Sweet Rain


 珍しくも葉山が起きた時にはまだリビングには同居人の姿がなかった。
 少年と呼べそうな青年は毎日自分より先に起きている。大抵リビングのソファに座り、外を見ているか本を読んでいるかで、起き出してきた自分に気付くと、「おはようございます」と声をかけてくる。それがいつもの葉山の朝だった。
 こういう日もあるんだなと思いながら、葉山はソファに置かれたままの本を一冊とりあげペラペラと中身を見た。数式が並びページの中に図が多く示されたそれに、眉を寄せ表紙を見る。何てことはない、マクロ経済学の入門書だ。だが、動き出したばかりの頭で見たいものではない。
 本をソファに戻し、葉山は寝癖のついた髪をかきあげながらキッチンへと向かった。


 変わったものを拾ったものだと葉山は自分自身で何度も苦笑した。
 しかし、青年を招いたはいいがどうしたものかと悩みかけたこともないわけではなかったが、実際に暮らし始めると日常生活には全く影響も何もなく、そんな事を気にすることは皆無になった。むしろ気にするべきなのは、拾った青年の事よりも自分のこの性格だろう。だがそれすらもそう考え込むことでもない。それほどまでに、青年との暮らしは葉山にとって自然の範囲内であった。気をはる事も何もない、受け入れられるもの。
 青年が来て変化したことといえば、仕事に追われて帰るのが遅かったり、そのまま職場で次の日を迎えたりということが多々あったのが少なくなったということだろうか。あくまでも少なくなったというだけで、仕事が楽になったというわけではなく、逆に寝るためだけに帰っていた家で仕事をしなければならないこともあるので、基本的には何も変わっていないといえるのかもしれない小さな変化。
 ただ、自分の生活の中にすんなりと溶け込むように入ってきた存在は、葉山にとっては意外にも心地よいものだった。それは小さいとは決していえないものだろう。ソファに座る人物が出来たと言うことは。
 自分の帰りを待っているわけではないのだろうが、青年はいつも同じ場所にいる。まるで、玄関にいる置物の猫のように。出勤する時も、先に起きた彼はソファで自分の朝の仕度を横に本を読み、言ってくると声をかけると頷く。
 時々、彼はあのソファから動いていないのではないか、と葉山は思ってしまうことがある。だが、そんなわけがない。部屋の中を動くのはもちろん目にしているし、出掛けた様子も伺えるものがある。それなのにそう思ってしまうのは、風景のように馴染んでしまったあの姿からだろうか。
 忠実な犬のように自分が仕事に行っている時は、ソファの上から動かず、静かに自分の帰りを待っているかのように感じてしまうのだ。
 そうではない事を知りつつそう思うのだから、葉山としてはそんな自分に苦笑するしかない。
 いつの間にか青年の存在が当たり前のようになってしまった。観察というわけではないが、一緒に暮らせばどんな人物なのか見えてくる。葉山が見た彼は歳相応の普通の青年でいて、やはり少し変わっていた。
 始めの頃は、自分が持っている医学書を読みふける青年に、葉山は首を傾げるばかりだった。面白いものでもないだろうに、手持ち無沙汰からか彼は書斎にある本を片っ端から読んでいた。
 そんな青年に、葉山が近くの図書館の貸出カードを貸したのは、家に閉じこもるよりも外に出る方がいいだろう、これがきっかけになればと単純に思っただけであって、実際に使うのかは疑問だった。丁度梅雨に入ったため、降り続く雨では理由があっても外に出るのは億劫と言うもの。
 だが、すぐにソファの上には見知らぬ本がのるようになった。その本には葉山が渡した図書館のシールが貼られていた。
 それは彼が昼間出掛けていることを示している唯一のものであって、意外にも、2、3日の割合でその本は姿を変えていく。
 なので、家にこもっているということは絶対にないのだ。それなのに葉山がそう思ってしまう程、青年とソファのイメージが強い。いや、青年からは外に出掛けたという雰囲気が感じられないのだ。本は姿を変えるが、青年は外の空気には染まらない。そう、まるで部屋の中でも見失うようなほど、そこに溶け込んでいた。
 雰囲気から青年とソファを結びつけるのか、ソファと青年の強さから、外の空気を自分が見ないのか。どちらが正しいのかなど葉山にはわかるわけもなく、大してそれは重要ではない。マンションに戻れば必ずいる存在、それが青年だ。
 少し変わった同居人。
 青年が借りてくるものはどういう基準があるのか、多彩なものだった。いつの間にかそれらが何の本なのかをチェックする自分がいた。詮索するつもりはなく、純粋な興味で葉山はそれを手にとる。青年も特に咎めはしないし、まるでここが自分の場所だと言うように、本をソファの上に置いているのだ。葉山に見るなという方が無理と言うもの。
 経済や政治、現代社会や歴史などのものを読んでいるかと思えば、物理学や化学、美術や音楽関係、はたまた小説を殆ど読まない葉山でも知っているようなベストセラー作家の本も借りてくる。一体どういう趣味なのか。わかりはしないが、それが逆に何故か微笑ましかったりもする。
 見た目はだらしないと言った今時の若者で、ボサボサの金髪などは葉山には理解出来ない。街に出れば同じような格好の者を大勢見るが、路上生活をしていた青年はそんな者達とは違い、ファッションではなくそういった格好にならざるを得なかったのかとも思ったのだが、そうでもないようだ。
 葉山が強制的に買い与えた、青年が選んだ特徴も何もない服は、青年が着ると不思議な事に自分の色を隠す服となる。そう、外を歩く若者と同じ。彼らは自己主張のため髪を染めたり思い思いの格好をしたりするのだろうが、誰もが自身という存在を隠している。自分達は確かにいるのだと言う点では目立つのだろうが、その自分は見えない。いうなれば、外見に拘りすぎ彼らの本質が全く見えないということだ。
 同じように、葉山には時々青年がそう見える。だがそれは、味気ない人間であるのを主張するかのように青年がわざと自分を隠しているようにも思えるもの。だがそれがかえって二人きりの部屋の中では目立つ。もしこれが街中ならば、靴を摺りながら歩く若者達の中に青年はすんなり溶け込み姿を消すのだろう。実際一緒に歩いた街中では、彼の存在が感じられず葉山は何度も後ろを振り返った。
 今時の若者と言えばそれまでのような存在感でもあるし、あまりにも儚すぎる感じもある。自分を見せなさ過ぎる。同年代の者は自分を見せようとして色を失っているのに、青年は逆のようだと葉山には感じられた。
 そんなところとは違い、しっかりした面もある。礼儀正しいし、頭もいい。コミュニケーションも下手と言うわけではなく、自分には居候の身だと気を使うからか戸惑いを見せたりするが、他の者には威勢がいい。
 初めて会った時など、病院から逃げ出そうとしたし、警官に喧嘩を売っていた。一緒に出掛けた時に突っかかってきた同年代の若者には、痩せた細い腕で相手を捻り伏せるし、ヤクザのような男とも知り合いで、嫌悪を隠さず皮肉を吐く。それなのに、自分には迷惑を掛けないよう気を使ったり、戸惑ったりと素直な面を見せる。
 今時の若者など、知識はあっても中身は子供で、一人一人と付き合えば幼く、そう悪い者ではないということは、葉山とてわかっている。生意気な入院患者の若者に手を焼かされても、子供だと思えばそう怒ることではないものが殆ど。自己中も我が儘もただやんちゃなだけ。年齢を見るとそれでは済まされないのかもしれないが、そんな者が多いのだ、今時の若い者は。偏見ではなく事実だろう。青年もそんな若者の一人なのだと葉山はそう思う。
 だが、そう思うが、それでも少し違うとも感じるのも事実。
 掴み所がないのだ。いや、一見すればわかる者なのだが、その掴んだ姿は虚像のよう。
 彼は一体何者なのだろうか。
 それが気にならないと言ったら嘘だ。だが、葉山は特に訊き出そうという気にもならない。それは何故なのか…。
 多分重要な事ではないのだろうな、と葉山は考える。自分にとっては青年がどこの誰かなど大きなことではない。そう、今のままで充分なのだ、と確固たる理由は見つけられなくともそう思っているのだ、自分は。
 彼の存在が心地よい。葉山にとってはそれだけで充分なのだ。


 新聞を読みなが簡単な朝食をとり、着替えをする。
 外は昨日の昼に降り始めた雨が未だ止まずに降り続けていた。しとしとと静かに降る雨は、天気予報が正しければ今日の夕方には上がるそうだ。だが、直ぐにまた雨になるのだろう。昨夜見た週間予報では晴れマークは一つもなかった。

 ネクタイを結び出掛ける仕度を終えても、姿をみせない青年に、さすがの葉山もおかしいなと首を傾げる。何かあったのだろうかと青年が使っている和室へと向かいながら、腕に付けた時計で時間を確認する。出勤にはまだ余裕がある時刻だ。
 眠っているのかもしれないと、小さく戸を叩き、葉山は青年の名を呼んだ。
「…聖夜…?」
 自分が付けた名前は、おかしい事だが青年はすんなりと受け入れたと言うのに、葉山自身は何かしっくりといかない。いや、こそばゆい感じがするというのだろうか、名付けたはいいが自身がそれに戸惑っていた。やはり、人の名を付けるほどの者ではないなと葉山は何度も苦笑した。
 青年の場合、名前といっても単に便利なようにであって、本当の名はあるはずなので単なる字だ。そう思う事で、初めは余り呼んでいなかった名も今ではそう気にすることなく呼んでいる。名前はやはりある方が便利だ。だが、テレビ番組からの思いつきでつけたのだ、後悔はないが誉められたものでもないのだろう。
 今回のことで得たのは、自分が名付け親などになる事は絶対にないという決意だ。そんな大役はごめんだと誰に言われても断るだろう。人の名などその者の一生に関わるのだ、やはり真面目に考えられない自分には似合わない。
 そんなこと思いながら葉山はもう一度青年の名前を呼んだ。だが返事はない。「入るぞ」と声をかけそれでも静かに戸を引く。
 6畳の和室の中央に敷かれた布団の上で、一度置きかけそのまま挫折して倒れたかのように掛け布団から上半身が出たような状態で、蹲るように青年は横になっていた。寝相が悪いのなら布団を直せばいいだけのこと。だが、近付かなくとも、彼の荒い息が葉山の耳に入り込む。
 葉山はそろりと近付き、屈み込んで青年の額に手を添えた。
(…高いな…)
 触れられたからか、人の気配を感じていたのか。葉山が手を引くと青年の瞼がゆっくりと上がった。
「…風邪だな。ほら、ちゃんと寝ろ」
 布団を直し、薄い毛布を引き出しもう一枚上に被せる。
 葉山は膝をつき、上向きに寝直った青年の喉に触れた。少し腫れているが大丈夫だろう、単なる風邪だなと再度確認し「寝るなよ」と言い残し部屋を出る。
 牛乳で簡単な温かいスープを作り、風邪薬とミネラルウォーターとコップを持って部屋に戻ると、眠ったかもしれないなと思っていた青年は、布団の上に起き上がっていた。座わると余計に肩が上下するのがわかり、苦しさを物語っている。
「気持ち悪いか?」
「…大丈夫です」
 掠れた声で青年は小さく呟いたが、どこをどう見ても大丈夫そうには見えない。
「それで言われてもな」
 葉山は軽く笑い、持って来たスープを差し出した。
「ほら、これ飲め」
 青年は手に受け取りはしたが口に運ぼうとはせず、俯き目を微かにあけ荒い呼吸を繰り返す。
「腹に何か入れないと、薬が飲めないぞ」
「…仕事、…行って下さい」
「あぁ、行くさ。だから早く飲め」
 飲まなきゃ行かないぞと匂わせると、ゆっくりと青年はスープを口に運んだ。大人気ないな、と葉山は彼の姿を見ながら小さく肩を竦める。
 この青年は自分自身だけのことなら頑なな意志の強さを見せるが、葉山に迷惑がかかるようだと判断した時はあっさりと従う。普段から食の細い彼が、体調の崩した今なら余計に食べる気力はないものだろう。だが、食べなければ自分が仕事に行かないかもしれないと気付くと無理をしてでも食べようとするのだ。
 葉山が青年のそんな面に気付いたのは、やはり今のように普段の食事を無理やり食べさせた時だ。もう要らないと言う青年に後少しと食べさせたのだが嘔吐した。それでも、言われれば口にし、吐くという行為の繰り返し。体の限界と言うよりも精神的な面で、ある一定の量以上は受け付けずに吐く癖がついているようだ。それは自分よりも青年本人がとっくに気付いていたことだろう。それなのに、言われれば口にする。
 そんな繰り返しでは余計に体力がなくなるというもの。そんな青年に気付いた後は、葉山も青年が口に運ぶ以上は要求しないようにした。まずは少しでもいいから食事を摂る習慣を付けさせるように、仕事の時は無理だが、なるべく一緒に食べるようにした。
 なので、久し振りに無理に食べさせるための言葉を口にすると、理由はどうであれ、罪悪感が浮かぶ。そんな自身に葉山は苦笑し、スープを口に運び辛そうに飲み込む青年を見ながら軽く肩を竦めた。
 半分程中身が減ったカップを青年の手からとり、代わりに薬と水を渡す。
「ただの風邪だ。寝ていれば直ぐに治る」
 ゆっくりと頷くように青年が目を閉じる。
 数度背中を擦り、布団に横にならせると、
「食べるのは無理だとしても、水分は取れよ」
 じゃあ、行ってくる。と、葉山は立ち上がった。その言葉に「…いってらっしゃい」と青年が小さく呟く。その声に葉山は軽く苦笑を漏らし、部屋を出た。

 車に乗り込みフロントガラスに落ちる雨の向こうに暗い街を見ながら、職場に遅刻せずに入るのは少し無理なようだと、葉山は軽く息を吐いた。



 雨という事で、午前中の通院のリハビリ患者はいつもより少なかった。時たまの雨ならばもっと少ないのだが、こう雨が続くと面倒でも医者にくる者もいるので、暇と言うほどでもなく、いつもより少ない程度でしかない。
 それとは逆にこういう日は傷が痛むのだと言う入院患者に手がかかるもの。だが、彼らに必要なのは治療ではなくその痛みを紛らわせるための話し相手なので、無口ではないが愛想も凄くいいとは言えない葉山にはそのお呼びはあまりかからない。なので、空いた時間で病棟を回ろうとした時タイミングよく友人の神崎に呼び止められ、葉山は男達の雑談の中に顔を出した。
 昼前の事だったので、一仕事終えた医師達が皆思い思いに羽を伸ばしていた。椅子の上で胡座をかきアイスを齧る、患者や看護婦に堅物だと恐れられる強面の中年医師の姿も、この中では見慣れたものだ。
 女はお喋りが好きだとよく言われているが、男も女もそうかわらないものだと葉山は思う。ただ、女の場合その話の仕方が非常に目立つというだけだ。
 よく聞けば真面目に仕事の話をしているのだが、その会話に集中せずに外から眺めると雑談をしているように見える。流行の洋服の話だとか芸能ニュースなどと同じように仕事の話をする。逆に男は、その区別がはっきりしている。仕事の話はお喋りには入らない。
 時たま顔を会わせて手のあいた者同士で井戸端会議をする男達の中にいて、葉山はそんな考えを持つようになった。別にどちらもなんだかんだと言うほどの事ではないのだが、女のそれは華やかに見え、男のそれは面白味がないように感じる。そう思うと、男は何をするのにも不器用な生き物なのではないか、と思えてくるから不思議なものだ。
 女のように次から次に語り、自分に必要な物を見つけていくバイタリティーなどここにはなく、ただ何となく集まる、そんな空気がある。
 だが、これが必要なのだろう。男は女よりストレスを上手く発散出来ない。だから、こうした一見意味のないような時間が必要なのだ。
 コーヒーを片手に外を眺めると、朝よりも雨が強くなっていた。振り向いた葉山に気付き、隣に立っていた神崎も外を見る。
「鬱陶しいですね、雨。今年はホント、良く降りますよね」
 その言葉に、内科の医師である安藤が頷いた。
「そうだね。しかも、僕は昼からは手術だよ。気が滅入るね。
 確かに窓があるのはいいよ、晴れた時はね。だが、こういう日はね〜」
 一般的には手術室は密閉空間だ。四方を壁に挟まれた狭い空間。だが葉山が勤める津山病院は、その既成概念を打ち破り全国の医療機関でもトップクラスの広さとクリーンさを誇る手術室を持っていた。さらに患者を安心させるために自然光を取り入れられる窓を設けている。
 それは患者には確かに好評であった。だが、天候の悪い時は何とも気まずいものである。雨でも外との繋がりを確認できるものがあるのは、少しはリラックスできるだろうが、人によっては不安をよぶのも確か。こうした対策をもう少したてて欲しい、と時々医師達の間から声は上がるが、シャッターを付けるなどの改善は未だされていない。そして、いつの間にか患者だけでなく、医師達も関心せざるを得なくなるものになっていた。
 雨の時に気分が滅入るのは仕方がないことで、そんな事を言ってはいられない状況だろうが、医師も人間なのだ。降り注ぐ雨に一瞬でも注意がそがれない保障はない。
「ま、そう言わずに。雨もそう悪くはない」
 厚い眼鏡をかけた老医師がぼやく安藤の背を叩いた。
「そうですよ。それより、安藤さんオペですか。何です?」
「胆石だよ」
「ええっ!? 大丈夫なんですか、そんなことをして」
 葉山の隣で、安藤の言葉に神崎が含み笑いを隠さずに大袈裟に驚く。まがりなりにも医者である、それも先輩に言う台詞だろうかと葉山は呆れたが、集まった者は誰もそれを注意はしない。言われた本人ですら、
「多分大丈夫だよ。僕はツバイテだから」
 と、けろりと答えた。
 医者であるのに、安藤が血が苦手であるということは誰もが知っている事実だ。新人の頃、オペ室で何度も貧血を起こしたと言う話は今でも語り継がれており、本人が気にせず笑いながら言うのでそれはまだまだ消えそうにない。
「なんだ、それなら安心ですね」
「ああ、そうだな」
「頑張ってくださいよ、安藤センセ」
 神崎の言葉に続き、他の者達も安藤に声をかける。
「わかっていますよ、仕事は増やさないように気を付けます。お気遣い感謝します」  そう言い、安藤は笑いながら頭を下げた。
 そんなか会話を右から左に流し適当に相槌を打ちながら、葉山は放ってきた青年の事を思い出していた。
 心配する程のものではない、今日一日大人しく寝ていれば明日にはよくなるだろう。ただの風邪。しかし、気がかりなのも確かなのだ。
 青年の細すぎる体を考えると、ただの風邪にどれだけ抵抗が出来るものなのか予想もつかない。弱っているからこそこの時期に風邪を引いたのだ、拗らせる可能性はなくはない。
 子供ではないのだ、放っておいたからといって騒ぎまわったりはしないだろう。だが、子供ではないからこそ、体調が悪化しても手を打ちそうにない…。
「ああ、もうこんな時間か」
 誰かの声に、その場にいた者達がめいめいに時計を見る。
「さて、今のうちに飯でも食べますか。昼から忙しくならないといいのですが」
「安藤センセは昼抜きですか?」
「もちろんですよ」
「晩飯も食べられんかもしれんな」
「あはは、笑えませんって、それは」
 そう言いながら解散しはじめた中、
「…ちょっと出てくる」
 葉山は隣の神崎にそう言った。
「ん?」
「一度家に戻ってくる。じゃあな」
「あぁ、うん。雨だから気を付けて」
 突然の行動にも理由は聞かずにそう言った友人に、葉山は軽く手を挙げてそれに応えながら、足早に廊下を進んだ。



 玄関で傘立てに傘を入れると、ガタリと予想以上に大きな音が響いた。それに肩を竦め、葉山は青年の部屋へと向かう。
 そろりと戸を開けたが、そこはもぬけの殻だった。
 訝しみながら他の場所を探し、奥のリビングの扉を開け、ようやく求めていた姿を見つける。
 青年は絨毯の上にペタリと座り、低いテーブルに新聞を広げ、その上に腕をつき頭を下げていた。格好は今朝のままで、Tシャツとスエットのズボン姿だ。
「…何をしているんだ」
「……」
 呆れながらも放っておく事などは出来ないので、葉山は声をかけたが返事は返らない。
「おい…」
 俯く青年の肩を引くと、ゆっくりと振り返り、「…おかえりなさい」と葉山を見上げ呟いた。半分しか開いていない目は本当に自分を確認できているのか怪しく、顔色もどこをどう見てもいいとは言えない。
「ったく、なにがお帰りだ…」
「……」
「立てるか?」
 目が虚ろなのは熱のせいだろう。まだ現状を理解していなさそうな青年に葉山がそう訊くと「…ん…」と軽く鼻を鳴らす。
「立って部屋に戻れるか?」
 同じ問いに、今度はコクリと青年は頷いた。だが、立ち上がりかけたと思ったら直ぐにふらつき、結局葉山に支えられ再び同じように腰を降ろす。その姿に溜息を落とし、葉山は細い腕を引きながら、「悪いが、抱くぞ」と声をかけて青年を腕に抱き上げた。
「……なに…?」
「この方が早いだろう」
 抱き上げられている事には抵抗はせず、腕の中で薄く開いていた目を青年は閉じた。その姿に再び葉山は息を吐く。普段なら心底嫌がる行為を流すのは、苦しいからと言うよりもそれ自体に気がいっていないからのようだ。
 以前にも一度こうして、病院から逃げ出したこの青年を抱き上げた事があるが、その時は腕の中で頑なに拒絶していた。その事を葉山は思い出し、体重は余り変わっていないなと量るように腕を少し動かしてみせる。
 これでも数キロは増えたのだろうが、まだまだ標準体重には及ばない。この風邪でまたもや痩せるのだろうなと思うと、自分の事ではないが切なくなる。いや、哀れになるのか。同情する点はないのだが、そう思ってしまうのは仕方のないことだ。
 布団に寝かせ、葉山はレトルトのおかゆを温め、再び和室に戻る。
「食べられるか?」
 その問いに、青年は小さく首を左右に揺らした。
「無理でも食べろ」
 青年の背に手を入れ起こし、朝と同じように少々酷だなと自身で思いながらも葉山は無理やりお椀を渡した。数口でレンゲを置いた青年に吐きそうかと尋ねると、一呼吸の間をおき大丈夫だと答える。
 もう一口だけだと食べさせお椀をとり、薬を飲ませる。
 今口にしたものが胃まで落ちているのか疑問になるほど、青年は苦しそうに息をつき、少し落ち着いたのを見計らい横になった。毛布を引こうとする青年の腕をとり、葉山は服を捲り、布団の外に出させておく。
「…なに…?」
 がさごそと音を立てる葉山を見、青年はそう呟いた。自分で頭を起こして確かめるほどの元気はないようだ。
「点滴。ビタミン剤だ」
 病院から持ってきたそれを用意しながら葉山は簡潔に答える。
「寝ていていいぞ」
「仕事…」
「大丈夫だ、30分もせずに終わる」
 腕に針を通すのは止め手の甲に差し、その部分だけ外に出るように布団を掛け直し、葉山は腰を上げた。
 食器を片付け、リビングの机の上の彼が広げたままの新聞をたたむ。そして、軽く溜息を付き葉山はソファに座り込んだ。眼鏡を外し軽く目を揉みながら首を回すと、ゴリゴリと嫌な音を立てる。
(…一体、何を考えているのか…)
 髪をかきあげ、ネクタイを少し弛める。薄めを開けると見慣れた天井があった。
 外は相変わらずの天気で、電気をつけていないとかなり暗い。朦朧とした頭では読んでも意味などないだろうに、とテーブルに置いた新聞を見、何だってこんなところにいたのだろうかと、葉山は思い再び目を閉じた。風邪の引いた体であの格好でいるのは自殺行為というものだ。寒いだろうになんだってこんなところに…。
 暫く考えてみるが何も思いつくわけもなく、そのまままどろむように葉山はソファに体を預けていた。点滴をしている間に自分も昼食をとろうかと思っていたが、ふと気付けば思ったよりも時間が過ぎている事を知る。
 自分が居ては気になるだろうと出てきたが、そろそろ点滴が終わる頃だなとソファから体を起こし、葉山はそりと部屋に向かう。
 眠っただろうと思っていたのだが、青年はずっと起きていたようで、静かに入ってきた葉山に先程よりもしっかりとした声で「すみません」と声をかけてきた。
「…仕事中なんですね、すみません」
 薬が効き始めて楽になったのか、虚ろだった意識がはっきりしている。視線を合わせた葉山を見つめ、軽く眉を寄せて再び謝った。
 点滴はまだ少し残っていたので、葉山はそのまま横に腰を下ろす。
「薬が効いてくるころだ、寝ろよ。俺は仕事に行くが、大人しくしていろよ」
「…はい」
「寒くないか?」
「…大丈夫です」
「そうか。寒くなったらその辺のものを何でもいいから使え。布団から出る時は温かくしろよ。あれじゃ拗らせようとしているみたいだ」
「…すみません」
 その言葉に葉山は軽く笑っただけで、特に返事は返さなかった。悪いと思う必要はないと言っても、この青年はそれを口にするのだ、言えばまた同じ言葉を口にするだけ。
 点滴の針を外し、処置をして手を布団の中に入れてやり、ぽんぽんと上から叩く。額に触れるとしっとりとしていたが、熱はそう高くはない。薬が効いているからであって、切れればまた上がるかもしれないが、大丈夫だろう。
 首筋を押えると、ドクドクと血が流れる音が手だけではなく耳にも聞こえるようだった。生命力を感じずにはいられない。額に張り付いた髪をかきあげ、着替えさせた方がいいだろうかとも考えたが、折角眠りかけているのだと声をかけるのを止める。
 だが、葉山が手を放した時、
「……不安になったんです…」
 と青年が小さく呟いた。
 薄く目を開き天井を見、そしてゆっくりと閉じ、再び口を開く。
「…こうしていると、自分の息の音ばかり聞こえる…。
 耳を澄ませば、微かに雨の音もする。けれど…、それはとても遠くて…。
 もしこのまま、その音が消えたら、外の世界とこの部屋が、途切れてしまったら…。
 そう思ったら、こうして眠っているのが、怖くなったんです……」
 ゆっくりと呼吸の合間に青年が言葉を紡ぐのを、葉山は黙って聞いていた。
 怖くなった…。だから、体が辛くとも起き上がったというのだろうか…。
 熱に浮かされ体が弱った不安から、青年は自分に心のうちを見せたのだろうか。今の言葉を単なる自分を納得させるための言い訳ではないのだと確かに感じる。だが、これがこの青年の本心だとしても、全てではないこともわかる。
 大きな不安の中の一部分にしかすぎない。この青年はもっと深い苦しみを抱えているのだろう…。だからこそ、そんな不安に駆られるのだ…。
「…すみません」
 何も返さない葉山に気まずくなったのか、青年は謝罪を口にする。
「…あんな格好でいるのは感心しないが、俺に誤る事じゃない」
 目を開け、横に座る自分を見た青年に葉山は首を振った。
「…でも、迷惑をかけています…、すみません」
「今更だろう」
「……」
「俺は好きでやっているんだ、気にするな」
「だけど……」
「聖夜。不安になって当たり前なんだぞ」
 軽く口の端を上げ、葉山は青年に笑いかけた。
「体が弱っている時は心細くなるのは当然のこと、それが人間というものだろう。そうなったら不安なんだと口に出せばいいんだ。今のように。
 弱いだの強いだのじゃない、誰もが不安になるものなんだから、そう考え込むな」
 当たり前の事を考え込んでも、いい答えなんてそうそう出ない。そう肩を竦める葉山に、青年は目を細める。
「お前の不安が嘘だとは言わない、それは俺にもわからない。だがな、そう悩む事でもないだろう。一人じゃないんだ、お前は。
 少なくとも俺は帰える場所はここしかないんだからな。俺がお前の役に立つかはわからないが、切り離されたら俺は確実に困る」
「…葉山さん…」
 口を開きかけた青年の体を布団の上から軽く叩く。
「ほら、馬鹿な事考えていないで、俺が帰ってくるまで寝ていろよ」


 梅雨の終わりなのだろうか、じめじめとした感じはなく肌寒い。この時期は北から吹く風が長く続かない事を祈るしかないだろう。米不足だと騒いだのは一体何年前だったか。
 時期的にこのまだ数日は続く雨が上がれば、梅雨が明けてもいい頃だ。だが、それを願うの人間を笑うように、例年より早く来た梅雨は再び気まぐれを起こして例年より長引くのかもしれない。
 薬のお陰でかなり落ち着いた青年の息が、窓の向こうから聞こえる雨の音と重なり響きあう。その青年の胸の動きと、時折自分の呼吸が重なるのに気付き葉山は軽く苦笑した。声には出さずに。
 一人でいると不安になるのも頷けるほどしんとした部屋。
 だが、この雨は、とても甘いものだ。人を癒せるくらいに。
 人の温もりを傍に置くのは心地よくもあり不安でもある。それと同じように、天から降るこの雨も、寂しさを誘うが、傷を癒す力も持っている。
 空が涙を落とす時は、人も泣いていいのだ。何も理由は無くても、泣けばいい。生きているそれだけで、人は傷を沢山受ける。自分自身では見えない傷を。その傷を癒すために泣くのだ。雨の日は、泣いても涙を隠してくれる。上がらない雨はない、だから、今だけ。雨の間だけ、泣いてもいいじゃないか。空から降る雨は、とても甘い。流した涙の代わりにそれを受け取って、元気になろう。
 先日友人が子供にせがまれ読んでいた絵本がそんな内容だった。今時何が混じるかわからない雨を口に含まれては問題だな、と捻くれたように笑う神崎に、葉山は軽く苦笑しただけだった。大人も楽しめるようにか、その本の絵はとても綺麗なものだった。子供もそれを気に入っているだけで、慈雨の話はわかっていないのかもしれない。だが、いつか役に立つかもしれない。心が悲しくなった時には。
 人は自分を甘やかせるのはとても不器用だ。甘やかせても、何処かでそんな自分を否定している。素直に泣ける者などどれくらいいるのだろうか、一体。理由もなく、雨が降ったら泣けば言いと言うのは滑稽でいて、凄い事でもある。
 葉山は窓の外に視線を向けた。
 水は全ての命。自らの涙も、空からの雫も、その命に力を与える。
 この降り注ぐ天の雫は、確かに癒す力を持っているだろう。それを受け取るかはその者しだい。
(怯えるものではない、雨音は天からの声、か…)
 葉山は神崎が読んでいた本の一文を思い出し、そっと心で呟いた。
 空からはまだ止みそうもなく、雨が零れる。甘い、癒しの雨が。

- END -

2002/07/23
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