自身どうでもよく訊きもしなかった。身長ぐらい訊けば教えてくれただろうに…。
「6年前に高1って事は、…二十歳じゃないな?」
「二十歳?」
「昨日そう言っていただろう」
 あぁ、そう言えば。本当の年齢を言っても疑われるのが目に見えていたので、ついそう言ったのだ。自分でも年齢より幼く見える事はわかっている。
「本当はいくつだ?」
「21」
 僕の答えにしばらく彼は黙り込み、何か考えているようだったが、
「…そうか」
 とだけ言った。
「背は、そうだな、…今は70センチってとこだな」
 ぽんぽんと僕の頭を軽く叩く。そして、大きな欠伸をしながら、ゆっくり温まれよと言って出ていった。

 お湯は熱いくらいの温度だった。だが、それがかえって気持ちいい。
 腕も足も身体全て肉が落ち細くなっている。自分の身体ではないようだ。正直、あまりに細くて気持ちが悪い感じがする。別段日常生活で困るようなことにはなっていないので、こんなに痩せても害はないのか、と面白い気もする。だが、やはり見た目は自分自身でもかなりショッキングなものだ。
 彼は医者だからだろうか、躊躇いながらも脱いだ上半身を見ても、表情は全く変えなかった。骨が浮いた身体は見慣れているのだろうか。
 身長もそうだが、体重を量るのなんていつ以来だろうか。
 1年程前、無理やり従姉妹に量らされたことを思い出し口が緩む。体重計なんて存在しない家だったので、態々スポーツクラブに連れて行かれたのだ。そして、自分と変わらない重さだった僕をオカシイと彼女は騒いでいた。元々痩せている方だったのに、更に10キロほど痩せた僕を見たら彼女は何て言うだろうか……。
(きっと、馬鹿だと怒るんだろうな…)
 こうして自分が逃げ出したせいで、彼女にも迷惑がかかっているだろう。彼女の両親は数年前に亡くなり、その後亡くなった叔父の弟にあたる父が彼女の保護者となった。だからといって、それまでの関係と何ら変わる所はなかった。従姉弟どうしたまに会うことがある程度で、あの人もさほど彼女に興味を持っていなかったはずだ。だが、僕がいなくなれば話は別になる。彼女を放っておくわけがない。
 それがわかっていながらも、僕はあの場所から逃げ出したのだ。そう、もう二度と彼女には会えないだろう。たとえ捕まったとしても、僕には会わす顔がないのだから…。
 湯船に浸かっていると身体の中からじわりと汗が噴き出してくる。まるで汚れた心を搾り出すかのように。右手の袋の内は白く曇っている。だが、苦しみはそんなものではなくらない。
 何がきっかけになったのかわからない。突如現れた胸のざわめき。目から零れた涙が湯の中に落ちる。汗が目に染みたのか、心が泣いているのか。涙の理由は痺れた感情ではわからない。思い切り泣けば落ち着くかもしれない。僕はただ、このまま声を上げて泣きたかった。それなのに、僕は泣き方を知らない。声を上げて泣いたことなんて、記憶にない。
 心とは裏腹に、静かに流れる涙、震えるばかりの喉。
 温かい浴室の中に時折喉から漏れる音がやけに響くのを、他人のもののように聞いていた。


 リビングへの磨りガラスの扉を開けると、涼しい空気が僕を向かえた。
 奥にある部屋の扉が開いており、そこからベッドが少し見える。彼が眠っているのだろう。どうやらリビングのエアコンをオンにして、寝室を冷やしているようだ。
 音を立てないようゆっくりと歩く。火照った裸足の足に冷たいフローリングの床が気持ちいい。ソファの上には丁寧に畳んである服が置かれていた。テーブルの上には先程出した食べ物。
 食事をする気分ではない。
 ソファには座らず、その下の毛の短い絨毯の上に座り込む。髪を拭くため頭に載せたままのタオルを動かそうとし、痛みに眉を寄せる。無意識のうちに右手を使ってしまったのだ。溜息が知らず知らずに出る。
 ソファにもたれて目を閉じる。
 昨日、救急車の中で目覚めた時には、まさか、こうなるとは考えてもみなかった。いや、それを言うなら、今もそうだ。こうして部屋の中にいる今でさえ、この状況に心が付いていっていない。信じられない。夢の中にいるようだ。
 今朝病院で目覚めた時、状況が全くわからなかった。誰かが自分を覗いていると目にしながらも、頭には入ってこず、人の目を通して目にしているような感覚だった。それまで見ていた夢の方がリアルだ。なのに、どんな夢だったのか思い出せない。ただ、とても苦しく辛いものだったのは確かだ。目覚めたいと願っていた。そうして目覚めた場所は全く覚えのない所で戸惑ったのだ。まだこれは夢の中なのだろうかと。
 彼曰く、僕は寝ぼけていたらしい。確かに驚くほどの時間を寝ていた。元々あまり寝ない方で、熟睡する事は全くない。いつもなら、小さな音でも目覚めてしまう。なのに、人が出入りする医局で眠っていたとは。それだけ疲れていたということだろうか。自覚は全くない。確かに貧血気味ではあったが、睡眠不足ではなかったのも確かだった。
 玄関で待っていろと僕に言い、去っていく彼の姿もどこか別の空間であるかのように思えた。窓から零れる強い光がとても眩しかった。彼の背が見えなくなってもしばらく立ち止まっていたが、言われた通り廊下を進みだす。歩くに連れ頭がスッキリしだした。彼は僕をどうするつもりだろうか? 考えるが答えは浮かぶはずもない。お互い単なる患者と医者なのだから。
 考えながら歩いていた僕は、階段の踊り場で人とぶつかりそうになった。その相手は彼と一緒に僕の手当てをしてくれた綺麗な青年だった。挨拶をしてきた彼に、僕は昨日の礼を言い立ち去ろうとした。だが、彼はじっと僕を見てきた。
 その時ふと感じた。
 ――あの人に似ている、と。
 年齢も顔も外見はどこも似ていない。なのに、僕が似ていると感じてしまったのは、あの笑みのせいだろうか。僕の頭に僕に良く似た男の顔が思い浮かぶ。いや、僕に似ているのではなく、僕が似ているのだ。父の姿が僕を見る青年と重なる。
 あの人は自分の心は見せず、笑顔で他人を陥れる。そう、優雅に微笑みながら他人を死に追いやる。そのことを何とも思わない。自分以外の人間には興味がない。単なる道具だと、同じ人間だとは見ない。
 そして、この青年もまたそう感じる。笑顔の下に本当の顔を隠している。現にやった内容は悪影響があるものではなかったが、栄養剤だと微笑み別の薬を飲まされたのだ。彼に言わせれば騙された自分が悪いのだろう、なので、文句は言わない。結果は大したことではなかった。だがもし、あの薬が害のあるものだったなら…。それでも彼は普通に笑いながら薬を手渡すのだろう。
 しかし、目の前の彼からはあの人に感じるような恐怖や嫌悪は感じない。それ以上に、儚さを感じる不思議な感覚。まるで、現実には存在しないかのように。確かに似ていると感じるのに、全く別の存在だった。そう、毒を渡しもするが、逆もある。毒だとわかっていても、笑顔でそれを飲みそうな危さ……。
 困惑する僕に彼は寂しそうに微笑み言った。
『君は僕のようになっては駄目だよ』
 そして、お大事にと医者の顔に戻った笑顔でそう言い去っていく。その後ろ姿を見て彼も自分のように闇を持っているのだと感じた。だがそれは同じものではない。惹かれあう闇に興味は無い。他人の闇に触れられるほど、僕は強くはないのだ。それは彼も同じだろう。だけど、闇に触れ合わなくても、こうして同じような他人がいるとわかるだけで、少し癒される。
 あの男とは全く似ていない。確かに似ていると感じるのに全く別の存在、先程思った答えがわかった。彼はあの人に似ているんじゃない、僕に似ているのだ。そう、自分と同じ、闇を植え付けさせられた小さな子供のようなのだ。
 その後車の中で青年のことが気になり、聞いてみると大学時代からの友達だと話してくれた。苦笑しながら話す彼を見て、正直、僕はとても羨ましかった。似た闇を感じたが、やはり僕と彼は違うのだと思い知らされた。彼にはこんな友人がいる。仕事もある。他にも僕にはないものを持っているのだと、まるで小さな子供のように、欲深く嫉妬する自分がたまらなく惨めに思えた。
 そう、だから僕は、差し出された手を取ってしまったのかもしれない。青年の友人の思いを欲しがったのか。…何も知らない子供ではないというのに。
 だが、それなら青年が言った言葉はどう言う意味なのだろうか。自分のようになっては駄目だと、その思いは何なのだろうか。あの時の彼はなんて果敢なげだったのだろう。
 彼の闇は消える事がないのだろうか、今なお苦しみに落ちていっていると言うのだろうか?
 僕には、わからない。
 きっと、もう、会うことはないだろう。傷を持つもの同士は側に入られない。なぜなら、傷ついたものはその闇を隠して生きているのだから。そうしなければ生きられない。闇を乱す者を側には置けない。いや、人によって違うだろう。全く同じ傷を持った者なんていないのだから。そう、傷を舐め合う関係を望む人もいるだろう。だが、僕はそうじゃない。そして、彼も僕と同じだろう。だから、僕に似たものを感じつつ何も言わなかったのだ。最後に出た思いは、きっと自分に言った言葉だろう。
 もう戻れないのだと。
 今は表面は落ち着いて見えた青年も、闇に食われ一歩でも狂えばあの人のようになるのだろうか? そうかもしれない。そして、僕もそうなのだろう。
 青年の闇に彼は気付いているのだろうか。悪友だよと笑った、今はベッドで眠る彼の横顔が思い浮かんだ。
 願わずに入られない。青年が救われることを。そして、僕も――


「おい、あまり寝るなよ」
 身体を揺すられ、眉を顰める。……どうやら寝ていたみたいだ。
 あのままいつの間にか眠ってしまったのだろう、ソファに預けていた体が少し痛い。手足がすっかり冷たくなり、少し痺れてしまっている。そう頭は状況を判断しているが、瞼が重くて上がらず、声をかけてきた彼に反応を返せない。
 再び眠りに落ちかけた時、顔に何かが降ってきた。
 慌てて目をあけ身体を起こす。何てことはない。顔から膝の上に落ちたのはソファの上に置いていた服だった。いつの間にかけられたのか僕の上には薄い毛布が被せられていた。
「ホントによく寝る奴だな。その格好だと風邪を引くぞ」
 服を放った本人は詫びれた様子もなく、僕と同じようにバスローブ姿で、髪をゴシゴシと拭いている。
 また寝ぼけているのか僕はそんな彼を見て、やはり眼鏡をかけない方がかっこいいなと、どうでもいい事を考えていた。そんな僕を見透かしたかのように、
「なんだ、寝ぼけているのか?」
 と、笑った。
「ほら、それに着替えろよ。洗濯するから」
 くしゃくしゃと座ったままの僕の髪を掻きまわし、彼は寝室に入っていった。
 触られた髪に手を持っていく。まだ少し湿っぽい。
(…何なんだろう)
 自分でもわからない気持ちが、胸に湧き起こる。嬉しいとも、温かいとも違う。かといって嫌なものでは決してない。何だかわからない。くすぐったいといった感じだろうか。
 用意されていた服に着替える。その白いシャツとGパンは、僕には少しだけ大きいといった程度で、彼のものではないようだ。
「やはり少し大きいな」
 黒のTシャツ、チノパン姿の彼が出てきて苦笑した。
「俺の弟のだ。背は同じくらいなんだがな」
「弟?」
「あぁ。たまに来ては私物を置いて帰るんだ。甘やかされて育った、我が儘な奴だよ」
 そう言った彼の言葉からは弟に向けた優しさを強く感じた。洗濯物を持ち出て行く彼の後ろ姿がとても遠に感じた。
 ソファに座り窓の外を眺める。
 確かここは12階だった。このマンションは一つ一つの階が高いのだろう。部屋の中でも天井が高いのは窺えるが、こうして外をみると近くのマンションと階数があっていないのがわかる。そうはいっても、元々回りに高い建物は少ないので、どれが基準なのかわからないのだが。
 だが、そのお陰で、12階と決して高いわけではないのに、かなり遠くの方まで街を見渡すことが出来た。
 夕焼け色に染まる街には、早くもネオンの明かりが燈っている所もある。夜になると綺麗に輝く夜景が見えるのだろう。だが、僕は今、こうして茜色に染まった街の方が好きだ。沈む夕日、後ろを振り向けば自分の影が長く伸びている。ゆっくりと夜が帳を降ろす。それにつれ影は闇に溶けていく。空にはいつの間にか、一つ、また一つと星が輝き始める。
 そうした、自然がもたらす時がとても好きだ。あの場所を飛び出すまではそんな時間は殆ど作れなかったが、この半年は、飽きずにゆっくりと確実に時を刻んでゆく姿をよく眺めていた。その間は何もかもが忘れられた。
(あぁ、こんな僕を心配していた人がいたな…)
 それはもう誰だったか思い出せない。いや、名前も聞いていない、一度だけ会った者だ。防波堤に座り込んで海に沈む夕日を見ていた僕に、消えてしまいそうだなと小さく笑ったのだ。そのまま魂を持っていかれそうなほど焦がれていると……。
 カチャリと扉が開き彼が戻ってきたのに気付き、僕は夢から覚めるように後ろを振り返った。
「ほら」
 そんな僕に彼は握った手を差し出した。
「…なに?」
 手を反し開いたその中には数個の薬があった。
「あ…」
「ビタミン剤に…カルシウムか、これは。まるで年寄りみたいだな。
 こんなものばかり食べていたのか?」
 いつも飲んでいた薬だ。Gパンのポケットに入れたままだったのをすっかり忘れていたのだ。他には何も入っていなかったのだろうか。持ってきたのがこれだけなら、薬しか入っていなかったのだろう。元々あまり物は持っていないし、たとえ、カードなどの身元がわかるものが入っていたとしても、それは僕のものではない。そういう物を使う時はすぐ処分するようにしている。
(だから、大丈夫だ)
 自分に自信を持たせるように心の中で強く思う。そう、そんな失敗は絶対にしない。
「錠剤にジュース、ガムにクッキー」
「…?」
 言われた事がわからず、伏せていた顔を上げ彼を見る。
「彼が言っていた。お前が食べているのを見たのは今のものだけだってな」
 あぁ、そういうことか。香坂さんと話したと言っていたことを思い出し納得する。
「錠剤は栄養剤だたんだな。ジュースもそうか?」
 彼の問いにこくんと頷いた。そう、野菜ジュースはもちろんのこと、今は栄養補給の出来るものが沢山出回っている。
「じゃあ、クッキーもそうだな。ガムは?」
 そんなものもあるのか? と訊いてきた彼に首を振った。
「ガムは、ただ、噛む事が少なくなったから、ちょうどいいと思って」
 栄養補給のものでは噛むという事が殆どない。歯や歯茎が弱るなと思い食べていたのだが、正直何となくで、実際にその考えがあっているのかどうかはわからない。
「…なるほど。ま、色々考えていたわけだ。
 だがな、こんなものばかりの生活は良くない。普段の食事の中で補えにくい物を補給するもなんだからな。痩せるのは当たり前だ」
 それは僕もわかっている。だが、痩せようとし、尚且つ栄養をとるとなると、薬に頼るしかない。お陰で、こう痩せてもさほど身体に害はなかったのだ。
「昼は何か食べたか?」
 その問にも首を振った。
「ったく。これからは一日三食きちんと摂らすからな」
 そう言い、僕の手に薬を落とし、キッチンに向かう。
「あぁ、そうだ。今までいた所に取りに行くものはないのか? 置いてきたものもあるんだろう?」
「…ないよ」
「ないって、生活していたんだろう?」
 確かに置いてきた物はいくつかあるが、取りに行くほど必要なものではない。また新たに手に入れられるものばかりだ。何より、彼らとはもう会わない方がいい。お互いのためにも。
「特に何も持っていなかったから」
「そうか。
 なら、夕食の準備でもするか。何か食べたい物はあるか?」
「…あまり、食べたくない」
「却下。なら、大人しくテレビでも見ていろ」
 まるで子供相手のように僕に言い、そして、思い出したように言葉を付け足した。
「また寝るなよ」


 まともな食事を目の前にしたのはいつ以来だろうか。
 豪華と言うほどのものではないが、短時間の間にテーブルに並んだそれらは、一人暮らしの男の食卓レベルの物ではなかった。見た目同様、味も僕の口に合っていて、美味しかった。だが、やはり、少ししか食べれなかった。
 すぐに箸を置いた僕に、「ま、段々と食べられるようになるさ」と彼は言った。
 彼は僕が路上での生活のために痩せてしまったのだと思っているのだろう。そして、僕の体重を増やそうと、健康な身体に戻そうと考えているらしい。当たり前だ、彼は医者なのだから。だが、僕は自分で努力して痩せたのだから、このままでいたいと思う。このままで全く問題ないのだ。
 そう思うのだが、心配してくれているだろう彼に言うものではないのだと思い、頷いておいた。
 食後、彼はソファに座りグラスを片手に新聞を読みながらテレビを見ている。いや、聞いていると言った方が正しいのか。僕は絨毯の上に座りそんな彼を眺めていた。同じように酒に誘われたが、アルコールが苦手な僕は断った。すると変わりに温かいココアを入れてくれた。二十歳を過ぎた男にココアとは…。子供みたいだと可笑しくなりながらも、手に伝わる温かさが気持ちよく、僕は両手でカップを包み込んでいた。そんな僕を目の端に捕らえ、口角を少し上げて彼は笑った。
 彼が新聞から目を離し、テレビを見るのにつられて、僕も同じように視線を向けた。
 テレビは先程から、ある病院の小児科病棟を一年間にわたって取材したドキュメント番組が流れている。
 時は去年のクリスマス・イヴ。一人の少年のむくれた顔が映っている。少年は午後からの手術のため、昨夜から食事を摂っていない。その中で彼はクリスマスケーキが食べたいとごねて親を困らせているのだ。
 手術が済んだらね、という母親に今食べたいのだと泣く。手術後は体調が安定するまでは食事は愚か、水すら口に出来ない。そんな中でのやり取り。そこにやって来た父親に少年は怒られ、泣きながらベッドにもぐる。
 両親が席をはずした時、取材をしている者が少年の様子を伺う。泣き止んでいたが目の周りが赤くなってしまっている少年。
「ケーキ食べたかった?」
 そう訊かれこくんと頷く。そして、
「でも、ガマンするの。だって、僕が言うと、ママもパパも困るから…」
 少しはにかんで笑う顔。
 場面は変わり、手術中のランプがつく部屋の前で、両親が廊下の椅子に並んで腰掛けている。
 ナレーターが語る静かな声。
 僕は目が潤むのをとめられなかった。
 自分より小さな少年が病と戦っている。そのことに涙したわけではない。
 そう、これは嫉妬なんだろう。僕は彼が羨ましく、妬ましいのだ。当たり前のようにお互いを愛し合い大切にしている家族の姿。少年が安心して身を寄せられる両親――
 たとえ重い病気だろうと彼は幸せじゃないか。きちんと生きている。自分の生を、生まれた意味を持っている。
 それがとてつもなく羨ましかった。僕にはないものだ。
 今更家族の愛が欲しいとは思わない。あの人は家族になれないし、修復できない。いや、僕達の関係は初めから家族じゃなかった、ないものを修復なんて出来ない。
 そして、僕はそれに変わる存在が欲しいと今でもどこかで願っている。そんなものを持つことなんて叶わないとわかりながら求める心を止められない。そう、彼と一緒だ、あの少年と。ケーキが食べたいというダダをこねる子供と何ら変わらない。ただ、彼の場合はいつになろうと必ずあの両親がケーキを食べさせてくれるだろう。だが、僕の場合は、そのいつかは無い。
 たとえ、もし、偽りでも誰かの思いを手に入れられたとしても、あの人はそれを壊しにくるだろう。僕にとっての父とは、唯一の家族とは、そういう人なのだ。
 親は子供に何でもしてやりたいと願う。いくらでも無償で手を差し出す。子供は当たり前のようにその手をとる。何よりも親を頼りにする。――こんな絵に描いたような家族ばかりではないのだと頭ではわかっている。子供を虐待する親や、親を殺す子供のニュースは後をたたないのだから…。だから、自分は不幸なのだと哀れんではいない。もっと不幸な子供はいるだろう。…そう、頭ではわかっている。
 なのに、わかっていても、親に愛される子供を羨ましいと思うと同時に、妬ましく思ってしまう。
 僕はなんて醜いのだろうか……。
 そう、結局あの人を憎んでいても、僕がこうして生きているのはあの人のお陰なのだ。今の僕は全て彼に覚えこまされたもので身を固め生きている。この状況も自分で行動を起こしたが、計画のやり方も動き方も、自分の身の守り方でさえあの人によって作られたものなのだ…。自分が欲しくて逃げ出してきても、あの人の人形のような自分しか演じることが出来ないのだ。
 逃げられないのだ。あの人からは絶対に――
「……セイヤ」
 テレビから目を離さず彼がポツリと言った。
「…えっ?」
 自分の思いに捕らわれていた僕は何を言われたのかわからなかった。
「セイヤだよ。聖なる夜の、聖夜。
 お前の名前だ、嫌なら変えるが…」
 僕を見て微笑み、どうだ? と彼は首を傾げる。
 あぁ、そうだ。名前を付けてやると彼は言っていたのだと、今更ながらに思い出す。
(…聖夜――)
「…今の…、クリスマス…」
 そう、今のテレビを見て思いついたのだろう。クリスマスから、聖夜と。だけどその名は……。
「安直過ぎるか? ま、発想は単純でも、いい名前だろ?」
 苦笑しながら彼はグラスを口に運んだ。琥珀色の液体が彼の中に消えるのが歪んだ。目が熱くなり、慌てて視線をそらし俯く。
 体中が一気に熱くなった。心が震え上がる。…どうにかなってしまいそうだ。
 彼が僕を知っているわけが無い。知っていたら、僕を近くに置こうとなんてしない。
(だから、これは偶然だ)
 頭の中で回る思い。ドクンドクンと脈打つ鼓動を抑えられない。そう、偶然だ。だから、その名前なのだ。
 聖夜――
 なんてことはない、ありふれた名前だ。だけど、
(本当の名前の字が入っているなんて……)
 なんて偶然なんだろう。そして、その字はあの人にも入っている。だが、何よりも――
「嫌か?」
 沈黙をそう受け取った彼の困った声が僕に落ちる。ゆっくりと首を振った。
「僕は、何でもいい」
 そう、そっけなく言うので精一杯だった。声が震えていないだろうか? 落ち着くためにゆっくりと静かに息をする。
「ポチやタマでもか?」
「犬と猫? 発想が乏しいね」
「何言ってんだ。乏しいじゃなく、基本だろ」
 そう言って笑い、
「じゃ、これからよろしく。セイヤ」
 彼は僕に手を差し出した。




 あの時、彼の手をとったことを僕は後悔していない。
 たとえ、この結果を知っていたとしても、僕は手をとっていただろう。
 なんて僕は自分勝手な生き物なのだろうか…。
 だけど、僕には必要な温もりだったんだ。あの手は、僕を生きさせてくれた。確かに僕は幸せだった。だから、後悔はしていない。
 そう、こうして今、彼を裏切っているとしても、後悔はしない。
 二度と会えなくても。
 
 あなたに出会えた、それだけで、もう、いいんだ。
 あなたの前では、確かに、僕は僕でいることができた。
 僕はそれで十分なんだよ。
 だから、僕のことなんか忘れて、あなたには自分の道を歩いて行ってほしいんだ。
 ……葉山さん――

- END -

2001/09/03
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