部屋に入って20分。馬鹿広いリビングのソファで、俺はひとり居心地悪く座っていた。自分の状況に、今更ながら呆れてしまう。よくヤクザの部屋なんかにいるものだ。何故自ら足を踏み入れてしまったのか、早くもわからなくなっている。本当に、どうしてこの部屋で戸川さんを待とうなどと考えたのだろうか。
　せめてもの救いは、水木が直ぐに離れた事だ。だが、予想以上に放置されているお陰で、却って居辛さを覚える。戻ってきて欲しい訳ではないが、この状態は少し困るものだ。
　意外にも何か飲むかと俺に気を配ったのかそう聞いてきた水木は、返事を聞く前に、携帯に呼ばれリビングを出て行った。多分、別の部屋で話しているのだろうが、それにしても長い。
　それでも。取り合えず、ひとりになった事で俺は恐怖や緊張を覚える必要もなく、部屋自体には程よく慣れる事が出来た。オープンキッチンとリビングは、冷たいと感じるくらいのモノトーンで整えられているが、こうしている限りは落ち着ける要素にもなっている。ここに水木が加わっていれば、また違う印象を受け、俺は体を強張らせる事になっていただろう。安全だと言われはしたが、信じられずにあらぬ警戒をしていただろう。その点では、水木が別の部屋に移動したのは、俺にとっても歓迎するものであると喜べた。だが、他人の部屋で過ごす20分は、想像以上に長く、俺を揺り動かす。
　ひとりにされ、ゆとりを持って伺う部屋に、水木自身の気配がとても薄い事に俺は気付いてしまった。だが、だからと言って、第三者の匂いを覚えるわけでもない。何故あの男はこんな部屋に、俺を呼び込んだのだろう。生活臭はしないが、それでも彼のプライベートな空間であるのだろうその中で居ると、当たり前な疑問がどんどん沸いてくる。戸川さんと落ち合うにしても、どこかその辺の店で充分だろうと、今更ながらに気付き思う。
「…………はぁ」
　一体何を考えているのだろうかと、何度も思った事を再び頭に浮かべ、俺は短い息を吐いた。ソファに背を預けて頭を反らし、一般的な部屋よりも高い天井を眺める。首を巡らすと、薄暗いガラス窓に目が止まった。この状態で見る事が出来るのは、ベランダの灰色い壁と暮れた空だけだ。
　立ちあがり窓に近付くと、夕闇の中、遠くに都心のビル群が見えた。その手前には、東京タワーまである。このままここに居れば、あと半時間もしないうちに、都会の夜景を拝む事が出来るだろう。
　二十一階からの景色は文句なしに見事であり、俺は惹かれるように窓を開けベランダへ出た。少し強い風が髪を掻き回し、シャツをはためかす。
　このマンションといい、リュウが帰った家といい。ヤクザは儲るのだなと、漠然と俺は思い、そう思った自分に少し嫌気がさした。今時のヤクザなら、それなりに一般人と同様なビジネスをしている面もあるのだろう。だが、所詮は暴力団だ。それにより、泣いている人もいるはず。
　この世の中、幾ら人類みな平等だと叫んでも、弱者は常に存在するのだ。それが人間と言うものであり、ヤクザは強者になろうとする集団だ。彼らは人を、自分の下位に引きずり落とす。
　そうされて当然の者もいるだろうが、非がない者をも彼らは餌食にしているのだと考えると、眼下に広がる景色もどこか空しく見えた。暗さが増していく中できらめき始めるネオンが、視覚以上に胸を刺激する。決してこの場所が強者の象徴でも特権でもないのだが、何だか権力者の傲慢さに思えた。何故か、遣る瀬無さに似た感情が胸ぬ浮かぶ。
　人に疎まれる世界にあえて足を踏み入れる神経が、俺には理解出来ない。少なくとも、戸川さんも水木も、仁侠の世界への憧れだとか、裏社会で地位や権力を手に入れようとかを考え求める人物にはあまり見えない。今とは違い、若い頃は野心家だったのか、馬鹿だったのか。それとも、俺の人を見る目が全くないのか。人にはそれぞれ事情があるのだろうが、それがわかっていてもやはり、不可思議なものだ。
　ふと物思いの中微かな音に気付き振り返ると、水木が窓枠に凭れるよう腕を組み立っていた。
「……」
「……」
　何も言わず眺めてくる男を、俺も無言で見返す。だが、リビングに点る明かりは俺の顔を隠す事なく照らしているが、それを背に立つ水木の顔は少し見難い。そんな自分だけが見られているような状況が心地悪く、俺は部屋へ戻ろうと、壁に預けていた体を起こした。それに反応したかのように、水木も身を翻す。
　キッチンへ入って行くスラリとした男の背を見ながら、俺は後ろ手に窓を閉めた。風に乱された髪を、片手で梳く。少し湿り気を帯びているのは、雨の名残か、緊張か。
「飲むか？」
　冷蔵庫から取り出した缶ビールをかざし、水木が問い掛けてくる。結構ですと首を振ると、飲めないのかと軽く眉を寄せられた。別に怒っている訳ではなさそうだが、やられて気分の良いものではない。
「喉、渇いていませんから」
「……酒は苦手なのかと訊いている」
「…ええ、そうですね」
　自分の酒が呑めないのか等と絡まれるのは嫌なので、俺は適当にそう答えておいた。実際には、ザルではないが、アルコールにはかなり強い方だ。だが、苦いのも辛いのも得意ではないので、ビールや日本酒よりも酎ハイやカクテルなどが好みの俺は、あまり量は呑まない。元々ジュース等をガブガブ飲む習慣がないので、好んではいても先に甘さに飽きるのだ。なので、苦手というのもあながち嘘でもない。まして、気の抜けないところで酒を呑む程、俺は愚かではないつもりだ。
　何やら言いたげな水木が、俺に視線をあてたまま直接缶に口を吐けた。一気にビールを煽ったせいで、大きく動く喉仏が露になる。顎先から鎖骨の下までのラインが、オヤジの癖にやけに綺麗だった。顔や体付き同様、細かな部分も人並み以上らしい。そんなものを眺め続けるのは何となく憚られ、俺は体を捻りながら今一度部屋を見回した。
　バリバリとアルミ缶が潰される音が、広い空間に響く。
「気に入ったか」
「…何が、ですか？」
　振り返った俺を、また水木は真っ直ぐと見つめてきた。料亭の裏玄関で初めて会った時と同じ強い視線は、けれどもそれ以上のものはない。あれはまだ二日前なんだよなと、見慣れかけているのかもしれない眼を見ながら俺は思った。
　どうしてだろう。何も知らないのに、長い間付き合っているかのような感じがするのは。それだけ、男の印象が強烈だと言う事なのだろうか。
「――部屋」
「部屋…？」
　部屋がどうしたのかと、意味がわからず俺は眉を寄せた。言葉が足らないのは自分の方なのに、俺に理解力がないと判断しているのか、水木も同じように眉間に皺を寄せる。かなりムカツク仕草だ。
「……どういう事ですか？」
「…ここはどうかと、俺は訊いている」
　だから、それはどう言う事なのか。そう理由での質問なのか。訊かれる意味がわからないと訝りながらも、とりあえず俺は言葉を返した。
「イイところだと、思いますよ」
　そう答えたのは、最低限の礼儀だ。確かに凄い部屋だが、俺には高そうなばかりで落ち着かない感じがするし、何より苦手な男の部屋を冷静に見定める事は出来ない。本心は、こんな部屋を見せつけるだなんて厭味な奴、ただそれだけだ。良い悪いではない。この場合、それ以前の問題がある。
　そう、だから俺は。
　続いて言われた言葉が何を示しているのか、直ぐには理解出来なかった。

「なら、ここに住め」
「…………。……は？」
「ここで暮らせばいい」
　――否、全然よくない。
　そう胸の中で突っ込みをいれた後で漸く、何を言われたのか頭で理解した。
「……じょ…冗談、」
　でしょう？との疑問形にまでは出来ず、俺は頬を引き攣らせる。自分では見えないが、口元がヒクヒクと痙攣しているのが良くわかった。住め、暮らせ。何をどうすればそんな言葉が出て来るのか、意味がわからなさすぎる。余りにもぶっ飛んだ考えに、ただただ驚く。
　驚き過ぎているからか、それともこの男なら理解不能言語も有り得ると何処かで諦めているのか。胸はザワザワと騒がしくなってきているが、正常に働く頭で俺はもう一度言われた言葉を考え、同じ言葉を繰り返す。
「冗談……」
　だが、水木は衝撃を受けた俺を気にするでもなく、淡々と静かな声で言った。
「気に入ったと言うのが嘘でなければ、本気だ」
「…………」
　……本気とは、何が本気なのか。
　気に入ったって…。俺はイイと思うと、そう言っただけだぞ。それが一体どうすればこんな話に発展する。住めって一体何なんだ？
「……気に入ったって、それ…ウソ、だったら…？」
　余り重要度はなさそうな、浮かんだ疑問が口から零れる。それ以上に言わねばならない事があるのだろうが、上手く言葉にならない。
「…なら、お前が気に入る部屋を探す」
「……探すって…そんな……」
　……有り得ない。
　誰が何と言おうが、有り得ない展開だ。
　人の形をした宇宙人を俺はしげしげと眺め、長い溜息を落とした。最早、目眩すら起こらない。
　この世の中、宇宙人は一杯いるのだろう。だが、俺は遭遇したくはなかった。ヤクザ相手では、超人としてビックリショーに売り付ける事は愚か、おいそれと吹聴する事さえ出来ない。会うだけ損なのだろう。可愛い宇宙人なら兎も角、目の前のこれは害しかないように思う。整った顔も、この中身の前ではクソ喰らえだ！
「……あんた、頭おかしいぜ」
　時間を掛けずとも導き出せた答えは、けれども絶対間違ってはいないはずだ。この男は、おかしい。異常だ。まともに相手をするべき者ではない。
　だが。
「…………あっ」
　自信さえあるその評価に、思わずそう言ってしまった数秒後、俺はしまったと水木の顔色を伺った。幾ら宇宙人だとしても、ヤクザであるのも変わりはないのだから、イカレている発言はマズいだろう。拉致され宇宙へではなく、一気にあの世行き決定だ。パニックになりついポロリと言ってしまった、なんて言い訳をするにしては相手が悪過ぎる。
　しかし。
　他人のそんな心理状況など微塵の関心も向けていないらしい男は、俺の予想に反し静かに目を閉じていた。爆弾を落としておきながら、何もしていないかのような涼しい顔を晒している。落ち着き払ったそれは、顔の良し悪しを越えた憎たらしさがある。
「おかしくとも、俺は本気だ」
「……」
　瞼を伏せたまま口にするそれは、先の言葉はいつもの命令ではなく、何故か懇願であるかのように俺に思わせた。けれど、例えそうだとしても、わからない。水木が何を考えているのか、全くわからない。そもそも、この男が俺にこの部屋に住めなどと懇願などする訳がないのだから、わかるはずがないのだ。それは、命令であったとしても同じ。
　俺がこの部屋で暮らす意味がない。
「…どうして、ですか」
「……」
「理由は、何ですか？」
「…言えば、ここに住むのか」
　さっきも似たような言葉を交わしたぞと思いながら、俺は首を振る。何て会話をしているのか。理由を示されたからと言って住む訳がないし、何より三十路を過ぎた男の言葉でもない。これでは、大人の揚げ足をとっている子供と変わりない。
「住みませんよ、遠慮します」
「…ならば、聞いてどうする」
　聞く意味がないと、水木は目をあけ俺を真っ直ぐと見た。確かに、それは一理ある。だが、一般人なら何を言っているんだと呆れただけで終わっても問題はないのだろうが、ヤクザとなれば話は別だ。何かが起こって対応するのでは、多分きっと、間に合わない。問題に発展しないよう、徹底的に前もって対処をしておくべきだろう。
　馬鹿な事ばかりを言って他人をからかう性格ならばいざ知らず、水木は決してそんな軽い人物ではない。その男が口にする言葉を、必要以上に気にしてしまうのもまた当然だろう。だから、俺はおかしくはないのだ。聞くのが当たり前だと自分で自分を激励し、俺は口を開く。
「俺が理由を聞きたいのは、何故貴方がそんな事を言うのか、知っておかないと怖いからです。それ以外、何もないですよ」
　それを尋ねたからといって、水木を理解しようなどという気は、更々ない。この男が一体何を考えているのか、聞いておかねば問題の防ぎ様がないから、俺は訊くのだ。それ以外、あるはずがないだろう。まして、質問に意味があるかどうかは、俺が決める事だ。
「ここに俺を住まわせて、一体どうする気なんですか？」
　繰り返した俺の問いに、水木はシンクに凭れていた体を起こし、ゆっくりと歩いて来た。リビングに足を踏み入れたところで止まり、カウンターのスツールに腰掛ける。
　投げ出された長い足は、嫌味にしか見えない類いのものだ。だが、立っていた時よりも若干下がった位置にある視線は、悪くはない。見下ろすまではいかないが、見上げなくとも済む高さにある眼に、何故か俺はホッとした。
　拳ひとつ分程の身長差を、俺は意識していたのかもしれない。
「……別に、俺は、どうもしない。する気もない」
「……」
「お前はただ、ここで暮らせば良い。何かをさせる気は、ない」
　だからそれは何故かと理由を問い掛けかけ、俺は自分が思い付いた答えを変わりに示してみせた。
「なら、何かが起こるんですか？」
「どう言う意味だ」
　聞きたいのはこちらなのに、回答を返しもしない相手が逆に質問をしてくる。どういう意味も、こういう意味もないだろう。クイズを出し合っている訳ではないのだ。いい加減、会話を成立させて欲しい。
「言ったでしょう、俺は訳が知りたいんだ」
「……」
「何があるんです？」
「…………」
　ここに来てまた無言の返事がカチンとくる。下手に出ていればいい気になりやがって、地球人をナメるなよ宇宙人…！
　丁寧に接するのも馬鹿らしくなり、俺は畜生と小さく呻いた。望みどおりデスマスを止めてやろうじゃないか、クソッ。
「――あんた、やっぱりおかしいぜ」
　俺の口調が変わった事に気付いたのか、顰めた顔に気付いたのか。水木の眉が寄ったのがわかったが、溢れ始めた言葉は止まりそうになかった。溜めていた分勢い良く出るそれは、衝動をも引き起こす。
「いきなり連れて来られて住めと言われたら、裏に何があるか考えて当然だろう。あんたがヤクザなら、どっかの店で働かせたいだとか、組に入れたいだとか何だとかさ。でもそれだと、何もこんな部屋与えないだろう。それくらい俺だってわかる。でも、だったら何？何で、住めなんて言う話になるのか。俺はそれを聞いている。だが、あんたは誤魔化しているのか、言わない。そうなれば、絶対隠さねばならないのか、隠した方が都合がいい程度なのかはわからないけど、俺には余り知られたくはないという事なんだよな？　ならば、あんたは、本当に俺にここで暮らせと思っている。しかも、何もさせるつもりもなく」
「…………」
「だったら、何もせずとも、役に立つと言う事になるよな。そうだろう？言い換えれば、ここに居る事が仕事みたいなものだ。誰かがここに居てくれれば、あんたは都合がいいわけだ。そう、なら、それで考えられるのは、あんたの身代わりか、また別の誰かの代わりだ。それくらいしか、俺には思いつかない。この俺の想像は、当たっている間違ってる？　普通に部屋に住まわせる理由、他にはどんなのがある？　…答え、教えろよ」
　支離滅裂だ。日本語じゃない。気持ちが焦るばかりで、何を言っているのか自分でも謎だ。同じ事ばかり言っている。堂堂巡りだ。
　だが、俺は間違った事を言ってはいない。
　そう、間違ってはいないはずだ。俺は、おかしくはない。
「聞く権利が、俺にはあるだろう？それとも、あんたはいつもこうして、人をからかうのか？違うだろう？　何とか言えよ、おい。俺をどうするつもりだよ、何に巻き込むつもりだ！？」
「落ち着け」
「……そんな事、訊いていない！」
　落ち着けるか、馬鹿野郎。冗談ではないんだろうが、さっきの言葉は。ならば、口にした責任を取って、きちんと説明をしろ。
　時間が経つにつれ、本気で住まわせようと考えているのかもしれないと思え、一気に恐怖が沸く。驚きだけならまだしも、怖さを覚える状態で落ち着ける訳がない。学生の俺を捕まえて何をする気なのか、このヤクザは！？
「俺が納得する答えを言えよっ！！」
　もうこうなれば、ヤクザだろうが宇宙人だろうが関係ない。いきなり殴りつけられても、眼から光線を出されても、頭に血が上った自分の身体の方が大事だ。このままでは、脳震盪でも起こして、そのまま床に頭を打ちつけ死んでしまうかもしれない。
　それ程に、俺の頭は沸騰していた。冷静さは勿論、理性も何処かへ吹き飛んでいる。
　だが、それでも。
　水木が発した言葉に、頭の熱が少し下がった。
「お前、料亭から出たいんだろう？」
「なっ！！」
　水木のその発言に、漸く俺は戸川さんの事を思いだす。彼が昨夜の会話から、俺の事情をこの男に教えたのだ。それ以外にないだろう。だが、だからといって、何故こんな事になる。
「……あんたには、関係ない！」
　部外者が口を挟むなという苛立ちが大きいが、それでも心の片隅で、戸川さんから話を訊き意識を向けてきたらしい水木に俺は驚いた。それも何らかの企みあってのものだろうが、関心を示した事実に信じられない思いを抱く。この男が、面白くもない俺の何が気になったのか。
　昨夜戸川さんに言われた事を忘れた訳ではないが、はっきりと見せ付けられた事に俺は戸惑い、そんな自分がもの凄く嫌になった。作ってしまった沈黙が己の弱さのような気がして、八つ当たり気味に声を荒げる。
　だが、水木は歯噛みする俺を静かに見つめ、何の抑揚もない声で言った。
「ここだと駄目なのか？」
「クソッ！あんた人の話を聞いているのかよ！？関係ないと言っているだろう！」
「関係なくはない」
「どこが！？　何処にあるんだよ、関係なんて。まさか、同情したとでも言うつもりじゃないだろうな。一人暮らしも出来ない貧乏学生を、ヤクザが不憫にでも思ったのか？　そんな事、有り得ないだろう。馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ！」
　唾を飛ばす勢いで向けた俺の言葉に、水木は軽く息を吐いただけだった。だが、俺を馬鹿にしているとしか思えないそれに、考える前に言葉が口から飛び出す。
「ふざけるなっ！」
「ふざけてなどいない」
　――クソッ！！
　自分と違って、厭味なほどに冷静な水木に腹が立つ。だが、それ以上に、自分自身が情けない。これではまるで本当に、大型犬に噛み付く小型犬だ。勢いで怖さを誤魔化しているかのような自分に、俺は泣きたくなった。
　絶対に、まともに話が通じない水木が悪いのに。
　最早、怒っている俺が悪いのかとさえ思えてくる。怒らせてきている相手が冷静な分、この虚しさが身に染みる。堪らない。

「理由」
「……」
「言ったら、住むか？」
　俺の突然の沈黙をどうとったのか。水木がそんな問いをしてくる。
「…住むわけがないだろう」
　意地になっている事には、俺とて気付いている。だが、それを煽っているのもこの男なのだ。何故、また同じ、馬鹿げた言葉を口に乗せるのか。こんな風だからこそ、ふざけるなと男の考えを否定しなければ気が済まなくなるのだ。
「俺は、理由を知りたいだけだ」
　知ったら、終わり。聞いたそれで何かをする気はないと言い掛けた俺の言葉を遮るように、水木がはっきりとした声で言った。
「側に、居て欲しい」
「何でだよ」
「惚れているから、だ」
　俺の中では有り得ない言葉が、目の前に落とされた。
「…………ナニ…？」
　言われた言葉を理解し終える前に問いを放った俺は、続いて落とされた言葉に己の認識不足を知らされる。側にとは、この部屋にという言い回しだと思ったが、どうやら違うらしい。しかも、居ろではなく、居て欲しいだ。
「何だって……？」
「惚れている。だから、傍に居て欲しい」
「……」
　居て欲しい。
　……この場合。お願いされているのは、多分、きっと俺。
　ならば、惚れたのは――？
「ダレが、ダレに…？」
　惚れたのでしょうか。――っていうか、そんな言葉を口にするキャラじゃないだろう、水木瑛慈……。
「…俺が、お前に。それ以外にはないだろう」
　馬鹿かと言うように、少し呆れた目を向けられた。だが、こんな時だけ表現豊かなそれも気にはならない。気にしてなどいられない。
　こいつが、俺に惚れたと？
「はぁ！？」
　それ以外、などではない。それもまた有り得ない話だ。
「つくのなら、もっとマシな嘘にしろよ…。キツ過ぎる」
「嘘じゃない」
　この場合、真実の方がはるかに最悪だ。キツイを通り過ぎ、エグイ。まさにもう、頭の中はグロテスク状態だ。ホラー映画のデロデロネバネバグチョグチョなんて生易しいぐらい、気持ちの悪いものが身体の中にも外にも感じだ。目の前の宇宙人はソッチ系だったのか。流石に気付かなかったぞ。……いや、気付きたくもなかったが。
「……惚れたって、ナニ。ただの好意で、ンな事言うのか、あんた……やっぱ変。おかしい」
　いつの間にか怒りは消えているが、変わりに胸のムカツキに泣きながらの俺の嘆きに、水木は淡々と言葉を返す。
「ただの好意じゃない」
「……」
「本当に、惚れている」
「あ、あ、あんたなぁ！」
　無言を貫くかと思えば、返していらない時に言葉を返す。最早これは嫌がらせだなと現実逃避のように思いながらも、逃げきるのを失敗し、俺は声を震わす。
「惚れているは、惚れているだ。その意味しかない」
「…………」
　もう、勘弁して欲しい。
　性格は兎も角、恐ろしく顔の良い男に真面目な表情で真剣な声で言われたら、その気はなくとも転んでしまいそうだ。威圧され理不尽な命令を受けるのと同じ力があるが、与えられるのは恐怖ではなく、衝撃だ。女性でなくとも、誰もがシビれるものだろうこれは。
　だけど、俺は負ける訳にはいかない。
　言われた言葉が漸く精神面にも届いたのか、一気に心拍数が上がり目眩さえ覚えたが、意地と根性で足を踏ん張り、俺は水木を見る目に力を入れた。顔は良くとも、男だ。しかも、最悪ではないのかもしれないが、そう思わせる程には最低な性格をしているのだ。取り合うな、俺。
「そんなの、信じるかよ。俺もあんたも男だ。会ったのはたった二日前だ。まともな会話ひとつしていない。何より、気が合いそうもない。あんただって、俺にいい印象なんて持っていないだろう？　それともあんた、ホモで俺に一目惚れしたとでもいうのか？　馬鹿馬鹿しい」
　そんな話があるか。それならまだ、アメリカと北朝鮮が仲良しこよしになる方が現実的だ。この丸二日の遭遇で、惚れた一緒に暮らそう、なんてものはこの世で起こるわけがない。たとえどちらかが女だとしても、一目惚れなど俺は信じない。現にあったとしても、即同棲はないだろう。省略しすぎだ。
　この男は本気で頭の中身が足りないのか。それとも、今まではこのやり方で相手を口説き成功させてきたのか。ふざけた男であるのは間違いないが、度が超え過ぎている。
「からかうのもいい加減にしてくれ。何がしたいんだよ、あんたは」
　餓鬼だからって、そんな話を信じるか、舐めるなよ。あんたにしたら青臭過ぎるのだろうが、それでも成人男性だ。小さくても、プライドも信念も持っている。こんな責めを黙って受け入れる程も、俺は自分を諦めてはいない。ヤクザ相手のこれは愚かだとしても、向かい合わなければならない時があるのだ。
　俺には踏ん張れる足がある。睨み返せる眼がある。問い質す口がある。今使わずにどうすると言うのだ。たとえ、次の瞬間に殴られると決まっていても、だ。
「俺は男だし、無知な子供じゃない」
「……」
「悪いけど、簡単には騙されないよ」
「……騙す気などない」
「信じない」
「からかってなどいない。お前の方こそ、俺の言葉を聴け」
「……」
　言葉と共に、水木が席を立った。ゆっくりと、静かに、一歩俺へと近付く。
「ホモかどうかは、わからない。男に惚れるのはお前が初めてだ」
「…だから、惚れるって――」
　また一歩、一歩と近付いて来ながら、喚き掛けた俺の言葉を遮り、水木は続ける。
　言い訳ではなく、告白を。
「一目惚れ、だったんだろう」
「……だった？」
「ああ、そうだ」
「……」
　先の俺の言葉を拾ったかのような言葉に、溜息が零れた。認めるのは癪だが、俺よりも断然、男前度は水木の方が上なのだから、そんな事が起きる筈がない。
「……何、それ」
「気付いた時には、惚れていた」
　ゆっくりと、だが確実に、目前に迫って来た水木を避けるよう、俺は意識する前に足を後ろに引いていた。それに気付いた男は一瞬立ち止まり軽く眉を寄せたが、直ぐに身体の向きを変え、側のソファの背に腰を掛ける。そうして、俺の顔を自分に向けさせようというのか、長い指を注意を促すように小さく振った。
　抵抗せず体ごと向けると、先程よりも更に下の位置にある眼と視線が重なる。空虚に感じたガラスのような水木の瞳は、いつの間にか澄んだ透明さを持った鉱物に変化していた。
　それに魅せられるのは、俺が変わったからか、水木が変わったからか。
　不意にのびてきた男の右手が、俺の左手をとった。咄嗟に逃げようとしたが、「そう力むな、傷がつく」と指を開くように触れられ、自分が両手を握り締めていた事を俺は知る。開いた手の平には、くっきりと爪の型がついていた。水木は親指の腹でそれをひと撫でし、手を放した。痛みはないのに、赤味を帯びた箇所がトクリと脈打つ。
　自由になったのに、水木の温もりが残っているのか、まだ握られている感じがする手を俺は逆の手で撫でた。触れた指先さえも熱くなりそうだ。
「初めてお前を見たのは一年前、去年の夏だ」
　捕らえられていた緊張が緩んだからなのかと、冷や汗にだろう湿った両手を擦り合わせていた俺は、落とされた言葉に動きを止め眉を寄せる。
　去年の夏――？
「その時は頼りない奴だとしか思わなかったが、何故かそれからも時々お前の事を思い出した」
　何を言い出すのかと、怪しいとしか思えない展開に俺は訝り視線を向けた。だが、水木の眼は真剣に見えるもので、思わずたじろぐ。嘘だろうと思うのに否定する要素を見つけられず、静かな声に俺は引き込まれた。
「料亭で会った時は、驚いた。正直、笑っているお前に腹が立った。一年間、俺の中のお前はいつも項垂れていた。まるで、世界の不幸を背負ったように。それを記憶にとどめていた自分が、馬鹿らしく思えた。だが、その時漸く、俺は自分がお前を気にかけていた事に気付いた。忘れ物を届けに来た時、自分が惚れているのだと悟った」
　……ンな事、悟なよ馬鹿。気にかけるって何だよオイ。
　真っ直ぐな視線に耐えられず、眼を彷徨わせながら俺は胸中で呻く。
　一年前、水木に会った覚えなど全くない。言われても、わからない。だが、その頃確かに、俺はどん底の中にいた。それは確かだ。一昨日初めて会った人間にはわからない事だ。しかし、だからと言って、これは――。
「……何か言え」
「いや、何かって……」
　無理だ。何を言えば良いのかわからない。
「……」
「……」
「…あ、あんた、さ」
　それでも、沈黙に耐えられずに口を開いてしまうのは、俺が子供だからか大人だからか。
　余りの事で飽和状態になっている頭から、俺は何でもいいさと疑問をひとつ引き摺りだし水木に投げ付けた。
「ここに住めって、その、だったら……、やっぱ、そう言う事、なの…？」
　……ああ、これでは男の告白を認めたみたいじゃないか。
　やはりここはまだ、嘘だろうと否定するべきなのではないかと自分の間抜けさに慌てかける俺に、水木は軽く眉を寄せ言った。
「そう言う事とは、どういう事だ？」
　――馬鹿だ。
　やはり、この男はおかしい。一体、こう思うのは何度目だろうか。いい加減飽きてきた気がする。
「だから、つまり……ヤクザだろう、あんた。なら、さ。惚れたから住めって事は、俺をここに、か、囲うっていう意味…？」
　ふざけた事をかましておいて、俺にこんな事を言わせるな。何が悲しくて、当人に説明せねばならないのか。勘弁して欲しい。
　悔しいのか腹立たしいのか、泣くのを我慢しているような気分になり、その訳のわからない苛立ちをぶつけるよう俺は水木を見た。だが、水木は視線を下げていた。深く考えるように。
　そして。
「…あぁ、そうだな」
「……」
　……そうだな？
　短くはない沈黙後に落とされた言葉が何を指すのか、直ぐには気付けなかった。だが、自分が何を問い掛けたのかを思い出した瞬間、意識する前に体が大きく震える。
　そうだなって――マ、マ、マジで、そうなのか！？俺を囲うのか！？
　…っていうか、こんな時だけ首を振ってまで頷くな。クソッ！最悪だ、最低だ！　何が、そうだな、だ。どこまで真面目な顔でボケた事を言い続けるんだ、畜生！
　心の中ではそう詰りながらも、余りの事に怯えて逃げるように体を退いた俺に、水木は慌てるように今度は首を横に振った。
「違う、そう言うつもりはない」
「…………」
　…肯定、否定、どちらなのか。
　張本人なのだから、はっきりして欲しい。この顔で、雰囲気で、優柔不断だなんて言うのは今更なしだ。そんなオチは要らない。
「……なら、ナニ？」
「…傍にいてくれれば、それでいい」
「そば…？」
「ああ」
「…………」
　俺の言葉にそうだと深く頷く今の水木は、とてもヤクザには見えない。それどころか、見上げられているからか、威圧感もなければ年上の威厳もない。ただの変わった男だ。
　だが、それでも、すこぶるイイ男でもある。ヤクザだとしても、多少頭がおかしくても、女は放っておかないだろう。嫌がっている俺にだって、顔だけじゃない魅力が水木にあるのは、わかっているのだ。ただ、それを認めるのが癪で、短所ばかりを突付きたくなる。簡単に言えば、それはやっかみでしかないのだろう。
　そう、こんな男が相手に困る事など、有り得はしないだろう。選り取りみどりの筈だ。街中でただ擦れ違うだけで、女性を釣るのかもしれない。いや、女だけではなく、それこそ男も釣っていそうだ。一般人にはキツイ雰囲気も、ヤクザ世界の中では悪くはないものなのだろう。この男を崇拝している部下が居たとしても、なんら不思議ではない。
　俺は体の強張りを解きながら、水木が言った言葉をもう一度考えてみた。
　この部屋に住めと言うくらいに側に置いておきたいが、囲うというものでもない――。当然だろう。俺は女ではないし、その点に困って要る男ではないのだから、そう言う意味で置くわけがない。
　ならば、惚れたという言葉も、深く考えなければならないものではないのだ。

　決して、水木とて俺相手に愛だ恋だと言いたい訳ではないのだろう。多分、子供の執着みたいなもので、ただ側に居れば満足なのだ。犬や猫と同じ。そんなものに、惚れたなど簡単に言うなというものだろう。当人は玩具やペットと同じレベルへのものだとしても、その容姿から放たれれば、それ以上のものと思ってしまうのに。水木自身はそれをわかっていないのだと気付き、俺は溜息を吐き出した。あらぬ想像を仕掛けていた自分が、恥しい。囲われるかもしれないだなんて、驚いていたとは言え、よくそこまで思考が飛んだものだ。
　大体、気になるから側におくと考えるだなんて、流石ヤクザ、傲慢だ。気になっていたイコール惚れただなんて、思考回路が単純過ぎる。間違っている。もっと、言葉を選んで話して欲しいものだ。そうすれば、こんな勘違いなど俺とてしなかったのに。
「…あんた、やっぱり喋らない方がいいよ、絶対。大した事じゃないのに、凄く大袈裟に聞こえる。ちょっと気になったから側に置いておこうってだけなんだろう。そんな一時の興味に、惚れたなんて言葉は使うなよ。女じゃなくとも、勘違いしたじゃないか。馬鹿みたいだ俺……」
　信じた訳ではないが、その言葉自体に振り回されかけた自分が情けない。ペットのように思われているのがわかっていたら、もう少し余裕を持って対処出来ただろう。免疫のない告白に、見事引っ掛かってしまったじゃないか。
　そう、わかっていたらタメ口なんてしなかったぞと、今更ながらに俺は悔いた。だが、してしまったものは仕方がない。水木は車で嫌味を言った手前か、気にもしていなさそうなのが、せめてもの救いだ。
「いや、もう、ホント……ビックリした」
「……」
「――じゃない、ですね。はい。吃驚しました…」
　不意に水木の細まった両目に、俺は余り意味もないのに、ビビったように直ぐに言い直す。そう、ヤクザなら自分の発言を棚にあげ、いつ怒り始めるかわかったものではない。
　取り合えず、謝っておくに限るだろう。
「あの…。済みません……」
「俺は、本気だと言ったはずだ」
「――ハイ？」
　本気…？
　どうやら、また爆弾が落とされたようだと気付き、言われた意味よりその事に俺は眉を寄せる。
　もう、殺るのならば一気にして欲しい。じわじわするだなんて、何て陰険なのだろうか。ねちっこい。最後までいかず中途半端に繰り返されたら、俺は何度も驚かねばならないじゃないか。
「惚れたとも言っただろう」
「……」
　だから、何？
　その言葉に、深い意味などない筈だ。引っ張るな。
　ダイナマイトは、もういい。原子爆弾できてくれ。対応を考えなくてもすむ程の勢いに飲み込まれこの場から居なくなれたらどんなにいいだろう。あぁ、武術ではなく忍法かマジックを習って置けば良かったと、完全に逝きかけている俺の耳に苦い声が届く。
「……わかっていて、嫌がり誤魔化そうとしているのなら、もう止めよう。お前をこれ以上困らせたくはない。だが、わかっていないのなら、言う」
　知って欲しいからなと言いながら、水木は眼で問い掛けてきた。前者か後者かと、伺うように俺を眺めてきた。
　しかし。
　一体、何をわかれというのだろうか。その言葉をか？態度をか？本心をか？
　俺には何ひとつ信じきれるものはないのだ。わかるかわからないかまで、理解出来るかどうかまで辿り着いてはいない。それこそ、何故この男はそれに気付かないのか。馬鹿もいいところだ。俺を買いかぶり過ぎている。俺には水木の内面など、読めない。言われた言葉を自分なりに飲み込むだけで精一杯なのだ。
　今、俺の中にあるのは水木が口にする彼の想いではなく、ただこの場をとりあえず治め男から遠く離れる事だけだ。そんな俺を見て、何がわかる。嫌われているのも、わかっていないくせにと、苛立ちを込めて水木の眼を俺は見返した。
　だが。
　合わせた強い黒眼に、意思とは関係なく、俺は引き込まれてしまう。
「俺は……」
　一気に、足下が揺らぐ。確かに立っていたはずなのに、見失った途端、本当に地面があったのかどうかさえ自信が持てないくらいだ。
　水木は本気で俺に、世間一般的な意味で惚れていると言うのか…？　先程否定したばかりの考えが頭を巡り、心臓が早鐘を打ち始める。そして、そんな自分の変化に、俺は戸惑う。
　困らせたくはないだなんて、……俺は今充分過ぎるくらいに困っている。もう、本気で勘弁して欲しい。だが、言われた言葉は、ここで止める訳にはいかないものだった。俺が理解しない限り、何も終わりはしないのだ。
「わかるって、何を……？」
「俺は本気で、お前に傍にいて欲しいと思っている」
「――でも、…性的な意味じゃないんだろう？」
「したくないとは、言っていない」
　……それは、したいと思っていると言う事だろうか。それとも、可能性も無くはないという程度の意味合いなのか。宣言するように声を荒げはしないが、それでもきっぱりと言い放つ水木に俺は眉を寄せる。
　何にしても、この顔でこんな事を言うのは反則だろう。どんなに信じたくはない最悪な事であろうと、恐ろしい事であろうと、聞かずにはいられなくなってしまう。それこそ、相手のツボなのかもしれないのに。
　真剣な表情に屈してしまったかのような敗北感を持ちつつ、俺はそれでも訊いてしまう。悔しいのだが、訊かないのもまた恐ろしいと、自らに言い訳をしながら。
「…あんた、さ。その……、マジなの？」
「何度も言っているだろう、惚れたと」
「……」
　もうそれはいい。惚れた、は聞きたくない。聞いていたらどうにかなってしまいそうだ。
「俺……困るよ、凄く」
「……」
「困っています」
　俺の言葉に、水木が軽く眉を動かす。自分でも、少しズルイと思うが、告白に対する言葉はそれしかなかった。
「貴方が幾ら本気だと言っても、俺は信じられない」
「どうすれば、信じる？」
「…………」
「教えてくれ」
「そんな事言われても……」
　そんなに信じさせたいのかと、水木の言葉に俺は唇を噛み締めた。何処でどうなったのか、気付けばドツボにはまっている感じだ。完全に、水木の言葉に飲み込まれ踊らされている。
「何をしても、俺は、無理だと思う…。だって、信じられないのは、貴方が嘘を付いていると思っている訳じゃなく、俺に信じる余裕が全くないからだから……。だから、貴方が何をしても無駄だし、俺はそれを変えるつもりもないし……」
　何を言っているんだろうと思いつつ、何かを言わねばならない焦りに口にした言葉は、拒絶以外の何ものでもなかった。嘘ではない、確かに心はそう決まっている。だが。
　水木の顔を見た瞬間、もっと上手く言えるだろうに、安直なものへと逃げた自分を俺は認識した。上っ面だけの言葉が、恥ずかしい。信じきる事はやはり出来ないが、それでも告白をしてきた相手に向ける言葉ではないだろう。おざなりだ、薄っぺら過ぎる。
「……あ、あの」
　済みませんと謝ろうとしたのか、言い訳のように言葉を足そうとしたのか。俺が口を開くと同時に、携帯電話が音をあげた。水木は通話を受け、ひと言の返答をして直ぐに切る。
「時間だ」
「……」
「お前はまだ居ろ」
　腰を上げる水木から目を逸らしながら、昨日も同じ言葉を聞いたなと思う。
　あの時は、腹が立ったが安心した。今も同じく、水木が居なくなる事に安堵している。だが、この逃げ道は相手によって与えられたものなのだと思うと、正直怖さも覚える。
　逃げる道を知られているだなんて、まるで手の上で踊らされているようなものだ。
「戸川もそろそろ来るだろう」
　来たら開けてやってくれと言い残し、水木はリビングを出て行こうとする。あっさりとした態度は、俺の答えに納得しているからなのか、俺の意思など全く関係ないからなのか。わからずに俺は思わず男を呼び止める。
　この茶番じみたものを俺が悪用しない保証はないだろう。この足でどこかに駆け込むかもしれないのに、今のままで俺を逃がすのは何故なのか。明らかに、水木の方が不利なのに。
「水木さん…！」
「……」
　ゆっくりとした動きで振り返った水木は、今まで見た事のない柔らかな表情で俺を見た。軽く笑うよう、口角を上げる。
「言ったはずだ、困らせたくはないと」
「……」
「それがお前の答えなら、仕方がない」
　今は退くしかない事くらい、俺でもわかるさ。
　そう肩を竦め踵を返した男を更に呼び止めるものは、俺にはなかった。今まで散々傍若無人ぶりを見せておきながら、何て物分かりが良いのだろうか。
　告白以上に度肝を抜かれた俺は何も出来ず呆然と立ち尽くし、水木が出て行く空気をただ全身で感じていた。カチャリと微かに玄関の扉が閉まる音を耳にした途端、ドッと汗が吹き出す。気付けば、指が、手が震えていた。それは直ぐに全身に広がる。
　俺は上手く息も出来ないまま、インターフォンが鳴るまで、震えに耐えるため体を抱いていた。
　しっかりと、奥歯を噛み締めて。