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 バケモノ――そう呼ばれることに、疑問はなかった。

 物心が付いた頃にはもう、それが己を指し示す呼び名であるとわかっていたので、疑問はもとより問題を覚えた事すらない。しかし、今にして思えば、多少は悪質なそれに感じるところがあったのかもしれない。悪意に満ちたそれを何でも無いかのように流し切れる程も、幼い頃から自己防衛が上手かった訳ではない。だが一度として、嫌だと主張する事も止めてくれと泣く事もなかった。
 何がどんな風に他人と違うのか全てを理解している訳ではなかったが、父である男が「お前はバケモノだ」と何故言うのかはよく判っており、実際に真っ当ではないのだと自分自身が一番感じていたのだ。バケモノでも、出来損ないでも、何と呼ばれようと構わなかった。そこに関心が向かない程にその呼称は定着しており、他の呼び名を乞う意味など何処にもなかった。
 何よりも。呼び掛けがどうであれ、自分が異常である事に変わりはない。ならば、その真実だけが全てであり、父の誹謗も母の涙も関係ない。俺は俺であり、それ以上にはなれないが、それ以下にもならない。だったら、他のものになれないのであるならば、何であろうとこれでいるしかないのだ。バケモノが自分ならば、自分はバケモノで構わない。
 言葉と力で子供を否定するしか出来ない父。泣く事しか出来ない母。幼い自分が晒された現実は、確かに残酷であったと言えるのかもしれない。しかし、悲惨であった訳ではないだろう。寧ろ、早くに己の境遇を理解出来たのだから、ベストだったと言えるのではないだろうか。何も知らずに成長していたら、きっと自分を見失っていただろう。両親を恨んでいたかもしれない。だから。
 初めから夢や希望を与えなかった点は、父である男と、母である女に感謝してもいい。
 お前はバケモノなんだと言い続け教え込まれたお陰で、俺は俺に期待せずにすんだ。幻想など抱かずにすんだ。自分勝手に生きる事に、負い目を感じずにすんだ。後ろめたさを覚えずにすんだ。
 下手に大事にされるよりは、断然良かったと本気で思う。それが子育てであったのかどうか甚だ疑問だが、彼等にしては、その一点の教育に関してはよくやってくれた方であるのだろう。
 そうでなければ、自分はとっくの昔に二人を殺していたはずだ。もしも、何らかの期待が、希望が、そこに一欠けらでも存在していたのならば。俺はそれ故に絶望を覚え、愚かな過ちを自ら招いていただろう。
 今になって、歳を取って気付くその事実。救いにはならないが、それは今自分がここで生きている理由にはなっているのだろう。
 昨今の子供の親殺しは、弱さではなく甘えが引き起こしている現在病のようなものだ。子供など、何度も親が居なければいいと思う生き物であり、本気で死んで欲しいと嫌悪をするのも思春期には付きものだろう。そして、その感情を止められずに犯行に及ぶのは、社会の崩壊でも何でもなく、ただの幼さだ。年相応の思慮を持たずに自己主張するだけの、餓鬼特有の甘さだけがそこにある。親が死ねば何かが救われると思う浅はかさは、滑稽に値する。
 実際に、期待をしていない親など他人以外の何者でもないものだ。殺してしまおうなどと思う程も、強く意識は出来ない存在だ。
 罪を犯す子ほど、親に固執し、甘えている。
 けれど今、この場にあの父が現れたならば。昔は殺めなかったが、自身で掴んだこの未来に奴が組み込まれてきたならば。果たして俺はどうするのだろうかと仁科は赤い信号を見ながら考える。
 殺すつもりは特にない。だが、そんな展開になったとしても別にいいようにも思う。あの男を殺害した罪で捕らえられるのは面白くはなく、決して歓迎出来ないが。この世から確実に奴が消えるのならば、そんな代償もありなのかもしれない。尤も、それは親を殺すのではなく、気に食わない他人を消すだけであるのだから、やはり率先して行うものでもない。
 探し出し、追いかけ、バットで殴りつける勢いなど微塵もない。眠っているその首に包丁を突き刺す昏さもない。言うなれば、周りを飛ぶハエを手で払うような、夏に蚊を叩き潰すような。そんな程度の軽いものしか存在しない。そこに拘りはない。言うなれば条件反射の結果だ。理由は勿論、意味すらない。
 自分が煩わされる事はなく、誰かがアイツを殺すという展開が一番望ましい。既に何処かで野垂れ死んでくれてはいないだろうか。今ここで父親の訃報を告げられたならば、どんなに嬉しい事だろう。
 実際には、それでもそれが与える影響など日常の忙しさに直ぐに紛れ込むものであり、声を上げて手を打ち鳴らして喜ぶ事などありはしないのだろう。精々が、報告してきた相手に短く相槌を打ち言葉を受け取るぐらいだ。多分、きっと、次の瞬間には情報だけを取り込み過去のものとするのだろう。父親が死んだ。だが、だからどうしたというものだ。
 あの男の場合、生きている事の方が矛盾だ。
 何故、本当に、奴は生きているのだろう。
 車の流れが途絶えた交差点の四方で、信号がパッと変わる。見続けた赤い光が消えたのに対し、仁科はこんな風に人も簡単に消えれば面白いのにと思う。誰かに必要とされなくなった時点で、不必要だと判断された瞬間に、ゲームのキャラクターのように消滅する。そうなれば、この世の中は直ぐに誰も居なくなるだろう。そして。
 そして、もっと。人は真剣に、生きる事に励むようになるのかもしれない。
 背後の家電量販店から聞こえてくるニュースに奪われていた意識を戻し、周囲より数拍遅れで仁科は足を踏み出した。児童の母親殺しの話題を、背中から引き剥がす。カツカツと、地面を踏みしめる度にヒールが音を上げた。リズム良く歩を刻むそれを聞きながら緩くカーブした歩道を進み、待ち合わせの場所へと向かう。
 遠目にも、ブランドショップの前に指定された車が停まっているのが見て取れた。約束の時刻までには、まだ10分はある。職に似合わず律儀な男だと呆れつつも、この姿で立ち待ちせずに済んだ事を有り難くも思う。ロングコートを着てはいるが、下は袖のないチャイナドレスだ。寒風に晒されるのは避けたいものであり、本心を言えばこんな所での待ち合わせなどではなく迎えに来て貰いたかった程だ。相手の早い到着が、素直に有り難い。
 慣れる為に、覚悟を決める為に、歩いた距離は1キロ程度のものだったが。そんなものは取って付けた理由でしかなく、ただ単にこの15分の道程は、雇主の趣味によるものなのだろう。従業員に嫌がらせをするなど、最早日常的過ぎて改めて何かを思う事は少ないが。それでも、今夜のこれは本当に悪趣味だと仁科は思う。たとえ変装だけでも事務員にさせる事ではないというのに、それが女を装う姿であり、且つ、不必要に目立つ行動を強いるのだから、そこに常識など持ち込めはしない。
 そもそも、何を言ったところで抵抗など全て振り払われるというものだろう。だが、それでも。それこそ必死に、死ぬ気で頑張ったわけではないが。理不尽な職務に、それなりに尽くせる手は尽くした。今までの経験から、最初から諦めの色が濃かったのは確かだが、それでも逃げる努力はしたのだ。
 だが、しかし。結局はこれだ。
 雇主に向けた、効果のなかった己の発言を。人を馬鹿にした彼の、通らない理屈を。状況を楽しみ、追い詰めてくる上司を。そうして、ここまでの道程を。今からの、これからを。仁科は目的の車の横で足を止め思い出し、考え、ひとつ大きな息を吐き終えてから窓を叩く。
「どうも、お待たせしました」
 助手席へ滑り込む時にも、コートを脱ぎはしなかった。暖かい車内に、軽く指の腹で冷えた頬を擦り、シートベルトを絞める。
「行きましょうか、徳原さん」
「…………」
「どうぞ出して下さい」
「……もしかして、仁科クン…?」
 掛けた声に応える事もせず、整った顔に驚きだけを乗せていた男がオズオズと言った風に問い掛けを向けてきた。自信がないのではなく、ただその事実に唖然として言葉を上手く紡げないような、若干たどたどしいその声音が普通にイラつく。
 熊谷が徳原に依頼したのは、今夜行われるパーティーへの同伴だ。それ以外は何も言っていないのだろう。だが、待ち合わせの段取りを組んだ小畑はどうだろうか。仁科を頼むと言っているのか、女の恰好をした者が行くとしか言っていないのか。徳原のこの反応は、聞かされていたからなのか、聞かされていなかったからなのか。判断しかねる。
 しかし、それを知ったからといって、何がどう変わるわけでもない。予想は出来ていても受けて楽しいわけではない反応に、仁科は横目で運転席の男を見やり、ガラス一枚隔てた外の空間へ視線を投げた。太陽が落ちた街は人口の光で輝き、まるで安らぐ夜を知らないように活気で溢れている。鬱陶しいくらいの、人の濃さ。この車内も、また然り。
「仁科クンだよね…?」
「聞いていなかったんですか」
 二人だけの空間がこうも暑苦しいのは、ひとえに隣の男の高揚のせいだろう。放り出してやりたいのを我慢し仁科が応えると、やっぱりねと徳原が笑う。やっぱりも何もない。だが、鬱陶しい黙れと言えるような相手でもない。
 客でもあり、また協力者でもある徳原を邪険に扱う程も、職務を放棄しているわけではないのだ。進んでドレスに身を包んだわけではないが、仁科とて今になってこの格好を無駄にする気はない。
「相手は女だと、騙されでもしましたか」
「いや、うん、まあ。俺の知っているヤツだとは聞いていたから、ある程度予想はしていたんだけど。まさか、君がその姿で来るとはね」
 そこまで考えてもみなかったよと笑う徳原に、聞かされてもいないのに知人の女装を勝手に想像しそれを楽しむ趣味がこの男にあるのならば、自分は今すぐこの車を降りねばならないのかもしれないと仁科は思う。熊谷や小畑とツルむ男に期待など何ひとつしていないが、それでもこれが予想の範囲内であったと言われて笑える程も自分は馬鹿ではない。
 驚いて頂けて何よりですよ、と。言葉とは裏腹な声音で低く告げ、仁科は腕を組み、不遜な態度で斜め下から徳原を見る。
「何なら、どうぞもっと笑って下さい」
「ああ、確かに笑える話なんだろうけど」
 実際にはちょっと無理だと、徳原は肩を竦めながらギアを入れ替え車を出した。
「そこまで綺麗だと実際には笑えないよ。ウケを狙いたかったのならば、それは駄目だ。完璧すぎて隙がない。俺はキミを知っているから気付いたけれど、知らなければ本当に男かもしれないとの疑問も浮かばないと思うよ」
 本当に綺麗だと感嘆する徳原の声に舌打ちを落とし、仁科は顔を顰める。化粧を施された顔は鏡で見たが、作業工程は見ていない。一体何をどれだけ顔面に塗りたくられたのかはわからないが、会場に着くまでにひび割れするのではないだろうか。安い化粧品でない事を祈る。
 崩れても、自分には直す術がない。
「女装としては賞賛に値するけれど、その態度は頂けない。ねえ、可愛く笑ってみてよ?」
「無理だ。アンタの機嫌を取れとは言われていない」
「そんな格好をしているくせに、ケチだねぇ。そんなに笑って欲しかったのかい?」
「別に」
「じゃあ、機嫌を直してよ」
「悪くない」
「嘘をつくくらい、ご立腹という訳か」
 困ったなァと苦笑した徳原が、信号待ちで停車をしたのを良い事に改めてまじまじと眺めてくる。
 視姦されているかのような気分になるのは、こんな恰好をしているからだろうか。何をこんなにも不快に感じているのか、その理由がわからなくなる。
「それにしても、大したものだ。まさかこんなにも化けるとはね」
「…見慣れたものでしょう、こんなのは」
 俳優兼映画監督の徳原ならばもっと高度な特殊メイクを見ているのだろうに、この程度の女装でこうも騒ぐ事はないだろう。男が女の格好をしているだけなのだ。特別な技術を施している訳ではない。女性の格好をする事が目的なので、顔を変えている訳でもない。見るものが見れば一目で男だというのはバレるだろう。それが知人になれば正体を見破られるのは必至だ。現に、徳原は即座に気付いていた。
「格好だけです」
「まあ、そうだけど」
 面白くない気持ちを隠さずに低く吐き捨てる仁科の言葉に笑いを零しながら、徳原は続けて言う。性懲りもなく、しゃあしゃあと。
「でも、ここで重要なのは君だ。あの仁科クンが女装をしている!と言うのがポイントだろう?」
 しつこい、いい加減にしろ。何度同じような事を言えば気が済むのか。そこまで良く知るわけでもない男にここまで興奮されると、機嫌ではなく気分が悪くなるというものだ。気持ちが悪い。
 本当は、熊谷に俺をからかうように言われているんじゃないだろうか。知らないのは自分だけじゃないのかと仁科は疑念しつつも、だからといって今ここで何かを出来るわけでもないので無難な応えを返しておく。
「仕事ですから、俺に言われても」
 そう、自分に言われても、どうしようもない。
 拒否権などない雇主の命令に従ったまでだ。徳原が何に気を引かれようが、思考をめぐらそうが、自分には関係のない事だ。気になるのならば、直接熊谷に聞けばいい。何故あえて俺を使ったのか、面白そうだから以外の理由が雇主にあるのならば、それは仁科だって聞いてみたいものだ。
 寧ろ、重要なのはそこだろう。己の意見ではない。
「しかし、あの二人に強要されたからといって、君は大人しく従う性格じゃないだろう?」
「買い被りです」
「そうかい?」
「抵抗しても無駄ですから、早々に負ける事にしています」
「そうかもしれないけれど、君はそんなに諦めがいいようには見えない。もしかして弱みでも握られているのか?」
「まさか」
 そんな訳がない。馬鹿ばかし過ぎて、思わず笑い肩を竦めてしまう。
 徳原はこの状況を楽しみたいのか想像をめぐらせているが、実際には本当に自分にとっては仕事でしかないのだと仁科は咽を鳴らす。もしも、弱みを握られ脅されるような事があれば、自分は熊谷に従いなどせず、あのいつでも余裕の笑みが浮かんでいる清ました顔を殴りつけているであろう。それは絶対だ。
 熊谷は例え相手の弱みを握ったとしても、それを当人に気付かせるような阿呆ではない。そんな愚かな奴ならば、自分は今ここには居ない。
「だとイイけど。まあ何にしろ、あまり詳しくは聞かないに限るんだろうね。君の事も、君が言うお仕事の事も」
「さあ、どうでしょう。俺は別に口止めはされていないけど」
 それでも、俺を相手にする貴方も「仕事」だろう。下手を打つような事はしない方がいいんじゃないかと仁科が言外に伝えると、徳原は数度軽く頭を振って頷いた。別段、ここでの会話で不利益が生じるとは思っていないだろうが、曲者男の部下を信用しているわけでもないのだろう、会話はそのまま途切れる。
 暫く車窓を眺めていた仁科は、「もうひとついいかな?」との呼びかけに、運転席へと顔を戻した。
「その脚」
 僅かに顔をこちらに向けた徳原と視線が重なった瞬間、その男は口元を歪めニヤリと笑う。ファンには見せられない顔だ。
「脛毛まで剃ったんだ…?」
 仕事とはいえ可哀相にと言いながらもクツクツ笑う男を殴らなかったのは、それが事実ではなかったからだろう。もしも図星な指摘を受けていたのならば、例え首都高を運転中であっても腹に一発は入れている。
 勝手に言っていればいいさと、仁科は寝入るように少し身体を傾け腕を組み直し目を閉じた。
 必要以上に膨らんだ胸が邪魔だが、我慢するしかない。

2007/12/06
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