9
「さて。どう思う、雅」
座席に身体を預け一息つくと同時にされた質問。けれど俺は答えず、逆に問い掛ける。
「あの男をどうするおつもりですか」
「知り合いだったか?」
調べなかったのか、調べられなかったのか。演技ではなく驚きを滲ませた神戸に、俺は静かに頷き返す。
「少し」
「そうか」
二人とも大したものだなと深い苦笑を落とす男の眼は、街明かりを映しながらもここには居ないあの青年の姿を捉えているようだった。初顔会わせのように振る舞った俺達を揶揄りつつも、その感心は彼にだけ向いているのだろう。
間違いなく、神戸は紀藤たかしを欲している。
それはもう、抑えられないくらいに。
「もう無理だぞ、雅」
短い沈黙後に落とされたのは、牽制でも宣言でも何でもない。ただの事実だ。神戸が俺を知るように、俺もまたこの男の事を多少なりとも知っている。
だから。言葉にされなくとも、わかっていた。ローズで紀藤を見た瞬間、回り始めた歯車は止められはしないと悟っていた。だからこそ、問い掛けたのだ。彼をどうするのかと、立場を超えて。
神戸がもしも、俺と紀藤の繋がりを知っていたのならば、手を出そうとはしなかっただろう。それがどんなに魅力的だったとしても放っておいたはずだ。それくらいには神戸のなかでの自分の存在は確かなものだと、俺は自負ではなくただ事実として知っている。
だが、紀藤はそうは思わなかっただろう。俺との関係が神戸の興味を引くきっかけを作ったのだと、そう考えたはずだ。
それでも。
神戸の隣に座った俺を認めても。あの男は表情ひとつ動かさず、初対面の態度を貫いた。つまり、神戸が俺達の接触には気付いていないのだと察しており、更にはそれを教えるつもりはないのだとその態度で示したのだ。
風花には言われていたが、個人的には上司の目当に興味はなく、馴染みのオーナーへの顔見せにしか過ぎなかった。神戸がボーイを呼び出す姿にも、これから来るだろう男を意識する事もなかった。ただ僅かに、神戸の相手が分を弁えた人物である事を望んだ程度だ。
腹心と言う立場として、上司のイロを拝顔する。それ以外の何ものでもなかった時間が、一瞬にして変化した。自然な動きで近付いてくるボーイの姿を見た瞬間、俺は声には出来ない叫びを胸中で上げた。
何故、お前がここに。
何故、お前が神戸の。
探した存在との思わぬ再会。だが、紀藤は俺を俺として接する事はなかった。
ただの水木雅は、既に紀藤の中では消えてしまっているようだった。
フジと名乗ったボーイは、静かだが存在感を示して、神戸の言葉に応じる。その姿は、風花に何かを感じさせたようだが、俺はただ、自然過ぎる雰囲気に違和感を覚えていた。
目の前のボーイは、間違いなく紀藤たかしだった。だが、あの廃ビルで接した男とは掛け離れた存在のようでもあった。
どこかとぼけた気質も、柔らかな笑みも、何かを抱えたその隠された気迫も。全て目にしてきたものではあったが、違和感を拭えない。それは、男の目が自分ではなく神戸に向けられているからと言うのも多少はあるのだろうが。俺には窺うことも出来ないところにあったき当の何かが壊れ散ったような気がするものだった。
それなのに、危うさなどひとかけらもなく座している。
その姿に、ふと記憶が蘇った。同じではないが、そう、あの時あの裁判で。
騒ぎの中にいて静かに在り続けた男は、この違和感を一瞬だが見せたような気がする。俺は、それを確かに見たような気がする。
今更に気付いたそれに、そうして気付かされたのは。
遅かったのだというものだ。
沈黙をどう取ったのか。
「それとも、ワシから逃がしてみるか」
笑いを含んで、神戸はそんな言葉を繋いだ。今なら見逃すと、先の発言をひっくり返すようなニュアンスが込められているのは、俺の答えを知っているからだ。軽口に過ぎない。だが、これを言わせたのは俺自身だと、俺は一度目を瞑り、開いたそれで神戸を見る。
そう。遅かったのだ、自分は。あの時も、今も。
だが、それでも思う。思ってしまう。
もしも、神戸よりも早く、俺が見付けていたのならばと。
そうしていれば、少なくとも。彼をこの世界に引きずり込むことはなかったのだ。自らのこの手で引きずり込むような事は。
しかし、もうこの後悔さえも、遅いのだ。
ならば、進むしかない。
俺も、紀藤も。
「あの男も子供ではないんです。自身で決めた事でしょう」
だから、彼に対しても、貴方に対しても、俺が言えることなんて何ひとつもないのだと。言葉にせずとも滲むそれに、隣の神戸は何を感じたのか。深い溜息を落とす。
それは、俺に対してか。紀藤に対してか。
わからなかったが考える意味も見出せず、俺は窓の外に視線を投げる。
神戸が目をつけたのであり、それに応えたのは紀藤だ。けれども、これからは。彼がこの世界への一歩を踏み出してから後は。俺自身が、あの男をこの闇に捕らえる事となるのだろう。
それは、本意ではない。
だが、神戸が決めた以上、逃れられはしない。
ならば、どこまでも。彼をこの手で染めてやろうか――。そんな昏い感情が浮かぶも、同時に無理だとも悟る。紀藤は、俺には変えられないだろう。
たぶん、神戸にも。
あの青年は、これからどうなるのか。
辿る道はもう、神戸の誘いに乗った時点で決められたが。そこを歩く彼は、はたしてどんな風になっていくのだろう。
今以上に消えてゆきそうな予感に俺の胸を掠めたのは、紛れもない不安だった。
一年振りの再会を経て、奇しくも、前以上に近付いたその存在は。
けれども、とても遠かった。
守ってやりたいと、思えなくもさせられるくらいに。
2009/01/06