11


 俺は馬鹿だ。こんな事、馬鹿げている。
 そうわかり迷いながらも止める事は出来ず、本当に水木のマンションまで来てしまった俺は、入口の少し手前で足を止めバイクから降りた。一度来ただけだというのに、きちんと道を覚えていた自分自身に少し呆れつつ、そそり建つ建物を眺める。自分勝手な苦しい言い訳で進めるのは、流石にここまでが限界だ。これ以上は、勢いで突っ込む訳にはいかない。
 水木の部屋がどれなのか。地上から探すのは無理であったが、それでも最上階に近い場所を見上げ、あの男は居るだろうかと俺は未練たらしく考える。携帯電話の電源を落としたので正確にはわからないが、俺の感覚が正しければ、あれからまだ半時間程しか経っていないはずだ。水木が既に帰っている可能性は、極めて低い。居る方がどうかしている。だが。
 普通に走れば半分の時間で到着していただろう距離を、雨に濡れながらもそれでもゆっくりと進んで来たのは、不安だったからでも言い訳を考えていたからでもない。ただ、あんな電話で図々しいとは思うが、水木が本当に部屋に居れば良いと心の底からそう思ったからだ。仕事をしていた彼が、冗談だと言った俺の言葉をそれでも信じて早々に帰っていれば良いと思ったからこそ、狡賢く出来る限りの時間をかけたのだ。
 けれど、時間だけが問題ではないのだとわかっていてのその悪足掻きは、こうしてここに辿り着いてみれば空しいだけで…。絶対に居ないのだとわかっているからこそ、俺はここまで来る事が出来たのだとも思うと、遣り切れなさが増してくる。居て欲しい。だが、会いたい訳ではない。矛盾していると言うよりも、ただの我儘でしかない思いは、自分という人間を疑わずにはいられなくする。
 しかし、そんな後悔以上に。多分、ここまで来た自分に、俺は一番怯んでいるのだろう。猛進ぶりを発揮した自分にではなく、問題とは関係のない水木に、こんな事を望んでいる自分にだ。自分は大抵の事は冷静に判断出来る性格だと思っていたのに、最近それが破綻しているような気がする。このまま俺はどう変わるのだろうかと思うと、怖くさえある。
 父のレールに乗っていた時が一番、賢かったように思う。少なくとも、愚かではなかっただろう。そこから外れた俺という人間は、こんな風に何をするかわからない、ただの餓鬼でしかない。今になって漸くその事実は、自分自身に怯えるには充分の理由を持っていた。何事もそつなくこなせる方だと思っていたが、それは植え付けられた知識でしかなく、俺自身に能力などないのかもしれない。
 すっかりずぶ濡れになった身でも、落ちてくる雨は体を打つ。その感触が、胸まで響くような気がした。
 自ら我儘を言っておきながら、今更これか。何て勝手な奴なのかと、俺は顔を上げたまま目を閉じ自分を詰る。一体、俺は何をしたいのだろう。何を考えているのだろう。自分で自分がわからない。何を望み、何を水木に求めたのか。それが何故水木なのか。何ひとつ、わからない。
 ただひとつ言えるのは、俺はどんどん馬鹿になっていっていると言う事だ。
 俺は――。
「――何をやっている」
 不意に、声と同時にガシリと頭を掴まれた。
「ッ!!」
 物思いに耽っていた俺は、まさに口から心臓が飛び出るのではないかと思うくらいに、心底驚く。だが、唐突に人の頭を襲った無礼な相手は冷静な判断を下し、呆れたような笑うような声で言った。
「濡れ鼠だな」
「み、水木さん…ッ!?」
 今度は、相手誰であるのかがわかったからこその驚きが俺を襲う。ビクリと大きく震えた俺の体を、水木が横に並ぶ事で支えにきた。微かに左の肩に触れる厚い胸には、きちんと結ばれたネクタイが垂れている。呆然とそれをつたい間近にある整った顔を見上げると、覗き込むように目を合わされた。軽く頭を掻き回されながら、本当に水木なのだと実感する。
「…………」
 気配なく近付き驚かされた苛立ちは、一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。迎えられた気まずさに、俺は言葉をなくす。帰っていた事も驚きだが、まさか、ここにまで水木が迎えに出て来るとは思いもしなかった。部屋に居るか、居ないのか。それを確かめるだけで良かった俺は、会う事など考えていなかった。
 間抜けにも、どうすればいいのか、どんな対応をとれば良いのか…わからない。
「どこから濡れて来たんだ」
「……」
「やはり向かえに行けば良かったな」
「……」
 無言の俺を宥めるように、少し強くグシャグシャと俺の髪を掻き回した水木が、漸く手を離し促す。
「行くぞ」
「あ、あの、俺…」
「話は中に入ってからだ」
「……」
 そう言われ、初めて水木も傘をさしていない事に気付いた。一体、いつから俺が来るのを気にして待っていたのだろうか。まさか、外で見張っていたのではないだろうな。いくら住人とはいえ、玄関前で人がうろついているのはどうだろうかなマンションだ。職業を考えてもそれはちょっとマズイのだろうと思いつつも、このタイミングなら水木はそれを実行していたのかもしれないと考える方が自然で、俺は眉を寄せる。あんな言葉を間に受け、実際に来るかどうかわからない相手を待つだなんて、おかしい以外にないだろう。幾らなんでもそこまでする理由が、俺には全く見えない。
 暗闇の中では濡れ具合はわからない水木のスーツを上から下へと眺め、視線を戻す。作り物の如く完璧な顔に都会の汚れた雨が落ちるのを見ながら、俺は手の中のハンドルを強く握った。
 会うつもりは、本当になかったのだ。ただ、多分俺は何かを信じ求めてみたかっただけなのだ。それがこの男、水木であったのは偶々だ。この嫌味な男ならば多少の我儘はいいさと、勝手な事を考えたのも確かだろう。だが、こんな風に迷惑をかける事になるとは、微塵も考えていなかった。
 だから。
「……ァ」
 水木は仕事を放って来たのだと理解した途端、居た堪れなさに俺は消えて無くなりたいと本気で思った。この雨に溶ける事が出来るのならば、今の自分は迷わずそれを選ぶだろう。自分がしでかしてしまった事の大きさに、体が震えそうになる。考えていなかったでは通用しない失態だ、傲慢さだ。やはり、こんな俺などさっさとゴミ箱に捨て入れておけば良かった。
 自棄を言った自覚がある分、側の男を見続ける事は俺には無理だった。先程強気に出る事が出来たのは、顔が見えない電話だったからこそなのだろう。姿を前にしては、焦りしか浮かばない。己の失言に覚えがあるからか、先日のような対抗意識さえ沸いてはこない。
 まさに今の俺は、後ろ足の間に尻尾を隠した犬だ。
 怖い。怖くて仕方がない。水木がと言うのではなく、自分の愚かさと今の状況に、先程以上の恐れを感じる。このままでは、俺は自分で自分をどこかに落とし込めてしまいそうだ。
「…俺、あの……濡れているし…帰ります」
「何処へ帰る?」
「……」
「そのままだと、風邪をひく」
「…大丈夫で――わっ!」
 自分でも説得力がないとわかる言葉に耐えられず俯いた途端、いつの間にか伸びていた手に腕を掴まれ、強く引かれた。バランスを崩したところを捕らえられ、簡単にマウンテンバイクを奪われる。
「水木さんっ!」
 水木が無言で俺から自転車を取りあげ、マンションの入口へと向かった。何なんだと一瞬惚けかけたが、男の意図を察して慌てて追いかける。だが、バイクを停めた水木に再びあっさりと掴まり、俺は見事にエントランスの中へと引き込まれた。
 豪華と言うしかない空間が広がるそこに、人の気配はない。それが俺にとって幸なのか不幸なのかは、わからなかった。ただ、眩しいほどの明るい光に照らされ、情けない格好の自分に泣きたくなる。いい歳をした男が、恥しい。子供の時でさえこんな風に、ずぶ濡れになった事があっただろうか。先日の友人など比ではないくらいに、みすぼらしい。
 濡れたい気分だとは言え、普通はそんな事は実行しないものだろうと、自分の判断不足を呪いたくなった。何て馬鹿な事をしたのか。傘を買う金がないのならば、あのまま大人しく雨宿りをするべきだったのだ。どうしても金が必要ならば、派出所にでも行き、適当な理由で小銭を借りれば良かったのだ。きっとその方が、こんな場所でこんな姿を晒すよりもマシだっただろう。
「……離して、下さい」
「……」
「水木さん…!」
「……」
 俺の意思を無視しエレベーターを呼ぶ水木は、端から応える気はないのか、返事もしなければ腕を握る手の力も緩めない。俺の声が聞こえているのかどうかさえわからなくなる徹底振りだ。二の句が告げない。
 ここは、嫌だ。この明るさにも、空気にも耐えられない。逃げたいと、心から俺は思った。だが、それを実行するだけの覇気が沸いてはこない。何故だと、どうしてこの手を振り解けないのだと俯いた足元に、髪や服から落ちた水滴が散っていた。大理石の床の上で、雨水が光る。
「…床が、」
「気にするな」
 抵抗は無視をするくせに、そんな言葉は耳に入るのか。そう即答した男が、グイッと俺を引き寄せる。
「誰も犯人探しなんてしない」
「…………」
 ふらつき歩み寄ったところを、開いた扉の中に押しやられた。何故俺は、簡単にいいように動かされているのだろうか。抵抗らしい抵抗が出来ない自分を不思議に思うが、それでもやはり何も出来ない。この手を外す事は、多分きっと出来るはずだ。水木に反撃されれば逃げ切る事は難しいだろうが、少なくとも不意を突く形を取れば、一度は自由になれる。
 それくらいに、水木の力は強くはなかった。この男ならば本気になれば腕をへし折るくらいの握力はあるのだろうに、あくまでも捕まえるのに最低限必要な力加減しかない。しっかりと絞められているのはわかるが、痛くもなければ、圧迫感も感じないものだ。だが、その握られた俺の手首はとても熱く、その熱が身体に駆け回るような痺れを生んでいた。
 不思議な感覚だが、不快ではない。けれど、それが俺から抵抗を奪っている。
 しかし、それは俺に当然ながらの戸惑いと、どうしてだろうか落ち着きを与えた。きっと、冷たく拘束をされたのであれば、俺は必死で逃げようとしたのだろう。だが、こんな風に曖昧では、俺もそれに感化され徹しきれない。精神的に相手を押さえる方法を良く知っているのだろうなと、漠然とだが俺は思った。
 父親を投げて動揺している者とは、全く比べ物にならないレベルだ。

「電源、切っただろう」
 水木の肩越しに閉まる扉を見ながら、先程の自分の行動を咎められているのだと気付き、俺は反射的に謝罪を口にした。
「スミマセン…」
「……」
「……済みません」
 再び訪れそうになる沈黙が耐えられず、同じ言葉を口に乗せると、頭の上から溜息が落ちてきた。ただの深い呼吸なのか、それとも俺に対する何らかの感想なのか。その意味を図りかねていると、唐突に腕を解放された。重力に逆らい、俺の右腕が体の横へと戻ってくる。
 水木は体の向きを変え、操作パネルに右半身を触れさせるかのように、横の壁に背中を預けた。軽く片脚を曲げ、腕を組む。そんな男とは違い、俺は丁度空間の中央に位置する場所で立ちつくし、自分自身を持て余す羽目となった。箱は順調に浮上するが、心は急降下を始め、何が何だかわからなくなる。
 逃げ場のないエレベーター内だからこそ解放されたのだろうが、この放置は正直いって拷問に等しい。
 この前は水木に振り回されたのだが、今回は全て俺自身が引き起こした事だ。ふざけるなよと、相手を怒る事は出来ない。俺の話に耳を貸さないのは絶対的にこの男が悪いのだが、あんな電話でやって来た相手を帰し難いと思うのは、ある程度の情を持つ人間ならば当然だろう。ヤクザである水木がそんな親切心を持つのかどうか微妙だが、これは俺がさせているようなものなのかもしれないと考えると、抵抗する言葉すら出てこなくなる。
 ならば、今はもう耐えるのみなのだろうか? 全てが終わるまで…?
 心の中にはそう思う部分が大きかったが、それでも、それは違うだろうと俺は否定を見付け出す。そう、黙っているのはやはり卑怯であるし、何の解決にも繋がらない。それでは父の言葉に抵抗を示す事すらしなかったあの頃と同じだ。今はきちんと理由を話し謝らねば駄目な時だろう。全てが嘘だという訳ではないが、水木にさせているのだろう誤解を解かなければと、俺は口を開いた。
 だが、気持ちが空回りするばかりで、話せる理由など出てはこない。
「あ、あの、俺…俺は……」
 何を言えばいい? 何が言える? 口にする事全てが、ただの言い訳になりそうだ。
「俺は……」
 こうして水木に引きずり込まれた事が、そんなにもショックだったのだろうか? いや、違う。どちらかと言えば、こんな風に動く水木に戸惑っているのだ。動揺しているのだ。
 何故、この男は帰ってきたんだ。ここに居るんだ。
 どうして、俺にこんな事をする。
 俺なんかが風邪をひこうがどうしようが、関係などないだろうに、どういうつもりで部屋なんかに招くのか……。
「……その、」
「少し、落ち着け」
 低い声と共に、フワリと頭に大きな温かい手が乗ってきた。そのままグイッと下向けに力を込められ、俺は自分の爪先を真上から眺める形になる。
「…………」
 これは前にもされたなと、水木の癖なのだろうかと、俺は痺れる頭で思った。先程のように髪を掻き回すのではなくこうして押さえ付ける仕草は、本当に犬や猫の躾のようだ。
 だが、そう感じても、嫌な気は何故だかしない。それ以上に、この姿勢は気力を削ぐのか、手を払いのけようだとかの対抗心がなくなる。例えるなら、見せつけられた相手との力の差にお手上げ状態、と言った感じだ。もう俺に出来る事など、本当は何もないのかもしれない。投げ遣りではなく、本気でそう思えてくる。
「どうした、さっきの勢いは?」
「……さっきは…あの、その、酔っていたから……」
 濡れて色が変わった俺のスニーカーとは違い、水木の黒靴は雨を弾き小さな水滴を乗せ輝いている。高価な品なのだろうかとどうでも良い事を頭の隅で考えながら、俺は詰まりながらもそう呟いた。全く何も意識せずに出た言葉だ。自分でも言った後で、あからさまな言い訳だなとそう思う。
 案の定。直ぐに静かな声が、俺の言葉を否定した。
「酒の匂いはしない」
「……」
「何に酔っていた?」
「いや、あの……勘弁して下さい…」
 モゴモゴと口篭りながら、水木のその指摘に、酔っていたのは自分の不幸にだと気付く。俺は大事に大事に自分のそれを胸に抱き、ひとり酔っていたのだろう。今更、親に何を求めていたと言うのか。突っ撥ねていたつもりが、実際にはあんなにも憤り取り乱す程に、俺はまだ彼らに甘えていたのだ。自分が思い描く優しい言葉が出ない事など、判っていた筈なのに。どこかで自分に歩み寄ってくれる事を望んでいた。
 そう、俺自身が一番。そんな自分の弱く愚かな気持ちを、全くわかっていなかった。期待をしていなければ、ムカツク事などなかったはずだ。失望を感じる事もなかったはずだ。ましてや、何かを求める事なども、絶対になかっただろう。
 最早、自分が打ちひしがれたのは心の面でなのか、それともただ散々な状況自体になのか。よくわからない。何をあんなにも熱くなったのか。二人と離れ落ち着けば、あの怒りにどれだけの中身があったのか、怪しいものだ。殆どの事は初めからわかっていたものであるし、知り得た事はそう悪いものでもなかった。父の考えに従えはしないが、彼が俺をどう判断しているのか知る事が出来たのは良かったとさえ今は思う。そうなれば、ただただ勢いに任せて父親を投げ飛ばしてしまった罪悪感が胸を占めるというもので…。
 俺はまた、流されようとしているのかもしれない。
 暴力を奮った事は、確かに恥ずべき行為だ。しかし、それでも仕方がなかったのだとも思っているというのに後悔ばかりが強くなるのは、その証拠だと思う。また自分は判り易い方向を、進む事が簡単な道を選ぼうとしているのかもしれない。抵抗をするよりも、妥協点を探すべきだと、俺はどこかで早くも考えているのだ。打算的に。父の全てには従えないが、自分が今いるこの道を進むのはもう限界なのだと、俺は音を上げかけているのだろう。
 きっと、疲れた心がこんな考えを持たせているだけなのかもしれないが、これもまた俺であるならば間違ってもいないのだろう。何故なら、人は常に精力的ではいられないのだから、元気な時に選ぶ道を進めば直ぐにバテるのが目に見えていると言うものだ。ならば、疲れている時に選ぶ道では、苦しさは少ないはず。草臥れている時に、敢えて険しい道を選択する者などそうそういない。誰だって、平坦な歩きやすい道を選ぶだろう。
 そして、それはきっと正しい。間違ってはいない。だったら、そうすればいいだけの事だ。無難な道を、選べばいい。
 無茶苦茶な考えだと、呆れる自分がいる。馬鹿な考えだと、抵抗する自分がいる。それでも、愚かな、この場限りの魅力しかない考えを捨て去る事も出来ない。
 だが、今の俺にはもう根本的に、何かを選ぶ気力などないようだった。これ以上考えたくはないし、何もしたくはない。本気でそう思う。
 そう、ここに来たのは、だからだろう。水木と会う事で、現実から離れたかったのだ。両親の事を、自分の事を考えたくはなかったのだ。何でもいいから、他の事に俺は意識を向けたかった。
 再び父に歯向かい、叔母のところを飛び出しはしたが、この先自分がどうなるのかなど、今は思い描きたくはない。いずれ嫌でも選択は迫られるのだから、せめて今夜だけでも何も考えずにいたい。
 これも甘えた考えなのだろう。俺はそうして甘える事で、両親に求めかけたものを、誤魔化そうとしているだけなのかもしれない。多分、それがどういう事になるのかも考えず、闇雲に手の届くところにあるものを掴もうとしているのだ。まさに、溺れた者が藁をも掴むように。藁など掴んでも、全く意味がないと言うのを知りながら、だ。
 だけど今は、そうさせて欲しいと思う。あと少しはこうして、意味のない馬鹿をしてもいいような気がする。俺が先に相手を掴んだのは確かだが、掴み返してきたのは、そう、水木自身なのだから。
 だが、しかし。偶然電話を掛けて来ただけの水木にそれを強請るのは、これが限界だろう。本気で甘える訳にはいかなければ、俺の中からヤクザという事実が消えさる事もない。冷静さを欠いてはいても、理性は残っているのだろうか。水木に掴まれ続ける事は、俺には出来ない。
 少し落ち着いたのだろうか、やはりこのまま部屋になど行けはしないと意気込み口を開いた俺は、けれども不意に思いついた別の言葉を唇から落とした。
「……電話」
 そう、これを訊き忘れていた。
「何だったんですか?」
 エレベーターの到着と同時に頭から離れる手を感じ、俺は顔をあげ軽く首を傾げる。
「俺ばかり喋ってしまったんだけど……何か言う事があったから、かけてきたんですよね…?」
「……」
 水木は数秒俺の顔を見ていたが、体を起こしエレベーターを降りた。また応えないつもりかと眉を寄せたところを、開いたドアを押さえる手で箱から出るよう促される。俺が動き始めるのを確認してから、水木は背中を見せ歩き出した。このままついて行くべきか、引き返すべきか。どうしようかと迷う俺をわかっているかのようなタイミングで、言葉が落ちる。
「雨が降っていた」
 数歩の距離は、数値にすれば短くとも、会話を交わすには離れすぎていた。この場合、問い掛けた俺が歩み寄らねばならないのだろう。扉を閉めるエレベーターを気にしつつも、俺は水木との距離を縮めた。
「雨って…今の事?」
「傘、忘れただろう」
 なければ不便かもしれないと思い電話をしたのだと短い言葉で伝えて来る男の背中を暫し眺め、俺は耐え切れず苦笑を零す。何を言っているのだろうか、この男は。本気で笑える。
 傘を返す意思がある割には、何とも抜けたものだ。雨が降ってからでは、もう遅いと言うものだろう。必要になる前に返さねば、全く以て意味がない、役に立たない。それなのに、雨を知り電話をしたなど、下手な言い訳のようだ。
 けれども、多分。俺に対しそんな口実など必要ないのだから、この男は本気でその理由で電話をかけて来たのだろう。雨だから傘がなければ不便だろうと、それだけの為に連絡をとってきたのだ。そして、その話をする前に、虫の居所の悪い俺に絡まれ捕まった。なんて、間抜けなのだろうか。これでは、どちらがヤクザなのか判らない。
 だが、そんな人物であるのならば。家出だとかなんだとかではなく、単純に雨が降って困っていると言えば、同じ様に居場所を訊きそこま傘を持ってきてくれたりもしたのだろうか?
 ヤクザ男が学生に忘れ物を届ける――だなんて、馬鹿ばかしい。だけど、だからこそ笑えもする。親切なヤクザなどというのは、カナヅチな水泳選手みたいなもので、普通は有り得ないものだろう。本当に可笑しな男だとしみじみ思いながら、いつの間にか幾分か自分の気持ちが軽くなっている事に俺は気付く。俺もまた単純なものだ。他人の事を馬鹿には出来ない。
 でも、ヤクザを笑うなどそうはない機会だろう。折角なのだから我慢をする事もないさと俺が小さな笑い零すと、振り返った水木は軽く眉を寄せた。訝る顰め面は、漫画の美形キャラのように整った顔だからか、何だか不安げな表情をしているようにも見える。
「傘、まだ持っているんですか?」
「…ああ。車にある」
「代えが利く安物ですよ。別に、気にせず捨ててくれれば良かったのに」
 カードキーを取り出す水木の横顔に軽口を向けると、「だが、お前のものだ」と低い声が返ってきた。カチリと小さな音を立て、ロックが解除される。玄関のドアが開かれる。
「簡単には、捨てられない」
 他人の物を処分する権利は自分にはない。――言葉だけならばそう言う意味だと、それだけのものだと思えただろう。しかし。
 振り返った水木の目は、一般論を口にしただけではない、真剣な強い光を持っていた。吸い込まれそうな眼にたじろぎ、俺は視線を逸らす。
 不意打ちだ、反則だ、卑怯だ。今まで普通だったのに……。
 そう考え、本当に普通なのかと思い返してみる。そうだと意識をしていなかったので気付かなかったが、ギリギリな会話を交わしたように思う。唐突に泊めて欲しいと言った俺を、水木はどう考えたのか。今になって、別の意味も有り得るのかもしれないと、頭が白くなる。
 俺はあくまでも、ただ言葉通りのものだけを望んだ。相手は男だから、当然だろう。けれど、水木は同性に告白する奴だ。もしかしなくても、これは危険なシチュエーションなのだろうか。普通は付き合いを断った男の部屋に、女の子はいかないだろう。それが賢い対処法であるし、礼儀でもある。それなのに。
 俺はその可能性について、何も考えていなかった。そして、今なお考えようとしても、考えきれない。
 何も、告白された事を忘れたわけではない。あの衝撃は、薄れはしたが今もちゃんと覚えている。だが、だからといってそう簡単に男女間の恋愛に当て嵌め考慮する事など出来ない相談だ。どうしてもその想いを友情のようなものと捉え、性的意味合いを忘れてしまうのは、この場合は仕方がない筈だ。俺はそうしてずっと生きてきたのだから、直ぐには変わらない。変えられない。
 しかし、それでも。今この場で馬鹿なのは、間違いなく俺だろう。拒絶をしておいてこれはないだろう。水木は、部屋に住めなどと言って思いを示してきたが、そう特別なものを俺に求めたわけではない。だがそれでも、告白は告白だ。気に入ったものを側に置きたいという子供のような独占欲でも、応える気がないのであれば、当然ながらどんな時でも甘えてはならないのだ。もしも俺自身が気に入った女の子にこんな振る舞いをされたら、フラれたとはいえやはり多少の期待はするだろう。そして、変わらず相手にされないのだとわかったら、好きだとしてもその女の子に呆れると思う。いや、呆れるだけならばまだマシだ。多分俺ならば、からかっているのかと怒るだろう。そうではないとわかっていても、都合よく利用されるのは辛いものだ。
 果たして水木が今なお自分にそんな一歩間違えれば生臭い感情を持っているのかはわからないが、こうして相手をしてくれている事を考えれば、嫌われたわけでも過去のものにされたわけでもないのかもしれない。フラれた仕返しに何かを企んでいるのかと思えなくもないが、仕事を放ってまでそんな事をする程、水木瑛慈と言う男は陰険な性格ではないだろう。どちらかと言えば、そんな事をやりそうなのは戸川さんであり、水木は終わった事には執着しなさそうだ。
 ならば、これはただの水木の親切なのかもしれない。俺の我儘に捕まり相手をせざるを得なくなった訳ではなく、自ら俺を気にかけて動いているのか。だから、こんなところまで連れて来て、面倒をみようとしているのか。放っておけばいい、こんな餓鬼を…?
 水木が今ここにいる理由が見えたような気がして、俺の体は益々固まった。恋愛感情を単純にセックスに結び付け、部屋に上がればそれを了承したとの合図に受け取られるのでは?――などと、経験豊富な男に自宅へ招かれた処女のような馬鹿げた気持ちが多少あったのも、見事どこかへと吹き飛ぶ。告白云々を考えている場合ではない。ましてや、何かをされるなどと警戒している場合でもない。そんな事よりも、自分の行いがいかに最低であるのかを、俺はもっと自覚するべきなだ。
 本当に餓鬼だ、馬鹿だ、嫌な奴だ。己の愚かさに気付いてしまえば、男に謝るべきなのに、顔を戻す事さえ難しい。今すぐ、走って逃げたい気分だ。
 実際に甘えられるのだと、既に自分はもうこの男に甘えているのだと思うと、堪らなくなった。俺が甘えようと思ったのは、水木にではない。自分の行動にだ、弱さにだ。本気で誰かの優しさを求めていたわけではないのだと気付くと、水木の親切が怖くなった。
 俺は本当に何をしているのだろう……。
「入れ」
「……いや、あの……俺、ここまで押しかけてなんですが……部屋には上がれない、です…」
「何故」
「何故って…、こんな格好だし……」
 気にかけてくれてありがとうございます、ですがこれ以上世話にはなれません。そう言わねばと思っているのに、全く言えない。そのもどかしさが、更に俺から言葉を奪う。馬鹿みたいだが、完全にアガってしまっているようだ。水木の声が、やたら頭に響く。
「そんな格好だから、早く上がれと言っている」
「…いえ、帰ります」
「何を怯えているんだ」
「……怯えてなんか、いません」
「なら、その態度は俺に構って欲しいからなのか?」
「…………」
 何を馬鹿な。そんなつもりはない。そう言い返そうと一瞬沸き起こった怒りに顔を上げたが、言葉程も声程もからかってはいない水木の眼にあい、再び俺は俯いた。
 だが。
「お前、童貞じゃないだろう」
 脈略のない質問に、思わず俯き加減のまま、目玉だけを動かし見上げる。胡乱な俺の視線を気にせず、水木は非常識な発言を無表情で繰り返した。
「女を知らないわけじゃないんだろう」
「……」
 何らかの思惑があるかどうかは、兎も角。こうして俺を構う点だけを見ればヤクザらしくはないなと思った矢先の問題発言は、常識がないのが当前なヤクザだからこそのものなのか、それとも生まれながらにしての水木自身の性格が原因なのか、測りかねるものだった。一体どうしたら、こんな人間が出来上がるのか。ある意味、これも神秘なのか。……いや、そんな感動的なものではない。逆だろう。例えるなら、欠陥品だ。
 天は二物を与えないと言うが、水木の場合は例外で、多くのものを与えられている。顔も身体も声までもがそうであるし、権力も財力もそう。しかし、悲しいかな、人として一番大切な頭の中身は、手を抜かれたようだ。どれだけ出来た人物でも、ひとつくらい劣る面がなければ愛嬌がない。だが、この男の場合のそれは凶器のようなものだといえよう。悪辣なほどに、性質が悪い。
「どうなんだ」
 神に肝心な部分を手抜きされたくせに、強気な男が憎らしい。
「……だったらナニ?」
 だがそれでも、あまりにも不躾な質問だからと言って放っておく勇気はなく反応を返すと、水木は徐に俺の頭を叩いた。痛くはなかったが、パシッと上がった音に驚き、俺はビクリと体を震わせてしまう。……畜生。
「処女みたいに警戒するな」
「……」
「生娘を誑かして連れ込んだような気分になる」
「…………どういう意味だよ…」
 自分でも少し考えはしたが、その原因である男に「処女」などと馬鹿にされるのはさすがに我慢出来ない。続けられた言葉も意味がわからず、何の言い掛かりだと俺は頭に乗っていた手を振り払い、水木を睨み付けた。しかし、相手にとっては俺のガンなどどこ吹く風と言った感じだ。気にする事無く、再びふざけた事をぬかす。
「あまり挑発するな」
「……はあ? 挑発って…何だよそれ」
 妙な言い掛かりをつけるな、いつ俺が挑発なんてしたんだ!しかも、アンタ相手に? それはどう考えても、有り得ないだろう。面と向かってヤクザをおちょくる程、俺は粋狂な人間ではない。電話でのからかいは、色んな状況が重なり不運にも生まれた失態だ。好き好んで、二度目をやる類のものではない。
「ふざけた事ばかり――」
「大和」
「……」
 ――言わないでくれと続けようとした言葉は、強くも弱くもない水木の声で消し去られた。口の中で消えたそれが、俺に苦味を教える。
 卑怯だ。この男は、本当に狡い。俺がそう呼ばれるのを早くも苦手としているのを知りつつ、真っ直ぐ名前を口にするのだ。これを卑怯と言わずに何と言う。ただ呼ばれただけで言葉を詰まらせる俺も確かに情けないが、他人に与える影響を知りながらそれを実践する男が恨めしい。
 だけど。
 だけど、何故か。名前で呼ぶなとは言い返せない。自棄気味だったとは言え、自分から示したそれを舌の根も乾かぬうちに訂正するのもどうかと言うものなのだが、拒否出来ない理由はそれではないのだろう。多分。
「中に入ったからといって、お前を喰いはしない」
「……当たり前です」
「目の前にいる濡れ鼠をそのまま放っておくのも、お前の当然か?」
 俺に叩かれた手を気にする事無く、水木は閉まりかけていた扉をその手で大きく開けた。90度の角度で固定されたドアまでもが、俺を中へと誘う道具と化す。
「……」
「手を貸すのは悪い事か?」
「…………」
「俺はお前に風邪をひかせたくはない。このまま雨の中へ戻すなんて事は出来ない。これは可笑しいのか?」
「……いいえ。でも、」
「本気で嫌なら、それなりの抵抗をしろ」
 でも、迷惑はかけられない。そう続けようとした言葉を、どこか笑いを含んだ声に遮られ、同時に腕を掴まれた。
「水木さん…!」
「手を貸すだけだ。安心しろ、手を出す気はない」
「……あ…」
 腕を引かれた。
 強く。けれども、どこか優しく。
 言葉とは違う柔らかさで。
 気付けば、俺はいつの間にか靴を脱ぎ、三和土から上がりこんでいた。玄関を振り返ると、重そうな扉はきちんと閉じられていた。引っ張られるままに水木の後をついて行きながら、今夜はもう何も考えずにいようと、そう思う。ずれているのに気付かず真剣に思い悩むばかりならば、いっそ何も考えない方がいいのかもしれないと。
 そう思えるのは、水木に落とされた言葉があったからこそだろう。その言葉に保障などにないのに、俺は何故か信じてしまっている。結局のところ拘っていたのはそこなのかと、自分自身に呆れずにはいられないが。手を出さないと言われ、相手にはその意思はないのだと知らされ、俺は心の底から安心を覚えている。
 だが、それと同時に少しムカツク思いもムクムクと湧き始めた。
 襲って欲しかったわけでは、絶対にない。だが、勝手なもので。惚れたとあんなにも真剣に言っていた男が、自分の事をもう全くそういう意味で意識していないのだとはっきり示されるのは、少し複雑でもある。
 本当に、俺ばかりがズルズルと引きずり、爆弾発言をかました本人はあっさり決着をつけていたのだ。その何とも言えぬ虚しさと自分の女々しさが、堪らない。振り回された苛立ちが、再び表に出そうだ。
 だが、これでいいのだろう。これが正しい結果なのだろう。
 必死になる恋愛ではなく、ヤクザのただの興味ならば、こんなものなのだ。
 これ以上は俺とて困るのだから、やはり犬に噛まれたのだとでも思っておくに限る。


2005/12/04