小さな足音

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 夜勤明けの太陽は目に悪い。
 体は朝と夜を感知するので、これから眠ろうという時に日差しを浴びるのは良くない。人間とは暗くなれば眠くなり、明るくなれば動き出すもの。その日中に寝るのであれば、体に今は夜なのだと勘違いさせなければならない。だが、こんな夏の日差しが照りつける日ではそれは無理と言うものだ。
 それならせめて、帰り道だけでもサングラスをかけて強い光を避けるべきなのだろうが、友人のようにこの掛けている眼鏡は伊達ではないので、葉山にはそんな芸当は出来もしない。若い頃はそれでも何とかなったが、三十路前の体は年々頑固になり融通が利かなくなっているようだ。
 眩しさに目を細め、疲れた体で乗り込んだ車はとても蒸し暑く、それだけで体力を奪われていく。ネクタイを緩めながらエンジンをかけると、シューと生温い空気が噴き出し直ぐに冷たいものとなるが、体温を下げるには程遠い。
 熱い空気を逃がすため少し窓を開けると微かにサイレンの音が聞こえた。葉山は小さく息を吐き車を発進させる。
 表の大通りに出た時、その音が近付いてきているのだという事に気付く。交差点を進んだところで、バックミラーに救急車の姿が映った。このまま進み先にある大学病院に行くのか、それとも自分が勤める病院に入るのだろうか。
 大きなサイレン音にスピードを落とし左に寄った前の車に倣い葉山もブレーキを軽く踏む。だが、救急車は交差点を越えることなく、その手前にある葉山が今出てきた病院に入っていった。サイレンの音がプツリと消える。
 何事もないように進み始める車。歩道を歩く人々。そして、自分。
 病院では慌しく急患の対応に追われているのだろう。だが、だからと言って何というものでもない。そこから出た自分にはもう関係のないことなのだ。戻る気はないし、戻っても仕方がない。
 所詮医者も人間だ、感情がある。そして、それをまとめる病院は組織だ。患者の前で口にすれば常識がないと非難されるものだろうが、結局は医者と言うのもビジネスなのだ。それぞれの役回りがあり、それを侵す事をしないのが暗黙のルール。それがあるから、個性の強い医者達が内面はどうであれ何とかやっていっているのだとも言えるだろう。
 それは病院と言う閉塞的な空間に身を置くものとしては納得出来るもの。だが、それでも時々煩わしく感じることもある。自分たちが単なるコマにしか過ぎない、道具でしかないのだ、そう卑屈には思わないし、患者を思ってのことでもない。ただ、少し、それがゆっくりと自分の足に絡み付いていっているように葉山には思えてならない。だがそれはこの社会で生きているのなら当たり前のことなのだろう。
 人間は疲れる一方でしかない。そしていつかその許容が越えた時には、壊れ狂うのだ。
 誰もがその未来を持っている。そう、自分も…。
 そんな事を考えるのは、あまりにも疲労が溜まっているからか、それとも予兆か…?
 葉山は自分の考えに笑みを漏らし、涼しくなってきた車内の冷房を少しゆるめた。


 マンションの駐車場に車を止め降りると、眼鏡が外の熱気に白く曇る。葉山はそれを軽く指で拭きながら建物の中に入り、エントランスを抜けエレベーターに乗り込んだ。眼鏡を少しずらし鼻の付け根を押さえながら、他に人がいないのをいい事に、壁に凭れて大きな溜息を吐く。
 マンション内は涼しいとは言えず、これが適温であるのだろうとわかってはいるのだが、疲れた葉山にとってはなんとも重く感じる空気だった。このまま重圧の押しつぶされてもおかしくないと思えるほどに。だが、皮肉な事に心はそうでも体は意外と丈夫なもので、そんな可能性は皆無だ。
 誰も乗り込むことはなく、直ぐに自室がある12階へと到着したエレベーターが音をあげ扉を開ける。何の変化もなく無事にたどり着いた先も狭い空間と変わりなく、葉山はその重い空気の中を泳いだ。
 ワンフロアーには3つの部屋があり、葉山の部屋はエレベーターから一番遠い場所にあった。カツカツとフロアーを進む自分の足音がやけに響く後ろで、エレベーターの扉が閉まる。
 一人暮らしの男が住むにはやけに広い部屋。隣には初老の夫婦が二人で住んでいるが、他は調べたわけではないがそれ以上の人数で住んでいるだろう。元々隣人のところにも昨年まで息子夫婦が同居していた。どちらかと言えば高級と言えるだろう家族向けのマンションのそこに一人で住んでいるのは自分ぐらいなもので、他の者から見ればおかしな事であるだろうし、葉山自身もそう思っている。
 ここに住みだして5年程経つが、未だになんて暮らしをしているのだろうかと時々呆れてしまう。さほど利用するわけでもなく、元々眠れれば十分という考えを持つ自分には余りあるものなので、出て行こうかと考えたことは一度や二度ではない。
 だが、実際にその行動を起こすのも面倒で、小さな溜息を吐きながらも受け入れてきているのだから、拒絶するほど強い嫌悪はないということなのだろう。
 親に与えられた時は彼らの思考を疑ったものだが、それを受け入れ慣れる自分も相当なものなのだろうとも考える。裕福と言える家庭で育った割には極普通の価値観を持ってはいるし金銭感覚もまともだと思うのだが、やはりどこか少しおかしなところもあるのだろう。
 厚い扉を開け、カチャリと自動で閉まる鍵の音を耳にし何故かホッと息をつく。そこは涼しくはなく温度は外と変わらないのだろが、纏わりついていた空気が一気に軽くなったような気がした。何だかんだと言っても、住み慣れた部屋…なのだろうか。
 玄関に座り続けている黒猫の頭に薄っすらとのった埃を、撫でるように指でさっさと払い、葉山はリビングへと向かった。窓が開いているのだろう、部屋の奥から微かな風が流れてきて崩れた前髪を揺らす。
 今でも広いと感じる部屋。だが、最近はそればかりではなくなった。
 自分一人ではないのだ、この部屋に住むのは。
 同居人は少々変わった青年だが、それでもその存在を示してくれる。広いばかりで味気なかった部屋が、ただの箱から人が住む場所へと変わってきているように葉山には感じられた。頬を撫でる微かな風が気持ちいい。自然に主張する他人の存在感が心地よい。
 開いたままのリビングへの扉から、掃き出し窓の向こうのベランダにいる青年の姿が見えた。葉山が開いたその窓まで辿り付く前に、青年が気配に気付きガラス越しに視線を向けてくる。強い日差しが窓に反射して外からは見え難いのだろう、中を確認するために眉を寄せ目を細めるその仕草は葉山からは良く見えた。
 手に持っていた上着と鞄をソファに放り、葉山は「ただいま」と青年に声を掛けた。その言葉に彼は僅かに頷く。葉山が窓際に近付くと、「お帰りなさい」と言い、再び手元に視線を戻しその場にしゃがみこんだ。
 そうやってベランダに置いてある植物に水をやる青年の後ろ姿から視線を外し、葉山は空を眺めた。
 病院を出る際に見上げた時よりも更に高くなった太陽。この世界を焼きはらう様に照りつける陽射しは、南に面したベランダにこれでもかというほど降り注いでいる。夏の太陽は軌道が高いので窓際に立つ葉山には照っていないのだが、この強い光を見ただけで肌がチリチリと焼けるような感覚を覚える。
「今日も暑いな。そんな事をしていたら、倒れるぞ」
 長袖のTシャツに長ズボン、髪は肩まであり陽に背を向けているので、青年は直接肌を焼いている部分はない。だが、そのシャツすら通り越して細胞を傷つけているだろう。日射病まで行かずとも、この強い光の中で俯いていた体を起こし立ち上がったら眩暈をおこす事は確実だ。
「態々今水をやらずとも、影になった時にしろよ」
「そうですね」
 時には涸れるまで水をやるのを忘れる自分を棚に上げそう言った葉山の言葉に、青年は小さく笑いながら頷いた。
「でも、ここでこうしているのは気持ち良い…」
「良くてもな〜。せめて椅子にでも座れ。立ちくらみを起こして倒れたら、その辺で頭をぶつけてお陀仏だぞ」
 壁だけでなく凶器となる植木鉢があるのだからな、と葉山は軽く肩を竦めた。
「心配せずとも倒れませんよ。大丈夫です。そう度々倒れるほど器用じゃない」
「どうだかな、当てにならない。そういうのならもっと体力をつけて言え」
「力はありますよ」
「その細さで言われてもな」
 葉山の言葉に口元を緩めながら、青年は小さな青いじょうろを下に置き立ち上がった。
「ホント、良い天気ですね」
「…嫌になるくらいのな」
 空を見上げた青年に続き葉山も再び強い光に目を向けた時、来客を告げるチャイムの音が鳴り響いた。マンションの入口からではなく部屋の玄関からのそのドアフォンの音に葉山は軽く眉を寄せる。
 マンションのロックは知人になら大抵教えているので、連絡がなくここまで誰かが来たとしてもおかしい事ではない。葉山が眉を寄せたのは訪問者が誰なのかわかったからだ。チャイムは間をおかず一定のリズムで鳴り響いている。こんな時間に尋ねて来てこんな事をする者など一人しか思いつかない。
 自分を見る青年に軽く手を挙げ、葉山は今来た廊下を引き返した。

 驚かそうという気はなかったが、そうなってもいいだろうと玄関に着くと返事も返さずに勢いよく扉を開ける。だが、目の前に突然現れた予想外のものに驚いたのは訪問者ではなく葉山の方だった。
「よっ!」
 ぬいぐるみと言うか、モップと言うか、もこもことした物体が葉山の目の前で手を挙げていた。
「……、…何だこれは…」
 たっぷりの間をおき、ようやくそう口にする。その声は少々そっけないもの。だが、
「リアクションが薄いな〜。驚いて欲しいな、もっと」
 と、そんなことなど気にもせずに、笑いを含んだその言葉に合わせ目の前のものが楽しげに動く。毛深い足を踊るように動かし、葉山の鼻先を叩く真似までする。
「それとも、もしかして寝ぼけてる? お疲れ?」
 ついっというようにそれは首を傾げる。いや、首ではなく全身を斜めにする。
「……お前のせいで一気に疲れたよ…」
 目の前の物体にではなく、その向こうの声の主にそう言うと、葉山は大きな溜息を吐き扉を閉めようとした。だが、「うわっ! ちょい待って!」と相手が咄嗟にそれを足で押さえ阻止する。その足はもちろんスニーカーを履いた人間のもの。
 少し腕を伸ばし背の高い葉山の目の前にぶら下げていた物体を片腕に抱え、訪問者は逆の手で扉を抑えて玄関に入り込んだ。
「そう、怒るなよ」
 ドウドウと馬を宥めるような感じでポンポンと葉山の腕を叩いたのは、まだ幼さが残る若い男だった。太い黒縁の黄色いサングラスをかけた青年の目がその向こうで笑っているのに気付き、葉山は溜息を落とす。
「怒っていない。驚いただけだ」
 そんな葉山の態度に、青年は片眉を上げ抗議をした。
「嘘つけ、どこが驚いているんだよ。全然何でもないですって顔じゃん。面白くないっつーの。」
「文句があるのなら帰れ」
「うわっ、早速それかよ。相当機嫌悪い…?」
 大袈裟に驚きながら青年が眉を寄せる。だが、次の瞬間にはその眉を崩し、ニヤリと笑った。
「俺さ、先に病院の方に行ったんだよね。じゃあ、当直だったから今さっき帰ったって言うじゃん。だから寝付く前にと急いでやってきたんだよ。それなのにその態度、傷つくな〜」
 どこがだ、と葉山はまたもや溜息を落とす。寝ていても起こす気満々でチャイムを鳴らしていたのだろうに…。こいつはそういう奴だとわかっているので怒りや腹立たしさは沸いてはこないが、疲れている今の葉山には笑って迎えられるほどの余裕もない。
「…誰がそんなものを目の前に突然突き出されて寛大に迎えられるんだ」
 驚かそうなんて可愛い奴だ、などとは間違っても思わない。呆れるだけだ。
「そんなもの、ってひどいな〜。可愛いだろう?」
 笑いながら青年は、腕の中の物体を床に降ろした。フローリングの上に降ろされたそれは本当にモップのようだった。だが、そうではないのは疲れている葉山でもわかる。何てことはない、小さな仔犬だ。真っ黒な瞳が動かなければぬいぐるみと信じ込んでしまいそうなほど、モコモコとした仔犬。
「ほら、お邪魔します、だろ」
 そう口にしながら青年が犬の頭を指で押す。すると犬はまるで電源スイッチを押されたかのように、テトテトと奥へと進みだした。
「おい、綺麗なのか?」
 座り込み靴を脱ぐ青年に、葉山は思わず眉を顰めながらそう口にした。
「ん? …ああ、多分…?」
「……」
 多分ということは、この青年の場合汚いといっているのと同じことだ。
(…ったく、こいつは……)
 済ました顔で犬の後を追うように上にあがった青年に続きながら、小言を口に乗せ掛けてそれを飲み込み、葉山はバスルームでタオルを取りリビングへと向かった。この場合の注意など無駄な事なのだとわかっている。
(困った奴だな、全く…)
 軽い溜息と同時に閉まりかけていたリビングの扉を開くと、直ぐその場で青年が立ち止まっていた。なんだと葉山は彼の視線を追う。
 その先には、ベランダから上がりソファに腰掛けた葉山の同居人である青年がじっとこちらを見ていた。どうしたものかと首を僅かに傾げる青年と目をあわせ、葉山は知らずうちにまた溜息を落としていた。
 どうやら、厄介な事態になったようだ、と。



 フローリングが滑るというよりも、まだ歩きなれていないような感じでテトテトと歩く、自分と同じ誕生日である仔犬を見ながら、要は小さく笑いを浮かべた。視界を黄色に変えていたサングラスを外しシャツの首元に引っ掛け、そのまま服をつまみパタパタと扇ぎ体に纏わりつく空気を入れ替える。
 玄関では相手を驚かそうと抱き上げてはいたが、小さな体で一生懸命自分の側について歩く姿が可愛くて外でもリードも付けずに自由にさせているのだ、その足が綺麗なわけがない。多分、と答えはしたが、その言葉が嘘であると相手は気付いているだろう。それを見越して真実を口にはしない、一種の遊び、スキンシップだ。
 そんなところも含めて相手は自分の事を理解しているのだろう。それが時に悔しくもあるが、嬉しくもある。自分の事をわかってくれている、その事実を些細な事で確認したくなり今のように実行する。そんな自分を餓鬼だなと自覚しているが、止めようとは思わない。
 後からの足音が消えた事に気付き、振り向かずに要は肩を揺らせた。突然現れ小言の一つでも言われるかと思ったが、溜息でそれを飲み込んだのだろう。自分もそうだが、相手も自分に甘い。それを知っているからこそ、止められないというもの。甘える歳ではないのだが、甘えてもいい相手であるのだから、そう我慢する必要はない。
 きちんと閉じていないリビングへのドアの小さな隙間から、仔犬が中へと体を滑り込ませて入った後を追う。タオルを取りに行ったのだろう葉山が来る前に、仔犬は絨毯で足を綺麗に拭きそうだなと要は考え口元に笑みを乗せた。
 だがそれは、中に居た人物を見止め、すっと消えていった。
「…誰だよ、お前」
 仔犬の姿を追って下を見ていたのでその存在に気付くのが少し遅れた。コロコロと転がりそうになりながら歩いていた仔犬が動きを早めたのに気付き、視線を少し先に進めると、そこには人間の足が見えた。はっと要が顔をあげるとソファには見知らぬ者が座っていたのだ。笑みが消えても不思議ではない。
 自分より少し年下だろうか、そう思いながら口から出た声は、自身でも意外なほど低いものだった。心が冷めていくのをリアルに感じる。
 金色と言うよりも白に近いプラチナシルバーの髪はボサボサであり、長袖の服の上からも相当に痩せているのだろうと覗える体形は、それなりに背はありそうなのに一回り小さく感じさせる。なのに、自分を見つめる目は色は読み取れないながらも強いものだった。黙りこんだまま問に答えない相手を睨みつけるが、相手は驚いた風でも何でもなく、じっと見返してくる。その視線に要は更に眉を寄せた。
 足元に犬が寄って行くがそれに視線を落とさずに、相手は自分から目を逸らさない。それがなんだか気に入らない。いや、この者がここにいる事自体が気に入らない。
「…何なんだよ」
 先程よりもきつい苛立ちを隠さない声で訊く。それでもは少年は口を開かない。だが、変わりにとでもいうように、じっと自分に向けていた視線をふと横に逸らした。それに続き要も少年の視線を追おうとした時、
「セイヤだ」
 と、後ろで声が上がった。要が振り返るとその目の前にタオルを差し出され視界を塞がれる。
「ほら、これで拭け」
 少年の足にじゃれ付いている仔犬を顎で差しながら、葉山が真っ白いタオルを手渡してきた。奪い取るような勢いでそれを取り、要は葉山を睨み上げた。
「…ちょ、そんなことより! 何だよ、こいつは!?」
 タオルを握ったままの手でビシリと少年を指さすと、「だから、セイヤだ」と葉山は同じ言葉を繰り返す。
「聖なる夜で、聖夜。
 聖夜、こいつは弟の要だ」
「…弟、さん…?」
「ああ、そうだ」
 その言葉に少年が素直にこくりと頷く。だが、その態度が要の神経を逆撫でた。少年が自分の事は無視しておいて相手が葉山だというだけでこうも違う態度を取るのもそうだが、なによりも紹介をやり合う前に弟である自分にこの状況をきちんと説明をしろというものだ。
 それなのに、葉山はもうこれで充分だろうとでも言うように、「ほら、犬の足を拭けよ」と言い残しキッチンへと入っていく。
 一瞬呆けていた要だが、「…何だよ、これは!? ふざけんなよ!」と声を荒げ、自分を見たままの少年を睨みつけ、ドタバタと葉山の後を追った。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出す葉山の腕を要は勢いよく引き、自分の方へと向かせる。
「名前をきいてんじゃないっつーんだよ! 何だってここにるのかってことを訊いているんだッ!」
「俺が招き入れたからだろう、当たり前じゃないか」
 自分の剣幕を気にもせずに答える兄に対し、要は更に声を張り上げた。
「誤魔化すなよ。あいつは何なんだよ、どういう関係なんだよ、兄貴っ!」
「何を怒っているんだ、一体?」
 少し驚いた風に目を開いた葉山の表情に、要は勢いよく腕を放し視線を外すように横を向いた。掴んでいた兄の腕の感触を忘れようとするかのように、ぎゅっと手に力を入れる。苛立ちが少しでも消えるようにと。
 自分でも直ぐにカッとなるのは良くないことだとわかっている。当直開けの兄の部屋に先客がいただけでここまで驚くのは確かにおかしいというものなのかもしれない、何らかのわけがあるはずだと考え、はあっと溜息を落とし大きく息を吸い込む行為を数度繰り返し自分を落ち着かせる努力をする。
「おい、要…?」
「…いや、悪い。ちょっとびっくりしてさ、うん…。
 …でもさ、ホント、誰なんだよ、あいつ。年齢的に友達じゃないだろう。患者さん?」
 取り乱しかけた事を反省し、要はおかしく見られないように意識をしながらそう尋ねた。だが、葉山の返答にまたもや爆発することになる。
「いや、一緒に住んでいるんだ」
「……はぁ? …一緒に、住んでいる…?」
「ああ」
 グラスに注いだお茶を飲みながら頷く兄を、弟は何を言っているんだというように見上げた。
「……それって、いつから?」
「5月の終わり」
 葉山の言葉が要の頭の中をぐるぐると回る。
(…5月の終わりといえば、いつだよ…? おい…? 今は、8月…、…なら、かなり前のことではないか!?)
 あまりの驚きに瞬時に頭は理解されずに、間抜けにも口を開いたまま言葉を失いかけた要だが、それでも必死に言葉を吐こうと努力する。
「……な、な、な、何だよ、それはっ!!」
 どもる自分の声はなんとも間抜けだ、と一瞬頭に浮かんだが悩む余裕はない。目の前に落とされた現実を受け入れようとしながらも拒絶したいと身構える感情で手一杯だ。
「ちょ、兄貴、――気でも狂ったのか? おいっ!?」
 先程までの腹立たしさばかりの感情の中に、小さな恐怖が芽生える。一体この兄に何が合ったというのか。何故こんな事に…!?
 不安が押し寄せる中、要は眉を寄せて葉山を見つめた。だが、本人は憎たらしい事に片眉をひょいと上げ、居直るように言った。
「なんだ、それは。おかしいか?」
「おかしいか、ってそんな顔して言う事じゃないだろう。おかしい、おかしすぎる、絶対に!!」
「なにがだ?」
「何がって、普通はそうだろう!
 一緒に住んでいます、はいそうですか、じゃないだろう!」
 葉山がふざけて言っているのではないというのは要にもわかっている。自分を騙そうなどとはこの兄は思わないという事を知っている。だが、自身に向けられる感情には少し鈍いのも事実。
 自分がどれだけ心配をしているのかもわからずにいる兄を、要はほんの少し憎らしく思った。「何をそんなに怒っているんだ」、そう問う兄に何故自分の感情は伝わらないのか…。苛立ちが増していく。
「怒らずにどうしろって言うんだよ! 何で一緒に住んでるんだよ? どうして隠してるんだよ?」
「隠していたつもりはない」
「俺は聞いてない!!」
 ここへは5月の中頃にやって来て以来足を運んでいなかった。だが、その間に全く音信不通だったわけではなく、会いはしなかったが連絡は何度か取った。正直、自分の一方的なものだが、そんなことは昔からだ。別段おかしなところは何もなかった。
 それなのに…、これは一体どういうことだというのだ。要の目の前に突きつけられたのは決して認めたくはないものだった。
「言っていなかっただけだ。大声で言うものでもないしな、人を拾ったなんて」
 しれっとそう言った葉山を要は睨みあげる。
「拾ったってなんだよ、どうやったらあんなものを拾えるんだよ。おかしくなったのかよ、おいッ!」
「酷いな。元々は患者だ。行く所がないようだし心配で連れてきた。っで、今もいる、ただそれだけだ」
「それだけって……、それだけのことじゃないだろう!」
 無頓着である兄ならば、気になった、それでけで人でも何でも拾いそうだという気もするが、そんな事は奇跡以下の確率でしかなく、自分にはどうしようもならないのだから関わり合いにはならないという行動をとる事の方がはるかに多いはずだ。現に今まで仕事以上に患者と関わる事などなかったはず。
 それを考えると、どれだけあの少年が兄にとって特別な者なのかが要にはわかり、だからこそ余計に納得出来るものではないというのだ。本人はそう大層に思ってもいないのだろうが、自身のことには疎い兄の事、彼は本心のつもりでも現実には違う事もある。
「要、いい加減にしろ」
「自分を棚に上げて、説教かよ」
「そんなつもりはない。そう、目くじらを立てるな」
 ぽんぽんと宥めるように頭を軽く叩かれる。だが、大きな溜息を落としながら、要はその兄の腕を避けた。
「確かにおかしいな、俺も思う。だが、放っておけなかったんだから仕方がないだろう」
 …それが問題なのだ。放っておけないと思ってしまうのは何故か、自分の心を知っているのか、この兄は…。
「言わなかったのは、特に報告しなければならないことだとは思わなかったからだ。隠すつもりなんてなかった。だから、今もお前を部屋に上げただろう」
 見つかった後ではなんとでも言えるものだ。隠すつもりはなくとも、結局は今になってからやっと知ったということは事実なのだから。
 それに、この兄は絶対に父や母には知られたくはないと、何も干渉されたくないと思ったはず。報告しなくてもいいだろうではなく、したくなかったというのが本音だ。そして、彼らと住む自分にも言いたくなどなかったのだ…。
 要はぎゅっと体の横で手を握り込んだ。苛立ちが自分を支配していく感覚…。いや、苛立ちばかりではなく、悔しさや悲しさ、色んな思いが体の中に溜まっていく。こんな感覚には覚えが合る…。
「正直、いつ出て行くのかもわからないからな、気を使わせるのもなんだろう、なあ」
「……嘘だね。兄貴は知られたくなかったんだろう…」
 要の言葉にふうっと葉山は溜息を落とした。
「だから、そんな事はないと言っているだろう。
 お前が聞いていないことに怒っているのであれば、それは悪かったと言う。だが、彼をここへ招いた事は俺の問題だ。怒られてもどうにもならない」
「……」
 突き放すような言い方をはじめた兄は、どうやっても自分の言い分は聞かないという事は幼い頃から経験し覚えてきた。向こうが折れている間にこちらも折れれば甘えられる事を知り、殆どの場合はしぶしぶでも兄の言う事を聞くようにしてきた。元々兄の言う事は尤もな事なので、それも仕方がないこと。だが、今回は要とてそう簡単に引けはしない。
「第一、もし先に言っていたとしても、どうせお前は反対したんだろう」
 ただ、こうしてお前が怒るのが早かったか遅かったかの違いだ。そう口にした葉山をきっと要は睨みあげた。それは事実だろうが、当の本人に言われたくはない。
 だが、それについては反論は出来なかった。何だよそれは、と問えば言われる事はわかっている。もう大きくなったのだ、兄に付き纏うな、干渉するな、…そういうことだ。
 自分の感情が嫉妬だと気付いているように、この兄も気付いているのだろう。自分が目をかける存在が弟である自分以外にいるのだと知り不貞腐れていると、そう兄は思っているのだろう。確かにその感情もあるが、それだけではない…。
 むくれる要に肩を竦め、葉山はキッチンを出て行く。少年が座るソファに向かう兄の背に、要は声を掛けた。
「…本当に、本当にそうなんだとどうやって信じろっていうんだよ…!」
 要の言葉に、葉山が振り返る。じっと見つめ、「何がだ…?」と首を傾げた。
「俺だって、…わかってる。
 兄貴も、もういい年だから、特別な奴がいたって、当たり前だ。だけど、…何だよ、これは」
 一緒に暮らしている。そう言われたのが女性であれば、納得はしたくはないが認めざるを得ない。兄がいつまでも自分のものではないということはとっくにわかっている。今も時たま会うだけでしかないのだ、寂しいとも思うがそういうものなのだと思える。兄も自分ももう子供ではないのだから…。そう、子供ではないのだからと我慢も覚えた。
(なのに、これって…、…あんまりだ…)
 相手の少年も自分とそう変わらない様に見えるのだから小さな子供ではない。その二人が一緒に暮らしている。少なくとも社会的に地位を持つ大人である兄がこの関係を認めて築いているのだ…。
 考えたくはないというように要は軽く頭を振った。だが、そんな事をしても、一度思い浮かんだ事は消えはしない。
 そう、子供ではないのだ。子供が純粋に一生に暮らそうと遊びの延長でそれをしているのなら微笑ましいのかもしれないが、そうではない。そこに何があるのかなど、予想出来るものはそう多くはないというもの…。
「一緒に暮らしているって、何だよ…。女なら、わかるよ。昔からもてるもんな、兄貴は。だけど…」
「何を言いたいんだ?」
 そう特別な相手がいたわけではないが、それでも弟である自分は何人かの兄の恋人と会った事がある。どちらかと言えば大抵女の方が熱を上げていると言った感じで、恋人と一緒だからといっても兄の態度はいつもとそう変わらないものだった。それこそ、自分へ向ける視線の方が温かいと言うもの。だから、あの時はこんな不安など浮かばなかった。男友達と女友達の違いに意味など考えなかった。
 だが、今にして思えば、兄はそれなりの歳だったのだ。彼女達と自分が思う以上に親密だったのは間違いないだろう。それが特別な事ではなく、自然な事なのだろうが、…正直面白いものではないと思ってしまう。兄がもしもっと恋愛のような関係を彼女達と築いていたなら、自分はそこに割って入っただろうと思うほどに。
(…畜生……)
 要はグッと手を握り締めた。爪が掌に突き刺さる。
 あの頃のように無知であればよかったと、馬鹿げた事を考える。昔のように恋愛感情を知らない幼い餓鬼ならば、安心できたのかもしれないのに…。
 いや、男と一緒に住んでいると聞いても、女じゃなくて良かったと思えられれば良かったのだ。男同士の関係が存在するなど全く知らなければ……。
 自身の考えにふざけているなと要は全てが嫌になった。
 知らないからといって、幸せであるとは限らない。余計に惨めだ、そんなのは…。
「…本当は、どういう関係なんだよ…」
 気付くと要は思わずそう訊いていた。葉山は意味が掴めないなと首を傾げる。
「…ペットとかじゃないよな…?」
「…あいつは人間だが?」
「そんなことはわかってるっ!」
「なら、なんだ?」
 鈍い葉山に要はかっ頭に血を上らせた。本当にわからずにやっているのだと思うが、ここまでくれば確信犯とそう変わらない気になってくる。
「俺はっ、兄貴にそう言う趣味があるのか訊いてんだよッ!」
「そう言う趣味…? 何がだ?」
「だから……、…ふざけてんのかよ!?」
 ここまで言って何故わからないのか、要は苛立ちにバンッとテーブルを叩いた。
「…おい、はっきり言え」
 机など叩くなと言う風に葉山が眉を寄せる。
「……くッ!」
「…葉山さんと僕の間に肉体関係があるのかと訊いているんですよ」
 首を傾げる兄に声を荒げた弟の真意を汲んだのは渦中の者だった。少年の言葉に、葉山は少し考え、
「…そうなのか?」
 と問う。要はそれには答えず、逆に「どうなんだよ…」と訊き返した。
「あるわけがない。第一そんな発想になるお前が俺には理解できないな」
 そう、この兄とはこう言う者だ。そう見られる可能性があるなど全く思ってもいないのだろう、天然だ。要はフッと心で溜息をつく。そして、そんな考えを持った自分が嫌でならない。
「…本当に、何も…?」
「ああ」
 汚れきった自分の腐った目で兄を見てしまった事もショックだが、それ以上に葉山の否定が安心を与える。だが…。
「それより、そんな風に考えるなんて…、まさかお前馬鹿な事をしているんじゃないだろうな」
「ば、馬鹿な事って何だよ…! …人間を拾った兄貴より馬鹿じゃないぜ、俺はッ」
 大いに後ろめたいものがあるのだが、要はそれを誤魔化し溜息をついた。葉山もそれを言われれば笑うしかないのだろう、弟の焦る内面には気付かない。
「…大体、今は…男同士もそう珍しくないじゃん。俺の周りの女どもなんて、妖しい本を人前でも平気で読んでいるぜ」
 さり気なさを装い要は葉山の様子を覗いつつそう口にした。すると、葉山は「あいつもそんな事を言っていたな。ここに来るかと聞いた時、ゲイなのかと警戒された」と喉を鳴らした。そして、まっすぐと要に視線を向ける。
「言っていなくて悪かったな」
「…いいよ、それはもう。っで、行く所がないって何だよ、家出人?」
「ま、そんなもんだ。なぁ、聖夜」
 ソファに放った上着を取り寝室に持っていきながら、葉山は少年にそう声を掛けた。要はじっと彼を見下ろし、葉山の後を追い寝室へと入る。
「大丈夫なのかよ…」
 少年に聞こえないように、幾分声を顰めて問う。
「何がだ」
「どこの誰かわかっているのか?」
「いや」
「やばいじゃん。…これってさ、兄貴にその気はなくとも、誘拐だぜ」
 その言葉に、葉山は眉を上げ肩を竦めた。そんな兄の仕草に要は眉を寄せる。
「…なんだよ…」
「いや、心配は嬉しいが、それは大丈夫だ」
「なんで」
「未成年じゃないからな。あいつはお前より年上だ」
「……マジ?」
 ああ、と返事をしながら葉山はリビングへと戻る。そして。
「シャワーを浴びたら俺は寝るからな、喧嘩するんじゃないぞ」
 そう言い残し部屋を去る兄の後ろ姿に、要はちっと小さく舌打ちをした。
 きっと今の言葉は二人にではなく自分だけに向けて言っているのだ、と。

2002/09/03
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