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「おやおや、どうかしましたか?」
 水木が座敷を出て行き暫く経ってから戻ってきた戸川さんが、障子を閉めるより早く項垂れる俺にそう尋ねてきた。言いたい事は、胸の中に山程ある。だが、あの男がムカツクのだなどとは言えるはずもなく、俺は済みませんと謝りながら姿勢を正した。
「突然こんな席に誘って、こちらこそ済みませんね。オヤジ二人に囲まれて、緊張して疲れたのではないですか、千束さん?」
 腰を下ろしながらそう言った、戸川さんの優しい笑みに誘われるよう、俺は否定せずにただ力ない笑いを返した。やはり、ヤクザだとわかっていてもこの人は落ち着かせる魅力を持っている。水木とは大違いだ。まるで二人は対極の位置にいるかのよう。
「水木に何か言われましたか?」
 心配というよりも、どこか同情するかのように尋ねられた。
「いえ、特に何も言われていません。ただ、俺は邪魔だったようで、申し訳なくて…」
「そんな事はないですよ。仕事なら兎も角、嫌ならあの男は付き合ってはいないですから」
「そうですかね?怒っているような感じでしたよ」
 感じではなく、明らかに怒っていた。だが、戸川さんは俺のそれを予想外の言葉で否定した。
「シャイだから無愛想に見えるんですよ」
 シャイ…って!? 内気な恥しがり屋の、あの、シャイですか…?
 これ程有り得ない表現はあるだろうか。実はあんなナリだが男ではなく女なんだと言うよりも、違和感があり過ぎる。真面目な顔でキツイ冗談を言わないで欲しい、笑い流すことも出来ない。水木がシャイなら、世の中の殆どの人間が引っ込み思案の引き篭もり人間だと言えるだろう。
 そう頬を引き攣らせ言葉に窮していると、「苦手ですか?」と首を傾げられた。先の衝撃に、ニガテが何なのか良くわからず、戸川さんを真似るように俺も頭を傾ける。
「私とはこれだけ喋れるのだから、人見知りをするタイプではないですよね、千束さんは。でしたら、やはり水木が恐いのですか?」
 あの見目ですからねと息を吐く戸川さんが、綺麗な指でレンズの縁を掴むようにして眼鏡の位置を直した。汚れでもあったのか、僅かに俯き目を細めてのその仕草が、妙に洗練されているかのようなものでドキリとする。多分、もしも水木が同じ仕草をしたら、俺は見惚れるのではなく緊張するのだろう。背中を走る薄ら寒さに体を強張らせるのだと、漠然とだが思った。
 ならば。戸川さんの言うように、俺はあの男が怖いのだろうか? 水木に抱くのは、恐れなのか?
 確かにあのガラスのように何の色もない眼で見られ、頭の芯に響くような声で命令されれば、威圧され恐怖に似たものを覚える。そうなれば、たとえ嫌だと思っても、多分きっとある程度の命令には従ってしまうのかもしれない。水木はそんな、感情ではどうにもならないところで人を制している。それは確かに不快だ。悔しさもある。だが、それに逆らえない自分が感じるのは恐怖だけではないと、俺は胸の中にあるものを形にしようと言葉を探した。
 恐れ以外に、もっと確かなものがあるはずだ。単純に恐いだけなら、あの男を前にして、苛立ったり歯向かいたくなったりしないだろう。その手のタイプは、抵抗するだけ無駄なのだと俺は知っている。恐怖に負けたのならば、順応に接しているだろう。だが、怖いと感じても、逆らってはならない相手だと知っていても、自分の中の対抗意識は今なお消えてはいないのだ。
 自分の中にあるものは、自分以上の力に対する恐れではないと、俺は確信する。そう、俺が意識しているのは、ヤクザではなく、水木瑛慈そのものなのだろう。
「多分、恐いというか、俺がひとりで勝手に構えているだけなのかもしれません」
「構える?」
 戸川さんの復唱に、俺は深く頷きを返した。
「確かに威圧感に震えてもいるんですが、それ以上に、俺は対抗しているんです」
 そう、抵抗ではなく、対抗なのだ。敵うわけがないのに馬鹿みたいだが、俺は多分、子供のような喧嘩を売っているのだ。怖がりながらも負けたくはないと、足を震わせながら男を睨みつけているのだ。相手にされてはいないとわかっていながらするそれは、子供というよりも、まるで小さな犬のようだ。本人は真剣でも、傍から見れば可笑しいものなのだろう。
 そんな自分の滑稽さに気付き小さく喉を鳴らしながら、俺は戸川さんに向かって肩を竦めてみせた。
「俺は、家の中で飼われている小型犬みたいなものですね」
「犬ですか?」
「ええ、そうです。誰かがやって来る度に玄関でキャンキャン吠えたり、あがった客の足に纏わりつき威嚇したりしているアレですよ。自分の縄張りに入って来た奴に、ここは俺の場所だ出て行けと噛み付く。侵略者じゃないとわかっても、なかなか認めない。上手くは言えませんが、そんな感じなんでしょう。自分だけが、騒いでいるんです」
 そう、必死なのは俺だけなのだ。騒いだところで、相手は痛くも痒くもないのだと、俺は自分の表現に自分で軽い溜息を落とした。だが、墓穴を掘った感の強い俺を、戸川さんは誉める。
「あぁ、わかる気がしますねそれは。犬が吠えるのは、怖いけれど、譲れずに頑張っているからなんですよね。まさに、こっちに来るなあっちに行け、ですね。なるほど、小型犬ですか。上手い表現をしますね、千束さん。――って、いや、別に悪い意味で同意しているわけではないですよ…?」
 自嘲気味な発言への同意は悪いと思ったのか、戸川さんが慌てて謝罪を付け足した。わかっていると頷きながら、だから自分はあの男と父親を重ねたのかもしれないなと、ふと思い付く。昨夜感じたこれには、それなりに理由があったという訳だ。
 何を考えているのかわからないあの眼も、人を威圧する感じも確かに似たところがあるが、そんなものではないのだ。似ていると思うのは、彼らの前に立った自分の感情が同じようなものだからだ。恐いと思う以上に厄介だと感じるところだとか、自分の言葉は届きそうにない苛立ちだとか、人として己より劣っていると俺を評価しているのだろう悔しさとか、そんな相手と向き合うその虚しさだとか。そういう与えられると言えば良いのか、対峙する事で俺の中に生まれるものがとても似ている気がする。
 そう考えると、水木に対して少し悪かったかなと思えてきた。彼は親父ではないのだから、もう少し冷静になるべきだっただろう。俺は絶対に嫌味だとか馬鹿にしているとかしか考えなかったが、水木が言った言葉はそのままとれば、そう腹立たしいものではないのかもしれない。誠意は皆無でもあんな男が謝っていたのだから、それはそれで受け取れば良かったかもと思いながらも、本人を前にすれば無理だろうなとも思う。
 簡単に言えば、戸川さんの言う通り、やはり俺は水木瑛慈が苦手なのだ。何だかんだと言っても、結局はその一言に尽きるだろう。そう、それが全てであり、他の理由などはただのこじつけなのかもしれない。
「千束さんの心境は、それで例えるのならば。家の中では天下をとっていた子犬が、初めて訪れた大型犬に出会ったみたいなものですかね」
「ああ、そうなのかもしれません。大型犬は歯牙にもかけていないのに、ひとりライバル意識を燃やしているんですよ俺は」
 上手いところを突くなと、俺が苦笑しながら応えると、相手が相手だからねと戸川さんも少し困ったように笑った。
「あの男は、本当に対抗意識を掻き立ててくれますからね。でも、あれは無自覚でやっているんですよ」
「無自覚、ですか?」
「ええ、性質の悪い事に。本人は、自身の見目や雰囲気に一切興味が無い男ですから、相手に必然的に与えてしまうものをよく理解していないんです。どれだけ下の者に畏怖されようが崇拝されようが、立場がそうさせているのだと信じていて、自分のせいだとは考えていません。困った男です」
 心の底から嘆くような話し方に、俺はこの人も大変なんだなと戸川さんに同情した。だが、それ以上に、語られた内容に驚く。これがもしも本当ならば、俺が思う以上に水木は訳のわからない男らしい。ヤクザが天然なんて有り得るだろうか。いや、これはそんな可愛いものではなく。あのレベルの男が己を知らないのは、ある意味犯罪だ。性質が悪いなどと笑っている次元ではない。
 俺を和ませる為、少しオーバーに言っているのだろう。これは戸川さんなりの気の使い方だと結論をつけ、俺は考える内にいつの間にか下ろしていた視線を上げた。
「さて、そろそろ出ましょうか?」
 戸川さんに促され、腰を上げる。前を歩く姿を見ながら、水木が父親ならば戸川さんは亡くなった叔父に似ているなと、俺は母の弟を思い出す。
 弁護士だった叔父は、年の離れた兄貴のような人だった。俺も兄も幼い頃から懐いており、良き父親のようでもあった。叔父の気さくな笑顔や優しげな温もりが、戸川さんのそれに記憶の中から呼び起こされ、懐かしさが胸に込み上げる。まだ40前の若さで彼がこの世を去ったのは、俺が高校生の頃だ。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ、何でもないです」
 既に靴を履き終え俺を待つ戸川さんに謝り、俺も靴に足を通し入口を潜った。
「あの、ご馳走様でした」
「いえ、こちらこそお付き合い下さりありがとうございます。お疲れ様でした」
「いや、えっと……お粗末様です…」
 何を言うのかと戸川さんの言葉に首を傾げながら言った俺の言葉の方が、何を言っているのだかな発言だ。案の定、声を零して笑う戸川さんの反応に、俺も今更取り繕う意味もなく同じように笑った。水木と違い嫌味っぽさがないので、この人になら笑われても平気だ。全く問題ない。自分がバカなのを素直に認められるし、何より彼の笑顔は気持ちが良い。
「済みません。俺、余り言葉を知らなくて…」
「まだ二十歳でしょう。知識も経験もないのが当たり前の年なのですから、何も恥じる事はないですよ。何より、心配しなくても、千束さんはとてもしっかりしていますよ」
 うちの連中も見習って欲しいものだと肩を竦めながら、戸川さんは銀色のセダン車の前で足を止めた。スーツのポケットから鍵を取り出しながら、その車のドアを開ける。
「どうぞ」
「え、あ、ありがとうございます」
 思っていた車とは違い驚いたが、俺が軽く頭を下げながら乗り込むと、声が掛かり助手席のドアが閉められた。先程の黒ベンツは水木が乗って帰ったのだろうか、初めて見る国産車だ。直ぐに運転席へとまわってくる戸川さんを追いかけながら眺めた車体は、理屈ではなく感覚で、とても彼に似合っているなと俺は思う。
 シャープだが丸みのあるフォルム、シルバー・ホワイトの色合い、そして内装のシックさが戸川さんのイメージそのものだ。落ち着きよりも刺激を与えてくるところは、まさに穏和な見た目に反しひと癖ありそうな人物にピッタリだろう。それが嫌なものではなく快感であるところまで、良く似ている。
「これ、戸川さんの車ですか?」
 運転席に乗り込んだ人物に、俺は確信を持って聞いた。
「えぇ、そうですよ。別行動になるので、水木を迎えに来る者に乗って来るよう頼んでいたんです」
 俺の問いを車が変わった事への訝りと捉えたのか、戸川さんが丁寧に説明をしてくれる。やはりこういうところが好感を持てるよなとか、大人だよなとか考えながら、俺は小さく笑った。どうかしましたかと、ギアを入れ換えながら問い掛けて来る相手に、何でもないと小さく首を振りながら応える。
 今の勝手なイメージを本人に伝えられる程も、俺の神経は太くはない。
「ただ、楽しいなと思っただけです」
「そうですか、それは良かったです」
 何故かと突っ込んで聞いてこないところがまた、自分を気遣ってくれている証拠のように俺には思えた。本当に、スマートで洗練されていながら気さくな所作は、とても叔父に似ている。多分いつもこんな訳ではないのだろうが、それでも今見る一面も確かに戸川さんのものなのだろう。
 何だってこんな人がヤクザ稼業をしているのか、世の中は不思議なものだ。

 料亭に向かう道を走り始めた事に気付き、海谷家に戻って欲しいと俺は戸川さんに頼んだ。だが、あっさりと、既にマウンテンバイクは運んでいるとの答えが返る。
「女将に余計な心配をかけさせるのは悪いですし、料亭には届けずに近くのコンビニに運ばせて貰ったのですが、迷惑でしたか?」
 まだ帰宅前に用があったのかと、済まなさそうに伺ってくる戸川さんに俺は慌てて首を振った。迷惑だなんてとんでもない。そこまでしてくれるだなんて、逆に申し訳ないくらいだ。よく気が回る人だなと、感心せずにはいられない。
 助かりますと礼を言い、俺はその言葉に甘えコンビニまで送って貰う事にした。例え遠慮し断っても、結局は押し切られてしまうのだろう。ならば、初めから素直に受け入れる方が時間を無駄にしなくて済む。相手の機嫌を損ねなくても済む。それに、俺自身、今夜はもう押し問答は勘弁したかった。
 運転席に座るのが水木なら兎も角、戸川さんならば、図々しいと判断される事もないだろう。
 自転車で通学されているんですね、学校はどちらですか。ハンドルをきりながら、戸川さんが訊いてきた。通うには少し距離があり大変だが、もう慣れましたねと俺は返す。これが他のヤクザなら、身辺調査かと身構えるのだろうなと頭の隅で思い、胸の中でひとり笑った。戸川さんもヤクザなのだから、当然同じように警戒するべきなのだろう。だが、つい問われるまま考える前に、口から答えが出てしまうのだ。果たしてこれは戸川マジックなのか、それとも俺が単なるバカなのか。どちらにしても、別段知られて困るような事ではないので話は勝手にどんどん進んでいく。
 いつの間にか、何故一人暮らしをしないのかと俺は問われていた。余計なお世話だと思わないのは、やはり相手が戸川さんだからだろう。こうなればもう、話を止めようとも思わない。
「いつまでも居候ではいられませんから、自立しようとは思っています。ですが、先立つ物がないので、今直ぐは無理ですね」
 自分としては、早く叔母のところを出て行こうと思ってはいるがお金がないのだと笑うと、「失礼ですが、ご家族は?」と訊かれた。当然の疑問だろう。
「居ますよ、両親と兄が。兄はこの春に就職して海外勤務になりましたが、何かと手助けしてくれます。ですが、両親とは去年喧嘩しまして……実は家出中なんですよね、俺」
「家出、ですか?」
 意外だと驚く戸川さんの声に、俺は苦笑を零す。本当は、父親には勘当を宣言されているのだが、そこまで言う必要はない。何より、書類上は家族のままなので、他人に言ってはならないようにも思う。
 昨夜叔母に言った事は、嘘ではないのだ。俺自身、今の状態をどうにかせねばならないと思っている。その前に、勝手に俺がひとりで完結してしまうのは大人気ないだろう。ただの戯言だとしても、流石に身内以外に勘当の話は出来ない。
「学生とは言え成人していますし、この歳で家出も何もないんですけどね。まあ、そういう訳で彼らに援助はして貰えないので、常に金欠状態なんです俺は。学費だけで手一杯で、余裕は全くないです。だから、もう少しお金を貯めてでないと自立しても暮らして行けませんから、今は叔母に甘えているんです」
 恥ずかしい事ですがと眉を下げるしかない俺に、そんな事はないと戸川さんは振り向き言った。
「若い頃は色々あるものですよ」
 目を細めて俺を見、視線をゆっくりと戻し交差点に顔を向ける。つられるように見ると、前の横断歩道を沢山の人間が横切っていた。その中には、遅い時間にも拘らず、学生服姿の少年少女もちらほらといる。
 家に帰らずあてもなさげにうろついている彼らと自分に違いはないような気がして、俺は何かが少し嫌な気分になった。それは、今の自分の現状なのか、もっと大きな意味での親との関係なのか。よくわからないのだが、はっきりと胸にしこりを感じる。
「千束さんの年頃なら、一番身近な大人である親と遣り合うのも当然でしょう。それこそ、貴方が大人になっている証拠ですよ」
「そうだと良いんですが…」
 尻すぼみな返事をしながら、俺は動き始めた車から歩道を眺めた。道端に座り込んでいる彼らが、自分よりも劣る人間だと考えていた時期が俺には確かにあった。遠くはない過去だ。
 そう、あの時と同じ様に。
 いつかただの我が儘だったと判断する時が来そうで、俺は少し怖い。後悔までとはいかずとも、その時の俺は今の俺を否定するのだろう。馬鹿だったと、愚かだったと。以前の俺が、街中の少年少女を貶したように。
 そんな未来は来なくて良いと小さく溜息を吐く俺に、戸川さんは「バイト、紹介しましょうか?」と声を掛けてきた。俺が貯金を増やしたいと言ったからだろう。
「家庭教師よりも割は良いですよ」
「えっと…」
 何となく、だが。思い過ごしかもしれないが、かけられる声が軽い気がする。楽しんでいるかのような響きを感じる。
 それはマトモな職ですか?いくら金が欲しくてもヤバイ事は遠慮します。やっぱり、この人はちょっと油断がならないようだ。そう戸惑いつつも胡散臭げに目を向けた俺を、戸川さんさんはちらりと見て肩を竦めた。
「勿論、高い報酬を得ようとするのなら、それ相応の仕事をして貰わねばなりませんが、心配せずとも違法ではありませし興味がないのなら無理には進めませんよ。紹介出来るものも幾つかありますし、その中で気に入ったものがあれば考えてみませんか?」
 話だけでもどうですかと微笑む戸川さんの言葉を遮り、俺は丁寧に断った。聞いたら最後、逃げられないかもしれないし、何より俺がその魅力に負けてしまうかもしれない。ヤクザのこの手の話は、聞かないに限るだろう。
「ありがとうございます。ですが、受験生もありますし、今受け持っている家庭教師は辞める訳にはいかないんです。それに、あれは俺自身勉強になるものですし。折角ですが…、済みません」
「そうですか。余計な事を言いましたね、申し訳ない。ですが、困った時は遠慮せずに相談して下さい。役に立つかはわかりませんが、話を聞く事くらいは出来ますよ。ああ、でも。まだ若い千束さんなら、私のような人間と親しくするのは抵抗がありますかね」
「いえ、そんな事はありませんよ」
 戸川さんの言葉を、俺は即座に否定した。はいそうですねと頷ける事など出来はしないし、何より優しい戸川さんに対しては確かにあまり嫌だとは思わない。だが、ヤクザの彼を考えれば、先手を打たれて拒絶を絶たれた気がしないでもないのだが。
「知り合ったばかりなのにこんな風に親切にして頂けて、嬉しく思っています」
 そう言った後で、何だか大人の愛情に飢えているかのような言葉だと気付き、少し恥ずかしくなる。懐くといっても限度があるだろう。だが、俺はこれを求めていたのかもしれないなとも思い知る。
 父親に勘当されてから、ずっと兄が傍に居た。沈み込みそうになるのを支えてくれたのも、無茶をしそうになるのを止めてくれたのも兄だ。その兄と離れ、俺は子供のように寂しくなっているのかもしれない。医学部に進んでからも、そこを退学してからも、こうして新に大学に通い始めてからも。何度、叔父がいればなと思った事だろう。彼の優しさを、どれだけ求めた事だろうか。
 本当に子供のように、寂しくて不安で心細いのかと、俺は自分の状態に気付き堪らなくなった。金を貯めるよりも、やはりまずは両親との現状をどうにかしなければならないのかもしれない。
「俺なんか、戸川さんから見たら今時の馬鹿な餓鬼そのままなのでしょうに、本当に良くして下さって……ありがとうございます」
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ、千束さん。お気付きのように、私も水木もヤクザものですが、貴方に危害を加える事はない。誠意を示してくれる相手に無礼で応える程、私達は馬鹿ではありませんよ」
 遠慮せずに迷惑だと言っても良いんですよと、怒りなどしませんよと戸川さんは小さな笑い声を零して微笑んだ。きっと、俺の言葉を表面的なものだととったのだろう。本心ではなく、ヤクザ相手に言えるのはそれだけだろうと。
 そんなに自分は固かったのだろうか、取り繕った言葉だったのだろうかと考えると恥ずかしくなる。俺としては本心だったが、戸川さんにはそれこそ、俺は大人振った餓鬼に見えた事だろう。
「いえ、そんな。俺は本当に嬉しく思っています。確かに、その…気にならないと言えば嘘ですけど、優しくしてくれたのも本当ですから……。……ああ、済みません」
 上手くは言えません、と俺は堪らず片手で顔を覆った。だが、その手は力なくすぐに落ちる。決して戸川さんの指摘はあたっていたわけではないのに、何故か否定する言葉が見付からない。
 そう、結局は。戸川さんの言う部分ではないが、同じような後ろめたさが俺にはあると言う事だ。ヤクザだとわかっていても、胡散臭く感じる部分があっても、俺は自分に都合良く戸川さんの心地良さを利用していたのだろう。ただ、自分の事を知らない誰かに甘えてみたかったのだろう。だからこそ、こんな風に突っ込まれたら言葉に詰まってしまうのだ。
 そして。
 付き合っているのは自分なのに、俺はその責任を忘れてしまっている。強引に誘われただとか、戸川さんが優しいからだとか、ふざけた理由で、自分の興味や好奇心を隠そうとしている。意思の弱さを、誤魔化そうとしている。今夜の事態は自分ではなく全て彼らが招いた事なのだと、俺は心底ではそう思っているのだ。もし何かあったら、彼らのせいなのだと、そう恥もなく言うのだろう自分を認識し、俺はとても居た堪れない気分になった。
 全てが間違いな訳ではなく、当たっている部分は確かにあるだろう。ヤクザとただの学生を、同じモノサシで計られては困る。だが、それでも。一方では利用し甘え、一方では否定し牽制するなど、最低だ。ヤクザに対しそれが一般人の普通の行動だとしても、俺は自分に嫌悪を感じた。
 つまらない人間だ。何て、自己中で保身的で傲慢なのか。ふざけきっている。
「……甘ったれていますよね、俺は」
 思わず零れたその言葉をどう思ったのか、戸川さんは腕をのばし、俯く俺の頭を軽く撫でるように叩いた。ポンポンと加えられる力が優しく、元気を与えてくるかのようだ。

「千束さん。今夜のお礼に、良い事をお教えしますよ」
 空気を変えようというのか、戸川さんは俺から手を離し、思い付いたようにその言葉を口にした。まるで、取って置きの秘密を暴露するかのように、楽しげな笑いまで落とす。
「水木は、貴方をとても気に入っています。私などよりもずっと」
「……それって、イイ事ですか?」
 思わず問い返した俺に、疎まれるより良いでしょうと戸川さんは肩を竦めた。俺としては、戸川さんは俺を余り気に入ってはいないかのような発言に沈みそうになる。比べるのがあの男、水木だなんて、何て低レベルなのか。何となく、情けない。…というか、腑に落ちない。
「でも、あの人は、俺の事を鬱陶しく思っている様でしたよ」
 思わず剥れながら俺がした発言を、戸川さんは軽く首を振って否定した。
「そう器用な奴ではないので誤解されてしまったようですが、今夜のあの硬い態度は、急な事で戸惑っていたからですよ。怒っていた訳ではないんです。彼は、気に入った相手に不誠実な態度はとるような男ではないですよ。確かに、不器用なので対応はとても下手ですがね」
 下手、などという言葉では言い訳にもならないような態度だったぞと思いながら、俺は曖昧に頷く。正直、俺には水木の事はわからない。ただ、彼の内面はともかく、事実としてはやはり、あのふてぶてしい態度は無視出来ないだろう。向かいあった俺がそう感じたのだから、たとえ本当に誤解だとしても、水には流せない。
 あの威圧感は本物だろうと思い出す俺に、戸川さんは自分の発言は嘘ではないと言葉を続ける。
「怖がらずとも、警戒しなくとも大丈夫ですよ。あの見目に騙されず、彼を見てみて下さい。案外、素朴な奴ですよ。きちんと貴方の言葉は彼に届きますから、遠慮せずに思う事を言えば良いんです、千束さん。貴方が訊けば、出来る限り答えようとしますよ水木は。我慢する必要はありません」
 それこそ、ムカツクでも何でも言えば良いのだと、戸川さんは楽しげに笑った。その笑顔を見ていると、納得出来ないところは確かにあるのに、本当にそんな事をしても問題がないように思えてくる。
 だが、あの端正な顔を頭に浮かべた途端、やはり絶対に有り得ないだろうと俺は眉を寄せた。男のあれがただの不器用ならば、あの威圧は無意識にしているとでも言うのか。俺に対しての全てのものは、気に入った相手に向けるものでも、戸惑った結果の行動のものでもなかったぞ。明らかに、鬱陶しがっていた。確かに、声を荒げても何もされなかったが、あれは他人への無関心さからのそれのように思う。俺がどうこうではない。
「…戸川さん」
「はい」
「俺、また、あの人と会うんですか…?」
 もう会う事はないだろうと思い掛け、ここでこんな話を出されるその意味を考える。俺の彼に対する印象を変えて、何をする気なのだこの人は…。
「多分、会う事になるでしょう。気に入った相手には、また会いたいと思うのが普通でしょう?私も、千束さんとまたこうして会いたいと思いますよ」
 微笑んでそう言われても、水木と戸川さんでは全然違う。餓鬼の俺を相手にして本当に楽しいのか疑問だが、少なくとも俺と戸川さんの間には余り隔たりはない。だが、水木との間には、絶対に馴れ合う事にはならない壁があった。空気があった。人としての違いしかなかった。あの場をもう一度望むなど、悪趣味もいいところだ。普通の人間は、絶対しない。
 そう、普通の人間ならばと考え、水木はそう言う意味でも「普通」ではないのかもしれないと俺は眉間に皺を寄せ唸った。宇宙人なのだ、あの男は。地球外生物の「普通」が何処にあるのか、20年ばかり生きただけの俺にはわからない。
「気に入ったって……どういう意味ですか?」
 まさか、何かに使えると見初められた訳ではないよなと、俺は戸川さんに問い掛けた。半分以上、否定してくれと縋るような気持ちで。
 だが。
「私もそこまではわかりませんよ。それは、水木に直接訊いてみて下さい」
「……」
 とてもではないが、あの男にそんな事は訊けない。第一、直接とは何だ。会う事は決定事項なのか?
 訊けなくていいから、わからなくていいから、もう放っておいて欲しい。戸川さんは、俺の反応を面白がりからかっているのだろうが、全てが嘘でもないのだろう。嘘をつくメリッとなど余りないのだから、事実の方が多いのかもしれない。
 そう思うと、戸川さんの笑顔をみていると、本当に俺はまた水木瑛慈に会うのだろうなと認めてしまいそうになる。嫌なのに、マジで心底嫌なのに、仕方がないと諦め納得してしまいそうだ。やはり、恐るべき戸川マジック。自分が思う以上に、俺はヤバイ状況のかもしれない。
 飴は飴でも、ただ甘いだけではなく危険な飴だなと今更ながらに思う。顔は良くても人間としてどうなのかと思う最低最悪な男と並んでいたら、誰だってまともな人物に見えるものなのだろう。水木が比較相手であるからこそ、こんなにも俺は戸川さんにあっさりと絆されてしまったのかもしれない。戸川さんの甘い飴に依存性があったらどうしたらいいのか。すっかり引き込まれている自分に気付き、俺の口からは勝手に溜息が零れる。
 その嘆きを水木に対するものと思ったのか、戸川さんが小さく声を出して笑った。
「そんなに嫌ですか?」
 嫌というか何というか、正直、水木などどうでもよくなっていた俺は、「そういう訳でもないんですが…」と適当な言葉を紡いだ。今この場で水木が何を考えているのかなど、頭を使ったところで何ひとつわからないのだから意味がない。戸川さんはその本心を知っているのかもしれないが、話さないと決めたのならば、絶対に口を割る事はしないだろう。訊いても無駄だ。ならば、やはり。今は水木の事を考えても仕方がないし、俺としては考えたくもない。
 だから無意識に、戸川さんの真意を少しでも掴もうと探っていた俺は、大きく肩を竦める。今俺が思うのは、思えるのはこれくらいだ。
「ただ、昨日会ったばかりで殆ど話もしていないので、どう受け取り扱えばいいのかわかりません」
 嫌とも嬉しいとも判断はつけられないと俺が口にすると、確かにそうだと言い戸川さんはこの話題をあっさりと打ち切った。丁度俺の携帯が鳴ったからもあるのだろう。
「良かったら、番号教えて貰えますか?」
 立原からのどうでもいい飲み会報告メールに目を通し携帯をしまおうとする俺に、戸川さんはそう訊いてきた。返事をする前に「私の番号は…」と11桁の数字を口にする。今更拒むのも何だし、何よりこの人なら調べれば簡単に知る事が出来るのだろうとも思い、俺は登録したばかりの番号に数回コールしておいた。

 いつの間にか、通り慣れた道を進んでおり、昨夜も帰宅前に寄ったコンビニの駐車場に車が入り込む。店員に声でもかけ頼んでいたのか、自転車は堂々と出入り口の側に停められていた。礼を述べ車を降りる俺に続いた戸川さんが、ガラス越しに店内の店員に合図を送る。
「悪戯されていませんか?」
「ええ、大丈夫です。今夜は本当にご馳走様でした。お休みなさい」
「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました。気を付けてお帰り下さいね」
 お休みなさいと柔らかい声で背中を押され、俺はサドルに跨がりペダルに足を掛けた。ハンドルを切りながら後ろを振り返ると、買い物でもするのか戸川さんは店の中に入ろうとしていた。その姿を視界から外し、帰路を辿る。
 星も月も雲に隠れた空を見ながら、俺が落ち込んだりしたから、戸川さんはあんな話題をあげたのかもしれないなとふと気付く。駄目ではないと、大丈夫だと口にする変わりに、水木の話をしたのではないだろうか。あれだけの男に気に入られたと言われたら、普通は喜び気持ちが晴れるだろう。それくらいに魅力があるのは、確かな人物だ。ただ、俺はそれ自体を認めるのが癪であり、戸川さんの思惑は余り威力を発揮出来なかったようだが、つまりは自信を持てとそう励ましたかったのかもしれない。
 ただからかう為だけに、あの男をあんな話題にはあげないだろう。昨日会ったばかりのガキを気に入ったなど、本当であったとしても本人にする程のものではない。
 やはり慰められたのかなと考えながら、俺は溜息を付いた。普通の友人だとか、バイト先の先輩だとか、そういった危害のない者ならば何も気にしなくて良いのだろうが。ヤクザだというのはやはり、嫌だとか何だとかではなく、ただただ重い。
 本人にヤクザだと認められ、けれども誠意を持っていると言われ、事実それらしい雰囲気に晒されもしたが優しく接して貰った。思い描いていたようなものとは違う。それでも、彼らはヤクザなのだ。理屈ではどうにもならない、相容れない思いが強い。
 自分がこんな風にヤクザと付き合うとは、24時間前の俺は想像もしていなかったと俺は軽く頭を振る。本当にまた会う機会が来るのか。それを考えて零れるのは、溜息だ。
 ヤクザというもの以上に、本人そのものを認められる戸川さんとなら今夜のような付き合いも悪くはないのにと、性懲りもなくそう考えながら、俺は料亭の門を潜った。


2005/08/01