Act.2-1

 相変わらず汚い場所だと、狭い階段を上りながらマミアは整った細い眉を寄せた。
 本当に、汚い。
 だが、来る度にそれが増しているのでも改善されているのでもなく、初めてこの建物へ足を踏み入れた時とあまり変わらないそれは、思った程の不快感を与えはしない。ただ、汚いと言う事実を自分に伝えるだけのものであって、それ以上でも以下でもない。だからこそ、眉を顰めつつもこの場所に来る事がそれほど嫌だとは感じないのだろう。
 一人の人間が生活している割には綺麗にはならず、怠惰な男が住人である割には汚くもならない不可思議なその事実は、この空間にある意味価値を与えている。魅力的だとは口が裂けても言えない古い建物に、そんな神秘的な事実がほんの少し埋め込められている。
 何度もここに通っていなければ気付かないそれを知っている自分を、多少呆れはするものの、マミアは嫌いではない。むしろ、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、それに触れている事に少しばかりの優越感を持っていたりもする。
 だが、しかし。
 それは決して他人には教えられない、口にするのは愚か過ぎるものでしかない。何かがあれば、直ぐに消え去るほどの小さな思いにしか過ぎないのだ。何よりも、この空間の中に住む男自身の事をそこに加えれば、微笑む事など出来はしないだろう。普通ならば。
 この汚れたビルの住人は、まともな人間ではない。
 その点では確かに、自分も、またこの街に住む多くの者もそうだと言えるのだろうが、レベルが違うのも事実。社会から少しはみ出しただけの自分達とは全く違う人間なのだ、ここに暮らす、あの男は。
 男の仕事は、人に死を与える事。それは、日常ではないにしろそれなりの場所で生きている自分にとっては、驚くほども珍しくはない。むしろ慣れたそれだとも言える。今までも、人を殺した事がある人間と数え切れないくらいに接してきた。この町の実権を握る自分の恋人に至っては、それ以上に残酷な事をしているだろう。
 だが、それでも恋人は、まだ人間だ。ここの住人とは違う。
 あの男は、普通過ぎる。
 男の仕事を見た事はないが、その手で何人もの命を奪ってきたのだろうに、その姿はまともすぎるのだ。かえってそれが異常なのだと、マミアは感じてしまう。まるで呼吸をするのと同じように、生きている上で必要な行動であり意識をすることなく自然に人殺しを実行する。本人が殺人をどう思っているのかはわからないが、男の仕事はまさにそんな風に感じてしまうものなのだ。仕事の前も、その後も。決して、これから人を殺しに行くという雰囲気も、殺してきたという雰囲気も感じさせない。だからこそ、その稼業を知っていて感じるそれは、不気味だとしか言えない。
 だが、だからと言って、恐怖は感じない。逆に、面白いと思う。
 しかし、それを表に出すのは命取りになるということも、マミアは知っている。あの男に深く関わっても、何もどうにもならない、無駄な事なのだと本能で悟っている。関わってしまえば、自分が潰されるのがオチだろう。
 だからこそ、必要以上に男との接触を持たない。男自身は嫌いではないが、彼の纏う全てが自分とは掛け離れすぎたもの。表面上はそれこそ普通に接する事が出来るが、互いにそのバランスを崩したならばきっと、まともな会話一つ出来なくなるだろう。
 いつもは掴み所のない、ただのだらしない男である彼は、しかし自分など簡単に飲み込んでしまうだけの力をあの体の奥底に持っている。
 それ故、興味を持ちはしても、首を突っ込むような愚かな事などしない。だが、かといって、事務的な態度ばかりでは、こちらが不利になるばかり。相手の関心を引く事も、無くす事もさせない程度の関係を努力して維持している。一定の距離を保ち、けれども本当は心優しい殺し屋に、自分の存在を不快に思わない程度に教え込む。それが、恋人が自分に望んだ役割なのだろう。そうでなければ、自分が使いをする意味などない。伝達だけならば、実行可能な者が大勢あの恋人の下には居るのだから。
 メリットも何もなく、殺し屋に会う者などいないだろう。マミアにも、こうして汚いこの場所に足を運ぶだけの理由が存在する。それは、好奇心であったり、恋人への忠誠であったりもするが、何よりも自身の価値を高め、如何なる可能性をも手にする為のものであるのだろう。その点では、恋人とは言えこの街の頂点に立つ男のひとつのコマでしかなく、そうしてコマだからこそ更なる上へと上り詰める為の手段として下される命令に忠実に従う、他の者達と何ら変わらない上下関係が成り立っていると言える。そう、恋人だからと甘さを見せる男ではないのだ、この街を仕切るルイ・ウォンは。だからこそ、失敗など許されず、期待以上の結果を出さねばならない。
 ウォン自身は、マミアに対しそんな事を一言も口に乗せた事はない。ただ、毎回、殺し屋への使いを頼まれてくれるかと首を傾げるだけだ。だが、それをただそれだけのものとして頷けば、自分はそれで切られてしまうだろうと言うのは、初めからわかっているというもの。何故自分がと言う疑問の方が強かったが、与えられたものを突き返す選択などなかった。また、つき返さねばならない理由もなかった。この恋人の傍にしか自分が居られる場所はないのだから、なるようにしかならない。その思いが強かった。何よりも、一歩間違えれば馬鹿な女になるのかもしれないが、そんなヘマを犯しはしない自信もあった。
 殺し屋であろうが、人間らしくなかろうが。所詮は男という生き物に変わりはない。
 確かに馬鹿な男を取り込むのと訳が違うのだ、当初は緊張もした。今なお、慣れきったというわけではない。だが、それ以上に、今はそんな微妙な関係に興奮すら覚える。汚れたこの階段を昇り、その空気を吸いながらも男を訪ねるのは、それがあるからこそなのかもしれないと思うほどに。
 たとえ、愛する者の命令であっても、あの男でなければこんな役は早々に誰かに引き継いでいたであろう。それが出来るだけの能力がない訳でもない。必要ならば、今からでも可能だ。文句のひとつも言わせずに、ウォンを納得させられる自信もある。
 だが、今のところ、そんな行動をとる予定はマミアにはない。これからも、多分ないだろう。人間として受け入れたくは無い点もありはするが、確実にマミアはあの殺し屋を気に入っている。その点では、自分をここに仕向ける恋人と何ら変わりはしないのだろう。彼もまた、あの男の事を自分と同じように思っているのだから。何処かで恐怖を感じながらも味わうスリルを楽しみ、また、単純に人を殺しながらもまともな人間である男を面白いと思っているのだ。しかし、あの恋人の興味は、自分のそれとは違い性質の悪いものだ。
 例え、一流の殺し屋であろうと、ルイ・ウォンに勝つ事は難しいであろう。何よりも。それ以前に、あの殺し屋は、最初から戦う事を拒否している感がある。負けるからという理由ではなく、面倒だからというように、仕掛けてもやる気など全く見せないのだ。しかし、そう言う打っても響かないおかしな所が、恋人が気に入るポイントなのだとマミアは知っている。
 決して可愛いと言っていられるレベルではないが、子供のような一面を彼は持っている。自分はそこに絆されたとのだと言っても過言ではないのだろう。マミアは殺し屋に負けず劣らず可笑しな恋人の事を考え、体の中に熱を感じた。
 それまでの雑念を振り払うよう、カツンとヒールを響かせ、階段を昇りきる。
 視線の先の扉は、あの男の聖域。自分にとっては、慣れる事はない異世界。
 口元に笑みを浮かべ、マミアはその扉に手を伸ばした。二度ノックをし、返事が無い事を気にすることもなくノブを回す。足音を殺す事はなく、気配を消す事もせずに来た自分にここの住人が気付いていない筈はないのだ。応答がないのに進入した所で、問題があるはずがない。
 いつものように、扉を開ければ驚く様子もなく少し不機嫌そうな男の無表情に出会うだろう。そう思いながら、マミアは異世界への扉を開いた。
 だが。
 視線の先には、誰の姿も無かった。ジャングルにでもするつもりなのかと呆れるくらいの、様々な観葉植物が所狭しと置かれているだけ。先日この部屋に来たのは、確かまだ10日程前の事だ。長くても、半月も経っていないだろう。それなのに、明らかにその緑が増えたように思う。
 それとも、置き場所が変わっただけなのだろうか。
 新品だと思える鉢は見える場所にはないなと、マミアはその場で観察するように部屋の奥まで眺め、一歩足を踏み入れた。自分では落ち着いているつもりだが、胸の中でチリリと何かが擦れるような、痛むような感じがした。緊張しているのかもしれないと、客観的に今の自分を判断し、小さく笑う。部屋に入ると必ず、声をかけるか姿を見せるかをする男が、今日に限って何も行動を起こしてはこない。
 これには一体、どんな意味があるのだろうか。異常と判断しなくてはならないのだろうか?
「…カイン、いないの?」
 平常を努め、ドアを閉めながらそう奥に向かって声をかけた。その時。
 静かに閉めた玄関のドアに反応したかのように、逆に大きな音を響かせ右手のドアが勢いよく開いた。咄嗟にマミアは握っていたノブを回し、半身を外に出す。
 何事かと驚き伺う視線の先に、裸の人影が現れた。それが訪ねた住人ではなく、見た事のない青年だと気付きさらに驚く。この部屋で殺し屋以外の姿をこうしてみるのは、初めてのことだ。
 扉の向こうから飛び出してきた裸の青年は、血走ったように目を剥き肩で大きく息をしていた。一体、何者なのか。あまりの驚きに、マミアの視界はスローモーションのように画像を刻む。正体不明の青年が、不意に振り返る。顔に張り付いた髪の隙間から覗いた瞳は、吸い込まれそうに深いものだった。薄い色素の瞳が自分を射抜く。そして、何をしようというのか、青年はマミアに向かって勢いよく駆けてきた。
「なっ…! ――ッ!」
 突進してくる青年を捕らえた次の瞬間には、マミアは無意識の内に外へ飛び出しドアを閉めていた。先程とは違い勢いよく閉まると同時に、玄関の扉には別の衝撃が加わる。強く握り締めたドアノブから、マミアの体にもそれは伝わり、一瞬動けずにその場に立ち竦んでしまった。
 ここに住む住人の仕事を考えれば、今の事態は喜ばしいものではないと流石に考え込まずともわかるというもの。実際には男の敵がここまで入り込むというのは信じられない事なのだが、やはりそれ以外には考えられない。ならば、巻き添えを喰わない間にこの場から遠ざかるのが一番であろうと言う事は、動揺しているマミアにもわかった。
 しかし、何故かそれが出来ない。
 扉の向こうに、思い切りぶつかったのであろう先程の青年の存在を感じながら、マミアは事の成り行きを見極めようとその場で息を殺した。刺客か何かはわからないが、一体何故、侵入者は裸であったのか。どんな男だったかとその風貌を思い出しかけ、その自体の異様さに漸く気付く。そう、全裸だったのだ。
 ふと、扉越しに青年が動く気配が伝わってくる。極度の緊張が走ったが、握り締めているドアノブが回される事はなかった。マミアは小さく息を吐きながら、ドアに耳をつけ中の様子を窺った。古いボロビルの一室だ。壁も扉も薄く、集中すれば室内の音はある程度聞き取る事が出来る。
 どうやら青年は、部屋の奥へと戻っていっているようだった。直ぐに足音は止まり、続いて何か呟いたらしい声が聞こえる。だが、それはあまりにも小さく、何と言ったのかはわからない。
 そっとマミアは扉をあけた。小さく開いた隙間から中を覗くと、裸身の青年は先程飛び出してきた扉の前に立っていた。そこは確か、バスルームだったと落ち着き始めた頭が思い出す。
 浴室の中から、立ち尽くす青年を呼ぶ声がした。その声は訊き間違える事はない、この部屋の住人である男のものだ。マミアは汚れた床についていた片膝を上げ静かに立ち上がると、もう少し大きく扉を開いた。
「いい加減にしろ。こっちに来いっ!」
 突然の大きな声に驚く。だが、それは謎の青年も同じだったようで、ビクリとその身体を振るわせた。それと同時に、青年は伸びてきた手に捕らえられバスルームの中に姿を消した。
 小さな悲鳴が上がり、言葉少なに何やら言い合う声が聞こえ、格闘しているような雰囲気が壁越しに伝わってくる。
 信じられない事だが、自分が想像した状況とは全く違うようだとマミアは気付いた。
「くそっ! ――逃げるなっ!」
 その声と同時に、再び先程の青年がバスルームから飛び出してくる。相変わらず裸のままで、先程よりも幾分草臥れたかのような感じではあったが、本人は必死な様子で部屋の奥へと駆けた。だが、その青年に続いて直ぐに出てきた男が、見事と言うかさすがと言うか、あっさりと青年を捕らえ床へと押さえ込む。
「大人しくしろっ!」
 男の顔に、本気の色が浮かんでいるのを、マミアは呆然と見ていた。しかし。
「……取り込み中だったようね」
 抵抗する青年を、体重をかけて床に押さえつける男の姿に、マミアはそんな言葉を落とした。男が自分の声に、チラリと視線を投げかけてくるのをあっさりと流し、腕組みをする。
 馬鹿らしい。
 確かに驚きもあるが、それ以上に今は呆れの方が強かった。心底驚かされた分、苛立ちも大きい。青年と違い一応服は着ているが、頭から水を被ったと思しき姿の殺し屋と見覚えのない青年の様子は、はっきり言って他に思いつくものがない状況だった。
「それは、強姦なのかしら。なら、止めるべき?」
「…何を言っているんだ」
「確かに、私にはあなたを止められないわね、わかっているわ。ちょっと言ってみただけよ。どうぞ、続けてちょうだい。別に私は気にしないわ」
 まさかと言う思い込みから無意識に可能性を否定していたのだろう。だが、冷静に考えれば、裸の青年が刺客やその関係の人間であるわけが無く、商売人と思う方が自然だ。この殺し屋が男を買うなど噂ひとつ聞いた事はなかったが、あったところで可笑しくともなんともない事なのだろう。まだ枯れるには早すぎる年齢なのだから、問題もない。たとえ、青年が犯されそうになっていたとしても、それは彼の運の問題なのだから。
「だけどね。悪いけど、出直す時間はないのよ。やりながら聞いて」
「…何をやると言うんだ」
「レイプ、でしょう。どう見ても、合意しているようには見えないわよ。ま、別にあなたが何をしようと私は意見する立場にはいないから。どうぞ好きにして」
 その言葉に、男は眉を寄せた。
 無精髭を生やし、髪が乱れた今の男は、一見近付くのは遠慮したい人間に見える。だが、実は意外と整った顔立ちである事をマミアは知っていた。この汚れたビルの住人と言うだけで野暮ったい男だという印象を持ってしまうが、切れ長の目も、すっと通った鼻筋も、少し薄い唇もどれもが間違いなく一級品だ。それをそうだと気付かせないのは、男の計算なのか、単なる性格なのか。
 それなりの格好をすれば、大抵の女が縋りつくだろう。だが、本人は外見に気を使う者ではなく、思わず他人が止めてくれと思ってしまうほどに自らを雑に扱う。それはあまりにも酷く、無頓着というよりも、無神経と言う方があっているだろう。
 改めて眺めた男の格好に、勿体無いと他人事ながらにマミアは思った。ものがどれほど良くても、男が所有者である限り、一ミリの希望も持てない。宝の持ち腐れとはこのことだ。
「…腐ってる」
 男は顔を歪め、そう小さく吐き捨てた。それと同時に、未だ自分の下で抵抗する青年の頭をバシリと叩く。
「暴れるな」
「何だか聞き捨てならないわね。この場合、私は真実を述べただけであって、腐った考えをしているのはあなたでしょう。可哀相にその子も災難ね、あなたみたいなのが相手だと」
「煩い」
 災難なのは俺の方だ。
 その呟きは、とても人間臭いもので、思わずマミアは目を見開いた。どう考えても、欲望を持て余し若い体を求めている者の声には聞こえない。
「どういう関係なのよ、一体」
 いや、訊きだすつもりは決してないと、ポロリと出た本音にそう付け加えようとしたマミアよりも早く、男は淡々とした声で応える。
「こいつと俺の関係? そんなのはこっちが聞きたいくらいだ」
「……」
 不意に、男の下の青年が漸くマミアの存在に気付いたかのように、仰向けのまま首を逸らせて視線を向けてきた。そして、不思議そうに男の名を呼ぶ。
「カイン…?」
「客だ。起きろ」
 名前を呼ばれた男は青年の体から退き立ち上がると、彼にもまた同じようにそれを命令した。しかし、青年はマミアに視線を向けたまま動こうとはしない。
 一体何なのか。そう思いながらも、マミアは向けられた瞳に軽く笑った。何だか急に自分が不可思議な存在になったような感じがする。青年の目は子供のように、自分の世界に存在しなかったものに対して向ける、妙に可愛げのある色をしたものだった。そこで漸く、マミアは男の相手としてではなく、青年自身に興味の視線を向けた。
 こちらもまた、一級品と呼べるだろう。
 額に張り付く濡れた髪は、闇のように真っ黒だ。だが、光を受けると宝石のようにきらりと輝く。今は濡れてわからないが、さらりとした髪質なのだろう。その髪の向こうにある好奇心旺盛な瞳は、残念ながら歳相応の色気は存在していないが、無垢な子供のようでまた別の魅力を持っている。何より驚くのはその目の色だ。銀と金とは珍しい。そして。
 しなやかに伸びた筋肉が、極め細やかな白い肌の下で動く様は、背筋がゾクリとするほどに気持ちがいい。もう少し色香がそこに乗れば、最大の魅力となるだろう。手足が長く均整の取れたその身体は、想像以上の運動能力をもっていそうに感じる。まさに、人の体と言うよりも、静かな獣を思わせるバランスの良さだ。
「いつまで寝ている。服を着てこい」
 ずっと眺めていたくなるような青年の腹を、美的感覚はゼロなのだろうか、男が軽く足で蹴る。ハッとそれに反応した青年は、一瞬で床から飛び起きた。その姿にマミアは思わず喉を鳴らす。思った通りの身の軽さだ。
「いいわよ、別にそのままで。目の保養になるわ」
「ホヨウ…?」
 振り返った青年が、子供のように首を傾げた。言葉の意味がわからないらしい。
「おいしそうって事よ。男にしてはちょっと肌が綺麗過ぎるのが憎らしいけれど」
 青年に腕を伸ばし、頬に触れ、その手をゆっくりと下へと降ろしていく。
「顔はいいし、体もいい。カインなんかじゃなく、私と遊ばない? ――ここの形も文句なしにいいわね」
 遊ぶ、という言葉に反応しかけた青年は、けれども、次の瞬間には一目散にその場を後にしていた。バタンと大きな音を響かせ、隣の部屋に飛び込んでいく。
 脱兎の如く消え去った青年を見もせず、男は溜息交じりに言った。
「からかうな」
「なによ、嫉妬? ちょっと触っただけよ、怒らないで。それにしても、失礼ね」
 悲鳴こそあげなかったが、一瞬見せた青年の顔は、驚きと言うよりも恐怖に引きつったようなものだった。ほんの少し、からかうために青年自身を握りこみ軽く爪を立てただけだというのに、まるで切り落とされるかのような反応。
「初心なんだろう」
「そうは思えないけれど」
 裸体を晒す事に羞恥心を持たない青年が、子供のように無垢のまま生きてきたはずがない。何よりも…、とマミアは軽く眉を寄せた。だが、それを口にはせず話を変える。
 そう。青年の身体に刻まれた傷痕など、自分には全く関係のないことだ。
「ま、どうでもいいわ。それより、お仕事よ。場所は『F‐カフェ』、もちろん知っているわよね」
「すぐそこの?」
 その問いに頷きながら、近すぎるなと呟きはするが何の問題もなさそうな男に、マミアは携帯電話を渡す。
「特徴は」
「白髪の初老の紳士。普通過ぎるくらいに普通のオジサマね、特に特徴らしきものはないわ。少しオドオドしていたけれど、声は淡々としたものだったわよ」
 携帯電話を渡し所定の場所を告げれば、マミアの役目は終わりだ。
「じゃあね」
 彼にもヨロシクと言う言葉を飲み込み、いつもと同じように早々にその場を後にする。
 パタンと閉めた扉の向こうで男が青年を呼ぶ声が微かに聞こえたが、マミアは足を止めることなく汚れた廊下を歩き、狭い階段を降りた。
 待ち受けるのは廃れた街だが、それでもこことは違い、自分が居るべき世界がある。

2004/11/01
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