13
何度か浮上した気もするが、何かを考える間もなく直ぐに沈み、睡眠を貪った。覚醒も、そんな緩やかな流れの中でのもので、いつからそうしていたのか、気付けば俺はカーテンの隙間から零れる明る過ぎる光を眺めていた。寝ぼけていずにいい加減起きろよと自分に命令したのも殆どが無意識の内でのものであり、一体何度目のそれに従い腕に力を入れたのかは判らない。だが、流石にのろのろと体を起こしたところで、何だか頭が重いなと感じながらもそれ以上の異変に気付く。
いつもとは違うベッドの感触。見覚えのない空間は、匂いは勿論、空気さえも違う。
「…………あぁ、…そうだ」
忘れていた訳ではないが、寝起きの頭は全く意識していなかったらしい。ここは水木の部屋なのだと認識するのに、かなりの時間が要った。間抜けにも程がある。
「……泊まったンだっけか…」
思わず零れたそれは、声と言うよりもただの息に近い、擦れきったものだった。故意に咳をし、唾を飲み込み、喉を整える。口内が乾いているという事は、口を開けて寝ていたのだろうか。涎を垂らしてはいないよなと枕元を見下ろしながら、他人の家で何をしているのだろうかと自分に呆れ、けれどもそんな場合でもないだろうと溜息を吐く。
涎のひとつやふたつ、ヤクザの部屋に泊まった事実に比べれば、小さいものだ。
気にすべきところがズレているぞと、朝の一発目からトロい自分に再び呆れながら、枕元に転がっている携帯を俺は取り上げた。電源を入れると流れる短いアニメーションの後に、画面には紫陽花の花と今月のカレンダーが現れる。習慣のようにその小さな青い花の塊の上、液晶の右上角に表示された時刻を眺めた途端、――俺の中に残っていた睡眠の名残は見事に吹き飛んだ。
画面に記されているのは「13:35」。――13時35分は、どう考えても有り得ない。信じられないし、信じたくもない。だが、どれだけじっくり見て確認しようと、35から36へと表示が変わるだけで、その前の13は変わらない。
……一体何時間寝ていたのか、数えるのが恐ろしい。昨晩は日付が変わるよりも随分前に寝た筈なので、軽く半日を超えている計算だ。寝過ぎも寝過ぎ、怠惰な自分に呆れるしかない。こんなに続けて睡眠をとったのは、はたしていつ以来だろうか。普段から充分な睡眠をとるようにしているので、休日でも二桁になる事はまずない。だが……。
ベッドから抜け出しカーテンを開けると、一瞬にして世界が真っ白になった。顔に手を翳すと、漸く景色が視界に入ってくる。快晴でも薄く曇る都会の空に浮かぶのは、それでもサンサンと輝く太陽だ。間違いなく、今は昼。とても残念な事ながら、やはり携帯が狂っていた訳ではなかったらしい。…ショックだ。実に、忌々しき事態だ。他人の部屋で、それもヤクザな男のベッドで、近年稀に見ぬ爆睡をかますとは何たる事か。
俺と言う人間は自分が思う以上に、鈍感で図々しい馬鹿なのかもしれない。これではまるで付け込んでくれと、無防備さを自らアピールしているかのようだ。そう思うと、実際には決してそんな訳でもないのに、自分自身に腹が立ってきた。
俺はこんな事をして、水木に傷つけて欲しかったのだろうか…? 浮かんだそれをまさかと否定しかけ、わからないと答えから逃げる。どこかに憤りをぶつけたかったのは、悔しいが事実だ。実際、水木との電話はそれに近く、大人気ない行為であったのも認める。しかし。この部屋を訪れてからは、水木を前にしてからは、その思いは消えていた。それも確かだ。彼を前にすると余計な事を考える余裕などなく、加えて自らも考える事を遠ざけた。それなのに。
それでも、どこかで腹黒く計算していたのかもしれない自分に、ゾッとする。どうなっても良いと思ったからこそ、俺は眠りこけたのだろう。自棄になると、人間何をするかわからないものだ。特に俺は日頃からも、処理出来ない事が多くなると逃げたり、逆に切れたりする。その自覚が充分あるのに、それを意識せねばならない時にはすっかりと忘れ、こうして後になって気付き慌てる。もう、馬鹿としか言えないものだ。
昨夜の自分の行動を振り返ると、穏やかに目覚められたのは奇跡だとさえ言えるのかもしれない。戸川さんと水木に捕まり放心状態の中、自分はどうなるのかと考え震えたのは、まだ一週間ばかり前の事だ。ヤクザに気を付けるのも確かに必要だが、俺の場合はもしかしなくとも、自分の無謀さを注意せねばならないのかもしれない。毎回、投げやりになり招いた事態の収拾を、痛みなくつけられるとは限らない。
ヤクザと知り合う事で自覚する己の短所に、俺は溜息を落とし、顔に影を作っていた手も下ろした。指先で触れた窓ガラスは、日差しは強いが冷たい。その気持ち良さに掌を押し当てると、直ぐに太陽が肌を刺激してきた。残念な事に、俺の体温を受け、ガラスも温もりを帯びはじめる。
一体何なのだろうか、この天気の良さは。昨夜あんなに雨が降っていたのは嫌がらせか、態となのかと疑いたくなるくらいだ。明るさが、目に染みる。高層階だから余計に日差しが強いのかとウンザリしながら、俺は開けたばかりのカーテンを閉めた。刺激的な眩しさが、一瞬にして消える。こんな風に俺も簡単に気持ちを幕引き出来ればいいのだが、残念ながらそんな器用さは持ち合わせていない。
ベッドの上で開いたままの携帯を取り上げ、もう一度時刻を見かけ、止める。パチリと片手でそれを折ると、サブ画面にも時計が現れたが、それも無視だ。こうなれば、今更五分や十分の違いに意味はない。二時になっていようがどうだろうが、今ここまでこの部屋を占拠し続けた事に変わりはないのだから、後は相手の判断に任せるしかない。
尤も、幾ら出ていき難いとは言え、目覚めて一時間も他人のベッドで思案をする奴はいないだろう。小心者だからといういい訳は、此処で眠り込んだ時点で通用しない。爆睡をかましたのは、バレバレだ。
そう考えると、開き直るようにした先の覚悟は早くも崩れ、水木に何を言おうかと頭の中で言葉がまわる。とりあえずは、やはり謝るしかない。だが、相手はそれを聞きそうにない奴だし、可笑しな突っ込みをかましてきそうでもあるし……。考えたところで、全然対処法は見つからない。
こうなればなるようにしかならないかと、ノブに手を乗せ、一呼吸。足下から這い上がって来る緊張が右手に届く前に、意を決して俺は勢い良くドアを引いた。
空気が揺れる。
幸いにも、廊下に人の気配はない。
ホッと息を吐き、寝室を出る。絨毯を踏んでいた足が、冷たい床に張り付いた。ペタペタと小さく音が鳴るのは、緊張で足裏に汗をかいているからなのだろう。昨夜も汚した廊下に心の中で詫びを入れながら、ふと思う。今更だが、俺が穿いているこのスウェットは、一体誰のものなのだろうか。股下の長さが俺に丁度いいものだから、身長に十センチの差はあるはずの水木自身のものではないのだろう。折り返したシャツを眺め、本来ならばパンツの裾もこうだよなと考える。俺と彼の身長差はきっと股下の差とイコールになるに違いないので、これは絶対水木のものではない。
ここは隠れ家のような部屋らしいが、それでも完璧な水木ひとりの空間ではないのだろうか。部屋主以外の衣服がある理由は、俺にはそれぐらいしか思いつかない。上司か部下か、はたまた友人か知人か、それこそ愛人かは知らないが。俺だけではなく、寝泊りした人物がいると言う事だ。
想像でしかないが、窺えたそれに、俺は少しホッとする。水木にとっては、誰かを部屋に泊める事は、あまり大した出来事ではないのかもしれない。相手がヤクザだから俺も深く考えてしまったが、「泊まっていけよ」なんて事は仲間内では良くある事だ。俺は全然全く彼の仲間ではないが、水木瑛慈という人間がどう考えているのかは、わからない。…というか、そういう事は深くは考えていないような気がする。
何だかんだと水木とは色々喋っているが、内容が無い。いや、無いと言うか、後には残らない類のものだ。軽いのか重いのかの判断がつかなさ過ぎて、どうすればいいのか決める前に消えてしまう、微妙なものだ。ここに泊まる事になったのも、決定打は何だったんだろうか、何に自分は頷いたんだろうかと考えてみるが、思い出せない。多分、そう言うものはなく、それこそ何となくなるようになってしまっただけなのだろう。
おかしなものだよなと思いながら、リビングに向かう前に玄関をチェックする。三和土には俺のまだ湿る靴が行儀良く並べられているだけで、水木の黒靴はなかった。昨夜は雨だったのだから、早くも下駄箱に仕舞っているとは考えられない。ならば、あれから一度も帰っていないのかどうかまではわからないが、今はこの部屋の中には誰も居ないというわけだ。態々俺の目を誤魔化す必要はないのだから、ここに誰の靴もなければ、そうだと断言して良いのだろう。
スリッパの置き場は知っているので拝借しようかと一瞬考えたが、家主が留守なのにそれもどうかと躊躇し止める。そういえば、何故だか知らないが水木はスリッパを使っていないようだ。尤も、俺がいた二度が偶々そうだっただけなのかもしれず、理由など無くただの不精なのかもしれない。完璧な外見をしていても、そういうところへの拘りは全くなさそうだ。きっと自分の顔に傷がついても、気にもしないタイプだろう。
ナルシストよりましだが、宝の持ち腐れというかなんというか。勿体無いよなと、少し思う。だが、逆にあそこまで完璧だからこそ、無頓着も許されるのだろうなとも思う。醜男がすればだらしないものでも、男前がすれば納得してしまう。そういうものだ。
そして凡人は、身の程知らずにもそれを真似しようとして、撃沈するのが世の常だ。ファションって大体がそうだよなと、街中で見かける様々なスタイルを思い浮かべながら、俺はリビングの扉を開けた。当然の如く誰の姿もない広い空間を、それでも一周見回し、満足したところでソファに座る。
良かった。本当に、良かった。寝起き直後の、しかもこの事態で、あの男の相手をするのは相当キツいはずだ。居なくて助かった。
水木自身の言動に慣れないのもあるが、ここまで寝入ってしまった気まずさに、俺は部屋に一人である事を心の底から喜んだ。漸く安心したのか、身体の力が抜ける。
だが、それも現状を把握すれば、長くは続かない。
自分は一体どうすればいいのだろうか…?
ハタと気付いた立場に、本気で悩む。水木は自由にして良いと言ったが、まさか、ヤクザの部屋で休みを満喫する学生などいないだろう。そう思うと今度は身の置き場のなさに居た堪れなくなり、俺は脚を腕に抱え額を膝に押しあてた。まるで、独りで泣く子供のような格好だ。体育座りのまま、意味なく体を前後に揺する。落ち着かない。更に、追い討ちをかけるように、起きてからどこかで付き纏っていた頭痛が、ここにきて主張し始める。
たっぷりと寝た筈なのに、頭が痛い。寝過ぎたからと言うのではなく、使い過ぎて脳が疲労しているような感じだ。筋肉痛に似た、内側からの痛みが続いている。最低だ。だが、それ以上に、状況が悪い。
頭の痛みは知恵熱のようなものだろう、放っておいても問題はない。しかし、自分の目の前にある問題はそういう訳にはいかない。
昨夜は心の感じるままに考え、焦ったり怒ったり落ち込んだりと、自分自身もついて行けないくらいに目まぐるしく気分は変化していた。そうして最終的には、冷静な判断など出来る訳がないと開き直り、結論をつけずに終わった。逆ギレすると言うかなんというか、極度の緊張や重圧に面した時、俺は良くそんな風に最後には投げ遣りになる。それが自分の欠点だと、重々承知しているが、この性格は直りそうにない。だが昨夜の事に関しては、決して間違ったものではなかったのだと思う。
投げ捨て逃げた面を正当化する訳ではないが、昨晩はもうどんなに沢山考えようとも、同じ事の繰り返しにしかならなかった筈だ。両親の言うようにはなれない、俺にだって目標がある。だが、それは本物なのか。ただの我儘ではないのか。そんな答えの出ない堂々巡りをするのならば、たとえ卑怯でも、逃げる方が正しい時もあるだろう。
しかし。
それは、自分ひとりで対処する場合の事であり、そこで人に頼るのはやはり狡いと言えるだろう。自分ひとりで憤っている分はいいが、八つ当たりはやはり頂けない。キレた責任は、俺自身が取らねばならないものだ。
だが、それを判りながらも、俺は水木の強引さに甘えた。ひと晩たった、今ならよく判る。ヤクザだとか何だとかは関係なく、水木は間違いなくひとりの人間として俺に手を貸したのだ。それにより、俺は現に助かった。たとえ彼が何かを企んでいたのだとしても、その事実に変わりはない。水木が差し出した手は、どういうものであれ、俺を救った。一時的なものであったとしても、だ。
問題は変わらず、存在する。料亭を出た時よりも、このマンションに辿り着いた時よりも、こうして水木に世話になった分、それは増えているのだろう。頭が痛くて当然だ。
両親の干渉、俺が出来る事出来ない事、彼らとの未来、叔母の立場――そして、水木との関係。考えるべき事は沢山ある。それは、地道にひとつひとつ解決していくしかないのものだが、その為には時間と同じく気力も必要だ。焦れば焦る分だけ、俺の場合は、切り捨てるものが多くなってしまう。
俺は決して、誰かを不幸にしたい訳ではない。両親とも、上手くやれるのならばそれにこした事はないのだ。だが、その不幸にしたくはない中には、自分自身も含まれる。意見が違う中で皆が幸せになるなど、単なる夢物語の理想でしかなく、現実的には無理な話だ。しかしそれでも、俺は自分の幸福を願うし、他の者達もそうなれば良いと思う。山積みの問題を考えれば、青臭いというよりも、これは卑怯と言われても当然のものなのかもしれないが。
多分きっと父の性格から考えて、彼はもう俺に時間を与えはしない。昨夏から俺は自立しようとしていたつもりだったが、父にとっては逃げた愚かな息子へ恵んだ猶予期間でしかなかったわけだ。その期限が終わった今、彼が留学と言えば、息子であり続けるにはその道を進むしかない。未来はそれしか用意されていない。他の行動は、それこそ完璧な絶縁に繋がるのかもしれず、両親と俺との関係に、余裕などない。
そんな中で、幸せなどどうすれば見つけられるのか。父も母も、俺が我慢し家に戻れば、医者への道を進めば満足なのか。息子が心に闇を抱える事になっても、それはどうでも良いというのか。逆に俺は、自分の欲を優先し親とこんな形で離れ、本当に悔いはないのか。教師になる事が、俺の幸福なのか。
判らないのだ、本気で全てが。何が正しく間違っているかなど、今の俺には答えは出せない。だからこそ余計に、自分の感情を前面に出してしまう。父の言う事も母の言う事もわからなくはないが、それを認めた途端負けそうな気がして、昨日のように向かい合えば喧嘩になってしまう。揉めれば単純に、相手に憤るところとは別で、後悔が募っていくというのにだ。
免疫がないのだと思う。誰かと揉める事に対しての、経験が少ないのだろ俺は。考えれば、昔から友人達とは仲良くやっているし、それこそ両親とも一年前までは巧くやっていたのだ。こんな風に、意見をぶつけ合う事などあまりなかった。兄と父の遣り合う姿は良く見ていたが、彼らの場合は互いに早くから割り切っていたので、ズルズル揉め続ける事は少なかった。何より、長男がそうである分、次男は自分に従わせねばと思ったのか、両親は俺に良く言い聞かせた。大地のようにはなるなと。父への反抗は、許さないと。そうして刷り込まれたそれは、今なお俺に影響を与えているというわけだ。
甘えているかどうかは別にして。開き直りに捉えられるかもしれないが、俺は頭ごなしに否定されるような事はしていないと思う。こんな気持ちで医者になる方が、普通は可笑しいのではないだろうか。両親は本気で俺にその才能があると思って強引に進めているわけではなく、ただ家業に拘っているに過ぎない。役立たずな医者を作ってどうするというのか。
そう思うがその一方で、血筋に固執するそれもわからなくはないはないのだ。親心かどうかはわからないが、病院は自分の息子へという父の考えも、頭から否定するようなものではない。それこそ当然の行いでもあるのだろう。もしも俺がその立場ならば、やはり後継は己の血を分けた者をと考えるだろう。実父から病院を受け継いだ父にも、何らかの夢や希望や願望があったとしてもおかしくはない。
自分の思いは、譲りたくはない。だが、相手の考えを全て無視して突き進む事も出来ない。そんな俺が幾ら考えたところで、結果など出せるはずがないのかもしれない。穏便にとまではいかないだろうが、何とかいい方向へと願っても限界があるのだ。幸や不幸ではかるのではなく、俺はもっと別の何かを考えねばならないのかもしれない。もっと何らかの覚悟を持たねばならないのかもしれない。けれど、それが何なのか。判らなければ、今は判りたくはないとも思う。
これでは結局、昨夜と同じだ、いつもと変わらない。堂堂巡りに終わりはないと、俺は頭を振った。興奮が多少引いただけで、昨夜の思考と変わるところがないのだから、考えるだけ無駄だ。悪影響だ。こんなところで悲劇のヒロインのように沈むのは駄目だと、気分を切り換える為に俺は携帯を開いた。
プッシュ音を切っているので、ボタンを押すたびパチパチと、軽すぎる音が上がる。だが、それは俺の日常には馴染み深いもので、何となく安心感を覚える。とても些細な、単純な事なのだが。案外、こう言うものなのだろう。
センターに問い合わせメールをチェックすると、友人関連に加え、叔母から連絡を入れろとの便りが届いていた。送信された時刻は、午前一時。仕事を終えてからのものだろう。普段は携帯の電源を切る事などないので、留守番サービスは利用しておらずわからないが、多分叔母は電話も掛けてきていたに違いない。状況が状況とはいえ、無断外泊だと今更ながらに俺は気付く。マズッタ、怒られる。
慌てて電話を掛けようと操作しかけ、電池マークが赤色であるのに気付き、メールに変えた。必要以上に「ゴメン」と書き連ねた文に、「今夜は帰ってきなさいよ」との返信が直ぐに送られて来る。小言の類は、一切ない。それが、叔母が俺を思ってくれている証拠のような気がして、何とも言えない気分になった。心配をさせた詫びをもう一度記し送信しながら、心の中で頭を下げる。
あの後、俺が飛び出した後、一体どうなったのだろうか。考えるだけで、叔母に対する申し訳なさに気持ちが沈む。叔母はきっと、父を責めただろう。あの場でも言ってくれていたように、俺の事を考えろと注意したのだろう。だが、父がそれを受け入れる筈がない。彼は彼なりに息子の事を十分に考えての行動なのだろうから、たとえ実妹が何を言おうと耳を貸す事はなく、逆にキレたのではないだろうか。
多分叔母は、俺を世話している事を責められた筈だ。
こんなところでウジウジとしておらず、俺は一刻も早く帰らねばならないのだろう。だが、帰り辛い。叔母に合わせる顔など自分にはないと溜息を吐いたところで、俺は帰れるのか?との根本的な疑問が湧く。
当然の事ながら。帰ると言う事は、このまま、ここを出て行くと言う事だ。
ソファから立ち上がり、ゆっくりと部屋を見回し、己の姿に視線を向ける。袖を折り返した無地の白Tに、黒のスウェットパンツに裸足。はっきり言って、オクションの部屋には似合わない格好だ。まるでメディアの話題に上る某IT社長のようなだらしなさ。水木のように中身があれば、どんな服装でも気にならないのだろうが、俺ではみすぼらしくさえある。だが、出て行けないものでもない。少しばかり、砕けており心許無いという程度だ。大きな問題はない。
そう、ここで問題なのは服装などではなく、出て行く手段の方である。
俺は、カードキーも持っていなければ、暗証番号も知らないのだ。今すぐ出て行く事は、とても無理なのだろう。見回した限り、鍵も書置きも、それらしいものは何もない。それでもきっと管理人を呼べば脱出は可能だろうが、そこまでするのもどうだろうかとも思う。本来ならばこんなにも世話になったのだから、家主が帰ってくるまでは待つべきなのだろうし、水木もそのつもりで何も言わずに出掛けたのかもしれないのだから、逃げだすような形になるのは拙い。それこそ本気で逃げ出したくとも、だ。ここは我慢するべきだろう。
だが、しかし。
何よりもまず、彼が何時に帰って来るのか、それがわからない。もっと言えば、今日中に戻るのかどうかさえ、俺には判断出来ないものだ。確か、戸川さんは、水木はここには毎日も帰らないのだとそう言っていた。事実、昨夜はここでは寝なかった。何日も帰らない可能性も、なくはないのだろう。
もう一度、部屋を見回し、俺は再びソファに腰を下ろす。この部屋にはやはり、生活臭が余りない。隠れ家というか、幾つもある自宅のひとつなのだろう。オクションを、別宅。――世の中は理不尽な事ばかりだ。エグゼクティブなヤクザ。……全然、笑えない。水木の場合は冗談にもならない。
まるで暇なのかというように、俺は馬鹿な事を考え、そんな事をしている場合ではないだろうと自分自身で突っ込む。考えるべきなのはヤクザの生活実態ではなく、今、水木瑛慈が何をしているのかだ。昨夜出掛ける時は、確か仕事だと言っていた。だが、今日は日曜だ。ヤクザ稼業に休みがあるかどうかは知らないが、ビジネス相手は大抵休みなのではないだろうか。電話をかけても邪魔にはならない可能性は、多分、平日よりは高いはず。
だからどうしたと、そこに根拠がどれだけあるのだと多少思いつつも、携帯を手に取り、着信履歴から水木の番号を呼び出す。間を置けば躊躇いそうなので、俺はすぐさまボタンをひとつ押した。ドキドキと胸が高鳴っていく。ちょっと早まったかと後悔しかけた時、電波が届かない場所か電源が入っていない場所に…と言うアナウンスが流れた。
……助かった。いつの間にか詰めていた息を穿き、携帯を前のテーブルに置き、意味なく少し遠ざける。
…って。違うだろう。連絡がとれないのだから、この場合は、役立たず!と罵るべきなのだろう。全然全く状況は変わっていないのに、助かったって、なんだよ俺。情けないぞ。
本気で仕事なのか、それとも別の別宅で愛人相手によろしくやっているのか、本宅で奥さん相手に家族サービスでもしているのか。別に何をしていてもいいから、携帯の電波は確保しておいて欲しい。まさかとは思うが、俺の事を忘れたんじゃないだろうな、オイ…?
水木ならそんな事は無いだろうと思いかけ、水木だからこそ有り得るかもしれないと考え直す。見た目程も中身は完璧ではない男だと言うのを、俺は残念ながら知っている。帰って来て俺を見て、「ああ、そういえば居たか…」と漸く思い出す――何てぐらいの事は普通にやってくれそうだ。
俺はここでこうして、あの男を待っていて本当に良いのだろうか? 大丈夫なのだろうか? ……どうしよう。物凄く不安になってきた。
こうなれば、もう一度電話だ。出るまで掛けてやるぞと、ローテーブルに置いていた携帯に手をのばしたところで、それは先に派手な音を上げた。誰だ?と慌てて確かめ、サブ画面に表示された名前に、そうだよこの人に聞けば良かったんだよと思わず俺は苦笑する。何を焦って水木に電話していたのか、馬鹿みたいだ。直ぐに電源が復活する事などないと言うのに、ボケている。
「はい、もしもし」
ホッとしたから、通話を受ける俺の声は少し弾んでいた。そんな俺の声以上に、柔らかく温かい声が、耳に届く。
『どうも、こんにちは』
俺の動転をしっていて狙ったかのように電話をかけてくれたのは、戸川さんだった。本当に、疑わしくなるくらいの、素晴らしいタイミングだ。この部屋に隠しカメラがあったとしても、今の俺ならばその行為を許し、簡単に存在を受け入れるだろう。カメラに向かって、笑顔で手を振ってやっても良いくらいだ。
「あ、あの――」
『突然ですが、千束さん。今はどちらに居られますか?』
「え? あぁハイ。まだ部屋に居ますけど?」
早速俺の取るべき行動を伺おうとしたのだが、気付かれずに遮られ、逆に質問をされた。確かに電話をかけて来たのは戸川さんの方なのだから、それは当然の行動なのだが……何だか、変だ。違和感という程のものではないが、何となく引っ掛かる。確かに痒いのに、その箇所がわからないもどかしさとでもいうのだろうか。何か、忘れているような気がしてならない。
居場所を訊かれただけなのに、なんだろう? 一週間前の接触で、この人に対して、俺は何かあっただろうか…?
『まだ、と言う事は、どちらかへ出かける予定があるんですか?』
「あ、いえ、そうじゃなく…とりあえず明日は学校ですし、帰ろうかなと思っているんです。ですが…あの、鍵とかなくっても、出て行けるんですかね?」
何だか釈然としないなと思いつつも、自分がわからない事を戸川さんに訊くわけにもいかず、俺はとりあえずそう答え、知りたかった事を尋ねてみる。
帰りたいのだが、出て行く方法がわからない。鍵がなければ駄目なのなら、どうにかしてくれないだろうかとの願いを込めた俺の言葉に、けれども戸川さんは短い沈黙を作り、逆に訊き返してきた。
『千束さん、もう一度訊きますが、今は何処に? 料亭ではないんですか?』
「はァ? えっ、違いますよ…? ですから、このまま出て行っても良いものかどうかわからないので、まだ部屋に居るんです」
『誰の、です?』
「勿論、水木さんの、ですが…………えっ?」
そう答えつつ、何となく感じていた違和感の正体に思い当たり、恐る恐る戸川さんを窺ってみる。
「――もしかして、聞いていないんですか…?」
まさかと思いつつ、確かに戸川さんは昨夜あの場に居なかったのだから、知らなくてもおかしくはないと考え直す。だが、それでもやはり、まさかだ。絶対に水木から情報を仕入れているのだろうと、俺は何の疑いもしていなかったというのに、何て事だ。水木と戸川さんの仲なら、互いに知らない事などなさそうなのに……、。俺が思う程も、二人は仲良くはないのだろうか…?
だったら、もしかしなくとも。自分は言わなくても良い事を言ったのではないかと呆然となる俺に、案の定『私は全然聞いていませんよ』と笑いを含んだ声が返ってきた。
『一体いつの間にそんな事になっているのか、是非とも聞かせて頂きたいですね千束さん。私にはあんな言葉を託けておきながら、本人とは実は仲良くしていたんですね』
恥ずかしがらずにそれならそうと教えて下さいよと、戸川さんは明るくのたまってくれる。
ああ、本当に。何て事を言うのか、この人は……。
意味深と言うよりも、あからさまな言葉に俺はゲンナリしつつも、ここはしっかりと否定をせねばと意識を立て直す。そう、訂正を入れねば、勝手にそれを事実にされてしまいそうだ。始めはただのからかいのネタでしかなかったものを、あたかも真実であるかのように擦り替えるくらいの事は、戸川さんならば簡単にするだろう。放っておけばどうなるか、考えるだけで怖い。外堀を固められ、本気で水木の相手をさせられるのかもしれない。
俺と水木が仲良しだなんて、戸川さん以外には笑えない状況だ。それは、何としても遠慮したい。ヤクザと打ち解け合うのは、俺の趣味ではない。
「ちょっと待って下さい、戸川さん。お願いですから、そんな深読みはしないで下さい。少し訳があって泊らせて貰っただけです。全く何もありませんからね」
っていうか。あって堪るか!だ。こんな事、言わせないで欲しい。否定するのも、情けない話だ。一体、何をどう想像しているんですか、戸川さん……。
……何度も言いましたが。男同士に加え、ヤクザと学生。何らかの間違いが起こる事は有り得ません。セクハラオヤジのような発言は、可愛い女の子相手にお願いしますと言うものだ。戸川さん、貴方のそのからかいは、俺にはキツイです…。
外面は兎も角、やっぱりこの人は相当の曲者だよと嘆きつつも、続けて勝手に変な解釈をされては堪らないので、俺は丁寧に昨夜の経緯を伝えた。だが、『それだけでも相当だと思いますけどねぇ』と嫌味なのかからかいなのか良く分からないものを返され、脱力する。まさにその通りなので言い返す事は出来ないが、それでもやはり、面白くはないのも確かだ。
「……それは…俺が一番自覚していますから、あまり苛めないで下さい…」
『苛めてなんていませんよ』
人聞きが悪いなと笑う声が耳を擽ってくるが、絶対に嘘だ、ウソ。確信犯の上に、策士なヤクザのそれを信じるほど、俺は子供ではない。だが、そんな事すらも、この人には全てお見通しなのだろう。戸川さんは間違いなく、俺の思考回路を把握しきっている。何を言えばどういう反応が返って来るかなど、手に取るようにわかるに違いない。
悲しいかなそれがわかっていても、二十歳の俺には逆に打ち負かすような策はなく、とてもではないが太刀打ちなど出来ない。勝負にもならない。ならば、完璧に遊ばれるしかないのだろうか。うーん……。
『それで、千束さん。訳はどうであれ、水木の世話になってみてどうです?』
「どうと言うと…?」
『先日、貴方は水木の想いは重荷だと言いましたよね。それは今も変わりませんか? 納得出来ないと言っていましたが、折り合いをつけたからこそ、そこにいるんですよね?』
「…………」
耳に痛い問いだった。戸川さんの言う事は良くわかり、わかるからこそ、胸に突き刺さる。先日のように拒絶しているのならば、何があろうと水木の手を取っていないだろうと。世話になる事が出来たのは、答えが出たからだろうと。戸川さんは俺のその変化を、言葉にさせようとしているのだ。
だが、今の俺にはそれに対し言える事はない。俺は全然、何もわからないままなのだから。
「……俺はまだ、納得なんて出来ていません。重荷だとも思っています」
『千束さん…?』
「それなのに、俺は…利用したんです。――そう言ったら、怒りますか…?」
『まさか、怒りませんよ。そんな声は出さないで下さい』
本当に苛めているみたいじゃないですかと、戸川さんは俺を和ませるように冗談を言い、柔らかく優しい笑い声を響かせてきた。
『人間、他人を使える者が賢く、他人に使われる者が馬鹿なんですよ。それが出来るのならば、どんどんと利用してやればいいんです。それで貴方が気に病む事はない。ただ水木がマヌケなだけなのだから。尤も、そんな事になったとしても。あいつはきっと単純に、千束さんの手助けが出来る事に喜ぶのだろうけどね』
「……そんな…まさか」
『冗談ではありませんよ。惚れるというのは、そう言う事でしょう?』
好きとは違うと、戸川さんははっきりと言い切った。だが、俺にはその違いが余りわからない。素直にどう違うのかと問い掛けると、水木を知ればわかると言い返された。
何をどう考え、俺にそんな事を言うのか。水木の事を観察しろというのか、いつかわかるだろうからそれまで待てと言うのか。戸川さんの考え自体がわからない。答えを知りたければ、水木を知らねばならないのなら、俺が選ぶのはこれになるのが当然だろうに…。
「……じゃあ、もう、いいです…」
『そうきますか』
「いや、だって…」
『まあ、そう言わずにお願いしますよ』
「…お願いされても、困りますよ」
『だったら、そのまま困って下さい。それで行き詰まったら、水木に聞いてみればいいんです。簡単でしょう?』
「…………」
『まあ、そんな話はさて置き。帰りたいとの事でしたよね、急ぎますか?』
俺の沈黙の理由を正確に把握しているのだろうにサラリと流した虐めっ子が、餌を撒いてくる。今の遣り取りをこんな形で終えるのも癪なのだが、目の前に落とされたそれは魅力的で、釈然としないままでありながら、つい応じてしまう。それが戸川さんの手だと知りつつ素直に転ぶ俺は、何て純粋なのだろうか。泣けてくる…。この人に、俺の爪の垢を煎じて飲ませてやろうか、全く。
「別に、急ぎはしませんが…」
『何か予定は?』
「いえ、何も。ですが、出来れば夜までには戻りたいです。叔母も心配していると思うので…」
先の俺の言葉を忘れずに聞き返してくれるこういうところは、本当に有り難いと思う。どこか支離滅裂気味な水木とは出来ない会話、と言った感じだろう。だが、それが作戦となると、手放しで喜ぶ事は出来ない。ムくれた声も出るというものだろう。こう言うところをもう少し手加減してくれたのなら、言う事はない人物なのだが…。多分きっと、それは無理な相談なのだろう。これが戸川文彦だと納得するしかない。
だけど、やはりそう、きっぱり割り切る事は出来ないよなと。からかわれた先の遣り取りに燻る俺を全く気にせず、戸川さんはサッパリとした声で言葉を紡ぐ。
『そうですね。でしたら、済みませんがもう少しそこに居てくれませんか? どうしても待てない場合は、こちらから管理人に連絡を入れますので、私の携帯を鳴らして下さい』
「…わかりました」
正直、この人のこんな面は、大人だと思うのではなく、ヤクザだと感じてしまう。怖い印象はないが、性質の悪さがどことなく匂う。流石、本物。だけど、俺にはそれを発揮しないで頂きたいです、ハイ……。
『多分、夕方にはお助け出来ると思います。遅くなるようなら、また連絡しますので』
「……」
お助け……って。まぁ確かに間抜けな話、俺は閉じ込められたような状態だから、間違ってはいないのだが……。…それでも、その表現はイヤだ。俺はおとぎ話のお姫様かよ、オイオイ。
ってか。
助けてくれる戸川さんは、だったら何だろう。現実的に言えばレスキュー隊員で、アクション系で言えばスーパーマンか仮面ライダーか。ファンタジーでだと、やっぱり王子様になるのか…? ――馬鹿発想だが、結構笑える。お助けヒーロー、戸川マン。可笑しすぎだ。
『千束さん、それで宜しいですか?』
「え……? あぁ、はい…、お願いします」
一歩間違えば危ない発想でしかない考えに落としかけた笑いをギリギリで飲み込み、何とか返事をしたところで、大事な事を思い出す。戸川マンを想像している場合ではない。
「あっ、でも、俺の携帯の充電、かなりヤバめなんです。夕方まで保つかどうか…」
『判りました。では、何かあればそちらの固定電話からどうぞ』
親機はリビングとキッチンの間、子機は書斎にありますからと言うと、戸川さんは通話を切った。書斎ってどこだよと、ひとり突っ込む俺の呟きに、ピピピーと警告音が重なる。閉じたばかりの携帯を開けると、画面に『充電してください』の命令文がでていた。
間一髪だ。
……いや、違う。これは間に合わなかった事になるのか。折角対処法を教えて貰ったが、アドレスからナンバーを引き出す間もなかったので、戸川さんへの連絡手段は見事に絶たれてしまった事になる。勿論、水木ともだ。この部屋の電話は、出る事を禁じられているので、万事休す。これはもう、戸川さんの言葉を信じて、ひたすら彼が遣って来てくれるのを待つしかない。
音と光が消えた携帯を手の中で弄びながら、そう言えば戸川さんの用件は何だったのかなと俺は考える。居場所を訪ねたと言う事は、どこかに誘うつもりだったのかもしれない。しかし、水木に何も聞いていない上で、一体俺に何の用があったのだろうか。不思議に思うが、話さなかったと言う事は、そう大したものでもないのだろう。
それにしても。何だかこれは、昨晩の水木と同じパターンだなと気付く。俺が悪いのか、彼らが可笑しいのか。電話を掛けてきながら、俺の様子を訊いただけで話を終えるだなんて。案外、彼らは暇なのだろうか? それとも、俺が上手い具合に情報を取られてしまっているのか。可笑しなものだ。どうしてこんな展開になるのかはわからないが、彼らはどうやら本気で、俺をかまっているらしい。
ちょっとしたからかいならば、普通ここまではしないよなと、今更ながらに俺は思う。何を考えているのかわからない水木も、何かを考えているのだろう戸川さんも。パッとしない学生の相手を、まだ止める気はないようであるのを悟る。一週間前のアレで終わりだと思っていたのは、どうやら俺一人だけであったらしい。……何ともズルい大人達だ。全く。
しかし。逆に、彼らに言わせれば。
アレで終われると判断した俺の考えが、甘いと言うものなのだろう。
「……でも、だからってなぁ…」
そう言っても、これはないよなと。ヤクザが一般人をこんな風に中に入れ込むなど、一体誰が予想出来るんだと。俺はソファに倒れ込み、溜息を吐く。
戸川さんとの遣り取りで暫くは誰も来ない事がわかったので、気分転換にテレビをつけるが、何となく、先程以上に居心地の悪さを感じる。自分は何をこんなところで時間を潰しているのかと、何故か良心が苛まれる。自虐は趣味じゃないが、こうしているとまた嵌ってしまいそうだ。
虐めっ子なところが、少しあれだが。戸川さん、早く来てくれ…。
そう願う俺の祈りが、通じたのかどうなのか。
電話から暫くして部屋にやって来たのは、不意打ちも不意打ち。
水木瑛慈だった。
2005/12/25