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 築十三年のこの1LDK物件は、駅からは徒歩十五分と少々不便であり防犯機能も低いが、近くに大企業の社宅団地があるお陰で緑も多く、それなりに人気はあるのだろう。家賃は驚く程も高くはないが、学生がアルバイトで賄うには無理がある値で、住んでいるのは一人暮らしのサラリーマンやOLばかりだ。昼間は仕事に出かけ、夜は部屋に入ったら翌日の出勤までは出てはこない。約七十件のそんな住人のうち、果たしてどれだけの近所付き合いがなされているのか。それは考えるまでもなく、答えがゼロに近い事がわかる。
 事実、この部屋の両隣の住人は二人とも、隣に住む男が入れ替わっても気付きはしなかった。本人に成りすました訳ではなく、ただスーツを着た仁科が堂々と彼らの視界の中でこの部屋の鍵を開けただけで「506号室の濱端某」と認識し、それを管理会社の担当に話した。疑いもせず、「昨夜、お隣さんを見ましたよ」と。その後、濱端の友人として直接管理会社の訪問を受けた仁科が適当な理由をでっち上げただけで、家賃未納にも拘らず未だ部屋はそのまま使う事が出来ている。面白いものだ。
 滞納は既に二ヶ月を大幅に過ぎ、そろそろ三ヶ月目に入ろうとしている。もっと早くに対処されるであろうと考えていたからこそこの役目を引き受けた身としては、腹立たしい誤算だ。ここに来る度、鍵穴に蓋がされているのではないかと密かに期待をしているのだが、残念ながら今夜もそんな事はなく今なおその気配も窺えない。いい加減、仁科としても厭きてきた状態であるので、どうにかして欲しい。だが、自らそれを訴えに行くわけにもいかない。自分が思う以上に、マンションの管理と言うものは、適当なようだ。出来る事と言えば、そう思って溜息を吐くぐらいのものだ。
「へえ、なかなか綺麗にしているじゃないか」
 仁科がこの部屋に初めて足を踏み入れてから、全くと言って良いほど弄っていな居間を眺めていた小竹がそんな感想を溢した。一体何をどう見てこの状態を綺麗と言えるのか甚だ疑問であり、仁科は思わず「嫌味か…?」と問い返す。濱端に荷物を纏め持ち運ぶ余裕があったのか、それとも元々所有していた物が少なかったのかはわからないが、居間には三人掛けのソファとチェストがあるだけだ。散乱気味に雑誌や衣類、その他の日用品が壁際に置かれているが、纏めれば少し大きめのスポーツバッグに全て収まる程の量で、例え部屋のド真ん中に散らばっていても邪魔にもならないだろう。
 この部屋には、綺麗と評するに必要なモノが全くない。
「違うよ」
「ならば、世辞か?」
「それも違う。何故そうなるんだよ、おい。正真正銘の本心だ」
 本心――それが本当ならば、何て安っぽい心かと。相手にする価値もないなと、仁科は心でそう返す。口にまでする義理は一切ないのだから、スルーするのが当然だろう。
「男の一人暮らしなんてさ、普通もっと汚いものだろう?」
 この男の「普通」がどの辺りにあるのか。わからないので肯定も否定も出来はしないが、わかりたくもないのでそれを問い掛ける気にもならない。
「生憎、一人暮らしの男の部屋を訪れ観察する趣味は、俺には無い」
「どういう意味だ。俺だって、別にそんな趣味は持ってないぞ」
 僅かにだが下唇を突き出す男を取り合わず、寝るならそこだとソファを顎で示しながら、仁科は小竹に居間の隣にある寝室から持って来た毛布を手渡した。こんな親切をしてやる必要はないし、相手が風邪を引いたところで微塵も罪悪は感じないが、いま現時点で「掛ける物を貸してくれ」と騒がれるのは五月蝿い。今夜はもう意味のない攻防は、これ以上したくはなかった。気遣いひとつで睡眠時間が長く延びるのならば、精々親切にしてやろうではないか。
「何処でも好き勝手に使えば良い。いちいち俺の許可を取る必要は無い。だが、寝室には入ってくるな」
 声を掛けながら、ジャケットを脱ぐ。部屋の中だというのに、寒気を覚えた。小竹云々以前に、自分が風邪を引きそうだ。しかし、風呂に入る気力は無い。
「俺は疲れている。これ以上手を煩わせるような事があったら、それこそキレるぞ。絡みにくるのなら、覚悟をしてから来い」
 その言葉をどう捉えたのか、小竹が苦笑を零す。
「ハハハ、わかった。了解だ。間違ってもあんたの寝込みは襲わないようにするよ」
 無愛想な男のジョークと思ったのか、勝気な男の不安と感じたのか。センスのない冗談を返す男を暫し眺め、仁科は口を開いた。
「質問は?」
 小竹が自分をどう思いどう感じようが、どうでも良い。
 仁科にとっては、安眠の為の牽制と親切心から出た忠告なので、相手の解釈に興味はない。ただ、これを言う事で、侵入して来た時は遠慮なく落とす事が出来る。法的効力はないが、誓約に変わりはない。
 尤も。そんなものを交わしていなくとも、落としたい時は落とすのだが。
「好き勝手にしていいのなら、特にない…かな。――いや、一応聞いておこうか」
「何だ」
「ここは、禁煙?」
「俺は吸わないが、吸いたいのなら別に構わない。だが、灰皿はないからな。適当に代用してくれ」
「ならば、遠慮なく一服させてもらおう」
 ジャケットの内ポケットから早速小さな箱を取り出し、小竹は煙草を咥えた。一般的な銘柄のそれは女性も吸うだろう軽さのものであり、仁科は小さな違和感を覚える。男には似合わない品だ。
「一本吸ったら、俺も寝させて貰うよ。あんたも気にせず休んでくれ」
 キッチンへと入りながらそう言った小竹は、換気扇のスイッチを入れ、その下で煙草に火を点けた。カチンと音を立て閉じられた手の中のライターに、どうしても視線がいく。耳に心地よく響くその音からして、それなり値が張るものなのだろう。
 安い煙草に、高級なライター。そのアンバランスさはまるで得体の知れない男そのものであるかのようで、仁科は自分の行動を反省しなければならないのかもしれないと、少し後悔を覚えた。
 何があっても関わりを持ってはならない、そんな人物がこの世の中にはいるものだ。そして自分のそれはこの男なのかもしれないと、漠然とだがそう思う。
「何だ? 吸いたいのか?」
 眺めているのが物欲しげに見えたのか、小竹がそう言い首を傾げてきた。
「…いや、要らない」
「だったら、何だ?」
「不味いだろうと思ってな」
「マズイって…コレか?」
 仁科の言葉に、小竹は指先で持った煙草を軽く振る。
「まあ、確かに美味くはないな。いつもの物を切らせてしまったから適当に買ったんだが、イマイチだ。しかし、よく知っているな。もしかして、止めたクチか?」
「そんなところだ」
 そう答えはしたが、実際に喫煙を習慣として身につけた事など、仁科には一度もない。付き合いなどで極たまに口にする程度であり、吸っても数本程度だ。味が判るほど慣れているわけでもなければ、それ以前に味わう余裕がない。不味いだろうと言ったのは、ただ男がそれを吸いなれていなさそうな勘から、適当に吐いただけの事だ。特に意味はない。
 だが、小竹はそう感じなかったのか、会話がしたくなったのか。話を続けてくる。
「いいねぇ、それは。俺もそろそろ止めようと思うんだが、なかなかなァ。これだって、この機会にと軽いヤツにしてみたんだが、全然駄目だね。吸っている気がしない。なあ、アンタはどうやって止めたんだ?」
「暗示」
「アンジって…、催眠術か?」
「俺には煙草は不味いという暗示がかかっている」
 話を切り上げて寝る方が賢いなと思いながらも、仁科は人差し指でトントンと、額を軽く叩いた。会話を発展させる気はないが、このくらいは、まあいいだろう。就寝前の軽い頭の運動だ。
「嫌いにすると、何かと不便だからな。嫌煙家は多くなったとは言え、相手によってはそれをアピール出来ない時もある。だから、不味いと言う風に覚えさせた」
「本当か…?」
「ああ。だから、今も吸えない訳ではない。ただ、美味く感じないだけだ」
「へぇ〜。暗示ねぇ」
 感心したように頷きながら、小竹が大きな煙の輪を吐き出した。換気扇に吸われ歪んだそれは、直ぐ上昇しながら消えていく。
「……」
 何気に視界に入れたその動きに、仁科は不意に息苦しさを覚えた。動悸が増す胸を片手で押さえる。じっとりと、額に嫌な汗が浮かぶのを感じた。
 暗示などという馬鹿げた発言は、当然ながら真実ではない。だが、語った事全てが出鱈目だと言う訳でもなかった。事実、煙草は吸えるが、美味いとは感じない。しかしそれは、暗示を掛けているのではなく、ただの体質だ。昔から煙草を吸えば、体調面に影響が出るのではなく、精神的に追い詰められる。痛みや吐き気などといった症状が出るのではなく、自分の中から根こそぎ気力を奪うように、襲い掛かってくるのだ。暗示などではどうにもならないものを、仁科は抱えていた。
「ん? どうかしたのか?」
「どうもしない」
 掛けられる声に反射的にそう返しながら、シャツを掴んでいた手で髪をかきあげる。
 普段ならばこの自分の体質は、考えようと仕方がないものだと気にもしない。必要に駆られて喫煙する時も、無気力をカバー出来るだけのものがある時だけだ。煙草が原因で酷い目にあった事は、特にない。それなのに、他人の喫煙を見ただけで軽い症状が現れたのは、多分きっと疲れているからなのだろう。
 身体機能が衰えたわけでも、症状が悪化したわけでもない筈だ。
「…俺は遅くまで寝るつもりだ。帰る時は、鍵は掛けなくともいいから勝手に出て行ってくれ」
 じゃあなと仁科が体を翻すと、「あぁ、お休み」と挨拶が返ってきた。自分も同じ言葉を返そうか。そう考え答えを出すよりも早くに、寝室の扉は閉まってしまう。何に対する溜息なのか。自分でもわからないまま重い息を吐き、仁科はシャツとスラックスを床へと脱ぎ捨て、ベッドへと潜り込んだ。
 眠りは直ぐに訪れるだろう、疲れ切った体から力を抜く。しかし、ふと用事がひとつ残っている事を思い出した。重い腕を上げ、閉じたばかりの瞼をこじ開ける。装着したままだったコンタクトレンズを外し、手探りでベッド脇のゴミ箱へと捨てた。
 とりあえず、後は寝るだけだ。
 壁一枚隔てた向こうにいる男が何をしているのか気にはなったが、伺う程の気力は仁科には残っていなかった。


 深い眠りにつく事が出来たのか、目覚めたのはそう遅くもない時間だった。だが、既に居間に小竹の姿はなく、だらしない格好のまま仁科は寝室を出て浴室へと向かう。
 キッチンには薄くはない煙草の匂いが残っていた。あの可笑しな男が出て行ってから、そんなにも経っていないのだろう。
 熱いシャワーを浴びながら、仁科は小竹の事を考えた。本当に、ただ寝るのが目的だったのだろうか。疲れていたので、多少は自分の勘を疑っていたのだが、運良くそれは外れてはいなかったのか、どうなのか。まだ、これで決めるには早いだろう。だが、男が居ない事実に拍子抜けもする。泊めてくれと馬鹿な事を言ったのは、濱端某の関係者からなのかもしれないと勘繰っていた身としては、普通に目覚めてしまった事にすら突っ込みを入れたくなってしまう程だ。
 一体、あの男は何だったのか。訳がわからない。
 洗った髪をそのままに、タオルを首に掛け、部屋へ戻り広くはないそこを見渡す。別段、リビングに変わったところはなさそうだった。そこにある物全てが、今は何処に居るのかも判らない人物のものなので、例え盗られたとしても問題はない。小竹が濱端と何らかの関わりを持っていたとしても、仁科にとっては自分がこうして無傷であるのならばそれで良かった。それこそ、この事により濱端がどうなろうと、自分が何かの対象になろうと興味もない。昨夜の行動は、それらを全て考慮し納得してのものだ。今更、無限にある可能性をあげる事も、ひとつしかない真実を探す事もしたくはない。やるだけ無駄だ。
 仁科としては、可笑しな男に関わった過去が出来ただけで、それを未来に繋げる気は全く無い。
 それでも、一応は仕事だからと、寝室の私物も調べてみたが、こちらも手を付けられた形跡は一切なかった。念の為に昨夜盗られた仕事用の携帯をチェックしていると、鞄の中からもう一方の携帯が音を立てる。
 熊谷だ。鬱陶しい。だが、無視をすれば後々どうなるのかわかっているので、とりあえずは通話を受ける。
「はい、仁科」
 第一声から不機嫌な声であるのは、いつもの事だ。
 そして、熊谷が仁科のそれを全く相手にせずに用件を切り出すのも、毎度の事であった。しかし、実は不貞腐れたような部下の声を上司が密かに笑っているのを、仁科は知っている。だが、知っていたところで、指摘はしない。敢えて仁科が藪を突かなくとも、この男は出る時には勝手に出てくるのだ。指摘は必要ない。
『休みのところ悪いが、夕方事務所で電話番をしてくれないか? 外せない用事があるのなら仕方がないが、どうだ?』
「別に、いいですよ」
 休暇が潰れるのはいつもの事で、抵抗する気にもならない。時計を見ると、午前九時を回ったところを指していた。今日これからの予定を考え、仁科は確実に向かえる時刻を口にする。
「四時頃で良ければ行けます」
『それでいい、助かるよ。だが、何だ? 25歳になろうかと言う男が寂しいなぁ。休みを一緒に過ごす女も居ないのかよ』
「あぁ、そうだ。今日この部屋から俺は引き上げるんで、後はお好きにどうぞ」
 軽口を叩く熊谷の相手はせず、仁科はいま思い付いたような軽さでそう宣言した。確かに、外せない用があると言えば無理強いはしない男だが、その後も無事で居させてくれるとは限らない。そんな熊谷相手に張るプライドを仁科には持ち合わせておらず、恋人云々に乗る必要はなかった。たとえ色っぽい話があったとしても、優先させるべきなのが仕事であるのには変わりなく、今ここでその考えについて上司と語り合えはしないだろう。肯定でも否定でも、何かひとつを返せば、拘束時間は長くなるはずだ。
「何か必要ならば、出て行く前にやっておいてもイイけど?」
『――どうした急に。何かあったのか?』
 態とらしく一呼吸の間を置き、熊谷が静かにそう言った。
『もう少し居ろよ』
 まるで、全てを知っているかのような声音。この男のこういうところが嫌いだと、見えないのを良い事に仁科は盛大に顔を顰める。決して熊谷とて、自分に続行させたい訳でも、継続を望んでいる訳でも無い筈だ。それなのに、敢えて子供を宥め諭すような声で語る男が憎たらしい。いつか、黙るまで殴ってやりたいものだ。
「来週には今月分の支払日が来る。三ヶ月の未納だ、潮時だろう」
『まぁ、そうだなンだが』
「まだだと思うのなら他の奴に頼んで下さい。俺は昼にはここを出て、暫くホテル住まいしますンで」
 では、と。そのひと言を挨拶に通話を切ろうと仁科の耳に、若干延びた上司の声が届く。
『お前に頼まれていた物件なぁ、ちゃんと見付けているぞ』
「…………」
『ビジネスホテルも馬鹿にならないだろう、そこへ行けば良い。今日から入居すると、管理人には連絡しておいてやるよ』
 熊谷はそう言い、どこか勝ち誇ったような笑いを落とした。仁科は通話口に悪態を送り込む。
「…死にやがれッ、クソッタレ!」
 普段は自分もそれなりの歳なのだからと、敬語まではいかずとも言葉には多少気をつけるようにしている。だが、それは相手に対する敬意からはなく、ただ無難に事を進める為にやっているに過ぎない。故に、それを実行する仁科には誠意が欠片もないので、維持し続けるのは思う以上に難しい。熊谷が相手の場合は特に、だ。
「テメエの葬式には、花束持って行ってやるよ」
『それはどうも、ありがとう』
 だったら、真っ赤な薔薇を頼むとするかな。
 まるでそれが褒め言葉であるかのように、そう返される穏やかな声を聞きながら、この男は自分を苛立たせる天才だと仁科は思う。元々自分も気が短い方であるのは自覚しているが、それ以上に相手の腹は黒いのだろう。その足元にも及ばないくらいに、何枚も上手である。勝てるわけがない。そう、勝てるわけがないのだが……それでも、ムカツクものはムカツクだ。
 鼻白む仁科に新居となるマンションの住所を告げ、熊谷は再び軽く笑い通話を切った。彼にとっては他人の怒りなど慣れたもので、時間をかける価値などないのだろう。特に、その辺にいるケツの青い餓鬼と変わらない認識しかしていない仁科に至っては、からかう事すら暇潰しにはならないのだろう。相手にする意味がないといったところだ。
「クソッ!くたばりやがれッ!!」
 朝から気分が悪いと、仁科は濡れた髪を片手で乱暴に掻き回した。水滴が裸の体に飛び僅かに冷たさ覚えたが、行き場のない怒りは冷める事はない。
 逃げた男の知人を装い、この部屋に住む。それをこの二ヵ月程続けて居たが、始めから期限は切られており、業者が痺れを切らせる前には出る予定だった。今月に入り少し執拗になってきた取り立て訪問に、予定よりは早いがそろそろ引き時だろうと先日熊谷とも話していた。しかし、今となればその会話もどうなのか。自分はあの男にいい様に利用されていただけに過ぎないのだと、仁科は舌打ちを落とす。
 この仕事を終えるまでに、熊谷には新しい部屋を用意して貰う事になっていた。元々、丁度住む所を無くしていたからこそ了承した仕事であり、内容から言ってもそれくらいの報酬は当然のものでもあったので、新居は彼に任せていた。それなのに。
 熊谷は簡単に仁科の出した条件にあう物件を見付けていたにも拘らず、何も伝えてきてはいなかった。潮時だと同意しながらも、もう終われば言いと、住む場所は用意出来たとの事実を口にした事はなかった。これではまるで、仁科が音を上げるのを待っていたかのようだ。
 この結果を熊谷は、自分は我儘な部下の望みを聞き入れたのだとして処理するだろう。事実は違うと仁科自身知ってはいるが、この場合、策に乗せられた方が負けなのだ。敗者は云われなき罪をも被らねばならないのは、戦後生まれであろうと、日本人ならば大抵の者が知っている。例え知らなくとも、勝者が熊谷である以上、問答無用でそれを教え込まれるだろう。戦で負けた者には、何の権利もない。
 完璧に借りを作ってしまった結果に、仁科は奥歯を噛み締める。面白くないなんて感情は簡単に飛び去ってしまっており、今はもう最低最悪だとしか言えない。
 こんな風に、どこかで恩義せがましく熊谷が仕掛けて来るだろう事が判っていたからこそ、まだ暫くはここに居るつもりであったのに。自ら進んで招き入れたとはいえ、仁科の怒りはすでに出て行った小竹へと向かう。
 男を一発殴らなければ気がすまない憤りに、手近にあった携帯を思いきりベッドへと叩き付けた。布団の上でバウンドしたそれは床へと転がり、軽快な音を鳴らす。壊れたのかと、気が滅入る。多寡だか数十センチの落下で何てヤワな奴なのかと、苛立ちが湧く。
 だが、拾い上げ見たそれは、新たな着信を伝えていた。イカレたわけではなかったらしい。
 しかし、壊れてくれていた方が、仁科にとっては良かっただろう。
「…………」
 画面に表示された名前に、昨夜に続き今日もまた厄日なのだと仁科は確信する。そうでなければ、とてもではないが遣り切れはしない。これが日常だと言うのならば、未練もなくこの世から消えてやってもいいくらいだ。
「…はい」
 一気に自分のテンションが下がったのに気付いてはていたが、取り繕う気力は全く湧かなかった。出来れば出たくはなかったが、この数ヶ月掛かって来る電話を尽く無視し、住んでいたアパートを引き払っても連絡せずにいたのだ。そろそろ相手も堪忍袋の緒を切らせる頃であり、今この電話に出なければ職場にまで乗り込んでくる危機もあり、流石にそれは避けたいので出るしかない。
「もしもし」
『もしもし、じゃないわよ。相変わらず、イイ度胸しているわねぇ一希(イッキ)』
 通話口から聞こえて来た伯母の声は、予想以上に不機嫌なものだった。

2006/01/14
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