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「――たかしクン…?」
 カンカンと一段上がる度に響く靴音に混じり、小さな声が暗闇の中から聞こえた。俯けていた顔をあげ、闇に目を凝らす。二階の踊り場に、少女が膝を抱えて座っていた。
 午前四時。日に日に秋が深まるこの季節の早朝に、子供の姿は似合わない。だが。
「ただいま」
 色んな思いを飲み込み、とりあえず俺は小さく笑う。
「お帰りなさい」
「おはよう」
「おはようございます」
「寒くないかい?」
「うん、寒くない」
「そうか。でもまだ暗いし、ボクの部屋に行かないか?」
「…いかない」
 泣き出すように眉を下げ、頭を振った少女にそれ以上の無理強いは出来ず、「じゃあ、隣に失礼するよ」と俺は並んでその場に腰を降ろした。直ぐに尻から、朝の冷気が身体へと駆け上ってくる。一晩立ち仕事をこなした身には堪えるものだ。けれど、真っ直ぐ部屋に戻る事は出来ない。どうせ、戻っても何もない部屋だ。少女を放って、戻る場所でもない。
 一体、隆子はいつからここに居るのだろうか。それを考えながらわざと身体をくっ付けると、「たかしクン、あったかいね…」と少女が俺の腕に凭れかかってきた。小さな身体が思った以上に冷えている事を、服越しに感じる。まさか、一晩中ここに居たのだろうか。
 肩よりも下にある頭に左手を伸ばし髪をかき回すと、凭れている右腕に細い指がかかった。右手を返し掌を上に向けると、餌に釣られ呼び込まれる小鳥のように、ゆっくりと腕を伝い指がやってくる。
 捕まえた冷たい手は、握り潰してしまえる程に細く、小さかった。



 春に仕事を辞め、夏の始まりを待たずに東京を出た。
 生きていた頃も、そして死んでからも。親孝行など何ひとつした事のない両親の墓参りにアメリカへと飛び、二ヶ月程そのままそこで暮らした。長期に渡り滞在するのは初めてだと言うのに、何をするわけでもなく。ただ、そこで生きた。生きてみた。
 東京では考えられなかった、規則正しい生活。時に不安になる程の大自然。最低限の他人との接触。こんな生活もあるのかと、呆れるくらいに時間の流れが遅く、生きている実感が持てない。生きると言う概念が、根本的な部分から覆されるには充分な暮らしだった。孤独だった。
 だが、そもそも生と言うものを過大に評価するタイプではなかったからか、己の考えを変えられようがどうしようが、苦痛を感じる事はなかった。
 安らぎを得られたわけでも、鋭気を養えたわけでもない。まして、必要な時間だったわけでもないが。東京を離れて暮らしたのは、無駄ではなかっただろう。
 遅い時の中で一番考えたのは、笑ってしまうが水木雅の事だった。そして、遠い昔の事も、よく思い出した。
 目の前で失った愛しい命も、この手が奪った熱いあの命も。それはもう俺の中では過去でしかなく、心を動かされる事はない。けれど、本人はそうでも他人は違うようで。同僚が人を殺した経験を持つと知ると、職場の雰囲気は一転した。だが、弁護士と言えども、たとえ普段から犯罪者に会う機会があるとしても。彼等もまた、同じ人間だ。怯えるにしろ、蔑むにしろ、何にしろ。何らかの反応を見せるのが当然の事で、不満があるわけではなかった。
 そもそも、俺は犯した罪を消し去ろうなどと思った事は、一度もない。
 しかし、だからこそ過去のそれについて他人に語りはしないのであり、隠したわけでも、まして騙そうとしたわけでもない。
 だが、それは他人には伝わらない。
 弁解をしようがどうしようが、何かがどうなるわけではないのだ。真実はひとつであり、釈明を重ねたところで、俺が人を殺めた過去は変わらない。起こった事は起こった事であり、無くなりはしない。あの命がこの手によって消えた瞬間から、殺人者というレッテルが俺に貼られた。それが紀藤たかしの人生の一部である以上、文句はない。張られたものを隠すつもりも剥がすつもりも無く、それにより詰られようが疎外されようが構わなかった。
 だから。
 その考えを由としないところに、未練はなかった。
 犯した罪を悔いていなくてはならない、世間に対し謝っていなくてはならない、他人に対し常に下手でいなくてはならないなどと考える場所に居続ける理由もなかった。
 弁護士を辞める事に、仕事を無くす事に、不安はなかった。ただ、弁護士だったと言う過去が俺の中に加わる事でしかなく、大きな事柄でもなかった。だが、それでも躊躇ったのも、また事実。
 直ぐに決断へと持って行かなかったのは、ただの甘えなのだろう。
 事務所を辞めたら、今の俺が俺でなくなったら、もうあの男には会えないと。会う事は出来ないのだろうと思うと、一日でも長く弁護士という立場にしがみ付いていたい気がした。少しでも、男が俺と会うメリットを残しておきたかった。俺が男に会っても大丈夫だと思える自信を持っていたかった。
 それでも、もう、会うまいと。この逢瀬は潮時なのだと決断し、最後に一度だけだと自分を許して水木を待ち続けた日々が、今となっては懐かしい。会わないのではなく、もう会えないのだと。見知らぬ大地の上で唐突に悟った時、あの瞳に自分は二度と映らないのだと思うと、死よりも深い絶望のようにさえ思えた。
 あの男を求める心は、これから先もなくなりはしないだろう。だが、それでも、会えない。だからこそ、会えない。
 納得するのに必要な理由と時間は、腐るほどあった。だが、本当に必要なのはそれではなく、ただの覚悟ひとつ。
 そして、俺は。会わないと決め、東京に戻った。決めたからこそ、同じ街を選んだ。
 たとえ、偶然会う事があったとしても。もう、あの廃ビルではないのだ。
 言葉を交わす事があったとしても、同じようにはならない。あの屋上のようには、戻らない。

 俺の中では、命を奪った彼等同様に。
 水木雅は、過去になる。



「さあ、行こうか」
 ここでは邪魔になるからと、少女を伴い部屋まで移動する。空き部屋が目立つアパートでの言い訳としては説得力に欠けていたが、それでも素直についてきた少女は、けれどもやはり部屋の中へは入らなかった。だが、間に一室空き部屋を挟んでの自室に戻る様子は見せない。
 入口のドアと台所の窓を開け、廊下に立つ少女に声をかけながら、小さな手鍋で牛乳を沸かす。
 ゆっくりと右手から明るくなる北の空を見ながら、少女と二人並んで手摺りに凭れ、甘いホットミルクを啜った。
「…おいしいね」
「うん、そうだね」
「あったかい」
「ああ、温かい」
 細い指で包むように、少女は大きなマグカップを胸に抱く。同じカップであるのに、隆子が持つと何故だかどこか神聖で、宝物のように見えた。実際、この少女はそれくらい大事に、大切に、この温もりを扱っているのだろう。ただの、牛乳一杯を。
 この秋で14歳になると言う隆子は、10歳程度にしか見えない小さな少女だ。そしてそんな外見以上に、中身は更に幼い。知能障害があるようだと耳にしたのは職場で紹介され訪ねたアパートの大家からだけで、それ以上の事は知らない。知りたいとも思わない。必要もない。
 時折顔を会わせる母親は、娘を充分に可愛がっている。少女もまた、母親を信頼している。たとえ、腕や足に痣があろうと、夜中に家から追い出されていようと、育児放棄の気があろうと、関係なく。母子は互いを必要とし、愛し合っている。それを俺は知っている。
 そして、俺もまたこの少女を、愛しく思っている。夜の街で一晩中濁った空気を吸い、汚く狭いアパートの一室で眠るだけの生活の中で、少女の無垢さは俺にとっては何よりの安らぎなのだ。出会って間もないうちから何故か懐いてくれるこの小さな存在を、大切にしたいと思う。
「お日さま出たよ」
「眩しいだろう、余り見ちゃダメだ。目が悪くなる」
 頭に触れ視線を外させると、キョトンとした顔で見上げられた。よくわかっていないのか、考えるように動きを止め、数瞬後に「おはようございます」と挨拶を口にしながら頭を下げる。両手でしっかりとカップを掴んだままなので、どこか少しぎこちない。
「おはよう」
「でも、たかしクンはこれからオヤスミなの」
「うん。だけど、それはもう少しあとだよ。その前に、朝ご飯にしようか。ミルクだけじゃなく、何か食べよう。持ってくるから待っていて」
 空になったカップを手に部屋に戻り、インスタントコーヒーを淹れながら食べ物を物色する。自分用に食パンを一枚取り出し口に咥え、職場で貰った小袋入りのバームクーヘンを三つ持ち、逆の手にカップを持ちサンダルを引っ掛ける。
 モグモグと、ハムスターが向日葵の種を齧る格好に似た姿でバームクーヘンを食べる少女の姿を見ながら、こういう生活も悪くはないと思う。

 幸せだとは言えないけれど。
 それでも、多分。これを、幸せと言うのだ。


2006/09/03
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