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 その男こそが三代目國分組組長であると知ったのは、二度目に顔を合わせる直前の事だ。
「フジくん、気に入られたようだが……気を付けなさい」
 御指名だとの上司の声に従い、先日挨拶を済ませたばかりの客のもとへ行きかけたところ、擦れ違いざまに忠告を貰った。ママの馴染みであるから滅多な事はないが、それでも知っておきなさいと、俺の耳に客の男が持つ肩書きを囁いてきたのだ。
「君なら、普通にしていれば大丈夫。困った事が会ったら直ぐに言いなさい」
「はい」
 ありがとうございますと軽く頭を下げると、止めてしまっていた足を促すように肩を押される。俺はその勢いに従い、小さく一歩を踏み出す爪先から、腹に力を入れ視線を上げる。
 一番奥のボックス席へと向かう間、俺の頭は高速に回転した。雇主に紹介され、先日交わした会話は勿論。幼い頃の記憶、過去の過ち、弁護士時代、そして――水木雅の事。色んなものが掛け回る。
 たとえ気に入ったのだとしても、ただの新人ボーイをこうして席まで呼び出すのは普通ではない。
 先日の記憶にはただの客でしかなく、少し右手が不自由なのかと思った程度だ。だが、周囲は馴染みであろう客のそれに気を配っている風でもなかったが、その正体を知ればそれも頷ける。もう二年前になるが、三代目の襲撃事件はまだ記憶に新しいものだ。
 事件後暫くは表に出ずにいたので、そのまま引退かと噂をされていたようだが、最近はその反動のような復活話を耳にする。事実、國分組の勢いは増しており、そこには三代目・神戸吉郎の存在がある。
 その男からのコンタクト。
 今から待ち受けているものは何であるのか。
 困惑ではなく、ただ面倒だと思いながらもおくびにも出さず。俺は席に着くと慇懃に、関東で一、二を争う暴力団のトップに頭を下げた。
 相手が誰であれ、その思惑が何であれ。
 自分にはもう係わり合いのない事だと、その時はまだそう思っていた。

 だが、俺はそれを直ぐに考え直す羽目になる。


「どうだ、フジ。そろそろイイ返事をくれないか?」
「申し訳ございません」
「この店での仕事はそんなに面白いか?」
「はい。私はまだお世話になって一ヶ月の新人ですから、覚えることも多く、毎日勉強させて頂いています」
「そうか。だが、お前はここに居るような男ではあるまいに」
「…いえ、ママに拾って頂けた事はとても感謝しています」
 一瞬、神戸のその言葉の真意に気を取られ、答えに間を作ってしまう。だが、それをミスとはしないよう、小さな眼を真っ直ぐと見つめる。神戸の眼はその立場から想像するような、見透かすようなものでも、昏いものでもなく、極普通の人の眼をしている。
「フジくんはよく気が回るし、優しいし、賢いし、本当にイイ子なのよ社長」
 だから、私達から取り上げないでねと。席についていたホステスのひとりが、神戸にグラスを渡しながら甘い声で釘を刺す。だが、神戸には逆効果だ。
「ますます欲しくなるな」
「社長さんのところには、沢山素敵な殿方がいるでしょう。フジくんはダメですよ」
「ワシの周りにいるのはムサ苦しい連中ばかりだ」
「あら、そんな事を言ってよろしくて?」
「少なくとも、そう言われて気にするような繊細な奴は居ない」
 尤も、お前はそんな奴ら以上に豪胆そうだがな、フジ。
 場を辞するタイミングを計っていたところに、再び会話を向けられる。さてどうでしょうと曖昧に微笑を浮かべれば、「ほらな、見てみろ」と傍らのホステスを促し、満足げに笑う。何が、ホラなのか。こうして笑う以外に、今の俺に術はないのだ。
 出会ってから、もう何度、この男と似たような会話を交わしているだろうか。どこまでどう本気であるのか疑わしいが、神戸は俺を私設秘書に迎え入れようと口説いてくる。最近ではもうすっかり、見慣れた光景だ。
 最初は、神戸の誘いに警戒を見せていた雇主も上司も、今では男の軽口と思っているのか、口説かれる俺の苦労を慮って同情的であるが実際には放置だ。むしろ、同じ席につくホステス達の方が、俺を庇ってくれさり気なく神戸から遠ざけてくれようとする。尤も彼女達も、見慣れて刺激のなくなったそれをただあしらっているだけなのだろう。
 余裕を無くすことは一切ないが、神戸の請いが真実味をどんどん帯びていっているのを知るのは、スカウトされ続けている俺くらいであるらしい。
 誘われた当初は、馬鹿な話だと呆れた。神戸が俺に興味を持つとすれば、水木雅を意識しているからでしかないと思ったからだ。あの男と関わった弁護士で遊んでいるだけのそれに、本気で相手をする気はない。だから当然、それなりの対応をした。
 けれど、接して気付く。
 この男は、俺の事を一通り調べてはいるのだろうが、水木雅との事は知らないようだと。
 知らずにただ、俺を気に入ったというのだと。
 それを知った時に俺が思ったのは滑稽な事に、俺を求める相手が神戸ではなく水木雅であったならというもので。
 無為に生きようとしている中であるにも関わらず、俺はその時漠然とだが、自分の未来を見た。


 ホステスの見送りを断り、神戸は俺ひとりにそれを命じた。
 エレベーターの扉が閉まり、身体が下降を感じた瞬間、背中に声を掛けられる。店内ではあった軽薄さを一切感じさせない声音。
「三ヶ月でどうだ、フジ。三ヶ月、ワシのところで働け」
「……神戸さま、それは、」
「ワシが何を見ているか、どんな世界で生きているのか、知ってみろフジ。その上でなら、お前が三ヵ月後に出す答えが何であれ、ワシはそれに従おう」
「どうして、私なんですか?」
「お前を気に入ったからだ」
 身体ごと振り返り訊ねると、神戸はいつもの言葉を、けれども新鮮に口に乗せた。
 三ヶ月で、どっぷりと俺をその中に漬け込む自信があるのか。それとも、この男にとってはそんな事はどうでもよいのか。ただ本当に、俺に自分が見る世界を見せたいだけなのだとでも言うのか。
 何をしたいのか意味がわからない。それに対しては、未だに興味も持てない。
 だが、もうここまでくれば逃げる道もないのだろう。
 到着したエレベーターが扉を開けるのを見ながら、俺はひとつ告白をする。
「私には、何よりも大切にしたい、大事な者が居ります」
「女か?」
 その問いに、俺はゆっくりと首を縦に振り、そのまま頭を下げた。小さな箱から神戸を降ろし、その後に続く。
「ですから私は。たとえそれがどこであれ、私は私の思うようにしか動きません。何があろうとも、彼女が居る限り、貴方に忠誠は誓えません」
 正直、今更ヤクザものに囲われる事になろうとも、抵抗はない。そして、それで彼女に迷惑がかかろうとも、仕方がないと思える。諦められるし割り切れる。だが、それでも出来得る手は打ちたいと思うくらいに、俺は隆子が大事なのだ。
 正しくはなくとも。むしろ、悪でも。
 彼女を守れるものがあるのならば、それがヤクザであろうと構わない。
 ただ、そんな俺の道具に、この男はなるのだろうか。
「それでも、神戸さん」
 これは賭けか。
 いや、賭けにすらならない。
 だが。
「貴方が本気で大切にするものを私に見せて頂けるのならば。貴方の提案を飲みましょう」
 この男が示すものが何であれ、俺にそれを見極める術はない。何より、見せられたものを否定できる立場に俺は居ない。既にこれは、俺の負けを宣告していたようなものなのだ。
 それでも、これが俺の駆け引きだ。
 そして。
 案の定、神戸は俺の言葉に、態度に、思惑に、笑いを落とした。
「いいだろう」
 その代わり、次の返事は期待しているぞ。
 そう全てを見透かしているようであってでさえ、神戸の眼は何の変わりもない。
 むしろ。
 俺の眼の方が、今は鈍く光っているのかもしれない。

 それを自覚した瞬間、俺の頭を掠めたのは。
 失った命でも、奪った命でも、いま願ったばかりの小さな命でもなく。
 無機質な、あの寂びれたビルだった。


2008/12/15
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