STAY


 5月から6月へと月が変わると、まるでそれを待っていたかのように雨が降り始めた。直ぐに例年より早い梅雨入り宣言がされ、テレビでは天気予報を伝えるキャスターが降り続く雨に嫌気をさし、早く晴れの予報を伝えたいと言い苦笑を誘っていた。
 先の月の夏を真似たかのような暑さで参っていた草花にとっては、正に恵みの雨と喜んでいるのだろうが、人間はそうもいかない。ジメッとした湿っぽさ。蒸し暑いのに肌寒い。湿度の高さとそれによる憂鬱さは比例していた。
 何より、日の光が届かない、重い雲が空を覆っていると言うだけで気分が沈む。窓を打つ雨を眺め、暗い外の景色に溜息をつく人々の姿は日常の風景となった。
 なので、長く続いた雨が上がり久し振りに太陽が姿を見せたとなれば、誰もが用はなくとも外に出たくなる、そう言うものだろう。
 そう。これがもし梅雨の合間の晴れ間でなかったのなら、一緒に出掛けることはきっぱりと断っただろう。まだ水溜りが残る歩道を歩きながら聖夜はそう思った。だが…。
(…なんて言い訳は、通用しないか…)
 選んだのは自分なのだ。何処にも責任をなすりつける事は出来ない。自分自身の情けない考え方に、嫌悪を通り越し苦笑が漏れそうになる。
 斜め前を歩く背の高い男・葉山の後ろ姿から視線を外し空を見上げると、薄い灰水色の空で太陽が眩しく輝いていた。白い光を受け光合成をする植物のように、聖夜は自分の中にも何かが湧き上がるような、そんな気がした。
 …それは、生きるための力なのだろうか…。


 葉山の家で世話になりはじめると直ぐに雨の日が続くようになった。だからと言ってそればかりが原因でもないのだが、全くマンションから出ない生活を送っていた。
 朝は殆ど8時前に出勤するが、夜はばらばらの時間で遅くに帰ってくる葉山とは、あまり話をする機会も何も作れなかったが、特に不都合もなく彼との生活に順応していった。葉山自身、自分がいることによる問題は全く何もないようで、「何でも好きに使えばいい」とただそれだけで、他には何もルールは提示しなかった。
 いや、今はまだそうした時間は朝晩の極僅かな時だけなので、見えていないだけだと考える方が適切なのだろう。もう少しお互いの時間が重なりあえば、不満や何かは出てくるかもしれない…。
 多少なりとも緊張感を持っていたが、葉山の方は相変わらず寝に帰ってくるだけの仕事の日々を送っていたので、慣れなのか段々とそんなものはなくなっていく。そして、そんな自分自身に聖夜は少し戸惑った。
 好きにしても良いと言われたからといって、家主の物を勝手に弄るのはやはり気が引ける。そんな中、書斎にある書物には手を伸ばし片っ端からそれらを読んで日々を過ごした。
 葉山の持っている本は殆どが医学書だったのだが、本を読むのは単に活字に餓えているというだけなので内容は何でもよい。しかし、何冊目かになる頃には書いていることも理解できあれこれ考えられるくらいには知識がついた。だからと言って元々医学に興味はないので、何かについて考え込む事もないのだが。ただ、一心に文字を追い内容だけが頭を駆けていく、その感覚が懐かしくあり、楽しかった。
 例え興味のないものでもそうして何かに集中できるという事は、自分自身にとっては救いであるのだと聖夜は直ぐに気付いた。そうして頭を使った後は、まるで休むかのように何も考えずに外を眺めることが出来たのだ。もし夢中になれる物がなかったら、思いに囚われ闇雲にこの部屋を飛び出したかもしれない。それを考えると、こうして本を読むことは心に余裕を与えているのかもしれない。
 だが、だからといって、本当の無になれるわけでも、安らぎを得られるわけでもない。
 窓をつたう雨の雫。外の植木鉢の名前の知らない植物の葉に溜まっては落ちていく雨水。晴れていれば見える遠くの高層ビルも雨の中では陰すらない。
 マンションで一人、そうして過ごしていると、自分でも驚く感情を見つけた。
 静かな場所。知らない場所。
 ここでこのまま自分は消えてしまうのではないだろうか――。自分が居るこの部屋は、知らないうちに世間から切り離されてしまったのではないだろうか。このまま一人、消えるまで何も変化は訪れないのではないのだろうか…。
 弱さでも不安でもなく、当たり前のようにそう思い、嫉妬や妬み、苦しみでもなく、それを単純に淋しいなと思った。
 今までの自分の環境や置かれた状況などを、自分の価値観で図ったいい加減なものから出た不満ではなく、純粋に人が恋しいと思った。
 広い部屋に一人で居るからか、現実逃避をしようとする自分を別の自分が笑っているからか。それとも単に、天候による感傷なのだろうか。どれが自分の真実なのかはわからない。わからないが、他人を求める想いが自分の中で強くなっている事を自身で感じ取っていた。
 今までは、求めながらも何処かで諦め、やってきてくれる者を見た瞬間に逃げ腰になっていた。怖がっていた、怯えていた。
 今もその感情は確かにある。だが、それ以上に自分は欲深くなった。
 こんな自分に手を差し伸べてくれた者がいる。その事実だけで満足しなければならないのに、出来ない自分がいる。もっともっとと多くを望んでいる自分がいる。
 なんて醜いのだろう、なんて卑しいのだろう。そう思うのに、止められない…。
 そう。忙しい葉山がやっと取れた休日に、出掛けようと言ってきた時、はじめからその誘いを断り切れない自分を知っていた。窓から見える晴れた景色に惹かれたのも事実だが、それ以上に誰かと出掛けるということ自体を、子供のように嬉しく思ってしまう自分がいたのだ…。

 ソファに座り久し振りの晴天の景色を眺めていると、いつもより少し遅い時間に起きてきた葉山は、跳ねた髪を弄りながら、「朝食をとったら出掛けるぞ」と声をかけてきた。
「お前もだぞ」
 そう、と答える聖夜に、何を言っているんだと言う表情で葉山が付け加えた。
「……僕…?」
「当たり前だろう。お前の物を買いに行くんだからな。要らないと言っても、最低限の物はやはり必要だろう」
 葉山はそう言いながらキッチンに向かい、朝食の用意を始めた。
(…僕のもの…)
 それは今までも何度か言われたことだ。だが、聖夜はその度断ってきた。そこまでしてもらうことは出来ないからだ。それに、こうして家にいる限りは今のままで充分なのだ。
 そう言う自分に付き合っていればいつまで経っても埒があかないと思ったのか、葉山は仕事帰りに細々とした物を買って帰ってきたが、それだけでも聖夜としては恐縮するばかりだった。自分は好きでこうしているのだというのに…。
 確かに自分の服はみすぼらしいが、綺麗にしているし何の問題もない。借りている服も少々大きいが、不便ではないのだ。
 それに、葉山には言うつもりはないが、彼にそれをさせなければならないほど金銭面で困っているわけでもない。自分の家の中で浮浪者まがいの格好をするなと言うのであれば、それなりに身なりを整える程度の額なら直ぐに用意も出来る。
 コーヒーと新聞を持ってリビングにやってきた葉山に、聖夜はこれまでと同じように必要ないと断った。
「良くないだろう。お前も他人の服なんて着るより、自分の物の方がいいだろう」
「……でも、そこまでしてもらう事は、出来ません。僕は、これで構わない」
「俺が構うんだよ」
「駄目なんですか…?」
「着るのが駄目だとは言ってない。置いていく弟が悪いんだから、気に入ったのなら着尽くせばいい。だが、俺が言っているのは、自分の物を持て、だよ」
 その部分に葉山の思うところがあるのだろう。だが、それを言うならば、聖夜にもそれはある。自分の物を必要以上に作りたくはない…。
「…でも…」
「今更遠慮でもないだろう」
 …それを言われるのは耳が痛い。その一言で何も言えなくなってしまう…。
 俯いた頭に軽く手を置き髪を掻きあげ頭を上げさせられると、眼鏡の奥の切れ長の瞳が、優しく細められた。
「気にするな」
「……」
「言っただろう。俺は自己満足でやっているんだ。
 俺に悪いと遠慮する気持ちがあるのなら、嫌でも俺に付き合えよ」
 三十路近くの葉山にとっては、自分は小さな子供と代わらないぐらい幼いのかもしれない。実際彼は、自分の事を単なる今時の家出少年ほどにしか思っていないのだろう。
 そう扱われるのは何だかこそばゆい感じがしたが、嫌ではなかった。だが、感情と意思は等しくはない。


 梅雨の合間の晴天で、いつも以上に人が居るのではないかと思う舗道を並んで歩くというのは元々難しいものだが、気分が重い聖夜は更に意図的に葉山との距離をあけていた。
 いや、聖夜自身は無意識なのだろう。だが、心の何処かではまだこの人込みの中を葉山と同じように歩いていいのだろかと迷っている自分を認識しており、知らず知らずとはいえ結果的にはそうなってしまうのだった。そんな彼を責めるでもなく、葉山は無言で立ち止まり開いた距離を縮める。
 自分は何をしているのだろうか…。
 少し前を歩く葉山の背を見ながらそう思う。自分は何をしたいのだろうかと。
 全てを縛られるのが嫌で、あの人について行くのが嫌で飛び出し自由を求めた。今、確かにあの頃と比べれば、誰かのためではなく純粋に自分の時間だけを過ごしているので自由と言えるのかもしれない。だが、自分は縛られたままだ。いや、あの場所を離れて、余計にその鎖は強くなった…。
 恐怖と言えるほどのものではなく、諦めといったこの自由の終わりを自分は予感している。ただ、その時がくるまで、…今はまだ、少しでも、と足掻いていたいのだ。
 そう思う心と同時に何処かでこの疲れを取って欲しいとも思っているのかもしれない。だからこそ、自分はこうしてその危険を冒しているのかもしれない…。
 逃亡者だ。未来を求める為に進んでいるのではなく、過去から逃れる為に逃げているだけなのだ。そう、自分は未来なんて見ていないのだ。
 そんな余裕がない、といったものではなく、単に自分はそれを見ることが出来ないのだと聖夜は思った。考えるには、考えられるだけの感情と状況と、そして自分と言う人間が要るのだ。自分を理解していなければ、何も見えないのだ、未来というものは……。

 喧騒の中を歩いていた聖夜の体に衝撃がきたのは、そんな事を考えている時だった。
「…おい、こら」
 衝撃をやり過ごし再び歩き出そうとした時、そんな声とともに肩を掴まれ引っ張られる。まるで独楽が回るかのように、180度半回転することとなった。視界の隅で葉山が立ち止まるのが見えた気がしたが、降ってきた状況に振り返るわけも行かない。
「ぶつかっておいて、謝りもなしか、あぁ?」
 自分とさほど歳は変わらないだろう、20代前半の若い男が二人立っていた。一人は左肘を押えて顔を顰めていた。だが、目には気味が悪い笑いを浮かべている。
「……」
 見るからに頭の悪そうな、常識の欠片も何もなさそうな姿の青年達に、聖夜の口からは何も言葉は出てこない。茶色の短髪の男が、腕を押えて痛がる金髪の男を顎で指しながら、ギロリと睨んできた。
「どこ見て歩いてたんだよ、えぇ? 可哀相に、あいつ骨が折れたみたいだぜ」
 今時こんな風に絡んでくる奴がいるという事実に、内容の意味よりもその言葉自体に少し驚く。見た目通り頭の軽さと素行の悪さが覗えるというものだ。
 人の事をとやかく言える外見でも生まれでもないが、彼らにいいように扱われる気はない。だが、今の状況では穏便に済ますのが一番なのだともわかっている。一人ならばどうにでもなるのだろう。相手になることもできるし、逃げることもできる。だが、今は近くには葉山がいるのだ。面倒は避けたい。…なら、どうすればいいのだろうか。
 彼らの目的は、金を巻上げることなのだろう。弱そうな自分を暇つぶしのターゲットに選んだに過ぎない。歯向かうなんて思っていないだろう。だが自分は無一文だ。なら、金を持っていないとわかれば憂さ晴らしに暴行を加えてくるか…?
 態々騒ぎを起す気もないが、それに付き合う気もない。だが、自分の行動で葉山に迷惑がかかるかもしれない。そう、下手に下手に出れば葉山に金銭を強請るかもしれないし、それ以上の事をするかもしれない。その予想は否定しきれない。葉山が絡まれている自分を放っておいてくれれば問題はないだろうが…、それは無理だろう。
 さて、どうしたものか……。
 表情には出さずに考えあぐねている聖夜の態度は、青年達の気に入るものではなかったようだ。
「…何だよ、無視してんじゃねーぞ、こら」
「く〜、痛い。痛くて、死にそうだ」
 男が大袈裟に痛がるが、誰が見てもふざけた演技でしかない。なのに、その男の事は棚に置き「ふざけんなよ」と、茶髪の男が聖夜に手を伸ばす。何処をどう見てもふざけているのは自分達だというのに、それに気付かない感覚はある意味凄いことなのかもしれない。
「ちょい、顔貸せ」
 襟首を引っ張られ、路地裏に連れ込まれる。少々太めの茶髪の男に引きずられるような形で連れて来られたそこは、先程の所からワンブロック離れただけだというのにひっそりとした場所だった。
 表の通りの喧騒は聞こえたが、距離以上に遠くのものかのようである。ビルの建ち方によるものだろうが、正しく切り取られた空間といった風に、見えない壁があるかのようだった。恐らく此処ならば、少しぐらい騒ごうとさほど声は聞かれないだろう。死角になっているわけではないので目撃される可能性は十分にあるが、この街での喧嘩に誰がどのくらい見止めるというのだろうか。
 馬鹿な奴らだと思っていたが、いい場所を知っているなと聖夜は他人事のように思った。実際、あのまま人込みの中で揉められるより自分としてもこちらの方がいいのは確かだ。
 襟首を離されると同時に突き飛ばされ、壁に背中を打ち付ける。倒れこむことは避けられたが、息が詰まり、聖夜は小さな声を漏らした。
「何か言えよ、こら。それとも何か? 怖くて喋れないのか?」
 笑いを含んだその言葉に、腕を抑えた男も体を揺らす。
「ったく、ガキが。弱いくせに意気がってこんな頭してんじゃねーよ」
 髪を掴み引き上げられ、自然と顔が上を向く。聖夜の顔を近くで覗き込み、男は視線を合わせにやりと笑った。
「金出せよ。それで許してやるよ」
「……」
 予想通りの事に溜息すら出ない。聖夜はスッと男と合った視線を外し下に向けた。腰で履いたジーンズの裾はボロボロで、スニーカーは踵を潰して履いている。自分の方がよっぽどマシな格好をしているなと聖夜は心の中で少し苦笑した。
 今時珍しくはない格好だろう、お洒落と誤解した者達。そして自分の事もそう思ったのだろう。だから、こうして金銭を強請れるのだ。
 本当に馬鹿な奴らだと思う。人を見る目がなさ過ぎる。だが、それが当たり前なのだろう…。まだ、社会を上手く渡れなくて当然なのだ。馬鹿な行動も若さゆえだ…。
 それだけを考えると、目の前の粋がった青年達は可愛く見える。だが、自分が絡まれているとなればそうもいかない。
「慰謝料寄越せって言ってんだよ」
 その言葉に聖夜はフッと笑いを漏らした。
「持っていないよ」
「嘘をつくと痛い目見るぞ、あぁ?」
「無い物は無い」
「…てめえ…!」
 聖夜の怖がりもせず逆に嘲笑うかのような強気な態度に、男が顔を怒りで染め腕を振り上げようとした時、
「怪我をしたのなら診てやろう」
 突然降ってきたその声に青年達と同じように聖夜が振り向くと、そこには葉山が立っていた。
 今まで入ってこなかったので、このことに気付かず先に言ったのかとも考えていたのだが、そう都合のいいものではなかったようだ。もしかしたら、消えた自分を探したのかもしれないし、様子を覗っていたのかもしれない。どれにしろ、あまり言いタイミングで現れたとは言い難いな、と男を怒らせてことを聖夜は少し後悔した。
「…なんだよ、あんた」
 案の定、逸らされた怒りを男は葉山に向ける。自分より長身の葉山に警戒しながらも聖夜にかけた手を放しゆっくりと近付く。骨が折れたと言う男が片腕を押えるのを止め、離れた男の変わりに聖夜の傍にやって来た。
 葉山と茶髪の男を視界に捕らえながら、聖夜は傍の男の気配を覗う。自分と変わらない身長。体重は倍近くあるだろうか、だが、問題はない。問題なのはむしろ、葉山の前だということだが…。
(気にしてはいられない、か…)
 苦笑交じりに決心を固めた聖夜の耳に、男と葉山の会話が入る。
「おっさんが口出ししてくるんじゃねーよ。どっかに行けよ!」
「医者なんでね、怪我人を放ってはおけない」
「あぁ?」
「そっちの友達、怪我したんだと騒いでいただろう?」
「あんたには、関係ないね。…いや、そうだな。もうじき出るかもな」
 二人の怪我人がな。
 そう続けようとした男の言葉は、突然上がった呻き声で掻き消えた。
「何だ!?」
 男が振り返り視線を向けた先で、跪いた仲間とその後ろに立った自分達の獲物だった者の姿を確認する。
 葉山に気が行っている隙に、聖夜は男の腕を後ろに回し締めて動きを制したのだ。男にすれば、突然の攻撃に対応する間もなく気がつけば腕の痛みに自然と地に膝をつけていたというところだろうか。
「ケンイチ!」
「…くっ、あぁっ!」
 先程の演技とは違う苦痛の音を、男は口から出す。
「この、ガキがっ!」
 駆け寄ろうとした茶髪の男に向かって、「動くと折る」と静かに、だが良く通る声で聖夜は言った。その言葉に、痛みに歪んだ顔で男が仲間の名を呼ぶ。
「…くっ…。ヨシオ。マジだぜ、こいつ…」
「…ふざけやがって!」
 仲間意識はあるのか、男は聖夜を睨んだが近寄ろうとしていた足を止めた。その数歩向こうで葉山が自分を見ているのを痛いほど感じたが、視線を合わせはしなかった。この場で葉山が単なる通りすがりの者ではなく、自分の連れだと気付かれるのは避けたい。そして、今自分がこれからすることにも口を出さないで欲しい。
 聖夜は自分がこれからする行動を躊躇ってしまうのを恐れ、葉山を見ることが出来なかった。
 男の右肩に乗せた左手に体重をかけ、掴んだ右手首を背中で自分の肩を触らせようとするように力を加えると、先程よりも大きな悲鳴が上がった。男は苦痛に耐えるために握り締めていた左手を解き、後ろに立つ聖夜の足を思い切り掴む。
「…や、めろ…っ!」
 その声に従うように聖夜は力を緩めた。だが、男の手の力は緩みはしない。しかし、苦痛の色を全く見せずに、予想していなかった状況に対応し切れず立ち尽くすだけの茶髪の男に聖夜は話し掛けた。
「良かったな。友達の腕は折れてないようだ」
 足首を握られたまま、その力なんてまるで何の抵抗にもならないかのように軽々と足を上げ、聖夜は男の左肩にかかとを落とした。途中で無理に曲げられる腕の痛みに男は自然と手を放す。
「感覚はあるみたいだからな」
「……舐めんなよ。…てめぇ…くっ!」
 暴れようとする金髪の男に乗せた足に体重を加えて動きを止める。靴の先が男の頬にあたる。
「彼だけじゃない、あんたも動くなよ。骨なんて簡単に折れるってことを知らないのか?
 …実際折ってみるのもいいかもしれないな…」
 聖夜の言葉に返答を返したのは、青年たちではなかった。
「いや〜、それは止めたってほしいな〜」
 後ろから間延びした声が上がる。
(…まさか……)
 聞き覚えのあるその声に聖夜が眉を顰めた琴に気付いた者は誰もいなかっただろう。葉山も男もやって来た人物に視線がいっていたからだ。
「…若っ!」
 茶髪の男の声に、聖夜が抑える金髪の男も誰なのか気付いたのだろう。首を動かし振り替えようとする。力を緩めそれを止めはしなかったが、男はそうされた事にも気付かない。
「若! どうして…」
「ほらな、やっぱりうちのもんやんけ。…たしか、下澤んとこのもんだったよな?」
「あ、はい。そうです」
 茶髪の男が言葉と同時に、勢いよく頭を下げる。友人が未だ膝を付いた状況にいるというのに良くそんなことをしていられるものだ、と一瞬そう思ったが、彼らにすれば、上の者を見たら頭を下げるというのは条件反射なのかもしれない。
「ほら、ゆうた通りやろが、杉崎」
「そうですね」
 関西弁の男の呼びかけに、愛想も何もない声の男が事務的にそう答えるのが聖夜の耳にはっきりと届いた。だがそれよりも、更に悪くなった状況の方が問題だ。
「そうや。ま、そんなわけで、そいつの腕放したってや」
「……」
 言われたように腕を離すと、男は腕を押えながら立ち上がり振り返って、「スミマセン!」と頭を下げた。その横を、聖夜は足早に通り過ぎる。
「あっ! こら、待てや。凛!」
 男の声に咄嗟に横を通り過ぎようとしていた聖夜の腕を掴みかけた茶髪の男は、名前を呼んだことに驚き、「…えっ!?」と声を上げた。
「…若の、知り合いですか…?」
 それには答えず、若と呼ばれた男はもう一度聖夜に向かってその名を呼んだ。
「凛、無視すんなよ」
「……」
 葉山が眉を顰めるのを視界の隅に認め、聖夜はそれを振り切るように後ろを向いた。ばれているのならば、何もせずに逃げる事は難しい…。
「…お久し振りです、須藤さん。まさか、こんなところで会うとは思ってもいませんでした」
「おう。俺も思ってなかったわ」
 振り返った先には、予想通りいかにもその筋の者だろうな三十過ぎの男がいた。自分の愛想も何もない言葉を受けてもなおニカッと笑うが、その笑顔は悪戯盛りの子供のように見えなくも無いが、どちらかと言えば嫌な笑いだ。出来ることなら目にしたくは無い、裏のありそうな笑い。思わず、聖夜の眉が寄る。
「…では、失礼します」
「なんでや、なんでそうなる。まぁ、待てや」
 軽く礼をして去ろうとするが、直ぐにそれを制されてしまう。口の端を上げて楽しそうに笑いながら近付いてくる男…。
「若いもんと遊べても、俺とはあかんのかい。ツレないぞ」
 …最悪だ。
 聖夜の中にはもはや目の前の男に落とす溜息しかない。
 この男、須藤とは大阪にいた頃知り合ったのだが、何を考えているのか、自分で遊ぼうとしにくる何とも厄介な男なのだ。見た目通りのヤクザなのだが、本人の中身はどちらかと言えば怖いと言うよりは馬鹿な餓鬼といった感じで、その性格はとにかくしつこい。気に入ったらとことんなのだ。
 はっきり言って聖夜とすれば、世話にはなったが二度と会いたくはない者だった。馬鹿なのに飄々とした面もあり、掴み所が全く無い。いや、馬鹿な振りをしているだけなのかもしれないと思うほどに頭が切れる面もある。
 嫌いにはなれないが、心を許せるような相手ではない事を十分に理解している聖夜にとって、本当にこの場での再会は最低最悪なものであった。
「遊んでなんかいませんよ」
「ま、そうやろな。どうせ、こいつらがケチつけにいったんやろ。悪かったな」
 そう謝罪を口にしたが、須藤の頭には部下の男達のことなどないのであろう。考えは手にとるようにわかる。自分に会えたことに喜んでいるのだ。純粋に再会を喜ぶのもあるのだろうが、遊べる対象が目の前にいることに対する喜びだ。
「…謝る暇があるなら、ちゃんと躾て下さい」
 その言葉に、「何だと、こら!」と青年達が声を上げ、須藤の向こうに立つスーツ姿の杉崎と呼ばれた男が眉を顰める。それを気付いているのだろうに制することなく彼らを無視した上で須藤は聖夜に話し掛けてくる。…性質が悪いのはこの上ない。
「こいつら何やったんや? 凛」
「……ちょっとした接触事故ですよ。結局どちらも被害はない」
「そうか? あいつは筋張って最低でも筋肉痛になると思うが、ま、自業自得やな、それは。
 っていうか、お前ら相手見てせーや。こんなガリガリにぶつかって行ったら、こいつの骨が折れるやろ」
「…相手を見て、自分にしたんだと思いますけどね」
 そう、こんな痩せこけた餓鬼なら少し脅せば楽に小遣いが稼げると思ったのだろう。結果は間違っていたが、考え方はまともだ。自分より弱そうな人間をターゲットにするのは当然の事なのだから。
「ハハハ。相変わらずやな、凛」
 その言葉に須藤は声を上げて笑い、聖夜の頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「お前、前の茶髪の方が似おとったな。金髪するならもっと濃くせえや。弱っちい感じがするから、バカに絡まれんのや」
 隙を見せてはならない。須藤はそれを狙っているのだから。
 自分の頭に置かれた手を振り払い、笑う須藤を軽く睨みつける。だが、男には全く影響はない。
 それを聖夜自信気付いている。だが、気に入られている自分だからこそ、そうして嫌がっているのを主張し続けなければならない。でなければ、隙を突いて手中に収められそうになるのだから。
「そういや、愛しの君には会えたんか?」
 ころころと思いつくまま変わっていく会話に、真剣に答えを返す必要は無い。流すことが出来るのならそれに越した事はない。
「…いえ」
「あかんな〜。会わな、付く勝負も付かんやろが」
「そうですね」
「思ってもないくせに、同意すんなや」
「なら、答えがわかっているくせに訊かないで下さい」
 自分はいたって真剣なのだが、どうも須藤との会話は漫才のようになってしまう。微妙にずれていて噛み合う事があまりない。尤も、そうなってしまうのは須藤自信が意図してやっているからだろう。楽しんでいるのだ。何が楽しいのか理解は出来ないが。間違っても軽口を言いあう仲ではない。
「いや、それにしてもホンマ驚いたわ。
 なんかやってると思ったら、お前がいるやんか」
「そうですか」
「こりゃ、声掛けなあかんてな」
「かけなくて良かったです」
「何ゆうてんねん。感動の再会やんけ」
「どこがです」
「いや〜、その憎まれ口も久々に聞くと可愛いな」
「あなたは相変わらず胡散臭い喋り方ですね。こちらで聞くと余計に耳障りだ」
 本来は東京の人間だというのに、須藤は怪しげな関西弁を喋る。大阪にいる時も少しおかしな喋り方だと思ったが、こちらで聞くと更に怪しすぎる。
 何らかの理由で大阪に数年住んでおり、その後も行ったり来たりの生活をしているのだ、と聞いてはいないのに教えられた。なので、まともに喋る事も出来るのだろうに、そうはせずにこんな話し方をするのは一種の嫌がらせなのだろう。いや、純粋に自信が楽しんでいるという方が当たっているか…。
 大抵の者は不快に思うだろうイントネーション。聖夜もまた、耳につくその話し方に眉を顰める。
「煩いわ。何やねん、折角助けたったのに」
「頼んでいません。あなた自身が遊びたかっただけでしょう」
「ちゃうわい。俺もお前やなきゃ態々下のバカなシノギ止めへんわ。
 今みたいに途中で止めたら注意で終わらせなあかん。それやったら、バカやり終わってから、ちゃ〜んと叩き込むほうがいい。バカに教えるのはその方がエエやろ」
 バカバカと連呼されているのは自分達だと気付いていないのか、未だに須藤と聖夜の関係を飲み込めずにいるのか、若い男二人は呆けている。
「そんなの知りません」
「知らんでもそうなんや。そやのに、態々救ってやったんやで、感謝しろや」
「出来ません」
「ま、するのはお前じゃなく、あいつらやな。本気で腕折る気やったやろ?」
 ニヤリと口角を上げる男に、聖夜は心外だと言わんばかりに眉を寄せた。
「…まさか、あなたじゃあるまいに」
「嘘つくなや。お前やったら簡単なことやろ」
「買かぶり過ぎですよ」
 その答えに「謙遜もそこまで来ると嫌味やな」と、この男には言われたくない言葉を降りかけられる。須藤のように口が達者すぎる男に言われると、自分の方が何だか悪者のように聞こえる。
「…得にならない事はしません」
 子供のようだと思いながら、思わずそう口にしてしまう。これでは負け惜しみのようだ。そして、須藤にはそんな自分の心の内に気付くだけの目がある。
 だが、そのことには触れず、「ま、お前はそういう奴やな」と須藤は軽く笑っただけだった。

「…若。時間が」
「もうちょいいいやろ」
 杉崎の言葉に須藤は疑問形ではなく命令口調でそう言う。
「駄目です」
「…だそうですよ」
 きっぱりと言った男の言葉に続けてそう言うと、「しゃーないなー」と須藤は肩を竦めた。
「ま、何か合ったらいつでも来いや」
「行きません」
「ま、そうゆうなて」
 名刺を取り出し、「携帯な、これ」と裏に番号を書き込んで聖夜の手に握らせる。その表には建設業の肩書きが書かれていた。ヤクザと建設業。いかにもな取り合わせで笑えもしない。
「ん? 他のがええか? 色々あるで」
「…要りませんよ」
「さいでっか。ま、これは大事にもっとけや、捨てんなよ」
 聖夜が手にしていた名刺をとり、シャツの胸ポケットに入れ込む。
「ほなな、凛。今度おーた時は骨と皮だけになってんなや。気味悪いからな」
 やっと行った。背中を見せた須藤にそうホッとした。だが、その瞬間を見計らったかのように「あぁ、そうや」と振り返る。
「そこの兄ちゃん。あんた、今の凛の飼い主なんやろ。よろしゅーな」
 呆然と、だが訝しげに見ていた葉山に須藤はそう言い笑った。
 抜け目ない…、この男にはばればれなのだ。小さく舌打ちをするだけで聖夜は何も口にはせずにおく。例え否定しようと耳など貸すはずがない。
 眉を寄せる聖夜に、須藤はニヤリと笑いを向ける。
「男前な飼い主やんか。ええな」
「…下世話な想像は止めてください」
「してないわい」
「彼はあなたのような趣味はない」
「そーかい、そーかい。そりゃ良かったな。どうせ俺は汚れた大人だってな」
「そこまでは言っていません」
「思ってるやろ。ゆーてるんとおんなじや」
「そうですか、ならそうなんですかね」
「お前な〜…」
 須藤の言葉を「若!」という、少々機械じみた感じの呼びかけが遮る。
「遅刻ですよ」
「煩いな、お前」
「口説くのなら違う時にやってください」
「杉崎、お前の目にはこれが口説いているように見えんのかよ。俺が苛められてんのやんけ。
 第一、 違う時って、いつでもお前怒るやんか」
「あなたが忙しい時をよっているからでしょう」
「お前は小姑か、煩いわい」
「…なら、この後一人で仕事をしますか?」
 男の声に「俺を脅すんはお前ぐらいやな」と溜息混じりに答え、「またな」と聖夜に向かって手を挙げ須藤は今度こそ本当に立ち去った。彼らに続くよう、青年二人も直ぐに消える。
 またなどあるはずもないのに、何を考えているのやら。
 嵐が去った後、沈黙が降る中、聖夜は小さく溜息を吐いた。そして、
「…行きましょう」
 と、葉山を促し、表通りへと足を進めた。

 憎めない人物はそれだけで自分のアキレス腱となる。好きならどんなことをしてでも守ろうと、それを弱みだとは思わない。だが、実害があるのに嫌いになれないというのは扱いが難しい、本当に困ったものだ。
 須藤は正に自分にとってそう言う人物だった。
 力を持った人物に関わるのは危険なのだ。なのに、嫌がりながらもいつも彼のペースにのせられる。そして、嫌がりながらも、心底拒絶は出来ない。
 話せば昔馴染みのような関係に見えるが、数日間だけ付き合った関係の男だ。その間の執拗な構いぶりも凄かったが、嫌になれるものではなかった。立場上こういうのはおかしいが、歳の離れた悪友といった感じなのだ、須藤は。ヤクザの彼が自分に縦の関係を求めない。それほど気に入られているのであろうが、ひとまわり近くはなれた子供にそれなりの組の幹部が馬鹿にされていては困るだろう。なのに、そう言うところは全く気にしない。
 そんなところは好感すら持てる。
 だが、それでも、慣れ親しむ事は出来ない。ヤクザになど関わりたくない。
 今は彼は自分の事には気付いていない。いや、気付いていても須藤なら何もしないのかもしれない。だが、他の者はそうは行かないだろう。
 人は金のためならば何でもする。そう、曖昧な感情での人間関係よりも、金の方が大事と言う人間は多い。それこそ、そのために簡単に人を殺しもする。
 かつて自分もしてきたことで、それを否定は出来ない。人が人であるなら、それは仕方がないことだ。だが…。だが、それでも、もっと大切なものがこの世の中にはあるのだと思いたかった。夢見ているだけで、確かには掴んでいないそれをはっきりとは言えはしないのだが…。それでも確かにあるのだと信じたい。
 今も、自分がここにいることで、何処かで何かが起こっているのかもしれない。だが、我が儘だろうと、逃げだろうと、…手放したくないのだ、今を。
 聖夜はシャツのポケットに入れられた名刺を取り出し、少し眺めた後ズボンのポケットに入れ、そこでクシャリと握りつぶした。
 今ここで弱みを作る事は出来ない。


「聞いてもいいか…」
 葉山が問いたいのは須藤の事だろうとわかり気が進まなかったが、それでも聖夜は頷いた。
「…俺と話すのは嫌いか?」
「……え?」
「いつも、必要以上の事は話さないだろう。だから、喋るのが苦手なのかと俺は思っていたんだが…。
 あの男とは話していたな」
 葉山は前を見たままそう言った。そんな彼の横顔から視線を外し、聖夜は俯く。
 すっと運ばれる葉山の足が一定のリズムを刻む。いつでも背筋を伸ばし、葉山は凛として歩いている。疲れたように足をすることなど、マンションの中でもない。そんな彼の姿が、聖夜には心地よく、そして眩しい。
 どういう風に生きてきたのかがわかる歩き方だ。自分の行くべき道を、常に前を見て歩いている。そう、それこそ、擦れ違ったものは振り返らずにはいられなほど、堂々とした姿。惹かれずにはいられない。
 そんな彼とは対照的で、自分はなんて醜いのだろうか。今更卑屈になることはないが、当たり前だと受け入れるには苦笑が漏れてしまうほどの、比べることすらおかしい、己の姿。やせ衰えてみすぼらしくなり、こんな都会の中に埋もれていてですら、足音を殺す。猫のように忍び足で行動をするそれは、癖と言うには計算されたものだ。躾けられた、自分と言う人間の使い方。
 相手が見止めるまでは、安易にその姿を晒さない。見止めたら、その存在の大きさを思い知らせる。
 それはまるで闇のようだなと聖夜は思う。
 必ず何処かにある闇。それは光の中にいれば忘れそうになる。だが、消えることなく常に自分の周りに必ずあるのだ。そして、それを一瞬でも見つめたのなら、直ぐに囚われる。
 自分よりも自分の使い方を良く知っている男を思う。彼は本当に闇のようだ。姿を隠していても、大きすぎる存在。なのに、ふと自らを隠しきってしまうことが上手い。そして、彼の周りにいる者達も、同じように歩く…。
 そんな男達のことを思えば、踵を少しすりながら歩く須藤は可愛げがあるのかもしれない。尤も、彼も必要に迫られれば、それなりに動くことは出来るのだろうが。
「…彼の場合、自分の意思を常に告げていないと駄目なんです」
 葉山の足元を見ながら、短い沈黙の後、聖夜はそう口を開いた。
「受け答えをしていなければ、直ぐに勝手に話を進められ、大変なことになる…」
「ああ、なるほど」
 それはわかる気がするなと葉山が頷く。そして、どういう関係なのかは聞かずに話しを進める。須藤のことはその一言で終わらせられるほどに小さなことではないだろうに…。
「なら、ま、話せないわけじゃないんだな」
「…得意ではないですが」
 そう、得意ではない。今まで結論に向かっての会話ばかりしてきた。須藤の場合は捕まらないように強気で対応する。敵意を向くものにはあくまでも冷たく、感情を見せずに…。だから、自分の考えを、心の中を素直に言葉にするというのは本当に難しい。気心の知れた相手や、気を回さなくてもいい立場の時ならともかく、…そんな時間は今の自分にはないのだから。そして…。
「得意じゃないのは、話すことがじゃなく、他人と関わりあうことがだろう?」
 自分が考えたことを先に口にした葉山に、聖夜は小さく息を飲んだ。
「……そうかもしれません…」
 決して人との対応が下手だとはいえないだろう。他人と会話もすれば、それなりに付き合うことが出来るのだから。それは対応に慣れ染み付いたものであって、自分自身で向き合っているといういうのは少し言い難いだろうが、それでも、どんな状況だろうと動じることはあまりせずに対処できる術は持っている。外見は。
 だが、内面はいつも葛藤だらけだ。相手を思えば、自分の行動はあまりにもふざけていて、そして残酷なものだ。自分を思えば、とたんに対応が出来なくなる。自分のことだろうにどうすればいいのかわからず、浮かぶのは埋め込まれた思考での判断。
 それらの中間というものが上手くはかれない。人と話、どれだけ言葉にして思いを伝えるのか、伝えないのか、それがわからない。
 下手ではないが、不器用なのだろう。だが、不器用と言い済ませられるほど、自分は無害なものではない。
 他人を求めながら苦手としている。
 だが、本当は他人が苦手というよりも、自分を出すのが、自身でそれを見るのが嫌なだけなのかもしれない。
 自分は決して綺麗なものではないのだから、とこの醜さを他人に見せたくないのかもしれない…。
「そうかも、か…。だが、別に俺相手なら気を使うこともないだろう。喋り捲れとは言わないが、意思の疎通程度には話せ。でないと、俺とお前じゃ全く会話が出来ない。お互い姿が見えていないかのようになる」
「……」
「わかっていても言葉に出すことも時には必要だ。特に俺は言われなければ何もしないぞ」
 今のままでも充分に良くして貰っている。これ以上に自ら何を望めるというのか。
 だが、正直、葉山のその気遣いが嬉しかった。
 葉山が自分に何も訊かないのは、面倒を見ているものとしてではなく、一人の人間として尊重してくれているからだろう。
 話さないことを訊くことはできない。訊きたくなったら口にする。葉山はそう考えているのだろう。そして、答えるかどうかの判断は自分に委ねるのだ。
 根掘り葉掘り訊かれないということは聖夜にとってもありがたい。もし訊かれたとしても言えはしないことばかりなのだから…。だが、それは気まずくならないための逃げ道であるのかもしれない。葉山が気にしていないわけではないだろう。そして、自分自身も…。
 プレッシャーなんてものではないが、ふと自分という人間を曝け出してしまいたくなる衝動に駆られることがあった。そして、罵って欲しいと、否定されたいと願っている…。
 どうしてだろうか…。
 きっとあまりにも以前とはかけ離れたところで住み、心が戸惑っているのだろう。醜い自分を別の自分が忘れようとしている。忘れられるわけがないというのに…。忘れた振りをしても、それはなくなりはしないというのに…。
 綺麗な振りをしても自分の汚れは決して消えはしない。
 だが、それでも願うのだ。
 あと少し。あと少しはこのままで…。
 夢を見ているだけに過ぎないのかもしれない。自分は蝶なのかもしれないと迷うことはない。これは絶対に夢だ。…そう、自分の現実は何処に行こうと汚れたものなのだから。
 だが。あとほんの少しでいい。この夢を見させてほしい――
「……なら、言わせてください」
 思わずそう口にした聖夜に、葉山は軽く苦笑しながら、
「買い物をしないというのは駄目だぞ。放って置けというのもな」
「……条件付ですか」
「そうだ。ああ、あと食事をしないというのもな」
「…言っていることが違う気がする…」
「そんなことはないぞ。口を出さないとは言っていないだろう」
 おどけた様に笑い、葉山は肩を竦める。
「で、何だ?」
 信号で立ち止まり、前を見たままそう訊く。顔を見ないというさりげない気遣いに、聖夜は少し笑みを浮かべた。そして…。
「――いえ、先に否定されたので。もういいですよ…」
 そうか、と答える葉山の声が、上がったクラクションにかき消された。
 梅雨の晴れ間に動く街は、生き生きとして、それでいて色あせた日常だ。こんなに生命あふれるほどの強い光の中でも、人はいつものようにしか動けない。飛ぶことなど出来ない。
 だが、それも捨てたものではないのだろう。
 葉山の後ろを一歩遅れてついていきながら、聖夜は飲み込んだ言葉を頭の隅に追いやった。
 今はまだ、それを告げる勇気さえない…。だが、いつかは――
(…いつかは、言葉より先にそれが現実になる時が来るのかもしれない…)
 車道と歩道の間に溜まった水。水溜りとも呼べないような小さなそれは、晴れ渡った空を映すには汚れすぎていた。転がった空き缶が太陽の光を受け鈍く輝く。
 自分のことなど早く放り出せばいい。でなければ……。
(僕はあなたを殺してしまうかもしれない…)
 視線を上げ、振り返る葉山を見ながら、聖夜はそう心で呟いた。
 その呟きは、自分の夢よりも確かな未来のように思えてならなかった。

 だが…。
 だが、今はまだ、ここにいたい。

- END -

2002/05/22
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