5


 朝起きると、雨が降っていた。本降りではないが、自転車で行くのは躊躇うくらいなので、俺は電車で大学へ行く事にした。雨に逢わなかったからもあるが、自転車よりも不便なので、このひと月半で電車を利用し通学したのはまだ二度しかない。
 いつもより少し早い時間に出掛けようと向かった裏玄関で、義叔父と料理長が話をしている場面に遭遇した。この二人は年が近いからか、かなり仲が良いらしい。普段は冷めた性格で無口な料理長だが、義叔父を相手にする時だけはぞんざいな言葉をぽんぽん零す。二人の遣り取りを初めて見た時は、かなり驚いたものだ。
「大和君、今日は電車なんだろう?学校まで送るよ、乗って行かないかい?」
 朝の挨拶を交わし靴を履いていると、義叔父が訊いてきた。だが、義叔父の会社は大学とは方向が違う。態々悪いと断ると、仕事の関係で今朝は会社ではなく直接現場へ行くのだと、そのまま車へ促された。料理長はいつの間にか居なくなっている。本当に不思議な、可笑しな人だ。
「現場って、大学の近くなの?」
「霞ヶ関」
 ならば、大学は途中にあるので、そう面倒をかける事にはならないだろう。
「だったら、適当に停まり易いところでおろしてくれる?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 そう言って笑った義叔父は、けれども、大通りへ戻るには信号を待たねばならないというのに、大学前のコンビニまで送ってくれた。一緒に暮らしていても、仕事が忙しい彼とは顔を会わせる機会が余りないのだが、たまに接触するとさり気なく甘やかしてくれる。40半ばの義叔父にすれば、俺は息子のようなものなのだろうか。突然転がり込んだ俺に嫌な顔ひとつせず、何も言わずに受け入れてくれた。普段はかなり飄々としているが、周りに向ける瞳はとても優しい人物だ。あの叔母が惚れたのも、簡単に納得出来る。
 横断歩道を渡った俺は、走り去る義叔父の四駆をそんな事を考えながら暫し眺め、大学に足を踏み入れた。まだ1コマには早く、天候も悪いからだろう、キャンパスを歩く人影は少ない。いつもならば朝から賑やかな空間が、今日はひっそりとしていた。普段なら聞こえないだろう、傘を打つ雨が耳に心地良い。だが、月が変わり梅雨になれば、直ぐに鬱陶しく思ってしまうのだろう。
 足下を気にしつつ講義棟へ向かいながら、俺は今別れたばかりの義叔父の事を考えた。
 こんな天気でも、彼はサングラスをかけていた。流石に色の薄いものではあったのだが、無闇に素顔を晒せないと言う事だろう。多分、その効果を信じているのではなく、あくまでも立場上の義務なのだろうが、言い換えればそれだけ特殊な職についているという事だ。用があるのは霞ヶ関だと言っていたが、ここからの距離なら首都高には乗らないだろう。何より、本当にそこへ向かうのかもわからない。そう、途中には幾つもの大使館があるなと、俺は思わず馬鹿な邪推をしてしまう。
 経営者に名を記しているのだろうが、義叔父は料亭の全てを叔母に任せ、全く別の仕事をしている。本人からは人材派遣のような会社をやっているのだと聞いているが、その実態は少し特殊な警備会社のようだ。派遣するのは、ボディガードであるらしい。
 高校卒業後すぐに外国部隊に入り、叔母との結婚を機に日本に戻ってくるまで十年程イギリスのセキュリティサービス会社に勤めていたのを考えれば、要人相手の仕事をしているのだろう。だからこそ、義叔父の仕事については誰も余り話さないのだ。事実、偶然聞き知ったそれだけでも、おいそれと首を突っ込めるものではなく、俺もあえて尋ねはしていない。兄も同じ意見なのか、俺よりもう少し詳しく知っているようだが何も言わない。
 多分、兄も俺も、叔母が選んだ彼を認めているのだろう。信用しているのだろう。多少、周りの大人達が敬遠しているのも知ってはいるが、そんな事は関係ない。たとえ、昔、義叔父が銃を手にして人を殺めた事があったとしても。今も、それに近い仕事をしていたとしても。俺は義叔父が好きだし、何かを知ってもそれは変わらないだろう。だからこそ、あくまでも彼が知られない事を望むのなら、俺は知らないままで良いと思う。俺にとっては、彼は優しい義叔父だ。今のところ、他は特に必要ない。
「千束ー!」
 不意に大声で呼び掛けられ反射的に振り向くと、傘も差さずに走って来る大柄な人物が目に飛び込んで来た。
「うわっ…!」
 明らかに俺を目掛けて突っ込んで来ているのだろう濡れ鼠から逃げるべく、考えるより先に走り出す。水溜りに突っ込むが、足下など気にしていられる状況ではない。
 後ろから迫り来る馬鹿男から何とか逃げきれたのか、とりあえず無事な姿のまま講義室に飛び込むと、見知った顔が間延びした挨拶を寄越してきた。傘を畳みながらそれに応え、俺はあがりかけた息を戻す為、溜息混じりの深呼吸を数回繰り返す。
「……朝っぱらから、危うく襲われるところだった」
「暴漢の名前は原田だろう?下西が餌食になっているよ」
 ゆったりと、名倉が頬杖を付いていた手で示した先を見ると、ひとつの傘を寄り添い差している二人組が窓の向こうにいた。いや、寄り添うを通り過ぎ、原田は下西に絡み付いている。正しく、逃げられないよう腕を首に回され濡れた体を密着させられている下西に同情しつつ、俺は漸く自分が助かった事を悟り名倉の隣に腰を下ろした。捕まらないで本当に良かったと、安堵の息を吐く。
「この天気で、なんで傘を持っていないんだよ、あいつは」
「さあねぇ、凡人にはわからない思考をしているからな、原田は」
「…馬鹿だな」
「うん、馬鹿だね間違いなく。だけど、それに掴まる方も馬鹿かもね。あの原田を見たら、千束のように逃げないとね」
 下西には悪いが、確かにそうだよなと笑いを落としているところへ、件の二人がやってきた。既に、捕らえられている下西からは生気が感じられない。最早、絡みつく男を引き剥がす努力は止めたようだ。気力を飛ばしたその姿は、哀れを誘う。
「千束ー、逃げるなんて酷いじゃないか」
「酷いのはお前の恰好だ」
「あと、頭の中と友達の扱い方もね」
 大丈夫かいと名倉が逝きかけている下西を気遣うように見上げるが、原田はそれを遮るように大きな溜息を吐いた。
「お前らなぁ、ずぶ濡れの友達を労る気はないのか?風邪引くぞ、とか言えないのか?」
「下西、馬鹿が染るぞ」
 原田の戯言を流しながら声をかけると、少年っぽさがまだ抜けていない小柄な下西が、疲れきった顔で助けてくれよと訴えてくる。そういえば、こいつは昨日のコンパに出たんじゃないのかと俺は思いだし眉を寄せた。同期同課程のメンバーを頭に浮かべ、彼らなら未成年など関係なく酒で盛り上がっただろうと考えれば、目の前で死にかけている少年の体調がわかるというものだ。
「二日酔いか下西?」
「うん、少し…」
 応える声も弱々しく、仕方がないので俺は立ち上がり原田の戒めを解き、下西を名倉の逆隣に座らせた。問題の原田は、前の席へ押し込む。本当ならば離れた席に放ってやりたいが、そこまですると逆に、俺の隣の空席が狙われそうだ。
「お前ら何騒いでんの?っていうかナニ原田、ベタベタじゃん最悪」
「こいつの隣はやめておこうぜ、湿度が高そうだ」
 いつの間にか知った顔が集まり、原田の姿をからかっていく。机に突っ伏した下西を名倉は気にしているが、午前中は復活しないだろう。二日酔いならば、放っておくしかない。
「よう、オハヨー!ったく、やだねぇ、雨だよウザイぜ」
「お前自身が鬱陶しいぞ」
「何だ千束、朝から機嫌が悪いねぇ。ってか、原田ずぶ濡れじゃん最高だな。あぁ、やっぱり下西は見事に死んでいるなぁ、おい薬飲んだか?」
 潰れた下西とは違い元気一杯にやって来た立原が捲し立てながら、果敢にも原田の隣に座った。一回生は一般教養が中心なので、同期は大抵似たり寄ったりの時間割りだ。掲示板を見て来た立原が次の美術史が休講になっていると言うと、喜ぶ者と羨ましがる者二手にわれた。裏講義の現代中国はかなり不評のようだ。
「休講だって、どうする千束?」
 美術史仲間の名倉が首を傾げてくる。
「そうだなぁ、俺まだ月曜の経営学のレポートしていないから、図書館へでも行くよ。名倉は?」
「4コマ目の独語の予習がまだだから、僕も図書館に付き合おうかな。…と言うよりも、一緒にやって、教えてよ」
 全然ダメ独語は苦手なんだと嘆く名倉に、自分でしろよと言いつつも了承し、1コマが終わると俺と名倉は一緒に図書館へ向かった。他の美術史組の奴らは、早くも学食だ。
「授業が終わる前に、俺らも食べに行こうな」
「うん、そうだね」
 2コマ終了と同時に学食には列が出来るので、混む前に昼食を摂ろうと決め、携帯のアラームを正午にセットし机に向かう。約一時間しか時間はなかったが、昨日とっておいた資料が思いのほか役立ち、短い時間で八割近くレポートを書き上げる事が出来た。後は、見直しながら清書すれば完成だ。
「千束、終わった?ここ、教えてくれる?」
「ん、どこ?」
「彼は自分自身だけを愛している――ってどう言うの?」
「何を習っているんだよ?…ああ、これなら、この再帰代名詞っていうのを使えば良いんだよ」
 俺は教科書のその箇所を指で軽く叩き、名倉が考えている間に自分のレポート用紙に答えを書いてみせた。
「Er liebt nur sich selbst.――…って、ナルシストかよ。何でこう外国語の例文って変なのが多いんだろうな。こんなの、どんな場面で使うの?」
「確かにもっと日常的なものにして欲しいよなぁ――っと、ありがとう、助かったよ。この辺当たりそうなんだよね、今日」
 にこりと名倉は笑いレポート用紙を返してきながら、残り三問だから待ってくれと辞書に手をのばす。要領を得たのか五分程でやり終え、机の上を片付けながら訊いてきた。
「千束は独語、田沼だったよね?もうここまで進んだの?」
「いや、俺のテキストだと、まだまだ先だよ。多分、後期に入ってからかな。そっち、早過ぎないか?」
 FDを取り出し、パソコンの電源を落とし顔をあげると、苦笑とも呆れともつかない名倉の顔に出会う。
「それがさぁ、出来れば前期中にこの教科書は終わらせたいんだってさ」
「なら、後期は何をするんだ?」
「さあ、何するんだろうねぇ。僕も田沼にすれば良かったよ。それにしても千束、良くわかっているね、独語。スゴイなぁ」
 立ち上がり鞄を肩に掛けた名倉が、感心するように言った。俺は曖昧な笑いを返し、先に歩きだす。
「僕は相性最悪だよ。必須なのに、落としたらどうしようか。2回生で受けるのは、結構肩身が狭いようだよ。ハングルにしておけばよかったなぁ」
「俺だって、別に得意じゃないよ。ただ、高校の選択で一年間やっていたから少し慣れているってくらいで、ホント言う程も出来ないって。でもさ、俺、独語は英語よりも難しくないと思うよ。名倉も慣れればいけるって」
「そうかなぁ?」
「仏語をとった奴らは泣いているぞ。こっちの方が、断然マシだって絶対」
「確かにあれはセンスがないと、どうにもならないみたいだね。逆に、ハングルは本当に楽らしいよ。あそこ、夏休みに希望者で韓国に行くってさ」
 そう言えば前にそんな事を聞いたなと、関係のない二人で盛り上がりながら図書館を出て大学生協へと向かう。初夏の太陽が、シャツ越しにジリジリと肌を刺激してきた。

 誰が付けたのか「クッテ」などという名を持つ第一食堂は、早くも3分の1程の席が埋まっていた。それでも、チャイムが鳴るまではまだ10分あるので大丈夫だろうと、席の確保はせずにトレイに手をのばす。
「何にしようかなぁ」
「俺は丼ね」
 おかずを前に悩んでいる名倉を追い抜き、丼コーナーへと俺は進む。昼だけではなく、夜も食べる事が多いこの学食は、幸いな事に口に合う味付けだ。以前通っていた医大の学食は、業者が入っている割には味はイマイチで、値段が高いばかりだった。医学生の癖にコンビニ弁当に頼り不摂生をしていたのは、俺一人ではない。
 バイト学生から丼を受けとりサラダとデザートを選びながら、一年半近く付き合った医学部の友人達の顔を思い出す。彼らは今もあの微妙な味の飯を食べているのだろう。思い出したように生存確認程度の遣り取りはしているが、彼らとは退学して以降会ってはいない。お互いに忙しくとも会う時間くらいは作れるのだが、その努力をする事を始めから放棄しているのだろう。多分、そのうち、電話もしなくなるはずだ。
「お、親子丼だ。僕ネギ苦手なんだよねぇ。青も白も、食べたら吐く」
「俺はその言葉に息を吐くよ。お前好き嫌い多過ぎだぞ」
 宣言通り呆れて吐いた俺の溜息に、名倉は悪戯に成功した子供のように、イヒヒと妙な笑い声を落とした。野菜嫌いな癖に肉も魚もいまいちだと言う、何を食べているのか謎な男のトレイには、目玉焼きカレーとミックスジュースが載っている。せめて、野菜ジュースにすればいいものを。
「笑い事じゃないぞ、何でも食べろよ」
「う〜ん、流石に味覚はもう変わりそうにないからなぁ。不味いものは嫌だし、さ」
 ごめんね期待には応えられないと、少し茶化して応える名倉の足を軽く爪先で蹴ると、今度は声を零して笑った。出会って二ヵ月近くになるが、この青年はいつでも笑っている気がする。ふて腐れた顔も怒った顔も見た事はあるが、直ぐにそれを笑顔に変える人物だ。のんびりとした口調のそれに、気の合う会話に、何度も俺は救われているようにさえ思う。
「美味しくないと思うものを我慢して食べるのって、凄く損している気がしないか?人生の無駄だと、千束は思わない?」
「思わないよ、バカ。好きなものだけ食べるなんて、それこそガキだと思わないか?不味くても、生きる上では必要だろう。身体、壊すぞ」
「まぁ、確かに良いとは思っていないけどね、僕も」
「歳とともに味覚は変わるものみたいだしさ。偶には、変わっているのかどうなのか実験してみれば?」
 適当に空いている席につき、スプーンを手にした名倉が、俺の言葉にとても嬉しそうな笑顔向けてきた。
「そうだね。偶には、ね」
 努力をしてみるよと言いはにかむ笑みが心地の良いものなので、俺もそれ以上口にはしない事にする。本人とて、俺などに言われずとも良くわかっているのだろう。
 話を講義の愚痴に変え、名倉と個性的な教官について笑いあっていると、いきなり視界を塞がれ俺はむせ返りそうになった。米粒を飛ばしたところで名倉は怒らないだろうが、俺は気にする。
「――草川、やめろよ」
 何とか口の中のものを飲み込み、深く息を吐くと共に少し低い声を俺は落とした。丼と箸を置き、視界を塞ぐ手を外す。だが、掴んだ腕は予想以上に細く、苛立ちに任せ混めた力はすぐに抜いた。ふわりと甘い香りがあがる。
「どうしてわかるの?」
「こういう事をしてくるのは、女だとお前くらいなもんだよ」
 手を離すと同時に、草川の腕が首に絡まって来た。俺の背に凭れ乗り出すように顔を覗き込んできた少女の額を、俺は軽く指で叩く。何をしてくるのか、こいつは。
「重い邪魔退け」
「ね、ひと口ちょーだい」
「駄目」
「ケチ」
 何て事を言うんだ。俺がケチなのではなく、人の食べ掛けまで狙い強請るお前が卑しく恥知らずなのだ――とは流石に言えないので、その代わりに無言で腕を外してやる。幾ら体重をかけられたからといって、小柄な女の子に負ける訳がない。離れないよう力を加えているのだろうが、難なく俺は草川を外す事に成功した。放り出すのも何なので、とりあえず隣の席に座らせてやる。
「草川さん、昼飯は?」
 面白そうに俺達の遣り取りを見学していた名倉が、漸く口を挟み参加して来た。
「朝遅めだったから、お昼は抜き」
「おい、三食きちんと摂れよ」
 だから小さいんだと態と言ってやりながら、仕方がないのでデザートのヨーグルトを恵んでやる。アロエよりイチゴの方が良かったとぬかすのを無視し、俺は丼をかき込んだ。
「あ、そうだ。今日はクラブ休みだよ。ミーティングもなしだって」
「掲示出ていた?」
「ううん、さっき先輩に聞いたの。連絡網でまわすって言っていたよ」
 何だそうかと相槌を打ちながら、俺はお茶を飲んだ。いつもなら金曜は3コマを終えてサークルに参加し、夜は適当に食べて帰るのだが、休みとは。休日以外は晩飯は食べて帰ると叔母に言っているので、前以て伝えられるのなら兎も角、急な変更はあまり頼みたくない。歓迎しない事態発生だ。
 図書館で先程のレポートを仕上げ、学食で早い夕食を摂って帰るか。それとも誰かを掴まえ、久々に遊びに出るか。どうしようかなと不意に空いた予定を考えていると、草川が食べ終えたカップを俺のトレイに置きながら、思い出したように言ってきた。
「大和クン、昨日来なかったでしょ。駄目だよ、同期の付き合いは大事にしないと」
 同期の同課程で開いた、昨日の飲み会の事だ。
「立原に聞いただろう、バイトだったんだよ」
 正確には、バイトは潰れ、ヤクザと飲んでいたのだが。そう言ったら草川も名倉もどんな顔をするだろうと考えつつも、俺は別の言葉を口にした。流石に言えるわけがない。
「それより、お前なぁ。ご馳走さまくらい言え。ゴミは自分で捨てろ」
「えぇ〜、それくらい捨ててよ、お願いネ。って、大和クン。今の言い方ちょっとオヤジっぽいわよぉ、ヤダー」
「ガキじゃないんだ、ふざけた事を言っているなよ。何が、お願いネ、だ。草川、それ全然可愛くないし、寧ろバカっぽいぞ」
 剥れた表情の少女に呆れながらも苦笑し、俺は膨らんだ頬を押さえてやった。この手のブリッコが通じるのは、十代の同級生までだろう。それか、二回りは離れたオヤジだ。少なくとも、残念ながら俺には通じない。
「ほら、しゃきっとしろ、シャキッと」
「…大和クン母親みたい」
 2歳しか違わない男になんて事を言うのか。
 俺は触れていた頬を摘み、眉を寄せた。だが、その途端に草川は「ごめんなさい…」としおらしく視線を下げる。こうなれば、計算かと疑う気持ちがあったとしても、男に出来るのはひとつだけだろう。
「ったく、お前はなぁ」
 負けるよと俺は苦い笑いを落としながら、草川の頭を撫でた。指に絡まる髪は細く柔らかで、こんなところでなければもっと触っていたくなる上級品だ。無駄に身形を飾らずとも素材は良いのだから、頭の軽さをもう少し鍛えて欲しいものだ。勿体無い。
「千束と草川さんってさ、付き合っているの?」
「何言ってるんだよ名倉。課程もサークルも同じだけの腐れ縁ってやつだよ」
「えー、ヒドイ!」
「酷くない、事実だろう」
 冗談めかしつつも良い機会だと釘を刺す俺に気付いているのは、当人ではなく観客のようで。名倉が少し困ったように苦笑する。そこに非難めいたものがないのは救いだが、後で軽い嫌味くらいは言われるかもしれない。
「ねぇ、大和クンはナオの事嫌いなの?」
「自分の事を名前で言うな、ガキ」
「答えてよ!」
「あのなぁ。嫌いな奴に、自分の食べ物はやらないだろう普通。くだらない事を聞くなよ、ちゃんと友達だと思っている。嫌いじゃないさ」
「……」
 当然の如く面白くない顔をする草川には悪いと思うが、この先もこの少女に対し同期の友人以上の感情は持たないだろう事がわかっているので、これ以上の事は言えない。今はとても彼女を作る余裕自体ないが、あったとしても草川はその候補には入らない、完璧に恋愛対象外な人物だ。見目が良いので周りの男連中にはかなりモテているようだが、俺には草川は草川でしかなく、女性としてさえ意識出来ない。これはもう、本当に草川には悪いのだが、好みの問題ではなく生理的なものなのだろう。どうにもならない。
 だが、だからこそ、自分に好意を持ってくれているこの少女を、俺は大事にしたいと思う。しかし、友達としてこんな風にやっていきたいというのは、我が儘だろうか、都合がよ過ぎるのだろうか。こいう場合に優先すべきものが何なのか、俺はまだ良くわからず楽な方を望んでしまう。いっその事、嫌われる方が良いのだろうかとも思うが、突き放すのは躊躇われる。自分にこの少女を傷つけていい権利など、当たり前だがあるはずがない。持ってはいない。
 人と関係を築くというのは、本当に難しいものだ。
「――あぁ、俺だ」
 自分でしかけた牽制だというのに、少し居心地悪く感じはじめた俺を救うかのように携帯が鳴った。鞄から取り出し確認すると、昨夜登録した名前が画面に出ていた。
 救われたのか、更に蹴落とされたのか、微妙なところだ。何てタイミングで掛けてくるのだろうか、この人は…。
「ゴメン、電話だ」
 悪いなと二人に断り通話を受けると、記憶に新しい声が耳に飛び込んできた。
『戸川です。千束さんですか?』
「あ、はい。こんにちは」
『ええ、こんにちは』
 クスッと小さな笑いが落とされたが、すぐに戸川さんはその雰囲気を消す。どうやら鼻で笑われたのだとわかったが、言い返せる状況ではないので俺も流しておいた。何よりも、硬い表情で席を立ち去っていく草川の方が気になる。馬鹿にしていた訳ではないが、あの言い方ではそう捉えられたのかもしれない。
「どうかしましたか?」
 戸川さんに問い掛けながらも、草川の後ろ姿を見送っていた俺は、耳に吹き込まれた言葉を理解するのが遅れた。
『急で悪いのですが、今日も少し付き合って貰えませんか?』
「――は?」
『学校は何時までですか?放課後、何かあります?』
「いえ、今日は特に予定はないです。授業も3時前には終わりますけど……何ですか?」
 昨日も思ったが、少し強引だぞ、この人は。それに、ある意味水木よりも物騒だ。水木ならば常にこちらも構えているが、戸川さん相手ではそれは難しく、不意打ちを喰らう可能性が高い。何より、何を言い出すのかもわかったものではない。
 付き合うとはどういう事かと、昨日の今日でまた食事をしようというのかと尋ねた俺の言葉は、けれどもあっさりと何処かへ流されてしまった。
『今日も自転車で行かれています?』
「いえ、雨だったので違いますけど…」
『では、3時に正門前で宜しくお願いします』
「え…? ですから――あ、ちょっと!?」
 焦った声を出した時には、もう既に通話は切られていた。相手が友人ならば、待てよコラ!と速攻で掛け直してやるが、流石にそれは出来ない。
「どうしたの、千束?」
 切れた携帯を見つめ唸っていると、名倉が心配げに声を掛けてきた。
「……いや、何でもない、気にしないでくれ」
「何でもなさそうじゃないけど」
「……」
 無言を返す俺に何を察したのか、「ま、程々にしておきなよ」と労うような言葉と共に微笑む友人に、俺も力ない笑みを返す。出来るのならば自分もそうしたいのだが、ヤクザがその言葉を知っているか怪しいところだ。
「なあ、それよりもさ。草川、怒っていた?」
 携帯を仕舞いながら訊いた俺に、名倉はただ肩を竦めただけだった。
 間違いなくそれ以外にはないだろう正しい友人の態度に、俺はけれども天を仰いだ。


 一体何なのかと訝りつつも、無視する訳にもいかず。3コマ終了後、友人達の誘いには乗らずに俺は律義に校門へと向かった。だが、外に出て見知った人物を見つけた途端、流された自分の行動を後悔する。最悪だとしか、言いようがない。
 いつの間にか雨はあがっていたが、まだ暗い雲が空を覆っているその下で。天気などに微塵の関心も示さなさそうな男が、白い車に凭れるようにして立っていた。表情も仕草も何ひとつ変えないが、校門を出てきた俺を素早く認めたのだろう事がひしひしと感じられる。何て目敏いのか、これではもう隠れる訳にもいかない。
「……あの、戸川さんは?」
 仕方がないと観念し歩道脇に停まる車に近付いた俺は、けれども諦めきれないと言うように、往生際悪く開口一番にそれを尋ねた。だが、これが当然であろう。俺が電話で話をしたのは、この男ではないのだから。
「……後で会えるだろう」
 無表情の中にも、面白くなさげなのをはっきりと張り付け、水木はそんな言葉を面倒臭そうに落とした。ふざけきっている。しかし、面白くないのは確実に俺の方が上だというのに、目の前の男はこんなにもやる気がなさそうだというのに、何故か勝てる気がしない。何を言っても、馬耳東風、のれんに腕押しになりそうだ。だが、それが余計に腹立たしく、俺は怒っても無駄でしかないとわかりつつも無性に悔しくなった。口惜しい。
 白いシャツに黒のスラックスなんて姿はその辺に腐る程いるのに、この男が身に着ければありふれた物でさえ洗練されているかのように見える。その凡人とは違うのだという雰囲気が、それに飲み込まれているのだろう自分が、かなりムカツク。同じ曇り空の下に立っているはずなのに、水木のところだけ光が射しているかのようだ。馬鹿馬鹿しい。
 見目の良い人間が主導権を握るのが万国共通の定義だとしても、やはり俺は認めたくはない。そんな事は納得などしたくはないぞと、俺は昨日と変わらずに威嚇する。戸川さんに色々教えられたが、やはり本人を前にすると対抗意識が燃えあがってくる。何て傍迷惑な人物なのだろう。
 正しく、俺のテリトリーに入って来るな大型犬、だ。負けるな俺!という心境になってしまう。
 不機嫌な声を落とされたからといって、無愛想な言葉だからといって、ここで引けば男が廃る。このままでは、ナメられて終わりだ。
「だろうって……俺は戸川さんに誘われたのですが」
 少し強い口調と視線を向けた俺を、水木は数瞬無言で眺めてきた。…ヤバイ。早速決意が崩れてしまいそうな、凄まじい威圧感だ。
 不覚にも、俺は視線を泳がしてしまう。
「俺なら不都合なのか」
 未だ車に凭れたまま見下ろして来る男は、何を考えているのかそんな事を言った。俺は「別にそういう訳じゃ…」と言葉を濁す事しか出来ず、唇を噛む。今は都合が良い悪いの問題ではないだろう。勝手に話の方向をかえるなよ、畜生。
「…戸川さんが言っていた付き合うとは、貴方に、と言う事ですか?」
 俺が水木を苦手だと知っていながら、戸川さんはこんな事を仕組んだのか。仕掛けてくれたのか。そう思うと自然と眉がより、声が低くなる。やはりあの人は、笑顔でとんでもない事をサラリとしてくれる。
 だが、それでも。戸川さんよりも、俺の苛立ちは目前の男への方が強い。何だって、無愛想なヤクザがノコノコこんなところで人待ちをしているのか。戸川さんに頼まれたのか何なのかは知らないが、馬鹿じゃないのか、認識力が低すぎるのではないか。それでなくとも目立つ姿をしているのに、俺が来るまでもこうして車外で待ち注目を集めていたのかと思うと、目眩さえ覚える。
 少しは遠慮して、離れたところで待ていろよ。これでは、正門を利用する全員に目撃されているではないか。堪らない。
「俺は、全然何も聞いてはいませんよ」
 不貞腐れながらそう言った俺を水木は再び暫く眺め、平坦な声を落とした。
「…それは、俺には付き合いたくないという事か?それとも、戸川に確認をとれば納得するのか?」
「……ッ!」
 見事、俺の頬は引き攣った。舌打ちを落とさなかったのも、喚かなかったのも、きっと顔が固まったせいだろう。
 何故俺が責められるんだと、屈辱にカッと頭に血が上り、俺は敵意を込めて男を見上げる。ふざけるなよと。だが、俺の視線など感じていないような色のない目にぶつかり、俺は眉間に皺を寄せたまま反射的に体を反転させた。これ以上付き合ってなどいられない。
 しかし。
 あっさりと、大きな手に腕を掴まれる。興味ありげに視線を向けながら歩く学生達が、目の前を通り過ぎて行く。急に喉が渇き、微かな痛みを俺は覚えながら唇を震わせた。
「…放して、下さい」
 昨夜も言った言葉を落とし、けれども緩まない力に振り返ると、これも昨夜と同じ視線に会う。錯覚だと思っていた、何処か懇願するかのような瞳に。
「……水木さん」
「その名では呼ぶな、慣れていない」
「……」
 やはり馬鹿なのか、この男は。今は呼び方などどうでも良いだろう。慣れているかいないかなど、俺が知るかというものだ。
 思考も体も固まらせていた緊張が、音が鳴りそうな程の一瞬で解けた。切れた糸はきっと、使い物にはならないくらいに伸びきっているだろう。
「――いや、他の呼び方なんて出来ないし…」
「乗れ」
「……」
 こいつ、人の話を聞いているのか?いや、聞いていないにちがいないと、俺は溜息と同時に視線を下げた。恐いよりも何よりも、やたらめったら疲れる。
 漸く車から体を離した男は、助手席のドアを開け、軽く俺の腕を引いた。また命令なのかよとうんざりしながらも、先の発言でかすっかり毒気を抜かれており、抵抗する気力が沸いてこない。ヤバイ傾向だ。
「…何処へ行くんですか」
「とりあえずは保育園だ」
「はあ…?」
 保育園って……ヤクザが、保育園!?
「生意気なガキを迎えに、だ。行くぞ」
 何処へでもいい、勝手にひとりで行ってくれ、ひとりで。俺を巻き込まないでくれ。…っていうか、巻き込むな。懇願じゃなく、命令だぞ畜生。
 だが、悲しいかな、俺にはそれに従わせるだけの力は何ひとつない。もしも、あったとしても、この男には役に立ちそうにない気がする。宇宙人の相手は、荷が重過ぎる。
 突っ込まれるように頭から車に入った俺は、水木が運転席に乗り込むまでに座席に座りシートベルトをしているのだから、自分の順応振りにこのまま消えてしまいたくなった。幾ら問答無用な命令だとしても、こんな傍若無人男に従ってしまうだなんて、俺のプライドは何処へ行ったのか。主人を放って逝くとは、薄情者め。誰に似たのか、軟弱な奴だ。
 だが、それ以上に、気力をなくした自分自身が弱すぎるのだと、俺は軽く窓に額をつけるように外を向く。どうにでもしろと自棄になってはならない人物なのに、何故こんな事になっているのか。結局は、俺の意思が相手より弱いからなのだろう。抵抗ひとつまともに出来ないとは、本当に情けない。
 人間生きる為に必要なのは、こういう危機を回避する術なのかもしれない。数学の公式や歴史の年代を覚えていても、今は何ひとつ役には立ちそうにない。
 いっその事、手を出されたら投げ飛ばすのになと思いながらも、スモークガラスに映る端正な顔にそれも無理かもしれないと思い直す。武道に精通していても、俺のは所詮は試合だ。本物の喧嘩とは違う。何より、男が慣れているかどうかは知らないが、この顔でこの雰囲気で腕っ節が弱いはずもないだろう。悔しいが、水木を投げ飛ばす自分が想像出来ないのだから、遣り合う前から結果は見えているというものだ。
 何だかんだ言いながらも、俺もこの見目にしっかりどっぷり飲み込まれているなと、窓の中の整いすぎている横顔に溜息を吐きかけてやった。
 ざまあみろと調子に乗って、顔を顰め舌も出してみるが……馬鹿らしい。虚しいだけだ。
 自分の行動に呆れ息を吐いた俺は、ふと今更ながらに、ヤクザの車に乗っているのに気付いた。じんわりと、腹の辺りが痺れるように冷え、体が固まる。
 今更、水木に対しての恐怖ではないが。
 それに似た緊張が、思い出したように俺を包んだ。


2005/08/11