9


 決して長いとは言えないが、短くもない21年間の半生の中で、俺もそれなりに経験を積んできたのだと思う。人と比べる程のものではないだろうが、色々な衝撃を味わったのは勿論、絶望の淵に立った事もある。だが、あの手のものは初めてだった。
 同性なのも問題だが、ヤクザに愛の告白をされるとは。世も末だ。21世紀になりまだ数年だが、明日再び世紀末が訪れたとしても、素直に納得してしまいそうな気分だ。一週間経った今なお、俺の中には整理のつかない驚愕が残っている。まるで治りきらない風邪のように、性質が悪いものだ。
 この一週間、気付けば水木の事を考えていた。向けられた言葉の意味を俺は考えていた。
 一体あの男は何だったのか。答えが出ないまま、ただ時間だけが過ぎ去り、全てを過去へと導く。けれど、どんなに時間が経とうと、起きた事実は変わらないのだ。残念な事に。
 衝撃を維持し続けた週末は、はっきりいって俺は使い物にならなかった。なんとかバイトはこなせたが、他の事は意識もそぞろで叔母に心配された程だ。正直、戸川さんを通じ断りはしたが、水木がまた現れるのではないかと気が気ではなかった。結局、あれ程余裕をもって仕上げるつもりでいたレポートも、八割の出来のまま提出する羽目になった。前期試験はなんとしても頑張らねば、C判定を貰いかねないだろう。由々しき事態だ。
 しかし、実際にはまだ先の試験よりも、確実に起きてしまっている事態の方が深刻で。
 もっと警戒していれば良かった。もっとこう言えば良かった。あの時断っていたなら。俺がしっかりしていたなら。後悔ではないが、たらればばかりを考えていた数日。どうにか、仕方がなかったんだと自分を納得させられた時には、週も後半になっていた。だがそれでも、やはり衝撃は胸の中で燻りつづけており、色々と考えてしまう。
 あれから、一週間。水木からは何の接触もない。
 あんなにも惚れたなどと言っていたが、やはりそう大したものではなかったのだろうか。戸川さんに託けた断りで納得したのだろうか。終わったのならば万々歳なのに、何故か俺の方がしつこく気にかけている。追いかけて欲しい訳ではないのに、少し面白くないと思ってしまっている。考え過ぎた副作用は、悪質極まりないもののようだ。
 そんな俺の内面はさて置き。常識的に考えれば水木の方は、十代のガキではなく三十路を過ぎた大人なのだから、相手に拒絶されたら大人しく引き下がるだろう。彼の本気の程度はわからないが、きっぱりと断られたら普通は自分の中で折り合いをみつけるはずだ。ふられても迫る行動に出る程も、水木の場合は相手に困っていないだろうし、何より俺に対する執着心はそこまでないだろう。
 ならば、何もなく一週間が経った今、もう俺は忘れてもいいと言う事だ。そう、忘れるべきなのだ。この沈黙が何よりもの水木の答えだと考えるのは、間違ってはいないだろう。諦めず追いかけられても困るのだから、俺としても不毛に悩むよりも断然、きれいさっぱり忘れたさった方が楽だ。
 思わぬところで、犬に噛まれてしまったというか。ちょっとばかり性質の悪い悪戯に引っ掛かってしまったと言うだけの事なのだ。最低な出来事であったとしても、深刻に悩む事ではない。終わったのならば、全てが過去だ。ヤクザと知り合う事も、同性に告白される事も、日常には有り得ないものだ。だが、人生の中で絶対に無いとは言い切れないものでもある。ただ、ふたつ揃ってのダブルパンチとなればさらに経験する確率は一段と低くなるのであるだろうし、それを不運にも掴んでしまった自分が憐れに思えるが、今更言ったところで遅い。こんな事は二度とないさと思うことで割り切るしかないだろう。
 非現実的な出来事にいつまでも捕らえられていられるほど、実際の現実は甘くはない。待ってはくれない。


「あ、先生。今月でしたよね、誕生日?」
「ああ、そうだけど?」
 沈む気分を変えるにはもってこいだろう、明るく可愛い少女が、勉強道具を片付ける俺に問い掛けて来る。一週間前は流石にこの笑顔も余り効きはしなかったのだが、折り合いをつけられた今は、心に温かさが広がった。立原に言った話ではないが、ロリコンの趣味はない。だが、妹のようだと言うのとも違う感情で、俺はこの少女が可愛いと思う。毎週土曜の午後に二時間、私立中学に通う富田みとの家庭教師を始めたのは、まだ医学生だった時の事だ。もしかすれば、父性愛みたいなものなのかもしれない。
「何日でした?」
 机の上に体を乗り出し、向かいに座る俺に顔を近付けみとちゃんが小首を傾げる。そんな仕草を美少女に素でやられては、無視など出来る男はいないだろう。中三にしては多少あどけない感じはするが、この無垢な素直さがこの娘の一番の魅力であるのも間違いなく、平凡な男には抗えなくて当然のものだ。
 俺とて、例外ではない。勿論、そこに不純なものは一切ないが。
「ああ、16だよ、6月16日」
 仕方がないなと、片付けの手を止める少女に苦笑を落としつつ返した俺の答えに、相手は一呼吸の間を置き嘆き声をあげた。
「え〜っ、修学旅行中だよぉ。お祝いしようと思ったのに、残念ー!」
「そんな事はしなくていいよ、別に」
「私がしたいんです。あ、じゃあ、お土産と誕生日プレゼントは一緒って事にしますね。楽しみにしておいて下さい」
 机に突っ伏した状態で顔を上げた少女が、楽しげに言う。下から俺を見上げ笑う彼女の気分は、どうやら早くも既に、再来週の旅行へと飛んでいるようだ。
「俺に気を使わなくて良いから、修学旅行を楽しんでおいでよ。それで、何処へ行くの?」
「北海道です。だから、マリモ買ってきますねマリモ!」
「……いや、折角ですが遠慮します」
 藻など貰ってもどうしようもないと、軽く退きながらも丁寧に辞退した俺を、少女はクスクスと肩を揺らせて笑った。一年以上の付き合いになるが、未だにこの笑い声にはドキリとしてしまう。いつもの子供らしさが抜け一気に大人っぽくなる気がするのだが、それが何故か自分の淡い恋心というか、幼い思春期を俺に思い出させるのだ。
 男子校であったので、特に何があったという訳ではないのだが。俺もこの少女と同じ年頃には人並みに、仲間内でアイドルに夢中になったり、街中の少女達にときめいていたものだ。女子の方がひと足早く大人になって行く中学時代は、大抵の男にとれば、まさに甘酸っぱい過去だろう。懐かしくもあり、恥しくもある。
「あッ、先生の誕生日。逆からでも616!私の名前と一緒だね」
「え?…ああ、ホントだ――ハハッ」
 上からよんでも下からよんでも、トミタミト。残念ながら、父は昔からセンスがなかったようなんです。
 初めて会った時にそんな自己紹介をかましてきた、今より少し幼い少女をその発言から思い出し俺は声を出して笑ってしまった。とても久し振りに、温かい気持ちで笑えたような気がして、なかなか止まらない。
「もう、先生!」
「アハッ、ごめん、まさかそんな事を言われるなんて思っていなくて…ツボに入った。初めてだな、616だなんて数字を並べて言われたのは。確かにそうなんだけど、気になんてしないからなぁ普通」
「えー、そうですか?数字って、結構気になりません? デジタル時計を見たら、ゾロ目だとか今日の日付や自分の誕生日だと同じだったら、嬉しくなるでしょう?」
「だから、全く意識していないからわからないよ。でも、気付いても、別に嬉しくはならないと思うなァ俺は」
「えー、面白くないですよそれだと」
「そうかな?」
 そんな事はない。というか、ただの時刻に俺は笑いは全く求めていないので、問題ない。
 だが、同意しなかったのがお気に召さなかったのか、可憐な少女は携帯電話のサブ画面を点灯させ俺に向けてきた。
「1637――って、何もないですね…」
「歴史で言うなら、島原の乱、カナ」
「あはっ、ホントだ。ね、こういうのも楽しいでしょう?」
「そうだね、確かに言われてみれば。でもやっぱり若い子は発想が豊かと言うか何というか、何を気にし始めるかわからないなァ。頭が硬くなっている俺にはもう無理な発想だね」
「もう、年寄りみたいですよ、先生!」
 オジサンだと笑う少女の頭を軽く叩く真似をしながら立ち上がり、俺は退室の挨拶を口にした。玄関まで見送る為についてくる可愛い教え子が、ぞろ目の時に願い事をすれば…等というお呪いまで教えてくれる。流れ星とは違い、一日に三回、各最大一分もの時間がある至極簡単なお呪いなどに効果は微塵もないように思うのだが。信じているかどうなのかは兎も角、それを楽しそうに話す少女を、やはり俺は可愛く思ってしまう。
 中学生の彼女にとって、21才になろうとしている大学生とは、一体どんな立場なのだろうか。どの枠に分類されるのか。マウンテンバイクに跨りペダルを扱ぎながら、俺は少し往生際が悪い大人のような考えを巡らす。彼女が本気で俺をオジサンだと評価している事はないだろうが、14歳の少女にすれば、ムサイ男に分類される範囲内なのかもしれない。自分はまだ学生であるし、仲良くやっているので大丈夫だとは思うが、昨今の女子中学生はシビアだ。油断は出来ないだろう。
 彼女の中で「お兄さん」であり続ける為にも、元々薄いとは言え髭くらいはこまめに手入れをしないとなァと、顎下の剃り残しに触れながら思う。
 先程の会話ではないが。若い子と付き合うのも、なかなか気を使うものだ。

 今夜遅くから雨になるが朝までは残らない。
 そんな予報を耳にしたのは今朝だったが、半日で劇的に空が変わったのか、ただ予報士が計算を間違えたのか。早くも雨を落としそうな空模様に、俺は家路を急いだ。落ち着きはじめた気分を更に晴らす為、前から気になっていた単行本を帰り掛けに購入したところであるので、雨に会うのは是非とも避けたい。
 どんよりと重い空を睨む俺の視線が勝ったのか、料亭に着いた時もまだ雨は零れていなかった。だが、時間の問題だろう。マウンテンバイクを軒下に停め、俺はいつものように裏玄関から中に入った。
「帰って来たのね、大和」
 屋敷に上がり、使わせて貰っている部屋に入る数歩手前で、後ろから叔母に呼び掛けられた。客室からは遠い離れのようになっている場所なので、この時間にここまで叔母が来る事は珍しい。
「ただいま。何?どうかした?」
「兄さんと義姉さんが来ているの」
「えっ?はぁ?――って、父さんと母さんがッ!?」
 一瞬理解出来ない言葉を聞いたように惚けかけたが、叔母の堅い表情に、俺は飲み込むよりも早く問いを発した。
「何をしに…?」
「それは自分で訊きなさい。一時間程前に来て、貴方の帰りを待っているのよ」
「……」
 もしも本屋に寄り道をしなければ、そのくらいの時間に帰っていただろう。偶然なのか、それとも俺のバイトの時間を把握しているのかわからないが、されてイイ気分になるものではない。
「大和」
 口を閉ざした俺の名を、叔母が呼んできた。そこには、責めるような響きは一切ない。この叔母の性格を考えれば、今更ながらの突然の訪問を受けた俺を気の毒に思いこそすれ、彼らに協力はしないだろう。今まで何度か実家に顔を出せと言ってきていたが、まだ俺が決心をつけられていない事を良く知っているはずだ。だからこそ、無理やり家に帰さず、ここで住まわせてくれているのだろう。ただで甥を甘やかせるような人物では決してないので、それだけ俺の状態を心配しているという事だ。それこそ、実の両親以上に。
「まだ会いたくはないの?」
「それは、まぁ…そうだけど……」
「なら、帰って貰う?」
「いや、それは……」
 歯切れの悪い俺に、叔母が溜息のような小さな息を吐く。多分、あの父の事だ。俺の事は勿論、叔母の都合も考えず思い立ったか何かでやって来たのだろう。前以て知っていたのなら、この叔母は絶対俺に隠す事なく話してくれたはずだ。絶対に。
 叔母もまた、唐突な訪問に戸惑っているのだろう。気持ちの整理がついたとは言い難い俺を、あの父親に会わせればどうなるのか。彼女はそう心配しているのだろう。付き合いは息子の俺よりも長いのだから、利己的な父親の事を叔母は良くわかっているはずだ。そう、済まなかった帰ろうと、息子に殊勝な態度をとる親では決してない。
 何をしに来たかはわからないが、顔を合わせれば、揉める事は必至だ。
 正直、俺はまだ両親に会いたくはない。父が何か言い出すのだと思うだけで、苛立ちが募る。これでは、声さえも冷静に聞けそうにない。だが、そういう訳にもいかないというのは、俺とて十二分に理解している。何より、ここまで押しかけられながら逃げるのも癪だ。家を出た俺に協力してくれた叔母夫婦にも悪いというもの。俺が逃げれば絶対、父は叔母を責めるはずだ。
「……わかった、行くよ。ちょっとだけ待って」
 断ると同時に部屋の扉を開け中に鞄を放り込むと、俺はひとつ気合いを入れて振り返った。今ここで、早くも気圧されていては何も出来ないだろう。
 携帯電話を取り出し時間を確認すると、そろそろ店に客が入り出す頃だった。
「大丈夫?」
「ごめん叔母さん。多分大丈夫だから、仕事に戻ってよ」
「今夜の予約は遅いから、まだ平気よ。それよりも、頼りない返事ね。でも、いい機会だから、きちんと話し合いなさい」
「うん、そうだね…」
 叔母の後ろで頷きながらも、それは無理だろうと俺は心で突っ込みを入れる。話し合いで分かり合える親なら、こんな事にはなっていない。こんな状態を一年近くも続けてはいない。縺れた糸を解くには、今更のような気がする。
 叔母と共に客間に入ると、父と母が無表情な目で俺を見上げてきた。久し振りに見た両親は相変わらずのようだ。憮然とした父に、不安げな母。父と兄が揉める度に見て来た表情。だが、今彼らと対峙しているのは兄貴ではない。
 俺なのだ。
 昨年の夏に戻ったようだと思いながら、二人の前に俺は腰を下ろした。勘当だ、出て行けと怒鳴った父の声が耳の奥に蘇る。俺はあの時それに対し何と答えたのか、覚えていない。あれから一年近く経つとはいえ、今こうして向かい合い座っている事がとても不思議だ。
 あの時、父は俺を完全に見限った。息子の愚かさに失望し、役立たずは必要ないと捨てた。決して人と会話が出来ない人物ではないのに、子供に意思は必要ないと思っているのか、息子の言葉は全く聞かなかった。理解をしようなどという気は更々ないのだろう父は、自分に従えないお前は息子ではないと言うように、ただ敷かれたレールから外れただけの俺を馬鹿だと罵った。罪を犯した訳でもないのに、彼の目は罪人を見るような蔑んだものだった。
「……久し振り」
 そんな父親が目の前にいる現実に、俺は戸惑いながらもそう切り出す。冷静さを失わない為に、あえて何でもないような声を出すのが、今の俺が見せられる唯一の意地だ。アンタには負けはしないと、短い挨拶に込める。
「それで、何?」
「……」
 じっと俺を見つめた父は、気がすんだのか数秒の沈黙を破り、漸く口を開いた。
「お前はいつまでこんな事をしているつもりだ」
 抑揚が少ない割にははっきりとした声。思ったとおりの小言に、今更溜息も出ない。
「関係ないだろう」
「関係ない訳がない。そんな事もわからないのか。飛び出したかと思えば大地の処で、あいつが居なくなったら、今度は千草の処だ。勢い良く出た割には、単なる子供の家出だな。呆れて物も言えない」
「……」
「皆が迷惑をしているんだ。いい加減にしないか大和」
「…………」
 やはり、父は相変わらずのようだ。変わりばえしない物言いに、俺は冷めた目でその姿を眺める。この一年、この人は何を考えていたのだろう。俺にこんな嫌味を言って、どうしたいのか。理解に苦しむ。
「大学に入り直したかと思えば、何だ。教育学部だと?くだらないところに入って、何を考えているんだ。教師にでもなるつもりか、馬鹿馬鹿しい」
「……父さんに理解して貰おうとは思っていないよ。許して貰う必要もない」
「何だ、その言い草は」
「……」
 今までなら構いもしなかっただろう、俺の物言いを咎める口調に、父が早くもヒートアップ気味であるのに気付く。だが、それは俺も同じだ。
「お前は医者になるんだ。それ以外は認めない」
「父さんが認めなくとも、俺はもう決めているんだ。医者にはならない」
「お前はまだ、そんな事を言っているのか!」
「……」
 父の突然の大声よりも、その横でビクリと体を震わせた母の方が俺には気になった。甘ったれた事をと続けられる父の罵声をやり過ごしながら、こちらも相変わらずなのだなと視線を逸らす。
 やはりこの二人に俺の声は届かないのだ。一年前、俺自身がかなり参っていたから説得出来なかった、わかって貰えなかったと、どこかであの状態のせいにしていたが、そうではないのだと今はっきりと示される。両親と俺の間には、埋められない溝が、超えられない隔たりがあるのだ。
 何をしようとも。何を言おうとも。俺の思いは、二人には届かない。
「頭ごなしに責めて、まるで大和だけが悪いみたいじゃないの」
「…千草、口を挟むな」
「挟むわよ。兄さんも悪いのよ、わかっているの?」
「何?」
 叔母の言葉に訝んだ父が、一呼吸の間を置き「何が言いたいんだ」と彼女に視線を向け声を強めた。兄妹でありはしても、父は叔母の事を余り良く思ってはいない。結婚をする前の事だが、実の妹である彼女の事を、千束家のお荷物だと言っていたのを俺は知っている。それと同様に、兄の事も蔑んでいた。多分、今は俺の事もボロクソに言っているのだろう。周囲に愚痴るような人物ではないが、自分の価値観だけによってした評価を絶対だと疑いはしない性格をしている。そこに悪意はないのだろうが、それが救いにはならないくらいに、悪質だ。
「叔母さん、ありがとう。でも、もう良いから。仕事に戻って」
「良くないわよ」
 俺のせいで叔母が父と揉めるのは申し訳ないと声を掛けたが、俺自身を相手にするつもりはないのか、一蹴される。
「兄さん、前にも言ったけど。原因や理由はどうあれ、大和が苦しんだのは事実なのよ。結果ばかり見ていないで、きちんと息子を見なさいよ。兄さんは父親でしょう」
「ああ、そうだ。だから、こんな愚息でも面倒をみてやっているんだ。――大和!」
「……ナニ」
「留学の手続きは済ませてある。お前は九月からアメリカの学校に通うんだ」
 いいな、わかったなと口を閉じた父親とは違い、俺の口は大きく開いた。最早、呆れ果てて声さえ出ない。そんな俺の代わりと言うように、叔母が非難の声を上げる。
「兄さんっ!」
「千草。お前は仕事に戻りなさい」
 何を言ってるのと叔母が話す声が、俺の耳を通り抜けて行く。
 誰が、なんだって? 留学?アメリカ? ……ふざけるな。
「大和…」
 遠慮気味に俺を呼ぶ声に眼を向けると、母が不安いっぱいな顔で俺を見ていた。…昔から、母のこの眼この表情が、俺は嫌いだ。
「アメリカ…行くわよね?ねぇ、大和」
「…………留学、か」
 何故、今になって留学などと父が言い出したのか、理解は出来ないが理由は判る気がした。多分、父は漸く俺の言葉を耳の中に入れたのだろう。微塵も受け入れていなければ、今なお怒り以外は向けてこないのだろうし、頭の中にまで入れていたのなら、こんな事は無駄だと気付くはずだ。
 昨夏に大学を辞め家を飛び出した俺に、父は相当怒っていた。それも少しは落ち着いていたのかもしれない春先には、何も知らせずに勝手に大学に入り直しているのだから、俺に対する二度目の爆発はかなりのものだっただろう。それでも今こうして留学の話を持って来たのは、親心でも何でもなく、捨て切れない意地があったからだ。世間に対するプライドが、俺の暴走に対する妥協点を探したのだと思う。
 だが、父の場合はその妥協も、傲慢なものだ。
「アメリカ、ね……」
「お願い、行ってちょうだい」
 呟く事でしか自分の中に取りれられない俺の放心に気付かないのか、母がたたみ掛けてくる。その切羽詰まった必死さが、俺の心を冷ました。耳に入り込んで来る声を、不快に感じる。
「不安なら、大地が居るドイツでもいいから…。貴方は医者になるのよ、ね。ねぇ、大和…」
 お願いよと、まるで縋るように懇願する母から視線を逸らし、俺は畳の目を見つめた。頭の奥がじんわりと痺れる。懐かしくさえもある感覚だ。昔はいつも、この痺れを感じていた様な気がする。
 自分を押し殺している自覚を持つ度、頭に沢山の言い訳を用意し、全てを誤魔化していた。誰が何が悪いのか、間違っているのか、愚かなのか。全てから、俺は目を逸らしていた。自分がそうしている事にも気付かないくらいに、何もかもを正当化し、突き進んでいた。歩くたび、己の身体が心が、傷付いているのも知らずに。
 だが、今はあの時とは違う。
 抗う事が出来ずに参ってしまい、最終的に心も体もおかしくなったあの自分を、俺は忘れてはいない。二度と、もうあの苦しみの中へ落ち込みたくはない。俺をそこへ落とす父と母は、決して沈んだ息子を助けてはくれないのだから、落ち込むだけ無駄だ。損だ。痛みを知らない相手にそれを伝えようなど、全く以て意味がない。
 そう。いつでも、俺に手を伸ばしてくれるのは兄だった。叔母や叔父だった。
 両親ではない。
「もう一度やり直して大和。貴方なら、医者になれる、大丈夫。だから、ちゃんと勉強して、大学を出て、お父さんの後を継いで…。お願いよ、大和。言う事をきいてちょうだい……」
 こんな理不尽なものでも、親の言う事を聞かない子供は、悪い子供なのか。俺はそれが、納得出来ない。父と母がそうだと何度頷いても、俺は違うと首を振り続けるだろう。親が敷くレールが、いつも子供にとって正しいものだとは限らないのだ。
 難しい事ではないのに。別人格ならば、当然の衝突であるのに。何故この二人はそれがわからないのか、俺には信じられない。両親は、親としてだけではなく、人としても欠陥があるのだとさえ思えてくる。こんな事は、思いたくはないのに、だ。
 この遣る瀬無さが、堪らない。父と母と向き会った時は、いつもそうだ。
「……母さんは、いつもそうだよな」
「大和…?」
「昔から、全然変わらない。兄貴や俺がどんなに嫌がっていても、父さんに従わせるんだ。母さんの中では、父さんが全てなんだよな」
「何を言っているの。お父さんもお母さんも、きちんと貴方の事を考えて――」
「嘘だね。母さんは父さんに逆らえないだけだ。そうだろう?今だってそうやって、従う事で自分を守っているんじゃないか。俺の気持ちなんて、考えてもいなければ、感じてもいないんだろう。自分の為に父さんに同調する事で、一杯いっぱいなんだ」
「そんな事は……!」
 続く言葉が出なかったのか、母は口許を片手で覆い顔を背けた。当然だろう。口先だけの否定など、出来るわけがないのだ。実際に、母はずっとそうだったのだから。父の顔色を見ながら行動する彼女に、兄も俺も何度泣いただろうか。全くわかろうとしない父よりも、わかりながら無視をする母の態度が、子供の頃はとても辛かった。今はこの人もまた父に虐げられているのだとわかるが、母親である以上、それに納得は出来ない。免罪符にはならない。
「俺は、医者にはならない。留学もしない」
 今更こんな宣言をする虚しさに、心が冷える。だが、俺のそれとは逆に、母は下げていた顔を勢いよく上げて言った。
「だ、駄目よ!だったら、誰が病院を継ぐの!?」
「そんなの、俺でなくてもいいじゃないか。優秀な人は沢山居るンだろう?千束の血に拘るのなら、ひなちゃんやトモでもいい筈だ」
「大和ッ!」
 イトコの名前を上げたのは、何もいい加減な気持ちで抵抗材料に引き出した訳ではない。三兄弟の真ん中、父の弟である叔父もまた医者で、父をサポートしているのだ。彼の子供が病院を継いだとしてもおかしくはないし、姉のひなのは医大の5回生であり弟の智成も医学の道に進むつもりだと聞いている。俺を戻すよりも、むしろあの二人を視野に入れるべきだろう。
 けれど、俺の正当な発言に、母は予想以上の取り乱しを見せる。
「駄目よ駄目よ、絶対に駄目。病院は大地と大和のものよ。大地が研究職で居続けるのなら、貴方が継がないと駄目なのよっ!」
「母さん…」
「それ以外は、お母さんは認めない。他の誰かなんて嫌よ。絶対に駄目…。……ねぇ、そうでしょう貴方。病院を継ぐのは、大和よね。貴方っ!」
「……」
 俺では埒があかないと思ったのか、母は隣に座る父の腕を掴み、縋った。だが、それはどこか、非難のようにも見える。母らしからぬ行動だ。こんな風に必死な彼女は、余り…というか、殆ど眼にした事はない。
「言ってちょうだい、貴方。大和に、留学して大学を出て医者になって…病院を継げと。お前以外にはいないんだって、言って!お願いします、言って下さい!」
「…落ち着きなさい美砂絵」
「アナタッ! ま、まさか、貴方も…!?」
「――馬鹿な事を考えるな。私は大和以外には考えていない」
「でしたらッ!」
「わかっているから、静かにしろッ!」
「…………」
 父の命令に、まるで何かから目が覚めたかのように、母はいつもの母に戻った。騒いだのが嘘のように、一瞬で父の影に隠れる存在に変わる。今のは何なのだと、両親のやり取りに唖然とする俺に、父は溜息をひとつ落とし声を掛けてきた。
「聞いたな、大和。お前の気持ちが変わっていようが、私はお前を医者にする」
「…何だよ、それ。知らないよ……」
「知らない、ではない。お前とて、大地と違い、医者になるつもりだっただろう。一度の躓きで何だ、駄目だと判断するには早すぎる。出来ないと思い込んだ状態では、何も出来る訳がない」
「…………」
「辛く苦しいのは、ただの思い込みだ。逃げた罪悪感がそうさせるんだ。入学して二年目で、何がわかる。医者に向いているかどうかなど、自分でわかるわけがない。まして、実習についていけないなど馬鹿げている。あれは、慣れだ。頭や心を使うものではない。それを、自ら自分の首を締めるような真似をして、」
「うるさいッ!!」
 両手を机に叩き付けると、流石に父の声は止まった。だが、絡まった視線が、言葉以上に雄弁に語る。お前は負けたのだと。それを誤魔化す為に、今こんな事をしているのだろうと。逃げた後ろめたさに、医者にはなりたくなかったと自分を騙しているんだろうと。
 堪らずに父の眼から逸らした視線が、机の上で握り締めた自分の拳を捉えた。この手が、初めて真っ赤に染まった時の事を、俺は良く憶えている。何て事はないただの吐血であり、大事に至るようなものではなかったが、咳き込む患者を前に俺は恐怖しか感じなかった。自分が何故ここに立っているのか、一瞬にしてわからなくなった。きっかけは、そんな些細と呼べるようなものだ。だが、己の立つ場所を見つめ直すには、それで充分だった。だが、父はそうではないと言う。ならば、慣れなかった俺が悪いのか。いや、それこそ違うだろう。
 沸き起こる熱を逃がす為、ゆっくりと深呼吸をする。その物言いは許せないが、それでも父の言いたい事は、わからなくもないものだ。それは、何度も自らが己に浴びせたものであり否定してきたものなのだから、父が俺に問い質したとしてもなんら不思議ではない。だが、しかし。
 そんな簡単な言葉で、納得など出来るわけがない。俺が歩みかけた道は、そんなに単純なものではなかった。それは、同じ医者の道を歩んでいる者ならば、わかるはずだ。それなのに。
 それなのに、父は理解していない。
 自分が経験を積み慣れたからといって、俺もそうなるとは決まっていない。その慣れるまでの間苦しみ続けなければいけない事を、父は勘定に入れていない。助けてくれるわけでも協力してくれるわけでもなく、慣れるまでやれと言うだけなのだ。言葉だけなのだ。
 言うだけならば簡単だ。だが、それで俺はどうなる…?
「――父さん、俺の歳を知っている…?」
「……」
「俺、まだ二十歳だよ。50歳を過ぎた父さんと同じ考えを持ったとしても、感じる事は違うんだ。思うものも違うんだ。俺には全然、簡単な事じゃない。そんな単純なものじゃない! 50年以上生きてきた父さんになら出来る事でも、俺には無理なんだ。理屈じゃどうにもならないんだ!」
「甘えているだけだ」
「違うッ!」
「違わないだろう。今まで、誰がお前の面倒をみてきたと思っているんだ。何不自由なく生活をしてこられたのは、お前の努力で得たものじゃない。私が与えたものだろう、違うか。食べる事にも着るものにも困らず、欲しいものは働かずにして手に入れ、自慢さえ出来る学校に通った。塾に家庭教師、幾つもの習い事。贅沢だと感じた事はないのか。大地のように、親ならするのが当然だと思っていたのか。今になり反抗するなど、甘ったれている以外なんと言うんだ。自分が今まで与えられ受け入れてきたものを考えれば、私の言葉を否定出来ない筈だ。本気でその意地を通す気でいたのなら、考えが浅はかだったな。だがそれも、ここまで言えばいい加減気付いただろう」
「……」
「帰るぞ、大和」
 言葉と共に立ち上がる父から目を逸らし、俺は俯いた。
 父が言う事は、わかる。確かにそうだと言える。反論の余地はない、完璧なものだ。俺は確かに、父の恩恵を受けていた。だが、それでも納得出来ない。したくはない。
 これが甘えだと言うのなら、そんな腐った息子は見限れば良いのだ。父ならば、それが出来るはずだ。それとも、こんな俺でも意地になり捕まえるほどの価値があるというのか。
 父の言葉には、俺自身に拘らねばならないものはない。
 なのに何故、立ち上がり俺が動くのを待つのだ。帰るなどと言うのだ。俺は――。
「俺は……嫌だ」
「…駄々を捏ねるな」
「駄々って何だよ…」
 父にとっては小さな子供がごねているのと何ら変わりはないのかと思うと、最早何をどう言えば良いのかわからなくなった。どんなに力説したところで、俺の気持ちはやはり理解されないのだと思い知る。嫌だと言えば、勘違いだと。出来ないと言えば、甘えだと。知ろうとしない上に、俺が発した言葉全てを否定する。自分が完璧だと、間違う事はないのだと信じきっている父親に対し、息子の俺が出来る事はなんだろうか。
 父と確執を持ちながらも、それでもそれなりに上手くやっている兄が羨しく思えた。いや、俺ははっきりと自由な彼に嫉妬した。この状況で責められている自分自身に同情さえする。何故俺は、こうなのだろう。昔から、いつも誰かに邪魔をされている気がする。損な役回りを押しつけられている気がする。
 自分に従うと確信したのか。父が机から離れた。
「…大和、帰りましょう」
 いつの間に側にまわって来ていたのか。肩にかかった母の手を反射的に振り払い、俺は立ち上がりながら顔を上げた。数歩先で俺が動くのを待つ父と、視線が絡む。
「……父さん」
 静かな目に訝る感情が滲み、昔から変わりない見慣れたそれが遣る瀬無く、震えていた胸が落ち着くかのように冷えた。苛立つ頭の熱も下がった気がする。けれど、吐き出したい衝動は治まらなかった。
「父さんが俺に向けるのは、昔から期待じゃなかった。イイ学校に行くのも、医者になるのも、父さんの中では当然だったんだ。俺にああしろこうしろと言ったのも、助言でも何でもなくて、いつでも拒否権のない命令だった。なのに、まだそれを聞き入れ続けなければ、俺は甘えていると否定されるのか? 冗談じゃないッ!」
 俺には、この人が何を思っているのか判らない。跡継ぎだなんて、本当にそれを望んでいるのかどうかさえ判らない。俺の中では、父は意地になる事はあっても、執着はしない人だ。血を分けているからといった理由で、言う事を聞かない息子にしがみつく様なタイプではない。何を思って俺以外に病院を継がす気はないと言ったのか。母の勢いに押されたわけでもないのだろうに、意味がわからない。
 俺に拘るのならば、昔からもっと構えば良かったのだ。手懐ければ良かったのだ。
 今更関心をみせられても、どうしようもない。
「父さんの命令には、もう頷けない。だってさ、父さんに応えるメリットが俺にはないだろう? 留学なんてしたら、また贅沢だと貶されるのがオチだ。俺はこれ以上、自分で自分の首を絞めるつもりはない。あんたに手綱を持たれるのは、真っ平だ!」
「大和ッ!!」
 父は、眉ひとつ動かさなかった。俺の名を呼んだのは後ろの母であり、心配げな視線を向けて来たのは、叔母だった。父の相変わらずの反応の薄さに、俺は思わず顔を歪めて笑う。
 もしかしたら、この男はここで俺が舌を噛み切ったとしても、表情を変えないのかもしれない。馬鹿な奴だと、冷たく言い放つだけで終わりなのかもしれない。
「父さんは俺を何だと思っているんだよ」
「……」
 答えを期待したわけではなかったが、無言が父の気持ちなのだと考えれば、もう何も言う気にはなれなくなった。詰るのも空しいだけだと足を踏み出した俺に、漸く父が動く。
 だが、もう、遅い。
「待ちなさ――ッ!」
 小さく喉が鳴るのを耳にした途端、心が大きく跳ね上がった。
 しかし。
「あ、あなたッ!?」
「大和…」
 母の叫びと、叔母の呟きを聞いた時には、後悔が沸き起こっていた。目を皿のようにした父の顔が、更に拍車を掛ける。一矢報いただなんて気には、とてもではないがなれない。
「…………」
 無意識の行動だった。部屋から出て行こうとした俺の手首を取った父の足を払い、襟首を持ち背中から畳に叩き付けていた。動いたのは、何故なのか。自分でもわからない。
「……ごめん」
 シャツを両手で握り締めた俺の手首を未だ掴む父の手をもぎ取る様にして外し、俺は部屋を飛び出した。
「大和!」
「……頭、冷やしてくるよ」
 玄関で追いついて来た叔母にそう告げるのが、精一杯だった。


2005/11/20