10
幾らも走らないうちに、雨が零れてきた。どうやら、俺は天気にまで見放されているらしい。意地になりペダルを踏んだが、本格的に降り始めた雨に気分が逸れ、大人しく雨宿りを選ぶ事にする。もとから、あの場に居たくはなくて気持ちを消化する為に出て来ただけであり、行くあてなどない。愚痴を聞いてくれる友人は居ない訳ではないが、今は彼らとも会いたくはなかった。
しかし。
実際には、財布も持たずに飛び出してきたので、少しそれも難しい。帰らないのであれば、誰かを頼るしかない。雨に打たれ一夜を明かす訳にもいかないので、誰にも頼れないのなら、帰るしかない。だが、一体どこへ帰るというのか。叔母へかける迷惑を目の当たりにした今、最早料亭で世話になるのは心苦し過ぎる。
濡れない場所にマウンテンバイクを停め、濡れた服から雨粒を払い落としてから、俺はコンビニの扉を押した。闇雲に何も考えず走っていたが、習慣とは怖いもので、いつの間にか大学近くまで来ている。見覚えのある店員に、俺は自分がどこにいるのかを知った。
意味なく狭い店内をひと回りし、自分と同じ雨宿りか、立ち読みをする客の間に入り込み雑誌を手にする。だが、適当に掴んだそれは、パラパラとページを捲るだけの役割で、内容は頭の中までは届かない。
顔をあげ、すっかり暗くなった外を眺めていると、俺は何故こんなところで時間を潰しているのだろうかと一気に空しくなっていく。料亭に帰るまでは、まさかこんな事になろうとは思ってもいなかった。だが、両親との確執を意識していれば、目を逸らしていなければ、もっと覚悟を決められていれば。こんな結果にはならなかっただろう。少しは実のある会話が出来ただろう。少なくとも、父親を投げ飛ばし逃げ出すような事はしなかったはずだ。
そう、勢いとは言え、父を投げだした後悔が今また足元から這い上がってくる。怒りを押さえられなかった訳ではない。確かに今更ながらに自分を止めようとする父に対し頭に血が上ったのは確かだが、投げ飛ばす行動に出た時は、逆に心は静かだったと思う。どうすれば父を除けられるのか、冷静に考え判断し、動いたように思う。無意識にそんな暴力を振るってしまった自分に、反吐が出そうだ。
子供の頃から、兄と共に色んな武術を齧ってきた。しかし、一度として素人相手に本気でそれを向けた事はない。友人達とのふざけ合いの中で技をかける時も、行き過ぎないようにセーブしていたし、そもそも我を忘れるような事態になる事などなかった。そう。何をどう言おうと、父に対して行ったものは「暴力」でしかないのだ。
そこまで自分を陥らせた父が悪いのか。――否、違う。
暴力は、奮う方が絶対悪いのだ。大した事には至らないものでも、それはただ結果であり、己の落度が消える訳ではない。まして、理由など、この場合関係すらない。言い訳にしかすぎないものだ。
手にしていた雑誌を元の場所に戻し、俺は深い溜息を落とす。ラックに並ぶ週刊誌の表紙から、巨乳タレントが俺を小バカにしているかのように笑いかけてくる。安っぽい笑顔だ。だが、今の俺にはそんな表情さえ作れない。口角を上げればきっと、泣き顔のようになるだろう。表情を消すだけで精一杯だ。
遣る瀬無い。
父に対しての怒りも、母に対しての憤りも、消えてはいない。だが、自分が何に怒るべきなのか、その資格が果たしてあるのか、判らなくなる。両親に対し大きな口を叩ける程、俺は本当に彼らよりも何かを理解しているのだろうか。怪しいものだ。
落ち着き考えてみれば、父は俺が思った以上に俺の状況をわかっていた。この気持ちにも行動にも納得はしていなかったが、ある程度の状態はきちんと認識していた。そんな父にすれば、今の俺は確かに甘えているだけだと言いたくもなるだろう。
そう。事実、俺は根本的には何も変わっていないのだ。一年前からとも、もっと幼い頃からとも、全く変わってはいない。今こうして両親に反抗してはいるが、結局はそれも楽な方へと逃げているだけにすぎないのかもしれない。家を飛び出し、大学に入りはしたが、今の目標にどれだけの夢や希望があるのか。自分自身でも、わからない。
だが、それでも、もう医者になるのもその勉強をするのも、俺の中にはない。これだけは、はっきりと言える。父の言葉がどんなに的を射ていても、だからといって彼に従う気はないし、従う事も出来ない。医者の道を断念したのは、父との確執ではなく、俺自身の問題なのだ。
基本的に、俺は人間を治すという事に関心が持てなかった。卓上の学問であるのなら、関心は薄くとも極められたかもしれない。だが、実際に自分と同じ人間を俺が診るという事が、生理的に受け付けられなかった。自分の温い意志と、実際に立つ立場との差に、俺はついていけなかった。ただの実習生ではあったが、患者と接するのは苦痛でしかなかった。
そういえば、そんなあの頃も。俺は何をやっているんだろうかと、窓の外ばかり見ていたなと、夜鏡になったガラスに映る自分の顔に昔を思い出す。病院の屋上に上がり、空ばかりを見ていたのは、医者とは何だろうかと考えていた頃だ。実際には、ストレスで潰れながらも動き回っていたのだからそんな時間は少なかったが、薄く曇る都会の空ばかりを覚えている。逆に病院や大学の事は、今は霞がかかった向こうにあるかのように朧だ。大学を辞めると決心し行動に移すまで、俺は大学でも病院でも、バイト中でも外ばかり見ていた。あれも一種の現実逃避だったのだろう。
本当に自分は全然変わっていないよなと、はあぁっと深い溜息を落とした途端、それに反応するかのように俺の尻から派手な音が上がった。客の少ない静かな店内で受けるのは憚られると、反射的に音の発信源を取り出しながら俺は出入り口へと向かう。ガラス戸を押し開けながら確認した携帯電話の画面には、11桁の数字が並んでいた。知らない番号だ。
一瞬、留守番電話に繋ごうかと考えたが、長く鳴るそれに通話を受ける事にする。間違いか迷惑電話かもしれないが、今は気が紛れるのならばそれでも良かった。
だが、しかし。
「もしもし…?」
『……俺だ』
聞こえて来た声に、俺は驚くよりも天を仰いだ。何てタイミングで掛けてくるのだろうか、この男は。よりにもよって、今なのかよオイ。
「……俺って、誰だよ」
溜息を飲み込み、変わりに落としてやった悪態に、相手は律義に応える。水木だ、と。
「…………」
…ンな事は、知っている。真面目に答えられれば、こちらが困るだけだというのに、…何て奴だ。
これは最悪な展開なのかと考えながら、雨を避ける為、ゴミ箱の横に並ぶ様に立ち俺はガラスに凭れた。シトシトと降り続く雨の中では、何もせず突っ立っていると直ぐに寒気を覚えそうだ。それでなくとも、自転車で走って来たので既にもう濡れている。だが、流石にヤクザとの会話を人中でする事は躊躇われるので、店内に戻る事も出来ない。
これで風邪を引いたら、馬鹿だよな。そんな事を考えつつ、何となくだがまた見上げてしまった空は真っ黒で、落ちてくる雨が白いのを頭の隅で不思議に思う。雨粒がコンビニの明かりで反射しているだけなのに、不思議がる自分を呆れる自分が別にいて、どこか遠くで笑っていた。軽く頭を振るが、そいつらは消える事はない。
喩えるならば、防音のガラスケースが頭の中にあり、その箱の中で自分ではない自分が騒いでいるような感覚が付き纏う。微妙な不快感、焦燥感。そして、喪失感。
携帯電話で繋がっている通話相手など、どうでもいいような気分になる。
『……千束大和』
だが、俺は気にもしなかったその十数秒の沈黙を、水木は意識したのだろうか。無愛想というよりも、硬い声音で名前を呼んできた。それが俺を気遣うもののように聞こえたのは、多分きっと、携帯の電波のせいだ。男が今の俺の状態を知っている訳がないのだから、気にする理由がない。
しかし。それでもやはり、耳の奥に残る水木の声は先日とは違うように思えた。こんな時に限って、なんて性質が悪いのだろうか。本当に、厄介な、嫌な男だ。
「……俺は、中国人じゃない。フルネームで呼ぶな」
俺の口から出てきたのは、やけくそ気味な発言だった。だが、実際には心はやけに静かで落ち着いていた。相手はあの水木ではあるが、目の前に姿がないお陰か、別段苛立ちもしない。敵対心も浮かばない。不思議な程に、心は凪いでいる。
だから、耳に入り込んで来る声の微かな色に気付けたのだろうかと考え、俺は見えないのを良い事に口角をあげた。ただその姿がないだけでこんなにも印象が変わるとは、何だか笑える。実は見掛け倒しなヤクザなのかもしれないなと、浮かんだ自分の発想に、俺は密かに笑った。この澄ました男前が本当に中身を伴わないハリボテ人間ならば、なんて愉快な事だろう。そのネタだけで一週間くらい笑っていられそうだ。
だが、それならそれでそんな奴に振り回されたのかと思うと、全くもって冗談じゃないぞと面白くない気持ちも浮かぶ。この男のせいで被った害は、笑えるような軽いものではない。この悩んだ一週間を返して欲しいくらいだ。
『……どうした?』
「…別に、どうもしないよ。……ただ、この前言った事が本当ならば、名前で呼べよと思っただけ」
『呼んでいいのか…?』
仕返しのつもりでふざけて放った言葉は、あろう事か相手に真面目にとられてしまい、予期せぬ方向に転がる。オイここは何を言っているんだと呆れるか、お得意の沈黙を作るところだろう。
何故、こうなるんだ…。
『呼ばれたいのか?』
俺の驚きを他所に、水木がそうたたみ掛けてくる。冗談じゃないと、そう思う。
だが。
「…何言ってンだよ。あんたみたいな男に呼ばれても、全然嬉しくない。――だけど…」
だからこそ今は呼んで欲しいのかもしれないと、その意味を考えるよりも早く小さく呟いた俺の声は、一体どこまで水木の耳に届いただろうか。続いていく沈黙に、どんどんと俺の不安が増していく。イカレている水木にならば何をどう思われてもいいはずなのに、曝け出してしまった自分の幼稚さに目眩さえ覚えた。自虐的だ。それも、見せる相手を確実に間違えている。
堪らずに、俺は雨に濡れないよう気をつけながら、その場にしゃがみ込んだ。穴があったら入りたい心境だ。もしも水木がこの場に居たのなら、迷わず俺は横のゴミ箱に入り込み身を隠しただろう。それが意味のない行動で、直ぐにそこから引きずり出されると判っていても、絶対にやった筈だ。
それくらいに、恥しい。いや、恥ずかしいというか、ただただ苦痛だ。
『……何か、あったのか?』
「……」
もしも水木に、1ミリグラムに満たないものでも、優しさと言うのがあるのならば。頼むから通話を切って欲しい。電話を掛けられ受けた俺から切るのは難しいから、お願いだ。ピッとボタンをひとつ押してくれ。
そう願うが、水木はただ俺の言葉を待つだけで、動く気配はない。
堪らない。俺にどうしろというのだ、畜生!
「…………ゴメン…じゃない…、済みません」
冗談ですと続けかけたが、どうかしたのかとの声で遮られる。今の俺の状態では、水木のそれは心配をしているからのものでも状況判断をする為のものでもなく、ただの嫌がらせのようにしか思えない。
「別に、何もないデス。ただ……」
あんたのタイミングが悪すぎるのだと続け掛けた、八つ当たりがバレてしまうだろう言葉を何とか飲み込み口を噤むと、続きを促すように水木は俺を呼んだ。
『ヤマト』
口に馴染まない言葉のような音に、思わず笑いが落ちる。血の繋がりがないのならば似ているはずがないのに、リュウが自分を呼びかける声を俺は何故か思い出した。舌足らずではないが、どこか同じ響きを持っているように感じる。何だか変だ、可笑しい。
心に余裕が生まれたのだろうか、呼ぶのならばかっこ良く決めれば良いものをとまで俺は思ってしまった。別にキメられても、痺れて転ぶ事はあり得はしないが、まるで肩透かしをくらった様な気分だ。こんな場面でハズすとは、なんて面白い男なのだろう。ダサいオヤジでしかない。
「別に、ホント、何でもないよ。ただ、金がないだけ」
『幾らいる』
「…何、即答してンですか」
金欠が身に染みただけで、本当に気にされるような事はないのだと、正直に言えばただの八つ当たりみたいなものだからと言おうとした俺の目論見は、掠りもせず見事に外れた。
『用意する、幾らだ』
……こんな仕打ちを受けるほど、軽はずみな発言をしたつもりはないのだが。
「……あんた、やっぱり頭おかしいよ」
俺は一言も、欲しいとも必要だとも、まして貸してやくれとも言ってはいないのに。こんなところだけ変に頭が冴えていると言うのか、まるで張り切った感じの男の発言に、俺は溜息を落とす。
「ヤクザにお金を借りるだなんて、そんな怖い事、出来ません」
『別に何も要求はしない』
「…………え?」
さらりと聞き流しかけ、水木が言わんとする意味が別にあるのかもしれない事に気付き、顔が引きつった。無理やり貸し付け、法外な利息を強請るのがヤクザというものならば。それを盾に、無茶な関係を迫るのかもしれないという事だ。だが、何故あえて、俺は全然気付いていなかったのにそんなものを示してくるのか。最低だ。馬鹿だ。今は否定したとしても、その後は何が起こるかわからないのに、信じろとでも言いたいのか。意味不明だ。
「……何考えているの、あんた。…何をする気だ?」
『警戒するな。俺はしないと言ったら、しない』
「……」
だから、ヤクザのそれを信じろと言うのかよ?馬鹿らしい。だが、話をそちらに転がしたくはないので、俺はそうかよと適当に頷いておいた。水木の言葉の信用度について語り合っても、きっと平行線を辿るばかりで、答えには行き着けはしないだろう。時間をかけるだけ無駄だ。意味がない。
「…っていうか、根本的にさ。俺は誰かに金を借りる程も困ってはいないし、馬鹿でもないから」
『貸すんじゃない、やるんだ』
「……要りません。それより、あんた、俺の話を聞いてる?」
何を俺はこんなところに座り込み、ヤクザと噛みあわない会話をしているのだろうか。それを考えると、どっと疲れが押し寄せてきた。だが、それは相手も同じなのだろう。水木も、どこかうんざりした声で、溜息交じりに言う。
『お前こそ、聞いているのか。金がないと言い出したのは、そっちだろう』
「……確かにそうだけど…」
続けるはずの言葉を言わせなかったのはあんただろうと、俺は負けじと溜息を落とす。やるだなんて言い出したのもあんただろうと、呆れるながら頭を振る。水木とは、会話がスムーズに成り立つ事はないのだろうか。凄く遠回りをして、のぼらなくてもいい坂道をあがっている気分だ。必要以上に疲れる。
ひとつずつ解決していくしかないのだろうが、最早その気力は俺にはありそうになかった。いつからなのか、それとも始めからなのか。縺れた話に顔を顰めながら、それでもこの誤解だけは取り払わなくてはと俺は口を開く。本当に、何の話をしているのだろうか俺達は…。
「実は俺、財布を家に忘れたまま出かけちゃったの。それで、一円もお金を持っていないと予想以上に心細くなるものだなと、ただそう思っただけで…。……たかる気なんてホント全然ないんだよ…?」
理解出来る?と言ったような微妙な疑問形にしてしまったのは、無意識だ。だが、言ったそばから、ヤクザ男相手にちょっとコレはないかなと気付く。だが、もう言ってしまったのは遅い。
「ああ……、誤解を招く発言をして、済みませんでした」
決してこう言う展開になったのは、俺の言葉が足りなかっただけではないのだがと思いつつも、とりあえず無難に謝っておく。勿論、だからもう馬鹿な会話は止めてくれと、念を押す意味も込めて、だ。
確かに、金はない。だが、それは自分が欲しいものに手をのばしている状態だからだ。生活に困っている訳ではない。やりたい事をやっての金欠は、貧しさとは言わないだろう。そんな俺が、今よりもっと楽になりたいからと誰かに金を借りるのは、甘えでしかない。遣り繰りが無理ならば大学を辞めるべきなのであり、ヤクザに援助されるなど以ての外だ。
そう。焦っている俺自身でもそれをわかっているのに、何故この男はわからないのか。それとも、わざと誘惑するように突いてきているのだろうか。部屋の次は金とは、性質が悪い。悪すぎる。
今更ながらに水木の発言の異様さに、俺は言葉を飲み込んだ。
「……」
『……』
通話の向こうからも同じく沈黙が流れてくる。気分転換を望んだとは言え、本当におかしな展開だ。何故に俺の財布の中身が原因で揉めているのか、実に馬鹿らしい。三十路を過ぎたヤクザと二十歳の学生が交す内容としては、ある意味ギャグだ。マンガの中でも起こらないだろう、展開だ。ここまでくれば、逆に笑えもしない。
流石に、俺との訳のわからない会話に飽きたのかもしれない。水木の沈黙をそう解釈し、いい加減潮時だろうと、俺は口を開く。
「あの、」
『何処に居る』
「はあ?」
とりあえず、俺の気分に付き合わせた事への謝罪を言い、通話を切ろう。そう考え声を出したところに、水木の声が響いた。それが俺の居場所を尋ねる言葉だと気付いても、問われる理由まではわからない。
「えっ?何処って…ナニ?聞いてどうするの?」
『行く』
「何で…?仕事してるんだろう、来なくていいよ」
と、言うよりも。水木が来たら、俺はマジでゴミ箱に隠れなければならなくなる。頼むから、絶対来ないでくれ。
丁度その時、タイミング良く駐車場に入ってきた車に、俺はまさか?とビクリと体を震わせた。だが、ライトを消した車がピンクのミニバンであるのに気付き、ほっと息を吐く。小走りに店内へと入っていく若い女性を目の端で追いかける俺の耳を、何処だと水木の問いかけが通り抜ける。
勝手に誤解し驚いたのは俺だが、それでも原因は間違いなくこの男であり、ムカツキはそこへと向かう。
「…教えない」
『何処に居る』
「……嘘つくよ、俺」
しつこい男に、少し硬い声で牽制をかける。だが、悔しいというか何というか、相手の方が一枚上手だった。
『それでもいい』
「……」
いや、全然良くないだろう。嘘だと宣言してあげた場所に、それでも行くつもりなのか。それとも、そこだけ外し探すのか。聞いたからといって、どうにもならないだろうに、よく吐かす。無口だと思ったが、案外口のまわる奴なのかもしれない。
そう思いながらも、馬鹿な話だが、何だか俺は少し口説かれているような気分になった。ふざけていると思うのに、それでもちょっとだけドキリとしてしまう。それでもいい、だなんて、言っている事は間抜けなのに何故かきまっている。
何て無駄に色香を振りまく男なのだろうか。声にまで艶を乗せないで欲しい。こんな餓鬼相手に、よくやる。……いや、決して水木はそう言うつもりではないのだろう。コレが、素だと考える方が自然だ。と、言う事は。無意識で意味のない色気に靡きかけたのか、俺は…? ――ああ、ヤだヤだ。男前など相手にするものではない。
「…やっぱりバカだ、あんた。何がいいんだよ。適当な事ばっかり言って」
『教えろ、何処だ』
「…加えて、しつこい」
『……』
低い声を落とすと、言葉を飲み込む音が聞こえた。何故だかそれで、俺の胸につかえていた苛立ちスッとすく。思いがけず水木を黙らせる事が出来たせいで、気分が跳ね上がる。
俺と言う人間は、学習能力がないのだろうか。
この生まれたタイミングで通話を切れば良いのに、溜飲が下がると同時に好奇心が疼いた。気付けば、余計な事をまた口にしている自分がいる。
「っでさ、多分……お人好し?っていうか物好き? 俺のところに来てどうするの?」
水木のこの手の理由は知らない方が良い類のものだと、一週間前に経験を持って認識している筈なのに。失念をしたのか、何なのか。馬鹿みたいにも、俺はそこに興味が向いてしまった。仕事をしているのだろう男が、家出学生を探してどうするというのか。単純に、気になる。
「なあ、どうして?」
『…別に、何もしない』
「なら、来る意味がないだろう」
『……顔が、見たい』
「あんたと違って、俺の顔は普通だよ。態々見に来る程、珍しいものでもないと思うけど?」
『……お前、態とか?』
「何が?」
『……』
「俺の顔って、見たくなるほど面白いの?もしかして、あのアイドルのファン?でも、戸川さんが言う程も似ていないだろう?」
『……そうじゃない。顔から離れろ』
「なら、何?」
そう訊ねつつ、どういう場合に顔が見たくなるだろうかと逆に考え、不安になった時かと気付く。この男の場合は不安と言うのとは少し違うのだろうが、似たようなものなのだろう、多分。
「ああ、もしかして。俺、心配させた?」
だったらゴメン。でも、全然大丈夫なんだけど。
素直に謝るが、確かに金欠発言は浅はかだったがそんなにも心配する程のものでもないだろうと、もう一度否定しておく。その俺の言葉が終わると同時に、水木が溜息を落とした。
顔を見なくともわかる、呆れの色が濃いものだ。心配させた訳ではないのかと、反省して損をしたと、俺は唇を尖らせる。何なのだ、一体。コン畜生…。
「何だよ、違うのかよ」
『…心配して欲しいのか?』
「ち、違う…ッ!そんな事、全然言っていないだろう!」
どうしてコイツは、人の神経を逆撫でする嫌味を、こうも簡単に投げ付けて来るのか。喧嘩をしているわけではないのだから、たとえ思っていたとしても口にはするな、セーブしろ。それくらいわかる歳だろう。ガキか、クソッ!
「兎に角!俺は来なくていいと言ってンの。わかった?」
『俺は、行くと言っている』
「何だよそれ。あんた、実はかなり暇なの?」
『……』
その沈黙が、面白くない事に水木の状況を教えてきた。通話口の男が黙ったせいで、離れた場所の音を拾ったのだろう。水木の名を呼び急かす男の声が、はっきりと俺にも届いた。
「――何だ、やっぱり仕事じゃん…」
『……』
「呼ばれているんだろう。俺なんかを構っていていいのかよ」
『……』
「……」
勝手なものだ。
水木が仕事の途中なのだと、だから実際には口では何を言おうが此処には来れないのだとわかった途端、俺の中にマイナスの感情が浮かんだ。逃げる事まで考えていたのに、やっては来ないのだとわかると、腹が立つ。これでは自己中な餓鬼だ。そう思いつつ、それでも、心が澱む。
だから。
「アンタ、今夜、あの部屋に帰る?」
思い付いた嫌がらせを、迷う事なく俺は口にした。
だが、言葉を繋いでいくうちに、これは嫌がらせではないなと気付く。
「ソファなんて贅沢は言わない。床でいいから、一晩泊めて欲しい。金がないし、行くところがないんだ俺」
明らかに、来られない事をわかっていてのからかいではなく、絶対来いよという甘え腐った我儘だった。だが、それがわかっても、自分の動く口を俺は止められない。水木も、止めない。止めてはくれない。
「親と喧嘩して、財布も持たずに家を飛び出す…だなんて、餓鬼過ぎる?でも、俺はまだ充分餓鬼だと思うから、大目にみてよ。それともあんたは、帰れと説教する?なぁ?」
『……』
「……」
甘えるなと、ふざけるなと言って欲しかった。何故、自分がお前の家出に協力せねばならないのだと、拒絶して欲しかった。
だが、水木は何も言わない。何かを考えているのか、呆れ果てているのか、沈黙を作る。今はきっと、あの不機嫌そうな顔をして、その実困っているのだろう。こんなウザい電話をヤクザの癖に切らないのが、その良い証拠だ。そう考え、非難されたくて言った俺の情けない言葉だけが無様に宙を漂っているのに気付き、虚しくなった。
本当に、俺は何をしているのだろう。何を言っているのだろう。
自分でも、わからない。
「…………なんて、ね。嘘だよウソ、…冗談」
情けなくも、その空気に耐えられず先に根を上げたのは、仕掛けた筈の俺だった。
「もしかして、本気にした? ハハ、ヤクザが学生に騙されてどうするんだよ、笑えるね」
『笑いたければ、笑え』
「……」
『それよりも、道は覚えているんだな?』
「な、に…?」
『来い』
一瞬、言われた意味がわからなかった。からかった仕返しに、俺には理解不能な話に転換させられたのかと本気で思った。怒っているのかと電波の向こうに居る水木の様子を窺い、そうではないのを察すると同時に、来いと言われたのがあのマンションへである事に気付く。
まさか、冗談だろう?
「……だから、嘘だって」
『居場所を言わないのなら、お前が来い』
「……何で、そうなるんだよ。嘘だって言っているだろう」
『何でもいい、会えるのなら』
「……良くないよ」
俺は全然良くはない。そう呟くと、何故だろうか、小さな笑いを落とされた。鼻で笑うと言うのではなく、満足げに喉を鳴らしたかのような笑いだ。何だか一気に、水木との歳の差を示された気がした。
まるで、歳の離れた我儘な弟を、それでも世話をやく兄のようだ。
『俺は会いたい、理由はそれで充分だろう。来い』
「……何が、何処が、充分なんだよ。…俺は、行かない」
『大和』
名を、呼ばれた。絶妙のタイミングで。
『来い、大和』
「…………」
頭が痺れるようなその声の余韻を最後まで聞き、俺は無言で通話を切り、そのまま携帯の電源を落とした。手の中で握り締めたそれは、長く使用したせいで熱くなっている。
だが、きっと。
今は俺の顔の方が熱いのだろう。鏡を見て確認せずとも、頬が火照っているのが良くわかった。
雨はまだ暫く降り続くのだろう。この中に飛び出しこの熱を下げるのも悪くはないのかもしれない。馬鹿みたいなことを考えたが、実際には立ち上がれず、逆に俺は地面に尻をつけ座り込んだ。尻が汚れるのなど、この際どうでも良い。些細な事だ。
耳の中で、男の声が木霊する。
一度目とは違い、あの無意味に色気のある声で水木は俺の名を呼んだ。今の友人達は同期と言っても年齢差がある上、まだ二ヶ月程の付き合いなのでそうでもないが、名字よりも呼び易いので昔から下の名で呼ばれる事の方が圧倒的に多い。だから、その呼びかけは、俺にとっては珍しくも何ともない筈なのだ。それなのに。
何故胸が絞まる気がしたのか。変だ。可笑しい。
水木が特別ではないのに。
そう考え、俺にとってはそうでも、相手はどうかと視点が転がる。もしかして、水木にとっては、特別なのだろうか…?
あの男は、俺に惚れているのだと確かに言った。あれから一週間。俺は断り終わったつもりだが、水木はどう処理したのだろうか。終わっていないのだろうか。継続中何て事はありえるのだろうか。
今になって、彼が何の為に電話をかけてきたのか、聞きもしなかった事に俺は気付く。自分の事ばかりで、俺は今の今までそれを思い付きもしなかった。
一体、何の用があって電話を掛けてきたのか。今更、折り返し電話を掛けるなど、流石に無理だろう。だが。
「……」
立ち上がり、俺はマウンテンバイクを置いた店の横にまわる。鍵を外し、サドルに跨がったのは、今この瞬間しか出来ない行動だろう。一瞬でも躊躇えば、動けない気がして、急かされるようにペダルを踏む。
意外に大きな雨粒が、俺の顔を、体を濡らした。
踏み出す一歩は、いつだって重いものだ。今が特別な訳じゃない。一歩が出れば、また次の一歩が出る。ひと漕ぎひと漕ぎ進めば、俺は何処へだって辿り着けるはずだ。
心がそれに追い付くことを信じて、俺はあのマンションに向かう事にした。
水木に会う為でも、彼に顔を見せる為でも、電話の用件を聞く為でもない。
ただ。
ただ、確かめたくなったから行くのだ。
仕事が忙しい彼が、本当にあのマンションに来るのかどうかを。
来いと俺を呼んだ、その真実を知る為に。
2005/11/24