5


「ご苦労だったな、雅。お前も、今夜はもう休め」
 神戸の労いに頭を下げ、部屋を後にする。直ぐに組長付きの組員が近付いて来たが、用はないと片手で制し、俺はひとりで屋敷を後にした。
 最後にあの場所に向かったのは、先月の事だ。もう、一週間前になる。
 年末年始の行事を滞りなくこなしたところで、事故以来一度も目覚める事無く鳩羽が亡くなり、続いてその対応に追われる事となった。数ヶ月の猶予期間があったからか、大きな揉め事は無かったが、二代目として組の看板を背負うにはそれなりの労力が必要だった。
 漸く落ち着きを見せたのは、寒さを感じる余裕もないままに、冬が終わろうとしている頃だった。
 だが、落ち着くと同時に、新たな立場での仕事が山のように舞い込み、一息吐く間もない。
 それでも忘れる事なく、あのビルへと向かう時間をどうにか作ろうと、頭を働かせている自分が居た。


「今晩は」
「…あぁ」
 深夜二時。今夜もまた、錆びれたビルの屋上に、その男は居た。年末から遠ざかっていた足を再び向けるようになって一ヶ月程になるが、いつも紀藤は居る。何度こうして挨拶されただろうかと考え、片手よりも多いのではないかと気付く。
 昼夜を問わず仕事の合間にやって来ている俺をこんな風に迎えるのだから、どう考えようが普通ではない。
 いつもここに居るのではないかと、本気で思う。だが、実際に向けてみたその疑問は、全てを消し去ってしまうかのような無色の笑いで吹き飛ばされた。あの日、夕闇の中で見たその表情は、今も俺の目の奥に張り付いている。
 そんな事は、どうでもいいじゃないですか。
 紀藤のその笑みは、今この時だけが本物なのだと言っているようなものだった。
 確かに、俺と紀藤の関係は、この場所だけのものであり、互いのしている事に踏み込むようなものではない。だが、それでも納得は出来なかった。
 漸く部下からの報告でその謎が解けたのは、一昨日の事だ。
 先月いっぱいで、紀藤は事務所を辞めていた。弁護士協会の登録も抹消されていた。
「その様子ですと、もう知っているんですね」
「……」
「先日貴方と会ったあの日、仕事を辞めました」
「何故だ」
 手摺りに凭れ街を眺める男の横に並ぶと、下から見上げるように顔を振り向けたが、眼を合わす事無くそれは元に戻った。俺はそのまま柔らかそうな髪を見下ろし、もう一度問いを重ねる。
「何故辞めた」
「さあ、どうしてでしょうかね。嫌になったのか、疲れたのか、飽きたのか。自分の事ですが、よくわかりません」
「あの事が原因か?」
「あの事…?」
 何の事だと、真っ直ぐと背中を伸ばし目線を合わてきた紀藤が頭を横に倒した。本気で俺が指すものに気付かないのか、眉間に皺を寄せ考え込む。
 冬の初めに俺が傍聴した裁判だと伝えると、「あぁ、あれですか」と紀藤はシニカルな表情を浮かべた。ああいうのはよくある事だからと、あれが原因ではないと直ぐに否定する。
「あの裁判から外されたのは事実ですが、仕事を干されたわけでも、虐めを受けたわけでもないですからね。あれからも、私はきちんと仕事をしていましたよ?」
 少し茶化すように笑い、紀藤は再び背中を丸め手摺りに肘をついた。
 土地の権利をめぐる裁判に絡んでいたヤクザは、相手方の弁護士を攻撃する手段をとった。標的となった紀藤は、公衆の面前で人殺しと野次られ、担当を外された。
 珍しい事でも何でもなく、よくある事だ。
 だが、実際に人を殺した過去を持つ弁護士は、日本中を探しても他にいないのではないだろうか。
 正当防衛と認められ、罪に問われる事は無かったが。紀藤は17歳の時に親友を殺めていた。
「潮時なのかもしれません」
「潮時?」
「私は過ちを犯しながら、罰を受ける事をしなかった。そんな人物が、弁護しだなんて無理があると思いませんか?」
「弁護士は、依頼者を弁護するのが仕事だろう。本人は関係ない」
「確かにそうですが、生きている人間を相手にする仕事ですからね。私ではままならない」
 あの裁判後、この男は仕事を辞めるのではないかと俺は思った。だからこそ、男の過去を少し調べた。野次が単なる中傷ではなく真実であったのならば、本人は兎も角周囲はどうするか。それを考えれば、答えは自ずと見えてくるものだった。
 だが、俺の予想に反し、紀藤は仕事を続けた。
 しかし、結局はこれだ。会わずにいたこの冬は、この男にとって想像以上に厳しいものだったのだろう。
「それでいいのか?」
「良いも悪いもないんですよ。ただ、こうなってしまった、それだけの事です」
「投げ遣りになるな」
「それは、違いますよ水木さん。私は、一生懸命になった事がないのです。投げ遣りではなく、これが私です。弁護士になったのも、誰かの役に立ちたかったわけでも、遣り甲斐を求めたわけでもない。だから特に、この結果に思う事はないんですよ」
「……」
 意外だった。
 だが、同時に納得する面もあった。
 紀藤たかしが持つ不安定さが目の前に示された事に、俺は内心で動揺する。
「だったら、お前は何故弁護士になったんだ…?」
「私の歩く道が、ここに繋げられていたからです」
 抗ってまで別の道を選ぶ意地は自分にはない。なるようになるそれを受け入れただけだと、紀藤は小さく喉を鳴らした。
「貴方から見たら、こんな人間は不快でしょう。殴りたくなりませんか?」
「紀藤…」
「でも、貴方に殴られるのはきっと痛いでしょうし、今夜はこれで退散する事にします」
 では、おやすみなさい、と。
 そんな言葉を残して去った紀藤は、その日以来、廃ビルには現れなくなった。

 錆びた手摺りに凭れ、都会の景色をバックに微笑んでいた男は、俺の前から忽然と消えた。


2006/07/19
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