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 基本的に他人に敬意を持つ事が無い自分が、それでも頭が上がらない人物を挙げねばならないのだとしたら。それは間違いなく、この女性になるのだろうと仁科は思う。誰かに孝行をするのならば、実の母親ではなくこの伯母に対して行うべきだろう。そう思う程度に、自分は世話になっているのだという意識はある。それを認めるくらいに、美奈子は特別だ。
 だが、特別だからといって、それを敬う気はない。従う気もない。感謝を示す気すら、ありはしない。
『貴方、いま何処にいるのよ。部屋を引き払ったのなら、一言ぐらい連絡しなさい』
 挨拶を挟む暇も無く続けられた小言に、仁科は憚る事無く溜息を吐いた。聞きとめた相手がどう思おうが、どうでもいい。逆に、何て態度だと怒って通話を終えてくれる方が嬉しくもある。
『どれだけ心配したと思っているの』
 それを頼んだ覚えもなければ、させたつもりもない。自分の入院や死亡に関する偽りの情報は、誰の元にも届いていない筈だ。ならば連絡が何も無い事こそが生きている証拠だろう、心配する方が理屈に合っていないなと思いながら、仁科は小言を吐き続ける叔母に言った。
「忙しかったんだ。悪かったよ、美奈子さん」
 棒読みをする程、相手を舐めている訳ではない。だが、どんなに感情を込めようとも、嘘は嘘でしかなく、甥のそれを見抜けない程この伯母は鈍感ではない。
『嘘ばっかり。口先ばかりの謝罪なんて要らないわよ』
 予想通りの言葉を聞きながら寝室の扉を閉めた仁科は、「手厳しいな」と短い笑いを落とした。笑ったのは、昔から変わる事がない美奈子に対してではなく、ただの流れだ。
 自分自身感情が篭っていない事をわかりつつも、それでも謝罪を口にするのはそれ以外に言えるものがないからであり、非難されてもどうにもならない。第一、美奈子自身が心からの謝罪を望んでいる訳でもないというのに、これ以上の努力もするだけ無駄だ。そう判断し、仁科は軽く笑って流す術を選ぶ。
 しかし、美奈子はそれを良しとはしなかったようで、通話口に溜息が吹き込まれた。
『貴方ね、こんな場面でそんな風に笑うのは止めなさい。性格が捻くれているのがバレるわよ』
「何を。今更だろう」
『私にじゃなく、周りの他の人達によ。それじゃあ、同僚にも嫌われるわよ貴方。いい年した大人なんだから、いつまでも学生の時と同じようにチャラチャラしていたら駄目。きちんとしなさい』
「……」
 一体この伯母の中で今時の学生がどんな風に判断されているのかはわからないが、甥の事よりもまずは自分の娘の可笑しさを認識しろよと、今度は仁科が溜息を落とす。根性がひん曲がっていようがどうだろうが、自分の方がまともだ。少なくとも、自分は同僚を疎ましく思っているが、彼らには嫌われていない。
「チャラチャラなんてしていないさ。俺を何だと思っているんだよ。きちんと仕事をしてる24才の男に向かって言う台詞か、それ」
 キッチンへ向かいながら、仁科はあえて軽口を叩いた。実際には、俺に小言を言っている暇があるのならば実娘の調教をしろよと思うが、自分がそれを口にする筋合いはないのだろう。
 従姉妹の麻穂は今時の中学生か何かは知らないが、自分の中での14歳からはかなり逸脱しており、新人種かと言えそうな面を持っていた。殆ど会う事はなかったが、偶然出会い、その異様さに辟易したのは記憶に新しい。顔を黒く塗り知能の発達は望めなさそうな女子高生がまだまともに見えるくらい、馬鹿ではないのだろうが愚かな、理解不能な生き物であった。
 しかし、だからと言って、自分が躾けようだとは思わない。麻穂には取り敢えずはまともだと言える両親がいるのだから、他人が口を挟む事でもないだろうし、関わりを持たない限りどう育とうと影響はない。伯母夫婦が判断し育てればいいのだ。今ここで、自分が彼女の異常さを訴えるのは無意味であり、無駄でもある。
 何よりも、会話を長引かせたくはない。
『本当にきちんとしているのなら、言わないわよ』
「なら、もう言わないでくれ。この話は終わりだ」
 ケトルに水を入れる為に携帯を肩で挟み、思っていた以上に髪がまだ濡れているのに気付く。スピーカー通話に変えテーブルに携帯を置くと、キッチンに美奈子の声が響き渡った。通話口からその変化に気付いたのか、怪訝を示す彼女に仁科は断りを入れる。
『何よ、職場じゃないの?仕事はどうしたの?』
「残念ながら辞めてはいない。今日は昼からなだけだ」
 立場は単なる事務員でしかないのだが、この伯母が興信所紛いでの仕事を良くは思っていない事を仁科も知っている。だからこそ、実際は調査に関わる事もあるのだという事は、一切教えてはいない。だがしかし、それでも何か感じるものがあるのか、美奈子は必要以上に詮索する。それこそ心配をしているのだろが、鬱陶しくて仕方がない。
『無理して働いているんじゃないの?』
「仕事なんだから、そりゃあ多少の無理はするさ」
 執着はないが、二年半勤めたお陰で多少の責任は出来た。いや、責任というよりも、足枷か。逃げ出し難い仕事上の秘密が、蓄積されていっている。就職を決めたのは、正直にいえば成り行きみたいなものではあったが、反対されたところで今はもう簡単に辞められはしない。自分は枷など気にしないが、熊谷は躾けかけたイヌをそう簡単に手放したりはしないだろう。何事でも、損をするのが嫌いな人物だ。捨てる時は、使い切って捨てる筈。
『ねぇ、一希。はぐらかさずに聞きなさい、大事な事よ』
 コンロに火を点け、インスタントコーヒーを適当にカップに入れる。ぼんやりとガスの炎を眺めながら、仁科は美奈子の声を聞いた。その内容は聞き慣れたもので何も思う事はないが、その真剣な声にはいつも感嘆する。よくもまぁ、そう力めるなと。
 確かに伯母であり、生まれた頃から世話になっている主治医ではあるが、勝手にしている25歳になる男相手に向けるものとしてはどんなものなのだろうか。彼女の口煩さは、母が手のかかる子供に対するようなものなのか、医者として患者を思っての事なのか。それとも、愚弟の息子の行く末に不安を抱いてのものなのか。正直よく判らない。
 だが、何にしろ、仁科とて美奈子のそれを多少有り難いとは思っている。どちらの親ともまともな関係を築けなくなった今、伯母の存在は確かに大きい。だが、だからと言って彼女の望む生き方をするのは難しく、従う事はどうしようと出来はしないものであった。
『本当におかしなところはないの?』
「心配ないって、信用してくれよ」
『出来る訳がないでしょう。悪い事は言わないから、一度きちんと検査を受けなさい』
 椅子に座ったまま腕を伸ばしガスを切りながら、仁科は溜息を吐いた。
「それが既に悪い事なんだがな」
『茶化さないの。貴方、来月には25歳になるのよ、分かっているの?』
「知っているさ、自分の歳ぐらい」
 そういう事を言っているんじゃないわよ。そうぼやく美奈子の声を聞きながら、この伯母は何歳だっただろうかと考える。まだ還暦には数年あるのだろうが、とうに50はまわっているはずだ。そう、自分の倍は生きているのだなと、今更だが仁科は改めて実感した。
 果たして、自分は今まで過ごした年月と同じだけの年を生きていられるのか。今のこの伯母と同じ歳を迎える事が出来るのだろうか。肩にかけていたタオルで髪を拭きながら、仁科は漠然と未来を思い描く。
 明日が今この時の延長にあり、一日の積み重ねが十年後二十年後の未来のその日になるのならば、変わらず生きているのだろうとそう思う。ある程度の生活をしている者の多くは、明日も自分は生きていると信じているし、実際に殆どがその現実を手に入れている。遠い未来の事など誰にもわかりはしないが、今この瞬間に死に面していなければ、自分のそれを考える事など余り出来るものではない。
 そう、確かに自分の先は他の者に比べれば朧ではあるのだろうが、それは誰の未来もが同じようなものであり、己が特別な訳でもない。一歩先に大きな穴が開いていようと、落ちるまでは気付かないものだ。
 ならば、今この時、この瞬間だけで生きて何が悪いだろう。先を考える事に、どんな意味があるのか。疑問だ。どんなに慎重に歩こうが、空いている穴には落ちるものだ。だったら、自分はその瞬間までは普通に歩いていたい。
『自分の体なんだから、もっと気にしなさい。結婚もしないわけじゃないでしょう』
 美奈子が急く気持ちもわからなくはないが、何度言われようともそれは彼女の意見でしかなく、己の考えは変わりそうにもないと仁科は思う。こんな事を言っている伯母自身が、自分よりも先に死ぬとも限らないのだ。その心配に付き合う意味が、どれ程あるだろう。
『貴方、そういう相手はいないの?』
「さぁ、どうかな」
『誤魔化さないの。一希、相手にはきちんと自分の事を話さないと駄目よ』
「わかっている。だから、もういいだろう。出勤前に聞いて楽しい話じゃないぜ」
 勘弁してくれよと仁科が音を上げると、それまでの勢いを残しながらも美奈子は素直に謝罪をした。
『説教するつもりはなかったのに、駄目ねぇもう。年をとるのは嫌だわ、ホント。でもね、一希。これだけは譲れないから聞き入れて頂戴。出来るだけ早く、精密な検査を受けなさい』
「考えておくよ」
『考えるじゃなく、絶対によ。岩下には言っておくから、時間を作って来なさい。いいわね、必ずよ』
 忙しいから無理だ。そう言いかけ、開いた口を仁科は閉じた。今ここでこれ以上の押し問答をしたところで、互いに疲れるだけでしかない。
「判っているさ、俺も。大事な事だっていうのは、わかっている」
 神妙な声で応え、仁科は通話を切った。場を治める為には必要な嘘とはいえ、馬鹿馬鹿しさに嫌気がさす。生まれた時から所有するこの身体を一番理解しているのは、美奈子でもその夫である岩下医師でもなく、自分自身に他ならない。それは、絶対だ。
 今のまま、日常生活に支障をきたさない限りは、検査を受けるつもりは毛頭ない。たとえ生きるのが難しくとも、子供が作れない体だとしても、今の自分には余り関心を向けられはしないと、仁科は重い溜息を吐いた。伯母に投げ付けられた言葉が頭で回るが、どんなに考えようとも、彼女の様に危機感を持つ事は出来ない。
 いや、危機感と言うよりも、深刻度合いの違いか。危機はそれなりに感じてはいるが、だからと言って何だというものでもないのだ。自分に大事なのは、今この瞬間であり、明日死ぬとしてもそれは変わらない。一年後生きている確証を強める為に検査を受けようとは、何があろうと思わないだろう。つまりは、そう言う事なのだ。自分は美奈子と違い、己にそこまでのものを求めてはいない。
 飲む気がしなくなったカップを流しに放り込むと、鈍い音をあげた。散らばり水に溶けるコーヒー粉末はまるで腐った血のようで、思わず仁科は舌打ちを落とす。何もかもが苛立ちに変わっていく静かな興奮が、疎ましい。
 幼い頃から、人とは違うと散々言われけなされてきたのだ。同情ではないだろうがそれに似た他人の感情は、自分が己の体を納得している分、鬱陶しいものでしかない。美奈子にすれば、小さな時からそれに対し嘆きひとつ零さない甥が不憫であるのだろうが、もう十分に放っておけばよい年齢に達しているのだ。痛い目を見たとしても、それは自分自身の問題であり、彼女に落ち度はない。だからもう、いい加減にして欲しかった。
 忘れてくれとは言わないが、自分以上に騒がれると、それに比例し己の気持ちが冷める。これ以上、構うのは止めて欲しい。それが仁科の何よりもの本心だ。美奈子に悪気がないのはわかっているが、このままでは不快に耐えられずに反撃にまで出てしまいそうだ。距離を置こうと、敢えて離れてようとしていると言うのに、追われるのは堪ったものではない。
 呼吸をする為に、必要以上に息を吐きだす。しかし、そうして吸いこんだ酸素は、けれどもやけに苦いものでしかなかった。美奈子と話をした後はいつもこうだ。この全ての元凶は、小言を口にした伯母なのか、させた自分なのか。それとも、己をこの世に生み落とした母なのか、人の親だとは言えもしないあの男なのか。生きている事が嫌になった事は一度もないが、こんな時はいつも、何を態々自分はこんなところで生きているのか、不思議に思えてくる。
 自分に絡みつく全てのものを引き千切り捨ててしまいたいと、本気で思う。
 胸に燻る苛立ちに任せ、仁科はテーブルに拳を叩き付けた。携帯が乾いた音をたて、髪を拭いていたタオルが肩から床へと落ちる。
「――そう怒っていずに、朝飯にしないか?」
「……」
 不意にかけられた声に顔を向けると、居間に小竹が立っていた。一体いつからそこに居たのだろうか。警戒心よりも不快感を覚えながら、仁科は男を睨み付ける。昨夜は気にもしなかったが、こうして明るい場所できちんと見ると、どこか垢抜けしていないような感じはするが、雰囲気を持っている男であるのが良くわかった。それは華やかと言うのではなく、男くさいに近いだろうか。纏う空気が、重い。
「…出ていったんじゃなかったのか」
 落ちたタオルを拾い、その動作に続けてゆっくりと立ち上がる。やはり、この男は普通のサラリーマンではないなと、そう思う。だが、思ったところで、何にもなりはしない。ましてや、本人に真実を問い質す気にもならない。素人ではないからこそ、通りすがりの男の部屋に泊まる事が出来たんだなと、その無防備さの理由を知ったところで意味もない。
「いつからそこに居た?」
 仁科の質問に曖昧な笑みを浮かべ、小竹は肩を竦めた。応える気はないのだろうその態度に、出たのはただの、額面通りの言葉だけだ。溜息さえ出ない。
「一晩だけだと言ったはずだ。戻ってくるのは認めていない、出て行け」
 たとえこの男が玄人だろうとなんだろうと、接触を持った事実は変えられはしないのだ。今更慌てたところで、どうにもならない。自分がとるべき行動は、昨夜と同じ。ちょっとした、仕返しタイムが長引いただけだ。
「ま、そう言うなよ。コンビニに行って来たんだ。コーヒーを淹れるから朝食にしよう」
 手に下げていた白い袋を持ち上げ、小竹がキッチンへと入ってくる。逆に、仁科は居間へと足を踏み入れた。だが。
「着太りするタイプなのか?」
 あまりにも唐突な言葉に、無視を決め込むよりも先に反応を返してしまう。
「…ナニ?」
「いや、予想以上に細いんだなと思ってさ。でも、綺麗に筋肉が付いているなぁ。ジムにでも通っているのか?」
 そう言いながら伸ばされた手を、仁科は身体に触れられる前に叩き落とした。何を考えているのだろうか、この男は。理解出来ない奴だと嫌気がさす。何故自分の周りには、こうもイカレた奴が多いのか。ここまでくれば、理不尽さを感じずにはいれらない。世の中腐っている。腐りきっている。
「ちょっと触らせろよ、減るもんじゃないだろう?」
 減らないとしても、それを許可する義務はない。当然のように、仁科はふざけた申し出をする男を睨んだが、けれども相手には効きはしなかった。笑えば許されると知っている子供のような笑みを浮かべ、二の腕を撫で、背中を叩く。
「へぇ、結構硬いな。締まった良い身体をしてるじゃないか。もう少しウエイトがあれば文句なしだな」
「…やめろ、触るな」
「そうケチケチするなよ」
「……」
「俺も前からもう少し身体を絞りたいと思っているんだが、なかなか時間が作れなくてさ。なあ、どれくらいのペースで通っているんだ?」
「…何がだ」
「だから、ジムだよジム」
「知るか」
 鬱陶しいと体に触れてくる手を払い、仁科は寝室へと足を向けた。背中に小竹の声がかけられたが無視をし、扉を閉める。何が、身体を絞りたいだ。そんなものを絞る前に、脳味噌の皺を増やせクソ野郎。
 触られた肌から可笑しな病気でも感染されてやしないかと、仁科は両手で腕を抱くように強く擦りながら、適当に服を選びながら舌を打った。上半身だけとはいえ、裸でいた事を心底から悔やむ。別段見られたも損はしないが、感じの良いものでもない。シャツを手にしたまま、ふと壁に備え付けられている姿見を眺めて出たのは、溜息だった。
 そこに映るのは、とてもではないが同性に支持されるような体躯ではない。白く細いところはさておき、男臭さのないところは今時の女性に好まれる事もありはするが、それは異性としてではなくただ観賞用としてであろう。雄としての魅力は薄い。
 身長も体重も平均的であり、体力は人並み以上にあるつもりだ。だがそれでも、自分は男性としての何かが足りないのかもしれない。たとえ一目ではわからずとも、鍛えて得られる筋肉だけではカバー出来ない要素が、この身体にはあるのだろう。全てのパーツが完璧に揃っていようと、余分なものがついていると見劣りするものだ。
 鏡の中の自分の身体を眺めながらそう思い、しかしすぐに馬鹿馬鹿しいと仁科は否定する。だから、何だと言うのだと。劣る点が確かにあるのだとしても、それが必ずしも弱点になるとは限らない。ならば、気にかける必要など何もないだろう。
 小竹が特別な反応をしたわけではなく、大抵が同じような事を言うのだ。細いのも軽いのも、事実なのだから当然だろう。いつもは聞き流すそれを気にして苛立つのは、内容ではなく言った本人にムカツいていると言う事だ。身体を指摘されての不快ではなく、小竹成昭の存在に対して憤っているのだと、自分の胸のモヤをそう判断しながら仁科はシャツの袖に腕を通した。
 コンビニに朝飯を買いになど、どこまでふざけた男なのだろう。
「…クソッタレ」
 低くそう呟くと同時に、足先に転がっていたクッションを蹴りあげる。仁科によりドアに当たったそれはそのままストンと床に落ち、不意に開いた扉に部屋の隅へと追いやられた。
「何を一人で暴れているんだ。コーヒー入ったぞ」
「……ここには入ってくるなと言ったのを忘れたのか、鳥頭」
「忘れてはいないが、それは昨夜の話だろう。そんな事よりも、早く食べようぜ」
 適当にパンとサンドウィッチを買って来たからと、そう言い部屋を出て行く為に背中を見せた小竹に、仁科はクッションを掴みあげ思い切り投げ付けた。何がそんな事なのか。それを決めるのは自分であり、この男ではない。勘違い男には、その辺りを徹底的に教え込む必要があるだろう。
 だが、面倒だ。教え込むのはやめて、何よりも簡単な消去法を選びたい。
「痛ッ! ――ったく、何をするんだよ」
「うるせぇ、死ね」
「ハァ…?」
「鬱陶しいんだよ、さっさと死にやがれ。何なら手伝ってやろうか、ああ?」
 シャツのボタンをとめながら寝室を出た仁科は、後頭部を擦る小竹の膝裏を遠慮なく蹴った。小さな呻きをあげ崩れ落ちたところを、背中に片足を乗せ体重をかけて押し潰す。
「死んでみろよ?」
「…遠慮する」
「そんなもの、今更しなくてもいい」
「何故、俺が死なねばならないんだ…?」
「てめぇの行動のせいだろう。さあ、覚悟を決めろよ」
 背中に乗せた足を降ろし腹を押し上げる様に蹴り、四つん這いだった小竹の体を仰向けにする。さほど本気ではないので力はそれ程も加えてはいないのだが、このまま逃がす気は更々なかった。相手が体制を整えるよりも早く、今度は男の股間に足を乗せる。ゆっくりと力をかけていきながら見下ろすと、引き攣った笑いを小竹は口元に浮かべていた。
 いいザマだと、そう思う。顔以上に落ち着き無い眼が、快感を覚えさせる。
「マジ、かよ…?」
「まさか」
 本気で殺る訳がないだろう、人を殺す様な奴に見えるのかと、そう応えながらも仁科は口許だけに笑みを乗せた。自分の何をどんな時にどう使えば良いのか、それを知らない程、子供でも能無しでもないつもりだ。
「な、やめようぜ、もう。コーヒー冷めるぞ」
 僅かだが、声が上擦っていた。素直に思惑通りのものをそれに見てくれたのだろう、小竹が頬を引きつらせているのは急所の痛みからだけではないと仁科は確信する。楽しいと思う。しかし、同時に予想通り過ぎて面白味にかける行為は、直ぐに飽きる。
「…ク…アッ、オイ!」
「……」
 股間を踏まれる恐怖から、切羽詰った声を出す小竹を見ながら、こんな風にあっさりと両手を上げるこの男は一体何者なのか、今一度考えてみる。馬鹿なのは間違いないが、頼りなささは頭に比例する事はなく、能力もそう低そうでもない。そんな奴が何故こんなところにおり、態々こんな目にあっているのだろうか。理解不能だ。だからこそ馬鹿だと思うのか、本当は何らかの思惑があるのか。全く見えない。
 何を示されたところで理解など出来るはずもないが、ここまでくれば仁科でさえ気になるものである。最終的に自分が痛い目を見ないのであれば、何がどうであろうとどうでも良いのだが、小竹の不可思議さには興味ではないがそれに近い関心を持たずにはいられない。
 だが、しかし。だからと言ってこれ以上の関わりを持つつもりは、仁科にはこれっぽっちもなかった。世の中には色んな人間がいるのだから、根掘り葉掘り解析をする程も、男は特別な存在ではないだろう。こいつが特別で尚且つ価値のある人物であるのならば、それを選択する場合もあるのだろうが、するだけ無駄な者であるのは間違いない。
 小さな関心も、くしゃみでもすれば何処かへ吹き飛ぶような、他愛ないものだ。
「さ、佐藤ッ!」
 グイッと足に力を入れると、空かさず小竹は声をあげた。
「せ、折角淹れたんだからさ…、熱いうちに飲もうぜ、なぁ…?」
「粘るな。しつこい男は嫌われるぞ」
「俺は、命を粗末にしないだけだ」
 馬鹿な反論に鼻で笑いながら湿る髪をかき上げると、指に痛みがはしった。目の前まで手を近付けよく見ると、一体どこで切ったのか、人差し指の腹に傷が出来ている。多分、クッションにでもガラスの破片か何かが刺さっていたのだろう。
 仁科は床に転がる件の物にチラリと視線を向け、それをぶつけた男の頭の事を考えかけたが、一瞬で思考から追いやった。たとえ突き刺さっていたところで、自分が罪にとわれる事はない。小さなガラスの行方が何処だろうと、別に構わない。勿論、それが自分の血管の中でもだ。
「…命を粗末にしない、か。なんとも役に立たない信念だな、それは」
「なに?」
「いま必要なのは、そんなものじゃない。粘ろうがどうしようが、やる時はお前の意思に関係なく俺はヤる。ンなもの俺に聞かせても意味がないぞ。喋るなら、もっと効果のあるものを言えよ」
 仁科のその言葉に、小竹は数瞬の沈黙を作った。
「……何か聞きたいのか、あんた?」
「いいや」
「――なら、やっぱりヤる気なのか…?」
「やっぱりて何だよ、ムカツクなホント。俺が悪者みたいじゃないか。ただひと言えば良いだけなのに、誰かが勿体ぶって粘るからこんな事になったというのに、なんて言い草だ」
「……何の事だ?」
「なぁ、いい加減にしないか、小竹。早く言わないと、モテないどころか使い物にならなくなるぞ」
「だから、何を言っているんだ!」
 本気で思い付かずに小首を傾げたその仕草が腹立たしく、仁科は押さえ付けるブツを捻り潰すようにゆっくりと足を動かした。いい加減甚振るのも飽きて来たので退いてやろうとしているというのに、こんな馬鹿をまだ続けたいのだろうか、この男は。だったら、望み通りしてやっても構わない。これがこの男の、自分が撒いた種の責任の取り方だというのならば、面倒だがヤってやろうではないか。
「わからないのなら、死ねよ。今すぐに。その方が世の中の為だ」
「痛ッ! ちょ、ちょ、ちょっと!待てってコラッ!」
 さすがに苦痛なのか、今まで大人しくしていた小竹が身を捩り、自身を押さえ付ける仁科の足首を掴む。だが、そんな抵抗で止めるのなら初めから仕掛けてなどいない。
 赤かった顔が、痛みからか青が混ざり、今やその色は紫だ。仁科は痛みに耐えるそんな小竹を眺めながら、更に体重をかけた。重心が移動した為に使えるようになったもう一方の足で、暴れる男の脇を蹴る。身体が跳ねたせいで、一瞬全体重が股間を踏む足に掛かったが、自業自得だろう。小竹がどれ程息を飲もうと、仁科自身は痛くも痒くもないので愛嬌の内だ。
「……佐藤…ッ」
「言いつけを守らない奴には仕置というものが必要だが、俺は反省をしている奴まで甚振るほど無慈悲じゃない。それなのに、お前はどうやっても俺にヤらせたいらしいな。物好きな奴だ」
「だ、誰もそんな事は言っていないだろう…!」
「否、お前は必要な事を言っていない。ならば、同じ事だ。悪い事をしたらどうするのか、ガキでも知っている事だからな」
「悪い事…?――あぁ!そうか、謝罪が欲しいんだな、あんた」
 眉を寄せていた小竹の顔が途端に明るくなり、クイズの答えがわかったかのような楽しそうな声でそう叫んだ。謝罪とは相手が望むからではなく、本来は自らが反省し進んで述べるべきものであり、根本的に間違いきっている発言に仁科は顔を顰める。余りにも馬鹿過ぎて、直ぐに反応も返せない。
「悪かったよ」
「……」
「なあ、悪かったって」
「…遅い」
「待てよ、本当に悪かった。えっと…勝手に寝室に入り、済まない。許して欲しい」
 いや、許して下さい、お願いします。そう仰向けのまま頭を下げる姿は間抜け以外の何ものでもなく、馬鹿を相手にしている自分が哀れにさえ思えてくるくらいだ。このままこの男を抹消し、全てを無かった事にしたいと本気で思う。
「佐藤さん、頼む!」
「…情けないなオイ。股間踏まれながら許しを乞う。こんな経験は初めてじゃないのか?」
「…………」
 無言でありはしても、自分を見るその目がそうだと物語っていた。だからこそ、こう押し倒され足蹴にされながらも、ペラペラ口が回るのだろう。余裕があるというのではなく、危機感が薄いのだ。だがそれは自分と同じ理由からではなく、恵まれた人生を歩いて来たからこそなのだろう。それを伺える小竹の沈黙に、仁科の気持ちが急激に冷める。
 こんな男を構っていられる程、暇な訳ではないだろう。そんな言い訳を自らに与え、仁科は体重をかけるのをやめた。
 小竹の勝手な行動や物言いに対する怒りはなくなりはしないが、それは訳の分からないものに対する嫌気からであり、意地になり相手をする程の執着はない。本来なら、二、三発殴り付ければそれで終われるものだ。それなのに、自分は何をしているのだろうか。やり過ぎだ。
 反省ではなく、疲れを覚える原因をそこに置き、仁科は足を引く。
「…止めだ、ヤメ」
「佐藤…?」
「冗談だ、真に受けるな。そんな顔をしていずに、さっさと立てよ」
 足を避け起き上がる様に仁科が顎で示すと、「どんな顔だ?」と固まりを解き笑いを見せながら小竹は上半身を起こした。しかし、戸惑いは消えないのだろう、動きはどこかまだぎこちない。
 だが、それでも。仁科が手を差し延べると、小竹はしっかりとそれを掴み立ち上がった。
「サンキュー」
「……」
 こんな状況で礼を口に出来るその神経が理解出来ず、仁科は振り解くように手を放し背を向ける。やられた仕返しにからかっているのならば、頭のひとつでも叩いてやるのだが、真面目に自然に返されたそれは扱いに困るもので流すしかなかった。
「コーヒー、冷めちまったかな?」
 踏まれ続けた股間の無事を確かめながら、小竹はそう苦笑する。
「…………」
 それに答えられるものも、仁科は持ってはいなかった。

2006/01/29
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