|| 2-3 ||

 真中が口にした話が全て真実ならば、仁科の目論見は成功したと言えるのだろう。けれど、一夜の宿を求めた男への意趣返しとして仕掛けたトラップは、とても小さいものだった。少し相手が気にすれば、気にしたのだろう事が想像出来ればそれだけで良かった。そう、それ以上の効果など、微塵も望んでいなかった。
 世話になったとはいえ、事情があるとはいえ、プロを雇い本気で探し出そうとするなどと誰が思うだろう。普通は、そこに居なければそれで終わりになるはずだ。たった数時間接触を持った他人に執着する意味がわからない。
 思った以上に、あの男は相当な馬鹿だ。
「佐藤なんだろ? なあ、おい佐藤!」
 待ってくれと言われても、待つわけがない。そんな義理はない。
 呼びかけを無視し、ホールを抜ける。何事かと視線を向けてくる人物は大勢いるが、当然、仁科に対してどうしたんだと声を掛けて来るような者は居ない。しかし、顔の売れた小竹は別であるようで、追跡者が呼び止められているらしい声を聞きとめ逆に仁科は足を速める。預けたバッグとコートを受け取る際、「徳原さまからお預かり致しました」と紙切れを渡されたが、立ち止まって確認する余裕もない。とりあえずコートのポケットにそれを突っ込みながら、会場から溢れた人込みの中をすり抜ける。
 こんな風にまでなって、逃げられるとは思っていない。追いつかれるのは時間の問題だろう。フロントまでの距離と、自分と小竹の速度を考えれば、それははっきりと見える未来の出来事だ。例えホテルから無事に出られたとしても、飛び乗ったタクシーを確認されては終わり。逃げ切りたいと願うのは、もう無駄な事である。叶わぬ夢を見る暇があるのならば、この現実を直視し対処すべきだろう。
 今、自分が考えるべき事は、どこで追跡者と対峙するかという事だ。
 相手が何を始めるか、何を言い出すかわからない馬鹿だからこそ、場所は選ばねばならない。どこで足元を掬ってくるかわからないような連中の中で、先日のように騒がれたくはない。捕まるのならば、少しでも人目の少ないところがいい。
 仁科はそう判断し、フロントへは向かわずに右へと折れ階段を駆け上がった。
 半分も行かないうちに、通路に小竹の姿が現れる。直ぐに自分に気付き足を向けてくる男から視線を逸らし、残りの階段を一気に上る。
 時間が時間だからだろうか。上がった先のラウンジに人影は無かった。これなら逃亡は可能なのかも知れないと、仁科の頭に別な未来が浮かぶ。だが、それは希望ではない。いつかは小竹に捕まるのだろう事は、もう決定事項だ。たとえ今から真中が仲に入り誤魔化してくれたとしても、あまり意味は無いだろう。
 やはり観念して小竹と対峙しておくか、それとももう一度身を隠してみるか。
「佐藤」
 結論を出す前に背後から声を掛けられた。予想以上に男の足は速いようだ。いや、体力にものを言わせ数段飛ばしで階段を上がってきたのか、短く名前を呼ぶ声はどこか息切れしているようにも感じる。
 ならば、選ぶのは前者だ。このまま逃走を図るよりも、その方が早くて確実である筈だ。何より、逃げるのも色々面倒である。
 仁科は背中を見せたまま首だけで振り返り、小竹を見た。互いの距離はまだ、数メートルある。これを自ら縮めるか、相手が来るのを待つか。たかが数秒の為に高速で思考を廻らせ、待ちはしないと即決する。たった一秒でも、二秒でも。時間をかけるのは何故だろうか、自分には不利になるように思えた。それはただの勘でしかないのだが、今までそれに救われてきた仁科にすれば、理由はなくとも賭けるだけの意味がある。
「お前、逃げる事はないだろう。女装が趣味でも別に恥じる事は……って、なッ!オイ!?」
 ぼやきながら近付く小竹に向かって足を踏み出し、そのまま脇腹を目掛けて右足を振り上げる。本人が危険を察したというよりも、体が何かを感じ勝手に動いたというように小竹が足を半歩引いた為、その蹴りは空を切った。だが、驚くばかりの男には次の一手までは避けられず、続けた回し蹴りが今度は見事に決まる。踵が礼服に皺を作り相手の肉にめり込んだ感触に手応えを知り、仁科はその勢いを殺さずにしゃがみ込み、バランスを崩す小竹の両足を払いきった。
 呻きなのか驚きなのかわからない声を発しながら床に転がった男の腹を、真上から無言で踏みつける。自分の全体重をかけても、ヒールが皮膚を突き破り肉を刺す事はないだろう。脂肪ならば兎も角、小竹の腹を覆うのは筋肉だ。鬱血を作れれば上等。だが、このふざけた男にも痛覚が人並みに存在するのならば、ある程度の効果はある筈。攻撃中は、躊躇いは勿論、弱気は禁物だ。隙を与えない為にも、己の力を信じるのみ。
「う…ぁ……佐藤、やめ――」
「――落とす」
 足首に伸ばされた手を、逆の足で蹴り払い、痛みに歪む顔に宣言する。自分の攻撃によるダメージではなく、小竹がこうして倒れてしまっているのは、状況についていけなかっただけだからだろう。時間を与えれば、間違いなく反撃をくらい、自分が落とされる。
 仁科は手にしていたバッグから、携帯電話ほどのスタンガンを取り出した。小型だが、気絶をさせるくらいの事は出来る優れものだ。この場で流血沙汰は、どう考えても得策ではない。気絶させ、酔っ払いにでも仕立てるのが無難だろう。幸い、微量だろうが既に小竹はアルコールを摂取している。
 逃げるつもりは、もうない。真中が話した事を考えれば、小竹から身を隠すのはもう無理な事だろう。だが、ここでこのまま語り合う気も仁科にはなかった。まずは、情報が欲しい。己が不利にならない為にも、小竹と向き合う前にいくつかの事実を知っておかなければならない。
 この男が何者なのか。本人が嘘を付くかどうかはわからないが、聞き出すのならば当人よりも第三者の方がいいだろう。何より、小竹は煩くてかなわない。
「お、おい、マジかよ…」
 手に持つものが何なのか。近付くそれに気付いた小竹が笑うように口を歪めながら、擦れた声を出した。怯えている訳ではないのは、眼を見ればわかる。だが、呆れの色も、軽蔑の色もないのは不思議だ。自分を見るこの黒眼はまるで、ただひたすらに困っているような、迷う子供のもののようだと仁科が感じ取ったその瞬間――景色が崩れた。
 何だと思った時にはもう、背後から腕を取られ、床に頬を押し付けられていた。両足も少し広げた状態で固定される。辛うじて自由を保った左目を動かし、自分を拘束する者を確認しようとするが、頭の後ろに眼がない限りは無理だった。自分の視界に入らないよう計算しているのだろう事を察し、仁科は無駄な努力を早々に放棄する。腕を掴む手から、体格の良い男であるのがわかった。ならばもう、どんなに暴れようと無駄であり、意味もないだろう。
 気配は全く感じなかった。拓けたこのラウンジに侵入できるのは、階下から続く階段か、奥の通路か、スタッフルームが隣接するキッチンカウンターだけだ。まさかそこに前もって隠れていた筈はなく、この男も自分と同じように階段からここへやって来たのだろう。目の前の小竹に集中していたとは言え、気付かなかったのは己の落ち度でしかない。諦めも付くというものだ。
「大丈夫ですか」
「ン…ああ、大丈夫。油断しただけだから」
 身体を起こしながら発した小竹の言葉を聞きとめ、仁科は心の中で小さく笑った。先日の接触で、相手の手癖の悪さを知っているだろうに無防備でいたのは、油断ではなく学習能力の無さからだろう。だが、今の自分の状態を考えれば、小竹の馬鹿さを心底から笑えるはずも無く、それは直ぐに心から消え去る。
 体重を掛けられた箇所が、痺れるようにじんわりと熱を発していく。息は乱れていないと言うのに、心臓だけがやけに跳ねる。不快感が毒素を生み出し、体内を駆け回っているようだ。
「気を付けて下さい。今がどんな時かおわかりでしょう」
「悪い、悪い。これからは気を付ける」
「もっと早くからそうして頂きたかったのですが」
「だから、悪かったって。怒らないでくれ」
「貴方という人は…」
 本当に困った人だと続ける男の低い声と、笑う小竹の声を背中で聞きながら、仁科は眼を閉じた。いつまで自分は床にキスをし続けていなければならないのだろうか。いい加減、飽きるというものだ。
「いつまで乗っている。退け」
 自分を無視し和やかな空気を作る二人に向ける配慮は持ち合わせていない。加えて、自然と意識がこちらに向くのを待っていられる程、仲良しこよしに協力する気はない。
 不意打ちをくらったとは言え、あっけなく拘束された事に対する怒りもなければ、己の弱さを嘆く気持ちもない。けれど、プライドとは別のところで、我慢ならない感情があるのもまた事実だ。気分転換に少し遊んだだけであるのに、どうして第三者によって床に押さえ付けられるような事態にまで発展しているのか。小竹に一発殴られるのならばまだしも、意味がわからない。想像以上の現状の面白くなさに、仁科は低い声で解放を求めた。
 だが、当然ながら相手は拘束を緩める事はなく、逆に握る手に力を込める。
「放してやってくれ」
「ですが、」
「大丈夫だから。なぁ、佐藤?」
 小竹の笑い混じりの声に仁科は応えなかったが、男は命令に従い拘束を解いた。親切なのか嫌味なのか、半身を起こした仁科に手を差し伸べてくる。
 小竹が言ったからこその、行動。
 これが世に言う、忠犬か。
「……」
 大きな手から服に包まれた腕をつたい見上げたそこには、真面目腐った顔があった。イヌというよりもクマに近い。歳の頃は、四十半ばから五十前半といったところだ。ブラックスーツの下にある身体は相当鍛えられているのだろう、年齢には比例しない厚みがある。中年太りなどという言葉はこの男の辞書にはないのだろうなと思いながら、仁科は立てた膝に手をつき自力で立ち上がった。若干、押さえ付けられていた肩が痛んだが、動くのであれば問題はない。
 必要とされなかった腕を引き戻す男を真正面から眺め、仁科は躊躇なく足を踏み出した。瞬間に鋭い視線で射られるが、それを受け流し男の横を通り抜ける。技術もそうだろうが、体格からして歯がたたないのだ。勝てないどころか相手にもならない相手と遣り合う趣味はない。
 床に落ちる鞄と上着を取り上げ、仁科はそのまま足を進めた。だが、直ぐに小竹によって止められてしまう。腕を掴んで放さない男を振り返り、仁科は無言で見詰めた。
「色々聞きたい事も言いたい事あるが、まずはこれに答えてくれ佐藤。俺は何か嫌われるような事をしたのか?」
「……」
「何を怒っているんだよ?」
「手を放せ」
「佐藤」
「放せ。それとも、またその男に俺を捕らえさせるのか?」
 暗に、だとしたらまずは一発お前にくらわせるぞと片頬で仁科が笑うと、小竹が眉間に皺を寄せた。
「…話をしよう」
「ンなものをする気はない」
「…………」
「……埒があかないな」
 何だこの、別れ話が縺れるの男女のような会話は。バカすぎだ。
 横を向き溜息を落としながら、視界の隅でこちらをジッと見ている男との距離を仁科は測った。大柄でも瞬発力はあるだろう人物との間にある五メートルなど、無いにも等しい。だが、こちらには道具がある。そもそも勝負をするわけではないのだ。勝たなくてもいいのならば、何だって出来るというものだ。
「その兄サンに捻られて痛いんだ、いい加減放してくれ」
「え?あ、そうなのか?」
 悪いなと、疑う素振りも無く力が弛められた小竹の手を逆に仁科は掴み引き寄せ、僅かに傾き目の前の位置に落ちてきた首と背の付け根辺りを、握り合わせた両手で力いっぱい殴った。案の定、ガクリと膝が折れた小竹が床に突っ伏すよりも早くに男がやって来たが、イヌならば加害者の拘束よりも被害者の様子をまず確かめるだろうと、崩れていく小竹を男に押しやるように礼服を纏う身体に蹴りを入れる。
 僅かに窺えた小竹の顔は、苦痛に顰められていた。手荷物があった為、思った以上の力は加えられなかったのだろう。残念ながら、気絶まではしていない。
 しくじったなと思いつつ、仁科は身を翻し通路を駆け、階段を降りながらコートを羽織る。
 会場になど戻らず、このまま帰った方が安全なのかもしれないが。そもそも何が危険と言えるのかもわからないので、とりあえず情報を収集する必要がある。小竹に正体がバレる事はウザく、また、あのデカイ男に報復されるのは嫌ではあるが。それはその時になって、顔を顰めればいい事だ。今逃げても、バレる時はバレるし、殴られる時は殴られる。
 まずは手っ取り早く、真中を捕まえよう。
 見咎められなかったのを良い事に、荷物を手にしたまま仁科は再び会場内に足を踏み入れた。今なお真中がこの中に居るかどうかはわからないが、探すくらいの時間的余裕はあるはずだ。小竹達は直ぐに追いかけては来なかったし、探すのだとしてもホテル内ではないだろう。あの逃亡劇を演じてなおもここに止まっているとは、彼らとて一番初めには考えないだろう。
 すぐに見付かるのだとすれば、小竹もまた追う事を諦め、情報を得る為に真中を訪ねるという展開だが。それを考えれば、目的の人物は早々にこの場を去っているのかもしれない。
「仁科クン」
 若干、人は少なくなっているようだが、それでもまだ会場内の人口密度は高い。壁を伝うように歩みを進め視線を飛ばしていた仁科は、声を掛けられ振り返る。バルコニー風になった庭に面した通路に、徳原がグラスを片手に立っていた。寒くないのだろうか、ジャケットを脱いでいる。
「伝言、受け取った?」
「ええ。まだ確認していませんが」
 そう言えばスタッフに渡された紙切れを仕舞ったなと、仁科がポケットに手を入れる。取り出したメモには、ホテル内に入るショップの名前が記されていた。
「着替えるのなら、そこを使えばいい」
 話はしているから俺の名前を出してよと、笑う徳原に何処からか声が掛かる。こういう場では、休む暇もないらしい。
「折角いい逃げ場所を見付けたと思ったんだが、駄目だったか」
「じゃ、俺は先に失礼します」
「仕事は終わったんだね、羨ましい。お疲れ様」
 室内に戻ったところで、徳原と別れる。去り際、熊谷に宜しく言っといてくれと伝言を頼まれたが、冗談でしょうと拒否をする。あの上司にそういった言葉は必要ない。何より、自分が口にするのは危険だと、仁科は身をもって体験している。部下を甚振るのが趣味な男は、チャンスを見逃しはしない。
 伝言などをすれば、また徳原と仕事をさせられるのは絶対だ。
 出入り口に向かう捜し人の背中を見付け、仁科は足を速めた。こんな自分にも少しはツキが残っているらしく、真中を捕まえる事に成功する。
「付き合って下さい」
 後ろから近付き腕を組むと、真中は振り向きもせずに苦笑した。

2008/01/10
|| Novel || Title || Back || Next ||