小さな足音

- 2 -

(ったく…)
 要は溜息を吐き、仕方なくソファにドカリと腰を降ろした。
 座った自分に興味はないのか、本にむけた視線を上げもしない少年を不躾に眺める。自分より年上だと言うことだが、…到底見えない。
 パラリとページを捲る指は骨張っていて女のそれより細いだろうが、自分とそう変わらない大きさ。細すぎる体格に目を瞑れば、身長からも自分とそう変わる歳ではないと思うのだが、やはり成長過程途中の餓鬼だ。いや、ならばこれだけの細さでこの身長はおかしいか。今時の男としては高い方ではないが、170はあるだろうから、低いわけではないし…。
 はたして兄が言った年上だと言うのは本当なのだろうか、と要の意識は何処の誰かと言う身元のことよりも、年齢の方に傾いていた。年上だからどうだと言うわけではないが、気になってしまうのだ。それは仕方がないと言うもの。
「……お前、幾つ?」
 年齢などどうでもいいと思いつつも、要は少年にそう言葉を掛けた。その質問に彼は読んでいた本をパタリと閉じ、真っ直ぐと視線をむけてくる。
 要はちらりと少年の手元の本に視線を落とした。その表紙には「ドイツと日本の経営」と銀の字で書かれており、思わず何を読んでいるのかと眉を顰める。
「21だよ」
「……」
 答えをそのまま信じていいのだろうかと、少年の顔色を覗うが何も見えない。逆に視線を合わせればこちらの方が何か見透かされるような気になってしまう。
「…見えねぇな…」
 眉を寄せたままそう言い、要は薄情にも少年の足に寄り添うように寝ている飼い犬に視線をむけた。大きく開けた窓から微かに風が入り込むが、やはり暑い。仔犬には少しきついのかもしれないと考えたが、様子を見る分には気持ちよさそうに眠っているので大丈夫なのだろう。
「君は…?」
「…お前には関係ないだろう」
 一瞬何を聞かれたのか要は理解しそこね、同じように年を聞かれているのだと気付き知らずうちに身構えそう答える。
 自分の答えに、「そうだね」と質問した本人とは思えない何でもないように思っている言葉を返した少年に、要の眉はまた皺を作った。怒るわけではないところを見ると、別に訊きたくて訊いたわけではないということだ、話の流れでしかないのだ…。ただそれだけのこと。
 そう思う納得する事も出来なくはないが、だが、それを態々自分に見えるようにしているようでいて気に食わない。いや、正確には、自分は苛立っているというのに相手は余裕すら持っている、といった感じがひしひしと伝わってくるのが腹立たしい。
「…なんで、ここにいるんだよ?」
 落とした声はいつもより低い声。それは要自身の不機嫌さを教えるには十分のものであった。そんな自分を煽るようにふざけた答えを返す少年に、気持ちを落ち着けようとする事など不可能というもの。
「置いてくれるから」
「なら、出て行けって言えば、素直に出て行くのかよ?」
「葉山さんがそれを望むのなら」
「口にしなくとも迷惑だってわかんねーのかよ」
「そうだね…」
 どういう意味の言葉なのか掴めないが、少年の少し上げた口角がカチンとくる。
「…いちいちムカツクな、お前。自分の方が兄貴に目をかけて貰っているってか? それとも、年下の俺を馬鹿にしているのかよッ。
 いや、大体、21って嘘だろう。付くならもっとマシな嘘をつけよ、餓鬼にしか見えねえじゃん。ホントはまだ10代そこそこなんじゃねーのかよ」
 黙っていなければならない状況ならば、黙っていようと努力はする。抑えられない時もあるが、必要ならばそうしなければならないとわかっている。同年代の者達よりも少しだが一歩前に社会という場所に自分は出ている。そこで、大人としての礼儀や賢さを教えられているし、少しは身につけている。まだまだ子供だが、これでも父に付き添い恥しくない程度には色んな大人達の対応が出来るという自信がある。
 だが、今はそんなものは必要ないというものだと、要は声を荒げた。相手は大事な仕事関係の人間でも何でもない。兄が招いた者としてならば礼儀を尽くさねばならないと思うだろうが、それ以前に気に食わない人間だという思いの方が強いのだ。
 それなりに社会に出てつけた知識は知識でしかなく、要自身を変えたわけではない。大学の友人と馬鹿もやるし、心底嫌な相手にはどんなに大事な取引相手だと父に諭されていようとも失礼をする事もあるのだ。そんな自分が、この少年に好意を抱くというのは無理と言うもの。
「何が、置いてくれるから、だ。だからと言って、居座り続ける奴がいるかよ! ふざけた答え返して俺が納得するか!」
「ふざけているつもりも馬鹿にしているつもりもない。歳は確かに自分でも見えないと思うが、今年で22になるのは本当だ」
「それをどうやって信じろっていうんだよ。俺は兄貴みたいに騙されないぞ。
 名前は? セイヤって名前だろ。なら、苗字は何だ?」
「……」
「言えないのか、それとも俺には言いたくはないって? ふざけんなよッ!
 ったく、どいつもこいつも…!」
 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言うものだ。
 大して疑問も持たずに他人と暮らしている兄も兄なら、その優しさに漬け込んでいるこの少年も少年だ。少々ボケたところもある兄だが、人を見る目はあるだろう。だから、その兄が害はないと認めた相手だ、そう悪い奴ではないのだろうと要にもわかっている。だが、自分にはそれを見つける事が出来ない。
 あの兄が大人しく騙されているようには思えないが、そうなのかもしれないと思えるほど、要には少年の印象はあまりにも良くなかった。苛立ちが全て目の前の少年に向かう。この状況の元凶は彼でしかないのだからと。
 キッと要が睨みつけても少年はそれを流すように受け止め、真っ直ぐ見返してくる。ガリガリに痩せたような細い体であるのにそんな事は知らないとでもいうように瞳は生気に溢れている。その真っ黒な大きな目が自分を笑っているように思え、要は眉を更に寄せた。 「俺は、絶対お前の事は認めないッ!」
「…彼の弟である君が不信がるのはわかるよ。確かに、こんな得体の知れない者を近くに置いて安心することなどできないからね。
 …それは、君だけではなく、葉山さんもだろうけどね…」
 少年が要に向けていた視線を外す。
「…どう意味だよ」
「…いや……」
「兄貴はお前の事、本当に何も知らないのか?」
 まさか、と思いつつそうである確信が要の中にすでにあった。元々は患者だと言っていたので少しは知っているのだろうと思っていた。何処の誰かは知らないと兄は答えたが、単に家出少年だからそうであるだけで、ある程度の事は知っているのだと思っていた。そうでなければ、少年も言ったように近くになどおいて置けないというものだ。何があるかわからないのだから。
 だが、そんな常識など知ってはいても、あの兄は気にしそうにないという事を知っている。自分の道を黙って真っ直ぐと歩き進む性格の兄だ、少年が何者でも気にしないと思えば、全く何も聞かないのだろう。思い描きたくはないが、そんな予想が要にはつく。
「…うん、何も、何も言っていないよ。この名前も彼がつけてくれたものだ」
「……マジかよ…?」
 要の口から出てきたのは、溜息だった。あまりにも単純なことで瞬時に怒りさえ消え失せる。
 騒がしい自分と違い、昔からしっかりとしていると言われ続け、実際にもそうである兄だが、不思議にも思わずにこんな事をしているのだ、おかしいと言えるのではないかこれは…。
 何となくわかっていた事だが、それが当たったとしても正直嬉しいものではない。もっと、自分を納得させられる理由をもっていて欲しかった。なのに、兄にとっては、何となく、なのだ。そう、いつものパターンだ。真面目な兄の時たまの奇行はいつもそんな言葉で解決をさせる。そう言われればそれ以上追求されないと知っていて使っているのなら反論するが、本人は真剣に使っているのだ、感性に持ち込まれれば周りが何を言っても無駄なのである。
(畜生〜っ!)
 沈んだ気持ちが再び浮き上がってくる。
 自分が我が儘な餓鬼だと兄に思われていることは要とてわかっている。わかっていて、まだ甘えたいのだ。だから、わざとそんな行動をする時もあれば、きちんと自制する時もある。なのに、兄はどうだ。自分の天然ぶりにまるで気付かず、周りを振り回す。兄の友人はそれを彼らしいといって呆れながら笑い流すが、自分は友達という他人ではなく血の繋がった兄弟なのだ、そんな余裕など作れない。
 沸き起こる苛立ちに髪を掻きながら、要は自分が反対しようと状況はかわらない事を知りつつ、それでも抑えられずに悪態を付いた。
「何も知らないって、平気な顔して言ってんじゃねーよ。騙してるのと同じじゃん! 兄貴もそうだが、お前もどういう神経してんだよ、信じられねーっ!
 お前、患者だったんだろう。医者に行ってたんなら少しは知ってるんじゃないのか、兄貴は? お前が知らないだけで、気付いてんじゃないのか、なあ?」
「それは、ないと思うよ。患者と言っても、手続きも何もしていないから。ただ、手当てをしてもらっただけだよ、医療行為じゃない」
「なんだよ、それはっ! マジで兄貴は、お前の名前はおろか、何にも知らないのかよ!?  猫や犬みたいに拾ったって?」
 我兄ながら、それだけでこの少年を身近に置けるその神経が信じられない。そう思いながらも、兄はシャワーに逃げ込んだので、怒りはこの目の前の少年に向けるしかない。もしかしたらこれを予想して、兄は喧嘩をするなよとわざとらしく言い残して自分をたき付けたのかもしれない、などと自身でさえ言い掛かりとしか思えない考えが要の頭に浮かぶ。自分がどう吠えようとどうにもならに事を思い知らされる。
 そして、そんな要を笑うように少年は更に爆弾を落としてきた。
「何も知らない。だけど、僕の体は知っているね」
「……はあッ!?」
「それより、この犬、抱いてもいいかな?」
 さっきから気になっているんだけど、と少年は足元でつまらなさそうに寝そべっている仔犬を指した。
「…だ、抱く?」
 仔犬と少年を見比べ、要は素っ頓狂な声をあげる。
「…獣姦じゃないよ」
 少年の言葉に、カッと頬が赤くなるのが自分でもわかった。
「そんなこと、思ってねーよっ!」
 ただ、抱いていいかなど態々聞く事ではないからおかしいなと聞き返しただけだ、と要は心で反論する。そう、声に出して追求すべき事はふざけた会話ではなくこちらの方だ。
「それより! …体って、…やっぱそうなのか?」
「やっぱりって…セックスしたかと?」
 返事を貰えなかったからか、足元の仔犬の前に指を出しちょいちょいとからかうだけで触りはしない少年は、体を前に倒したまま少し首を傾げた。
「…したのか?」
「そうか…、君はゲイなのか。……彼には秘密?」
 体を少し起こし顔を向け、なるほどと頷かんばかりに少年はそんな言葉を発した。一瞬言われた事を理解したくはなく頭がその言葉を受け入れるのを拒否しかけたが、そう都合よくいくものではない。要は呆けかけた後、一気に頭へ血を上らせた。
「な、な、なにを言ってんだ!? 俺は、違うっ!」
 何処をどう取ればそんな会話に発展するんだ!
 焦る要などどうでも言いように、少年は再び仔犬の目の前に指を下ろした。仔犬は主人の心情などお構い無しに、頭を動かし少年の指を追いかける。
「ま、僕にはどちらでもいいことだけど。
 でも、男と聞いて直ぐにその発想に行くのはそれが当たり前と思うぐらいに慣れているからだろう。君自体の経験はともかくとして。隠したいのであればあまりそっちに持っていかない方がいい」
「……」
 青年の言葉は要には耳が痛いものだった。確かに自分でもそう思うのだ。男と住んでいると聞いた瞬間、兄の性癖がそうであるのかと思ったのだから、言い返す言葉もない。だが、だからといって納得したくはないというもの。
「お前なんかにとやかく言われたくない…」
「…確かに、失言だ。口が過ぎたね」
「……」
「さっき言ったのは深い意味はない。
 僕はこんな体だから、医者である彼が気を使ってくれるってだけだよ。そうだね、主治医みたいなものかな」
 そう言い少年は小さく笑った。
「そういっても、僕は言う事を聞かない駄目な患者だけれどね」
「……。…兄貴は天然なんだ。これがおかしいとは思っていない」
 その言葉に少年が手を止める。その手に飛びかかろうとしていた仔犬を要は捕まえ自分の膝の上に載せた。
 何処をどう見ても、自分より年上には見えないのは、このやせこけた体のせいだろうか…。話している限りはその辺のダイエットにはまった女よりもよほど元気そうだが、やはり見た目は到底健康的だとは言えない。
 …なんだか、やるせない感情が芽生える。少年が腹立たしいのは確かなのに、自分の方が健康だと言うただそれだけで、こちらが悪い気分になってしまう。…兄が何故少年を置いているのかわかりそうで、それを納得しそうで…怖い。
「ボケてんだよ、兄貴は。だがな、だからと言って…こんなのは絶対におかしいんだっ!
 気になるからで赤の他人を部屋に招くほど馬鹿でも親切な人間でもない…」
 それがわかっているからこそ余計に腹が立つのだ。そうしない兄がそうしているということは、特別だと言う事なのだから。
 納得したくないと言う気持ちが、これ以上このことに付いて考えるのをやめろと言う。そうしなければ、自分は認めざるを得なくなる。現実は紛れもなく一つしかない。夢だと信じ込む事も出来ない。
「なのに…、なんだよこれは!! 本人は居直って腹が立つし、諸悪の根源のお前はむかつく奴だし。
 俺が一番まともなのに、何だって言うんだよ!」
 要はギリッと奥歯を噛み締めた。理不尽な事この上ないのに、何故自分が罪悪感をもたなければならない、苦しまなければならない。自分は何も間違ってはいないのに…。
「そんなことはないよ」
「何がだよっ!」
 握り締めた拳をソファに叩きつけると、要の膝の上の仔犬がビクリと体を振るわせた。
「何が、そんなことはないんだよ」
「…多分迷ったと思うよ、葉山さんは。僕は可愛いだけのペットじゃない、人間だからね。でも、こうして置いてくれる。それがどうしてだかわからないけれど、僕はそれに甘えているんだよ。
 だから、彼は何も悪くはないよ」
「……別に、悪い悪くないって言ってんじゃねーよ。…おかしいっていってるだけだ。
 兄貴自身よくわかってないだろうよ。大事な事なのに深く考えないところがあるからな。何となくでお前を置いてんだよ」
 そう、悪くはないのだと、要自身わかってはいる。ただ納得出来ないだけなのだ。出来る方がおかしい。拾った拾われたで一緒に暮らしていると言う事を理解出来たとしても、それを共感するなど出来ない。他人ならまだしも、実の兄なのだ。
「…よくわかっているんだね、いいね」
「……」
 話が見えない言葉に、要は少年を睨みつけつつ顔に疑問を表した。
「兄と弟か、…羨ましいよ」
「……同情させて、俺を懐に入れようとしてるのか…?」
 要のその言葉に、少年の口元に笑みが乗る。
「さて、どうだろう」
「…くえない奴だな、お前」
 その問には答えず、少年は喉を鳴らす。だが、それは良くわかったなと肯定しているようであった。
 こんな風に笑う者を要は他にも知っているので良くわかる。そんな者は、嫌な奴ではないかもしれないが、関わりを持たない方がいい相手である事が多い。自分とは気が合わないタイプだ。
「心配しなくとも、葉山さんには迷惑を掛けないよ」
「もう掛けているだろうが」
「そうだね」
「…兄貴のボケは今に始まった事じゃないが…。俺はお前なんて絶対認めねーからな!
 何がおいてくれるからだ。居座ってもいいかどうかぐらいの頭はあるんだろう。自分の事は何も教えずに、図々しすぎるっていうんだよっ!」
「うん」
「頷いてんじゃねーよ! ホント腹のたつ奴だな! そうやって俺を馬鹿にしてるのも今のうちだからな!?」
 自分は冗談ではなく本気だと言うのに、それを軽く流して小さく口元をほころばす少年に、要は指を突きつけ叫んだ。
「何が何でも追い出してやるッ!!」



 バタンと勢い良く閉じられたリビングのドアは、けれどもその反動でまた開き、人一人が通れるくらいの大きさを開けて止まった。玄関のドアがまた勢い良く閉ざされる震動にドアが微かに揺れはしたが閉まる事はない。
 そんな動きを眺めながら、聖夜は小さく息を吐いた。微かな緊張が取れるのと同時に、一気に静かになった部屋が少し寂しくもある。
 腕に抱いた仔犬が、話が終わったのなら遊んでよ、とでも言うように大人しく撫でられていた頭を上げ指を舐め軽く噛み付いてくる。仔犬のしたいようにさせながら、逆の手で頭から背中へと体を撫で、聖夜はふと手を止めた。
 カチャリと静かなドアの開閉音の後、ぺたぺたと聞き慣れた音が近付いてくる。
 直ぐに青年が去ったドアから葉山が顔を覗かせた。
「…ん? …あいつは帰ったのか?」
「いえ、出掛けました。夕方には戻るので食事は欲しいと。後、暫く泊まるとのことです」
 濡れた髪を拭く事もせずに、タオルを首に掛けたままキッチンへと入っていく葉山の姿を追いながら伝言を伝える。いや、伝言と言うよりも、あの青年の一方的な計画か…。
 だが、だからと言って居候の身でなくとも腹立たしい気分になどなりはしない。それは兄である彼とて同じだろう。自分の言葉にふと顔を向け眉を寄せた葉山から視線を逸らし、聖夜は窓の外に顔を向け小さく笑った。顔を顰めたのは怒っているわけではなく呆れたからというところだろうか。
 夏らしい青い空はいつも以上に空が高いように感じてしまう。浮かんだ白い雲は意外と早く流れている。時折微かに流れ込む風は生温いはずなのにそれを感じさせないのは、それだけ体が熱いということだろうか。
 確かに暑いが、こうして日陰になる場所でいる分には気持ちがいいほどの天気だ。だが、外に出れば上からの陽射しと下からの照り返しの熱に直ぐにやられるのだろう。
 高くなる太陽の陽射しに目を細めながら、青年が飛び出していった街を眺める。眩しい光の下のいつもと変わらない灰色のビル群。だが、今は何故か、写真のように見る者の味が出ている気がする。
(…何処に行ったんだろうか…)
 聖夜は、きつい眼差しを向けてきた青年の事を考えた。
 ここにやって来たという事は兄である葉山に用があってのことだろう。なのに、自分がいたせいで彼は出て行かざるを得なくなったのだ。
 直ぐに追い出す事など無理だと彼もわかっているのだろう、力づくで自分を追い出す事など出来ないのだと。だから、追い出すと宣言した後、膝に乗せていた仔犬を下ろし、苛立ちに任せたままドスドスと歩きながら出ていったのだ。何か策を考えるためか、それともまずは気を落ち着けるためか。
 何にしろ、葉山が戻ってくる僅かな間でも得体の知れない自分と一緒にいるなんて耐えられなかったのだろう。
(…嫌われたものだな…)
 腕に抱く仔犬の頭をぽんぽんと叩きながら、聖夜は小さく笑った。
 不本意ながらも自分が追い出す形となったのは事実で、それを思うと悪いなという感情がおこる。だが、聖夜の中ではそれ以上にあの青年への興味の方が強かった。
 自分を見つめる彼の瞳には敵を見るような色が混じっていた。強い視線。
 本人にそんな事を言えば二度と口を聞いてもらえないことであるのだが、青年の敵意を感じながらも、自分は彼を可愛いなと思ってしまったのだ。そう、葉山が納得しておいているのだとわかりながらも認められない、そんな戸惑いが彼に苛立ちを与え自分に突っかかろうとする。だがそれも何処かで悪いと思うのかこう言ってはなんだが中途半端なもの。そんなところが微笑ましかった。
 だから、聖夜は駄目だと思いつつも少しからかってしまった。本人にそれと気付かれないようにしたつもりだが、意外と鋭く気付かれそうになったが、次の瞬間には子供のように素直というか単純になる。
 羨ましく思った。弟をあしらってはいるが可愛がってもいる葉山と、そんな兄を追いかける青年の関係が。自分に嫉妬に似た感情を向ける青年に、聖夜は自分が彼に嫉妬を向けたいくらいくらいだと思いつつも、それは無理なことだと瞬時にわかっていた。
 敵意を見せ突っ掛かってくる姿は憎む事など決して出来ないものなのだ。
 そう、今意地になるように自分の指を噛んでいるこの仔犬のようなのだ、と聖夜は手元に視線を落とした。小さい歯をたて指を噛む仔犬を憎らしく思う者はないだろう、微笑ましいものだ。それと同じように、単純に青年が可愛いと思った。素直に感情を表現できるあの青年が。
 だが、聖夜は葉山の弟だと言う以上に彼を気に入ったが、残念ながら彼の方はそうはいかない。しかし、それすらも面白い。
 知らず知らずのうちに聖夜の口元に笑みが浮かぶ。
 小さな口から指を抜きとり目の前で動かせると、仔犬は猫のように前足を使って押えようとする。それをかわしながら頭をつつくと指を追い掛け、コロリと膝の上からソファの上に転がり落ちた。何が起こったのかというように、体を起こしもせずに頭を動かせ周りを見る。そんな仔犬の仕草に聖夜が目を細めていると、「毎度毎度、自分のことしか考えていない奴だな、ったく」と、今はいない弟に悪態をつきながら、冷蔵庫からペットボトルを取り出してきた葉山が隣にやってきた。
「驚いただろう、我が儘な奴で」
「いえ。元気で素直な弟さんですね」
「…ま、それだけが取り柄だ。甘やかされて育ったからな、あいつは。
 なんだ、そいつも置いていったのか」
 聖夜の手の中の仔犬に気付き、葉山は呆れたように言いながら手を伸ばす。
 自分より一回り大きな手に仔犬を渡し、クーラーのスイッチを入れるために聖夜は立ち上がった。
「悪いな」
 変わりにソファに腰を降ろしながら、葉山は窓を締る聖夜に声を掛けた。
「これって、あのじいさん犬か? シュナウザー?」
 仔犬を抱きあげ、眼鏡をかけていない顔近づけ眺めていた葉山が訊いてきた問いに、「…さあ、…犬の事はわかりません」と聖夜は首を傾げた。
「俺もわからないが…あいつはもっとわからないだろうな…。何を思って犬なんか飼いはじめたんだか」
「可愛いじゃないですか」
「ま、そうだが。…ぬいぐるみと変わらんな。いや、小さくて危なすぎる。…ほら、片手に乗るぞ」
 砲丸投げの選手のように仔犬を右掌に乗せ腕を曲げたり伸ばしたりする葉山に、聖夜は小さな笑いを落とした。
「落ちますよ」
「これだけふわふわなら落ちても大丈夫だろう」
「でも、猫じゃないですよ」
 肩を竦めながら葉山の手から仔犬を取る。
 それでもなお、葉山は仔犬の頭をパシパシと軽く叩いた。遊んでくれているのだと思っている仔犬は、嬉しそうに小さな尻尾を振った。
 最近わかってきたことだが、葉山は眠くなると思考能力が落ちるようだ。特におかしな事をするわけではないのでわかり難いが、ふだんの彼ならしないような事をする。それに気付いた時は、そう言えばあの時もあの時もと思い当たるふしがいくつかあり、あれは眠くてなっての行動だったのかと妙に納得したものだ。
 休日の急な呼び出しが朝までかかりそのまま通常の仕事だからと着替えに帰ってきた時など、眠気覚ましに飲んでいたコーヒーを植木鉢の中に流していた。別に普通の者でもやりそうな事だが、葉山の場合はいたって真面目に観葉植物にコーヒーを与えていたのだ。
 先程の青年の言葉ではないが、確かにこんなところがボケていると言った所なのだろう。短い間だが一緒に暮らしている自分でも気付くことなので、兄弟である彼ならばもっと葉山のおかしなところを知っているのかもしれない。
 普段ならこうもしつこいくらいに動物をからかう事などしないだろう葉山の姿を見ながら、聖夜は喉を鳴らした。
 手の中の仔犬の前足を持ち、悪戯をしている葉山の指を軽く叩く。
「疲れているんでしょう。どうぞ、休んで下さい」
「ん〜」
「この仔犬は僕が見ていますよ」
「……犬は好きか?」
「好きというほど触れ合った事はないけど、嫌いじゃない…と思います。
 …大きい犬はわからないけれど、可愛いですよ、この犬は」
「ま、これはモップみたいだからな」
「モップ、ですか…」
「そう、モップだ。似てるだろう?
 お前が邪魔なら、俺が枕にでもしておくぞ」
「潰れますよ」
「モップが潰れるのかよ」
 そう呟きながら、「そういや、名前は何なんだ?」と葉山が首を傾げた。自分の発言をわかっているのだろうかと考えかけ、すぐに聖夜はそれを止めた。葉山の認識がモップから犬に戻った事で十分だ。
「聞いていません」
「あいつの事だからおかしな名前でもつけているのかもな…」
 肩を竦めながら、「よいしょっ」と掛け声をかけて葉山はソファから立ち上がり、「オヤスミ」と後ろ手にひらひらと聖夜に手を振り寝室へと入っていった。
 そんな葉山の姿に笑みを漏らしながらソファに置いていた本を持ち、聖夜は涼しくなってきた室内に落ちる陽だまりの中に腰を降ろした。胡座をかき、後を追ってきた仔犬を足の間に座らせる。
「いいか、鳴くなよ。静かにしていろよ」
 多少煩くしようともあれだけ睡魔に襲われているのであれば害にはならないだろうが、聖夜は葉山の安眠のために自分の影に入り眠る体勢に蹲った仔犬に声を掛けた。




 ブラコンだと周りにはよく言われているが、それがどうしたと言うもの。要は歳の離れた兄がとても好きだった。だからこそ、自分以上の何かを兄が手に入れるのが面白くない。
 そんな独占欲とも言える思いは幼い頃からあった。
 兄の後ろをついて回り真似ばかりしていた。兄が友人を連れてきた時は仲間外れにはされたくないと無理やり加わったりもした。子供だから出来たものだろうが、要はいたって真剣だった。単なる我が儘なだけではないと。
 兄は大学に入ると忙しくなり、自宅に友人を連れてくる事など殆どなくなったし、自分も学校が上がるに連れ友達も増えた。だがそれでも、忙しいとわかりつつ無理を言ったりして兄の気をこちらに向かせたりした。家を出た後も、特に用もないのにマンションに押しかけたりした。
 要にとって兄である葉山は、周りの友達が言うような単なる兄弟ではなかった。彼らは兄弟など鬱陶しいとボヤいたが、要は一度も葉山の事をそう思ったことはない。父や母に窘められてその回数は減ったが、要の中で葉山に対する気持ちは子供の頃から全く変わらず、未だ追いかけている。
 それをおかしいとは思わない。兄弟なのだから別に誰かに文句をいわれる筋合いはない。
 自分の気持ちは真っ直ぐ兄へと向いている。だが、それだけでは満足出来ない。子供の頃と同じように、兄にも自分を一番に思って欲しい。そう思って何が悪い。
 大人になるとはつまらない事で、いつからか一回り近く年の離れた兄も、そんな自分の思いを知っていて窘めるようになった。いい加減、兄離れをしろと。それがどれほど自分にとって悲しい辛い事なのか兄はわかっていない…。
 だが、嫌われたくないからそうしなければと思った。しかし、やはり自分には無理だった。まだ小学生だった頃の自分にとっては兄の言葉はとても大きなもので、どうにも処理しきれずに癇癪を起こしてしまった事もある。大きくなるにつれ我慢を覚え自制するようにしても、感情などそう変わらないというもの。何を言われ様とも、要の中で葉山への思いが変わることはなかった。
 兄の望むような弟でいたいと思いはするが、それだけでは満足出来ないのだ。不安になって仕方がないのだ。だから、最終的には自分に負ける兄を知っていて、我が儘を言った。逃げられないように卑怯な手を使ったこともある。
 少々冷たく感じる雰囲気だが、クールと言うよりも全てに無頓着なだけ。無口と思われがちだが、色々考えて言葉を選び話す性質なのと、単に喋るのが億劫だという面倒がりなだけ。口数も少なくはなく、他人をからかいもするし声をあげて笑いもする。整った顔立ちと少し眉を寄せる癖で無愛想にも見えるが、笑うと意外に幼くなる。
 その笑顔が何よりも要は好きだ。兄のことならば、誰よりもわかっている。自分より上がいるなど思いたくもないこと。忙しい父と母の変わりに、小さい頃から何かと面倒を見てくれたのは兄なのだ。
 だから、認められない。
 自分以上に兄の思いを受ける者がいるなど、絶対に…。

 要は苛立ちに任せてアクセルを踏みこんだ。エンジン音を聞いているのが好きなのでステレオは鳴らさない主義なのだが、今はその音すら不快である。それはまるで自身の苛立つ感情の悲鳴のようだ。
「くそっ!」
 クラクションを鳴らし、要は前でのんびりと走っている若葉マークをつけた車を左車線に寄らせようとした。だが、相手はそんな技術はないようでルームミラーで自分の事を確認しながらも同じように走り続ける。
 痺れを切らし、左車線から追い越しをかけその車の前に周りカチカチとハザードを数度付けた後、要は再び速度を速めた。道が空いている時間帯だったので直ぐに制限速度を軽く越す。
 だが、ふと息を吐き、要は車を道の端の縦列駐車の中に停めた。先程抜かした車が追い越していくのを眺めてから、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
 短縮ボタンで相手の番号を呼び出し、画面に現れたそれを暫し眺め、要は大きく一息をついて通話ボタンを押した。微かな緊張は先程までの苛立ちを消すほどの威力をもっており、ただひたすらコール音に耳を澄ませる。
(…早く出ろよッ…)
 そんな要の心の声を聞いたかのように、トゥルルと鳴る音が途切れた。
「…もしもし…?」
 しかし、繋がった電話は望んでいた声ではなく、面白味も何もない留守番電話サービスの女性の声を伝えた。ちっと小さく舌打ちをしながら通話をきり、要は詰めていた息を一気に吐き出しながらハンドルへと凭れた。
 前に止まっていた車にカップルが乗り込み、ブルンと必要以上にエンジンをふかし高い音をあげながら走り去る。開けた視界の先では、駐車違反の車に困りながらも何とかバスに乗り込む老人の姿があった。自分ならば何とも感じない歩道と車道の段差も体力のないものには助かるものなのだろう。縁せきがないのでいつも以上に高い階段の手摺を必死に掴みよじ登るようにして上がる姿をぼんやりと眺める。
 中の客は何故手を貸さないのだろうか。運転手はどんな顔で老人を見ているのだろう…。
 どうでもいいことが頭の中で回り、要は再び額をハンドルに押し付けた。
(何をしているんだろうか、俺は…)
 手の中の携帯をもう一度操作し、今度は別の場所に電話をかける。
 三度のコールの後通話に出たのは、予想はしていたが望んでいる者の声ではなかった。
「…真中、いますか?」
 自然に不機嫌になる声を隠す事もせずに、要は名前も名乗らずに用件を切り出す。これは賢い方法ではないとわかっていても、礼儀正しくということはしない。いや、したくない相手なのだ。
「……」
 短い沈黙が、永遠に続くかのような緊張感。それを振り切るために、「いるんですか?」と要はもう一度声を荒げた。
 相手は眉を顰めているのだろうと思うような声で答える。
「いえ、居りません」
 自分に負けないくらい不機嫌な声。だが、他の者が聞けば何の色も含まない声に聞こえるのだろう。敵対しているもの同士だからわかるというもの。
「葉山要さんですね」
 確認ではなく、自分にはわかっているのだということを要に教える言葉。それに侮蔑が混じっているように感じるのは、単なる思い過ごしではないだろう。
「きちんと名前を名乗れないのなら、今後一切電話はしないで頂きたいものです」
 鼻で笑い出しそうなほどの馬鹿にした声。それでも、子供などとるに足らないといった余裕を教える。要の頭に憎たらしい声の主の顔が浮かぶ。今はきっと受話器を片手に持ちながらも、重要な相手ではないからと仕事に目を戻しながら自分をあしらっているのだろう。冷たい目でパソコンの画面を眺めているのだろう男の顔に、要は舌打ちを落とした。
「…あんたの電話じゃないだろう。そんなこと言われる筋合いじゃねーよ」
「確かに私の所有物ではないですが、使用しているのは大抵私です。自分が不機嫌になるという被害を被るわけですから、それをあなたに伝えるのは正当なことだと思いますが。
 あなたこそ、文句があるのならここへ電話をかけなければいいでしょう」
「…文句なんてない。突っかかってきたのはそっちだろう。俺は生憎生まれが良くないので、電話の作法なんて知らないんだよッ」
「生まれではなく、あなたが礼儀知らずなのでしょう。今のは家族に対する暴言ですね。
 しかし、私もあなたより年嵩の者ですからね。不本意ではありますが、世間一般の礼儀をお教えしましょうか。その頭に入る可能性は極めて低そうですがね」
「ウルサイ! 結構だっ!
 それより、真中は何処だよ」
「仕事で出掛けています」
「だから、何処へ」
「お教えする訳にはいきません」
「……」
 この男に食い下がっても意味のないことだと知っている要だが、理解するのと納得するのとは訳が違うというもの。だが、少しでも情報の欲しい自分としては、どんなに理不尽であろうと言い返してはならないのだ。
 要は見えない事をいい事に、腹立たしさに引き攣らせた顔で、別段何も思っていないような自然な声を出そうと努力した。すると、頬がぴくぴくと痙攣し、少しおかしな声が出た。
「何時頃帰る?」
「…さあ、どうでしょう。存知あげません」
「おいっ」
 この男が知らないはずがないというのに、そんな答えを素っ気無く述べる男に声のトーンを落とす。
「嘘ではありません。数日間は戻らない事は確かというだけで、それ以外の予定はわかりません」
「…なら、至急連絡が欲しいとあいつに言ってくれよ」
「こちらからは連絡出来ません」
「はあ? ったく、一体何の仕事だよ。携帯も留守電だし…。夜なら携帯繋がる…?」
「いえ、無理でしょう」
「……何なんだよ…」
 自分は連絡を取りたいと言っているのだから、普通ならその方法を示してくれても良さそうなものだと言うのに、この相手は質問に短く答えるだけで協力などする気がないのだ。それを十二分にわかっている要には溜息を落とすしかない。声を荒げては、どうにもならない。
(俺も我慢強いと言うか、大人になったよな…)
 しみじみとどうでもいい考えを浮かべながら、数度息を繰り返し自らを落ち着かせて、少々癪に障るが頼み事を口にした。
「じゃあ、向うから連絡あった時でいいから、さっきのこと伝えておいて」
「わかりました。気が向いたら真中にお伝えします」
 それなりに妥協して頼んだものをあっさりと蹴り返され、要は瞬時に頭に血を上らせる。
「気が向かなくても伝えろっ! てめぇは秘書だろうがッ!」
「ええ。ですから、その判断は私にあるんですよ、葉山要さん」
「ムカツクッ! ホント、ムカツク野郎だな、あんた!」
「そうお思いになるのでしたら、今後一切コンタクトを取らないで頂きたいものです。
 では、用件はそれだけのようなので、失礼します」
 まるで準備していたかのように、最後の一音と同時に通話が切られた。
「…畜生ッ!」
(今日は厄日か!?)
 要は乱暴に通話を切った携帯電話を助手席に放った。それでも腹立たしさは収まらず、ガンガンと掌でハンドルを叩く。そうしているうちに叩く場所を誤り派手にクラクションを鳴り響かせてしまい、要は大きな息を吐いて手を止めた。突然騒音をあげたことに驚いた歩行者が車を覗くようにして歩いたが、直ぐにその視線も外れていく。
「…ったく…。役立たずが…」
(何処に行ったんだよ……)
 意を決して掛けた電話は、手がかりはおろか逆にそれを潰してしまう形となった。電話の相手は自分が真中を探しているとわかったら何が何でも邪魔をしそうな男だ。
(それでも…、…今どうしてもあいつに会いたかったんだよ…っ!)
 そう思ってしまう自分がとてつもなく情けない。縋り付こうとしている自分に気付き、要はやり切れない気分になった。
 植え込みの向うの対向車線を走る車に目をむける。数時間前にそこを走った時は、こんな状況に陥るなんて事は全く考えていなかった。病院に行き兄に会って、暫く世話になるから仕事を早く終えて帰って来いよと念を押しておこう。そうでなければ、仕事馬鹿な面がある兄ならば帰ってこないかもしれないからな。そんな事を考えて笑っていたというのに…。
 とてつもなく惨めな気がした。
 あの少年を追い出す事など不可能だとわかっているが、認められない。どうしたらいいんだと怒りに任せて出てきたが、頼みの綱は行方知れず。そして、対策ばかりではなく単に男に縋ろうとしていた事と、打つ手がなくて逃げ出すように少年に後ろを見せ出てきた事に気付き、どうしようもないくらいに悲しくなった。
 何もかも全てが上手くいかない。
(…俺にどうしろっていうんだよっ!)
 自分には何処にも行く所がない…。それでもここに止まっているわけにも行かないと、要はハンドルを握った。
 空は嫌になるほど晴れ渡っており、冷房を聞かせた車内だが、窓から落ちる強い陽射しを受けると汗をかくほどだ。カラッとした天気と言うよりも、焼き付けるような暑さは殺人的だと言えるだろう。この中に居続けたら直ぐに体は溶けてしまいそうだ。
(……それも悪くはないのかも、…なんてな)
 馬鹿げた発想に喉を鳴らす。だが、そんなことでは心の中の苛立ちと悲しみの霧は消え去りはしない。
 小さくうずく胸の痛みに目を瞑り、要はアクセルを踏み込んだ。

2002/09/11
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