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「確か、お前にはまだ子供が居なかったな」
 答えを返す前に、別なところから「女が嫌いなわけでもあるまい?」と重ねて問われた。
 一歩一歩上へと昇る度、この手の質問を受ける回が増えていく。この世界では、女と籍を入れないのも、子供を作らないのも、珍しい事ではない。だが、堅気の世界と同様に、「家族」が昇級に際し必要な時もある。
「面倒をみている者は何人だ?」
「三人です。一人は医者、二人には店を持たせています」
「組の事はさせてはいないのか?」
「はい」
 此処に居る全員がとうに知っている事であるのだろうに、とんだ茶番だ。そう思いながらも、男達の問いに淡々と言葉を返しながら、俺はひたすら頭を下げ続けた。この場に座して、ゆうに一時間は過ぎている。
 縁を切った両親の事からはじまり、今までの実績や現在のシノギ、他組織への見解や先の見通しを披露した後の、イロ話。誰のところに年頃の娘が居るぞと、頭上を飛び交う言葉をただの情報として聞きながら、その声質によって己の状況を推し量る。
 誰が味方となり、誰が敵となるのか。また、誰をどう変えられるか。

「水木です」
「入れ」
 長い軟禁を終え、取調べのような会議の報告に向かった部屋では、神戸が花風相手に将棋をさしていた。
「オヤッサン、傷に障ります」
「最近のお前は、一言目には必ずソレだな。続いて、『身体を休めて下さい』だ。つまらん」
「申し訳ありません」
 俺の言葉に呆れるよう肩を竦めた神戸を宥め、花風が「雅さん、ちょっと…」と手招きをする。
「また負けそうなんですよ、代わって下さい」
 組長が負けるまで付き合う事になっているんですが、このままでは休んで頂けるのは明後日になりそうです。
 そう苦笑する花風に、「お前が勝ったら、ワシは大人しく床につくと言ったんだ。雅じゃないぞ」と神戸が顔を顰めた。要するに花風もまた、静養しないこの男に苦言を呈したクチだと言う事だ。
 安静にしているのは余程退屈なのか、ここぞとばかりにブツブツと文句を言う神戸を花風があしらい、俺は対局に参戦するハメとなった。向かい合った神戸は、数ヶ月前に比べひと回り小さくなっている気がする。
「王手です」
「……本当に、お前はつまらん男だ」
 花風がお茶を入れる間に勝負をつけ、神戸を蒲団に押し込んだ。一時に比べれば格段に回復している身体は、けれどもまだ骨が浮いている。体力が戻るまでは、まだ暫く掛かるだろう。
 そう考え、怪我の影響ばかりではなく、この人ももう老いてくる歳かと思い出す。確か、そろそろ還暦だ。
「――ハトの容態が良くないそうだ」
「……」
「踏ん張れよ、雅」
「…はい」
 真下から見上げてくる男の眼に頷きを返し、俺は身体を引くと頭を下げた。


 まともな夜景さえ拝められない、汚いだけの廃ビルの屋上に足を運ぶのは、これで何度目になるだろうか。初めてここに来たのは、深秋の夜だった。偶然出会った男に請われ、彼に肩を貸しながら狭い階段を登った。
 あれは確か、鳩羽の意識はもう戻らないだろうと医師から告げられた夜の事だ。もう、ひと月になる。
「……紀藤たかし、か…」
 誰も居ない屋上を見回し、煙草を取り出しながら男の名を呟く。一本分の時間を己に許し、錆びた手摺りに凭れながら、俺は闇の底のような路地を見下ろした。たった十数メートルの高さだが、下の通りを人が歩いたとしても視覚では捉えられない暗さだ。それでも眺め、短くなった煙草をそこに落とす。
 待っているらしい自身に気付き、ただ、呆れた。
 あの男に会って何がどう変わるわけでもないのに、何故なのか。馬鹿らしいと、胸で呟く。だが、心はそれに同意しない。
 手摺りから身体を離しながら、顔をあげ、正面を見る。
 紀藤は、いつもここで、こうして遠くへと視線を飛ばしている。空でも、街でも、路地裏でも。どこを見るにも、その向こうの何かを見ているような眼をしている。
 喋れば、普通の男だ。幼さを感じる時もあれば、擦れた感じもする、あの年代の男でしかない。
 魅力といえるような魅力もない。だが、それでも何故か気になる。
 それは、多分。紀藤が己を魅せないからだろう。まるでそんな風に計算されたかのようなあの雰囲気が、自分を気にかけさせるのだろう。
 裏社会で生きていれば、色んな奴にに出会う。だが、紀藤はその中でも特殊であり、この上なく平凡でもあった。何がどうなのかはわからないが、死んでいるようでも、疲れているようでもなく。ただ、そこにあり続けているかのように透明でいて、誰にも侵されないくらいの強い色を持っている。何にも負けない黒のようでいて、水のように全てを委ねていそうでもある。不思議な男だ。
 もしも、それが紀藤の魅力となっていたのならば。面倒な奴だと判断し、二度と顔を会わせはしなかっただろう。それがただそこにある物でしかなかったからこそ、俺はこうして、こんな所に立っているのだ。
 だが、それももう、終わりにしなければならないのかもしれない。
「……」
 時間は過ぎたと、足を踏み出し屋上を去る。地上に降りても初冬の寒さに変わりはなく、逆に足元からの方が強い冷気が上がってきているような気分になった。それ程、路地裏は暗く、人の気配がない。
 表の通りまでの数十メートルの間で、非現実的な空間に晒した身を、日常へと切り替える。そうして、今更だが。紀藤の前では、俺はただの俺でしかないのだなと悟った。あの若者の前では、自分は何者でもない。
 紀藤たかしが弁護士であるのを俺が知るように、水木雅がヤクザであるのを彼は知っているのだろう。だが、少なくともあの屋上で、並んで手摺りに凭れている時は。
 俺も紀藤も、それ以上でも以下でもなく。その場の互いに、疑問も問題も覚えはしていない。
「……水木、さん…?」
 不意に名前を呼ばれ顔を上げると、闇の中に男が立っていた。考え事をしていたからでも、俺が腑抜けたわけでもなく、気配を察知出来なかったのは紀藤だからこそなのだろう。それに異常を覚える前に、俺は問題はないと判断し、審議を遠ざけた。多分、突き詰めたところで、答えは出ないだろう。
「お帰りですか?」
「…ああ」
「お疲れ、ですか…?」
「生きていれば、疲れるものだ」
「……確かに、そうですね」
 一瞬、苦痛を感じたかのように眼球が揺れたように見えたが。間近まで寄って来た紀藤は、ジョークでも聞いたかのように面白げに笑った。
 そして。今来たばかりの道を引き返し、俺を先導するかのように歩き始める。
「…行かないのか?」
「ええ」
 軽く肩越しに振り返った男は、頬で笑いただ頷いた。
「何故?」
 多分、俺が疲れていないと答えていれば。もう一度あの屋上へと誘う言葉を口にしたのだろう。俺が今まであの場に居たのは明らかなのだから。
「どうしてだ?」
 前を行く背に問いを重ねると、紀藤は立ち止まり体ごと振り返った。背に、表通りの明かりを受けて立つ男の表情は、逆光で判別出来ない。逆に、俺の顔は紀藤にはよく見えているのだろう。
 視線を感じた。
 強くはないが、確かなそれを。
「貴方は、意地悪だ」
「……」
「屋上にのぼる必要がなくなったからに決まっているじゃないですか」
「…紀藤」
「今夜は、貴方にお会いしたかったんです。だから、私はここに居る。ただそれだけです」
 たとえ一瞬でも、本物の方が、価値がある。
 そう言い、紀藤はとても穏やかに、優しく静かに微笑んだ。

 だが。
 その眼に、俺は映ってはいなかった。
 そして。
 俺を通り越し、遠くを見る紀藤に俺が重ねたのは。
 ベッドの上で、二度と目覚めずに死んでいくのだろう男の命だった。

 そう。俺は、その時はっきりと。
 笑う紀藤に、「死」を見た。


2006/05/17
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