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やって来た戸川さんは玄関の鍵を開けた俺を見るなり、「何だか疲れていますねぇ」と言った。心配しているのではなく笑っているところをみると、ここで何があったのか知っているのかもしれず、俺は自然と眼に力を入れる。
だが、相手は涼しい顔で僅かに首を傾げただけだった。ヤクザに二十歳の餓鬼の眼光など効かないと言うわけか。憎らしい。
「どうかしましたか?」
「……」
どうもこうも無い。
「千束さん」
「……戸川さんは、知っていて俺をあの人に売ったんですか…?」
漸く出て来た自分の声は、いつも以上に低かった。だが、相手を脅せるようなものではなく、けれども喧嘩ぐらいなら売れそうな、それなりの声音だ。正直自分でも、こんな態度はあまりにも子供のようでしたくはないのだが、さすがに今は抑えるのは無理である。俺は自分の幼さに目を瞑り、どうなのかと答えを求め戸川さんを更に睨んだ。
「…何の事でしょうか?」
「……」
「そう睨まれても、私には理由がわからないのですが。水木が何かしましたか?」
肩を竦めながら言った言葉は、本心のように思えた。本当に、俺の怒りに思い当たる事がないのか、眼鏡の奥の目が困ったような形を作る。しかし、水木の事も大事ではあるが、今は戸川さんの事なのだ。この人が俺を呼び出した事に始まるのだから、そこをまず把握したい。
水木の話では埒があかないが、戸川さんが俺を売ったのならば、そんな事をする人物に話を聞く気は無いので用もない。二人との関係をここで断ち切り、有耶無耶になってしまうのも仕方がないと納得し、俺はここを出て行くだけだ。後の事など、今は考えられない。だが、もしもそうではないのならば。水木の事はこの人に訊くのが賢明だろう。俺ひとりで考えても、あのイカレ具合についての知識もなければ、判断も出来ない。
「売った、だなんて。どういう事です?」
「昼間の電話では、水木さんの事は何も言わなかったですよね。だから、俺は戸川さんに付き合うつもりだったんです。でも、実際の相手は水木さんだった。それは、偶々ですか?言い忘れたんですか?急に仕事でも入ったんですか? それとも、始めから俺とあの人を会わせる気だったんですか?」
「その事で、怒っているんですか?」
「……今、気が立っているのは本当ですが。怒るかどうかは、答え次第です」
「成る程、ね……」
笑うわけでも、呆れるわけでもなく。呟くように落とされたその言葉は、けれども何故だろうかとても冷たく聞こえた。心が感じるよりも、身体が緊張を覚え固まる。忘れていた訳ではないのに、目の前の男はヤクザだと改めて突きつけられた。言葉でも声でもなく、纏う空気が一瞬にして冷淡なものに変化したような感覚に、肌が粟立つ。
目に見えない空気の色を変え、靴を脱ぐ動作をする事で短い沈黙を作り、靴ベラを戻しゆっくりと顔を向けてきた戸川さんのその全てが、計算されたかのような動きだった。自分の何をどうすれば、相手をどのようにする事が出来るか。この人は知り尽くしているのだと、俺は思い知る。きっと今まで俺が安心を感じていたのも、この人がそうさせていたのだろう。ちょっとした疑心さえもあえて与えられていたような気になり、恐怖を覚えた。
だが、この恐怖さえ、戸川さん自身に操作されているのか。少し強い声を落としてきた彼の言葉に、緊張が弾ける。その瞬間、自分は水木の事で敏感になりすぎているのかもしれないだなんて、戸川さんの事を深く追求しないよう逃げ打つのは、防衛本能からか。それともただの現実逃避なのか。今の俺にはわからない。
「今日は、元から水木と会わせるつもりで連絡をさせて頂きました。ですが、先に言えば貴方は承知して下さらないと思いましたので、彼の事はあえて伏せました。確かにこの事に関しては卑怯な真似をしたのは事実ですし、怒られても仕方がありません。千束さんにすれば今更なのでしょうが、謝らせて貰えませんか?」
「……」
本当に、今更だ。謝るのならば、最初からするな。
「騙すような真似をして、申し訳ありません」
真似ではなく、俺は完璧に騙されたのだ。今更しおらしく頭を下げられても、どうしようもない。
「ですが、問題はなかったでしょう?」
……オイ。何だって?
「水木が迷惑をお掛けしましたか?」
「……戸川さん…」
地を這う声とはこの事かと、俺は自分の声を聞きながらそう思った。前言撤回だ。しおらしいなんて、何処にもない。頭を下げたのも、ただのパフォーマンスだろう。言うに事を欠いて、何て発言をかましてくれるのか、この人は。
「はい、何か?」
「…………」
はいでも、何かでもない。にこやかに答えるなッ!
「ねぇ、千束さん。水木は私の言ったとおりの人物でしたでしょう?それともやはり、ムカツクとしか思えませんか?」
「……」
こう言う問い方は卑怯だ。俺に答えられる言葉は残されていない。何かを言えば、必ず突っ込まれるだろう。絶対この人に都合のいい展開にもっていかれるのだと、口をへの字に曲げた俺に、言い包めるように戸川さんが言葉を発する。
「今日は振り回す形になったのかもしれませんが、本当に嫌ならば断る事も出来たはずですよ。水木は無理やり、貴方をここに連れ込んだ訳ではないでしょう?」
確かに、そのとおりだ。だが、それは余りにもな、酷い言い草だ。俺があの男相手に何をどう拒否する事が出来るというんだ。水木が立っているだけでも威圧的なのはわかっているのに、断れない俺が馬鹿だったみたいではないか。
それなのに。何故か「違いますよね?」と念を押されれば、頷いてしまいそうになる。
俺ってやばいくらいに戸川さんに毒されていないかと、自分で突っ込みを入れながらも何とか振りそうになった頭を止め、結んでいた唇を解いた。
「……戸川さんはあの人の事を、信じているんですね」
ならば、何を言ったところで無駄なのかもしれない。どんなにおかしいと訴えたところで理解してもらえないのなら、ヤクザの悪口を言うリスクを犯すのは馬鹿過ぎるだろう。この世の中、口惜しくとも耐えねばならない事は他にも沢山ある。それらに比べれば、ヤクザに絡まれるなど小さい事なのかもしれない。何も考えずに避ける。対応策はこのひとつしかないのだから、今も文句など言っていずにこの部屋から出て行くべきだろう。
けれど。
「信じると言いますか。長い付き合いなので、よく知っているだけですよ」
戸川さんがゆっくりと、まるで俺をその言葉で試すかのように、視線を外さずに口にした。しっかりした眼はヤクザのそれというよりも、刑事や裁判官など、人を見るのに慣れた者のものだ。疚しさなどない、聖職者のもののようだ。それでも、ヤクザの癖にと俺は思ってしまうが、不思議にも不快感はない。だが、戸川さん自身の性格を考えれば、信用ならない大人の眼のように見えるのも事実。
本当に不可思議な人だと思う。そして、一体俺と言う人間は、この人の眼にはどんな風に映っているのだろうかと気になった。あの男、水木はどうなのだろう。
総てを知った上であのイカレた男を容認しているのならば、俺は戸川さんに対する認識をもっともっと変えねばならないだろう。
「知っているとは、何をですか? 全部ですか?」
「千束さん?」
「俺……告白されましたよ」
言うべきか、言わざるべきか。その答えを出す前に、俺は言葉を零していた。多分、自分ひとりではとても処理出来ないと、早くから判断していたのだろう。俺だけで抱えるにはあまりにも非常識なもので、水木が去ってからずっと俺は戸川さんに言う為にここで待っていたのかもしれない。本気で拒絶だけをするのならば、早々に出て行っていたはずだ。
「告白、ですか?」
言葉ではなく頷きで応え、俺は驚きの表情を作る戸川さんから少し視線を逸らした。演技には見えないそれを、見返すのは恥しい。同性に告られたなど、俺自身初めてする告白だ。思った以上に、暴露される方も相当困るだろうが、する方もかなり根性が必要らしい。互いに疲れる発言だ。
「告白とは、好きだという意味の?」
「…本心か、からかっているのかは知りませんけど……惚れていると言われました。ここに住めとも」
「ああ……」
空気が抜けるような、そんな間の抜けた声だった。戸川さんが片手で額を抑え、軽く頭を振るのを見た瞬間、俺の中で苛立ちが沸き起こる。この場合、誰よりも嘆きたいのは、俺の方だろう。
「戸川さんは知っていたんですか?だから、昨日あんな話をして、今日俺とあの人を引き合わせたんですか?どうなんですか!?」
「ちょっと待って下さい、千束さん。もう一度訊きますが、本当にあの男は貴方に惚れていると言ったんですか?」
だから言っているじゃないかと俺が再び頷くと、「――馬鹿か、アイツは……」と戸川さんは小さく呻いた。俺から視線を逸らし顰めた顔は、確実に相手を非難している。何をやっているんだと、目の前の人物がはっきりと怒っている事に気付き、俺は息を詰めそして吐いた。
こんな風に動揺すると言う事は、戸川さんも知らなかったのかもしれない。知っていたとしても、予想を超えた事態なのだろう。
「戸川さん、俺…」
「千束さん、ドライブでもしませんか?」
もしかしなくとも今のは八つ当たりでしかないのかもしれないと謝りかけた俺の言葉を遮り、戸川さんは一瞬で怒りを消し去り爽やかに笑いながら、何を考えたのかそんな提案を出してきた。
「は?ドライブ?」
「ええ、その辺を走るのでも、何処かへ夕食を摂りに行くのでもいいですよ。時間は大丈夫ですか?」
「え、いや、どうして…?」
「この部屋には今は居辛いでしょう、さっさと出ましょう」
俺に話し掛けながら、戸川さんが玄関脇の扉をあけ、中の棚からスリッパを取り出した。そんなところにあるのかと、この家にそんなものが存在したのかと思っているうちに、提案は決定事項に変わる。
「戸締まりの確認をしてきますので、待っていて下さい」
「あ、はい。――あ、でも、俺も鞄が…」
ソファに放ったままだと戸川さんと共にリビングへ行き、直ぐに俺達は水木の部屋を後にした。まさに、危険区域からの脱出のような慌てようだ。俺を気にかけてくれてのものだろうが、戸川さんの勢いに思わず戸惑ってしまう。確かに文句を言いかけたが、別に俺としては部屋自体に嫌悪は感じていないので、ここまで勢いよく逃げ出さずとも大丈夫なのに。
そう思いながらも戸川さんの言葉を思い返し、本来ならば部屋からも逃げだしたくなるのが普通なのかもしれないと考えつく。その点でみれば、同じ男に告白されたというそれ自体には、俺はそれ程も退いていないのかもしれない。だがそれも、今はまだ確かな実感がなく、愛だ恋だのよりもヤクザ男に掴まりそうだと言うのが一番大きいからこそであるのだろう。男同士で何だかんだとまでの考えには、あまり行き着かない。実際に勢いでそれらしい事を尋ねはしたが、水木の返答は曖昧なものであったし、俺なんかにあの男が欲情するなどやはり考えられず、驚愕の波が過ぎ去れば何の茶番だったのかと呆れるくらいだ。
テキパキと動く戸川さんの姿は、良い意味で、逆に俺の心を落ち着かせた。しかし。こんな風に慌てて出てくるのではなく、何を言っているのかと水木を笑ってくれたのならば、俺も冗談だよなと更に落ち着け一緒に笑えたかもしれないのに。
そう。そんな風に考えると、この場合、戸川さんの対応からもあれは冗談ではなかったと言う事になるのだろう。俺の期待を裏切り、時間が経つにつれ信憑性がどんどんと高くなっているような事態に、俺は重い息を吐いた。馬鹿げているとわかりつつ、告白が水木ではなく戸川さんならばまだ良かったのになと、前を行く背中を見ながら思う。
実際には、こんな現実逃避を試みても最早空しいだけだが、それでも思うものは仕方がない。少なくとも、戸川さんとならば、ある程度の会話が出来る。互いの感情について話し合える。しかし、あの男の場合、必要不可欠なそれが最も難しい。
何が面白くないのか、常に硬い表情と雰囲気。無駄な程の威圧感を伴っての短い言葉は、まるで何かを切り捨てるかのように冷たい。だが、口にする言葉に関心はないのか、それ自体には色も味もない乾いたものだ。会話をしても何を考えているのか読めないのは、知り合ったばかりの自分だからだろうか。気心が触れている戸川さんとならば、普通に会話をするのだろうか。
ふたりが冗談を言い笑いあう姿を想像しようとして、俺は挫折する。戸川さんは兎も角、水木が声を上げて笑うなど、天変地異が起ころうとなさそうだ。事実、昨夜のふたりのやりとりも、俺とのそれと余り変わりはなかったように思う。たった五才とは言え、年下男の愛想のない態度によく戸川さんは耐えているものだ。腹が立たないのだろうかと考え、自分のように変にプライドを刺激され、単純に対抗意識を燃やしてはいないその姿を、大人だなと改めて感心する。実際には、水木よりも戸川さんの方が腹黒いというだけの理由かもしれないが、自分ももう少し人との接し方を学び鍛えた方がいいのだろうと俺は思った。腹では何を考えているだとかは兎も角、水木よりも断然戸川さんの方が人当たりが良いのだから、そう考えるのも悪くはないだろう。そう、あくまでも参考にする程度であり、決して戸川さんのようになりたい訳ではない。
そもそも自分の性格では戸川さんのような策士になるのは無理だよなと、そんなバカな事を考えながら眺める俺の視線を受けても気にならないのか、戸川さんが慣れた手付きでパネルを操作する。玄関はオートロックだったが、エレベーターは中から乗る時もカードキーと暗証番号が必要らしい。このマンションは借り主に似て、なかなか厄介なようだ。高級なのも考えものだなと呆れながら、俺は今更だが場違いな空間に飛び込んだ気まずさを覚えた。
何だろうか、このさり気なくも豪華さが付き纏う空間は。間違いなく、ここはオクションなのだろう。庶民の俺には、小さな金色の飾りにさえ退いてしまう。何だってエレベーターのドアに蛇の模様が必要なのか。俺の感覚では有り得ない。趣味が良いのか、悪いのか。笑いを取ろうとするギャグではない限り、これなら今出てきた部屋の中の方が断然まともだ。
金持ちのセンスはわからない。というか、金のかけ方が理解不能だと呆れながら、ふと戸川さんが鍵を持っている事実に俺は気付く。ならば、先程もそれで入って来れば良かったのに、彼は態々マンション前から呼び鈴を押してきた。手間だろうに、なんて律義な人なのか。こういうところがあるから、多分俺は惹かれ絆されてしまうのだろう。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、その、安全対策とは言え手間ですね、それ」
促され箱に乗り込みながら、見事にどもりながらも何とか思考を立て直し、戸川さんが持つ鍵を俺は指で示した。薄いそれにどんな情報が入り作用しているのかは知らないが、本当に面倒な事この上なさそうだ。
だが、しかし。
「そうですね。でも、これで得ているのは、安全ではなく安心ですから。面倒なくらいが丁度良いんですよ」
「安心ですか?」
「ええ、そうです。どんなにセキュリティーを強化したところで、絶対の安全なんてありません」
それは、確かに一理あるだろう。絶対など、あるはずがない。侵入者にすれば、隙がなければ作れば良いだけの事なのだから、常に安全をキープし続けるなど、守り手には不可能だろう。
得るのは安全ではなく安心。成る程面白い事を言うなと、俺は感心し小さく笑いを落とした。
「やっと笑いましたね」
「え?」
「ずっと強張っていましたよ、顔」
優しげに笑いかけられ、俺は思わず自分の頬に手を伸ばす。硬かったのは確かだろうが、そんなにムスッとしていたつもりはない。からかわれたのか、気を使わせたのか。俺は曖昧な笑みを戸川さんに返した。
「そんなつもりはなかったんですが…」
「まぁ、あんな男に求愛されたのなら、強張るのも当然ですよね」
「いや、あの、求愛って……」
その表現は嫌だなと引きつりかけた俺の頬は、けれども直ぐに今度は赤く染められる。
「それだけ千束さんが素敵だと言う事ですよ」
「……」
サラリと何を言っているのか。冗談にしてもきつい。キツすぎる……。
「そ、そんな事は、絶対ないですよ。俺は全然、そんな良いものじゃないですからッ」
からかわれているとは思わないが、照れ以上の違和感に、俺はきっぱりはっきり戸川さんの言葉を否定した。しかし。素敵って何ですかと焦りながら首を振る俺を、彼は柔らかい表情で見つめてくる。こんな状況で性質の悪い事に、とても安心するというか、落ち着かせてくれる微笑みだ。だが。きっとこんな人こそを素敵だと言うのだろうと、不意に確信する。中身は多少問題がありそうでも、表面的にはそれが似合う人だ。俺のような青臭いガキには、やはりまだまだ全然似合わない。
本当に出来た人だなと、俺は戸川さんの人となりに感心する。水木のような同僚のフォローをするのも、俺のようなガキの相手をするのも、面倒だろうに嫌な顔ひとつ見せない。例えそれが仕事であろうと、とてもではないが俺には真似出来ない忍耐強さだ。
「千束さん」
「はい」
「戸惑うのもわかりますが、他人に想われるのはそうある事ではないですし、水木を認めてやってくれませんか? 確かに、配慮に欠ける部分があったようですから、不信感を抱かれるのもわかります。ですから、無理に応えて下さいとは言いません。ただ、今は否定せず、彼の本気を知ってやって下さい」
「…………」
折角頭がそこからずれていたのに、問答無用で戻されてしまった。
だが、しかし。
第三者にはっきりと言われ、漸く水木の告白を理解する。そう、たとえ真実には何かがあるのだとしても、俺が今見えるのは「愛の告白」以外にはない。していない事はないだろう水木の企みは、何も与えられていないのだから憶測も出来ない。戸川さんが彼を推す真意も、全く測れない。
ならば。そんな俺に、一体何が出来るだろうか。
多分出来るのは、表面的にでも言葉を受け取り、答えを返す事だけだ。下手に隠された箇所を突くのは、この場合得策ではない気がする。
一般論で考えれば、同性に告白されたならば、普通は退くだろう。それがヤクザだとなると、一目散に逃げるのが常識だろう。だが、あからさまに背中を向けて逃げるのも難しい話だ。後ろから何をされるかわからない。だったら、平身低頭の姿勢で謝罪を繰り返し諦めてもらうのが一番賢い方法だろう。
この危機から脱出する為には、何をどう言えば良いのだろうかと考え、俺はふと自分のそれに溜息を落とした。まるで言い掛かりを受けたような気分だ。実際には告白であっても、対処は同じく逃げるしかないとは。ふざけきっている。だが、それでもそれに屈しなければならない事が悔しい。愛の告白からは程遠い事態だ。
俺自身、一般的な女性に言われたのなら、確かに戸川さんが言うように喜ばしい事だと思う。応えられるかどうかは別になるが、ただ誰かに想われているというのは単純に己にとってはプラスになるものだ。
しかし。幾ら顔が良くとも相手は男だ。疑心を完全に捨て去りその言葉だけに耳を傾けたとしても、俺には何のメリットもない。嬉しくないのは勿論、状況を把握するにつれ気が重くなる一方だ。戸川さんの言いたい事はわかっても、この状態では何を望まれようが応えられないだろう。まともな考えひとつ纏まらない。
「どうしても信じられませんか?」
再び硬い顔になっていたのか、戸川さんがどこか心配げに首を傾ける。
「……そうですね」
目的の階への到着を知らせる音に顔をドアに向けながら、俺は正直に胸の内を語った。開いたドアの先に広がる明るいエントランスがどこか非現実的で、足を踏み出すのさえ忘れ、言葉を口に乗せる。
「信じられないと言うか、俺の中では有り得ない事態なので、何と言えば良いのか――何をどう考えれば良いのか、全然わからないんです」
「まあ、確かに、そうですよね」
「…戸川さんは、何故あの人が俺にあんな事を言ったのか、知っているんですか?」
頷きながらエレベーターを降りた戸川さんが、俺の言葉に足を止め振り返る。
「――と、言いますと?」
閉まらないようドアを押さえる指は、やはり綺麗だった。袖から覗く高価そうな腕時計よりも、断然魅力的だ。だが、それでも何故か俺は、あの男の手を思い出してしまう。
水木の手は、多分、人を殴ってきたものだ。
けれど。
俺に触れたそれは、予想以上に優しかった。
「…積極的に疑っているわけではなく、俺は多分、納得出来ないのだと思うんです。それは、その――本当に俺に好意を抱いているのだとしても…変じゃないですか。何も知らない相手にいきなりこんな事は……おかしいですよ。だから、その…」
やはり他に何かがあるのではないかと伺うように戸川さんを見ると、軽く笑いながら彼は頷いた。
「全くもって、その通りですよ。あの男は相当おかしい」
「……」
こんな事を言って大丈夫なのかと緊張しながらの質問に、予想外の反応が返される。あっさりと肯定した目の前の男をまじまじと見つめながら、ならば何故だと面白くない思いが俺の中に浮かんだ。
水木は誰が見てもおかしいと評されるらしい。俺一人が手に余り感じてしまった訳ではないようだ。それなのに。
何故その被害を自分が受けているのか、あまりの理不尽さに気を抜けば泣いてしまいそうな心境だ。勝手に頭に血が上り、目眩さえ覚える。
「貴方の仰る通り、普通はこんな風に急いで告白しても上手くはいきません。相手を困らせるだけの結果になるのが、初めから目に見えているというものですよ。自分が出会った瞬間に恋に落ちたとしても、相手も同じだという場合は殆どないでしょう。一目惚れの恋を実らせたいのならば、少なくとも自分を好きになって貰えるだけの時間をかけなければなりませんよね。こんなのは余りにも一方的だ。
ですから、千束さんの反応は当然だと思います。驚くのも疑うのも信じられないのも、良くわかりますよ。突然の事で考えが纏まらないのもそう。もしも私が貴方と同じ立場なら、きっともっと苛立つ事でしょう。いきなり言われても、どうしようもないですからね。相手にもしないと思いますよ。まして同じ学生になら兎も角、ヤクザだなんて性質が悪い事この上ない」
宥めるように優しく、落ち着かせるように柔らかく、安心させるように微笑みながら、戸川さんはそう言葉を紡いだ。だが。
「ですから、ね。千束さん。慌てる気持ちは充分わかります。だが、どうか焦らないで下さい」
「……」
続けて向けられた言葉に、緩みかけていた緊張が一気に張りを強めた気がした。何て事はない言葉でも、今の俺には鋭く突き刺さってくる。確かに、俺は焦っている。この状況で心の底から落ち着くなど無理な話なのだから、戸川さんの言葉はわかる。だが、それでも違和感を覚えるのだから仕方がない。戸川さんの言葉は、結局は水木を放っておけというものではなく、俺に考えを変えろと言っているようなものなのだ。俺の話など、全然聞いていない。
この人は口に乗せる言葉程も、俺を案じてはいないのだ。そして、それは意識的に騙そうとしているのではなく、ただの視点による違いによるものなのだろう。戸川さんは確かに俺を慮ってくれているが、やはり水木サイドの人なのだ。そう。本人も先に口にしていたように。
指摘されたように多少は冷静さを欠いているのだろうが、それでも俺はおかしくはないはずだ。なのに、こうして巻き込まれている。変だとわかっているのならば、もっとあの男を管理しておいてくれれば良かったのに、戸川さん自身が俺に水木を引き合わせて来た。水木の希望か戸川さんの計らいかは知らないが、俺にとっては同じ事で、結局は戸川さんも基本的に水木とかわりはしないのだ。
ならば、自分の身を守れるのは自分だけだと、そういう事になるのだろう。戸川さんの好意を疑う気はないが、彼の立場を忘れてはならない。勘違いしては駄目だ。
仕草で促されるままにエレベーターから降りながら、俺は自分自身に叱責をかける。いい加減、前に進めと。信じられない、嘘だろうと、都合の良い答えを求めておらずに、自分の意見をはっきりと口にしろ。どうするべきなのかわからなくとも、自分が出来る事はひとつしかないのだから、引き伸ばしていても仕方がない。迷っているのは対処の仕方であり、答えではないだろう。
「戸川さん。ならば何故、こうして俺に疑われる可能性が高いのに、水木さんはあんな事を言ったんですか?」
「それは――私は水木ではないので答えられませんよ」
隣に並ぶ戸川さんは一呼吸の間を置き、困ったような声を出した。確かに、そうだろう。聞く相手が違う。だが、水木では話にならないのだから、俺としては戸川さんに縋りつくしかない。俺が先の告白を理解したのを示せば、きっと今ここで答えを返せるはずだ。水木にではなく、戸川さんに。
そう。俺の答えなら、それで用は足りるはずなのだ。直接言えとは、流石に言わないだろう。
「なら、戸川さん自身はどう思いますか?水木さんが俺にあんな事を言ったのを、どう考えているんですか?」
「そうですね。私は千束さんがなさっているような危惧は全くないと思います」
玄関を潜りスロープを歩きながら、さらりと横から答えが返る。
「彼の場合、告白は告白ですよ。それ以外にはない。昨夜言ったのは嘘ではないですよ」
「……」
何を指してのものか、問い返さずともわかった。水木が俺を気に入っていると力説した件の事だ。やはり戸川さんもまた、あくまでも愛の告白以外に意図はない事にしたいらしい。
「水木が貴方にそう言う意味で惹かれているのは知っていました。ですが、昨夜も言いましたが、あいつは朴訥と言っても良いような男です。惚れているのは確かでも、こうも早く告白するとは考えていませんでした。放っておけば何もしないだろうと、からかったり、嗾けもしましたが、まさか昨日の今日で想いをうちあけるとは。その目測を誤ってしまったせいで、こうして千束さんを困らせてしまう事になったのは、本当に申し訳なく思っています。済みません」
「いえ…、そんな……」
ゆっくりと進めていた足を止め、はっきりと頭を下げた戸川さんの姿に俺は焦る。先程から八つ当たり気味に同じような事を口にし、俺は煮え切らない態度で愚痴を零しているが、本当はこの人には関係のない事なのだというくらいわかっている。水木が直接俺に向けたものを、戸川さんに文句を言うのは間違っているのだ。実際に嗾けた張本人だとしても、水木は33歳の大人であるのだから、行動も発言も総て責任をとらねばならないはずであり、戸川さんの事は水木自身との事だ。俺には関係ない。
だから、俺が子供のように当り散らした事を謝るのなら兎も角、謝られるのはおかしい。戸川さんは水木ではないのだから、こんな風に謝罪されては逆に困る。これでは、厄介な罪悪感が生まれてしまいそうだ。
「戸川さんが悪い訳ではないのですから、謝らないで下さい。寧ろ、俺の方こそ愚痴って済みません。こんな事初めてですから気が動転してしまって、余計な事をペラペラと……ごめんなさい」
「いいえ、千束さん。それが普通なのですから、貴方の方こそ謝る必要はないんですよ。何より、これも私の仕事ですから気にしないで下さい」
「仕事ですか?」
「ええ。私は周囲に水木のフォローをしてまわる役目ですから。ああいう男なので、色んなところで問題を起こして、結構大変なんですよ」
茶化すように肩を竦めた戸川さんは、けれどと声音を変え言った。
「ある意味、今回の事は彼らしいといえば彼らしいんです。呆れはしていますが、私はそう驚いてはいません。十代の初恋ではないので、もう少し年相応の口説き方をしてくれたのなら、千束さんもこうも困りはしなかったでしょうにね」
「…………」
いや、それはどうだろうか。口説かれる事自体俺は困るので、十代並だろうが三十路レベルだろうが、あまり違いはないように思う。逆に、歳並の手練で攻められては、俺は一巻の終わりだろう。たとえ相手の頭がゆるくとも、ひと回り年上のヤクザには勝てそうにはない。しかし、ある程度予想出来る誘いでアプローチをされていたのならば早々に逃げられたのかもしれないなと、そういう考えも一理あると俺は眉を寄せた。だが、あったところで全てが後の祭りだ。もう遅い。
「料亭で貴方に会ってから、少し様子が変だなと思っていたんです。探りを入れてみれば彼らしからぬ事を言うのでね、本心を誤魔化されているのかと疑いましたよ。ですが昨夜偶然お会いして、水木が本気なのだと私にもわかりました。正直、あの時は困ったなと思いました。彼の立場で学生の尻を追いかけられては、周りに舐められてしまいますからね。窘めなければと。ですが、千束さんと話しているうちに、水木に協力をしようと考え直していました」
「えっ?どうしてですか!?」
考え直さないでいてくれたのなら、自分はこんな目にあわなかったのかもしれないのにと、俺は勢いよく問いを投げる。何故、水木を押さえてくれなかったのかと。戸川さんが窘めていたのならば、流石の水木とて馬鹿な事はしなかっただろう。
戸川さんは俺の心の中がわかっているかのように、「貴方にとっては迷惑でしかないのでしょうが」と困ったように眉を下げながら言った。
「私自身が千束さんの事を気に入ったからですよ。水木には勿体ないと思ったくらいに。だから、自分が出来る事はしてやろうと、部下ではなく友人として決めたんです。もしも若いだけの人物なら、水木の意思など無視して引き離していましたよ。無駄な恋愛が出来る程も、暇な稼業ではないですからね」
爽やかに笑われても絶対に同意は出来ない内容に、俺は駐車場に並ぶ車に視線を飛ばした。とてもではないが、そうなんですかと適当に相槌を打つ事も、どこかに流す事も出来ない。引き離すだなんて、ヤクザが言うと冗談には聞こえないし、洒落にもならないだろう。一体どんな事をするというのか、想像さえもしたくはないものだ。水木の告白も厄介ではあるが、そのターゲットにされなくて良かったと心の底から思う。
だが、それでも。この状況は戸川さんに懐いた俺自身が招いたものなのかもしれないと考えると、溜息が零れそうになった。戸川さんに嫌われていたのならば、俺は二度と水木にもこの人にも会わずにすんだのだろう。仕方がなかったとは言え、愛想笑いで乗り切ろうとした自分の浅はかさが腹立たしい。情けない奴だと馬鹿にされても良いから、早々に尻尾を巻いて逃げていれば、こんな事にはなっていなかったらしいというのに…。まさに、自業自得だ。昨夜の自分が恨めしい。
一気に体の力が抜け、俺は思わず足を止めた。しかし、このままではまた昨夜のように流されてしまうのかもしれない自分の弱さに気付き、俺は数歩離れた戸川さんを少し強い声で呼ぶ。
「戸川さん!」
「はい?」
「俺は、水木さんの気持ちには応えられません」
宣言するかのように振り向いた戸川さんに告げると、彼は一瞬驚いた顔をし、続いて困ったように笑みを浮かべ首を傾げた。
「やはり、信じられませんか?」
「それは、関係ないです。水木さんが実際にはどういうつもりであるのだとしても、俺の答えは変わりません」
紛れもない本心なのに、俺の声は微かに震えていた。これではまるで、躊躇っているかのようだ。情けない、しっかりしろ。
「ですから、千束さん。そう急いで答えなんて出さなくて結構なんですよ。ゆっくりと時間をかけて水木の事を知り、どう思うのか考えて下されば良いんです」
「いえ、それは出来ません」
俺は軽く頭を振りながら、はっきりと拒否する。これ以上、迷う余裕は俺にはない。
今日知る事が出来たのは、ほんの少しのものだ。だがそれでも、昨夜とは違う感情を俺はすでに抱いている。小さな子供に接する水木は嫌いではない。車でも部屋でも、一度も煙草を手にしなかったのは、俺を気にしてのものだろう。そういうところも嫌ではないのだ。
そう。多分きっと、このまま付き合いを持てば、俺は水木に慣れてしまうのだと思う。第一印象が最低だった分、ちょっとした事で見直してしまい、簡単に評価をあげてしまうだろう。ヤクザなのに思った程も悪い奴ではないと勘違いして、気付けば突き放せなくなっていそうだ。
ただの知人になるのならば、それもそう悪くはないのかもしれない。だが、好きだと言って来た相手にする態度としては最低だ。応える気がないのに、適当な態度は卑怯だろう。男だからとかヤクザだからとかではなく、相手が誰であっても、俺はこの誘いに乗るわけにはいかないのだ。
「今の俺には、恋愛をしている余裕はないんです。水木さんの気持ちに付き合う事は出来ません」
「…千束さん……」
数歩離れた場所に立つ戸川さんの溜息が、はっきりと耳に届いた。指先で眼鏡を押し上げる仕草が、俺に突如として緊張を与える。彼にとってこの展開は面白くないのだろう。
「昨夜お話を聞かせて頂きましたし、それはわかっています」
カツンと、先程までは全く気にならなかったというのに、戸川さんが生む足音が辺りに響いた。共鳴したかのように、真上のライトが一度瞬きをする。
「ですが何も、水木もいきなりそんな恋人になって欲しいと言っている訳ではないでしょう?」
「…えぇ」
当たり前だ。いきなりでもゆっくりでも、はっきりとその関係を強要されたのであれば、俺とて流石に形振り構わず背中を見せて逃げている。曖昧だからこそ、相手にしなければと思い頑張って対処をしているのだ。誰も好き好んで水木ワールドの究明に当たっている訳ではない。
「それは、わかっています。でも、俺は、上手くは言えませんが…。たとえ誰かと付き合う余裕が出来た時も、水木さんを候補の一人に入れる事はないです。男の人をそういった対象には出来ませんから、あの人の好意にはひとつも応えられません」
「水木はそれでも、側にいて欲しいのだと思いますよ。千束さんが特別何かをする必要も、気にする事もないでしょう。あの部屋に住む事になっても、そう損はしないはずですよ。どうですか、この際利用してみては。千束さんなら、巧く水木を手懐けられるでしょうね」
利用…?俺が水木を……?はあっ!? 出来たとしても、全然手懐けたくなどないぞ!
「戸川さん!」
何を言い出すのかと声を荒げた俺を、戸川さんが軽く片手を挙げて制し、言葉を続ける。
「自制心は呆れる程にある男なので、本当に襲われる心配などはしなくとも大丈夫です。それでも気になるのならば、寝室に鍵でもつければいいんですよ。問題はありません。昨夜は苦手だと言っていましたが、我慢出来ない程でもないのでしょう?ならば大丈夫ですよ」
「絶対無理です!」
ヤクザとは、なんて他人の話を聞かない人種なのか。だが、微妙にずれた噛み合わない会話は、水木と違い、戸川さんの場合は俺の気持ちをわかった上でわざと話を誤魔化そうとしている感じだ。気付けば、男同士は受け入れられないと拒絶を示しているのに、多少俺も心が揺さぶられる同居話をメインにされている。このままでは、確実に俺はどこかに持って行かれてしまうだろう。しかし、それは何がなんでも辞退せねばならない。
「俺には出来ません!」
「いえ、そんな事はないですよ」
俺の焦りをよそに、戸川さんは眼鏡の奥の目を細めて笑う。まるでそれは、小さな息子を見ているかのような柔らかいもので、俺は一瞬目眩を覚えた。この人は絶対、楽しんでいる。窮地に立つ俺だけではなく、きっと水木が起こした事態を面白がっているのだ。
こんな人に、俺はどうすれば勝てるのか…。戸川さんが相手では、一生無理だろう。勝負にもならない気がする。
「いいですか、千束さん。水木は毎日このマンションに帰るわけではありません。努力したとしても、精々週に二日あるかないかでしょう。貴方が嫌がっているのを知っているのであれば、あえて帰らない日もあるでしょうから、月に数度の割合ですよ。この際、鬱陶しいオーナーだとでも割り切って住んでみてはどうですか?特に何かをする必要はありませんし、月に何日か少し我慢するだけで、住む場所もある程度の生活も手に入るんですよ。そう悪くはないでしょう?」
「……」
何て事を言い誘惑してくるのか、コン畜生。そんなに俺を住まわせたいのか。水木のご機嫌でも取ろうというのか。善良な学生にヤクザの部屋での下宿を進めるだなんて、常識が逸脱しすぎだ。ついていけない。
いや、そもそもついていっては駄目だ。あくまでも、これは水木との事なのだから、戸川さんを相手にしては駄目なのだ。絶対に。
「住むところを探しているのでしょう?」
「……確かにそう言いましたが、それとこれとは別ですよ」
頭が痛くなると指先でこめかみを押さえながら出した声は、思った以上に疲れたものだった。思わず俺は溜息まで零してしまう。最早、頭の中はこの場から逃げる事だけで一杯だ。言い合いをする相手としては強すぎるのだから、逃げなければ助かる術はないような気になっている。戸川さんなら話が通ると思ったのがそもそもの間違いなのかもしれないが、今は反省する余裕もなければ、考える気にもならない。
こうなったらもう、突き進むのみだ。
「知り合ったばかりであっても、ただのバイト先の先輩や知人の知人とかならば、俺は誘いにのるかもしれません。それくらいの焦りはありますから。ですが、そこに何らかの感情が入っているのならば、絶対に甘える訳にはいきません。だって、普通はそうでしょう?誰かに好きになって貰えて純粋に喜べるのは、その気持ちに応えられる時だけですよ」
「水木の気持ちは迷惑だと言う事ですね」
今更何を改まって聞くのか。切り返しが怖い発言に、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「親切にして下さるのは、有り難いと思います。ですが、好意に応えるつもりはないです。迷惑というよりも、正直、俺には重荷です」
「重荷、ですか」
意外な言葉だったのか、表情を引き締める戸川さんに、俺は駄目もとで打診する。
「水木さんに、そう伝えて頂けませんか?」
「そうですねぇ…。伝える事は、簡単です。ですが、ヤクザにその理屈が通じるかどうかはわかりませんよ」
自分としても納得しかねると言うように、戸川さんは肩を竦めた。だが、理屈とはどういう事か。他にはないくらい正当な理由だろう。
「だったら…。もしも何かあれば、携帯を鳴らして下さって結構です。ただ、俺の気持ちは変わりませんから」
水木と向き合っても、今言った言葉を繰り返すだけでしかないと、俺は戸川さんに伝える。どっちつかずの態度では、直ぐに付け込まれるだろう。何故こんなにも、水木もそうだが、戸川さんも俺なんかを構ってくるのか。学生など珍しくないだろうに、やはりヤクザとはわからない生き物だ。一生かかろうと、理解は出来そうにない。
「わかりました。一応、水木には伝えましょう。ですが千束さんも、落ち着いてからで良いので、もう一度考えてみて下さい。本当に悪い話ではありませんよ」
だから、どこが一体悪くはないというのか。いい加減しつこい戸川さんの言葉に、俺は心の中そう突っ込みを入れる。部屋主は敵愾心を掻き立てるようなヤクザで、ふざけた事に愛の告白をかます頭がイカレた男なのだ。雨風を凌げたとしても、精神的に殺られるのは目に見えている。それのどこが悪くはないのか。俺はそんなところにあえて飛び込むほど、酔狂な奴でも馬鹿な奴でもないつもりだ。
心変わりだなんて絶対に有り得ないと内心で拒絶しながらも、けれども俺は軽い笑いを落とした。こういうのが軽はずみな仕草なのかもしれないが、それでもやはり笑うしかないのだから仕方がない。
「ありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」
俺は頭を下げて頼み、ドライブをする気分にはなれないからと、戸川さんとは駐車場でそのまま別れた。せめて駅まで送ると言ってくれたのだが、どうにかなるだろうと思い断った。ここがどの辺りなのかよりも、いい加減、俺は解放されたかった。
朧な記憶と勘で直ぐに大通りに出る事が出来、人波に紛れて漸く一息吐く事が出来た。横断歩道を渡りながら空を見ると、ビル影から月が見え隠れしている。
携帯電話に5件のメールが入っていた。全て立原からだ。昨日の今日でまた同期仲間で呑みに行っているらしい。内容は会への誘いだったが、今届いたばかりのカラオケへ場所を変える報告の最後には、草川が荒れているぞとの忠告が付け加えられていた。
駅への道を歩きながら電話をかけ、立原に謝罪と頼み事をしておく。昼間は確かに草川に対して大人気ない事をしたのかもしれないが、傷つけたい訳ではないのだ。俺のせいで落ち込んでいるのであれば、申し訳ないと思う。
俺を悪者にしてくれていいから彼女を元気づけて欲しいと頼むと、立原は小さく笑って言った。
『モテる奴は大変だなぁ。だけど、モテる友達を持った俺も大変だ』
「立原…」
『草川には休みあけにでも、自分できちんとフォローしろよ』
じゃあなと特に何かを聞く訳でもなく通話を切った友人に、俺は心の底から感謝する。騒がしいお調子者だが、立原はいい奴だ。きっと上手くやってくれるだろう。水木との事で一杯いっぱいな今の俺には、とてもではないが草川の気を晴らすのは無理だ。狡いのかもしれないが、今はこれがベストなのだとそう思う。
草川にしても、水木にしても。
気持ちを向けてくれるのはやはり嬉しいと思う。だが、その全てに応える気がないのであれば、何ひとつ応えてはいけないのだと俺は考える。好きになってくれたのに悪いからと、自分が出来る妥協をするのは、ただの傲慢だろう。断る事で嫌われるのを恐れ拒絶しきれないのは、狡さでしかない。中途半端に応える方が酷い結果になるのだと、俺は少ないながらもしてきた経験でそれを知った。まだ18歳の草川は兎も角、水木ならば俺のそれを理解出来る筈だ。
そう考えた途端、傍にいて欲しいと自分に言ってきた男の顔が不意に頭に浮かんだ。真剣な目で、どうすれば信じるのかと問い掛けてきた姿が、記憶から蘇る。
切符売り場に向かう足がいつの間にか止まっており、気付けば俺は構内で口元を抑え立ち尽くしていた。きっと真っ赤に染まっているだろう顔に、更なる羞恥が生まれる。こんなところで、何を今になって照れているのかと水木の姿を頭から振り落とし、俺は販売機にコインを放り込む。けれど、やはり、直ぐには冷静にはなれない。
水木と同じく、戸川さんもあの告白を本物だといったのだ。彼らに俺を捕えるメリットなどなさそうだから、本当にそれだけのものでしかないのだろう。だが、だからと言って、やはりそれをどうこうする事は俺には出来ない。
何度も同じ事で驚き、何度も同じ結論を出す。本来ならば一度で終われるものを、まるで堂堂巡りのように繰り返すのは、迷っているからではなくただの動揺のせいだろう。いい加減にせねばと思うのに、水木の言葉が、戸川さんの言葉が頭を回る。答えを出した俺には今更必要ないのに、何をしたいのか。理解を深めてもだからどうともならないのに、何を期待しているのか。もう終わった事なのに、自分でもここまで動転している理由が、よくわからない。
駅の立ち食い蕎麦屋で軽い夕食をとってから、漸く俺は電車に乗り込んだ。もう少し遅ければ、微酔い気分のサラリーマンで混んでいるのだろうが、金曜のこの時間の車両は驚く程に空いている。だが、座る事はせず、俺は扉の前を選んだ。
ひどく疲れていた。無心で電車に揺られながら、ぼんやりとドアを眺める。ガラスには、都会の明かり、車内の様子、ただの闇が映っては消えていく。そんな中でふと俺は、水木の車に傘を忘れてきた事を思い出した。
ワンコインで買った傘に愛着などないが。水木は自分を拒否した餓鬼の傘をどうするのだろうかと考え、何故だろうか更に気分が沈んだ。
きっと傘は、ゴミ箱行きなのだろう。
それは当然だろう処置なのに、気にいらないと思ってしまっている自分が、ここにいる。
2005/10/20