猫と少年


 当直明けの朝、俺は一人の少年を拾った。

 コンビニの袋と新聞を持ったまま浴室に入り、風呂の用意をする。ドアを閉め脱衣所を後にしリビングに入る。新聞をドア近くのボックスに放り込む。
 そこでやっと気付く。
 少年の姿がどこにもいないということに。
 袋を低いテーブルの上に置き、脱いだ上着をソファに放って、再び玄関に向かう。
 ネクタイを弛め、ボタンを外しながら小さく溜息を付いた。……眠い。気を抜けば意識が散漫し、自分の行動がわからなくなりそうだ。眼鏡を少し上に上げ、目頭を抑え軽く揉む。
 玄関の手前で立ち止まる。少年は予想通りまだ玄関にいた。いや、二十歳だと言っていたのが本当なら、もう少年と呼ぶべきではないのだろう。だが、佇む彼は少年にしか見えない。
(…中学生にも見えないことはないな…)
 背はあるが、その細さから実際よりは小さく感じる。それが幼く見せるのだろうか。それとも、彼の雰囲気だろうか。子供特有の生き生きとした元気さがあるわけではないが、何にでも興味を持つ強い目が、友人の言葉ではないが、純粋な子どものように感じられた。
 少年は観察されていることにも気付かず、一点を見つめていた。その視線の先にいるのは、黒い猫。玄関に置いたただの陶器の置物で、特に珍しいも何でもない。真っ黒な身体は鏡のように輝き、周りのものを映している。実物の猫よりやや大きい身体をスラッと伸ばして座っている姿は、なかなか気高さを現していて目を引くものがある。瞳は深い青い石で、まるで魂が宿っているかのように輝いている。そう、まるで送り主のようだと俺は思う。
 これを貰ったのは一昨年の誕生日だっただろうか。いや、その前の年か。その日に仕事場で会いながら何も言わず、突然夜に友人はやって来た。抱えて持ってきた包みを玄関で開け黒猫をそのままそこに置き、上がりこんで持参したワインを飲みすぐに帰っていった。おめでとうの言葉がなかったのがなんとも友人らしい祝い方だ。
 あれから一度もあの猫は動かしていない。掃除の時にほんの少し移動するぐらいだ。いつでも玄関に居る。玄関しか知らない猫に、別の友人が番犬ならぬ番猫だなと悪づいていた。
 俺にとっては色々思う物だが、少年にとってはただの置物に過ぎないはずだ。何をそんなに見つめることがあるのだろうか…。
 壁に凭れかかり少年を観察しながら、俺は苦笑した。
(まるで、話でもしているかのようだ)
 少々その雰囲気を壊したくないと思ったが、そうすれば彼はいつまでもこちらの世界に戻ってきそうにないので声をかける。
「…上がれよ」
 弾かれたように振り向き少年は俺を見た。
 その驚いた表情に思わず俺の口の端が上がる。
 直ぐに彼の顔にはポーカーフェイスが張り付く。だが、表情が乏しいわけではないらしい。ただ、上手く表現出来ないのだろう。
(…それとも、抑える癖がついているのか)
 靴を脱ぎ上がったのを確認しリビングに向かう。静かにゆっくりと付いてくる足音がなんだか心地が良く、そんなことを思う自分に俺は心で苦笑した。

「…医者って儲かるんだ…」
 小さく呟いた言葉に苦笑しながら振り返り「そんなことないぞ」と返事をする。そんな俺に少年は「あっ…」とマズったかのような顔をした。どうやら無意識に口に出してしまったようだ。その姿に再び笑いつつ顔を戻す。後ろで俯いているだろう彼の姿が容易に想像できた。
「経営者ならともかく、俺は雇われだからな。
 あいつに言わせれば、割に合わない仕事だって言っていたから、医者は儲かる何てことをいったら笑われるぞ」
 そう言った俺の言葉に少しの間をおいて「あいつ?」と少年は訊き返してきた。
「あぁ、神崎。もっと楽して稼げる方法をあいつは知っているからな」
 そう、友人にはその方法が有り余るほどある。実際今も副業をしているわけではないが、医者の稼ぎ以上の生活をしている。都内の豪華なマンションも、所有している車も、その他の生活用品の殆どまでもが彼の信者による貢物である。本人が買っているものなんて、白衣と眼鏡くらいしかないのかもしれないと思うほどだ。
 そんな友人なら確かにハードな医者という職業につかずとも、生活に困る事は絶対にない。なのに何故医者をしているのか。
 友人が求めるものは、惜しみなく与えられる豪華な物でも、愛情でもないということだ。多くの者はそんなことは知らずに彼に接する。だからこそ、神崎にとって医者と言うのは、職業としてのものではなく、ただ自分が求めるものを得るための、一つの癒しの在処なのだ。子供と接することを唯一自分に与えた安らぎとして、医者の仕事をしている。
(そんな彼を知っているのは、俺くらいなんだろうな……)
 そして、知っていても俺は何も出来ない…。
 神崎はこの職業を金を稼ぐものとしてはみていず、例え無給だとしても辞める事はないだろうが、殆どの者はそうではない。俺達のようなまだまだ若いといえる独身の医者にとっては、本当に割に合わない仕事だと思うことが多々ある。これが家族持ちだったら余計にそうだろうか。いや、逆にそんなことも言っていられなくなるのか。
 医者は憧れでは絶対に勤まらない。拘束時間が多く、病を持つものと関わるという事は精神的にもかなりの負担である。正直、医者なんて感情が欠乏している奴でなければ勤まるものではないと俺は思うし、実際そうだろう。人を救うためにと強い意思を持って医者になる者ならば、挫折を味わおうとも残っていくだろう。だが、今医者になる者に、そんな者がどれくらいいるのか、実に怪しいものだ。
 学歴社会の落とし穴と言うべきか。その仕事の内容ではなく地位によって職業を選ぶ時代である。勉強が出来るからと、大してなりたくもない医者になり、結局自分には向かないと辞めていく者も少なくはない。折角頑張って勉強をしてなったのに辞められるか、なんて馬鹿なプライドで残っている者達も、辞められないだけであって、もう医者ではないのだろう。綺麗事を言うわけではないが、どうしてそんな者達に患者が治せられるというのか。そう、技術面では問題ないだろうが、人間の医者としては問題だ。
 だから俺は思うのだ。感情が麻痺した者しか医者ではいられないのだと。かくいう俺もその一人である。
 そんな中で友人の存在は、俺に癒しを与えるのだが、本人はそんなことを思ってもいないだろう。
「…こんな所に住めるほどには儲かっているんですね」
 リビングの扉に手をかけた時、後ろから少年がそう言った。だが俺は思いに耽っていて、一瞬何を言われたのかわからなかった。
「…ここか?」
 開けた扉を手で抑え、少年が入ってから閉める。
「ここは俺が買ったんじゃない。卒業と就職の祝いに親から貰った物だ」
 確かにこんな馬鹿でかいマンションに住んでいるのだから、儲かるものだと思っても仕方ないのだろうなと今更ながらに思う。
「一人で住むには広すぎるが、住み心地は悪くない。難点は掃除が面倒だというくらいだな」
 住み心地が悪くはないと言えるほど、俺はここには住んでいない。性格には大学を出てからなのでもう5年近く住んでいるのだが、生活の場だと言えるほど活用していないということだ。正に寝る場所であるので、悪い場所なんて見つけられない。もちろん、気付いていないだけで、そんな所もあるのだろうが。
 だが、そう言ったのはこれから住む少年への、説明と言うか何というか、そういうものであったのだが耳に入っているのかどうなのか、彼はただ窓の外を眺めていた。
(好奇心が強いのか、興味がないのか、はっきりしない奴だな…)
 俺はそんな彼の姿に肩をすくめ苦笑すると、彼を風呂に入れるべく行動を起した。


 躊躇いながらも、服に手をかけた少年を視界の隅に捕らえる。脱いだ服を洗濯機に放り込み振り返った俺の目に飛び込んできた彼の体に、自然に眉が寄りそうになるのを慌てて戻した。
 肋の浮き出た白い胸。切られた羽の名残かのように尖った肩甲骨。真っ直ぐ伸びた背骨があまりにも綺麗で、手を伸ばしたくなる。
(人骨模型みたいだな…)
 視線を合わせたくないのだろう、俯く少年に包帯を巻いた右手を出させる。それにナイロン袋を被せゴムを巻いていく俺の手を、じっと彼は見ていた。
 そういえば、昔実習で行った病院に骨好きのハゲ親父がいたことをふと思い出す。若い学生に骨を語っても、その人物が妖しいのを強調するばかりでしかなく、その本人が丸々と太っており、頭蓋骨以外本当に骨があるのかどうか疑わしい体型なのだから余計に、何が骨だと周り同様俺も呆れていた。だが、そんな白けた学生のことも気にせずに骨好きぶりを発揮する。医者なんてやはりおかしな奴なのだと実感するのには打って付けの人物で、実際あの実習で患者を見る医者の目を知ったことにより、病院なんて行くところじゃないなと、医学生とは思えない発言をした者は少なくはなかった。
 こんな医者にはなりたくないと、学生に身を挺して教えてくれた彼は今はもうこの世にはいない。異様な巨漢は単なる「太っている」ではなかったようだ。
 そんな男に語られた骨についての論理はもう忘れてしまったが、
(……あのハゲ親父ならこの少年の骨は絶賛するのだろうな)
 と思ってしまったのは仕方ないだろう。だからといって俺は、別に骨好きになるわけでもなく、ただ単純に、綺麗だと思っただけだ。
 眠くなれば人間考えがおかしくなる。俺の場合は特にそうで、その餌食になっている彼は可哀相でもあり、面白くもある。
「キツイか?」
 ゴムを引っ張りながら訊く俺に少年は頭を振って答えた。
 そんな彼の仕草に口の端を上げながら、俺は他人事のように自分を判断する。
 真面目に見られるのは昔からだ。実際はさほどモラルも何も持ってはいない。ただ、持ってはいないがそれが常識なのだとは受け入れているので、行動は正常だと自分では思っている。……いや、人間を拾った者を正常なんていえないのかもしれないが。
 神崎はこんな俺を面白いねと笑う。幼なじみの友人は、もう昔からの知り合いだからか諦めているようだ。弟は呆れている。
 だが、それがなんだというのだろうか。俺は俺でしかない。真面目に見えるのは、俺がそうしているのではなく、周りが抱く幻想だろう。ボケたところも、おかしな考えも人間なら持っていても不思議ではない。なのに、周りは俺に理想を求める。
 そういうものは幼い頃からなので慣れてしまった。今ではそんな視線が嫌だとは感じない。どうでもいいものとなっている。
 この少年も俺をどう思っているのだろうか。こうしてついて来たのは、俺なら安全だと判断したからだろう。実際危害を加えるつもりはないので、その判断はあたっているだろうが、正しかったかどうかは俺の預かり知らぬ所だ。
 さて、彼はいつ後悔するのだろうか。そして、――俺は?

「風呂から出たらちゃんと昼食を摂れよ」
 そう言い俺は出て行こうとしたが、やはり気になり少年を体重計に乗せてみた。
「…38キロか」
 Gパンを履いたままだ、もう少し軽いのだろう。身長を聞くとしばらく考えて言った。
「…6年前、…高校一年の春は、164センチでした」
「…何だ、それ?」
「それ以降は、知らない…」
 一体どんな生活をどれだけしてきたのだろうか。高校1年の春と言う事は、学校での身体測定だろうか。そこで俺はふと気付く。
「6年前に高1って事は、…二十歳じゃないな?」
 弟の要(カナメ)と同じ歳だと思っていたが、数があわない。要は二十歳になったばかりの大学二年生だ。6年前なら中2になる。だとすると……。
 その質問に「二十歳?」と何を言っているのか理解出来ないといった風に首を傾げられた。
「昨日そう言っていただろう」
 少し考えあぁ、と思い当たったように頷いた。
「本当はいくつだ?」
「21」
 ポツリと呟いた言葉は、予想してはいたが驚いた。
 病院で二十歳だと答えた時、サバをよんでいるのだと思った。だが、そのよみは逆だったのだ。どこからどう見ても未成年、高校生ぐらいだろうと思っていたというのに、実際は逆で、21歳。自分自身でそう見えないことがわかっていて、それでも未成年とは言うわけにも言わず、二十歳といったのか。
 今彼が嘘をついているとは思えない。そんな必要はないのだから、本当に21なのだろう。大学生なら、4回生。…全く見えない。
「…そうか」
 重い病気でのやつれた患者は何人も見てきた。しかし少年はそんな雰囲気は持っていない。栄養不足による症状もあまりあらわれていない。正直、ここまで痩せていて何故他に影響が出ていないのか不思議だ。
「背はそうだな」
 ……神崎より少し低いといった感じだ。164って事はないだろう。
「今は70センチってとこだな」
 軽く頭を叩いた俺を不思議そうに見てくる少年に、温まれよと言ってその場を後にした。

 リビングに戻りエアコンのスイッチを入れ奥の寝室に入る。大抵昼間に寝るときはこうして寝室のエアコンではなくリビングのものを使う。狭い寝室のものを使うよりもこの方が直接風が当たることはなく身体にいいからだ。
 押入の中の収納箱から適当に服を取り出す。この箱に入っているものは全て弟のものだ。要は思いついたようにやってきては色々物を置いていく。まるでせっせと自分の居場所を作っているかのように。口では多少文句を言いつつも、本気では怒れず、好きなようにさせている。両親も弟には非常に甘い。かくゆう自分もそうなのだろう。部屋の所々にある植物も全て要が持ってきたものだ。別に植物が好きというわけではないらしい。彼曰く、
『兄貴は文句を言いつつも、ちゃんと世話をするだろう。それが嬉しいんだよ。水をやっていたら、毎日とまでは行かずとも、オレのこと考えるだろう?』
 何を恋人のようなことを言っているのかと呆れたが、弟はいたって真面目なようだ。
 適当に選んだものをリビングのソファに置きキッチンに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、取り出しやすい所にあったコーヒーカップに注ぎ一気に飲み干す。
 寝室に戻り、眼鏡を外してサイドテーブルに置きベッドに倒れこむ。
 若いころは平気で徹夜をしていたが、最近はある一定時間を過ぎると一気に疲れが押し寄せてくるようになった。まるで体内時計が入っているかのようだ。昨日は急患が多く特に忙しかったので余計にだろうが、…年を感じる。
 底なんてありはしない闇の中に急激に落ちていく。浮上することがないとわかっていても俺はその闇に落ちるのを足掻いて手を伸ばすということはないだろ。
 それほどまでに疲れた体。
 俺の体はいつまでもつのだろう。…いや、いつまで続けなければならないのだろうか――
 沈んでいく俺の頭に、ふとそんな疑問が浮かんで、消えていった。


 覚醒は突然やってくる。
 これは一種の職業病なのかもしれない。
 当直の夜、休憩時間にうとうとしていても内線がなる一瞬前に目が覚めるのは、何も俺だけではない。慌しい戦場のような空気を感じ目が覚めるかのようでもあり、自身の存在を誇示するかのようでもある。
 その目覚めはもう癖になっているのか、こうして自宅で眠っていても、浮き上がりだした感覚は一気に急上昇し、覚醒へとつながる。
 手探りで時計を探す。指先に触れた眼鏡を先にかけて体を起こす。倒れていた目覚し時計を手に取り確認すると、時刻は夕方になっていた。
 欠伸をして寝室を出る。リビングのエアコンを切り、ふと気付く。
 ソファに凭れ眠る少年。
(また寝ているのか)
 と俺は呆れて小さく息を吐いた。
 近寄り腕に触れると冷たかった。風呂から出てそのままなのだろう。バスローブから出た足は異様なほど白い。つま先に触れると、腕以上に冷たかった。俺の腕ほどの細さの脚には、昨日のものだろう痛々しい青痣があった。
 寝室から毛布を持ってきて彼にかける。体勢が辛くないのかと思ったが、寝かし直せば目が覚めそうなのでそのままにリビングを後にした。どうしてだろうか、子供の寝顔は起すのを躊躇うものだ。

 熱いシャワーを浴びると眠気も疲れも泡と一緒に流れていく気がする。
 さて、どうしたものか。と今ごろになって思い始める。
 彼をここに連れてきたことに俺は後悔はしていない。だが、あの少年はどうだろうか。
 弟や友人たちはこんな俺に呆れるだろう。…いや、弟は怒るだろうな。それを思うと苦笑いが零れた。
 自分自身何故彼を誘ったのかわからない。同情した、助けたかった、少年を気に入った。そんなものは全くない。弱者を傍に置き自分の力を信じたいなんて馬鹿ではないし、少年が言うような、彼に何かを求めているわけではない。そう、本当に気になった、ただそれだけなのだ。
 そんな理由かよ、と弟なら怒るだろう。そう猫や犬ではないのだ。だが、気持ちは道に捨てられた猫や犬を何となく拾ってしまったのと変わらない。いや、猫や犬になら、可愛いとや可哀相といった想いがあるだろう。それがないのならなんだろうか。
 彼は弱く見えようとも、儚く消えそうでも、幼くとも、人間なのだ。捨てる拾うではかるものではない。そう、きっと俺は、友達を作るのと変わらない感情を少年に持っているのだろう。好感を持った、それが合っているか。気になった、それだけで十分じゃないか。
 そう、俺は彼を飼うわけではない。出て行きたくなれば出て行ける環境に彼はいるのだ。何も気にすることはない。
(なんていうのは、馬鹿ないいわけか……)
 高台になった場所にあるこのマンションからは、周りにあまり高い建物がないお陰で遠くまで見渡すことができる。霞がかかった向こうには高層ビル群がボンヤリ見える。
 このマンションは父親が就職・入学祝に買ってくれたものだ。
 そんなものなんていらないと言う俺を無視して話を進め、結局住む羽目になった。一体何を考えているのだろうか。一人暮らしで、家なんて寝られるだけで十分だと考える俺に4LDKのマンションだなんて、あり型迷惑だとわからないのがあの父親らしいと言えばそうなのだが…。
 住み心地は悪くはないが、本当に寝に帰ってくるばかりなので、活用していない部屋の方が多い。掃除も楽ではない。広すぎるのだ。
 リビングと寝室しか使わない俺に比べて、時たま遊びにくる弟の方がこの部屋のことを良く知っているくらいだ。
 父はそこそこ大きな会社の経営者だ。本来なら長男の俺がその後を継ぐはずだった。だが俺はそれには何の魅力も感じず、勘当寸前の言い争いの末手放した。いや、言い争いではない、父が一人で怒っていただけで、俺は頑なに意思を変えなかった。ただそれだけで話し合いでも何でもなかった。お互いの言い分が重なることはなく、平行線を辿り続けた争いを解決したのは、単なる時だ。志望校を決めなければ浪人が確定する時まで父は反対し、俺はそれを無視して、医学への道へ進む一枚の紙切れを出した。
 そうして選んだ医者の道もさほど興味があったわけではない。会社を継ぎたくない、それを納得させるにはそれなりの職業を選ばなくてはならない。そういう理由で決めたのが医者だった。法律関係も考えたがそれだと会社と関わりをもつかもしれないと止めた。
 俺の生みの母は俺が小さい時に家を出た。何があったかは知らないが、元々愛し合った末の結婚ではなかったようなので、時間の問題だったのだろう。後妻で家に来た今の母親は大人しい優しい人だった。優しすぎるといった方がいいのかもしれない。異様なほどに俺に気を使っていた。
 彼女は弟に気を使い俺が会社を継がないのだと思い込んだ。本当は単に俺の興味がないというだけなのに…。実際、弟の方が俺よりも社長と言う席にあっていると思っていたのは事実だ。だが、だからと言って自分に興味があったのなら向いていないとわかっていても俺は会社を継ごうとしただろう。そう、興味があったら。本当に俺は父の仕事に興味がなかったのだ。
 しかし、今にして思えばそれが本当に会社に対してか、それとも…あの家族に対してかはわからない。俺は逃げたのかもしれない、あの家族から…。
 父を嫌っているわけではない。一般的な家族と言うよりは一人の大人の男としていい関係を保っている。だが、それはお互いの努力があるからだろう。いつからだろうか、彼と話すと疲れるようになったのは。互いに顔色を見合うようになったのは…。母親とはそれこそおかしな関係だ。しかし、親子でありながら全くの他人なのだからこれも仕方ないのだろう。彼女は俺よりも一歩も二歩も下がって俺と接する。彼女と俺の間には壁がある。そうまるで必要以上にお互いを近付けてはいけないのだと立ちはだかっている。その壁を壊した瞬間今までの関係は跡形もなく崩れてしまいそうだ。とても儚い夢の住人のような母親。
 そんな家族の中で弟の存在はホッとした。明るく元気すぎる要が俺と両親の間を繋ぎとめる唯一のものかのようだった。
 だがやはり俺はどこかで彼らを避けているのかもしれない。可愛いと思う弟でさえ、線を引いているのではないだろうか…。
 何となくで選んだ医者と言う職業で、沢山の人と関わり、別の視線で俺はやっと俺自身を見れるようになってきた。
 温かなあの家族が俺にとっては優しすぎたのだろう。俺は温室に入れられる様なものではなく、寒い路上でも生き残るタイプの草だ。なのに彼らはそれに気付かない。暖かすぎて萎れた花を不思議に思い悲しんでも、外に出すことを考え付かないのだ。
 そう、正に彼らは俺を真面目だと捉える者達と変わらない。表面しか見ていないのだ。
(いや、そうではないか…)
 俺は彼らに表面しか見せていないのだ。
 何がいけなかったではない。三十年近く生きてきたが答えなんて見つからない。そういうものなのだ。
 この年になって、俺は一人でいることが寂しくなったのかもしれない。いや、寂しいではなく、虚しいか。
 そんな時目の前に現れた少年に俺は縋ったのだとは思いたくはないが、実際はそれに近いのかもしれない。
 俺を全く知らない少年に……。


 風呂から出て、リビングに戻ってもまだ彼は眠りの中にいた。少し躊躇ったが、いい加減寝過ぎなので、用意していた服を少年の顔に落とす。
 眼鏡をかけていなかったのではっきりとは見えないが、起きてもこちらを向き動かない少年。
「なんだ。寝ぼけているのか?」
 苦笑しながら「着替えろよ、洗濯するから」と彼の髪をかき回し寝室に向かう。
 服に着替えリビングに戻ると、少年は着た服を眺めていた。
「やはり少し大きいな。俺の弟のだ」
 背は同じくらいなんだがな、と言うと首を傾げ「…弟?」と呟いた。また寝ぼけているのか、性格からか。素直な子供のように、純粋に疑問を表す少年に苦笑が漏れるのを止められない。
「あぁ。たまに来ては私物を置いて帰るんだ。甘やかされて育った、我が儘な奴だよ」
 そう言い、彼の脱いだバスローブを取り俺は風呂場に向かった。
 洗濯機に入った少年のGパンを裏返そうとした時、小さな音をたて床に何かが落ちた。それを拾い上げるとそれがよく見知ったものだと気付き、知らずに眉間に皺が寄る。ポケットを探ると同じようなものがいくつか出てくる。中身がなくなった物をゴミ箱に捨て、洗濯機をセットし、リビングに向かう。
 そこにはソファに座り窓の外を一心に見つめる彼がいた。その姿は、道端に座り込む捨てられた子猫と変わるものがない様に思ってしまった。怒っていたわけではないがそれに似た感情はあった。注意しようと思っていたはずなのに、少し開いた扉の隙間からそんな少年の姿を見たら気持ちが一気に消えた。
 部屋の中に入ることに一瞬躊躇った。
 深すぎるのだ。
 この部屋はもう彼の心に沈み込んでいるようで、入ってしまえば俺はもう、少年を手放せなくなってしまうほどの執着と、その存在を求めそうで、正直怖い。
 ゆっくりとドアを開き、躊躇いながらも足を踏み入れる。
 自分の部屋のはずなのに、ここはもう、何もない、虚無の空間のように感じる。少年の姿は直ぐにでも消えてしまいそうだ。
 カチャリと音を響かせ閉まった扉に、夢から覚めるかのように彼は振り返った。
「…ほら」
 握りこんだ手を差し出したが、少年は眉を寄せ「…何?」と呟いた。俺は手を反対に反し、開いて中のものを見せる。掌の上には数個の薬。
「ビタミン剤に…カルシウムか、これは」
 こんなものばかり食べていたのかと問う俺を見ずに、じっと掌に乗った薬を眺めている。まるで意地を張った子供のようだ。悪いことをして怒られても、絶対に謝ろうとせずに口を結ぶ子供のよう……。
「…錠剤にジュース、ガムにクッキー」
 伏せていた顔を上げ俺に視線をあわす。だが、何を言われたかはわかっていないようだ。
「彼が言っていた。お前が食べているのを見たのは今のものだけだってな。
 錠剤は栄養剤だったんだな。ジュースもそうか」
 俺の問いにコクンと頷く。
「じゃあ、クッキーもそうだな。…ガムは? そんなものあるのか?」
「……ガムは、ただ、噛むことが少なくなったから、ちょうどいいと思って」
 さすがに、医者相手に、異常な食生活を知られるのは気まずいのだろう。視線を泳がせながら、ゆっくりと言う。
「…なるほど。ま、色々考えていたわけだ」
 何を考えてそんな食事をしていたのかはわからないが、一応は体を気にしていたようだ。今時の若い男は栄養なんてさほど気にしないだろう。サプリメントなどが流行しているので、そういうものは若い女性を中心に摂取する者が増えては着ているが、やはり流行のレベルでしかない。
(第一、ビタミン剤ばかり取っていたら、糖尿病になるぞ…)
 その辺のところが抜けているというのか、なんというか。今の世の中を見れば仕方がないと言えることなのだろうが、おかしいものはおかしい、だ。知らず知らずのうちに、俺の口調は説教のようになっていた。
「だがな、こんなものばかりの生活は良くない。普段の食事の中で補えにくい物を補給するものなんだからな。痩せるのは当たり前だ」
 そう言って、ふと、
(そう、当たり前……こいつは、こうなりたかったのか?)
 と思い当たった。拒食症ではないと思ったが、それに近いのかもしれない。物がないので食べられないではなく、食べたくはないので食べなかった、か……。
 案の定、昼は食べなかったという彼に眉を寄せ、俺は食事の準備をしようとキッチンに向かう。
 そういえば、と思い出し、荷物はないのかと訊くと、何も持っていないからと返事が来た。少々気になる所だが、それ以上は追求せず、冷蔵庫を空け中を覗く。
「何か食べたいものはあるか?」
 大抵のものなら作ることが出来るのだが、普段は忙しくて簡単なものしか作らない。何が出来るかと思い浮かべながら少年に聞いたが、
「あまり食べたくない」
 という小さな声が耳に届いた。
「却下。なら、大人しくテレビでも見ていろ。
 ……あぁ、また寝るなよ」
 しばらく手持ち無沙汰に周りをきょろきょろしていたが、キュウリを切る手を止め少年に顔を向けた時は、先程と同じようにソファに座り、じっと窓の外を眺めていた。
 すっかり暗くなってきた外。一体何をそんなに見る物があるのやら。もう少しすれば、完全に外は見えなくなってしまうだろうに…。
 僅かに窓が鏡となって映る少年の顔は、それでも真っ直ぐ外を見つめていた。


 結局、簡単なものをいくつか作り食事をしたのだが、少年は殆んど食べなかった。いや、食べられなかったと言うべきか。
 口に合わない、嫌いなものだというわけではなく、「美味しい」と言ったが、直ぐに箸を置いた。やはりそれでも、作ってもらったのに悪いなと思うのか、申し訳ないといった顔をする少年に、
「気にするな。ま、段々と食べられるようになるさ」
 無理することはない、と俺は言っておいた。実際、無理に食事をさしているのは俺の方なので、そう気を使わなくてもいいのだが。
 食器を片付けた後酒に誘ったが、苦手だと言うので、代わりに温かいココアを作り、一口でもいいから飲めよ、と渡す。
 受け取った青いマグカップを大事そうに両手で包み込み持つ少年を盗み見て、知らないうちに口の端を上げてしまった。そんな俺に気付き彼は少し眉を寄せた。
 今日の朝刊を読みながら、何となくつけていたテレビからのナレ―ションにふと顔を上げる。
 ある病院の小児科病棟を記録したドキュメンタリー。俺はあまりテレビを見ない。見るとすればこうした番組ではなくニュース番組ぐらいで、それも何かをしながらただ流していると言う程度でしかない。
 だから、顔を上げた先の画面に映し出される病室の風景も、特になんとも思わず、ただ、
(クリスマスか…)
 と、これが撮られただろう去年のクリスマスに自分は何をしていたかと思い返していた。
 そう。年末年始はまとめて休みを取ろうとするものが多い。家族へのサービスなのだろう、旅行となれば数日間は必要なのだ。そうなれば必然的に独身者に皺寄せが回ってくる。要するに仕事に明け暮れていたと言うわけだ。
 幼い頃から特にクリスマスや何やらといった行事にさほど関心がない。弟が生まれてからは、何かと家族で食事だ何だとしたが、あまり記憶に残っていない。
 だが、やはり子供にとってはクリスマスは特別なものなのだろう。うちの病院でも毎年その季節になると小児科病棟はデコレーションされ賑やかになる。大きなモミの木の絵に貼られた星型やブーツ型の紙に書かれた願い事は微笑ましいものだ。神崎にその飾り付けを手伝わされたことも何度かあるし、彼自身サンタの格好をしてうろついている。
 友人の似合いすぎる姿を思い出し、
(今年も何かやるんだろうな…)
 と半年先の事を考えながら、俺は再び視線を新聞に戻そうとした。
 だが、ふと気付くと少年が食い入るようにテレビを見つめていた。
 …いや、見るというより睨んでいるかのようである。目が潤んでいる。…何を思っているのだろうか――。その横顔に視線を奪われる。
(聖なる夜ね…)
 そう思った時には口に出していた。
「…聖夜」
「…え?」
 ゆっくりと俺に焦点を合わす。その目はやはり、赤く潤んでいる。
「聖夜だよ。聖なる夜の聖夜。
 お前の名前だ。…嫌なら変えるが?」
「…今の、…クリスマス?」
「安直過ぎるか?
 ま、発想は単純でも、いい名前だろう」
 本当に単純だなと自分でも笑いが漏れる。こう簡単に人の名前なんて決めていいのだろうか? だが、俺のセンスを考えると…、これはまともな名前だろう。
 子供に名前を付ける時、自分の名前がかなり影響するという。ありふれた簡単な名前をもっている親だと子供には難しい名前を付けたり、逆に名前で苛められたり、読めないと言われ続けたりした者なら、平凡な名前を付ける。
 最近はおかしな名前が流行っているらしい。漢字で書きながら、どう考えても片仮名だろうと言う名前が多いというが、その親は本当に子供のことを考えているのだろうかと思ってしまう。遊びじゃないのだ。それこそ、子供はゲームのキャラクターではない。
 俺自身自分の名前で特に何かを言われたことがなく、あえて上げるなら、名前が苗字みたいだとごく稀に言われる程度だ。そう、平凡な「葉山巽」でよかったと俺は思うので、本当に当て字のような名前は理解出来ない。逆に普通の名前に思い入れがあるかと言われても、全くない。自分が何かの名前なんて付けることがあるとは予想していなかったので、全く思いつかないのだ。例え単純な発想から来た名前でも、まともだしこれでいいんじゃないか?
 俺はそう思うが、少年が嫌なら仕方がない。
「嫌か?」
「――僕は…何でもいい」
「ポチやタマでもか?」
 そう言う俺に、発想が乏しいねと小さく笑った。
「何言ってんだ。乏しいじゃなく、基本だろ」
 彼の微笑みが嬉しく、俺は思わず手を差し出した。
「じゃ、これからよろしく。セイヤ」
 一瞬驚いたように目を見開き、そして躊躇いながらも少年はその手にゆっくりと触れた。




 俺は彼の何一つわかっていなかったのだろうか――
 自惚れていたのかもしれない。
 俺は彼を救えるのだと、救えたのだと…。
 だが、違ったのだ……。
 彼と過ごしたあの日々は、今はもう見えないものとなってしまった…。
 いつからこうなることを彼は予想していたのだろうか。
 それを選ばせたのは、俺なんだろうか――

 お前に手を差し出したことに後悔はしていない。
 そう、あの時の俺は握り返された手が嬉しかったのだから…。
 後悔は、していない。
 ……だが、セイ。
 お前にとっては、俺の手は足枷となっていたんだな…。
 そんなことに気付きもせず、俺はお前を苦しめていたんだな……。
 しかし、…それでも俺は、俺はこれを、この現実を、
 この数ヶ月の結果だとはしたくないんだ――
 だから、なあ、答えろよ…。聖夜。
 お前にとって俺との生活は何だったんだ……?

- END -

2001/12/07
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