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「あんた、人殺しなんだってなァ。殺人者が何を偉そうに言っているんだ。笑わせるぜ」
必死で隠した事はない。だが、いつもそれは、俺のアキレスのように扱われる。
だから。
勝ち誇ったようにニヤつく男自体には、別段何も思わなかった。今までと同じ、頭の足りない奴の嫌がらせ。心乱される要素はない。ただ、言葉を向けられたのは自分であってもその影響は周りに及ぶのだと思うと、気が重くなったのも事実だ。
それでも。
閉廷を告げる裁判長の声を聞いても、こんなものなのだろうと思った。周りの騒ぎも、自分の冷静さも、予想の範囲内だった。上司の渋面も蒼白の依頼者も、面倒な事柄ではあったが、彼らの感情などに興味も関心もなかった。
だが。
傍聴席の隅に見知った男が居る事に気付いた途端、俺は動揺した。一瞬だけ絡まった視線は、直接頭を殴られたかのような衝撃を俺に与えた。
何も出来ず、部屋を出る傍聴者の中に紛れ消えていく男の後ろ姿を、ただ眺める。
自分の体が震えている事に気付いたのは、鋭く上司に名前を呼ばれた時だった。
「紀藤…ッ!」
「……」
振り返ると、部下に向けるものでも、同じ人間に向けるものでもない視線にぶつかる。
苦手ではないが嫌いな上司の顔が、一瞬、傍聴席に見たあの男の顔と重なった。
背筋を、汗が伝う。
次に会った時、あの男は自分をどんな目で見るのだろうか。それを考えると、身体の中から全ての血が抜けてしまったような悪寒を覚えた。
彼には過去のそれを知られたくはなかったのだと、俺は今更ながらに気付いた。
今ここで自分が降りてどうなるのか。彼らがターゲットを変えるだけで、何の改善にもならない。別の誰かに引き継ぐよりも、今までやってきた自分がこのまま矢面に立ち続ける方が得策だ。
そう訴えたが、上司の決定が変わる事はなかった。依頼者がNOと言えば、それに従うしかないのだ。
しかし、実際に戸惑っているのは、客ではなくこの上司自身だ。真偽を問われ、あれは正しいのだと頷き認めた俺を見た彼の眼は、嫌悪の色しか浮かんでいなかった。そこに恐怖が混じっていたのならば、多少のやりきれなさを感じたかもしれないが、向けられたそれは取るに足らない掠れた色。上司の侮蔑など今更でしかなく、どうでも良かった。
外された後の裁判になど、興味はない。今まで自分に向かっていた暴力が上司や依頼者に及ぼうが、関心も向かない。散々邪魔をしてくれた輩に対しても、何も思う事はない。
だが、彼は別だ。
あの男、水木雅に関しては、無視など出来はしない。
ヤクザ絡みの裁判になれば、脅しや暴力が弁護士に向かってくるのは絶対だ。この世界で数年もやっていれば、そんなものには慣れてしまうものだ。だが、理不尽な力が向かってくる理由が理解出来ても、それを受ける事にまでは納得してはいない。しかし、仕事である以上、それは風が吹けば飛び去ってしまうような些細なものだった。
水木と会ったあの時も、ただ殴られただけであり、それ以上でも以下でもなく、俺に残るのは痛みしかなかったのだ。相手が誰だとか、その目的は何だとか。暴力とその主張を俺は繋げはしなかった。
それなのに。
俺に手を貸したヤクザは何を思ったのか。同業者が絡んでいる事などお見通しだったのだろうに、あれからも何度か俺に会いに来た。あのビルに、水木はひとりでやって来た。
そして。
俺は、自分の首を締めてくる男達と同じ世界の住人である事を理解しながら、気付けばその男に捕まっていた。
廃ビルの屋上には、先客が居た。
「――今夜は、ここには来ないと思っていました」
「何故…?」
「会っても困るだけでしょう?」
「誰が」
「私も、貴方も」
困ったとしても、それが必ずしも会いたくない理由にはならない。少なくとも俺は、会いたかった。その思いを隠し、苦笑を浮かべ肩を竦める。
しかし、取り繕えたのはそこまでだった。
無様な顔を隠すよう、男の横に立ち、視線を地上へと向ける。堂々と前を見据える事も、俯き顔を伏せる事も出来ない、中途半端な自分の態度に嫌気がさす。だが、それでも、俺は此処に居る事を選ぶ。
「いつから、私の事を知っていたのでしょうか」
具体的には指し示さずにした曖昧な問い掛けに、男は短い沈黙を挟み答えた。
「初めから少しずつ。お前の言動と俺の勘と、部下からの報告と、余所からの忠告」
「今日は、何故…?」
「お前がしている事への興味と、馬鹿な同業者の監視。時間が作れたから、俺が行った。それだけだ」
大した理由はないと言うように、男は煙草に火を点ける。本来ならば、その監視は部下の仕事だったのだろうか。自分の運の悪さには、最早笑うしかない。
「呆れましたよね」
「何に…?」
「私に」
「……」
煙草の小さな火が、宙に線を描いた。
「だったら、ここには来ていないだろう。そんな相手に態々会いにくる程、俺は酔狂じゃない」
思わぬ言葉に振り向くと、火はつけたが吸ってはいないらしい煙草を指に挟んだ男もまた、ゆっくりとこちらを見た。
「それは、…いつもここに来るのは、私に会いに来ていると言う事ですか?」
「……突っ込まないでくれ」
「大事な事ですよ」
首をのばし、顔を近付ける。男は避ける事なく、ただ強い眼を向けて来た。唇同士が触れ合う手前、間近で絡み合う視線に背中がゾクリと震える。
「…紀藤」
「はい……」
吐き出されたその息を飲み込むように返事をし、顔を引く。離れた温もりを、体が心が早くも求める。だが、重ね合わす事は許されてはいない。
「何を考えている?」
「…何も」
いや、これは嘘だ。そう気付き、俺は直ぐに訂正をした。
「貴方以外の事は、何も考えていません」
「…………何故」
「さぁ、どうしてでしょうか…」
私にもわかりませんと目を伏せると、男の脚が視界に入る。その先には、暗闇でも光る磨かれた靴。きっとこの足で、何人もの人間を踏みつけてきたのだろう。この男はそうして歩き、裏の世界で生きてきたのだろう。
それを怖いとは思わない。
ただ、男自身の強さに、狂わされそうだ。
「これから、どうする気だ」
「さあ…、どうしましょうか」
呟いた瞬間、自分で自分の言葉に笑ってしまった。頭から飛んでいたここではない俺の現実を引き寄せ、また笑う。
明日職場に足を踏み入れれば、新たな上司と仕事を与えられるのだろう。だが、そこには何もない。どうする気も何も、俺はそこでは何も出来ないのだろう。弁護士としての道を失ったのではなく、自分の中で弁護士と言う道が消えている事に俺は気付く。
「辞めるのか」
「生きている限り人生なんてどうにかなるのですから、大丈夫です」
「…紀藤」
男の声に、もう一度大丈夫だと応え、俺は笑った。
だが、水木は難しい顔をしたまま、俺を見据えているだけだった。
それでも。
それでも、俺にとっての唯一の未来は、そこにあった。
2006/06/16