|| 1-6 ||

「あんた、どこか悪いのか?」
 朝食後、換気扇の下でシンクに凭れ煙草を吹かしていた小竹が、煙と共にそんな言葉を吐き出した。何の事かと惚けるのは余りにも馬鹿らしく、意味がない。小竹のそれは明らかに、先の美奈子との会話を指したものでしかなかった。聞かれていた事実をこんな風に示され頭が痛んだが、盗み聞きに対し返してやれる言葉などあるはずもなく、また例えあったところで自分はそこまで親切ではない。仁科は問い掛けを無視し、新聞の字面を追った。
 怒りを向ける気さえ、起こらない。
「聞く気はなかったんだが、戻って来た時に、ちょっとな。済まなかったよ」
 何も応えないからなのか、それとも先の遣り合いから何かを学習したのか。様子を伺うように小竹が言葉を紡ぐ。視線を下げていても、眺められているのが嫌でもわかった。放っておくにしては、右頬を舐めるように這う眼差しが欝陶し過ぎる。
 不本意な盗聴に対する罪悪感か、元々何にでも興味が向く性格なのかわからないが、迷惑極まりない男だと思いながら、仁科は口を開いた。
「…それが、どうした」
「いや、大丈夫なのかと思ってさ」
「……」
 新聞から視線を外し、やけに深刻そうな声音を出す男に顔を向ける。何故そんな事を聞くのか理解出来ないと疑わしげな表情を見せると、小竹は真っ直ぐと視線を絡ませて来た。
「どこが悪いんだ?」
「……」
「なあ?」
「…お前は医者か? 答えたら、治してくれるのか?」
 告白するメリットはあるのか?
 聞いてどうするのかとの訝りを込めてそう問い掛けると、小竹は一瞬驚くような表情を作った後、顔を顰めた。そこに、過去にも自分を同じような目で見た幾人もの顔が前触れもなく重なり、仁科もまた顰め面を作る。
 沢山だった。憐れみも、好奇な視線も、嫌というくらい受け取って来た。確かにそれは体の事だけではなく、自分の性格や取り巻く環境のせいもあるので、打開策は幾らでもあるのかもしれない。だが、それを考えるのも努力をするのも、そんな中では面倒にしか感じなかった。気力を与えられない生活で、向上心など生まれる筈がない。
 大丈夫ではないのは、今現在ではなく、生まれてからずっとなのだ。例え医者だとしても、過去を変える事は出来ないだろう。だったら放っておいてくれよと、仁科は小竹の質問への回答を拒否した。
「お前には、関係ない…」
 全てを話したところで、どうにもならない。扱いに困り、結局は放り捨てるのだ。そんな、関心など迷惑でしかない。向けてくるな。
 喉元まで上がった、捻くれた子供のような言葉は流石に飲み込みはしたが、表情までは取り繕えず眉を寄せる。そんな自分自身に苛立ち、読み掛けの新聞を丸めテーブルに叩き付けると、仁科はキッチンを後にした。胸糞悪い。食べたものがせり上がってきそうだ。
「どこが悪いんだよ」
「……」
「佐藤っ」
 まるで我儘を言う息子を窘める親のような声で、小竹が名前を口にする。今なお気付かないのか、そんな事はどちらでも良いのか、素直に教えた偽名で呼び掛けて来る男を馬鹿だと腹の底から仁科は一笑した。しかし、面白くも何ともないので、笑っても気は晴れない。
 けれど、ふと。そう言えばこの男が相手にしているのは、「佐藤大助」なのだと思い出す。そう、仁科一希ではないのだ、怒りや苛立ちを覚える必要はないだろう。
「頭だと言っただろう。イカれているんだと、さ」
「真面目にきいているんだ」
「俺も真面目に答えている」
 昨夜男が寝たソファに腰を降ろし、煙草を消した小竹がやって来るのを仁科は眺めた。怒っているのか無表情気味だが、そんな事はどうでも良い。昨夜と同じ草臥れた服も、全く気にはならない。だが。
 この部屋に他人がいる。それは、どうしようと無視は出来ない。
 昨夜は仕事終了後と言う事もあり、興奮状態であったのだろう。判断も認識も、甘いというか、適当だった。どういう事かわかっていても、それを自分に結びつけるのが緩かったのだろう。だから、小竹の姿も、一場面として受け入れる事が出来た。しかし、今は単純にそう言う訳にもいかない。
 光の中でこの姿を見るのは、全くもって面白くないなと仁科は今更ながらに思う。暗闇の中では、夜の間は、夢みたいなものだった。現実とは掛け離れていた。そんな存在が、こうして目の前にいるのは、全然歓迎出来ない。うざったい、邪魔だ。消えろ。思うのはそればかりだ。
 しかし。
 何も知らない男が目の前にいる事実は、部屋の景色となっているその存在は、どんなに考えようと滑稽でしかなかったが。居るべきでない人間を招いた自分が何よりも異常であるのをわかっているので、最早何を笑えばいいのかわからない。
 唐突に襲いかかって来た虚しさに、仁科は目を瞑る。
「目が…」
 そんなものに捕まって堪るかと、意識を逸らすと同時に、考えるよりも早く言葉が口を吐いた。
「目が見えなくなるらしいんだ」
「目…?」
 嘘をつくだとか、騙すだとか。そういった感情はない。だが、それは慣れているからであって、純粋さは皆無でもある。
「視力がだんだんと弱くなり、最終的には失明するらしい」
 頭というか、正確には脳がオカシイと言うべき、かな。
 意識せずとも口を滑る悪質な悪戯に口角を上げながら、肩をすくめる。本当か?と問う声に頷きを返し、数歩先で立ち止まった男を下から見上げた。
 態と、仁科はまっすぐ小竹に視線を向ける。自分がどう相手の目に映るのか、計算をしながら手を伸ばす。
「見えていたものが見えなくなるのは、不思議な感覚だ。近視になった事もなかったから、始めは怖かったが、慣れた。今の俺の目は、この程度の距離しかわからない。それももう、見えるよりも勘に近いんだがな…」
 一本二本と数えるように、伸ばした腕をそのままに指を折る。実際には、コンタクトレンズを入れているので、今ははっきりとそれはわかる。だが、近視と乱視のおかげで、裸眼では語った以上に視力は悪かった。中学に入る頃には既にそうだったので、どちらかと言えば見える方が不思議なくらいだ。
 だから、意識せず目を細め視線を凝らしたのは、ただの癖でしかない。
「このまま俺は、見えるものが減って行くのにも慣れるんだろうなぁ」
 事実、未だに視力低下は進行中だ。だが、ただのド近眼で、病気ではない。それでも、全てが嘘だとも言えない微妙にリアルな心境の吐露を、相手はどう感じ取ったのか。のんびりとした声で呟く仁科の伸ばした手を、小竹が唐突に掴んできた。
「…何のつもりだ」
 指先から視線をずらし見た男の顔が予想以上に近い場所にあり、思わずのけ反る。だが、振り払おうとした手は、簡単には放れてくれなかった。
「おい…!」
「あんた、平気なわけじゃないだろう? 何だって、そんな風に簡単に言うんだよ…?」
「聞きたがったのは、お前だろう」
 ねだるから言ってやったのに、何故俺が怒られるんだ。泣き喚き、憐れんでくれと縋れと言うのか?
「ったく、冗談じゃないぞ…!」
 仁科はそう吐き捨てながら、小竹の脛を押しやるように蹴飛ばした。勢いのままに腕を引かれたが、節くれた手を捻り外し立ち上がる。小竹の方も、たたらを踏みはしたが尻餅をつくまでには至らず、顔を顰めながら深い息を落とした。
 足の痛みではなく、それは自分に対する呆れから零れたものなのだと気付き、カッと仁科の頭に血がのぼる。騙しているのは自分であるはずなのに、余裕がなくなる。
「何故そう捻くれているんだよ、あんたは。俺はただ、」
「黙れッ」
「ただ俺はなぁ、佐藤さん。あんたを気にかけているだけだ、噛み付かないでくれ。諦めるしかないのか何なのか知らないが、それでも自分の体をああいう風に言うのは悲しいよ。卑下した分、更に痛みを覚えるのは自分だぞ」
 子供ではないのだから。そう言う男に向ける言葉は、ひとつしかなかった。
「…今すぐ、出て行け」
 顎で玄関を示し、仁科は寝室へ向かう。無性に腹がたった。子供の様な感覚で発言をしているのはお前の方ではないか。役立たずな体を笑えるのは、それを使いそれでも生きている自分だけなのだ。憐れまれるばかりの中で、自分くらいは馬鹿にして笑っても良いではないか。
 何をどう感じたのかは知らないが、説教される謂われはない。何も、自分とて好き好んで、卑下していると思われるような態度を取っている訳ではない。そうやって大した事ではないのだというパフォーマンスをするしかないだけなのだ。少しでも、自分は大丈夫だと、自分自身で感じたいだけなのだ。
 そういう事を何ひとつわかっていないのに、さも正論だと言わんばかりに簡単な解釈でズレた言葉を口にする男が、憎らしい。
「悪かった」
 伊達メガネを掛け姿見の前に立ったところで、入口から小竹が声を掛けて来た。馬鹿のひとつ覚えのように謝る男を振り返り、仁科はゆっくりとした足取りで髪をかき上げながら近付くと、片脚を振り上げた。壁が逃げ場を塞ぎ、見事に狙った脇腹に足の甲がめり込む。
「……ッ!」
 挟まれる形でオマケのようにドア枠に頭をもぶつけ、小竹はずるずると背中で壁を滑りながら床に尻をついた。俯く頭に片足を乗せ、仁科はそのまま横に転がすよう力を加える。もしもこれで首の骨が折れたとしても、後悔も反省も罪悪も、何も覚えはしないだろう。
「俺も暇じゃないんだ、一度で理解しろ。お前がする事は、謝罪じゃない。ここから出て行く事だ」
 さっさと帰りやがれ。
 出入口に横たわる男にまるで脅すかのような軽い蹴りを数度入れながら言い、仁科は邪魔だと言わんばかりにその体を踏み越え、バスルームへと足を運ぶ。寝室への侵入は謝罪で許したとしても、自身へのそれは、そんな言葉で片付ける気はない。
 髪を整え居間へと戻ると、体を起こしてはいたが小竹はまだ床に座り込んでいた。自分を見る目に今までなかった鋭さが混じっているのを感じたが、敢えて気付かない振りをする。この程度でキレるとは大した人物ではないなと、自分の事を棚に上げ考えてみたが、別段男に対する評価が下がったわけでもなく、それこそどうでも良い事だった。
「痛くて動けないわけじゃないだろう、いい加減にしろ。出て行け」
「痛いに決まっているだろう」
「お前にはそう効いてはいないだろう。騙そうとしても無駄だ」
「何故そう思う?」
「どれくらいのダメージを相手に与える事が出来たのかはわかっているさ」
 当然だろうと応えながら横を通り過ぎると、小竹は意表を突かれたようにきょとんとした表情を見せた。ネクタイを選び、リビングにとって戻る自分を追いかけてくる視線に数拍遅れ、「わかんないなぁ〜」とぼやく様な呟きが落ちたのを仁科は聞く。
「知り合いもあんたと似たような事を言うが、俺には全然わからんな。相手が痛いかどうかなんて、何でそんな事がわかるんだよ?」
「勘だ、勘。場数を踏めばわかるんじゃないか、お前でも」
 ネクタイを結びながら仁科が応えると、「そんな場数なんて踏みたくないぜ」と小竹が顔を顰めて言った。人として当然だろうその意見に、軽い笑いを落としてやる。
 手を上げた感じでは、小竹とて暴力行為に疎いわけではないようだった。力の殺し方や、受け身の取り方などの逃げる方法を知っているようなので、力の振るい方も何らかの方法で習得しているのだろう。だが、実践は極めて少ないようだった。それは発言を聞かずとも、自分にいいようにやられたのが確かな証拠だと仁科は考える。
 仁科自身、決して腕が立つ方ではないのだ。そして、その自覚を十分持っている。技の素早さや、それを繰り出すタイミングなどには幸いにもセンスがあるようだが、力は人並み程でしかないのだ。自分の腕に溺れる事はまずない。その点で言えば、相手への効果を計れるのは、勘と言うよりも、ただの事実だ。
 自分が相手に与えるのは力ではなく衝撃なのだと、仁科は考えている。力だけで抑えられるのは、精々己よりも華奢な体型をした者ぐらいだ。玄人はもちろん、小竹の様な多少は腕に覚えがあり体格が上回る相手では、まともに遣り合えば痛い目をみるのはこちらでしかない。だからこそ、相手の意表を突く様に攻撃を繰り出す方法を極力とるようにしているのだ。何も考えずに手を出している訳ではない。
 昔は力で押していたのがそんな技術に重点をおくようになったのは、あの癖の強い雇主の影響に他ならないのだろう。学生の喧嘩では話にならないと、熊谷は仁科に力の使い方を教えた。それは仁科の能力を考慮してというよりも、身体を鍛えるようなタイプではない熊谷自身の経験からくる指導であったが、大いに役立っているので文句は言ってはいない。だが、感謝する気持ちは皆無であり、正直面倒なものを押しつけられた感さえ抱いている。手癖が悪くなる一方なのだ、喜べはしない。
 しかし。
 熊谷が何を考え自分を鍛えたのか気にならない訳ではないが、彼の場合、唯の暇潰しだったのかもしれず、今更考えても意味がない。口に乗せられ、付き合った自分が悪いのだ。何より、自分の想像の範囲内にいる雇主ではないと経験上知っているので、今更質問や不平を口にするのは、自ら墓穴を掘るようなものだともわかっている。
 己には受け入れるか逃げるかの選択肢しかなく、拒否する権限など持ってはいなかった。熊谷について行けないのならば辞めるしかなかった。それをわかっていた上で選んだのがこれならば、結局は自分も被害者ではないのだろう。言うなれば、共犯者だ。
 それを誰よりも知っている自分が、一体今更熊谷に何が訊けるだろう、言えるだろう。それこそ、言いたい事もない。
 熊谷の強引さを利用して得たのは、誰かを踏み付ける術であり、自分を守るものではない。そしてその代わりに失ったものは、この世界から逃げだす為の鍵だろうか。力の使い方だけではなく、昨夜のように不確かな場所へと足を踏み入れる度に、自分の世界に帰る術をなくしていっているように仁科は感じる。
 一体、自分はどれだけの鍵をなくし、あと幾つこの手に持っているのだろうか。
 それを知っているのは自分自身ではなく、あの雇主のように感じてしまうのだから、どこまでも性質が悪すぎると言うものだった。残った鍵の行方さえ、今直ぐに見失ってしまいそうだ。
 だが。存在を知らなければ、なくした事にはならないというもので。
「経験云々よりも。お前は、もう少し相手を疑う事を覚えた方がいいだろう」
 この世の中にはわからない方が良い事も確かにあるのだと考えながら、仁科は諭すように静かに小竹に助言する。
 計算をしながらする喧嘩など、とてもそんな風には呼べない胸糞の悪いものだ。この男に必要なのはそんな陰険なものではなく、ちょっとした疑心であるだろう。それだけで十分であり、それ以外は逆に邪魔になる代物だ。
「お前は、色んな者を瞬時に判断出来るタイプじゃないだろう。力の使い方を心得ている奴がいるのなら、そいつに任せておくんだな」
「それは…もしかして、俺を馬鹿にしているのか?」
 そうではない。どちらかと言えば、仁科にすれば親切心から出た言葉であった。だが、そう誤解されている方が面倒ではないなと、肯定する。
「ああ、しているさ。お前の事は昨日からずっと馬鹿だと思っている。まさか気付いていなかったのか?」
「酷いな、あんた」
「だが、間違いじゃないだろう」
 仁科がそう応えニヤリと口角を上げた時、携帯電話の着信音が部屋に響いた。
「ああ、俺だ。悪い」
 小竹が断りながらすっと立ち上がり、玄関へと向かう。蹴りを入れたのだから痛いのは事実であったのかもしれないが、やはり効いてはいなかったようだ。スタスタと歩く男の背中に軽く眉を寄せ、仁科は溜息をひとつ落とした。交わした会話が、何だか一瞬にして無駄に変わった気がする。
 これ以上小竹を構っても仕方がないと、仁科はリビングと寝室にある私物を集め、鞄に詰め込んだ。熊谷の鞄は、少し考え更に紙袋へと入れる事にする。
 正直、どこでどのように手に入れた代物なのか怪しすぎるので、そのままで街をうろつきたくはない。盗みなどはしていないだろうが、曰く付きのものなのかもしれないのだから、当然だろう。昨夜は気付かなかったが、ガラクタのような鞄には血痕らしき黒い染がついており、中には隠すように年配の男のパスポートが入っていた。本物かどうなのかは判らないが、怪しい事この上ない。もしもあの弁護士に見つかり、言及されていたらどうするつもりだったのか。理解不能だ。
 片付けを終えジャケットに袖を通しながら、仁科は溜息を落とした。仕事に関しては、危険なものもあると承知しているので、熊谷に込み入った事は極力訊かないようにしている。それが今の自分に出来る、自分を守る為の唯一の方法だ。だが、積み重なる一方の不満を消化する術が底を尽きかけていた。この辺で一度、熊谷に向かっていく必要があるのかもしれないと、仁科は腹を括る決意をしなければならないのを感じる。
 しかし、向かうべきなのは、あの雇主だけではないのだろう。
 多分、きっと。いい加減にしなければならないのは、熊谷ではなく自分自身なのだ。こんな考えを持つきっかけを作ったのは、見知らぬ男のパスポートでも、この部屋を去ることでもなく、もしかすれば美奈子の言葉なのかもしれない。今になり、伯母の心配が仁科を苛む。
 仕事だけではなく、人生の選択が自分の前に立ちはだかりだした事実に胃がキリリと痛んだ。腐っているのだと、そう思う。生まれた瞬間から、自分は腐敗への一途を辿っているのだと。自分のこの肉体がドロドロに腐り毒を生みながら分解されこの世から消え去るまで、もしかすればそう時間はないのかもしれない。
「出掛けるのか?」
 通話を終えたのか、小竹が律義に部屋へと戻って来た。
「…あぁ」
「俺も帰るよ、一緒に出るか?」
「俺はまだ用がある。お前はさっさと勝手に一人で出て行け」
 邪魔者がいるから用事が進まないのだとあからさまに匂わせると、小竹は楽しそうに小さく笑い、「じゃ、お先に」と片手をあげた。
「世話になったな。あんたのお陰で助かったよ、ありがとう」
「口で言うのは簡単だ」
「いや、本当に感謝しているんだ。苛めないでくれよ」
「もういい、行け」
「そうだな。なぁ、あまり無茶はするなよ、佐藤さん。またな」
「不吉な事を言うな。また、は無い。もう二度と会いはしないさ」
 仁科の言葉に鼻の付け根に皺を寄せた小竹は、けれども何も言わず足を踏み出した。玄関の扉が開き、カチャリと閉まる固い音が寝室まで届く。
「……二度目があって堪るかよ」
 溜息混じりに仁科はそう吐き捨てながらも、姿見に映る自分に笑いかけた。昨夜経てた企みが成功しそうな予感に、喉の奥が鳴る。
 口にしたように、もう二度と会いはしないし、会う気もない。だが、相手には会いたいと思わせてやりたかった。だからこそ、そのための理由を幾つも与えたのだ。この後、実際に小竹が動いたのかどうなのか、知る術は仁科にはない。だが、そんな結果はどうでもよく、ただあの男を少しは苛つかせる原因が作れればそれで良かった。事実に興味はない。ただ、あくまでも自分がそう思えればいいのだ。
 もしまた一晩の宿を求めここを訪ねたとしても、自分はもういない。あの弁護士事務所へ行こうが、何も情報は得られないだろう。病に侵された佐藤大助を気にして、男は姿を消した青年を探すだろうか。いいように蹴られた仕返しを企むだろうか。
 それに。
 仁科はスラックスのポケットからライターを取り出し、目の前に掲げてみる。どこかのブランド品なのだろうが、よくわからなかった。ボディに描かれている猫が、眺める仁科を見返して来る。まるで持ち主ではない自分を警戒しているかのようで、可笑しい。
 なくしたこのライターを、果たしてあの持ち主は探すだろうか。
 お前は、大事にされていたのか?居なくなったからと探す価値がお前にあるか? 仁科は猫に問い掛け、再びそれをポケットへ仕舞いながら思い描く。小竹は、ひとりの男とひとつのライターを、一体どれくらい気にするのだろう。
 少しでも後味が悪い思いをさせられたのならば満足であり、その材料がある程度揃っている事に納得し、仁科は鞄を肩に提げた。
 仕返しとも言えない企みが齎したのは、使い道のないライターがひとつ。宿賃には足らないが、元々ここは自分の住家ではないので損にもならない。与えられた苛立ちも、その都度やり返したので、怒りも余りない。差し引きゼロだ。丁度いいだろう。
 これでこの遊びは綺麗さっぱり終わりだと、仁科は未だ微かに煙草の匂いが残る部屋を後にした。

第一話 完

2006/02/08
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