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まだ居たのか、余裕だな。俺はアイツに捕まる前に帰りたいんだが。
口ではそんな言葉で嫌がる素振りを見せたが、真中は逆らう事無く仁科の歩みに付き合った。面白がっているというよりも、純粋に気に掛けているような雰囲気が癪に障る。一体この男はどう言うつもりなのか、目的がわからない。
俺の周りはこんな奴らばかりだと仁科は思う。昔はそうではなかった。自分と同じ、単純なガキばかりだった。何より、自分自身、相手の事などわからないならわからないままで良かった。何を考えているんだかと、呆れひとつで流しきれた。だが、今は。追求せねば己の身が危なく可能性がそこにある。周囲は、ひと癖もふた癖もある人物に囲まれている。
けれど。それでも昔の自分ならば、もっと勝手をしただろう。危険を感じても放っておいたのだろう。それは歳を取ったからなのか、不安定な場所にいるからなのか。いつの間にか、他人との付き合いを断ち切れない自分がいる。
これもまた、不安要素のひとつだ。周囲だけではなく、己の精神も危うい。
「それで、アイツはどうした?」
人込みから離れ二人きりでエレベーターに乗り込んだところで、真面目な声が問い掛けてきた。三階と命令するように言い、真中が素直にボタンを押したのを確認してから、仁科は口を開き応える。
「殴って逃げてきた。付き合っていられないですから」
「グズグズしていたら、また見付かるぞ」
「必死に逃げたところで、アンタが喋るんだ、どうせバレる」
「心外だな。だが、だったら余計に、俺と居ては拙いだろう。お前に逃げられたのなら、アイツは次に俺のところに来る。さっさと帰れよ仁科、動いているのは殴って済ませられる成昭ばかりとは限らない」
予想ではなく、事実として知っているかのように。はっきりと言い切る真中の言葉に、先程対峙した男の押し殺した気迫が蘇る。気付けば手首へと伸びている手を、仁科は根性で押し止めた。あの男に捕まれ込められた力が、まだ骨の中で響き渡っているようだ。今になって、痺れが全身を襲う。
「情報が欲しい」
目的の階に到着し開く扉と共に、仁科は請いを吐き捨てた。
俺もまた、捕まっている。いつの間にかはまり込んでいるのだと、頭の片隅で思う。
「小竹成昭は何者ですか」
自分を有利にする為だとか、下手を打たない為だとか。確かに、尤もな理由は存在する。だが、逃げる以上の何かがそこにあるのも確かだ。必死に追いかけてきた男の顔が脳裏に浮かぶ。華やかな場所の住人で、あんなイヌを飼っているいい年をした男が、たった数時間接した他人を探すだなんて、どう考えても理解出来ない。けれど、こうして情報屋を捕まえ請う自分もまた同じくらいに馬鹿なのだと仁科は思う。
本当に、愚かだ。
俺は、畏れているのかもしれない。それが何に対してなのか、明確にはわからないが。何かに警戒しているのは間違いない。小竹が本当にただの馬鹿であれば、こんな風にはなっていなかっただろう。
ほんの少し刺激を求め、苛立ちを静める為に、ただ単純にやってみただけに過ぎない。ストレスが発散出来る程の遊びをしたわけでもないというのに、あの時で終わる以外にはない小さな事柄であったはずなのに、どうして自分の知らぬところで事が動いているのか。こんな所で、何故再会する? 他人からの忠告が入る? こんな事態を、誰が予測出来るという。
小竹の登場もさる事ながら、真中の出現も、あの忠犬の存在も、仁科の精神を圧迫させる。息苦しい。いつから俺はこうも簡単に捕らえられるようになったのか。昔はもっと、軽く生きていた。柵などなかった。いつでも切り捨てられるのだと信じていた足枷が、いつの間にか増え続け、気付けば歯が立たなくなっている。そんな感じだ。逃げたい時になって漸く、動く事もままならない状態に気付く。
最悪だとしか思えない。冗談じゃない。
冗談ではないのだ。
「アンタ、さっき言っただろう。情報を買えと」
買ってやるからさっさと喋れ。タイミング悪く、こんな時に目の前にポッカリと開いた大きな穴に、飲み込まれまいと必要以上の強気を出す。仁科の低いその声に、「だから、アレは冗談だと言っただろう」と真中が苦笑した。
「その辺の奴に聞けばタダで喋ってくれるような話を商売にする程、俺はアコギじゃない」
「だったら、無駄口叩いていずに喋りやがれ。俺だって、小竹は兎も角、あのイヌには見付かりたくはない。言われなくても帰るさ」
「イヌ?」
「飼っているだろう、ハチ公を」
「あいつの周りは忠犬ばかりだ」
真中がそう言い肩を竦めるが、仁科としては苦笑も浮かばない。顔を顰めながら、横文字の店名が大きくライトアップされたショーウィンドーの前を通り過ぎ店内へ足を踏み入れる。
店はもう閉店時間を過ぎていたのか、仁科達が入ると静かにクローズの札を掛けた。店員は何をどう説明されているのか、腕を組んで現れた男とオカマの二人連れに怯む事もなく、丁寧な応対で奥へと案内する。通されたのは、採寸室として利用しているのか、それともVIP用の試着室なのか、仁科にはわからない六畳ほどの部屋だった。
他に希望があれば声を掛けてくださいと着替えを示し、一礼をもってスタッフが退室する。壁際に掛けられた数点の衣服から適当にシャツとパンツを選び、仁科は背中に腕を回した。ファスナーを降ろしドレスから両肩を抜いたところで、「仕切れよ、お前」と真中の苦笑が後ろから届く。振り返らずに視線だけを上げると、鏡の中でソファに座る男と目が合った。
「カーテンがあるだろう」
「面倒」
裏方作業を見せるな、幻滅する。ストリップをするなら、もう少し色気を出せ。
切り捨てた一言に対し真中の馬鹿な言葉が続くが、仁科はそれを全て放置し、女の身体を作り出していた下着を脱ぎ捨てシャツに腕を通した。ホッと落ち着くと言う程の大袈裟なものではないが、晒していた肌が隠されるのは多少の安心感に繋がる。自分は思っていたよりも緊張していたらしいと、仁科は自覚し口角を少し上げた。
劣等感はないが、己の身体に対しての自信も持ち合わせてはいない。それでも躊躇う事なく身体を晒すのは、単なる自虐趣味のようなものだろう。シャツ越しに腕をひと撫でし、短い息を吐き出す。
「それで、そのハチ公はどんな男だったんだ?」
「中年の熊」
「なんだそれは、イヌではなくクマときたか。ふーん、中年のクマねぇ。背格好や顔の特徴とかはないのか?」
「身長は180前後、体つきはゴツい。顔は、真面目腐った愛嬌の無い淡泊な作りだが、彫りが深めのクマ顔。短髪、どちらかと言えば色白、耳が若干潰れていたような気がする」
「お前よくそれで調査事務所に勤めているな。観察眼がなさ過ぎじゃないか」
「俺はただの事務員です」
「そう思っているのは、お前だけだよ」
「……」
この男は、何かに付けてそこを突く。真中の嘆きに、仁科は着替えの手を止める事はなかったが、それでも眉を寄せ眉間に皺を作る。
本人曰く、熊谷の理不尽に付き合うのは可哀相だと、同情からの忠告らしいが。言われる方にとっては、ただの嫌がらせでしかない。確かに、今もそうだが、真中は好意的に接してくれる。上司が教えない裏の話を、吟味し必要だと判断した場合のみだろうが、仁科にも教えてくれる。だが、だからと言って、それ以上の事をする訳ではない。熊谷のやり方に、直接口を挟む訳でも、救い出してくれる訳でもない。
それは当然の事なのだろうが。ならば、こうして自分を突くのも止めろと仁科は思う。真中は真中なりに考え、自分を構うのだろう。だが、そうして構われる俺はどうなるのか。中途半端過ぎて、重荷になる事もしばしばだ。
到底、有り難いとは思えない。
「まあ、それよりも。その男は多分、ユアンだな」
「ユアン?」
仁科はパンツのファスナーに掛けていた手を止め、聞きなれない人名に、今度は思わず振り返る。
「ドコ産だ」
「福建だ」
へぇと思わず頷いてしまう。ピンからキリまであるだろうが、それでも中国の福建省と言えば、犯罪で生活を成り立たせている輩が多い地域だ。密入国も多いからだろう、今は留学生であっても日本へ来るのは難しい。あの雰囲気、あの身のこなし。つまりは、それなりの出だという事だ。
「若い頃に来て以来ずっとこっちで暮らしているから、日本での生活の方が長いくらいだな。訛りのない綺麗な言葉を話すから、名前を聞かなきゃ、中国人とはわからない」
「ビザは持っているのか? 不法滞在なら、次に会った時、俺は迷わず売るぞ」
感情は篭っていないが本気なのがわかる仁科の言葉に、真中が軽く肩を竦める。
「その辺は大丈夫だ。なにせ、根津のナンバーツーだからな」
「根津?」
「國分の傘下だ、國分組系根津組代貸・ユアン・チェンニン」
「…ヤクザか」
福建出身とくれば成る程と思う方が強いが、それでもやはり驚きは大きい。ヤクザにしてはアクのないユアンの顔が浮かび、それはゆっくりと小竹の顔へと変わっていく。國分組系列の暴力団事務所は腐る程ある。フロント会社を入れれば、莫大な量だ。その中に存在する根津組がどの程度の規模なのか、仁科には全く予想もつかない。だが、今夜この催しに出席している事を考えれば、昨日今日に出来た組織ではなく、小さな会社でもないのだろう。
中国人が、大した出世だ。
「大きい組なのか」
「構成員は30人程だな。準構や子飼いのチンピラを入れればそれなりになるが、大きくはない。だが、根津組は古いからな。組長は本家の幹部をやっていた時期もあるし、國分では一目置かれている。言う程も立場は弱くない」
「そのヤクザが、何故あの馬鹿のイヌをしている?」
「もう気付いているだろうが、小竹成昭はイクヤグループの血族だ」
やはり、そうきたか。
パーティー会場内での様子から、そうしてその苗字から、そうだろうとは思っていたが、確かなものとして知らされた情報に溜息が落ちる。あの男が、日本を代表する企業の御曹司だと言うのだ。馬鹿らしい気分にならずにして、他にどんな感想を持てという。
イクヤと言えば、現在は会長になり経営からは退いた創業者が戦後の混乱期に行商業を始め、幅広い業種に手を広げながら昭和を駆け上った企業だ。今や多くの国でその名を響かせている。
「創業者である現会長・昭一郎の孫であり、現代表取締役社長の次男だ。だが、幾つかの子会社で役員についている関係でこういった会にも出席するが、グループ内でははっきり言って親族の割には大した席には座っていない。近い内に、小竹からは籍を抜くだろう」
「抜いてどうする。ヤクザになると?」
根津組の代貸を従えている姿を目の当たりにはしたが、日本を代表する企業の血縁者がヤクザになるという話など、冗談としてしか聞けない。何より、常人ならぬ雰囲気を感じなかったとは言えないが、それを上回る程の馬鹿なあの男がヤクザ稼業を務められるとは思えない。騙すよりも、騙されるタイプだ。殴るよりも、殴られるほうが似合っている。
有り得ないだろうと、仁科は軽く笑うよう息を鼻から抜く。それは、根津がイクヤを乗っ取る為の、ただの布石じゃないのだろうか。
だが、それならばもっと単純に、経営に割り込めばいい。真中の話は、それとは真逆だ。まるで、イクヤが根津に入り込もうとしているかのような図だ。しかし、それはないだろう。小さいながらもヤクザとしての構えだけは確りしている組など、害にこそなれ得にはならない。本来ならば関わり合いたくはないものだ。ならば本当に、本気であの馬鹿はヤクザになりたいのだろうか。
「馬鹿とは言え、憧れる歳でもないだろう」
ジャケットを選びながらの仁科の言葉に、真中が喉で笑う。
「憧れはないさ。だが、恩や情はあるんだろう。本人はまだその気になっていないようでもあるがな、アイツの性格からして最終的には根津に入るさ」
「小竹と根津の関係は?」
「成昭は、現根津組々長の血縁の中で唯一の男だ」
「…血縁ねぇ」
一流企業と任侠団体が親戚関係かと、今度は仁科の口から溜息が落ちる。なんてややこしいのか。政略結婚なのか何なのか知りたくもないが、面倒な結び付きをするなよとつい思ってしまう。坊ちゃんは坊ちゃんのままいればいいものを、今更ヤクザになるなど漫画の世界だろう。コメディーだ。
仁科の呆れを感じ取ったのか、真中が足を組み替えながらフォローするように説明を続ける。だが、もうこれ以上何を聞いたところで、評価を変える事は出来ないだろう。あの男だけではなく、誰も彼もが愚かだ。
どれだけ金を儲けようが、力を備えようが、他人の上に立とうが。所詮、人間なんて馬鹿な生き物なのだ。
「外孫とは言え孫は孫だ、根津の組長にとっては可愛いのだろう。早くから、跡目にするんじゃないかという噂はあったんだ。だが、まあ、からかいと変わらないようなものだった。それが最近になって、組長自らアイツを組に呼び寄せ仕事をさせ始めたものだから、真実味が帯びはじめたってものだ」
「根津の組長も、もういい年なんでしょう」
耄碌してんじゃないのかと口にしながら、仁科は鏡に向かい化粧を落とす。続いて整えられていたショートヘアを指先で弄ってみるが、整髪料を使われているので思うように変えられない。面倒だがとウイッグを外すと、地毛は若干湿り気を帯びていた。細い髪が、頭蓋骨に沿うように張り付いている。片手でかき回し空気を入れ、短い髪を後ろへ横へと軽く流す。
上手くいかない。切ってやろうか。
「ああ、八十近い。まだまだくたばりそうにないほど元気だが、いい加減、代変えをしなきゃならない」
「だからってパッとやって来た孫にだなんて、他の者が納得しないでしょう」
「黒を白だと言わせられなきゃ、組長なんて務まらないさ」
確かにヤクザなんてそんなものなのだろうが、これもまた救いようがない馬鹿だなと仁科は顔を顰める。組のトップとナンバーツーが推しているとは言え、揉めないはずがない。何より、本人の意思が明確になっていないのだ。周りはやきもきしている事だろう。他人のお家騒動に興味などないが、小竹成昭が何かから逃げ出した夜を共にした仁科としては、考えるところは多少あると言うものだ。しかし、それでも思うのは。馬鹿は馬鹿同士で遊んでいろと、他人は兎も角、俺を巻き込むなとの一言に尽きる。
暴力団員になど引き合わせやがって、あの野郎。もう一発殴っておくべきだったと、頭を振りながら仁科は思う。苛立つ事に、草臥れたように髪は寝たままだ。まるで幼子のように柔らかい髪質が、今更ながらに忌々しい。
鏡台ならば何かあるだろうと、チェストの引き出しを適当に開け、見付けたワックスを許可なく使用する。
「あの忠犬はずっと極道をやってきたンでしょ。そんな男も、血縁ってだけであっさりと認めたのか?」
「ユアンは組長の外孫でしかない成昭を、ガキの頃から面倒を見ていたひとりだ。忠誠心は人一倍あるし、頭も切れる。武術においては組内でも右に出る者は居ない程の使い手だ。跡目候補に名前が上がった事もある。だが、ヤツは誰かに仕えてこその人間だ。代貸以上になる器じゃない。何よりあの男は、心底成昭に惚れている。あいつ自身が、成昭を主人にと望んでいるのさ。実際、今は根津のナンバーツーと言うよりも、成昭の片腕だな」
「物好きだな」
「それこそ、ヤクザの趣味になど期待するなよ。あの男にも、あの男なりに考えがあるんだろう。何せ、ユアンは成昭を組長にする為の外堀として代貸になったようなものだからな」
「どこまでもイヌだな」
「表面的には、組長の独断だ。だから反対派は焦った。しかし、実際のところは、ユアンが成昭を求めたんだろうな。根津のオヤジ以外で自分が仕えてもいいのは彼だけだと」
「組のトップとナンバーツーが小竹を押しているという事か」
「そうだ」
身形を整え振り向いた仁科に、真中が重々しくも感じる声で、ゆっくりと頷きながら答える。もう、二代目は決まったようなものだと。
それでも、反対派がいる限り、簡単に代替えする事はないだろう。小竹本人が声を上げても、その座に就くことが決まっても、揉めない筈がない。ユアンの様子を思い出し、内輪揉めはもう既に始まっているのだろうと仁科は予測を付ける。真中は事実を話しているのだろうが、全てではない。きっと、小竹の事態は口にしたい上に深刻に進行している。
だからこそ、この男は俺に小竹成昭の話題を振ってきたのだ。
「なあ、仁科よォ」
真中が口を開くと同時に、小さな部屋にノックの音が響いた。まるで様子を見ていたように、先程と同じ店員がタイミングよく飲み物を運んでくる。
部屋に広がる、コーヒーの香り。
店員と差し障りのない会話を始めた真中が、自分に何を言おうとしていたのか。どうせ小言なのだろうと予想がついた仁科は、大人しくソファに腰掛け、カップに口を付けた。
2008/01/23