|| 1-3 ||

 ガードレールに腰掛けビルを見上げる男の後ろに車をつけると、さすがに驚いたのか、相手は慌てるように振り返った。しかし、止まったのがタクシーであったからだろう、立ち上がり数歩下がる。変なところで常識的な行動をとる男が、疲れた仁科の癪に触った。
 運転手にドアを開けて貰い、少し硬い表情をする男に声をかける。
「乗れ」
 こんな所で長居はしたくない。不審なこの男以上に、今は依頼者の方が厄介だった。もしも自分と会う為だけに残っていたのならば、今直ぐに出てくる可能性があるのだ。こんな場面を見られ不審を抱かれては、今までの努力も今後の計画も無駄になりかねない。この仕事自体が失敗しようとどうしようと興味はないが、その原因が自分であるのは避けたいものだ。熊谷と小畑に何を言われるか、わかったものではない。
「聞こえないのか、乗れよ」
 胡散臭そうに中を伺う男に、早くしろよと急かす。しかし、重なった視線に、仁科は次の言葉を無くした。
 予想以上に重く深い視線に、全身を探られる。それは緊張を覚える程強く、逃げる事は適わないくらいに強引で不快なものであった。先程付き纏ってきていた時とは全く違う、その眼の強さは、凶器とも言えよう。まるで、拳銃の照準を眉間に定められたようだ。理屈ではどうにもならない緊張が、体を縛る。
「…あぁ、なんだ」
 漸く合点がいったのか、不意に表情を崩した男は肩を竦め、小さく喉を鳴らした。それと同時に呪縛が解かれるが、身体は硬いままだ。直ぐには戻らない。
「誰かと思えば、さっきの眼鏡クンか。あんた、その格好の方が若く見えるな。俺とそう変わらないと思ったが、幾つなんだ?」
「……黙れ。乗れと言っているのが理解出来ないのか。それとも無理やり引きずり込まれたいのか?」
 内心の動揺を隠し、仁科は低い声で告げる。電車の中で感じた一般人とはどこか違う雰囲気は、思い過ごしであったという訳ではなさそうだ。一体、この男は何者なのか。再び肩を竦めながらも、素直に車へと乗りこんできた人物を観察する。
「そう見つめるなよ、照れるぞ」
「……」
 ふざけた言葉を口にする男からは、やはり危険な匂いはしない。だからこそ、軽はずみと言えそうな接触に踏み切ったのだろうが、本当に安全だという保証など何処にもなかった。しかし、今更退けはしない。
 相手に警戒を与えない程やり手の人物であるのかもしれないが、その可能性を考えたところで、やはり恐怖はわかない。だが、能力を隠す謎の男が隣に居る、その近さに緊張を覚える。仁科は脚を組みながら、無意味だとわかりつつも斜めに体をずらし距離を稼いだ。
 昔から悪い事を繰り返してきた自分の勘を、頼りきってはいないが信頼はしている。大丈夫だと感じる自分のコレが、果たしてどれだけ根拠があるのか、述べろと言われても難しい。だが、他人には説明出来なくとも、自分の命を掛けられる程度には信じてもいいと思っている。それで痛い目を見たとしても、自分が馬鹿だっただけなのだ。他人の意見に左右されての安全よりも、断然マシだろう。
 安全はなくとも、問題はない。
 仁科は硬い体を解すように息を吐き、男の眼に眼を合わせた。重なったそれは、野良犬並の強さしかない。先の視線に比べれば、馬鹿にしているかのような味気なさだ。
「それで、何処へ連れて行ってくれるんだ?」
 発する言葉もまた、ふざけきっている。
「携帯を返せ」
「さて…何の事かな?」
「このまま警察へ行きたいのか?」
 もしも何らかの目的で自分に近付いたのだとしても、それに協力する気は全くなく、その理由にも興味はなかった。男が勝手をするのならば、こちらも同じ事をするまでであり、何もわからないのだから示されるその態度を相手にするしかない。脅したところで納得のいく答えなど返しはしないだろうし、自分とて信じる事は出来ない。ならば交わす会話になど意味はなく、己の思うように進めるのみ、だ。
「身包み剥がして探せとでも言うのか、おい。俺に手間をかけさせるのなら、それなりの覚悟をしろよ」
 そう、抵抗するのなら従わせるまで。主導権を握るのはあくまでも自分でなければならないのだと、仁科は強い視線を男にむけた。
「さっさと出せ」
「待てよ。俺をひん剥いて携帯電話が出てこなかったらどうするつもりだ?」
「知るか、そんな事。疑いを持たせる方が悪い。何より、お前が知らないはずがないだろう。いい加減返せ」
「落としたんじゃないのか?」
「だとしても、それを拾えるのはお前だけだっただろう。俺の後にくっついていたんだからな」
「成る程ね、確かにそうだ。だがそれにしても強気過ぎやしないか。もし間違いだったら――」
「うっせえッ!」
 仁科は低くそう言うと同時に、男の組んで宙に浮く靴底を蹴りあげた。痛みはないだろうが、思わぬ攻撃に男が目を丸くする。
「人が大人しくしてりゃ、ペラペラ喋りやがって。調子に乗ンな」
「――お客さん、揉め事はちょっと…」
 ちょっと、何だ。最後まではっきり言いやがれ。運転手の言葉にカチンときた仁科だが、諸悪の根源である男に「まあ落ち着けよ」と宥められ、矛先が戻る。
「てめぇが言うんじゃねぇよ」
「何か関西のツッコミって感じだな。絶妙な切り返しだ、巧いなぁ。出身はあっちなのか?」
「…殺すぞ」
「ははは、それは勘弁して欲しいな。俺はまだ死にたくはない。って。いや、それにしても。さっきまでと全然違うな、あんた。柄が悪過ぎるぞ」
 睨むな怖い、とそう言いながらも楽しげに笑った男は、謝罪を口にしながら漸く仁科の携帯電話をジャケットから取り出した。やはり持っていたのかと、眉間に皺を寄せ更に睨み付ける。しかし、そんな視線など全く効きはしないのか、仁科が手を伸ばすとそれを避け、男は携帯を遠ざけた。
「……返せ」
「まあ、そう慌てるなよ。頼みを聞いてくれるのなら、直ぐに返すから」
「頼み…?」
「言っただろう、今夜泊めてくれと。迷惑はかけない、雑魚寝で充分だからホント頼むよ」
 確かに先程そんな事を言われたような気もするが、まさか本気だったとは。仁科が軽く目を見開くと、どこか少し照れるかのように男が苦笑を浮かべる。
「こんな事をしてしまう程、かなり切実だったりする。悪いが、ここまできて折れる気はない。頼むよ――携帯、大事なんだろう?」
「……スリの次は脅しか」
「人聞きが悪いな。俺は頼んでいるだけだ」
 手の中で携帯を弄びながらのそれは脅迫以外の何ものでもなかったが、言い返すのも面倒になり、仁科は片手を男に差し出した。
「この為に、盗んだのか?」
「悪かったよ、本当に。誓って、中身は見ていない」
 そんな事はもうどちらでも良かった。売られる喧嘩を買わない訳にはいかないような、そんな負けん気ばかりが強くなっており、己が被る痛みなど気にもならない。元より、他人が傷つく事と同様に、自分が傷つく事にも関心が薄いのだ。仕事での責任など、二の次である。今は、このまま終わらせれば独りになる事は出来るが、与えられた苛立ちをそれなりにやり返さねばとてもではないが眠れそうにない状態である事が、仁科にとっての現状だった。
 宿を求める男が何者であろうとも、どれだけ頭がイカレていようとも、数発殴りつけるぐらいの事をせねば気は済みそうにない。しかし、この場で手を挙げれば、二人揃って車を降ろされるだろう。疲れている中で、そんな馬鹿げた行為をする気にはなれず、また男ひとりを蹴り落とす手順を踏むのも面倒である。とりあえずは、このまま帰宅するのが一番であるのだろう。
「判った」
 そこまで言うのならば仕方がないと、溜息交じりに仁科は頷きを落とす。
「今夜だけなら、良いだろう」
「泊めてくれるのか? やけに、あっさりしているな」
「疲れてるんだ、俺は。これ以上お前と言い合う力はない」
「若いのに情けないな、あんた。ちゃんと食っているか?」
「…お前は外で寝たいのか?」
「まさか、そう直ぐ怒るなよ。有り難く泊まらせて頂きます。助かるよ、サンキュー」
 交渉成立だなと笑いながら、男は仁科に携帯電話を戻して来た。それに続き、仁科はもう一度手を出す。
「身分証明になるものを出せ。どこの誰かも知らない奴を泊めて損をしたくはないからな」
「別に何もしないぞ、俺は」
「そっちがそのつもりだとしても、俺にはわからないし、馬鹿正直に信じる気もない。何の理由があるのかは知らないが、泊めて欲しいんだろう。ならば俺に保険くらい与えろ」
「確かに。放り出されたくなかったら、従うしかないな」
 取り出した財布から抜き出した一枚のカードを、男は長い指の間にはさみ向けてきた。気障な仕種だと感じながら抜き取ってみると、それは何て事はない味気の無い運転免許証だった。取り戻した仕事用の携帯を起動させながら、仁科は小さなそれで読み取れる情報を確認する。
 名前は、小竹成昭。本籍は静岡、住所は東京。男はこの夏で28歳になっており、仁科より3才も上だった。初めて免許を取得したのが16才の時の原付であり、それと同じ年に普通自動二輪をとっている。そして、18才の時に普通自動車。紛失の為か再交付が1回。
 たいして役に立たない情報であり、免許証自体本物かどうなのかすら疑えばキリはないが、記録をしておいても邪魔になるものでもないだろう。
「撮るのか?」
 仁科が携帯電話と手の中のカードとの距離を調整していると、その意図に気付いた男が苦笑を落とす。
「預けておいても別にいいけど」
 そんなに心配なら持っていれば良いと男は促してくる。だが、それはそれで面倒であり、これ以上の余計な荷物は遠慮したかった。
「名前、何て読めばいいんだ。コタケか、シノか?」
「惜しいな、シノウだ。シノウナリアキ。あんたは?」
「佐藤。佐藤大助」
 免許証を返しながら、仁科はすらりと偽名を口にする。学生時代から適当に名を偽り遊んでいたお陰で、罪悪感など微塵も湧かない。だが、まさかそんな経験が役に立つ職に付くとは、あの頃は思ってもいなかった。人生何があるかわからないものであり、それはこの仕事を始めて頻繁に思う事でもある。
 ちょっとした刺激を得る為とはいえ、見ず知らずの怪しい男を部屋に招き一晩過そうとするとは。いくら逃げる算段をつけられたからこそとはいっても、数年前までの自分ならば有り得ない事だろう。自ら面倒を背負い込むなど馬鹿でしかないと、そう思っていたのはついこの間の事だと言うのに。
 性格が変わったのか、神経が図太くなったのか、それ以外の何かがあるのか。少なくとも今の自分は守られるのが当然な子供ではないなと、小さいが大きくもある違いを発見するがそれもどうでも良いもので、仁科はひとつ欠伸を零す。大人である責任感など更々ないが、同じ罪を犯しても、年齢により罰せられ方は違うものだ。この世の中、子供の方が、生き易い。
 尤も、今は有り難い事に、人権だ何だと自惚れた者達が、頭のいかれた者を大人であっても庇護してくれる。異常でなければ人など殺さないだろうに、おかしな制度だ。
「佐藤大助さん、か。っで、幾つなんだ?」
 間延びした声で偽名を口に乗せるこの男をここで刺し殺せば、果たして俺には何年の実刑が下りるだろうか。雇う弁護士にもよるだろうが、十年にもならないだろうなと考えながら、仁科は無意味な問い掛けに律儀に答えを返した。その理由はひとつ。応えなければ、余計に男は煩いだろうからだ。
「幾つでもいい、勝手にどうとでも思っておけ。そこまで教える気はない」
「つれないなぁ」
「俺はお前と連れる気はないよ」
 軽く肩を竦め、仁科は再び欠伸をした。怒りが通り過ぎたからか、何はともあれ携帯が無事に戻ったからか、仕事が一段落着いたからか。急激に襲って来た眠気に、深く体をシートに預ける。車の振動が心地よく、自然と瞼が落ちた。
「――聞かないのか、あんた」
「…何の事だ?」
 暫く続いた沈黙を破ったのは、僅かに漂っていた軽薄さを消した男の低い声だった。チラリと目だけで隣を伺うと、小竹は窓の外に顔を向けていた。夜鏡となったガラスに写る表情はどこか固く、自分と同じく流石にこの男も疲れているのだろうと仁科は思う。
「何故こんな事をしているのか不思議に思わないのか?理由を知りたくはないのか?」
「必要ない」
 仁科の言葉に小竹はゆっくりと振り返り視線を絡め、意味が掴めないと言うように眉をあげた。
「何故?」
「既に俺は自分の中で折り合いを付け割り切った。聞いたらまた、自分を納得させなければならなくなるのかもしれないだろう。それは面倒だから、もういい」
「…成る程、確かにそうだ。だが、俺は本当に悪いと思っているんだ。理解までとはいかずとも、あんたにもっとわかって貰いたいな」
「……」
 悪いと思っているのならばこんな面倒をかけるな、今直ぐ車を降りろと言いたくなったが、やはり今更それも馬鹿らしくなり聞き流す。罪悪感が浮かび、自己満足の為にする言い訳など、相手には出来ないというものだ。弁解は効果のある者にせねば無意味であるのを、この男は知らないのだろうか。だとしたら、小竹成昭という人物は、随分と生温い家庭で育ったらしい。勿論、これが演技でなければの話だが。
「実は、ちょっと面白くない事があってさ、今日。独りになりたいというか、少し自分の居場所から離れてみたくなったんだ」
 そんな自身の幼稚な思考に呆れたのか、軽く喉の奥で笑いながら言葉を紡ぎ、小竹は再び窓の外へと視線を向けた。本当に自分勝手な男だと呆れたが、黙らせるのも骨が折れそうなので放っておく事にする。興味も感心もないが、意地になって遠ざけるほど疎うものでもない。頭に入れなければいいだけの事なのだから。
 だが。
「俺にはさ、部下というか守役とでもいうかそんな奴が常にいて、ひとりになるのは難しいんだよ、とても。逃げるとは余り言いたくはないが、それに近い形で抜け出して来た今、そいつは俺の居所を探しているわけで、こっちもいい加減な場所には身を置けないんだ。ムカツクほどに優秀な男だから、ホテル等は勿論、商売女の処であろうと行けば直ぐ見つかるだろう。ならば、どうしようか。そう考えていた時、丁度あんたが目の前に現れた。流石に、俺自身が初対面の相手を、どんなにあいつが賢くとも見付けられる訳はないだろう。チャンスだと思った。この機会を逃したら、終わりだとな。それに、電車の中で偶然出会った相手の事まで突き止める奴ならば、捕まっても仕方がない。完璧に俺の負けだと認められる」
 そうだろう?とにこやかに向けられるそんな問い掛けに賛同など出来るはずもなく、仁科は沈黙を作った。その間に戸惑いはないのか、小竹もそのまま口を閉ざす。そうなると、それはまるで、今のふざけた説明を受け入れろと、その為の時間を与えられているかのような嫌な静寂が出来上がった。どこまでも腹立たしい男だと、仁科は軽く顔を顰め重い息をあからさまに吐き出す。
「……飛んで火に入る夏の虫、か」
「違う、そうじゃない。言うなれば、渡りに船さ」
 俺にとってはあんたは救いの神様だ。そう言い笑う男を無視し、仁科は財布を取り出した。直ぐにタクシーが停まり、ドアが開く。
「降りろ」
 小竹を促しながら精算を済ませ、車を降りる。辺りを見回す男の背中を見ながら、付人がいるとは何者なのだろうかと仁科は考え、こめかみを軽く押さえた。頭が痛んだのは寒さのせいではないだろう。やはり話など聞かなければ良かったと、舌打ちを落とす。
「さすがに冷えるな」
「…来るならこっちだ」
「そりゃ勿論付いて行きますとも」
 静まり返った細い路地を歩きながら、仁科は短いメールを打ち雇主に送信した。遠回りをすれば、マンション前に車をつける事が出来るのだが、尾行を察する為にはこの方が良いと熊谷に今夜の行動は全て指示されている。彼とて実際に追跡を心配している訳ではなく、自分をこういったものに慣れさせる為にしているのだろう事は仁科にもわかっていた。だがその本心が、調査員教育が目的なのか、己の思いのままに都合良く動かせるただのコマを調教しているのかまでは、よくわからない。一体雇主がどこまで自分を使うつもりなのか、やはり仁科には謎だ。
「佐藤さん」
「何だ?」
「いや、合っているのかなと思ってさ」
「今度は一体何だ」
 マンションのエントランスに置かれているメールボックスをチェックしていると、待たせている男が不明な問い掛けをしてきた。仁科が必要な中身を取り出し小さな扉を閉めると、小竹がそこに張り付く小さな名札を指でパシンと弾く。
「本当はあんた、濱端って名前なのか?」
 良く見ているな。仁科は内心でほくそ笑みながらも表情には出さず、軽く眉を寄せた。面白くない事を聞かれたというように小竹を睨み、けれども仕方がないなというように渋々口を開く。
「間借りをしているんだ」
「間借り? ンじゃあ、その人居るの?」
「濱端はまだ後一年は帰らない。長期出張で今は香港だ」
「その間、あんたが住んでいるんだ?」
「互いにその方が都合が良かったからな。夏になる前からだから、もう半年か。人ン家だが、慣れれば居心地は悪くはない。何より、丁度良い実家を出る口実になった」
 階段を上りながらそう言い、仁科はあえて振り返り、男を見下ろして口角を上げた。細めた目が捉えるのは、薄暗い廊下でもわかる、相手の軽い驚きと安心。
 その理由が真実なのかどうなのかは判りはしないが、自分を引っ掛けておきながら小竹もまた、ある程度の不安を抱いていたのだろうと仁科は考える。強引ながらも自分を見定めるかのように窺う雰囲気、ここは安全なのかと辺りを見回す警戒心。そして、ただ郵便受けの名前が違っただけなのに、直ぐに気付く目敏さ。
 これが演技ならば、騙されていたとしても悔いはない。先程の男の言葉ではないが、完敗だ、どうとでもなるがいい。本心からそう思える。だが。男が種を明かすまでは、自分のやりたいようにやるまでだ。
 しかしそれも、その種があるのならばの話であり、今のところはそれを出される予感はない。
 仁科は辿り着いた部屋の鍵を開けながら、微かに笑い声を落とした。
「どうした?」
「いや、可笑しなものだなと思ってさ」
 会った事も話をした事もない、全く自分とは関わりのない人物の部屋へ、見ず知らずの男を招き入れようとしているのだから、可笑しくて当然だ。こう言えば、この男は自分を詮索するのだろうか。それとも、聞かなかった事にするだろうか。
 逃げているといいながらも、緊迫は全く持っていないようなのを考えれば、この男の性格上は前者であるのだろうと思いながら、仁科は真っ直ぐと小竹を見た。己の素顔を見られるリスクを犯す分だけ、相手の全てを見尽くすように力を込めて。しかし、相手にそれと悟られぬように。
「まさかこの俺が見知らぬ奴に手を貸してやるとは、友人達が聞いたら死ぬ程驚くだろうな」
 口に乗せる嘘を馬鹿らしいと思いはしても、それでも今のように簡単に言葉を紡げられるのは、間違いなく雇主の影響だと仁科は思う。饒舌なこんな場面を見たのなら、それこそ悪友達は内容以上に驚愕する事だろう。
「俺の機嫌がよくて良かったな」
「良いのか、それで?」
 全くそんな風には見えない。そう言い大袈裟に驚く小竹に視線を意図的に合わせ、先程とは全く違う笑みを仁科は浮かべた。
「普段だったら、お前は今頃病院だよ、確実に」
 招き入れる為に大きく開いた玄関扉と仁科の顔を交互に見、果敢にも男は顔半分に笑いを作り口を開く。
「嘘だろ…?」
 怖い訳ではないのだろう、暴力を恐れるタイプには思えない。ならば、小竹に疑心を与えているのはこれまでの自分の行動だと、その声音に確信を抱く。人並に状況観察が出来る者であれば、己の言動はさておき、相手の行動もまたまともではない事に気付いて当前だ。
 男の自分に対する不安を、仁科は心地良いと思う。
「そう心配するな。ココが少しイカレているだけだから俺は」
 仁科は指先で頭を軽く叩きながら、「いきなりキレたとしても、殺しまではしないハズだ。安心しろ」と部屋の中に入るよう小竹を促した。

2005/12/17
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