12


「待っていろ」
 リビングに辿り着く途中のドアを歩きながら開け、水木は振り返りもせず俺にそう言いおき去って行った。別にカルガモの親子ではないので手を放されてからも着いて行く気はなく、何も考えずに俺は開き掛けのドアを押し開け中を覗く。
「……マジ?」
 何て事はない、脱衣所だ。着替えろか、シャワーを浴びろと言う事なのだろう。ここに通されたその意味はわかる。だが、ここまで面倒を見ようとする水木の頭の中は、やはり謎だ。確かに俺はずぶ濡れだが、タオルを貸してくれるだけで十分であり、風呂を借りる気など全くない。
 一体、どういうつもりだ…?
「突っ立ていずに入れ」
「……な、何で?」
 直ぐに戻って来た水木に反論しかけたが、問答無用で背中を押され中に入れられた。抵抗をする間もなく、実にあっさりと、だ。情けない。
「いや、ちょっと…」
「タオルはそこにある、他のものも適当に使えばいい。着替えは、これで我慢しろ。問題があるのなら、自分で箪笥を漁れ」
 パッケージ入りの下着とスウェットらしきものを棚に置き、水木は浴室への扉を開ける。戸惑い立ち尽くす俺など、眼中にはないかのようだ。冷たくはないが、淡泊な態度がムカツク。よくもまぁ、他人をここまで淡々と扱えるものだ。俺には出来ない。したくもない。
「あの、さ…」
「使い方は判るな?」
「あ、いや、使い方というか、何というか……だからさ、その…」
「判らないのか?」
「…じゃなくって」
 今時、一般的な家庭にある機器で使い方が判らないものなどそうそうないだろう。簡単操作が基本の世の中だ、説明書を見ずとも使える製品でなければ売れない。第一、それでなくとも機械には慣れている学生に、その問いはないだろう。年寄りではないのだから、惚けた事を言わないで欲しい。
 それとも、態と的外れな事をこの男は言っているのだろうか…? もしそうであるのならば、俺も相手にする必要はないのだが。水木の場合は戸川さんと違い、からかわれているのかどうなのかが分かり難く、流すタイミングが計れない。難しい。
「風呂は別に結構ですから、遠慮します」
 根本的に相手の話を聞く気がないのだろうか、自分が赴くままに突き進む水木にそうして振り回されそうになりながらも、はっきりきっぱりと俺はそう口にした。戸惑い躊躇していては、いつまで経っても自分の思うようには進まず、逆にいいようにされてしまうのがオチだ。言える隙間を見つけたのならば言うべきだろうと、意気込み言いきった俺に、洗面台の上の扉に手を掛けたままの水木がやっと視線を向けてきた。しかし、これまた見下ろすという形なのがこの男らしく、腹立たしい。
 惚れたと言ってきた時のような真摯なのも困るが、こういう中途半端なのも困る。ヤクザならばヤクザらしく、絶対的な恐怖と敵対心を与え続けてくれればこちらとしても楽なのに、何とも微妙だ。ヤクザなのか、ただの自己中心的な傲慢オヤジなのか、はっきりして欲しい。
「そのまま寝たら、風邪をひく」
 それはそうだろう、当たり前だ。ついでに言えば、風邪を引く前に寝床が濡れる。普通、そんなところでは、眠りになどつけないものだろう。よって、そんな指摘は全く以て必要ない。
「俺、寝るつもりはありませんから」
「何?」
 新しい歯ブラシを片手に眉を寄せる男前。たとえ大根でも、役者として十分売れるだろう顔立ちだ。モデルならば、直ぐにトップに立つだろうか。そんな男が、スーツ姿で歯ブラシを握り、顰め面。多分きっと、俺がどれだけ長く生きようと、二度と見る事はないだろう光景だ。脱衣所でもこうも格好がつくとは、何だか笑える以上に疲れを覚える。持つ物がたとえ殺虫剤であっても蠅叩きであっても、この男にかかればかっこいいアイテムに変わるのだろう。何とも馬鹿げた事実だ。
「どういう事だ」
「だから、さっきの電話での話は、ちょっとした冗談です。真剣に捉えないで下さい」
「冗談でも、口にした限りは責任を取れ」
「…………」
 こんな男に引っ掛かる奴はどいつもこいつも馬鹿だよなと、溜息混じりに吐いた言葉に、予想外のツッコミが返された。何故そこまでの責任を求められねばならないのかとムカついたが、考えなしに口にしたのは確かに自分なので、声を荒げる事は流石に出来ない。今は、ヤクザを…というか、この性質の悪い男をからかった俺が愚かだったのだと思うしかないのだろう。
 しかし、だからと言って、頷けはしない内容であるのにも変わりはない。
「いや、責任って言っても…」
「まずは風呂、その後は飯。食った後は、さっさと寝ろ」
「……そんな、無茶苦茶な」
 俺のぼやきに何を思ったのか、クイッと口角を上げて水木が愉しげに笑った。思わぬ不意打ちに驚いているうちに、笑みを落とした当の本人はそれ以上何も言わずに去っていく。逃げられたのだと気付いたのは、ドアが閉まってから数秒後で――。
 最早、追いかけあの男に抵抗を示す気力は、俺にはない…。
 大人しく従うしかないのかと、のろのろと動き体に張り付くシャツを引っ張ったところで、俺は寒気に体を震わせた。相手の態度が癪に触ろうと、施しに気後れしていようと、ここはありがたく風呂を頂戴した方が良いのかもしれない。これで本当に風邪などひいたら、洒落にならないだろう。
 だが。こうして水木に絆されるのもまた、洒落にならない。
「…………」
 確実に奪われる体温。
 突っ立ているだけでも進んでいく時間。
 白い湯気が、俺を誘う。
「…でも、泊まるのはマズいよなぁ」
 何故あんな愚かな発言をしたのか、どうしてそれを水木は鵜呑みにするのか。本当に信じられない事態だ。一週間前に慌てて飛び出した部屋に居るのも変だが、そこで風呂に入ろうとは、世の中何が起こるかわからない。おかしい。おかし過ぎる。超常現象並の不可解さだ。
 一体、何がどう転べばこんな展開になるのか。きっと、何度同じ事を繰り返そうとも、もう二度とこのような結果は生まれないだろう。問題に対するヒントを与えられようとも、これは誰の頭でもスーパーコンピューターでも考えきれない類のものだ。公式を知ってはいても、根本的に数字を組み込めないのであれば意味がないのと同じで、考える時間をかけるだけ無駄なものだ。転んだ後で分析をしようとしても、全てが手遅れでしかない。
 まるで処理情報オーバーでショートした機械のようだ。意味不明な事を考える役立たずな頭をそう評しながら、俺はシャツとランニングを一気に脱いだ。ジーンズのボタンを外し足を抜いたところで、それが水を吸いバカみたいに重くなっている事に気付く。振り返るとドアへと続く床に、俺の足跡らしき型がついていた。きっと廊下も汚してしまったのだろうと考え、溜息が落ちる。
 給湯が終了したのか、俺の気分とは掛け離れた明るい軽やかな音が上がった。森のクマさんのサビが、鳴り止んだ後も耳に残り、頭をぐるぐると回る。出会ったのがただのクマであれば、俺はこんなにも迷う事も落ち込む事もないのだろうか…?
 それこそ、逃げるという訳ではないが。ここまで水木に世話を掛けるのはどうかと思うので、やはり躊躇いがあるのならば、退出した方が良いだろう。受け入れきれないのならば、後悔するのが目に見えているのならば、そうするべきだと心から思う。だが、どうやって実行すれば良いのか。それが、難しい。わからない。流石に、自分から我儘を言い飛び込んでおきながら、スタコラサッサと駆け出す訳にはいかないだろう。
 だが。俺とて帰るという意思は伝えたし、水木が強引なのも確かなのだから、俺ばかりが悪い訳ではないはずだ。多分。逃げるのがひとつの手段であるのも、間違いない。
 間違いはないが……。
 さて、どうしたものかと考えながらシャワーを浴び、俺はバスタブに体を沈めた。冷えきっていたせいか、熱めのお湯に爪先がじんじんと痺れる。そっと、ゆっくり息を吐きながら体を伸ばす。気持ちがいいなと、こんな状況だが、暫しの極楽気分を味わう。流石、高級マンション。湯船までもが広い。
 己の状況を頭から追い出し、俺は体を解し緊張を解いた。浴槽の縁に頭をのせ、目を瞑る。そう、今夜はもう考え込まないと決めたのだから、止めだ止め。水木に流されたとはいえ、風呂に罪はない。我儘ついでに、素直に頂いておこう。既にもう入ったのだから、遠慮するもなにもないだろう。
 少し無理やり気味だがそう考え、俺は頭の中から全てを追い出そうとしたのだが。
 悲しいかな、先程思い浮かべたクマが性懲りもなく人の頭の中でステップを踏んでいる。迷惑極まりない話だ。クマ野郎め…。
 グルグル廻るクマの姿に、嫌な考えが浮かんだ。
 森を行くお嬢さんは、出会ったクマから逃げろと言われ、訳がわからないままにも素直に逃げ出した。しかし、後ろからクマがついて来るではないか。逃げろといったのは追いかける為だったのか?何だよ嗜虐趣味かよ悪質だ! ――と思えば、何て事はない、お嬢さんの落し物を届けに来ただけなのだ。自ら逃げろと言って置きながら、意外にも親切なクマにキュンとなったのか、そのボケたところが哀れになったのか。お嬢さんはクマを誘い、謳いながら踊りだす。意味不明ながらも、ハッピーエンドだ。
 そんなクマとお嬢さんの関係が、何故だか水木と俺に重なる。重ねたくはないが、ウダウダ考えるのを停止した思考は、それでも何かを考えたいと渇望するのか、馬鹿な発想を止めはしない。
 一度は逃げ出した俺は、再び水木に捕まり、その間に絆されてしまい、最後には手に手を取り合う――なんて事は絶対無いのだが、既にもう微妙にリンクしている部分がありそうな気が……しない事もない。出会ったのはクマではなく大型犬だが、この場合、種族はあまり関係ないだろう。要は、展開だ。凶暴な筈のクマが実は心優しい親切クマであり、お嬢さんはお嬢さんで、その外見に惑わされずクマの中身を理解する出来た女性である。その後、互いに恋に落ちるのは必至だ。案外、クマというのは、男性の事をさしているのかも知れず、オオカミであっても同じ展開になるのだろう。大型犬も、同様だ。
 しかし、水木がクマの立場に成り得るかどうかは兎も角。俺はお嬢さんには成れないだろう。外見と中身のギャップに慣らされようとも、絆されようとも、やはりクマはクマ。犬は犬だ。種族を超えた愛は遠慮する。勿論、性別も同じく。何より、お嬢さんのように俺は素直でなければ、純でもない。俺ならばまず最初に出会った時点で、「何故逃げねばならない」と問うだろうし、落し物だなんて古臭いナンパの手口を見せられたら、間違いなく退く。ありがとうと礼は言えても、踊る事は出来ない。ターンを決めた後ガブリと噛み付かれたら、死んでも死にきれないというものだ。
 そう、例え本当に、心優しいものであっても。初めから危ないものには近寄らないのが、賢明なのだ。それが自分を守るひとつの手段でもある。
 それなのに。
 それなのに、だからどうして俺はここに居るのか。しかも、風呂になんて入っているのか。人間とは不可思議な動物だ。人生は、大抵の場合は、一寸先は闇なのかもしれない。ならば、そう。この世で生きる者は皆、冒険者なのだろう。
 だが、しかし。流石に男同士のナニの冒険はしたくはないぞと思う俺の耳に、ピッと小さなアラームの音が届く。
 何だろうかと、目を開け周りを見渡すと、給湯器の時計が九時を教えていた。


 風呂から上がりリビングへ入ると、「こっちだ」と直ぐにキッチンから声が掛かった。水木が顎で示すのは、ダイニングテーブルに乗る皿だ。ここに来て食えと言う事なのだろう。
 借りたTシャツは水木のものなのか少し大きく、両袖を軽く折り返しながら素直にそちらに向かうと、案の定「食べろ」と短い命令を投げ付けられる。考えまいとしても、ムカツク言い方だ。何故にこの男はこうなのだろう。
「……いただきます」
 だがそれでも、要らないというよりも食べる方が楽なのは確実で。無駄な言い合いを省く為に、俺は大人しく水木の前の席に着いた。机に並べられているのは、野菜スープとキノコのリゾットと、あとはミネラルウォーターだ。グラスには薄っすらと結露がついており、俺が風呂から出てくるのにあわせて用意されたのだと思うと少し複雑な気分にもなるが、あえて考えない事にする。
 俺はスプーンを手にとり、湯気がたつリゾットを口には運んだ。食べる気分には全くなっていなかったが、一口食べて自分が空腹である事に気付く。バイト中に三時のお茶をして以降、何も摂っていなかったのだから当然だろう。早くも二口目からは、目の前の水木の事を忘れ、食べる事に夢中になる。熱いリゾットは、思った以上に腹にも心にもしみた。
 一気に半分程食べたところで、グラスの水を飲み一息を付ける。欠食児童のような勢いだ。そう思いながらも、俺は直ぐにスプーンを持ち直し、白い飯を掬った。
「落ち着いたか」
「…美味しいです」
 水木が訊いたのは食事の事ではないのだろうが、俺は態とそう言葉を返し、手を動かす。今は、食べる事だけに集中したい。余計な事を考えると、飲み込めなくなりそうだ。
「これ、貴方が作ったんですか…?」
「レトルトだ」
「そう…、でも美味しい……」
 再びそう言った事で察したのか、水木は俺が食べ終わるまではそれ以上口を開かなかった。俺が皿の中身を全て胃に収めたところで、「気分は?」と再度尋ねてくる。
「面倒をお掛けしました」
 指先で口元を拭い、そう応えると同時に俺は小さく頭を下げておく。
「落ち着いたんだな?」
「ええ、はい」
 だから、帰ります。
 そう続けようとした言葉を遮られ、「ならば、もう寝ろ」とサラリと言われた。当然のような口調だが、俺にとっては全然全くこれっぽっちも当然ではない。
 確かに俺は泊めて欲しいと言ったが、冗談だったと訂正し直した筈だ。これ以上、発言の責任だとか何だとかで流されるのは拙いだろう。何より、俺自身が嫌だ。確かに俺は、馬鹿だ。馬鹿な事をしている自覚は充分持っている。だが、人間としての全てがそれで否定されるわけでも、俺の全てをそのひと言で表されるわけでもない。馬鹿な行動をとっているが、決して馬鹿なだけではないつもりだ。
 ここでヤクザ相手に抵抗するのを馬鹿だと思う奴も、確かにいるだろう。だが俺は、はっきりと自分の意思を言わない方が馬鹿だと思う。ヤクザが相手でもだ。そして、それは間違っていないと俺は信じたい。でなければ、両親との喧嘩までもが自分のただの我儘だけのものになってしまう。
「それは、出来ません」
「やれば出来る」
「……」
 意気込んできっぱりと言い切った俺に、水木もまたそう言い切った。意味不明だ、オヤジギャグかそれは…。
「…これ以上、迷惑はかけられません」
 というか。ここで寝入る程も、俺は貴方を信用信頼している訳ではない。
 そのニュアンスを込めて再び言い切ると、水木は軽く眉を寄せ立ち上がった。
「頑固だな」
「……」
 そう言う問題じゃないだろう。何より、俺が頑固というよりも、アンタがしつこいんだ。三十路を越えた大人なくせに、大人気ないぞ。
「…まあいい。来い」
「え…? ――うわっ!!」
 軽く顎で促され、何だ?と眉を寄せたところを、伸びてきた手に捕まれる。
「ちょ、ちょっと…! ま、待ってくださッ…!!」
「舌、噛むなよ」
「そ、そんな……み、水木さん!」
 問答無用の勢いで二の腕を掴まれ立ち上がらされた俺は、出荷される牛の如くグイグイ引かれ、そのまま水木に寝室へと連れて行かれた。腕が痛いが、それどころではない。綺麗に整えられたベッドを見、隣の水木を見上げ、「へっ…?」と俺は間抜けな声を漏らす。
 何故、寝室なんかに…!? マジで俺は捌かれる仔牛になるのか、ドナドナか!?
「今日はもう何も考えず寝ろ」
「ね、寝ろって…」
 ちょっと待て待て、待ってくれ! 状況が見えないぞ!! 寝るって…どういう事だ何なんだ!?
「だってここは、アンタの……」
 何処をどう見ても、水木の寝室だ。客間じゃない。ベッドヘッドに置かれたガラスの灰皿が、硬い冷たさを放っているというのに、何とも生々しく感じる。嫌だよ、オイオイ…。
「シーツは代えてある、気にするな」
「……俺、ソファでいいよ…」
 いや、俺もそうではないだろう。泊まる事自体を断るはずが、あまりの事で発言がズレてしまっている事に気付き、勢いよく頭を振る。目眩がしそうだ、色んな意味で。今の食事、何かが入っていたんじゃないだろうな…? 血圧が急降下だ。
 だが、こんなとこで落ちるわけにはいかない。落ちたら、即ベッド使用の刑だ。
「……っていうか、帰るから、」
「却下」
 …………。
 ……却下って、何だよオイ…。
「――あッ!」
 …コラコラコラ、押すんじゃないーーッ!
「ちょッ、水木さん。ちょっと待っ…」
 ぐいぐい背中を押しベッド脇まで進まされ、俺は慌てて水木の体を押し返した。だが、無意識に距離を稼ごうとする俺は、間抜けにも脚を引いてしまい、壁に行き当たる。……水木の方が、ドアに近い。万事休す、なのか…?
「待てない」
「あ、いや、――えぇっ!?」
 待てない…って、何を言っているんだコイツは! 待てなくとも待ってくれ! 犬でもこのくらいの言葉は理解するぞッ!!
 待てだ、待て。絶対に待てだ。それが無理なら、伏せでもいい…!
「マジ、待って…!」
 伸びてくる腕をなす術もなく必死で見つめるが、残念ながら俺の眼からは光線は出ないので、あっさりとまた頭を押さえられる。だが、今回は押さえ付けるのではなく捕まえるように手を乗せられているので、下を向かされる事はなく俺は水木と向き合う形になる。…これなら俯き自分の脚を眺める方がいい。
「つべこべ言わず、寝ろ」
「……」
 脅し以外の何があるだろうか、これは。流石本職。顔の端整さが、相乗効果を生むのか、圧力に拍車をかける。
「判ったな」
「……」
「大和」
「…………」
 多分きっと、頷けば地獄を見る。だが、逆らっても、同じものを見るだろう。
 ならば、賢くなくとも、俺はこう言いたい。
「……無理、です」
「何故」
「だって……」
「時間がない、早く言え」
 俺の頭から手を退けた水木が、その腕に嵌る時計を眺めそんな事を言った。
「……時間?」
「仕事だ」
「……寝ないの?」
「寝るのはお前だろう? 俺は出て行く」
「……」
 そう言えば、同じ系統のブラックスーツだが、水木が今着ているものは先ほど濡れたスーツとは違う気がする。着替えたという事は、本当にそうなのか…? マジ?
 眼で問い返すよう見上げると、相手もまた俺の勘違いに気付いたのか、口元に微かな笑みを浮かべた。
「今夜はここに帰る事はない。だから、そう構えるな」
「……あっ」
 はっきりとそう言われ、またもや自分が何にうろたえ掛けていたのかを遅ればせながらに俺は自覚する。馬鹿みたいにも、俺は水木の隣で寝るのかと勘違いをしていたわけだ。いくら大きなベッドだからといって、それはないだろうに、だ。相手にその気はないのに構えるなど、間抜けにも程がある。
 水木はその気はないと言ったのに、本当に馬鹿だ。
 だが、してしまった勘違いを恥しいという思い以上に、最悪は訪れない事実に俺は安堵する。
「……出掛けるんだ?」
「ああ、今からな」
「……そう」
 …良かった。本当に良かった。
 もしも、水木に押し倒されたら、多分俺は逃げ切れない。そう言うつもりはなかったんだと言っても、この男はその気になったら相手の話など聞きはしないだろう。俺には、水木を跳ね飛ばし鎮める程の力はない。精々が、無駄な足掻き程度の抵抗だ。落とされるのは目に見えている。
 こうなれば、水木のこの淡泊さには、感謝せねばならないだろう。相手が戸川さんではなくて、本当に良かった…。彼ならば、付け入れる隙があれば、とりあえずはと何処でも適当に突いてきそうだ。俺はネギを背負ったカモになっていただろう。
「取り乱して、済みません」
 だけど、もう少し判り易く説明してくれてもいいじゃないかと内心では思いつつも謝ると、水木は気にするなと言うように軽く頭に触れてきた。いや、気にするなと言うよりも、自分は気にしないと言うニュアンスなのか。先程笑ったのは嘘のように、早くも無表情だ。俺のボケになど、興味はないらしい。……まあ、そんなところに関心を持たれても、こちらとしても困るだけでしかないのだが。
「ああ、そうだ。ひとつ覚えろ」
「はい?」
「部屋の中は好きに使えばいいが、電話は出るな。誰かが来ても、部屋に入れるのは勿論、相手もするな」
 全て無視をするんだとの言葉に、誰か訪ねてくる予定があるのかと聞くと、はっきりと「ない」と水木は言い切った。ならばそんな注意は必要ないだろうと横目で見やると、だからだろうと眉を寄せられる。
「誰も来る筈がないところへの訪問者は、注意すべき人物でしかない」
「……はァ」
 何を言っているのかと考え、つまりはここは水木の隠れ家みたいなものかと思いつく。それが当たっているのかどうかはわからないが、相手はヤクザだ、追究しない方が良いだろう。誰も来ないのならば、それにこした事はない。それだけで十分だ。
 ――っていうか。
 いつの間にか、もう、お泊りが決定したようになっているのだが? ……違うだろう、オイ。
「いや、あの、」
「判ったな」
「え? まあ、それは、ハイ…」
 誰も来ない事は判ったので、とりあえず頷くと、水木は「じゃあな」と寝室を出ようとした。
 だから、ちょっと待てよ!
「水木さん!」
「何だ」
「何って、だから、泊まらないって…」
「独りでは眠れないのか?」
「…ンな事言ってません」
「なら、さっさと寝ろ。家出学生」
「……ッ!」
 咄嗟に口を開くが、何も言えない。…完璧な負けだ。
 クソッ、このヤクザめ!と顔を顰める俺を気にとめる事無く、水木は背中を向ける。寝室を出るその姿を睨みつけ、ドアが閉められたところで俺は我に返り、後を追いかけた。
「…ひとつ、訊いてイイ?」
 不貞腐れたような低い自分の声が気に入らなかったが、玄関に向かいかけた足が止まったので、俺はそれを了承と受け取り、背中を向けたままの男に続けて問い掛ける。
「俺の事、ムカつかないンですか?」
 行いもそうだが、言葉使いひとつとっても、水木が腹立つ理由は十分にあると思う。こんな風に我儘な餓鬼に振り回されたならば、ヤクザの面子云々ではなく、良く出来た人でも苛立つ事だろう。この男とて例外ではない筈だ。だが、水木は声を荒げない。
 数時間前に見た父親の顔を頭の片隅に思い浮かべ、この男は何故怒らないのだろうかと不思議に思う。
「水木さん」
「……気に入った奴を直ぐに嫌いになれる程、俺は器用じゃない」
「それって…」
「いいから、もう寝ろ」
 それって、俺への特別な好意がまだあるという事なのか? そう確認しかけた俺に短い言葉を落とし、水木は廊下を進んで行った。玄関の扉が閉まる音を聞いてから、俺もドアを閉め、ベッドに腰掛ける。
 水木の短い言葉では、だから俺の行動にはムカツキはしないのか、それともただ我慢出来る範囲内だというのかはわからなかった。わからなかったが、嫌いじゃないのだという事は、はっきりと示される。微妙だ。戸川さんならば、こういう状況も愉しむ要素のひとつとして適当な事を言うのだろうが、相手はあの水木であるのだから何を考えているのか思い描けない。俺はだからこそ率直に聞いたのであるのに、応えは曖昧すぎてわからない。俺をこうして構うメリットは、一体何処にあるのだろう。
 もう少し喜怒哀楽の差があればわかるのかもしれないのにと考え、そんな水木を想像し、俺は低くうめいた。それはそれで、気味が悪い。あまり見たいものではないよなと顔を顰め、体を倒す。
 暫く取りとめもなく馬鹿な事を考え寝転んでいたが、眠気を覚えるにつれ我慢出来なくなり、程よく糊の効いたシーツに俺は潜り込んだ。水木が出掛けたのだからもうどうにもならないだろうと観念し、ゆっくりと緊張が取れきるまで深呼吸を繰り返す。両親の事も、水木の事も、自分の事も。これ以上考えても、ただ眠れなくなるだけでしかないだろうから、頭の中から追い出す事にする。そんな事をしても、俺の目の前には確かな問題が沢山ある事実に変わりはないが、今は水木の言う様に何も考えずに寝るべきなのだろう。
 これは、間違っていない。絶対に。
 そう信じ、俺は丸めていた体をのばし目を閉じた。微かな煙草の匂いが、何故だろうか安心感を与える。
 俺が食事を摂っている時も、手持ち無沙汰であったのだろうに、水木は喫煙しなかった。
 空気ではなく部屋に染み付いているのだろう匂いの中で、俺は深い眠りに落ちる。


2005/12/11