3
楽天的だというわけではないと、自分では思っている。だが、時々そうなのかもしれないと思ってしまう事もある。俺としては、人格形成の段階に自分が正しいと疑わない父親に接していたからだと考えているのだが、気性というものもあるのだろう。
幼い頃から俺は、憤りも虚しさも自分の中だけで処理する方法を知っていた。仕方がないと諦める事を知っていた。それでも学校などの外の場所では、自分をそう押さえていたつもりは全くなく、極普通の子供であったと思う。
だが、高校の時、達観しているようだと友人の一人に言われた事があった。良く言えば賢明、悪く言えば保守的。剥きになって我を通す事などしないだろう、ガキの頃に我が儘を言った事はあるか? 悪意など更々なかったのだろうがそんな友人の言葉は的を射ており、反論出来ずに笑うしかなかった。そう、確かに俺自身、自分の考え方は面白味がないのだと気付いていた。己の意地を通す前に諦める事を選んで来たのだから、同年代の友人にもそんな風に見えて当然だったのだろう。
しかし、だからといって俺は我慢をしていたわけではない。多分、そうする事が一番楽だっただけなのだ。事実、感情を処理出来ず悩んだ結果、俺は我を貫いた。今なら、決してそれまでも自分を抑えていたわけではないのだと、あの友人に言い返せるだろう。
そうして自分を少し知り気付いたのは、面倒な事から逃げると言うよりも、俺は進んで楽な方へ向かう傾向があるのかもしれないと言う事だった。父に押さえ付けられていた訳でも、無気力を装っていた訳でもなく、ただこの性格が今までの全てを受領してきただけに過ぎないのだろう。達観していたわけでは決してない。ただ、我を通す通さないの前の意志そのものが弱かったのだ。
だからこそ、流され慣れたというよりも、変に適応能力が養われたのだろうなと溜息を零す俺は、早くも先程の男達に対する恐れをなくしてしまっていた。こうなったら仕方がないさと慌てる事を止め、逆に何処へでも連れて行けよと苛立ちはじめているのだから、案外俺という人間は肝の据わった男なのかもしれない。据わっているといっても、何かあればまた直ぐに縮みあがりそうなちっちゃな肝であるのだが。
隣の男に負けず劣らず憮然としている俺が連れて行かれたのは、意外にも普通のお洒落な居酒屋だった。
土足厳禁の張り紙が庶民的で、ささくれた心も少し和み、俺は漸くほっと息を吐く。今日は体育の授業もあったので、そのままだと臭ってきそうな足下が気になり、消臭スプレーを店員に頼んだ。直ぐにどうぞと手渡してくれる店員がとても美人なお姉さんで、意識する事無く会釈と手間を掛けさせる謝罪が自然に落ちる。
「済みません、お借りします」
どんなに口下手であっても、済みません、ありがとうの謝罪と礼を言うのが人として当然だろう。最低限のマナーが守れない方が、人間失格だ。だが、この手の意見は周りの友人達には伝わり難いものだ。レジを通る度に俺が口にする「ありがとう」が、何度からかいの種にされたかわからない。
そんな友人達の視線とは少し違うが、何処か馬鹿にしたように無言で眺めてくる男の目に気付き、俺はむかつくとあからさまに顔を顰めてやった。何の文句があるだ、この野郎。ヤクザじゃなかったら、顔にスプレーをかけてやるところだ。
「入りましょうか、千束さん」
「あ、はい。済みませんお待たせして」
「エイ、お前も見惚れていずにさっさと上がれ」
待たずとも構わないのになと胸中で突っ込みながらも応え、きちんと礼を言ってスプレーを店員に返す俺の後ろで、戸川さんがそんな不思議な言葉を口にした。一体、何に見惚れていたというのだろうか、俺にはわからない。この手の男が見惚れる程に関心を持てるものがここにあるのかと、そんな感情が男の中に存在するのかと訝る俺は、廻らした視線で携帯電話の通話を受けるその男の所作を捉える事となった。
「……ああ、何だ」
まるで一切の無駄を省いたかの様な動きは淡々とし過ぎていて、何の面白さもないものだ。少しでも表情を変えたのなら胸の中で詰ってやるのに、応える声まで無関心が滲み出ている。この男は間違いなく、この世に面白い事はないと信じているタイプだろう。そして、一番面白くないのは自分自身だとも気付いていないタイプでもある。
「先に上がっていましょう」
待つ必要はないですよと言う戸川さんに、俺達は座敷へと案内して貰う事にした。部屋数はそうなさそうだったが、通路を歩く間にあちこちから聞こえてくる声が繁盛振りを教える。通された座敷は意外と広く、掘炬燵風の作りになっていた。思った以上にしっかりとした店だが、気後れする程でもない。
「遠慮などせず、どうぞ好きな物を頼んで下さい」
「あ、はい。ありがとうございます」
「千束さん、アルコールは大丈夫ですか?」
……いや、流石にそれは駄目です。酔わせて何かする気ですか、…オイ。
得意ではないのでと軽く頬を引き攣らせながら断ると、そうですかと戸川さんは簡単に引いてくれた。邪推した自分が居心地悪くなる程に、あっさりと。被害妄想が強いのかと思ってしまいそうな、想像以上の和やかな雰囲気が部屋を満たす。確か俺はこの人に強制されて連れられて来たんだけどなと思いつつ、俺はお品書きから適当に料理をピックアプした。
完璧に、慣らされている。
だが、眼鏡の奥の目を細めて微笑む戸川さんを見ていると、まあいいかと思えてくる。
やはり俺は楽天家の気があるのだろうか。
メニューが二種類あるのに気付き首を傾げると、この店の二階には多国籍料理のここから独立した店があり、どちらの料理も注文出来るようになっている事を教えられる。最も、別館を利用する時は多少の時間は覚悟せねばならないようだ。
「空いている時間のサービスみたいなものですからね、それは」
「でも、面白いですね」
「思い付きでやっただけですよ。ここの経営者は、何事も深く考えない者ですから」
「お知り合いですか?」
「子供の頃からの腐れ縁ですね、幼馴染みなんて上等なものではありませんよ。40歳を目前にした肥満の化学オタクを友人と呼びたくはないですねぇ、流石の私も」
「化学、ですか?」
「料理は趣味なんですよ。当然、作る方ではなく、食べる方専門ですよ。あいつが店に顔を出せば、ダイエットに敏感な女性客は確実に減るでしょう」
適当に注文した料理が運ばれて来るまでの間に、戸川さんは俺の緊張を解くようにそんな気軽な話題で和ませてくれた。そして、幼馴染みの話をして思い出したのか、遅くなりましたがと自己紹介をする。
「言い忘れていましたね、済みません。いや、何処の誰か名前も知らなければ、警戒されるのも当然ですよね。失礼しました」
苦笑と共に丁寧に渡された名刺は、けれども名前以上のものはわからなかった。一体どういう目的でこんなものを作っているのか、見事に氏名しか印刷されていない。電話番号などを教える時にでもメモ代わりに使うのだろうが、これでは名前すら本名なのか怪しいものだ。
「それで、こちらがあの男前の分です」
二枚の名刺を前に、突っ込みたいところは多々あれど、そんな芸当は俺には出来ずにただただ頷くのみ。少し情けないかもしれないが、聞かない事が自己防衛になる事もある。…確かに、逆の場合もあるのだが。
名刺からは、戸川さんは戸川文彦で、あの男前は水木瑛慈という名である事しかわからなかった。だが、疑いたくなる気持ちは捨てられないが、彼らの口ぶりからこれが二人の本名であるのは確かなようだ。何より、態々ただの学生相手に、ヤクザが偽名を名乗る必要もないだろう。
昨夜、叔母はあの年配の男を水木と呼び、社長だと言っていた。ならば、水木瑛慈が年齢的にも彼の息子となれば、間違いなくヤクザな男であるその親もヤクザである可能性が高いだろう。そう考えると、昨晩はそうは見えなかったのに、あの水木社長もヤクザのような雰囲気があったように思えてくるのだから始末が悪い。
叔母はヤクザだと知っているのだろうか。知っているから裏玄関を使ったんだよな、と考えている内に料理が運ばれ、店員と入れ替わりに水木が入ってきた。俺の正面に座りながら、戸川さんに何やら話しかける。仕事話のようなので、俺は意識を逸らし箸を動かした。ヤクザの仕事など耳にしたくはない。
叔母の料亭は、一見はお断りだが、常連客からの紹介があればそれこそヤクザだろうとホームレスだろうと断りはしないらしい。客は日に数組しか受けない予約制だが、常連ならば急な飛び込みも受け入れる。客室が常に幾つか空いているのはその為らしいし、客同士が顔を合わさない為の老舗ならではの配慮だ。その点から、出入りの時間が重なりそうであれば、裏玄関を利用するのは俺も知っていた。だが、別の理由もあったのだ。
ヤバイ客をひっそりと、なんて事をしているとは思ってもいなかった事だ。老舗の料亭なのだから多少そういうのはあるかもしれないが、それがヤクザだというのはやはりあっさりとは受け入れがたい。甘えじゃないつもりだし、綺麗事を言っている訳でもないが、汚い大人な世界がそこにあるような気がして、俺の中に拒否反応が生まれる。
多分とても美味しいのだろうに、そんな事を考え口にする料理の味は良くわからないものだ。まるで、茹でただけのコンニャクを食べているかのよう。味わうだけの気分の余裕がない。たとえどんなに旨いものでも、食べる環境で味は変わるのだなと、妙に実感する。
「――幾つだ」
繁盛振りからいっても味が良いのは確かなのだろうに、こんな食べ方は勿体ない。そう思いもするが食べる意外にする事もなく、それに加えて貧乏性も手伝い、口に運ぶ手は遅くなりはしても止まる事はない。馬鹿だとしか言いようがない。自分が不可思議な物体に変わった感じさえする。味気ない物を胃に送り込みながら、だけど食べないのも勿体ないなと再度思う。
俺はどちらかといえばB級グルメの方が好みだ。子供みたいだが、ファミレスやファーストフードがお気に入りである。居酒屋も、この手の店よりも、チェーン展開をしているようなわかりやすい味のところが好きだ。そう、だからこそ、余計に叔母の料亭に俺は馴染めないのかもしれない。味もそうだが、順々に出される食事は落ち着かず、とてもではないが楽しめるものではない。多分、歳をとっても俺にはわからない世界だ。
「…おい」
あ、でも。この竜田揚げは美味しいじゃん。白いご飯が欲しい味だ。
「千束さん」
唐突に名前を呼ばれ皿に箸を延ばしたままの状態で視線を上げると、戸川さんが苦笑していた。
「はい…?」
小心者ではないつもりだが、何となく気まずくなり竜田揚げは取らずに箸を戻す。そんな俺をどうしたいのか、戸川さんは唐揚げが乗る皿を俺に近付けながら訊いてきた。取り易いように気を使ってくれたと思いたいが、さっさと喰えという感じに苛立たしげに見てくる別の視線もある。この状況では、俺の喉は水も通さないだろう。
「学生なんですよね、お幾つですか?」
「あ、えっと、来月で21歳になります」
皿から視線を外しそう応えながら、あれ?と俺は考える。もしかして、先程耳を素通りさせた言葉は自分に向けてのものだったのだろうか。それらしいものを聞いた気がする。この人達は、二人で話をしていたのではなかったのか?
「なら、三年生ですかね」
「いえ、まだ一回です。この春に入学したばかりなので」
俺ってもしかしなくても、前に座る男を無視してしまったのだろうか…? 嫌な予感にヒヤリと変な汗をかきながらも、わかるようにはっきり訊けよと、ちらりと視線を水木へ向ける。微妙にだが何故か目が合い、見てはいないと誤魔化すようにグラスに手を伸ばし、濯ぐように俺はお茶を口に含んだ。小心者というよりも、これでは臆病者だ。何だかとても情けなさが湧いてくる。…畜生。
「一年なんですか。でしたら、授業も多いのでしょう?大変ですね」
「いえ、そんな事はないですよ」
と言うか、それが大学生の勤めだ。普段は全く思っていないが、一応自分の立場は自覚しているのでそう否定しておく。ヤクザ相手に国立大生が、遊んでばかりで勉強なんてしていません、と言える訳がないだろう。別に俺とて授業料は勿論、税金だって払っているので疚しい事は何ひとつないのだが、そういう理屈が通る保証は限りなく小さい。戸川さんは大丈夫でも、ビールを飲んでいる男の方は問答無用で無理難題を言いそうだ。
「クラブは何かやっているんですか?」
「一応、週に一度だけのサークルに入っています。硬式テニスです」
「前からやっているんですか?」
「いえ、軟式は体育の授業などで少しやった事はありましたが、硬式は大学に入り始めたばかりです。なので、とても下手ですよ。でも、硬式の方が楽しいですね」
「違いがあるんですか?」
「球の飛び方が全然違います」
人より二年遅れの理由を浪人か留学かその辺りで納得したのか、突っ込んで訊いてこないのを良い事に、俺は適当に返事をしながらこっそりと胸を撫で下ろす。医学部に居た事を話すのは、正直好きではない。二年間を無駄にしたとは俺は思わないが、大抵の人間は医学部から教育部への変更にあまり良い顔をしない。勿体ないだとか馬鹿だとか、さも正論のように遠慮せず言ってくれる。それは確かに一般的には当然の意見なのだろうが、当人としては出来る限り耳にはしたくない言葉だ。自分でわかっているからこそ、他人には言われたくはない事がある。
だが、そうだといって、今の友人達に思わせているような、専門学校に通っていたなどと言う嘘もばら撒きたくはない。あれは、言い訳にしかならないが、ただ誤解を解いていないだけなのだ。決して積極的に吐いたものではない。そんな俺に今出来るのは、精々曖昧に濁す事くらいだろう。たとえ取り繕う余裕をなくしたとしても、友人達にしていない告白を知り合ったばかりのヤクザにする気はない。
「千束さんってあのタレントに似ていますね、ほら」
俺の心を知ってか知らずか、不意に戸川さんが話題を変え、アイドルと言う方が近い有名タレントの名をあげた。確かに幾つものCMに出演しよく見るが、普通の人のようにヤクザもテレビを見てそんなチェックをしているのかと思うと少しおかく、思わず笑ってしまう。
「そんなに似ていますか?」
「言われませんか?日本人にしては目鼻立ちがはっきりしているから余計にそう感じるんでしょうかね」
それを言うのならば、貴方の隣の男の方が余程日本人離れをした顔をしてますよと、俺は戸川さんに向かって軽く肩を竦めた。
確かに、千束の家系を辿れば先祖には日本人ではない者がいるようだが、俺の代になるとその血は極薄いものだ。この顔は外国の血ではなく、人間の進化によるものだろう。外国人並みに小作りな顔で手足の長い日本人は、今の世の中には沢山いる。珍しくとも何ともない。そんな理由で誰かに例えられるのは、正直好きではない。
「時々言われる事がありますが、自分ではよくわかりません。それに、あまり嬉しくないんですよね、年下に似ていると言われるのは」
母親がイタリアの血を引くというそのアイドルは、まだ17才の少年だ。たった3才の違いだが、それは少し屈辱を覚えるもので、二十歳の俺のプライドを刺激する。どちらかと言えば俺は昔から年上に見られがちだったのだ。それは今も変わらず、幼さなどは余りなく、最低でも歳相応に見えるはずだと自分では思っている。それなのに、何が悲しくて高三生に喩えられねばならない。俺は、俺だ。
「言われるのなら、年上の方が良いですか?」
「どちらかと言えば、そうですけど……他人に似ていると言われる事自体苦手ですね、正直」
「なるほど、確かにそうですよね。いやしかし、それにしても若くて羨ましい。私なんてもう、一歳でも若く見られたいくらいですよ」
この価値観の違いが年齢差ゆえだと言うように、グラスに手を伸ばしながら戸川さんが笑う。口に運ぶのは、俺と同じ烏龍茶だ。当然のように水木にはビールをとり、俺にも呑むよう進めてきたのに、何故お茶なのだろう。俺にはわからない、何か特別な理由があるのだろうか。まさか、ヤクザが下戸なんて事は、流石にないのだろうが。
「あの、戸川さんはお幾つなんですか?」
「この前38才になってしまいましたよ。最近肩凝りが酷くて参ってます」
四十肩ですかねぇと笑う隣りで、食べているよりも呑んでいるという方が正しい水木が、呆れるような視線をちらりと横へ向ける。それに気付いたように、戸川さんは男を見、ちろりと笑った。
「千束さん、この人、幾つに見えます?」
「え…?」
「33歳ですよ、どうです?」
「はあ…」
どうですと言われても、何がどうなのだか、さっぱり意味がわからない。33歳ならば、俺より一回り上で、戸川さんより5歳下。それ以外何を思えと言うのだろうか、理解不能だ。炭酸飲料なら兎も角、烏龍茶で酔う人はいないだろう。だが、この人ならば何でもありのような気もする。
「こんな風に黙って眉間に皺を寄せていたら、もっと上に見えません?」
戸川さんはいいのかもしれないが、俺はそんな老けている発言においそれと頷けるわけがない。素面でこの絡みは少し犯罪だ。勘弁して欲しい。
「この人が十代の頃から一緒にいるんですがね、出会った頃と殆ど変わっていない。昔から老けていたと言えばそれまでですが、いや、一緒にいるとムカツキますよ。自分ばかりが歳をとっているような気がしましてねぇ」
「はぁ…」
「騒ぐな戸川」
応えようもない話題に、俺の口から情けない声が出る。それに重なるよう、水木が煙草を取り出しながら言った。咥えたそれにライターの火を差し出しながら、戸川さんは笑いつつも文句を返す。
「楽しいのだから仕方がないだろう。うちに居るのはムサい奴等ばかりで、歳相応に素直で可愛い子に触れる機会は少ないんだ、堪能させろよ。それとも、何かエイジ。俺には喋らせたくはないと?」
「おい」
「心配するなよ、悪い事を吹き込んでいる訳じゃない。ちゃんと楽しんでいるんだから」
ねぇ千束さん、と不意に首を傾げて来た戸川さんに、慌てて頷く。楽しんでいるのかどうかは微妙なところだが、イメージしていたヤクザとの会食からは程遠く、特に問題はない。話に加わらず呑んでばかりの水木は、その姿から無視出来るような存在ではないが、絡みにこない限りは我慢出来る。緊張は消えないが、置かれた状況程も怖くはない。
俺の返答に口角を上げる戸川さんと、不味そうに煙草を吸い眉を寄せる水木の顔を見比べ、慣らされているなとふと思う。警戒心はそれなりにあるので初対面の人間には多少構えはするが、昔から人見知りは一切しない性格だ。子供の頃から多くの大人と接する機会があったので、物怖じも余りしない。だが、だからといってこの二人に馴染んでどうするのか。微妙にこの雰囲気に絆されかけている自分に気付き、俺は軽く眉を寄せた。
戸川さんは俺にはわからない話で、楽しげに水木をからかっている。こんな風にしていると、スーツ姿の二人はその辺にいるサラリーマンのように見えて来るのだから、質が悪い事この上なしだ。ヤクザなんだぞと、しかも多分下っ端とかではなく上の方にいるのだろう立場の男達なのだと、俺は自分に再確認をさせる。
間違っても、血迷っても、仲良く食事を楽しむ相手ではない。開き直って和んでいたら、明日は異国に居る事になるのかもしれないぞ。今ここでドラマのように拳銃を突き付けられたら、俺はやっぱりなと泣くのか、嘘だろうと笑うのか、騙したなと怒るのか。この調子では、驚いている間にまた何処かへ流されてしまいそうだ。それだけは、何としても避けねばならない。
折角表面上は巧くやっているのだから、態と警戒心を見せて威嚇する必要もないが、戸川さんの和ませ攻撃に絆されては駄目だ。好印象の隙間に見せる天の邪鬼ぶりからも、感じる程も温和な性格ではなさそうだと、水木を言い負かせている様子に俺は自身に言い聞かす。平然と「さて千束さんにはここで死んで貰いましょうか」、とか言いそうなキャラクターだ。下手したら、何も言わずに攻撃してくるかもしれない。
勿論あくまでもイメージなんだがと、胸中で言い訳する俺に視線を向けてきた戸川さんが、綺麗に口角をあげる。穏やかな表情に乗せるそれは、けれども残忍さを窺わせた。頭の中を透かし見られた気になり、背筋が凍りかける。だが、流石にヤクザであってもそんな芸当は出来ないだろう。もし出来るのならば、間髪を入れずに、親切心を発揮するようこの人ならば俺の妄想を早々と現実にしていそうだ。
バレているわけがないとわかりつつもビビる俺の耳が、微かに何かが震えている音を捉えた。何だと考える前に、戸川さんが動く。
「――あぁ、電話だ」
上着の内ポケットから携帯電話を取り出した戸川さんが、折りたたみ式のそれを開き、軽く肩を竦めた。席を外す事を断り立ち上がったが、座敷を出るところで不意に振り返り笑い声を落とす。
「エイ、苛めるなよ。千束さんも、気を付けて下さいね」
何を気を付けるのか、不思議で不吉な言葉を残して戸川さんは出ていった。
否、ちょっと待ってくれ。爽やかな笑顔で去られても、これはどう考えても拷問だよ戸川さん。注意が必要な相手と二人きりにするなんて、やっぱり喰えない人なんじゃないかと思いながら、俺は目を泳がせどうにか手元に視線を戻した。さて、これからどうしよう。
たとえあからさまな嘘臭い笑顔でも良いからと、早くも戸川さんの帰りを望む俺の目の端を薄い紫煙が流れて行く。
ちらりと目線を上げると、水木は煙草を燻らせながらこちらを見ていた。不機嫌そうな顔から、男にとってこの会食がウザいものであるのがわかる。確かに突然であったし、仕事らしい電話からも二人共忙しい身である事もわかるので、予定外のこれは面白くないだろう。だが、それは俺とて同じだ。
この席を望んだのは俺ではないのだ、こんな視線を向けられても困る。嫌なら来なければ良かったのだ。怒るのなら戸川さんにだろう、俺ではない。俺は被害者だぞと考え、もしかして自分はヤクザと楽しげに食事をしている馬鹿学生に見られているのかと思い、情けなくなった。だから、こんなに欝陶しげに見られるのだと気付くと、怒りから目眩さえ覚える。
あんたが車を降りた俺を引っ張ったんだろう。これがその結果だ。
ムスッとなっているだろう自分に気付きながらも取り繕うことはせず、俺は竜田揚げを取り口に放り込んだ。苛立ちと沈黙を紛らわす為には、食べるしかない。だが、さっきは美味しいと感じたのに、今はそうは思えない。それが更に苛立ちを募らせた。
箸も進まず手持ちぶさたで、どうすればいいのかわからなくなる。相変わらず、煙草とビールの男は褪めた視線を向けて来るし、最低だ。ムカツクのなら見なければいい。それとも、喧嘩を売っているのか、こいつは。
「メ」
「――は?」
「眼、赤い」
不意に発せられたその言葉を、日本語として理解するのに数秒要った。単語で喋るな、ロボットかあんたは。言われた意味よりもまずそれに腹が立ち応えずにいると、じっと見られる。観察でもしているのか暫くそのままで俺と目を合わせ、そしてまた、赤いと低い声を水木は落とした。眼が赤くなっているの、「赤い」だ。
あんたはナニ人だ、片言野郎。日本語を知らないのなら喋るなよと言うものだ。
ムカツクと思った時には、俺の口から言葉が零れていた。罵声でなかっただけ、多分マシなのだろう。
「あぁ、煙草の煙に弱いだけですから、気にしないで下さい」
別に泣いて居る訳ではないと嫌味と共に軽く笑うと、男は眉間に皺を寄せた。俺はそれには気付かない振りをして、軽く部屋を見渡す。さほど煙は籠ってはいないが、向かい合う距離が距離だ。嫌味だとわかっても、言葉そのものも嘘だとは捉えないだろう。実際、目は赤くなっているらしいのだから。
「いつもの事です」
鼻息荒くに言葉を付け加えながら、俺は煙草の煙が苦手な自分を少し誉めた。普段は不便だとしか感じない体質だが、今ばかりは目の前の男に正当性を持って嫌味を言えたのだから胸がすく思いだ。
水木は驚くよう僅かに表情を変えただけだが、それだけでも多少気分が晴れた俺は、隣に置いていた鞄を引き寄せ目薬を探した。煙草が苦手なのは、ただ慣れていないからだけだと思う。昔は少しの煙で吐き気を覚えるくらいに頭が痛くなっていたが、今では軽い頭痛と目の充血ぐらいだ。いつもならば少し赤くなる程度だが、今夜は気付かれる程に酷いのだろう。だが、多分それは煙のせいではなく、体調のせいだ。端的に言えば、ただの寝不足。疲れにより体が普段よりも敏感になっているに過ぎない。
だが。
「――悪かった」
「え…?」
何がだと顔を上げ、水木がまだ長い煙草を灰皿に押しつけているのを見て何を言われたのかがわかった。この男が、謝罪。似合わないというか、纏う雰囲気とは別の意味で怖いと俺は感じ、居心地が悪くなる。
「…別に、止めなくてもいいですよ」
「苦手なら言え」
「……は?」
探り当てた目薬を手にしたまま、水木の強い口調に俺は一瞬固まった。言われた言葉が頭から体へと染み込み、手が掛かる煩わしい子供に向けるような目にあい、カッと頭に血が上る。
「なッ――!?」
何だよ、それは! 理性で叫ばなかったのではなく、余りの事で言葉が出なかっただけだろう。開いた口を閉じるよりも早く、俺は奥歯を噛み締める。
言わなかった俺が悪いと言いたいのか、この男は。言える訳がないのをわからないのか、自分が人からどう見られているのか知らないのか。ヤクザ相手に煙草の害を訴える奴がいるかよ、馬鹿野郎ッ!
「……。…確かに俺の体には合わないですが、別に目の前で吸われたからと言ってそれで死ぬ訳ではないですよ。俺は、他人の好みに口を挟んでまで止めさせる気もないですし、どうぞ気にせず吸って下さい」
「……」
怒りの中、それでも精一杯の努力をして選んだ俺の言葉に対する反応は、無言だった。じっと静かに向けて来る視線に、腸が煮えくり返りそうになる。
「……吸って下さいよ」
俺がイイって言ってるんだから、吸えよ、吸いやがれ。肺癌にでも何にでも、勝手になってくたばりやがれ。俺にとっても、あんたの腹立たしさに比べたら、副流煙の方が遥かにマシだ。何なら俺自身が吸ってやろうか、コン畜生。
そう半ば意地になり促した俺に対する今度の応えは、あからさまな溜息だった。疲れたと言うような可愛げのあるものではなく、男のそれは、目の前に馬鹿が居る事に対する苛立ちが混じっていた。俺を自分と同じ人間とは思っていないような感じさえする。
悔しくて、情けなくて堪らない。強い感情は、こんな男の前では泣きたくはないのに涙を呼び起こす。俺はそれを誤魔化すように、目薬を点した。片手で目元を覆い、そのまま俯く。何故俺はこんなところで、こんな男相手に、こんな思いを噛み締めなければならないのか。最低だ。世の中の全てが間違っているような気にさえなってくる。
「痛むのか?」
頼むから、もう放っておいてくれ。隠す事なくそう拒絶する俺にそれでも声をかけるのは、欝陶しいからこそなのだろう。ウザいからと自分が動き去るのではなく、相手をゴミと判断し蹴り出すタイプなのだこの男は。俺が何故こんな風に惨めさに耐えているのか、自分には全く関係はないと可能性さえも考えない人間なのだ。子供で言うなら、泣かせておきながら泣く奴が悪いと居直る我が儘なクソガキであり、まさに騙すよりも騙される方が悪いと考えるヤクザそのものだ。
易い人間だ。人として必要な物を持っていない、欠陥品だ。だが、そんな人物に、俺はこうして負けている。それが歯痒くてならない。人としての大きさと力の強さは比例関係にないとわかっていても、その理不尽さに泣きたくなる。
「おい」
「……」
呼び掛けに応えずにいると、トントンと机を叩き注意を促された。それでも無視をすると、またあの溜息が聞こえた。続いて、衣擦れの音に、動く気配。不安になり追いかけたそれは、あろう事か俺の側にやって来た。まさかと驚き顔を上げると、隣りの座布団の上で水木は胡座をかき、机に右腕を乗せ俺の方を向いていた。
「泣く程痛いのか」
こいつは何をしているんだ? 思いもよらない行動に呆然と見返す事しか出来ない俺は、問い掛けの意味を悟るのにかなりの時間を必要とした。その間に、伸びて来た水木の手が俺の頬に触れ指で目尻を拭い、ゆっくりと離れていく。
「まだ痛いのか?」
「……」
何故か声が出ず、大丈夫ですと頭を振り応えながら伏せた視線は、もう一生あげる事は出来ないのかもしれないと思えるものだった。ひとつの驚きが薄れるにつれ、新たな驚きが湧く。そして、それに負けないくらいの羞恥が、俺に眩暈を与える。何をされたのか理解するにつれ、動悸が激しくなる。
「知らなかったとは言え、断らずに吸って悪かった」
放っておいてくれよと、今度は別の意味で泣きたくなった。畜生、これでは俺が、我が儘なクソガキのようだ。何故、諸悪の根源である張本人に宥められねばならない。
「……べ、別に、ホント大した事じゃないんで、気にしないで下さい。目薬点せばすぐに治るし…」
しどろもどろに呟くと、不意に俺の俯いた視界に手が入り込んで来た。爪が短く切られたそれは、力仕事をしていそうな堅さが伺えるもので、少し意外に感じる。戸川さんの手は、もっと綺麗だった。けれど、この男の手も悪くはないと何故か俺は思う。
「見せてみろ」
何を?と思った時にはグイッと顔を上げさせられており、その勢いに驚き見開いた目が、間近に迫った水木の顔を捉えた。拳ふたつ分程しかあいていない距離は、まるでキスをする数秒前のようだ。男の黒い眼に映る自分の顔がはっきりと見えるし、相手がはめているコンタクトが薄い青色というものまでわかるのだから、秒読み段階はとっくに過ぎているのかもしれない。
「…充血は引いたが、眼の縁はまだ赤い」
擦ったのかと眉を寄せる水木の視線から、顎を掴む手から逃れようと、俺は後ろへずり下がりかけ強かに机に左手の甲をぶつけてしまった。ガツンと打ち据える音に重なり、並べられた食器が高い音を上げる。
「――痛ッ!」
最悪だ。
「何をしている」
……何をしているではない。
「…あ、あんたなぁ!」
息が詰まる痛みに冷静さも理性も吹き飛び、俺は心底呆れるような声を静かに落としてきた男を睨みつけた。痛みが全身の血を煮え滾らせ、俺を刺激する。
「いい加減にしてくれよッ!」
何なんだよと顔を歪め叫んだ俺に、水木はスッと音がしそうな程はっきりと表情を消し去り、昏い眼を向けてきた。息も飲めず、瞬時に俺の体が総ての機能を凍結させる。冷水ではなく、頭から液体窒素をぶっかけられたような感じだ。
ああ、ヤクザを怒らせてしまったと、現状は理解出来るがそれ以上は考えられない。謝ろうだとか、逃げようだとか。何もかもが、この男の前では無意味なのだという事だけが、あり難くはない事にはっきりとわかる。まるでそれは、この世の理のよう。
延ばされる腕を見ても、焦りは浮かばなかった。殴られるんだなと、思考とは別の何処か遠くの場所でそう思っただけで、怖さもなかった。たったあれぐらいの事で、二十歳の餓鬼があんた呼ばわりしただけで怒るとは、見た目程も大した男ではないんだな。本当に、易い男なんだなとそう思うと、笑いさえ起こるような気がした。だが、実際には表情ひとつ俺は変えられなかかった。
頭に落とされた衝撃に、体が前のめりに傾く。無意識で畳に突っ張った両手を眺め、左手の赤さに机にぶつけた事を思い出した。いつの間にか、痛みが消えている。
「落ち着け」
低い声が耳を通る。
「喚かずとも聞こえる」
グイッと一度押され、その反動を利用したように頭の上に乗っていたものが消えると同時に、俺はそれが男の手であった事に漸く気付いた。殴られそうになった訳ではなく、何故か頭を軽く押さえ付けられたらしい。まるで犬や猫をからかい、遊ぶかのように。
意味がわからない。その物言いは何だとシバかれるのなら兎も角、何故に自分は頭を押さえられたのか。俺にはその行動がわからなさすぎて、戦意も敵意も何もかもが逸れる。喚かせたのは誰だよと思いもするが、毒気も抜かれてしまったようだ。理解不能な受け入れられないものを前にすると、人は何も出来ないのかもしれない。
それでも。顔を上げれば目の前には整い過ぎていてふてぶてしい顔があるのだから、眉間に皺も寄るというものだ。そんな俺が気に食わないのか、水木も軽く眉を寄せる。
視線を先に逸らせたのは相手の方で、俺はそれを良い事にその横顔を観察しながら睨みつけた。本当に、怖い程にバランスの良い顔だ。ひとつひとつのパーツも申し分ない。だが、それでは逆にマネキンのように味気無くなりそうになるところを、内から放たれる雰囲気が人間味を持たせている。俺に言わせれば、威圧感や不機嫌さは人相を悪くしているだけに見えるが、女が見ればクールだとか渋いだとかそういうものなのだろう。そう見える者になら、冷酷さもきっと魅力であり、意味不明な行動も心揺さぶるような刺激なのかもしれい。
だが、俺には狂った自己中男にしか思えない。外見の良さは認めるが、それ故に奇行が常識行為に変わるという事はない。おかしな事は、誰がやってもおかしいのだ。見目麗しきヤクザ男だからと、何もかもを納得する事も、仕方がないと諦める事も、俺には出来ない相談だ。
ヤクザだからというのとは違った意味で、この男はおかしいと俺は確信する。何がどうこうではなく、多分その全てが、だ。ただの学生にガンを飛ばすのも、ムカツク事を口にするのも性格だと思っていたが、根本的に違うのかもしれない。少なくとも、極普通の人である俺とは何もかもが違う。同じヤクザである戸川さんとも、全く違う。
中身は宇宙人だという方がしっくりくるなと、昔見た映画を思い出す。この男は、機械仕掛けで動いているのかもしれない。
「…何だ」
「いえ、別に…」
「時間だ」
「はい?」
唐突に立ち上がった水木を見上げ、俺はふと気付く。これだけ差があれば、見下ろされている感を過ぎ、逆に守られているかのように大きな存在感だ。とても不思議な事だがそう感じ、それはそれで嫌でもあるよなと眉を寄せる。こんな男に守られるなど、後が恐い。
「戸川に送らせる、お前はまだ居ろ」
「……どうも、ごちそうさまでした」
一瞬、惹かれるかのように良い印象を持った自分が馬鹿みたいな言い草だった。帰りたければ、勝手に帰れ。いちいち威圧するなよ、命令するなよ。もっと普通に、用があるから先に失礼する、くらい言え。何を勘違いしているのか、無理やり連れて来られたのは、だから俺なんだぞ。少しは愛想良くしろよ。仏頂面をしていいのは自分だと、俺はムッと唇をつきだしグラスを呷った。
水木は暫くそんな俺を見下ろしていたが、何も言わずに座敷を後にした。
「……何なんだよ、一体」
最後まで、訳の分からない男だ。あれならまだ、素行の悪い馬鹿なチンピラを相手にする方が楽そうだ。そう考え、先程絡んできた若い男を思い出すが、多分それはそれで疲れまくるのだろう。
はあぁと盛大に溜息を吐き、目についた煮物の小鉢から、里芋を手で摘み口に放り込む。不味くはないが、気力を根こそぎ削ぐような、素朴に徹した味だ。
怒りは向ける相手が側にいなければ、維持し続けるのは難しい。
虚しさに襲われ、俺はテーブルに肘をつき両腕で頭を抱えた。
2005/07/27