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 何か物音がしたなと、暇潰しにつけていたテレビから視線を外し振り向くと、丁度リビングの扉が開いたところで……。戸川さんが来てくれるのだとばかり思っていた俺は、現れた人物に驚き、目を見張る。
「……あ…」
 ……あぁ、どうしよう。水木だよ…。家主サマのご帰還だよ……。
「……何て顔だ」
「……スミマセン、不細工で」
 アンタみたいに完璧じゃないが、これが俺の顔だ、文句あるのか畜生。帰って来た途端嫌味かよ。っていうか、不躾発言にムカついている場合ではないぞオレ。何てこったい、帰るのが早過ぎやしないか? ここはアンタの部屋なのだから当然いつ戻ろうと自由だが、まさか明るいうちに帰って来るとは。そうならそうと、言っておけよ。心構えが全然出来ていないところに卑怯だぞ。
 頭の中で、先程まで何気なく見ていたお笑い番組の影響か、ポンポンと言葉が生まれてくる。しかし、当たり前だが、それを口にする事は出来はしない。俺にだって、一飯の、一宿の恩はあるというものだ。だが、それでもやはり…、帰って来たのかよと思ってしまうのは仕方がないだろう。俺は、戸川さんを期待し待っていたのだから。
「……」
「…………」
 無言で、何故か立ち止まったままの水木と、中途半端に振り返った姿勢のままで見詰め合う。だが、結局先に根をあげたのはやはり俺の方で、不自然にならない程度に視線を横へと逸らした。水木が開けたままである扉の向こうに見える廊下に、人影はない。誰かが遣って来そうな雰囲気も。どんなに必死に願うが、残念ながら戸川さんは来てくれていないようだとその期待をとりあえず脇に置き、俺はもう一度水木を見た。現状は、俺が何か言わねばならないような沈黙が落ちているので、頭に浮かんだ無難な言葉を向けてみる。
「お、お帰り…?」
 疑問形になったのは、悪足掻きにも似た切実な希望からだ。しかし。
 帰宅ではなく立ち寄っただけで、直ぐに出るのだとの言葉を望んだ俺を知っていて意地悪をするように、少し間をあけて返事をした水木のそれは否定となるものだった。
「……ああ」
 …ああ、ですか。そう、ですか……。出掛けるのならば、話は早い。それに俺も便乗し、お暇しようと思っていたのに、残念だ。
 ならば、自ら切り出さねば、願い出なければならない。帰ってきたところ悪いが、下まで送ってくれと。もしくは、管理人に連絡をしてくれと。……しかし、その前に言うべき事もあるので、まずはそれだ。
「えっと、あの…昨晩は、どうもお世話になりました」
 微妙な緊張感に乾いた声しか出なかったが、俺は立ち上がり体を真っ直ぐ水木へと向け、ペコリと頭を下げた。何をどう言おうと世話になったのは事実なのだから、感謝まではいかない礼だとしても、曖昧に誤魔化すべきではないだろう。
「ありがとうございました」
 緊張ゆえの気まずさを多少は覚えながらも、はっきりとそう口にする。だが。
 水木が返したのは――無言だった。視線は変わらず向けてきているので無視ではないのだろうが、無言。無言無言、無言…。
「……」
「……」
 沈黙の中に、テレビ番組の笑い声が交じる。物凄く、微妙だ。居心地が悪過ぎる。もしかして、陰険な嫌がらせなのかこれは? 堪らない…。何故に無言なのか。俺は変な事を言ったか?言ってないだろうオイ。お礼に対してそれはないんじゃないか。「あ」でも「ん」でも、言えよクソ…。
 ……戸川さん、俺は早くも負けそうです。…アナタ、助けてくれるんじゃなかったのでしょうか? これでは、更に窮地に陥っている様なものだよ。何故に、敢えて水木を派遣したんだよ…。この男は、ヒーロー張りの顔の良さではあるが、中身は全然それには向いていないでしょう。適材適所で頼みますよ、戸川さんッ!
 この状況を俺にどうしろと言うんだよ、どう出来るんだよと自分の背中に掛かるその重さに死にかけてでもいるように目を泳がす俺の視界の中で、マネキンのように立っていた水木が漸く動いた。なんだよ生きているじゃないかよと、嫌味を向けたくなるが、やはり俺には出来ない。ヤクザといえども、水木の性格を考えれば嫌味を言っても命の心配はしなくてもいいが、だからと言っておいそれと出来るものでもない。何より、打っても響かない奴への突っ込みは、最終的に自分に返ってくるので、色んな意味でツライものだ。
 水木はスーツの上着を脱ぎカウンターに置くと、ネクタイを解きながら、立ったまま途方に暮れる俺を再び見た。何か言うのかと、俺は反射的に身構えたが、男の唇は動かない。俺を見たまま、水木は無言で、シャツのボタンを胸のあたりまで外した。
 爪先が、こちらに向く。
「…………」
 ゆっくりと近付いて来る男の姿に、俺は見事にのみ込まれた。威圧感はない。だが、強い力が向かってくる圧迫は感じる。何といえばいいのか…。言葉にすれば笑ってしまうようなものだが、その存在感に圧巻だ。水木の事ばかりに気をとられて、自分自身の存在を忘れそうだ。
 ……それは、マズイ。
 ダメだ、ヤバイぞと、千切れかけていた理性を引き寄せ、態勢を整えようと俺は話題を探す。必死で意識を切り替えようと、視線を逸らし部屋を見回す。
 俺の眼が捉えたのは、廊下への扉だった。救いの神が現れない今、それが俺の逃げ道であるのだが……身体は動かない。だったら、神ではなく悪魔でも天邪鬼でも何でもいいから、戸川さん、来てくれ! お願いします! 助けて、戸川マン!!
 しかし、心でどんなに叫ぼうが、お助けマンは現れはしない。……さすが天邪鬼。期待だけさせて、後は放置かよ…。
「……あ、あの、戸川さんから電話を貰いました…」
「知っている」
 どこか不機嫌なそうな、低い声が即座に返ってきた。
「あ…、そう……」
 …ええ、ええ。はいはい。それは失礼しましたよ。けれど、俺も多分そうなんだろうなと、一応は思ったンですよこれでも。だが、ズレた話題になるともわかっていても、何かを言わなければならなかったんだから、仕方がないじゃないか。苦肉の策だったんだ。それを少しは汲んでくれても、罰は当たらないんじゃないか? なあ?
 相手に微塵の効果も与える事は出来ずに、俺の努力は水の泡と化した。急激に脱力感に襲われ、ヨロヨロと俺はソファに座り込む。もう嫌だ。何なんだよ…。項垂れる俺に、水木の事を構う余裕はない。
「携帯」
 ついでに、こんな男など知るかとまで思ったが、それでも意味不明な言葉は気になってしまう。……理不尽だ。水木と違い、相手を無視しきれない自分が悲しい。
「…ハイ?」
「貸せ」
「……」
 首を傾げた俺に、水木はくっきりと眉間に皺を寄せた。そして。
「……あっ…」
 軽く体を曲げた水木が、ソファの上に置いていた俺の携帯を取り上げた。手を伸ばす際、間近に寄ってきた横顔に意識が奪われる。性格にも雰囲気にも多少は慣れたと思うが、この顔にはやはりまだまだうろたえてしまうようだ。本当に、創られた美術品ような顔立ちをしている。不意打ちの接近は、心臓に悪い。その中身をわかっていても、ドキリとしてしまうのだから、性質も悪い。
「バッテリー切れなんだろう」
「え…?」
 どこか不機嫌な声で落とされたその言葉の意味が理解しきれず、戸惑いに小さな声を溢すと、溜息を吐かれた。
「…充電するぞ」
「あ、はい…。……お願いします」
 俺の言葉を待つ訳でもなく動く水木の背中に向けて何とかそう言い、ホッと息を吐く。携帯の世話を焼いてくれると言う事は、思う程も怒っている訳ではないのだろう。怒っている訳ではなく、呆れているのか、少し面倒がっているだけなのか。別に何でもなく、不遜なのは地なのか。なんにしろ、戸川さんが無理やり水木をここに帰した訳でもなさそうだと、俺は漸く少し安心をした。昨夜に続き今日も水木の仕事を邪魔したとなれば、褒められた内容の仕事ではないとしても、流石に罪悪感が湧くと言うものだ。
 尤も、こんな時間に帰って来るのならば仕事ではなかったのかもしれないのだが、この場合、妙な勘繰りはせず無難にお仕事だと思っておく方が賢いのだろう。不必要な詮索は、余計な誤解を招く原因にもなりかねない。何より、「女の相手でもしていたんだろう」なんて俺が言えば、嫌味ではなく妬みになってしまうだろう。下手な事はしないのは勿論、多くは考えないに限る。
 しかし、それにしても。
 戸川さんから俺の話を聞いていたのであれば、確かに携帯も大事ではあるが、手早く帰して欲しいのだがと、今度は重くて深い息を俺は吐いた。ひとつの事に安心した途端、別な憂鬱が大きくなるとは。自分の事ながら、忙しい奴だとシミジミ思う。頭も心も色んな事で一杯いっぱいで、人生の無駄をしているくらいに何も考えずに生きていた昔が懐かしくなる。友達と遊ぶ事だけを考えていた頃に戻りたいとは思わないが、俺とてこの辺で休憩を貰わねばもたないだろう。
 頼むから暇を言い渡してくれと、念力を込めるように俺は右手をグッと握る。しかし、アダプタに携帯を差し込んだ水木は、充電中を示すランプが点いたのを確認するとそれをチェストの上に置き、何も言わずに部屋から出て行った。
 もしかして。俺が帰りたがっている旨を聞いていないのだろうか…? ――戸川さんならば、どうでもいい携帯の話をしながらも肝心な事は態と言わない、なんて事くらいは簡単にやりそうだ。なんら不思議ではない。だが。しかし、そうであったとしても、水木自身はどうだ。昨日の状況からいっても、これからどうするんだ?と普通は聞くものではないのか。大人ならば、「一晩寝て落ち着いただろう、そろそろ帰れよ」と言うものじゃないのか。
 何故に、携帯には反応しながら、俺の存在はスルーなのか。…可笑しい。絶対可笑しいぞ、水木瑛慈……。
 無言を返されたからと言って、そのまま続けて退室を申し出られなかった俺も情けないといえば情けないのだろうが…仕方がないじゃないか。会話をする相手に無言で答えられるだなんて、俺には余り経験がないんだ。どうすればいいのか、はかれなくて当然だろう。無口な友人も、相槌くらいは打ってくれた。だが、水木は違う。しかも、ヤクザだと思えば、その無言も畏怖を含んでいるように感じられて重ねて言葉は向けられない。でも、これって普通だろう…?俺って可笑しくないよな……?
「…………」
 俺が変なのではなく、むこうが変なのだと思うが。疲れている心では、その自信を持つ事が出来ず、俺は息を吐く。肺の中だけではなく血液中の酸素まで出し切るように息を吐ききり、ゆっくりと大きく新鮮な空気を吸い込みながら思う。どちらが正しいとか、変だとか。そういう答えは関係ないのだ。間違っていようが何だろうが、それでも水木を相手にせねばどうにもならない。理由も原因も何もかもを突き詰めようと考えれば、訳のわからなさに頭の中には虫が湧き、脳を食べるかのように蠢きだすのだから、何も考えてはならないのだ。
 落ち着いたり、冷静になったりする事は難しいが。途中で諦め挫折していたら、俺は一生このままこの部屋にいる事になるのかもしれないぞ。頑張れオレ、負けるなオレ。水木にちゃんと。ちゃんと――。
「メシは」
「…………ハヒ?」
 ちゃんと言おうと決意し自分に喝を入れかけたところへ、いつの間にか戻ってきていた男に、またもや脈略が掴めない言葉を落とされた。メシって何なのだか、余りにも状況とは掛け離れたそれに、俺は力のない鼻に抜けた息を溢す。
 折角、力を得る為に真面目に真剣に吸い込んだ空気であったのに、こんな所で使われるとは。何だか勿体無い。釈然としない。…クソ。俺の意気込みを返してくれ。
「メシだ」
「メシ…」
 水木の言葉をリピートして、メシが「飯」である事に気付く。
「ああ、ごはん…?」
 赤ん坊のようなその言葉数で気付いた俺って、結構凄くないか?と、小さく笑う。だが、そんな俺を、当然ながら水木は無視だ。当たりだとも何だとも言わず、「食べたのか?」と続ける。確かにクイズじゃないが、疑問に対し同じ言葉で返してきておいて、それはないだろう。つまらないヤツだ。
 っていうか。今度は何だよ。何の質問だ、コレは。何が知りたいのか、話が見えなさ過ぎるぞ…。
「いえ、食べていませんけど…」
「何故」
「何故って……いや、その…」
 …何故って聞かれても、困る。そんなのは当たり前なのだから。人ん家の冷蔵庫を開けて食料を漁る趣味は、俺には無い。ある方が問題だろう、普通。
 だが、好きにしろと言われていた手前、その理由を口にするのは少し憚られた。こんな事で、「俺は言った筈だ」と責められたくはないというもの。水木ならば絶対、遠慮しての行動など理解しないだろう。戸川さんとはまた違う理由で、勝手に小心者などというレッテルを強引に張り付けにきそうだ。その時はきっと、バシリッと大きな音がする程叩かれるのだろう。それは何とも、痛そうだ。張られたくはない。
 顔に似合い、指は長く爪の形までも良いが、思う以上に堅い水木の手を無意識に目で追いながら、俺は効果のなさそうな言い訳を口にする。
「だから…さっき起きたばかりで……」
「戸川の電話で起きたんだろう」
「あー…」
 …確かに、あれから一時間くらいは経っているが……そんなの突っ込むなよ馬鹿野郎。変なところで細か過ぎるぞ、クソ。いつものように無視をしてくれ、無視を。
「何ていうか……、寝過ぎたから、なんかボケっとしていて……」
「顔、洗ってこい」
「…………ハ?」
「寝癖」
「ネグセ?」
「酷いぞ」
「エッ? マジ!?」
 唐突な水木の言葉を飲み込むと同時に、俺は素早く両手で頭を押さえる。元から飛び跳ねたような髪型なのに、それでも寝癖だとわかると言う事は、相当に酷いのだろう。髪が跳ねていようと死にはしないし、部屋着姿の今の自分には寧ろ似合っているのかもしれないが。相手はこの完璧男なのだ。完成された美の前で、自分が怠惰を示しているというのは、考える以上に堪らない。整いすぎている相手がおかしくとも、普通な自分がみすぼらしく思えてくる。…理不尽だ。
「…………」
 恥ずかしさに赤くなっているだろう顔を隠す為に俯くと、短い命令が後頭部に落ちてきた。
「行け」
「……」
 それが絶対的な威力を持つのは、ヤクザだとか大人だとかではなく、水木だからこそなのだろう。生まれながらにしての権力者だ、支配者だ。格が違うと教えられる物言いは、反抗心を根こそぎ奪う。
 物凄く癪に障ったが言い返す事はせず、俺は無言で立ち上がるとそのままリビングから逃亡した。負けた訳ではないと思うのに、実際には敗北感が付き纏う。まるで、粋がっていたガキが初めて挫折を経験したかのような気分だ。絶望というか、何もない自分に幻滅と言った風に、心に寒い虚しさが広がっていく。本気さなど殆ど見せていないのに、適当に命じる水木の言いなりになっている事が、悔しくて空々しい。
 少しは慣れたとそう思ったのは、本当にただの勘違いだったのだろうか。水木が、わからない。確かに昨晩は気遣ってくれたのだと思っていたのに、これではそれも怪しくなってくる。彼の強引さは俺を楽にしてくれた面もあったが、あれもただの偶然だったのかもしれない。
 あの低い乾いた声で無表情に落とす単語の命令は、本当にどうにかならないものだろうか。腹立たしくて仕方がない。それに加え、怖い訳ではないのに反論出来ないのが、更にムカツク。水木のアレは、全てを支配する。会話をするつもりはないのが、ヒシヒシと伝わってくる。何も言えないのではなく、まさに、水木が何も言わさない。
 その絶対が、俺は嫌いだ。我慢ならない。あれをくらう度、俺はこの感情に堪えねばならないのか。最低だ、空しいどころではない。感情だけではなく、状況が絶望的だ。
 これに関しては父親以上に最悪な男なのかもしれないなと思いながら、俺は力なく扉を開け脱衣所に入った。洗面台に置かれた新しい歯ブラシの封を開け、歯磨き粉を捻り出す。こうなれば、身なりを整え、さっさとお暇するに限る。
 歯ブラシをパクリと咥えると、ミントの香りが鼻に抜けた。ガシャガシャと少し乱暴げに歯を磨きつつ、鏡を覗き――俺は盛大に顔を顰める。
 畜生、ヤられた。
 寝癖などついていないじゃないか…!
 後ろも大丈夫だと確かめた後、俺は苛立つ勢いのまま口を濯ぎ顔を洗い、洗面台に凭れ項垂れた。水木にからかわれたのか、どうなのか、余り追及はしたくない。だが、俺がヌケている事は、間違いないのだろう。どうやら俺は、完全にイイ様に弄ばれているようだ。
 堪らない。……帰りてぇ。

「飯だ、食って来い」
 カチャリとドアが開くと同時に、また命令が降って来た。今度は食えかよと、顰める顔の水滴をタオルで拭う俺の横で、水木は躊躇する事なく服を脱ぎ落とし浴室へと入って行く。ちらりと見た裸体は、羨しく思うくらいの、嫌味ない筋肉が付く均整のとれたものだった。若干だが、着痩せするタイプなのかもしれない。服を着ている方が、スラリとした印象を持つ。だが、どちらにしろ、マネキン並みにバランスの良い体だ。人間じゃない。やはり、宇宙人が変身でもしているんじゃないのか?
 しかし、それにしても。
「…………」
 だからと言って、人が居るところで勝手に脱ぐなよ、オイ。女ではないので問題はないが、断りくらい入れろ。それが礼儀だろう。見られるのは恥ずかしいと照れられても気持ち悪いが、幼い子供ではないのだから慎みくらいは持つべきだと、磨りガラスの向こうのシルエットを睨み付け俺はキッチンへと向かった。
 だが、何故か食事はダイニングテーブルにはなく、先程まで居たリビングのローテーブルに並べられていた。ソファにではなく直接床に座りスープスパゲティを食べながら、自分はペットのようだと俺は溜息を吐く。風呂に入れられ餌を貰い、寝る場所を与えられて起きたら、また餌。そのうち、「お手」と命令される瞬間が来るのかもしれない。果たして、その時俺はちゃんと抵抗出来るのだろうか。…かなり不安だ。条件反射で右手を出したら――その瞬間に俺の人生終わりはしないだろうか? ……色んな意味で、怖い。恐怖だ。
 そんな事には絶対ならないようにしなければと考えながらの食事は、消化不良になりそうな気もしたが、俺は美味しくペロリとたいらげた。悔しいが美味かったと、怒っていた事も忘れ満足する。人間、お腹が満腹になれば寛大になるように出来ているらしい。
 だから。
 キッチンへ食器を運んだところにやって来た水木に、「ご馳走様でした」と伝えたのは礼儀もあるが、感謝の方が大きかった。腰にバスタオル一枚だけの格好は若干気になるが、そこには触れないでおく。どんなにイイ身体でも、所詮は男のもの。スルーでオッケイだろう。
「美味しかったです」
「…………あぁ」
 それは心からの言葉だったが、生返事に対し更に何かを言う気にもなれず、俺はシンクで食器を洗い始める。自分が食べた分くらい、当然だろう。まるで言い訳のようにそう思いながら、ふと昨夜の食器はどうしたのだろうかと考える。俺が食事をした後、水木は直ぐに出掛け、帰って来たのは今のはず。なのに、汚れた皿はもうない。
 考えられる答えは、ただひとつ。食事の用意をする時に、水木が洗ったと言う事だ。帰ってきた早々ご苦労な事だ……と思っている場合ではなく。テレビを見る暇があったら洗っておくべきだったと、今になって気付き、俺は落ち込んだ。水木はどう思ったのだろうか……気まずい。
 最近の若者は…と呆れられたのだろうかと考える俺の横に、近づいて来て欲しくはないのに、裸の水木が並んでくる。何か嫌味を言われるかと少し身構えると、プシューと空気が抜ける音が傍で上がった。直ぐに、コクリと喉が鳴る音も聞こえ、微かにアルコールが匂う。
 …何故。どうして。敢えてここで、ビールを飲む…?
 寛ぎたいのならば、あっちへ行けよ。行ってくれ……。
「…………枕は、どうだ」
「……ハイ?」
 マクラって、言ったか? 言いましたか?
 ……それって、えっと…どのマクラ? ……もしかして、あの「枕」か?
 また何を言い出したんだと横を向くと、水木も俺を見ていたのだが、予想以上に近かったそれに慌てたのは当然だが俺だけだった。うわっ!と内心では飛び跳ねつつも、出来るだけ不自然にならないよう、ゆっくりと視線を泡塗れの手元へ戻す。…ちょっぴり、情けない。だがそれ以上に、何故にこうも近くにいるんだとウンザリしながら、俺は相手の言葉を待った。
 しかし、水木もまた沈黙を作る。
「……」
「……」
 ……訳がわからないぞ、オイ。脈略のない問い掛けを説明もせず、このまま放置する気なのか? そうなのか!?
 スポンジで必要以上に皿を擦りながら、それは困るなと俺は眉を寄せる。会話が終わる事は嬉しいが、こうもわからないままなのは気になって仕方がない。先程の「メシ」を考えれば、大した事ではないのだろうが……だからと言って手抜きをせずに尋ねて欲しいものだ。マクラが「枕」だと予想は付けられても、問われる意味まではわからないんだぞ、オイ。俺は、極々普通の地球人だ。言語以外に伝達方法を持つ宇宙人ではないのだ。テレパシーは、仲間内でやってくれ。俺にそれを求めるな。
 だから、さっさと答えろよコラ!
 グッとスポンジを握ると、ボタリとシンクに泡の塊が落ちた。
「……マクラって…何の事ですか」
 …沈黙に耐えきれず先に音を上げ負けるのは、いつも俺のような気がする。悔しい、悔しい。悔しすぎる。だが、放置される方がもっとキツイと自分を慰め、俺は素直に水木に問い掛けた。「枕」なんて、一体何がどうなり出て来たのか。是非とも教えて欲しいものだと。
「寝具の、枕ですよね…?」
「……ああ」
「それが、何か?」
「……」
 黙るな答えろともう一押ししかけ、ふと、涎を落としていたのかも知れない事を思い出す。嗚呼、もしかして。俺、地図を描いていました? ――何て、この男相手には聞けやしない…。戸川さんなら大丈夫だが、水木だと黙殺されそうだ。自分で確かめる方がいいだろう。
 これを洗い終わったら、寝室に行って見てこよう。
 そう俺が決めたところに、漸く待ち望んだ水木の答えが落ちてきた。
「……眠れたのかどうなのか、訊いている」
「え…?」
「枕は、あったのか」
「……あぁ、何だ。そう言う事ですか」
 返された答えは、馬鹿らしくなる程のもので。俺は思わず気の抜けた声で返事をする。勿体をつけ溜めたわりには、引き延ばしたわりには、つまらないオチだ。あぁ、それで枕か、なるほどナルホド。やっと意味がわかったぞ、理解が出来た。良かったヨカッタ。何て、間違っても喜べやしない。不発もイイところだ、全く。
「そうですね…。まあ、お陰様で…ハイ」
 気にしてくれるのなら、最初からわかりやすく訊いて欲しい。これだと、親切ではなく、嫌がらせに近いぞコラ。
「ちゃんと寝れたんだな?」
 質問は不親切なわりにはしつこい繰り返しに、若干声を強めて俺は答える。
「ええ、貴方が出掛けられてから、戸川さんに電話を頂くまでぐっすりとなので、逆に寝過ぎたくらいですよ」
「なら、あのベッドを使えばいい」
「…………ハァ?」
 ――またまた、おかしな事を言い出した。何がどう繋り、「なら」なんだ。枕の次はベッドか、オイコラ。一体それを何に使えと言うんだ…?。
「……どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ」
「……」
 水木のベッドを俺が使うにあたっての理由が、そんなひと言で済ませられるはずがない。そのままとはどういう意味だよと考え、思い付いた事に俺は溜息を落としかけ、何とか飲み込む。流石にこの距離では、躊躇うものだ。聞かれた瞬間、頭を叩かれても不思議ではない近さ。
 なので代わりに、軽く顎を引いた状態のまま首をまわし、俺は上目遣いで水木睨み上げた。
「――まさか、同居の話ですか…?」
「そうだ」
「……」
 そうなのか? そうなのかよ!? 本気なのかと素直に驚き顔を上げると、水木は真っ直ぐ俺を見ながら左手の中の缶を潰し言う。
「同棲より、マシだろう?」
「…………」
「冗談だ」
「……全然、笑えませんよ…」
 誰か、この男をどうにかしてくれ……。
 俺には、どうにも出来ない。したくもない。限界だ……。
 まさか、いくらなんでも、俺と会話を楽しもうなどと考えている訳ではないだろう。なのに、この手の軽口を叩く、その神経がわからない。心境はまさに、頭の中には脳ではなくミミズでも詰まっているンじゃないのか宇宙人、だ。前に読んだ、虫が動く事で脳味噌が出来てカカシが話をするという奇抜なファンタジー小説を思い出す。水木がその話のカカシくんと同じ仕組みであっても、なんら不思議ではない。寧ろ、自分と同じ人間だと言われる方が、納得出来ない。一体、この男の思考回路は、どんな仕組みになっているのだろうか。興味はないが、知っておく方が安全なのだろう。誰か俺に教えて欲しい。
「…………」
 遊ばれているのか、何なのか。百歩譲って水木の訴えの全てを本物だと信じたとしても、誘い方からして間違っている気がするぞと呆れながら、俺は食器を洗い終えシンクを離れた。
 寝る場所があるからといって、やはりヤクザと同じ屋根の下は有り得ないだろう。少なくとも、簡単に「なら」なんて言葉で勝手に決められるようなものではない。まして、「だったらそうしよう」なんて軽く決めて良いものでもないはずだ。
 水木の言葉は、おかし過ぎる。
「家出、したんだろう。これからどうする気だ」
 俺の苛立ちを感じでもしたのか。打って変わって、リビングへと向かう俺の背に、静かな問いがかかる。…最初から、何故こう問わないのか。ますます水木がわからない。
「…家出は、昨晩だけです。これから叔母のところに帰ります」
「ここに住め」
「戸川さんから聞きませんでしたか?」
 振り返ると、水木はシンクに凭れたまま、俺を見ていた。それは、一度捕まると逃げ出せなくなるような視線だが、今は恐怖も不安も感じはしない。ただ、自分を、自分だけを見ているのだと教え込まれるもので、場違いにも俺はドキリとする。しかし、実際にはそんな事はないのだろう。俺はただ、男の視線上に居るにすぎない。見つめている訳ではなく、ただ、視界に入っているだけなのだ。
 前に戸川さんが言っていた。水木は、見た目と中身にギャップがあるのだと。あれは戯言ではなく、事実だったのだと、男の眼を見ながら俺は実感する。
 水木の持つ人を惹きつける魅力は、本人の意思に反しその威力を最大限に発揮するのだ。きっと自身にその気がなくとも、この男は誰彼構わず魅了してきているのだろう。この視線同様、たとえ口先だけの言葉で口説いても、相手には本気だと思えるものなのだろう。いや、嘘だとわかるものでも、本気だと信じたいものなのだろう。この見目でそれなら、落ちない女性はいない筈だ。それこそ口説き文句がなくとも、こんな風に見られただけで、全てを信じてしまうというものなのだろう。
 厄介な、危険な男だ。だが、それをわかっていてハマる奴が馬鹿なのであって、俺はそんな馬鹿にはなる気はない。水木の告白が例え本物でも、部屋に住めと本気で誘われていようと、口説かれる気は俺には全くない。今、実際に俺を見ているのだとしても、強すぎるものは逆に煩わしいものだ。自分の手に余るのがオチだと知りながら、それを手に持つ趣味はない。これ以上の苦労は、背負いたくはない。
 女性ならば、何をしてでも手に入れたい男であるのだろうが、俺としては幸福になるとしても遠慮したい人物だ。そこにある幸せが本物であると保証されようとも、俺は要らない。手にしたくはない。

「俺は、貴方のその申し出も気持ちも受け入れる気はないと、あの人に伝言を頼んだのですが」
「聞いた。だが、関係ない」
 なくはないだろう、全然。関係ありまくりだ。こんなところでボケはいらないぞ。
「どこが、関係ないんです?」
「お前が拒否するのは、俺の気持ちだろう。ここに住めない理由にはならない」
 …何だって?
 またおかしな思考を披露し始めたぞと水木をまじまじと見るが、そこには相変わらずの無表情が浮かんでいるだけだった。逆に、淡白さがかえって男が真剣であるかのように伝えて来る。真面目にボケているのか、己の解釈に酔いしれているのかは知らないが、ここでのその態度は傲慢を通り越し奇怪だ。……MIBではなく、ゴーストバスターの世界か? オイオイ…。
 拒否が理由に、何故ならない…?
「……充分なっているでしょう」
「それは、俺がヤクザだからか?惚れていると言ったからか?」
「……そう、ですね…」
 …何故にその解釈で、強気な声が出せる?
 性質の悪い霊でも乗り移っているんじゃないかとフザケタ考えに走っていた俺の中から、そんな余裕が一気に消えた。思わず、生唾を飲み込む。
「だが、それでもお前はここで寝ただろう。昨夜は出来て、今夜は出来ないのか?」
「……」
「ここに住む事は可能なはずだ」
「…………」
 水木はそう言いきり、凭れていたシンクから体を起こした。それにより若干高くなった眼を追う事はせずに、俺は逆に視線を下げる。
 言いたい事は、わかった。しかも、意外な程に的を射ている意見だ。だが、屁理屈とも言えよう。何より、俺が言うのならともかく、水木が指摘するのはいかがなものか。この男だけはしてはならないツッコミだろう、これは。
 相手の神経を逆撫でするのが本当に巧い男だ、全く以てムカツク。自分の行いを棚に上げ、何を開き直っているのか。昨夜の事は、互いに問題があったのだ。俺ばかりが責められる謂われはない。水木のように開き直りはしないが、卑怯者になるのが俺だけなのは癪に障るというもの。昨夜、俺が強引にこの部屋に居据わったのならば、水木が俺を拒否していたのならば、こんな風に突かれても仕方がない。だが、実際には、俺は遠慮しようとしたのだし、水木が話を聞かず引き込んだのだから、叩かれるのは割に合わないというものだ。納得出来ない。
 それなのに、よくもまぁ恥ずかしくもなくこんな事が言えるなと思い、ヤクザにとってはマニュアルみたいなものかと俺は考え付く。屁理屈を捏ねて、相手を追い詰める事こそが仕事ならば、こんなものは朝飯前か、寝ながらでも出来るものと言ったところなのだろう。
 そう思うと、一瞬でもたじろいた分、余計に腹立たしさが増した。
「…確かにそう訊かれたら、今の俺には可能だと言えるでしょう。だけど、問題はそこじゃない。出来たとしても、俺はしたくはないんです」
「何が気に入らない?」
 だから。気に入る、気に入らないではない。したくはないと、俺はいっているんだ…!
「貴方に頼る理由がないと言っているんです」
「理由ならあるだろう。俺がそうしろと言っているんだから」
「何を……」
 ふざけた事をと言いかけ、言葉を飲み込む。昨晩も似たような事を言われたが、その時はただの傲慢だと思った。だが、これは…。もしかして……?
「……まさか…脅しとして捉えろとでも…?」
「お前の好きなように思え」
「…………」
 まさかと思いながらも向けた質問に、困るものでしかない言葉が返された。脅しなどではないと否定されなかったその返答は、余りにも深いものだ。俺を縛るつもりなのか、それとも楽にさせようとでも言うのか。どちらにも捉える事が出来、真意が見えない。
「水木さん…。俺は、貴方がわからない。一体、何を考えているんですか…?」
 考える事を放棄し、俺は手っ取り早く答えを知る為に、本人に尋ねる。
「お前が戸惑うのは、尤もだ」
「……わかっているのなら、もう…止めて下さい」
「無理だ」
「……」
 無理だ、じゃないだろう。そう顔を顰めたところに、意外な言葉を向けられた。
「だが、妥協はしている」
「妥協…?」
「言っただろう、何もしないと。俺は、お前に危害は加えない。当然、束縛もしない。お前はここで普通に生活をするだけでいい」
「生活って、そんな……」
 だから、それがわからないのだ。水木の好意の深さが、真意が、曖昧すぎる。俺に何を求めているのか。ただこの部屋に居ればいいだけなのだという、その感覚が俺にはわからない。本当に、それはペットを飼うみたいなものなのだろうか? 子供を可愛がるみたいなものなのか?
 ならば、リュウを構うのと同じような感覚なのかもしれないなと、俺は考えてみる。自分にはあの幼子の様な保護欲を掻き立てるものは流石にないが、ひと回りも離れているのだ。水木は俺の中に何かそんな感じの、気にせずにはいられないものを見付けたのかもしれない。知り合いに似ているだとか、それこそ弟みたいだとか。簡単に言えば、そんなところなのではないただろうか。喩えるなら、そう。俺が富田みとを可愛がるのと、同じなのかもしれない。俺にとって彼女は、好意を持っているが、恋心はないと言い切れる存在だ。水木も、確かに惚れたとは言ったが、束縛もしなければ体の関係を求める気もなさそうで。つまりは、好意以上の情はあるのだとしても、生臭い愛憎は殆どないと言う事なのではないだろうか。
 昨晩、水木は俺に手を貸すのだと言った。ヤクザがそうであるのはおかしいが、それは俺にも覚えがあるものだ。友人が困っており、自分が出来る事があるのならば、力を貸すのが当然だろう。まして、それが恋愛とまではいかずとも、何らかの情を持つ相手ならば、多少無理をしてでも手を差しのべるはずだ。
 そう。決して水木の行為は、否定し尽くす程もおかしいものではない。考えが足りない部分もあるが、それをわかっていての行動なのかもしれないし、何かあれば対処出来るだけの力はあるのだろう。多分、闇雲に誘っている訳ではなく、水木は水木なりに色々と考え、俺に提案を持ち掛けているのだ。
 だが、それでもやはり、受け入れがたい部分の方がまだ断然大きい。
 友人であろうとも、節約の為に一緒に住もうとなる事などなければ、当然ながら進んで面倒を見ようとする奴などそうそう居ない。だから、水木のその行動の理由が俺に対する好意が大部分を占めるのならば、それは軽い気持ちではされていない事だ。だが、果たして、その好意が本物なのか。どこまで信用出来るものなのか。俺自身どれだけ信頼出来るのか。それが最大の問題点で……。
 もしも俺が水木の様な、女性は勿論、同性をも惹きつける魅力を持っていたのならば。きっとこんな風に迷う事なく、相手の言葉を鵜呑みにしていただろう。だが、残念ながら、顔の作りは整っている方ではあるが、俺は他人を魅了する様なものは持ってはいない。自分で言うのは嘘臭いが、性格は悪くはないので、人当たりはイイ方だ。しかし、だからと言って、人を見る目が肥えている男に好かれる程、出来た人間ではない。寧ろ水木に対しては、敵対心が剥き出しだったり、暴言を吐いたりと、魅力にはなり得ない面ばかりを見せている。俺ならば、こんな餓鬼に惚れはしない。絶対だ。
 それなのに、水木は俺を誘う。断ったからこそ、逆に意地になっているのではないだろうかと思えるくらいだ。けれど、水木の淡泊な性格からして、その可能性は低いように思える。
 だったら、水木の好意は真実だという事になるのだが。
 そうなると、こんな最高級な男が自分を構うその事実に、俺としては尻込みをするというものだ。何を血迷って、役に立たない俺の様な餓鬼を望むのか。逆にこちらが申し訳なく思ってしまうくらいである。
 卑屈になっているわけではなく、ただ単純に。俺はどうしても、こんな自分に惚れる水木のその部分が理解出来ない。何度も思った事だが、この男ならばもっと似合う相手がいるはずだ。何故に、敢えて俺なのか。親と喧嘩をして家出中の、生意気なだけのただの学生だ。趣味が悪いとしか言えない。気になったと言っていたが、ちょっと眺めれば、気にする要素は全くないとわかるはずだ。
 本当に、何故なのか。
 そう思い、既にもう水木の言葉や態度が問題なのではなく、俺自身のその部分の納得具合が鍵となる段階になっている事に気付く。その「何故」がわかれば、俺は。
 俺は……。
 漠然と、霞みがかった向こうで思い描いたそれが、霧が晴れストンと俺の中にクリアな状態で落ちてきた瞬間――。
 俺の身体は当然のように逃げる道を選んだ。余りの大きさに、その衝撃を受け止められない。
「ちょっ…待って! 来るなッ!」
 近付きかけていた水木を、両掌を見せる事で制し、数歩後ろへ下る。水木が訝るように見てきたが、それどころではない。両手で髪を掴み、俺は頭を押さえ呻いた。
 今、自分は物凄く嫌な事に気付いてしまった気がする。見つけなくていいものを、見つけてしまった。掘らなくてもいい穴を、掘り下げてしまった…。
「どうした?」
「……」
 どうした、ではない。どうなっているんだ、だ。警戒していたのに、拒絶していたのに、俺は一体どうしてしまったのか…。何を考えているのか……。
「……最悪だ」
 自然と口から零れたそれは、今の自分を表す言葉としてはこれ以上のものはないだろう、的確なものだ。だが、だからと言って、それは何の慰めにもならない。
 あれだけ厄介だと避けていたのに、気付けば俺はそれを認めているではないか。最悪も最悪、自分は馬鹿を極めようとしているのか。水木の言葉を、既に腹の中まで飲み込んでしまっている。それ自体を面前で否定していたはずなのに、気が付けば攻防は、俺の中でのものになっている。…悪夢だ。
「おい」
 俺の肺は二酸化炭素ではなくメタンかプロパンでも作り出したのではないかと思うくらいの、とても重く苦い息を吐き出しながら、声を掛けて来る水木に視線を向ける。
「鳴っているぞ」
「…………ナニ?」
「携帯」
 今とった妙なアクションを指摘されるのかと思いきや、有り難くも俺のその奇行には触れずに、相手は淡々と現状を口にした。確かに、俺の携帯電話が軽快なメロディを響かせているのだが…。こんなところで一般的な親切心を見せるのなら、もっと別なところでお願いしたいものだ。それとも、これは着信音が五月蠅いと、そう言う事なのだろうか…?
「出ないのか?」
「……」
 鳴り響く着信音は、登録しているが個別設定はしていない相手である事を伝えるものであった。大学の友人達は、別の着信音だ。この曲の相手は、限られている。今この状況で話せられるのは、その中では戸川さんくらいだろう。しかし、水木と居る今、彼が俺に連絡をして来るとは考え難い。用がありかけるのならば、水木にだろう。俺ではないハズ…。
「……出ますよ」
 通話の許可を出されたのか、受けろと脅されているのかわからない声音に押され、気は進まないまま俺はリビングを横切った。部屋の隅で充電中の携帯に手を伸ばし、画面に表れている名前に、俺は後ろを振り返る。
 水木は、俺を見ていた。
 誤魔化しなどは出来ない、何がなんでも通話をとらねばならないような状況に、俺はコクリと唾を飲み込み手元に視線を戻す。
 しつこく音を鳴らす携帯では、「自宅」の文字がスクロールしていた。


2006/01/21